阿川弘之を偲ぶ(阿川弘之墓)

令和元年11月参拝
鎌倉・浄智寺

阿川弘之墓(阿川家之墓)

海自第2術科学校にて「井上成美 海軍大将」に関する講話と初公開の肉声テープを拝聴した帰路に。

「井上成美」といえば、で、
海軍提督三部作(山本五十六・米内光政・井上成美)を描いた阿川先生のことをふと思い出し、北鎌倉の浄智寺の墓前に参拝させていただきました。

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

紅葉が深まりつつ有る浄智寺の境内で。
観光客の雑踏が届かない墓苑の高台に鎮座する阿川先生の墓前に、静かに拝する。
合掌

阿川先生!また、参りますね

軍艦長門

軍艦長門の碑
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)

山本五十六

雲の墓標ゆかりの百里原

井上成美

米内さんの本の写真も撮らないと・・・(あとで

【封鎖中】児玉神社(江ノ島)

令和元年11月参拝

ちょっと最近、気になっていた児玉神社さんに参拝してきました。

ここでは深くは言及しませんが、再建の資金繰りも悪化しているところに台風被害などもあり、なかなか厳しい状況のようですので、この記事を目にしていただきました皆様も機会ありましたら是非に参拝を。。。

令和3年(2021)春に、境内地は封鎖。
石碑や社号標などにはブルーシートがかけられ、所有者によって「立入禁止」となりました。。。

以下、コメントをいただきましたので、一部記載内容を更新しました。

鵠沼在住の藤沢市民です。
残念なことに2020年、江ノ島児玉神社は競売により人手に渡りました。
現在は大鳥居だけはそのままですが、数々の石碑、掲示板などはブルーシートで覆われ、人目を拒んでいます。山道入り口は鉄扉が固く閉じられ、「立入厳禁・所有者」の貼紙が掲げられています。歴史的記念碑や台湾からの寄贈の物品などはどうなるのかとても心配です。

littleball より:2021年7月16日 9:13 AM(編集)

児玉神社

御祭神 児玉源太郎命

児玉源太郎(1852~1906)
明治政府及び明治陸軍の中枢で活躍。
日露戦争では満州軍総参謀長として日本の勝利に貢献。文部大臣・内務大臣・陸軍大臣なども歴任。第4代台湾総督も務める。
日露戦争開戦前は、台湾総督兼内務大臣であったが、参謀総長大山巌から請われて内務大臣を辞して、降格人事となる参謀本部次長に就任。日本陸軍史上で唯一となる降格人事を了承した例ともなった。

日露戦争直前のころ、参謀本部次長に就任した児玉源太郎は週末は鎌倉の別荘で静養をしていた。しかし面会希望者が殺到したために、江ノ島の山中に退避していたという。いつしか江ノ島にも面会希望者の面々(陸軍や政府の要人たち)が押し寄せるために、江ノ島町内では、誰が山中に籠もっているのかといぶかしんでいると、それが児玉源太郎であった知り、江ノ島町民は大いに徳としたという。
児玉源太郎は明治39年(1906)7月23日に55歳で急逝。三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が向島の私邸に社を建立したのが児玉神社の始まりという。そののち児玉源太郎が、たびたび足を運んでいた江ノ島の現在地に遷座、江ノ島町民は将軍静養の地に将軍の霊祠を迎え、大正7年に正式に「児玉神社」となった。

社号標は昭和八年建立

勝運の神
児玉神社

児玉神社 明治45年(1912年)創建
日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄 児玉源太郎 (1852-1906)をお祀りし、明治45年の創建以来、勝運の神として崇められてきました。御祭神は台湾総督在任時、善政によって現地の人々に慕われ、その縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾からの寄進です。
社殿の設計は寺社建築の第一人者、伊東忠太博士によるもので、境内には山縣有朋歌碑を始め、後藤新平や石黒忠悳の詩碑、二〇三高地の石などの文化財があります。

児玉神社扁額
李登輝元台湾総統の揮毫

鳥居
昭和八年三月奉献
台湾婦人慈善会

現在、神楽殿は改修工事中です

御社殿改修工事および境内整備工事ご奉賛のお願い

山縣有朋歌碑

山縣有朋歌碑
(碑文)
児玉藤園の身まかりける日
讀ける 有朋
越えはまた里やあらむと
 頼みてし
杖さへをれぬ老のさかみち

明治の元勲山県有朋が、御祭神の逝去を悼んで詠んだ歌である。この石碑は当初、杉山茂丸が向島の別邸に建てた私祠内にあったが、遷座のとき境内に移された。なお下段には山県の側近であった政治家芳川顕正が、御祭神と山県とを竜虎に喩えた詩を刻している。

