近代海軍発祥之地跡散策(築地)

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平成29年5月撮影 ※現在は築地再開発により現地状況変わっております。

近代海軍発祥の地「築地」散策。 そのほか魚河岸水神社・波除神社・本願寺・聖路加病院などの散策。

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築地

江戸時代に「地を埋め立てて築いた」ことから築地と呼称されたという土地。いまでこそ「築地市場」のイメージしか湧かない場所柄ですが、戦前は海軍用地として展開。 そんな海軍ゆかりの地を散策してみました。

「築地」の歴史をざっくりと。

江戸時代。 1657年(明暦3)明暦大火の際に焼失した浅草御門南の「西本願寺」の代替地として佃島の住人によってこの土地が埋め立てられ造成。 現在の「築地本願寺」を中心した寺町が形成される。 ※現在の本堂は1934年竣工(後述)

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設置。 これが海軍部門の軍艦教授所(安政4年/1857)となり、のちに「軍艦操練所」(築地軍艦操練所)に改称され勝海舟らが教授として赴任している。(勝はのちに神戸海軍操練所を設立する)

明治維新の後、築地界隈の大名屋敷や築地軍艦操練所跡は明治政府に接収。
明治2年(1869)「海軍操練所」が創立。
明治3年「海軍兵学寮」に改称。
明治9年「海軍兵学校」と改称。
「海軍兵学校」は明治20年に広島・江田島に移転。

旗山碑

明治5年(1872)築地の元尾張別邸に「海軍省」(前身)が創立。 大名屋敷庭園の築山に「海軍卿の旗」(海軍大臣の前身が海軍卿)が掲げられた為「旗山」(きざん)と呼称。 のちにこの地が「海軍発祥の地」として記念碑が建立された。

旗山碑

この旗山碑はもともとは今の市場の中心地にあったというが、戦後の市場再整理に伴い移動。
同じく「築地の水神社(後述)」も移動して、それぞれが現在の場所に鎮まったとされます。
今後の築地再開発(?)で、どうなるかは知りませんが。

築地の海軍省は明治15年に築地より移転。(兵学校は明治21年移転ですのでそれよりも早く移動)
海軍省と兵学校が移転後の築地には海軍軍医学校や経理学校(後述)などが展開されていきます。

築地は明治期の海軍一大拠点だったのです。

旗山碑 銘文

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

永野修身海軍大将の謹書

余談。
築地「海軍発祥之地」は永野修身海軍大臣。
で、私はこれを「近代海軍発祥之地」と表現しました。

ややこしいことに昭和15年に皇紀2600年として宮崎県に神武東征ゆかりの「日本海軍発祥之地碑」(米内光政 首相 海軍大将)が建立されてまして。(未訪

築地魚市場

大正12年(1923)関東大震災発生。 日本橋魚市場が壊滅的な打撃を受け市民生活復旧の為に水運・陸運に恵まれていた築地の「海軍用地」を一時的に借り受けて魚市場を再開。
気がつけばそのまま昭和10年、東京市中央卸売市場が開設。

築地の水神社

魚河岸水神社遥拝所
日本橋魚市場が関東大震災で被災し、この築地の「海軍用地」に移転してきた際に「魚市場の守護神」として当神社の築地に新たに祀られた。

天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」が起源という。

神田神社の境内に「魚河岸水神社」が建立。 日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立され「水神さま」として市場関係者の崇敬が篤い。

※写真は神田明神境内の「魚河岸水神社」の本社。(平成29年5月撮影)

築地の水神社(魚河岸水神社遥拝所)
御祭神 弥都波能売命

築地市場の護り神
「海軍の築地」から「魚市場の築地」へ 気がつけば、近代海軍発祥之地碑「旗山碑」も魚市場を守護する神社境内の片隅に。

鳥居は昭和10年(1935)建立。関東大震災ののちに築地海軍用地に臨時の東京市設魚市場が設置され、正式に現在地に東京市中央卸売市場が開設された年が昭和10年。
旗掲揚台は昭和17年造でした。

