「東京都-多摩地区」カテゴリーアーカイブ

東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策

平成29年撮影

武蔵砂川駅と玉川上水駅の間。武蔵村山市大南地区。
当時このあたりに「東航」があった。


東航通り

砂川三番交差点から北上し西武拝島線を縦断する。
この道は「東航通り」として名前が残っている。

「東航」とは「東京陸軍少年飛行兵学校」の略称。
道の北端に往時の少年飛行兵学校があった。


東京陸軍少年飛行兵学校・東航正門跡

昭和12年10月に熊谷に開設され翌13年に武蔵村山の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に移転。昭和18年に東京陸軍少年飛行兵学校として名称変更。のちに大津・大分に陸軍少年飛行兵学校は拡張し終戦により閉校。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空併用制のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年の飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をととめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
平成二十一年三月 
武蔵村山市教育委員会

碑面裏
昭和13年9月、東京陸軍航空学校(のちの東京陸軍少年飛行兵学校)が開校され、この地が正門跡地である。
陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第6期から20期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の総てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である。
平成11年4月吉日 武蔵村山市

位置関係

米軍撮影 撮影年月日1947/11/14(昭22)

「東航正門跡」から北上する。

住宅地の只中に、ひとつの石碑があった。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地(ようらんの地)

ここには少年飛行兵学校本部校舎があったという。

余談ですが
 海軍は飛行予科練習生(予科練)
 陸軍は少年飛行兵(少飛)
と呼称。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地

建立の趣旨
 ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。
 陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され、第一期生が入校した。
 終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
 昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
 若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである。
 平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

 平成二年庚午之歳次桂月下浣念七日
 陸軍少年飛行兵第十五期生
 錯錯山人 鈴木格禅謹書

陸軍少年飛行兵揺籃之地(東京陸軍少年飛行兵学校跡)の碑文中に記載のあった「禅昌寺」には「少飛」戦没者慰霊碑がある。

武蔵村山市指定旧跡 
東京陸軍少年飛行兵学校跡地 
指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 
この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
 平成二十一年三月 
 武蔵村山市教育委員会


武蔵村山市立歴史民俗資料館分館

平成28年9月25日開館したばかりの新しい資料館。
この資料館も旧「東京陸軍少年飛行兵学校」の跡地にある。
人の気配がなくて入って良いものかどうかちょっと悩みましたが、入ってみました。

http://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1005538.html

武蔵村山市内にあった東京陸軍少年飛行兵学校や所沢陸軍航空整備学校立川教育隊、村山陸軍病院などの軍事施設や、市内の空襲の様子などを伝承。
戦争関連の市内資料を分館に集約させて平成28年に新たに開館したものという。

資料を戴きました。

スタッフの人と30分程お話を。
「先日、少飛の方が来てくれて懐かしがってくれました。」
(少飛=少年飛行兵)
これは、ここに記念館が出来たこその来訪者。嬉しいもの。

そのほかにもいくつかの話題を。
「資料展示の難しさ」→右寄りにも左寄りにもならない展示。
「歴史教育の欠落」→そもそも知らない人が多い。 悩ましい・・・

武蔵村山市立歴史民俗資料館分館をあとにする。 短い時間でしたがスタッフのお人、ありがとうございました。


後日

日を改めて、 「少飛」戦没者慰霊碑のある 「禅昌寺」に足を運んでみました。

玉川上水駅。 14時40分過ぎ。
立川バスでイオンモール行へ。そこからバス乗り換え、箱根ヶ崎駅行バスで岸バス停に15時30分到着。 少飛の塔へと。公共機関ではしょうしょう行きにくい場所。


岸清山 禅昌寺

臨済宗禅寺
室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山という。
狭山観音霊場第24番札所
こちらの寺院に「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)があると聞いて訪問させていただきました。


少飛の塔
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑

東村山市・禅昌寺

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会 奉納

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)
建立の趣旨

 陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。
 陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期まで四万六千の若鷲が巣立った。
 陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。
 昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔を建立することとなった。  遷座にあたり英霊の偉勲を偲び久遠の平和を祈るものである。

