「東京大空襲(東京の空襲)」カテゴリーアーカイブ

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

東京大空襲と下町(墨田区千歳、立川・江東区森下)

東京都墨田区と江東区。
隅田川の東側。北に両国、南に深川がある、このエリアも、東京大空襲に際しては、大きな被害を被った地区であった。


江島杉山神社

江島杉山神社 は、1693年(元禄6年)に創建。盲目の鍼灸師、杉山和一(杉山検校・鍼の管鍼法の創始者)が、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の病気を治した功により、当地を受領。あわせて、綱吉は、江島弁財天(現・江島神社)への参詣を続ける杉山に配慮し、弁財天(本所一ツ目弁天社)を当地に勧請することを許可したことに始まる。
明治期に「江島神社」に改称し、その後、境内に杉山和一本人を祀る摂末社として「杉山神社」も創建された。1952年(昭和27年)に両社は合祀して「江島杉山神社」に改称。

江島杉山神社の被災イチョウ

境内に、黒く焼けただれたイチョウの御神木がある。
東京大空襲を耐え抜いた、イチョウ。

江島杉山神社の神輿庫

イチョウの隣の古そうな神輿庫。これも東京大空襲を耐え抜いた神輿庫。
昭和8年12月建立。

江島杉山神社の岩屋

岩屋は、元禄6年(1693年)に、徳川綱吉の台命によって杉山検校(杉山和一)によって創建。
安政の大地震、大正の関東大震災では被害なかったが、昭和20年3月10日の関東大震災では、天井の石に亀裂が生じ崩落。昭和39年に鉄筋コンクリートにて改修されている。

江島杉山神社

場所

https://goo.gl/maps/CDvm4L5BopZ4DMocA


弥勒寺

万徳山弥勒寺(真言宗豊山派)。本尊は薬師如来で、「川上薬師」とも呼称。
1610年(慶長15年)創建。

弥勒寺の観音聖像

東京大空襲当時の弥勒寺住職岩堀至道師は、一面の焼け野原の焼死体の中で、母を探し回るうちに、野ざらしの遺体の痛ましさに胸を突かれ、私財を投じて廃墟となっていた弥勒寺境内で一ヶ月半にわたり集まってきた御遺体3,500余体を焼却された、という。
弥勒寺境内の観音聖像は、昭和42年に建立。この下には住職が償却した3500体の遺骨灰が納められている。

合掌を。

観音聖像建立由来記
 父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、1945年(昭和20年)3月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がって居りました。
 戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
 この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間の務めでもあり仕事でもありましょう。
 多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿でもありましょう。
 茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
  昭和52年(1977)3月10日丗回忌
   弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
   弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
    平成24年(2012)3月10日  
    株式会社ペルストーン工房 寄贈

昭和廿年三月九日夜間大空襲に依り本所深川は全滅廃墟となり死傷する者亦多く、劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山となす。終戦と供に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり、遺骨三千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ。願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを
 昭和四十二年三月十日 弥勒寺住職至道識

弥勒寺の観音聖像

弥勒寺の境内には、杉山和一(杉山検校)の墓もあった。
奇しくも江島杉山神社と弥勒寺と、杉山検校つながり。

場所

https://goo.gl/maps/J9xHJq7dVc3fDrxv9


長慶寺

蟠龍山長慶寺(曹洞宗)。1630年(寛永7年)に開山。

長慶寺の殉国国難死萬霊等碑

東京大空襲に際し、長慶寺は石垣を残して全て焼失したという。焼け跡となった長慶寺でも遺体が集められ仮埋葬されたという。
長慶寺に集められた人々を供養するために7回忌(昭和26年)に石碑が建立された。

場所

https://goo.gl/maps/83dncxAWGCPZ98W98


関連

東京大空襲・慰霊

明治観音堂(明治座・日本橋浜町)

浜町公園、都営新宿線浜町駅のすぐ近く。もっというと、明治座の目の前。そこに東京大空襲に関係する慰霊堂があった。

明治観音堂

昭和20年3月10日、東京大空襲。
指定避難所であった「明治座」には多くの人びとが避難していたが、界隈で犠牲となった人々を弔うために建立された観音堂。明治座の復興に力を注いだ、新田新作氏(戦後に復興した明治座の社長)の建立。

