「岩手県」カテゴリーアーカイブ

「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺・移設)

盛岡にあった陸軍墓地関連の散策。


盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺)

久昌寺の記載によると以下の説明がある。

放光塔(忠霊塔)
元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものと伝えられています。

久昌寺 http://www.kyushoji.com/history.html

久昌寺の放光塔(忠霊塔)

昭和9年10月建之

久昌寺の山門。昭和8年に建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/1jceTVuYxsXDacjK7


盛岡陸軍墓地跡(盛岡市高松2丁目)

当所は、岩手県滝沢市穴口にある「穴口公葬地」に陸軍墓地があった。その後、盛岡市高松にあった元岩手県庁舎第二分庁舎の地に移転している。
現在、元岩手県庁舎第二分庁舎は解体されており、更地となっている。ここは特に遺構は残っていない。
※滝沢市の跡地には境界標が残っているという。

更地。格別になにかは残されていない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/WfdQEZvRBx68UHiu7

撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

https://morioka8man.jp/gokoku/

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


関連

「最後の海軍大臣・米内光政」所縁の地を辿る(盛岡・横須賀・東京)


米内光政

1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日
海兵29期、海大12期、海軍大将、連合艦隊司令長官(23代)、海軍大臣(19代、24代)、内閣総理大臣(37代)を歴任。
 
支那事変当時の第一次近衛の内閣海軍大臣。
林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣(第37代)となり、支那事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。
昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。
戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として日本帝国海軍の最後を看取る。

首相官邸>

https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/037.html

国立国会図書館>近代日本の肖像

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/218/

盛岡市>

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1025018/1025020.html

ちなみに、学生時代の私は、卒論を「米内光政を中心とした海軍の対支政戦略」で書いていました。


岩手の米内光政

1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士の米内受政の長男として誕生。

2023年8月に、盛岡を散策し、米内光政関連の地を巡ったので、以下に掲載。


米内光政像

盛岡八幡宮の境内に建立されている、米内光政像。
小泉信三による撰文。
小泉信三は、戦時下の慶應義塾大学の塾頭。米内光政と親交が深かった。

米内光政
 米内光政は、明治13年3月、旧盛岡藩士米内受政、母とみの長男として盛岡市下小路(愛宕町)に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
 天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任。しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。昭和23年4月20日逝去、享年69歳。

米内光政

米内光政自身の筆跡となる。

米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである 
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
 昭和三十五年十月
  後進 小泉信三

場所

https://maps.app.goo.gl/1tDJamLqY4f5ueac7


米内光政首相と畑俊六陸相(米内内閣)

第37代内閣総理大臣・米内光政。
第二次世界大戦が勃発し、ドイツが攻勢を強めている情勢下において、陸軍は日独伊三国同盟締結を推進していく中で、阿部信行内閣の後継として畑俊六を首班として準備を進めていく中で、陸軍からの首班を嫌った、 昭和天皇が海軍の意中の人物として、米内光政を指名。
そうして軍事参議官・予備役海軍大将(米内は組閣に際して自ら現役を退いて予備役となった)の米内光政が、第37代内閣総理大臣に任命。1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日までの内閣。

米内内閣の陸相として畑俊六が就任するも、陸軍は米内内閣の組閣とともに倒閣を開始。ドイツのフランス侵攻を開始し降伏に追い込むと、陸軍首脳部は「陸軍の総意」として、畑俊六陸軍大臣が単独で辞表を提出米内は後任大臣を求めたが陸軍が拒絶し、これで米内内閣は、半年で総辞職となってしまった。

米内内閣倒閣の引き金となった畑俊六は、戦後の東京裁判において戦前最期の新英米派内閣であった米内内閣を倒閣させた罪状を問われてA級戦犯として起訴される。
米内光政は、弁護側証人として東京裁判に出廷し、米内内閣倒閣は畑の意思本意ではなく、陸軍組織として動かざるを得なかったことを踏まえ、畑俊六をかばった。
そうして畑俊六は死刑を免れ終身禁固となり、畑俊六は6年の服役後の1954年(昭和29年)に仮釈放となった。
畑俊六は、海軍の責任に関して極めて厳しく罵る回想メモを戦後に残しているが、その中でも米内光政に関しては、東京裁判で畑の弁護側証人として庇ってくれたことに恩義を感じ、米内に対する感謝感動を終生深く忘れることなかったという。