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 
少飛会

皇后陛下御歌

やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
いのちささげし
 ますらをの
  とも

侍従入江相政謹書

なき友の御霊に捧ぐ

 霜枯れの武蔵野の一角静かに頭をめぐらせば晩秋の陽の中に今や崩れ果てようとする礎石を求めることができる。
 この地はノモンハン、日華の両事変、大平洋戦争を通じて、若鷲の名の下に 活躍した陸軍少年飛行兵揺藍の地である。
 昭和九年春二月日本陸軍に誕生した少年飛行兵の養成は、所沢陸軍飛行学校に続き、昭和十三年九月この地に設けられた東京陸軍航空学校を中心として本格的に行なわれた。
 思へば十有二年の短い歴史の中に第二十期生まで約二万八千の紅顔の 少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜々として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつゝひたすら死に通ずる大空へと 巣立っていった。  そして大陸の空に南瞑の果てにまた北辺の孤島に雄戦激斗し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつゝ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。
 戦火絶えてすでに十八年、今は還らぬ友の御霊を慰めその栄誉と武勲を永く後世に伝えるとともに真の平和を祈念して、こゝに出身生存者相はかりその浄財と数多くの賛同者の御支援により陸軍少年飛行兵戦没者慰霊の碑を建立する。
昭和三十八年十一月二十四日
陸軍少年飛行兵出身生存者一同

東京陸軍少年飛行兵学校略図

略図内に記載のある「東航正門跡碑」「揺籃の地碑」「歴史民俗資料館分館」は上記で記載済み。

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)

しずかに手を合わせ頭をたれる。
合掌を

ありがとうございました


関連

旧日立航空機立川工場変電所

平成29年撮影

「東大和南公園」内
「旧日立航空機立川工場変電所」


本記事は、古い記事となります。

2021年の補修工事完了後の再訪記録は以下になります。2階部分も公開となっております。
以下が最新記事です。


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年(1938)から平成5年(1993)まで使用されていた変電所跡。 昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。

周囲を廻ってみると正面の一方向(南側)のみに猛烈に機銃掃射を受けたのがよくわかりますね。

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年建設。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

毎月第2日曜日の午後1時~4時に公開があります

2022年現在、公開日は異なります。最新記事を参照ください。

ということで、公開日に出直ししました。

東大和市
「旧日立航空機変電所」
毎月第2日曜日 13時~16時に内部一般公開

https://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,63727,359,html

旧日立航空機変電所 一般公開

耐震強度の問題から1階部分のみの公開。
それでも間近で拝見できるのはありがたいです。
階段部分。
正面の機銃掃射や爆撃の破片などにより階段や手すりにその痕跡が残っておりました。

階段の裏側には爆撃の痕跡が。
窓から飛び込んできた爆弾の破片によるものとされています。

2階は立入禁止。

2階の様子はパネル写真で。
機械にも機銃掃射の跡が残っている。

爆弾の破片で貫通した穴がありました。
解りやすいように鉄棒を差し込んであります。
破片が外部からコンクリート壁に当たった衝撃波で、内部もダメージが生じるとのことです。

外側から

米軍250キロ爆弾実物大模型

B‐29爆撃機から投下された爆弾は関東では250キロ爆弾が多く、関西では1トン爆弾が中心だったという。

保存に至る過程など。

コンクリートの中性化が進行。
常時公開するには耐震工事が必要。
文化財を保存することとの矛盾。

多くの近代建築が抱える悩ましい問題点・・・

東洋陶器(TOTO)の洗面台。
鷲のトレードマーク付 このマークは昭和7年~昭和36年まで使用されていたもの。洗面台が戦前製造か戦後製造はメーカーでも特定できなかったが、古いものであるのは間違いなく。

書籍を購入。 この手の本はその場で購入しないと購入経路も限られておりなかなか入手ができないものなので。

西の原爆ドーム、東の変電所
戦災変電所の奇跡
東大和・戦災変電所を保存する会編
2017年4月1日発行

ありがとうございます!