明治観音堂建立の由来
本堂は昭和二十年三月十日の
戦災に依り死没せる幾多の霊の
冥福を祈る為建立す

昭和二十五年十二月
発願主 新田新作

明治座と戦争
しかし時代は、昭和6年(1931)に満州事変が勃発しており、やがて日中戦争と次第に戦時色が強くなっていきます。第二次世界大戦が開戦し、昭和19年(1944)3月5日にはとうとう全国19か所の「高級興行場歓楽場」に対し、大劇場閉鎖の緊急事態が命じられます。しかし、3月20日には明治座他6劇場が解除になり、興行時間2時間半以内の演劇興行が再開されます。戦時中の厳しい状況の中でも、空襲のさなかにさえ、明治座はほとんど毎月幕を開けていました。
そして昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、下町一帯は灰燼に帰し、明治座も例外ではなく外側を残し焼失しました。現在でも、明治座の前にはその被害者たちを慰霊した「明治観音堂」という小さな石堂が建っています。この石堂の発願主は力道山の後援者としても知られた新田建設社長の新田新作でした。新田は後始末に奔走します。新田と地元の有志を中心に明治座復旧期成会が結成され、そこから設立された株式会社明治座が松竹から所有権を譲り受け、明治座の着工がはじまりました。

明治座 https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

観音堂のうしろには、明治座。

すぐ近くには浜町公園。観音堂も浜町公園の通路にあるので、公園内といっても問題ないかもしれない。

浜町公園

戦時中の浜町公園は、高射砲陣地が設置されていた。
そのため、浜町公園には、爆撃対象として狙われ、あたりは灰燼に帰した。

浜町公園のすぐとなりは、隅田川。

場所

https://goo.gl/maps/o1k1K78ZwXJYCRWy7

明治座

https://www.meijiza.co.jp/anniversary/war/

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_chuo_city001/


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C2-18_
昭和19年(1944年)11月07日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記で浜町公園を拡大

こちらは戦後。高射砲陣地があった浜町公園は更地。
明治座の債権も始まっている。明治座は昭和25年(1950)に再建再興している。

ファイル:USA-M451-37
1947年09月08日、米軍撮影を一部加工

現在の様子。GoogleMap航空写真を一部加工。


関連

東京大空襲関連

はじめに

猿江界隈の戦跡散策(江東区)

猿江恩賜公園。ここもまた戦争の爪痕を残す公園であった。
そんな猿江恩賜公園と猿江界隈を散策してみる。


猿江恩賜公園
(東京大空襲犠牲者仮埋葬地)

昭和7年(1932)、現在の南側が「猿江恩賜公園」として開園。もともとは江戸幕府公認の貯木場、そして明治政府御用達の貯木場であった。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、焼死者の仮埋葬地となる。仮埋葬地としての規模は、錦糸公園の1万2895名に次ぐ多さであり、猿江恩賜公園では1万2749名が仮埋葬されたという。
東京都の施設で焼却出る限界を超してしまったために、多数の遺体を放置しておくわけにもいかないということから、軍部は都内各地の公園や空き地、寺院などに「仮埋葬」を行った。犠牲者を仮埋葬したという土地でもあり花見での宴会は禁止されている。ただ、現在、猿江恩賜公園には、そのエピソードを物語る「何か」というものは残っていない。

ちなみに猿江恩師公園の北側は、1972年に猿江貯木場が廃止され、1981年以降の開園となる。


空襲で破損した石碑?(猿江恩賜公園)

真偽は不詳。上部が欠けているのは、空襲による損傷であると言われている。

猿の彫刻?たしかに損傷しているようには、みえる。

猿江恩賜公園
開園の由来を記した石碑。昭和7年の開園時に建立されたものと思われる。

猿江恩賜公園

南側地区。石碑は「現在地」看板から公園に入っていったところにある。

猿江材木蔵跡、もある。

場所

https://goo.gl/maps/8uEDNtXWB3TRMmjR6


猿江恩賜公園から猿江神社に足を伸ばす。
近年は、御朱印で人気を集めている神社。

猿江神社
(国内最古級の鉄筋コンクリート社殿)

創建は、康平年間(1058~1065)という。源義家が前九年の役出征の途中、当地の入り江で家臣の猿藤太が亡くなり、祠を建立したことに始まる。当地は、猿藤太が亡くなった入り江で、猿江と呼称されるようになった。