今は使われていない水盤は舟形でした。 狛犬の台座には昭和11年の銘あり。

ところで魚河岸水神社遥拝所は遷座の歴史を繰り返してきたわけで。

日本橋魚市場→築地魚市場。

この先は豊洲魚市場となった場合は、魚河岸水神社遥拝所も豊洲に遷座する可能性があるわけで。
今は神社と同居している近代海軍発祥の地「旗山の碑」は、どうなるんだろうね。近隣移動するのかな…
水神社前。大盛況。 観光客から市場関係者まで往来がひっきりなし。 これは築地ならではの活気ある光景ですね。

せっかく築地にいるのだから。 水神社の横にある「水神様通り」に。

吉野家です。噂に聞く「吉野家・築地一号店」 築地といえば海鮮物も迷いどころですがどこも並んでおりまして、ここはサクッと吉野家ですよw

ターレットトラック(ターレ)で乗り付ける市場関係者で大盛況。

吉野家・築地一号店

日本橋魚市場に鎮座していた「魚河岸水神社」は関東大震災後に市場とともに築地に遷座。関係する商店も移動。 日本橋魚市場で開業した「吉野家」もまた築地に移動しており、ここが「吉野家一号店」

「近代海軍発祥の地」は「吉野家発祥の地」でもあり…

吉野家・築地一号店
威勢良いおばちゃんが「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう!」と声をあげる。この雰囲気は良いです。朝から麦酒が呑みたくなります(仕事あるので自粛したけど)
いつもの「吉野家の牛丼」が、…いつも以上に美味しく感じられますw

市場場内域をでるとすぐそこに鎮座している神社

波除神社

江戸時代の万治2年(1659) 「築地」埋立時に海面を漂う光り物(稲荷大神の御神体)を祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという説話が残っている築地の鎮守様。魚市場関係者の崇敬が篤い。

境内には漁業及び市場関係者の奉納碑が多い。 ここでは個別掲載はしないので、公式サイト参照で。 →http://www.namiyoke.or.jp/jinjyanogosyoukai.html …

ん?この碑は昔に参拝した時には無かったぞ。 去年奉納されたようで知りませんでした。
「奉納 吉野家 碑」
銘文によると、築地市場の豊洲への移転に伴い「築地一号店」も移転することになった、と記されてました。 移転問題は引き続き推移を見守りましょう…

さて築地エリア・波除神社から道をまっすぐに北西方向に。
「国立がんセンター」が次の目的地。
場所→https://goo.gl/maps/pQMrusHNDwH2 …
東京都中央区築地4丁目15の北側。 料金所の近くにひっそりと、海軍関係の2つの碑があります。

海軍兵学寮跡
海軍軍医学校跡

国立がん研究センター築地キャンパス構内に鎮座する2つの碑。

「海軍兵学寮跡碑」
明治2年1869、前身の海軍操練所が築地に開設。 翌3年「海軍兵学寮」、明9年に「海軍兵学校」と改称。 明21年1888に海軍兵学校は江田島に移転。 齋藤實海軍大将の揮毫。昭和9年5月建立。

「海軍軍医学校跡」
明治6年1873、海軍病院付属学舎が設立するものち廃校。 紆余曲折があり明22年に芝に「海軍軍医学校」開設。 明治41年1908、築地移転し昭和20年11月1日閉校。 碑は最後の軍医学校校長であった神林美治海軍医中将揮毫。

「海軍兵学寮跡」 「海軍軍医学校跡」 この2つの碑がある場所の横の意味ありげな柵が気になりました。 なんの説明もないけども、なんか年代物です。 きっと歴史的な何かなんでしょう(わからないけど

日本国海図及び海洋調査発祥の地

東京国税局の前庭に。

水路記念碑
日本国海図及び海洋調査発祥の地
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。
 平成23年9月12日
 海洋情報部関係者一同

軍艦操練所跡

晴海通りを隅田川方面に移動。皇居桜田門・凱旋濠界隈から勝鬨橋方向に伸びる晴海通りにシレッとある看板は「軍艦操練所跡」案内。 案内看板はありますが、特に碑はありません‥ これもまた、近世から近代へと移り変わるさなかの海軍発祥の布石でもあり。

八紘一宇の碑(国旗掲揚台)