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

工場への攻撃は3回あり110余名に及ぶ死者を出している。 この慰霊碑は平成7年に戦後50年の節目に小松ゼノア社(日立航空機の後身)構内に建立。平成12年に現在地に遷座。

3度の空襲による110名の尊き犠牲者に黙祷。

給水塔モニュメント

給水塔は平成13年に維持困難のために取り壊し。 そのモニュメントとして爆撃痕の残る壁面一部を切り取り部分保存。

防護壁

変電所の北側に作られた受電施設の東西にあり外部との分離をしていた防護壁。 受電設備とともに解体され、爆撃痕を残す一部が切り取り保存。

変電所では高圧電流取扱のため不用意な立ち入りを制限するために防護壁が設けられていた。 防護壁にも爆撃痕などが残っており、奇しくも別の意味での防護も。

北側変電施設の碍子

これは戦後(昭和36年製)というが、戦前も同じように「巨大な碍子」(絶縁体)が使用されていたという。

東大和・戦災変電所を保存する会

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

ありがとうございました


何かのプロペラエンジン。 変電設備の部品モニュメントなどが周辺に散りばめられている。

鯉のぼり。藤の花。そして伝承される戦争遺跡。 昭和の激動とともに歩んできたコンクリートの建造物は、往時と変わらぬ姿のまま、平穏な空間のなかに鎮まっていた。

陸軍少年通信兵学校名残の石橋

平成29年撮影

西武線小川駅の西側。
現在の「明治学院 中学校・東村山高校」のあるあたり。
現在は通学路となっているこの石橋から先が往時は「陸軍少年通信兵学校」であったという。

陸軍少年通信兵学校名残の石橋

野火止用水に架かる石橋に当時の欄干が残る。

位置関係

航空写真を見てみる。米軍昭和23年3月撮影の航空写真と現在の様子。

陸軍少年通信兵学校

昭和16年10月に東村山に開設。
昭和17年に「陸軍少年通信兵学校」を「東京陸軍少年通信兵学校」と改称し、新潟県村松町に「村松陸軍少年通信兵学校」を設置。
通信関係の現役兵科下士官となる生徒に訓育、学科、術科の教育を行うことであった。生徒は少年飛行兵召募試験合格者。毎年一回の入学で、修学期間は約2年。

村松の陸軍少年通信兵学校はこちら。

東村山ふるさと歴史館

山中坂の戦災供養地蔵尊(立川)

平成31年4月撮影

立川には陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた土地であった。米軍からは重要拠点とみなされ、昭和20年2月16日以降13回に及ぶ空襲を受けた。

昭和20年4月4日

立川市富士見町5丁目にある坂は「山中坂」と呼称されていた。残掘川の崖、川崖線に面した坂。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫であったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていた。

昭和20年4月4日午前1時頃に空襲警報が発令。 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難していた。

このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名。

山中坂が被弾した理由は諸説ある。
 「立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた」
 「中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた」
 「防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見された」

防空壕のあった被災地跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されている。

山中坂の戦災供養地蔵尊

山中坂悲歌 (エレジー)

山中坂悲歌 (エレジー)
 作詞 小沢長治 
 作曲 新田光信

夜明けが遠い 闇の中 
山中坂の防空壕に
息つめよりそう四十一人
子ども年より女の人 
爆弾つんだ飛行機がくる

闇をひきさき とどろく音 
防空壕に爆弾が落ちた
埋められた四十一人
子ども年より女の人 
二度とかえらぬみんなの命

ああ 悲しみが坂を流れる 
桜の花がなきがらに降った
あの日のように花びらが舞う
山中坂よ 小さなほこら 
お地蔵さまに祈る誓い

あの悲しみを くり返さない 
あの悲しみを くり返さない 

「山中坂悲歌」では41人となっているが犠牲者は42人。
1人は氏名がわからない方がいらっしゃった、とも。

碑文
 太平洋戦争の末期、立川は1945年(昭和20年)2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となった。
 ここ山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子供たち32名をふくむ42名が死亡した。
 平和をねがい、思いをおなじくする私たちの挙出金、土地所有者の株式会社伊藤商店のご協力によってこの歌碑を建立し、戦争の悲劇を再び起こさないことを誓います。
 1995年4月2日

