「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


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