平成31年4月撮影
立川には陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた土地であった。米軍からは重要拠点とみなされ、昭和20年2月16日以降13回に及ぶ空襲を受けた。
目次
昭和20年4月4日
立川市富士見町5丁目にある坂は「山中坂」と呼称されていた。残掘川の崖、川崖線に面した坂。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていた。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫であったが、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていた。
昭和20年4月4日午前1時頃に空襲警報が発令。 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難していた。
このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となった。犠牲者は42名。
山中坂が被弾した理由は諸説ある。
「立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた」
「中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた」
「防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見された」
防空壕のあった被災地跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されている。
山中坂の戦災供養地蔵尊
山中坂悲歌 (エレジー)
山中坂悲歌 (エレジー)
作詞 小沢長治
作曲 新田光信
夜明けが遠い 闇の中
山中坂の防空壕に
息つめよりそう四十一人
子ども年より女の人
爆弾つんだ飛行機がくる
闇をひきさき とどろく音
防空壕に爆弾が落ちた
埋められた四十一人
子ども年より女の人
二度とかえらぬみんなの命
ああ 悲しみが坂を流れる
桜の花がなきがらに降った
あの日のように花びらが舞う
山中坂よ 小さなほこら
お地蔵さまに祈る誓い
あの悲しみを くり返さない
あの悲しみを くり返さない
「山中坂悲歌」では41人となっているが犠牲者は42人。
1人は氏名がわからない方がいらっしゃった、とも。
碑文
太平洋戦争の末期、立川は1945年(昭和20年)2月16日から8月2日までの間、少なくとも13回の爆撃を受け、330余名が犠牲となった。
ここ山中坂にあった横穴式防空壕は、4月4日未明、B29が投下した爆弾が直撃し、中に避難していた子供たち32名をふくむ42名が死亡した。
平和をねがい、思いをおなじくする私たちの挙出金、土地所有者の株式会社伊藤商店のご協力によってこの歌碑を建立し、戦争の悲劇を再び起こさないことを誓います。
1995年4月2日
合掌
参考
総務省サイト
総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 立川市における戦災の状況(東京都)