合掌


参考

総務省サイト
総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 立川市における戦災の状況(東京都)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_21.html

関連

陸軍調布飛行場跡散策

平成28年~

陸軍調布飛行場跡散策 (調布市/三鷹市/府中市)

  • 調布飛行場周辺
  • 高射砲台座跡
  • 飛行場排水路/排水門 ・門柱
  • 掩体壕(三鷹市大沢2基/白糸台)
  • 飛行場工事で遷座した神社仏閣
  • 調布郷土博物館保存「陸軍境界石」
  • 浅間山公園
  • 下仙川高射砲陣地跡

当時の調布飛行場位置関係

昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真。グーグルマップを加工。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス より
昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真を加工。

現在の調布飛行場は伊豆諸島を結ぶ東京島嶼部の大事な空路。
かつては首都防衛の要たる陸軍調布飛行場。

まずは家から自転車にて。
陸軍調布飛行場に関連する戦跡を幾つか廻ってみた全体の行程は、調布駅起点で4時間18キロの行程。

要所を押さえるのであれば、現在の調布飛行場を中心に武蔵野の森公園内の掩体壕2つ、白糸台駅近くの掩体壕などが見学しやすいです。

飛行場に向かつつ。
まずは三鷹市の「大沢コミュニティ通り」。
調布から飛行場方面にアクセスする道路。 この道路はかつての軍用道路。

大沢コミュニティの交差点から野川を望む。
調布飛行場側から見て対岸に、ちょっとした高台がある。
この高台に高射砲陣地があったのです。

首都防衛高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 調布隊

通称「どんぐり山」
保育園と老人ホームがあるこの場所が「首都防衛高射砲陣地跡」。 樹木で視界は覆われておりますが調布飛行場を見下ろす高台に位置しております。 ここには幾つか当時の名残のものがあり。

当時ここには6つの高射砲が備えられ、現在は4つの高射砲台座跡が残っているという。
敷地外より3つの台座跡が確認出来ました。

なお私が訪れたのは日曜日ということもあり、保育園はお休みで誰もいらっしゃいませんでした。
保育園がやっている時は、念のため関係者にご確認されて見学するのが良いと思います。
まあ、外からも見えますが。一応。

太平洋戦争
首都防衛高射砲陣地跡
東部第一九〇三部隊調布隊

戦火の本土に近づくに及び 首都防衛のため 昭和18年9月 此の地に 東部第1903部隊調布隊は 仲午六隊長以下186名を以て 陣地を構築し 高射砲6門 観測機材を設置して布陣した 数次にわたる米軍との交戦により 戦死4名負傷者多数を数えた
其の後 戦況の推移により日本海側に残された 唯一の食糧補給港である富山湾伏木港防衛のため 昭和20年4月末 北作健二隊長以下転進する迄 此の地で任務を遂行した 戦後 鈴木平三郎氏が陣地を現状のまま保存しており 且つこの地を福祉法人に寄付し永久に保存して下さるので 此の度 戦友一同相計りこの碑を建立し 永遠の平和を希求する共に英霊四君の冥福を祈り続ける事にした
 昭和56年2月吉日建立
 調布隊戦友一同

高射砲陣地跡石碑。
なお、日曜日で保育園休園のため望遠撮影です。前述同じく保育園内にありますので、開園時は許可を得て見学がベストです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
1945年01月06日陸軍撮影(95D4-C2-20)より