児玉神社誌
昭和四年十二月建立

台湾奉納の灯籠

謝介石詩碑

謝介石詩碑
(碑文)
伏鉞登壇衆所尊功成百戦得雄藩
大賢自著多聞政
賤子頻嘗有味言萬里驅馳思景行
卅年事變遡重源
神鴉社鼓江之嶋矍相當時盖僅存
奉題
 児玉公神社 大同元年十二月
 満州國外交部總長謝介石

 台湾の人謝介石の奉献。国民の尊敬を集めた御祭神の武勲、才知、徳を讃えている。謝介石(字は又安)は満州国初代外交部総長を務め、のち満州国駐日全権大使として日本に駐在したこともある。

後藤新平詩碑

後藤新平詩碑
(碑文)
森厳羽衛老將軍 功烈眞兼武興文 
造次不離忠孝旨 于花于月又思君
             新平
寄兒玉爵帥在満州舊製

 政治家後藤新平が、御祭神の文武の功績と忠孝の徳を讃えて奉献した。御祭神の台湾総監時代、後藤は民政長官に任じられ、日本統治下にあった台湾の運営と近代化に手腕を発揮した。

石黒忠悳詩碑

石黒忠悳詩碑
(碑文)
出將入相無匹儔 
 武功文勲傳千秋 
英魂長鎮画島裡
 天朗海洪浮白鴎

 子爵であった石黒忠悳(いしぐろただのり)の奉献。御祭神の文武の功績は千年先まで伝えられるであろうと絶賛している。石黒は陸軍軍医総監まで務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に尽くし、退官後は貴族院議員や日本赤十字社社長などに就任している。

爾霊山の石

爾霊山の石
 二〇三高地は、日露戦争において激戦地となった旅順市(中国東北部遼東半島南端)背後にそびえる標高二百三メートルの高地である。当地の石を横須賀鎮守府が日本に持ち帰って別地に寄贈したが、のち当社境内に移設され現在に至る。この「二〇三」に爾霊山(にれいさん。「なんじの霊の山」の意)の字をあてたのは乃木希典将軍である。

昭和拾年一月一日
爾霊山高地
  石
  棗萩松碑
横須賀鎮守府


江ノ島の入り口近く。
「片瀬江ノ島駅入口」交差点の南側の駐車場近くに「乃木希典銅像」があった。その地のあったものを平成13年(2001年)に移設したという。

児玉神社のある江ノ島とは別の場所ですが以下にまとめておきます。

乃木大将像台座石
ここはかつて日露戦争時に陸軍司令官として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明となり、台座だけが残されました。この石は、その台座石として使われたものです。

藤沢市生涯学習部郷土歴史課
みゆネットふじさわ より

http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=1019


児玉神社に戻ります。

我が国を守った砲弾

我が国を守った砲弾
明治日本の技術遺産二十八センチ榴弾砲の砲弾

 明治三十七~三十八年(一九〇四~一九〇五)、圧倒的武力で日本を占有しようとする帝政ロシアに対し、日本の国民が一丸となって戦ったのが日露戦争です。列強が世界中を植民地化していた時代に、我が国だけが最強国のロシアに勝ち、尊厳ある独立を守り抜いたのです。日本の勝利に東アジアの諸民族は歓喜し独立の気運に沸き立ちました。
 この戦争の勝敗を決したのが旅順攻略です。旅順は極東侵攻を見据えた露の軍事的要衝で、鍵となる二百三高地占領に日本は苦戦を強いられました。その時、御祭神が司令部から直接戦場へ赴いて指揮を執り、巨大な二十八センチ榴弾砲を用いて猛攻をかけ、二百三高地を確保、旅順港停泊中のロシア艦隊をも全滅させました。これが日本海海戦での完勝へとつながり、我が国の勝利を決定的にしました。もし日本が負けていれば、日本はロシアの植民地とされて事実上消滅、全日本人は人権をもたぬ奴隷民とされ労働力として生涯を搾取苦役に従事し、歴史は断絶、ひいては東アジア全体もロシア領となっていたであろうことは多くの歴史家が指摘しております。
 今日、我が国が独立国家として存在し繁栄を享受し得るのは、ひとえに先人の御蔭であり、その勇気、祖国愛、犠牲を我々は決して忘れてはなりません。その二十八センチ砲弾が、京都嵐山美術館館長の新藤源吾氏より寄贈されました。寄贈に当たり佐々木信之氏、甲飛喇叭隊隊長の原知崇氏と隊員の方々にご尽力頂きました。砲弾は全長八十センチ、直径二十八センチ、重量約二百五十キログラム、現存の砲弾としては珍しく完全形を残すものです。
 ロシアの支配をはねのけた日本戦勝を記念し、御祭神の御功績を仰ぐよすがとして、さらには維新後三十年程で、国土防衛のための近代兵器を知恵と工夫を以って作り上げた明治日本の技術遺産として、この砲弾を末永く当社境内に安置し、後世に伝えるものであります。
 西暦二〇一九年四月十四日 御祭神御生誕百六十七年祭
 児玉神社宮司 山本白鳥