米内光政没後12年の昭和35年(1960年)、盛岡八幡宮の境内に米内光政の銅像が建立され除幕式が執り行われた際、81歳の畑俊六が、人目を避けるように黙々と周囲の草むしりをしていたと伝承されている。
畑俊六は昭和37年(1962年)、福島県棚倉城址に建立された戦没者慰霊碑除幕式中に脳内出血で倒れ82歳で死去している。(棚倉城址には「畑俊六終焉の地」碑もある。行かないと、です)


米内光政墓所

盛岡市の円光寺。

米内光政は、昭和23年4月20日、目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
4月24日、自宅で仏式の葬儀と告別式が斎行。
葬儀委員長は、山梨勝之進大将であった。

山梨勝之進は、海兵25期、海大5期、海軍大将。条約派であったために大角人事で予備役となるも、米内光政らの推挙もあって学習院院長に就任。皇太子明仁親王の教育を任せられた。戦後は海軍の最長老の立場にあり、海上自衛隊の創建にも尽力した。山梨は長生きし昭和42年(1967年)90歳で死去。

米内光政墓所
 南部利英書

南部利英は南部家44代当主。
昭和13年(1938)には、岩手出身の陸軍大臣板垣征四郎の就任祝賀会に、同じく岩手出身の海軍大臣米内光政と板垣を左右として、南部利英を中央にした記念撮影なども記録に残っている。

米内光政銅像と同じ文面。書き起こしは省略。

米内光政の墓所。

救国の偉人 米内光政之墓

米内光政墓

天徳院殿仁海光政大居士

昭和23年4月20日歿
 享年69歳

緒方竹虎書

墓石の「米内光政墓」は友人であった緒方竹虎の書。
緒方竹虎は、朝日新聞副社長・主筆を経て、政治家に転身した人物。米内光政と親交があり、「一軍人の生涯 提督・米内光政」の書籍も残している。

米内家の家紋。

丸に違い鷹の羽

九代光政
天徳院殿仁海光政大居士
昭和23年4月20日

円光寺

場所

https://maps.app.goo.gl/3hkM83TkiJYjVXc36


米内光政居住地跡

米内光政が幼少期を過ごした八幡町。

米内光政居住地跡「説明」
米内光政は盛岡の下小路(愛宕町)で生れ幼少時代を八幡町で育ち、盛岡中学校(盛岡一)を経て、海軍兵学校に入り、以来、連合艦隊司令長官、海軍大将、内閣総理大臣、そして海軍大臣とすて終戦を迎えた。人格重厚沈勇、国家百年の計を思い大局を誤らず天皇の信任篤く、終戦内閣の中心閣僚として善処勇断よく祖国の壊滅を未然に護った偉業は、日本国民の永く銘記するところであります。
八幡宮境内に等身大の銅像が建っています。
 平成19年4月20日

突き当りは、銅像が建立された盛岡八幡宮。

場所

https://maps.app.goo.gl/aVCkhkm7jcQCV7GU8


盛岡市立下橋中学校(盛岡高等小学校)

岩手県内で一番長い歴史を持つ学校。
米内光政は、1890年(明治23年)、盛岡高等小学校に入学している。
米内光政のほかに、金田一京助、石川啄木も卒業生。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jbymb9nSkWk5VzjY6


盛岡中学校濫觴の地(岩手銀行本店)

旧制盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高校)の跡地。
旧制盛岡中学校は,、明治13年(1880)に「公立岩手中学校」としてこの地に設立された。
その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」と改称し, 大正6年(1917)に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転した。
戦後 昭和23年(1948)に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称。

米内光政は、1894年(明治27年)、岩手県尋常中学校に入学している。

旧制盛岡中学校の卒業生
海軍では、米内光政(海軍大将・海軍大臣)、八角三郎(海軍中将)、及川古志郎(海軍大将・海軍大臣)、多田武雄(海軍中将)。
陸軍は、板垣征四郎(陸軍大将・陸軍大臣)。
そのほか、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、文学方面では、金田一京助、野村胡堂、宮沢賢治、石川啄木など、そうそうたる卒業生を排出している。