どんぐり山をあとにして、飛行場方面へ。
次のポイントは野川。調布飛行場建設当時からの排水門が野川に面して残ってます。

陸軍調布飛行場 排水門・排水溝

この排水門から延びる排水溝が調布飛行場に向けて一部残っております。
このあたりも陸軍調布飛行場建設時からの名残。溝を固める玉石がポイント。
排水溝の話はまた後ほど、武蔵野の森公園内にて触れる予定。

陸軍調布飛行場 門柱

さて、飛行場方面に向かいましょう。
大沢五丁目バス停近く、道路の両脇にある大谷石製の門柱。
こちらは、陸軍調布飛行場名残の門柱。

調布飛行場。 昭和14年(1939)に建設着手。
門柱は竣工時に正門として設置。
戦後は戦争記憶の生き証人として保存されている。

門柱には「東京調布飛行場」と記載…ん?東東

これは「東京」の異体字である「東亰」と掘られていたものを戦後に何者か(GHQとも)が悪戯した為とされている。
確かに「亰」に追加された縦線の掘りが不自然。

調布飛行場。管制塔。
2013年に完成したばかりの新しい建物。 ターミナルからはちょっと離れますが奥の格納庫に展開されるプロペラカフェも人気スポット。

調布飛行場

飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵野の森公園が展開されてます。
そこに保存されている掩体壕が2つ。
三鷹市大沢。 大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕。
次の目的地はこちら。 航空写真でも掩体壕がわかります。

大沢1号掩体壕

大沢1号掩体壕。半地下構造。
入り口は塞がれており、そこには陸軍三式戦闘機「飛燕」の姿が掩体イメージとして描かれています。

大沢1号掩体壕。
あちこちから。
内部は完全に塞がれてますね。

掩体壕に格納されていた飛燕を1/10スケールで再現。
掩体壕カットモデル。 往時を偲ぶ。

解説看板。

_φ(・_・ 陸軍調布飛行場は南北1000メートル。東西700メートル。
掩体壕は有蓋30基、無蓋約30基あった。
現存は三鷹市武蔵野の森内に2基。府中市白糸台界隈に2基。

大沢2号掩体壕

こちらは、大沢2号。 同じく武蔵野の森公園内に。
蓋はされておらず、内部が覗ける様になってます。

ちょっとした丘の上から見ることも可能。
もっともこの場所は掩体壕を見るというよりも調布飛行場を見渡すことが出来る丘。

玉石造の水路

武蔵野の森公園の北側には玉石の水路が残る。
玉石は多摩川から。西武多摩川線の引き込みを利用。
こちらも陸軍調布飛行場時代の名残。

調布飛行場

調布飛行場を見渡す丘の上で休息。
ちょうど、 ドルニエ228が調布飛行場に帰ってきました。(三宅島航路406便)

おっ。
地上でドルニエ228がクロス。
三宅島航路406便の帰投、そしてこのあとは407便の離陸となります。
ちょうど良いタイミング。

ドルニエ228の離陸。
かつては首都防衛の要として三式戦闘機「飛燕」が飛び立ったこの場所から、 今は東京島嶼地域の要としてドルニエが飛ぶ。
プロペラの音をなびかせながら。

飛燕のプロペラ(一〇〇式輸送機プロペラと判明)

調布飛行場の北側には武蔵野の森公園。人見街道を挟んだ更に北側に野川公園。
その野川公園では「飛燕のプロペラ」が展示してあるという話を聞いたので行ってみました。

が、結論から書きますと「現在は展示中止。」
野川公園サービスセンターの中の人から、お話をお伺いしてみました。

野川公園で過去に展示していた「飛燕のプロペラ」
もともとは武蔵野の森公園の掩体壕とあわせて展示する計画でしたが、準備が整わなかったために一時的に野川公園で展示してました。現在はプロペラは武蔵野の森公園に返却しております。しかし、損傷が酷いために武蔵野の森公園での展示見通しがついてない状況のようです。」 とのことで。
ネットを検索すると散見される野川公園仮展示の「飛燕プロペラ」は現在は武蔵野の森公園預かりで非公開になっております。