近くには八紘一宇の碑もありました。
紀元2600年(昭和15年・1900)記念、築地門跡青年団 の建立

勝鬨橋

昭和15年竣工。国重要文化財指定。 隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。 1970年11月29日を最後に開閉が停止、1980年には電力供給も停止。 勝鬨橋にも興味は深々ですが今回は軽く触れるに留めておきます。

勝鬨橋之記
勝鬨橋竣工の昭和15年建立された碑 碑文 明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
 昭和十五年十二月
 東京市長  大久保留次郎 撰併書

勝鬨橋の由来が記されし碑文。時代の名残が現在の名称に残る。
「かちどきの渡し」 明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機として有志が築地月島間に渡船場を設置し「勝鬨の渡し」と命名。 昭和15年に新たに橋が開通すると「勝鬨橋」とその名残の名称が受け継がれ「勝鬨の渡船」は廃止。

海軍経理学校之碑

海軍経理学校は、海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校のひとつ。 明治7年1874、海軍会計学舎が芝に開校。 明治21年1888、築地へ移転。 明治40年1907、海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称。

海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたがのち幾変遷を経て明治40年にそれが海軍経理学校となった。その間明治21年校舎は築地に移されたがその敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度か移改築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月、同校は約70年の歴史を閉じた 。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。
昭和51年4月

ちなみに、 中曽根康弘氏は海軍経理学校の短期現役士官出身。

海軍経理学校之碑 裏面

裏面に掲げられし門標は昭和18年に開校した海軍経理学校品川校のもの。 学生の増加と戦局の悪化による疎開を兼ね、築地と品川のほかに浜松・垂水・橿原に分校が置かれた。

海軍経理学校校歌 (作詞・片岡覚太郎)

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭
 波よする 築地の岸に聳えたつわれ等が母校
星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり
 五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす
ああなつかしき われ等が母校
 母校の光栄はわれ等が誇り
この誇りすてず進みゆくこそ
 われ等が担う 永遠の使命ぞ

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かって生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。  昭和51年4月 浴恩会

附記) 今回は脇道にばかり逸れてしまってますが、せっかくなのでこの機会に触れておきます。

「海軍経理学校」ゆかりのものが都内の神社に残っています。

東郷神社御水舎の前の敷石
海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年5月
※平成28年5月撮影

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの史跡。

海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年4月
「靖國神社」社殿裏梅園ちかくに。
こちらは東郷神社の敷石とは違い金属片が残っています。

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの遺産。

海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品

「靖國神社」遊就館大展示室。
海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品が奉納されています。
(海軍経理学校品川校)
滑車・網巻・吊金具
(浴恩会・昭和60年5月) ※平成29年3月撮影


さて話を築地に戻さないと。 とは言っても実はこの先は海軍ネタはもうオシマイ。 近代建築を観て歩くことにしました。
その前にいったん休憩。 例の焼きたての「玉子焼」

築地といえば

築地本願寺

国重要文化財指定建造物。 昭和9年(1934)に竣工。 設計は伊東忠太。インド石窟寺院風の独特なデザイン。

昭和9年(1934)竣工。国重要文化財。伊東忠太設計。

細部も観ていて楽しい。

築地本願寺(浄土真宗本願寺派)
本願寺派や大谷派の寺院は朱印はございません、って。
西本願寺
(本願寺派 →http://www.hongwanji.or.jp/faq/#q000522 
東本願寺
(大谷派 →http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/02.html …
神社専門なので深入りはしません…

現在進行形で境内整備中。平成29年10月までは工事が行われる模様です。

で、実は私がここに訪れた理由がもう一つありました。

築地本願寺境内西側にあるという記念碑
「日清戦争・近衛師団碑」  野津道貫 近衛師団長陸軍大将謹書
「日露戦争・後備第一師団記念碑」 川村景明 鴨緑江軍司令官陸軍大将謹書

これが…境内をどこを探しても「ない」んです。

ん?
途方に暮れて、工事警備員の方にスマホで検索して出てきた個人サイトのweb画像を見せつつ聞いてみます。


「こんな記念碑、見たことあります?」
工事警備員の方
「みたことないあ。ちょっとわからないなあ」
え? (けっこう大きいのに見たこと無い…だと?