岩手県立盛岡中学校濫觴の地

盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度 我を倚らしめ
 石川啄木

場所

https://maps.app.goo.gl/1b7NUp95tcsVcBMSA


盛岡市先人記念館

盛岡市の先人記念館。
ここには、金田一京助、新渡戸稲造、そして米内光政のコーナーが個別に設けられており、そのほか盛岡市の先人たちの記録が展示されている。
一見の価値ある記念館。

盛岡市先人記念館

米内光政 1880‐1948
 海軍大臣を経て第37代内閣総理大臣に就任、三国同盟締結阻止を貫きました。
 太平洋戦争末期に海相に復帰、冷静な判断力、的確な洞察力、一方にかたよらない姿勢で、戦争の早期終結に尽力しました。

新渡戸稲造と米内光政と金田一京助と。
館内は、この場所以外は撮影禁止。

盛岡市先人記念館案内図録と、米内光政のピンバッチを入手しました。

米内の特徴をよく捉えたイラスト。

盛岡先人記念館>

https://www.mfca.jp/senjin/yonai/index


横須賀の米内光政

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。
このときの参謀長が、のちに重要な局面で度々コンビを結成する井上成美少将であった。

横須賀鎮守府
 長官 米内光政中将
 参謀長 井上成美少将

そして昭和11年2月26日。
米内と井上は、横須賀にて、「二・二六事件」を迎えることになった。

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)


米内光政と井上成美

井上成美とは、昭和10年の横須賀鎮守府、昭和12年の海軍省、そして昭和19年の終戦に向けての海軍省と、コンビを三度組んでいる。

昭和10年、井上成美は海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。

昭和12年、井上成美は海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。


東京の米内光政

昭和8年に佐世保鎮守府長官、昭和10年に横須賀鎮守府長官を歴任し、昭和11年12月に、連合艦隊司令長官に就任。
しかし艦隊司令としてわずか2か月後の昭和12年2月2日に、広田弘毅内閣のあとを受けた林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。
このときの米内は軍政には興味がなく、連合艦隊長官をわずか2ヶ月で退任することを非常に渋ったというが、海軍次官であった山本五十六が前海軍大臣の永野修身、軍令部総長の伏見宮博恭王の同意を得て強く推薦し、米内光政海軍大臣が誕生した。山本五十六は海軍次官を留任し、永野修身は米内光政と入れ替わるように連合艦隊司令長官に就任している。

この昭和12年の海軍大臣就任以降、米内光政は、否が応でも軍政に携わざるを得なくなった。


米内光政と山本五十六

※山本五十六に関しては、別記事の「長岡散策」をまとめました。

日独伊三国同盟に断固反対の立場を貫く、海軍省は、海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美で「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」と称されていた。

山本五十六は、昭和10年12月に海軍航空本部長に就任。昭和11年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府長官の米内光政と連携し、岡田啓介首相救出などに尽力し、このときの米内の対応を高く評価し、永野修身が海軍大臣を辞任した際に、後任に米内光政を推薦している。

昭和12年1月に海軍次官に就任。永野修身海軍大臣が山本五十六の手腕を熱望したものであったという。2ヶ月後に、広田弘毅内閣が総辞職し、海軍大臣も永野修身から米内光政に変わった。
山本五十六は、米内光政海軍大臣の下で、海軍次官として、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣と歴任する。
こうして結果として、米内光政の海軍大臣就任は、永野修身の最大の功績ともなった。

昭和14年8月30日、山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官(第26代)に異動となった。
これは、三国同盟に強硬に反対する山本が、三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を米内が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけるために発した人事であった。

昭和15年、第二次近衛内閣の海軍大臣及川古志郎、海軍次官豊田貞次郎は、海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定し、9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印することになった。
奇しくも、及川古志郎は、米内光政の盛岡中学の後輩であった。