咸臨丸図面発見の地

咸臨丸図面発見の地
 日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした
本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、永世に記念するため本碑を建立した。
 昭和五十五年十二月十六日

児玉神社御社殿

百年経過の為 ただ今 神楽殿を修復中です。
この工事期間のみ普段は見えない本殿をここから拝むことができます
 児玉神社

御本殿は大正7年(1918)造営。神門の奥に鎮座。

神楽殿(拝殿)は再建中

供養塔

創建時からの物故者、日清日露の英霊、日本領有時の台湾にて殉職・戦死された日台の英霊を祀る。

台湾の狛犬

昭和5年(1930)11月に奉納された狛犬。
第13代台湾総督石塚英蔵の寄進。台湾の名工によって台湾観音山の石で作られた逸品。口の中で動く丸石が転がる造形は見事。


児玉神社の境内から眺める風光明媚な湘南の海

江ノ島


児玉神社を参拝。久しぶりでした。
神楽殿は再建中で、境内の景観はしょうしょう寂しい状況ですが、心配していた最悪の状況ではなく。

運良く、社務所に神職様がいらしましたので、御朱印と御神札、お守りなどを頂戴しました。

御朱印は東郷神社の御朱印帳に。
これは乃木神社にもお参りしないと、ですね。


児玉神社公式サイト

https://www.kodamajinja.or.jp/

ひとまず〆

「日本の航空事始め・その3」民間初飛行の奈良原三次(民間航空発祥之地散策・千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

※以下は所沢航空発祥記念館にて

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m


民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲毛公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/inage-kouku-kinenkan

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」


こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


以下、民間の航空をいくつか。

日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社

http://www.shirato-web.com/history.html


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。


旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/index.htm

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/isan-archive-History_of_Japan_Aeronautic_Meiji-Taisho.htm

ならしの豆知識(習志野市)

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/mamechishiki.html


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日本の航空発祥の地


位置関係

今昔マップ On The Web

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.646807&lng=140.052355&zoom=14&dataset=kanto&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場


付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)

平成30年11月撮影

山縣有朋邸庭園跡・明治天皇行幸碑

山縣有朋邸庭園跡の一般公開にいってきました。(平成30年11月23日)

三番町共用会議所は明治18年に山縣有朋が建築した邸宅跡。当時の建物は関東大震災で大破し、再建後は昭和20年5月空襲で焼失し現存していないが、当時を偲ぶものが残っているので探訪してみました。
現在は全省庁共用の国の会議所。

三番町共用会議所
(山縣有朋邸庭園跡)
一般公開(無料)

 三番町共用会議所は、明治18年に山縣有朋伯爵(当時)が建築した邸宅跡です。
 当時の建物は、関東大震災(大正12年)で大破し、再建した建物も、昭和20年5月にあった空襲の焼夷弾により焼失したため、現存しておりませんが、庭園跡(昭和55年整備)と明治天皇の行幸を賜ったことを示す記念碑(明治18年山縣有朋公建立)が今も残っており当時を偲ぶことができます。
農林水産省

三番町共用会議所
山縣有朋邸庭園跡

明治18年に山縣有朋公が当地に私邸を建設。同年10月19日には明治天皇が行幸。
山縣は明治19年に内務大臣兼農商務大臣に就任し、国が山縣私邸を農商務大臣官舎として購入。大正12年の関東大震災で大破。昭和18年に改築するも昭和20年に空襲焼失。