「飛燕のプロペラ」は「武蔵野の森公園サービスセンター」で2019年10月より常設展示となりました。

※さらに研究の結果、一〇〇式輸送機プロペラと判明しました。
 展示当時は飛燕としての展示が施されているが、現在は展示形態も異なっているので注意
 再訪します。。。

プロペラ発見の経緯
 三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めていた大沢総合グラウンド整備事業で、平成21(2009)11月16日、下水管布設工事を行っていた際に、戦闘機のプロペラ3点が発見されました。プロペラは、工事関係者によって取り上げれ、三鷹市教育委員会に報告されました。
 当初予定していたグラウンドの管理棟部分の試堀調査終了後に、プロペラ発見地点の補足調査が行われ、発見地点の位置測量、出土深度の確認及び周囲の精査が行われました。プロペラは、南北8.8m(東西は、工事で掘削され、計測できなかった)、深さ2.3mの穴に埋まっていたことが確認されました。さらに、既に発見されていた3点のプロペラ以外に、他のプロペラ片数点が確認されましたが、腐食が激しく原形を留めていませんでした。また、穴の底面をさらに50cm掘り下げた小穴からスピナー(プロペラ軸の先端部分)が出土しました。専門家による鑑定の結果、スピナーとプロペラ1点は五式戦闘機のもの、残りの2点は三式戦闘機(飛燕)のものと判断されました。

近藤勇生家跡

調布飛行場北側の人見街道。
鎮座しているのは近藤神社。
近藤勇の生家跡に。名残としては産湯の井戸が残る。
近藤家は飛行場建設に巻き込まれている。

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。なので産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側にはさきほどの宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社があり、人見街道の南側すなわち調布飛行場側に現在も近藤家が残る。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

多磨霊園

人見街道を西に向かえば多磨霊園。
北西部に位置する多磨霊園や浅間山は樹木の多さをいかして分散秘匿地区として活用されていた、と。

現在の多磨霊園に飛行場関連の何か?が残っているわけではなく。
噴水塔に米軍機による機銃掃射の跡があるという話も聞いたが、老朽化で立ち入り出来ないのでは致し方がなく。


さて、人見街道から一気に南下。西武多摩川線に沿うように。
白糸台方面、甲州街道方面へと向かいます。

白糸台の掩体壕(非公開)

府中市白糸台界隈には掩体壕が二つ。そのうちの一つは民有地ゆえ詳細な場所は省略。
掩体壕の上に建屋が乗っかっており、掩体壕内が工場。
詳細は検索すれば過去に見学された方の内部レポもあがっておりますんで……。

白糸台の掩体壕

府中市白糸台の掩体壕。 以前は結構な荒地でしたが、近年再整備されて非常に良い保存状態となっております。

府中市の白糸台掩体壕。 周辺歴史マップ。

府中市の白糸台掩体壕。 案内看板。

道生神社

白糸台掩体壕をあとにして。
飛田給の道生神社へ。

「道生神社」(ミチオイ・ドウショウ)
祭神・宇気母智命(ウケモチノミコト)

創建年代は不詳。明治17年に飛田村の鎮守たる飛田神社と道生神社が合祀。

飛田神社(稲荷社)と道生神社(山王社)の合祀。
社殿は大正4年建立。 旧社地が昭和18年に調布飛行場用地となった為に現在地に遷座。現在地は旧品川通りに面している。

狛犬は昭和6年建立。
灯篭と手水盤は社殿と同じく大正4年建立。
つまり、社殿・灯篭・手水盤・狛犬は今は調布飛行場用地となってしまった旧社地からそのまま現在地に遷座とわかる。

調布市飛田給の道生神社。
飛田給とは飛田氏の給田地の意があるともされる。
その飛田村は陸軍調布飛行場となり鎮守様は御遷座。
遷座先でも往時の名残が境内に残っているのは嬉しく。