山本五十六は、そのまま連合艦隊司令長官を再任し(第27代)、開戦へと歩みをすすめることになる。

海軍甲事件
昭和17年4月18日、前線航空基地の将兵慰労のために前線視察を実施。山本五十六が搭乗した一式陸攻は、米軍機(P-38ライトニング)に補足され、襲撃・撃墜され、山本五十六は戦死した。59歳。

昭和6月5日に日比谷公園で、山本五十六の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政元首相。
皇族・華族以外の者が国葬に付された最初の例であり、かつ戦前唯一の例である。

多磨霊園の墓碑も、米内光政の筆によるものである。


最期の海軍大臣

昭和19年、東條英機内閣が倒れると、米内光政は予備役から現役に復帰し、小磯国昭内閣の海軍大臣(第24代)となった。
軍部大臣現役武官制度により、すでに予備海軍大将となっていた米内が、海軍大臣に就任するためには、現役復帰の必要があり、米内の復帰は、「天皇の特旨」による極めて異例な復活であった。
小磯と米内の2名で組閣大命を受けたことから、米内光政は副総理格として、「小磯・米内連立内閣」とも称された。
米内光政は、当時、海軍兵学校校長をしていた井上成美を中央に呼び寄せ海軍次官に就任させた。

昭和20年、鈴木貫太郎内閣にも海軍大臣として留任。
米内は、連立内閣であった小磯首相が辞職して、副総理格であった自分だけが大臣にとどまるのは道義上問題があるとしたが、井上次官が根回しをし、米内は留任せざるを得ない状況となっていた。

戦後、米内光政は、引き続き東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。

昭和20年11月30日。
海軍省最後の日。
幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内光政は、日本で最後の海軍大臣となった。


米内光政海相と阿南惟幾陸相

阿南陸軍大臣と米内海軍大臣は、気質的な部分でなかなか反りが合わなかったが、終戦するという認識の方向性は一致しており、6月に鈴木首相の発言で国会が混乱した際は、米内海相が辞意を表明したところ、連日口論をしていた阿南陸相が米内に辞意を思いとどまるように説得をしている。
阿南自身も、戦争を終わらせる、国を救う内閣が鈴木内閣であることを理解しており、鈴木内閣を最期まで支えるために米内を説得したともいえる。

昭和20年8月15日、阿南惟幾は自決。
最期に、「米内を斬れ」との言葉をはっしたともいうが、その真意は不詳。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


米内光政と鈴木貫太郎内閣(終戦内閣)

鈴木貫太郎内閣(第42代)は、昭和20年4月7日に成立。
終戦内閣として、戦争を終わらせた内閣。
鈴木貫太郎首相の下、米内光政は海軍大臣(第24代)を留任し、終戦のために尽力をした。


東京の米内光政邸宅跡

都内における米内光政の居住地跡を巡ってみたいと思う。
以下はメモとして。

・赤坂区青山南町
  昭和3年(1928)7月に居住の記録有り
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24727
・渋谷区竹下町
  昭和15年まで居住(首相就任時に転居)
・麹町区三年町
  昭和15年に国会近くの地の新宅に転居。
  なお、首相時代には、首相官邸には居住せず、
  私邸から国会に赴いていた。
  麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068037
・芝区白金台三光町 → 港区三田綱町
  仮遇として居住していたという
・目黒区富士見台1545
  終焉の地


麹町区三年町の米内光政私邸跡
(米内光政邸跡の石灯籠)

麹町区三年町。このあたりに、昭和15年の首相時代から昭和20年まで米内光政の邸宅があった。
米内光政の麹町区三年町の私邸は、昭和20年5月の空襲で焼失している。
そのときの空襲は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」と思われる。

麹町区三年町。現在の千代田区霞が関。

石灯籠のあるちいさな公園がある。
このあたりに、かつて米内光政の私邸があった。
東京の米内光政を記録する僅かな痕跡。

石灯籠の歴史
 この石灯籠は、永田町一丁目の岩手県東京事務所の敷地内にあったもので、岩手県のご好意により全国社会福祉協議会にご寄贈いただきました。

 終戦時この敷地は岩手県出身の総理大臣米内光政の邸宅となっていました。

 また、江戸時代は伊勢志摩を起源とする水軍の九鬼長門守の中屋敷跡でした。向かいあってもうひとつ上屋敷がありましたが、その前を通る坂は「茱萸(ぐみ)坂」と呼ばれていました。