昭和27年に旧本館竣工。
昭和29年に別館が竣工。この別館は現存している。設計は大江宏。大江の代表作としては大阪万博日本館、国立能楽堂などが知られる。

三番町共用会議所別館

写真は現存する三番町共用会議所別館 。昭和29年造。

三番町共用会議所別館内部
1階は会議室

昭和38年以降の米価審議会はここで行われていた。
(米流通自由化などもあり平成11年に米価審議会は廃止)

2階は大臣室など

三番町共用会議所本館

現在の本館は昭和48年に竣工
平成11年からは全省庁で利用できる共用の会議所となっている。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所庭園)

昭和55年に庭園を再整備している。

明治天皇行幸記念碑

明治19年10月19日、山縣有朋邸で行われた銃剣術並演刀槍術展覧に、
明治天皇が行幸されたことを記念して山縣有朋が建立。山縣有朋が詠まれた和歌を山縣有朋本人の書体で掘られている。山縣有朋邸の当時を物語る石碑。

天津かせ えたをならさぬ 君がよは 
  こゝろ のとけく 匂ふ梅かゝ
 山縣有朋直筆

 山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇が行幸されたことを記念して、山県有朋が建立したものです。碑文は隷書体で行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山県有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。

明治天皇行幸碑 裏面(概要)
 今年(明治18年)10月19日。
 今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。夜になり、多くの玉燈を点け、煙火を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟、有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。

石灯籠

庭園内の灯籠も山縣有朋邸庭園時代からのものと推定。
土台が六角形の灯籠は江戸後期から明治初期の技法とされている。

石畳
木の根の広がりに年月を感じさせる。

三番町共用会議所・山縣有朋邸庭園跡は、毎年11月12月に数日間に公開されているようです。

給水塔と車庫は取り壊し予定だそうで・・・(昭和20年代の建築という)

山縣有朋邸宅庭園として現存している有名な庭園は以下。
 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 70歳の古希を迎えた晩年の別荘

この三番町共用会議所の庭園は、山縣有朋の時代を石碑などに残すのみではあるが、人知れずの史跡。一般公開もひっそりと行われていたので、私も最近まで存在を知りませんでした。なかなかの良き歴史スポット。


関連

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


関連

動物慰霊碑

上野界隈の散策

立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

第三台場(都立台場公園)

平成29年(2017年)5月撮影

第三台場

ペリー来航に備え東京湾上に作られた品川台場のひとつであった第三台場を利用して昭和3年(1928年)に整備されたのが台場公園。
現在は「お台場海浜公園」と地続きとなっている。

都立台場公園のあらまし
台場公園(第三台場)
 「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船襲来にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853年)8月に着工、1年3ヶ月の間に6基が完成しました。
 現在は大正15年(1926)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
 このうち第三台場は、昭和3年東京市(都)によって整備され、台場公園として開放されています。周囲には、海面から5~7メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫などがあります。

陣屋跡

中央の窪地に「陣屋跡」

砲台跡

東京湾の外、南側を向いている。

かまど跡

建屋跡

史跡記念碑

史蹟 品川臺場 参番
天然紀念物保存法ニヨリ
大正5年10月 内務大臣指定
昭和2年8月建設 東京市

桟橋跡(船着場・波止場跡)

弾薬庫跡

第六台場

幕末期に品川沖に11基の台場建設が計画された。
1854年7月に、第一、第二、第三台場が竣工。
1854年12月に、第五、第六、御殿山下台場が竣工、第四、第七は計画縮小により工事中止、第八から第十一台場は未着工。

そのうち第三台場と第六台場が東京湾海上に現存している。
第六台場は、現在は無人島、立入禁止。

レインボーブリッジ

平成5年(1993)開通。
「レインボープロムナード」歩道にて徒歩での通行も可能。
第三台場と第六台場の横を渡る。

位置関係

今昔マップ on the web (http://ktgis.net/kjmapw/index.html)より。

googleマップより

付記:御殿山下台場

品川区台場小学校がかつての「台場跡」が残っている。幕末当時、陸地に接していた台場は「御殿山下台場」。以下は2014年撮影

御殿山下台場(砲台)跡
 嘉永6(1853)年アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
 伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第1から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第8以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3(1870)年日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
 平成18年3月31日
 品川区教育委員会

御殿山下台場跡は、敷地の半分を台場小学校に。

このあたりが海側の先端部分。

東京湾上に残る「砲台場」跡の散策でした。