調布飛行場用地として、1社3寺が旧社地からの遷座を余儀無くされております。

1社は道生神社。
3寺は長専寺・覚證寺・ 光岳寺 。

画像は飛田給の道生神社までのロガーログ。
旧社地は飛行場用地となり、南に遷座。

分散秘匿地区。 掩体壕が足りない為に調布飛行場周辺で樹木が茂る場所が飛行機秘匿エリアとして活用。多磨霊園・浅間山・下石原八幡神社などが秘匿地区として使用。

下石原八幡神社

創建年代は不詳。 下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥とも?)を祖とする)の勧請とされる。
旧社格は村社。

戦時中は分散秘匿地区として陸軍調布飛行場の航空機を隠す為に境内林が活用された、と。
往時の面影を感じる事は難しいけれども、気にしながら境内林を眺めてみる

調布市郷土博物館

入口の脇にひっそりと立つ石標

陸軍境界石(陸軍標石)
説明はないけども、市内には「陸軍調布飛行場」がありましたので、その関係かと思われます。

浅間山

平成29年11月27日。
この日は府中市の浅間山公園に散策に赴いておりました。
今は長閑な自然公園であるけども、歴史を辿れば陸軍調布飛行場と府中燃料廠ゆかりの地ともいう。
とは言いつつも戦争に関する何かはあまり残っていない。

浅間山公園

東京の都立公園。 「堂山」「中山」「前山」と呼称される3つの頂から構成されている山。
標高79.6メートルの堂山山頂には浅間神社が鎮座。
周辺に広がる人見ヶ原の地は南北朝期の正平7年(1352)には足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った古戦場(武蔵野合戦・人見ヶ原の合戦)でもある。

前山の山頂附近には「人見四郎の墓」跡がある。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党。周辺には「人見街道」と名も残っており近隣の豪族として名を馳せていたことが窺い知れる。人見四郎は平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として名を残す人物という。
墓跡の碑は平成2年府中市の建立。

前山から中山にかけての道 。

前山と中山を結ぶあたり、西面する高台は「関東の富士見百景」に制定された場所。
富士山と並んで見えるビル群は府中の町並み。
ここから富士山までは81キロの距離とのことで。

一度、山をおりて堂山の下へ。
この堂山の山頂には、その名の通りに「浅間神社」が鎮座。 麓から山頂まで一直線に参道が伸びています。
これは良いです。

浅間神社(人見浅間神社)
由緒等は不詳。

堂山の山頂

中山の麓にある祠。水神社。
堂山の浅間神社の御神体は中山の清泉から出現したものであるとも。

おみたらし
浅間神このところより出現すと伝う
人見浅間神社・水神社ともに人見稲荷神社(府中市若松町5-7-6)の管理。

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンク跡

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクがあったという浅間山公園。
今はなんとなく窪地が広がっている数カ所に、当時は秘匿燃料タンクがあったらしい。
面影はないけど、広がる空間から当時を夢想してみる。

下仙川高射砲陣地跡

京王線仙川駅

陸軍下仙川高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 下仙川隊


東京都調布市若葉町1丁目16−19付近
調布飛行場の南西にあった高射砲陣地。当時の高射砲陣地台座の極一部が何気なく残っており、今は姿を変え自治体の住宅案内地図の台座となっておりました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
1944年12月23日陸軍撮影(95C3-C6-101)画像より抜粋。

半円状に高射砲陣地が構築されているのがわかると思います。 この陣地の一番上の円が前ツイの台座跡となるようです。

高射砲台座跡。ほんの僅かだけ残った遺跡。

首都防衛高射砲陣地 下仙川隊

高射砲陣地台座跡の近くに。
一説には弾薬庫の跡とも。
私有地の奥にあるので間近で見ることは叶わず。

松脂油採取の跡(高幡不動)

平成29年11月撮影 高幡不動

戦争末期。苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。 松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を高幡不動で探してみました…

今回は高幡不動で「戦時中に松脂油を採取された松の木」探しを。
高幡不動尊の裏山、愛宕山はかつてはクロマツ群生地であったようで。
看板には「現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる」と記載あり。