 この石灯籠は形状から江戸中期のもので春日灯籠。九鬼家の中屋敷に伝わっていることから九鬼家由来のものであると考えられます。

 平成24年3月17日、永田町一丁目四番地から六本木通りを隔てて新霞が関ビル公開空地に移設いたしました。堂々たる風格でいかにも大名屋敷にふさわしい石灯籠です。
 全国社会福祉協議会

場所:ツツジの庭(新霞が関ビル公開空地)

https://maps.app.goo.gl/3m8dwzrsk1HRv8fTA

赤丸のエリアは推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」


芝白金三光町(米内光政仮遇の地)

昭和20年5月に、麹町三年町の私邸は空襲で焼失。
仮遇を芝白金界隈に構えていたという。
白金となると流石に何も痕跡はない。

奥は、ザ白金ゲストハウス。元は竹中工務店の福利厚生施設跡地(白金竹友クラブ)。
もとは海軍中将の真木長義男爵邸で、戦後は外務省白金分室(外務大臣公邸)だったこともある場所。

敷地の奥には、旧服部金太郎邸もある。
旧服部金太郎邸(服部ハウス)は、戦後にGHQに接収され、1945年12月から1年間、極東国際軍事裁判(東京裁判)に携わるジョセフ・キーナン首席検事ら10人の検事の住居となったほか、1948年8月からは東京裁判の判決文の翻訳作業が行われた。

米内光政の仮遇の地も、なんだか終戦史が絡んでくる。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8


富士見台(米内光政終焉の地)

米内光政の終焉の地。
環七通りの拡張に伴い、往時の面影は残っていないが、だいたい現在の目黒区南3丁目あたりに、米内光政の最後の私邸があった。

昭和23年(1948)4月20日。
米内光政は目黒区富士見台の自宅で68歳1ヵ月の生涯を終えた。
偶然にも臨終には、親交のあった緒方竹虎が立ち会っていた。(緒方竹虎は盛岡の墓石の揮毫にも携わっている)

昭和23年(1948)4月24日。
富士見台の自宅で、葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は、山梨勝之進海軍大将。海軍の最長老であった。

戒名「天徳院殿仁海 光政大居士」

富士見台という地名は行政区分としては消えているが、公園やバス停に名前を残している。

赤丸のエリアが推測。

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

場所

https://maps.app.goo.gl/iXG9Tzxb23wSdkGn8

以上、米内光政の足跡を辿る所縁の地の散策記録でした。


※撮影:2023年8月

花巻の戦跡散策

岩手県花巻市。宮沢賢治の生誕の地、イーハトーブとして有名な街。
どこか牧歌的なイメージを抱く花巻にも戦跡が残っているので、足を運んでみました。


花巻防空監視哨聴音壕跡

花巻には、珍しい円筒形の壕の形で「防空監視哨聴音壕」が残っている。

防空監視哨は、敵機の来襲をいち早く感知するためのもの。
高台から双眼鏡で監視する防空監視とは違い、「聴音壕」は、円筒形の壕の中に人が入り、飛行機の接近する音を聞き分ける壕となる。
花巻防空監視哨の、聴音壕は直径3.5m、高さ3.17mのレンガ積みで、内部の深さは約2mの空洞になっている。上空から見て軍の施設と分からないように、当時の壕のまわりは盛土され、かやぶき屋根がかけられていたという。
聴音壕の西側には平屋建て18坪(約60m2)の管理棟もあった。
円筒形の聴音壕の形状がほぼ完全な形で残っているものは珍しく、貴重な戦跡。

