東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策

平成29年撮影

武蔵砂川駅と玉川上水駅の間。武蔵村山市大南地区。
当時このあたりに「東航」があった。

東航通り

砂川三番交差点から北上し西武拝島線を縦断する。
この道は「東航通り」として名前が残っている。

「東航」とは「東京陸軍少年飛行兵学校」の略称。
道の北端に往時の少年飛行兵学校があった。

東京陸軍少年飛行兵学校・東航正門跡

昭和12年10月に熊谷に開設され翌13年に武蔵村山の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に移転。昭和18年に東京陸軍少年飛行兵学校として名称変更。のちに大津・大分に陸軍少年飛行兵学校は拡張し終戦により閉校。

碑面裏
昭和13年9月、東京陸軍航空学校(のちの東京陸軍少年飛行兵学校)が開校され、この地が正門跡地である。
陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第6期から20期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の総てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である。
平成11年4月吉日 武蔵村山市

位置関係

米軍撮影 撮影年月日1947/11/14(昭22)

「東航正門跡」から北上する。

住宅地の只中に、ひとつの石碑があった。

陸軍少年飛行兵
揺籃之地(ようらんの地)

ここには少年飛行兵学校本部校舎があったという。

余談ですが
 海軍は飛行予科練習生(予科練)
 陸軍は少年飛行兵(少飛)
と呼称。

陸軍少年飛行兵・揺籃之地
建立の趣旨
 ここを中心に二十万坪の地は東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。
 陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充養成により昭和十三年この地に東京陸軍航空学校が創立され、第一期生が入校した。
 終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大儀に殉じた戦没者は四千五百余柱を数える。
 昭和三十八年ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。
 若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立しこれを永く後世に伝えるものである。 平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会 平成二年庚午之歳次桂月下浣念七日 陸軍少年飛行兵第十五期生 錯錯山人 鈴木格禅謹書

陸軍少年飛行兵揺籃之地(東京陸軍少年飛行兵学校跡)の碑文中に記載のあった「禅昌寺」には「少飛」戦没者慰霊碑がある。

武蔵村山市立歴史民俗資料館分館

平成28年9月25日開館したばかりの新しい資料館。
この資料館も旧「東京陸軍少年飛行兵学校」の跡地にある。
人の気配がなくて入って良いものかどうかちょっと悩みましたが、入ってみました。

武蔵村山市 公式ホームページ

武蔵村山市内にあった東京陸軍少年飛行兵学校や所沢陸軍航空整備学校立川教育隊、村山陸軍病院などの軍事施設や、市内の空襲の様子などを伝承。
戦争関連の市内資料を分館に集約させて平成28年に新たに開館したものという。

資料を戴きました。

スタッフの人と30分程お話を。
「先日、少飛の方が来てくれて懐かしがってくれました。」
(少飛=少年飛行兵)
これは、ここに記念館が出来たこその来訪者。嬉しいもの。

そのほかにもいくつかの話題を。
「資料展示の難しさ」→右寄りにも左寄りにもならない展示。
「歴史教育の欠落」→そもそも知らない人が多い。 悩ましい・・・

武蔵村山市立歴史民俗資料館分館をあとにする。 短い時間でしたがスタッフのお人、ありがとうございました。

後日

日を改めて、 「少飛」戦没者慰霊碑のある 「禅昌寺」に足を運んでみました。

玉川上水駅。 14時40分過ぎ。
立川バスでイオンモール行へ。そこからバス乗り換え、箱根ヶ崎駅行バスで岸バス停に15時30分到着。 少飛の塔へと。公共機関ではしょうしょう行きにくい場所。

岸清山 禅昌寺

臨済宗禅寺
室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山という。
狭山観音霊場第24番札所
こちらの寺院に「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)があると聞いて訪問させていただきました。

「少飛の塔」
陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑

東村山市・禅昌寺

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会 奉納

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)
建立の趣旨

 陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。
 陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期まで四万六千の若鷲が巣立った。
 陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。
 昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔を建立することとなった。  遷座にあたり英霊の偉勲を偲び久遠の平和を祈るものである。

平成2年10月10日
陸軍少年飛行兵出身者一同 
少飛会

皇后陛下御歌

やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
  君のため
いのちささげし
 ますらをの
  とも

侍従入江相政謹書

なき友の御霊に捧ぐ

 霜枯れの武蔵野の一角静かに頭をめぐらせば晩秋の陽の中に今や崩れ果てようとする礎石を求めることができる。
 この地はノモンハン、日華の両事変、大平洋戦争を通じて、若鷲の名の下に 活躍した陸軍少年飛行兵揺藍の地である。
 昭和九年春二月日本陸軍に誕生した少年飛行兵の養成は、所沢陸軍飛行学校に続き、昭和十三年九月この地に設けられた東京陸軍航空学校を中心として本格的に行なわれた。
 思へば十有二年の短い歴史の中に第二十期生まで約二万八千の紅顔の 少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜々として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつゝひたすら死に通ずる大空へと 巣立っていった。  そして大陸の空に南瞑の果てにまた北辺の孤島に雄戦激斗し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつゝ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。
 戦火絶えてすでに十八年、今は還らぬ友の御霊を慰めその栄誉と武勲を永く後世に伝えるとともに真の平和を祈念して、こゝに出身生存者相はかりその浄財と数多くの賛同者の御支援により陸軍少年飛行兵戦没者慰霊の碑を建立する。
昭和三十八年十一月二十四日
陸軍少年飛行兵出身生存者一同

東京陸軍少年飛行兵学校略図

略図内に記載のある「東航正門跡碑」「揺籃の地碑」「歴史民俗資料館分館」は上記で記載済み。

「少飛の塔」(陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑)

しずかに手を合わせ頭をたれる。
合掌を

ありがとうございました