警備の人が見た事ないというので、本堂事務所の受付の方に同じように聞いてみました。


「記念碑を探しているんです?」
寺務所の人
「境内の碑は全てあのエリア(写真の場所)に集めてあります。そこにない場合、重要度が高くないと判断して区画整理の際に処分してます。」

えっ? ええええ

動揺しました。
そりゃあ寺院側からすれば日清日露のなんやかんやは「重要度が高くない」と判断したかもしれませんが、記念碑にはそれを建立した人々の願いがこめられているんですよ。


「どこかに保存とかしてないんですか?」
寺務所の人
「担当ではないのでわかりませんが保存とは聞いていません」

あぁ…
頭が真っ白です。 建造物は安全性耐震性等で無くなることはありますが、記念碑が無くなる事態は想定してませんでした。

在りし日の参考
http://www.paper-band.jp/ppBlog/index.php?UID=1393635829 …

http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/sansakutenbyou/beautifulspot/Tsukiji-Teppouzu-Tsukudajima_SansakuH260916/Sub1_Tsukiji-Jougai_Ichiba-Tsukiji_Honganji-Sei_Roka_Kokusai_Byouin/newpage06-S.html …

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13co-tsukiji-honganji.htm …

なくなってしまったものはしょうがないです。
記念碑が何処かにあるかもしれないって、まだかすかな希望を抱いていますが参考Webの写真群と私の撮った最新写真と背景位置やアングルが被るため、そこにないことか確定なんですよね。

とぼとぼと歩いてだどり着いたのが「聖路加国際大学」
へー、芥川龍之介生誕の地…でしたか。
明治16年で、このあたりに牧場があったのも驚きです。

聖路加国際大学の裏手。このあたりが築地の居留地だったそうです。 明治の居留地時代のレンガ塀遺構。イギリス積。 あわせて明治末期のガス灯と大正15年に建築された明石小学校旧校舎の石剤がベンチに再活用されてました。 明治大正の不思議な保存空間。

聖路加国際病院旧病院棟・旧館

一部保存棟
昭和8年(1933)竣工 昭和18年(1943)には 戦時体制下で「大東亜中央病院」と呼称。 戦時中は当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れたともされている。

聖路加国際病院旧病院棟 基礎石
神の栄光と人類の奉祀のため 
聖路加国際医道院 徳川家達書(徳川宗家16代当主)

上下の穴は大戦中に憲兵命令で遮蔽強制された名残。
(敵性語とか敵性文化とか面倒くさいやつですね。。。

「聖路加国際病院トイスラー記念館」
昭和8年、聖路加国際病院の宣教師館として竣工。(旧館と同じ時期の竣工ですね) 昭和初期の住居としては珍しい鉄筋コンクリート造一部木造建造物

ルドルフ・ボリング・トイスラー
(Rudolf Bolling Teusler、1876年2月25日 – 1934年8月10日)
米国聖公会の宣教医師、聖路加国際大学の創立者。日本初の近代型医療施設の聖路加病院 開設者で初代院長。

「アメリカ公使館跡石標」
明治8年に築地の外国人居留区に米公使館が新築。 明治23年に赤坂の現在地に移転し残された8個の石標のうち3個は赤坂のアメリカ大使館、2個は聖路加ガーデンに、残り3個が聖路加国際病院に設置。 白頭鷲(米国国鳥)・星条旗・星の彫刻。

朝7時過ぎに大江戸線築地市場駅に到着して、築地市場から「近代海軍発祥の地巡り」を本来の目的としつつ築地鎮守の神社と寺院(波除と本願寺)を巡り、聖路加(キリスト教)まで巡るという見事な神仏習合を発揮してしまい、だいたいの所要2時間半。 今回はなかなか有意義で楽しい散策でした

|-`).。oO(若干、かなり、ショッキングなこともございましたが。それもふくめて「フィールドワーク」の成果が得られたと思います。巡ってみなければわからないことです。 (とはいえ、まさか記念碑がなくなるなんて・・・ですが・・・

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