これも戦跡のひとつ…

東南の松。樹齢は350年以上と推定され高さは約25メートル。高幡不動愛宕山では最も大きい古木という。
その根元近くには「樹皮をV字型に傷つけて松ヤニをとった跡」が残っておりました。
この切傷に違和感を感じても、これが松脂油の採取痕跡だと言われなければわからない傷跡…

こうして切り刻まれたから70余年ほど経っていても、その傷跡は松の古木たちに「当時を偲びし歴史の一幕」として残っている。

高幡不動愛宕山の山中で松を見かけたら根元をよく見てみて下さい。
大なり小なり、刻まれた跡が残っています。
これもまた戦跡・・・

今回は(平成29年11月23日)、高幡不動で松を探してみました。


都内ではこの「高幡不動」の他には「井の頭自然文化園」にも戦争当時を偲びし松が残っている。

紅葉を愛でながら、松の幹で戦争を偲ぶというのも不思議な心持ちではありますが…

軍艦多摩慰霊碑

平成26年10月25日撮影

平成30年12月撮影

2014年10月 大國魂神社境内に建立された軍艦多摩慰霊碑。 碑が建立された慰霊祭の翌日に見に行ってきました。

境内参道脇におおきな石碑がある。 忠魂永存。 昭和33年4月12日。 徳富蘇峰撰。門人静峯塩崎彦書。 その傍に昨日10月25日。新しい碑が建立されました。

大日本帝国海軍 
軍艦多摩戦歿者慰霊碑

玉の緒の
 あらんかぎりは
  大神の
御恵うけて
 國や守らん
海軍少佐松川彦太郎
大正十三年一月二十七日献歌

大国魂神社境内に 平成二十六年十月二十五日建立

碑裏文

軍艦多摩
 球磨型二等巡洋艦 基準排水量五一〇〇頓 全長一六二・一五米 全幅一四・一七米 出力九〇〇〇〇馬力 速力三六節
 艦内には守護神として大國魂神社が祀られていた。  
 昭和十九年十月十八日、捷一号作戦が発動され、多摩は第一機動部隊の一艦として出撃した。 二十五日、フィリピンエンガノ岬沖に於いて敵機動部隊と交戦し機関室に被雷、呉へ単艦回航中、米潜水艦ジャラオの雷撃により沈没した。 山本岩多艦長以下総員戦死。 北緯二一度二三分、東経一二七度一九分、時間午後十一時十分。
 本年、軍艦多摩沈没七十年にあたり、軍艦多摩と戦死された英霊を鎮め、世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する。

艦歴
大正 七年八月 三菱長崎造船所に於いて起工
大正 十年一月 竣工 呉鎮守府籍に編入
大正十一年五月 軍艦多摩鎮祭の為慰霊祭を奉仕
大正十三年一月 松川彦太郎少佐 御神璽拝受の為来社参拝
昭和 二年十月 横須賀鎮守府籍に移籍
昭和十六年七月 聯合艦隊に編入
昭和十七年五月 アリューシャン攻略作戦支援
昭和十七年十月 第二次アリューシャン攻略作戦従事
昭和十八年三月 アッツ島輸送船団護衛従事
昭和十八年三月 アッツ島沖海戦参加
昭和十八年七月 キスカ島撤収護衛従事
昭和十九年六月 硫黄島へ陸軍部隊輸送
昭和十九年十月二十五日  
 捷一号作戦フィリピンエンガノ岬沖海戦参加
 米潜水艦ジャラオによる被雷三本 海没
昭和十九年十二月二十日 除籍

平成二十六年十月二十五日  
 大國魂神社 宮司 猿渡昌盛  
 軍艦多摩顕彰会  
 大國魂神社氏子青年崇敬会  
 
 題字 吉野大巨  
 詠歌書 荒井紫峰  
 石工 室井石材

在りし日の姿を偲ぶ。

軽巡洋艦多摩。

70年目にして。

沈没の日(10月25日)に合わせて建立された慰霊碑。

艦内神社として勧請されていた大国魂神社の神霊でもって慰霊をする。