内部の様子が看板の写真に掲載されている。

住宅地の中に、ある。

円筒状の様子がわかる。

ぱっと見は、レンガの筒。

場所

https://goo.gl/maps/gQJk37hTsBudZKkF8

聴音壕関連

山梨県大月市の防空監視哨聴音壕


花巻空襲

昭和20年8月10日に、アメリカ海軍の航空母艦ハンコックの艦載機22機(SB2C爆撃機12機とF6F戦闘機10機)により、500ポンド爆弾等が20発以上投下された空襲。
花巻駅や、その周辺の建物が破壊された。焼失家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名、負者約150名。岩手県内では2番目に大きな戦争被害となった。花巻町内豊沢町にあった宮沢賢治の生家も焼失、花巻に疎開していた高村光太郎も被災した。
ちなみに岩手県内で最大の戦争被害は「釜石艦砲射撃」であった。(2回の艦砲射撃での死者714名)


花川橋に残る花巻空襲の痕跡

花巻空襲の戦跡として。
「花川橋」に残る花巻空襲の爆撃跡。花川橋の改修工事で、痕跡は消失の危機にあったが、寸前のところで保存となり、痕跡を残した状態での改修となった。
花川橋は昭和9年に造営された鉄筋コンクリ-ト製の橋。花巻空襲では、花川橋周辺にも500ポンド爆弾が投下され、爆弾の破片が橋の欄干にあたり、一部を破損している状況。

昭和9年12月竣工の花川橋

花巻空襲の爆撃痕、上部

花巻空襲の爆撃痕、下部

鉄筋が剥きだしている。

爆撃痕のある一部分だけ、補修されずに残った。

場所

https://goo.gl/maps/uhpRemR2ZkLKbexF8


花巻駅

2013年(平成25年)から2014年にかけてリニューアルした駅舎。
1890年(明治23年)開業、1950年(昭和25年)改築。

花巻駅も花巻空襲で大きな被害を受けた。


やすらぎの像

花巻駅の東口ロータリーの東端にある花巻空襲の犠牲者を慰霊する像。

合掌。

やすらぎの像
 昭和二十年八月、太平洋戦争の終戦間際、花巻市内が空襲を受けましたが、特に、この花巻駅周辺の空襲は激しく、死者負傷者多数を数えたほか、建物等にも甚大な被害を受けたのであります。
 爾来、多くの方々の不屈の精神と心血を注ぐ努力により、焦土と化した花巻駅周辺をはじめとする市街地も見事に復興整備をみたところです。
 都市基盤の整備が進む今日、市民から平和祈念の像の建設の話が持ち上がり、建設促進会議が中心となって広く市民に呼びかけたところ、壱千弐百万円を超す浄財が寄せられました。
 ここに、戦後五十年を迎え、花巻空襲の激しかったこの地に、恒久平和を願い「やすらぎの像」を建立するものです。
  平成七年三月建立
   花巻市長 吉田 功

昭和20年(1945年)8月10日ひる
来襲 米軍艦載機グラマン15機
投下爆弾 20個(推定)
機銃掃射 各所
死者 42名
負傷者 約150名
焼失家屋 673戸
倒壊家屋 61戸
 資料 花巻市中央公民館発行
    「忘れまいあの日」より

「やすらぎの像」建立について
市老連会長佐藤通郎氏が中心となり次の団体の努力を得て建立しました。
 花巻空襲に基づく平和祈念の像建設促進会議
 花巻市老人クラブ連合会
 花巻市地域婦人団体協議会
 花巻市区長会
  原像作成 池田次男
  制作   岩手製鉄株式会社

場所

https://goo.gl/maps/ZyYYZiSxM6xQpxJU8


近代史として。

花巻電鉄デハ3(材木町公園)

なんとなく歩いていたら、公園に花巻電鉄の車両が保存されていた。
花巻電鉄デハ3。
1931年製造。
細長い車両は、通称「馬面電車」「ハーモニカ電車」といわれていた。
昭和47年(1972)鉄道・軌道線廃止。

旧花巻町役場 庁舎(花巻市民の家)

花巻町が設置される前年の1928年 (昭和3年) に竣工した総ヒノキ造、瓦葺きの建物。
当初は花巻市花城町にあった。
1954年に町から市に移行した後は議事堂といても利用され、庁舎が新築された1970年に解体され、現在の材木町公園に移築された。

場所(材木町公園)

https://goo.gl/maps/15qCv9XFWigVV73d9

※撮影:2023年8月