大正12年(1923)の関東大震災で社殿消失。昭和6年(1931)に社殿を再建した際に宮内省設計技官によって鉄筋コンクリート造の社殿が建立。東京大空襲では深川が灰燼に帰すなかで、奇跡的に難を逃れ、錦糸町の駅からでも焼け野原に残る社殿を望むことができたという。

社号標は昭和4年建立

国内最古級の鉄筋コンクリート造社殿

大東亜建設一億一心滋
祈願威神力四民唯念之

昭和17念8月建立の旗立台

石灯籠は昭和6年9月吉日、建立。

裏参道の石灯籠も昭和6年9月建立。
揮毫は、海軍中将子爵小笠原長生

場所

https://goo.gl/maps/YibnxzESUHeSCFBT6


重願寺

浄土宗寺院。不虚山当知院重願寺。
戦国末期から江戸初期に開山されたという。

みまもり観音(みまもり観世音)

昭和56年(1981)、重願寺に建立された観世音菩薩像。関東大震災や東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建立。
薬師寺東院堂の国宝「銅像観音菩薩立像」を模写し2.2倍の大きさとしている。

合掌し頭を垂れる

殉難慰霊平和祈願
みまもり観音
造立由来

みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため当山檀信徒をはじめ、猿江地区6ヶ町有志の方々等1万数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました。(昭和56年9月1日除幕開眼)
観音像足下の地下収納庫には5千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています。
みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さまに、亡き人々を『みまももり給え』と願い、また限りない観音さまの大慈悲をもって、いま生きる私達を『日々にみまもり給え』と祈念して名づけられました。
 戦災(ひ)に消えし 亡き人々よ 安かれと
 祈りて 今朝(けさ)も 経の字を写す 
                 主水

南無みまもり観音

場所

https://goo.gl/maps/iSoZH3AhxDeE1oay9


場所は猿江から亀戸にかわるが、参拝記録として掲載。

自性院

慶長2年(1597)開山。通称は役者寺。

戦災地蔵尊・大慈悲観音

東京大空襲の亀戸6丁目界隈の犠牲者を祀る。1262遺体が当寺院に仮埋葬されたという。
昭和23年に住職が地蔵尊を建立。
地蔵尊が風化してきたために、平成6年(1994年)に「大慈悲観音」を建立。
大慈悲観音の下には、身元不明者の遺骨が今も葬られているという。

合掌

戦災祈念尊
昭和23年3月10日

場所

https://goo.gl/maps/kVE76NE7HpHJMDVb9


関連

東京大空襲・慰霊

東京大空襲を耐えた「元江戸川区役所文書庫」


東京東部、江戸川と荒川に挟まれた河口部に「江戸川区」がある。
そんな江戸川区の中でも、いちばんの西部寄り=江東区・墨田区寄り・旧中川の近くの平井・小松川地区もまた、東京大空襲の被害甚大であった。
そんな江戸川区の小松川に、東京大空襲を耐え抜いた建物が残されている。

大正13年(1924)に南葛飾郡役所倉庫として建設され、その後江戸川区役所文書庫として活用されてきた建物。


江戸川区役所旧文書庫

江戸川区役所旧文書庫
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生しました。このとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 現在小松川さくら公園に残る鉄筋の2階建ての建物は、大正13年(1924)に郡役所の倉庫として建てられました。当時は珍しい中村式のコンクリートブロック建築でした。江戸川区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。
 昭和20年(1945)3月、小松川地区は大きな空襲に襲われました。区役所は火炎に包まれ、全焼しています。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎脇の用水路に沈めて守りました。
 区役所は被災後しばらく第七高等女学校(小松川高校)校舎で業務をおこない、昭和23年(1948)に現在地(中央1丁目)に新築移転しています。郡役所跡地を江戸川区が購入し、保健相談所を建設するとき、建物の陰に隠れ残っていた文書庫も保存されることになりました。
 平成元年(1989)に文書庫の補修工事がおこなわれました。平成3年(1991)「世代を結ぶ平和の像」が制作され、平成7年にここに設置されました。毎年開催している東京大空襲の犠牲者追悼の集会にあわせて区民の寄贈品を集めた戦争資料展も開催してきました。
 江戸川区は平成7年に平和都市宣言をし、犠牲者の追悼、平和教育の推進などさまざまな平和への取り組みをおこなっております。平成30年3月、東京大空襲の被災地であるこの小松川に、常設の江戸川区平和祈念展示室を設置しました。戦争の悲惨さを語り伝え、恒久の平和こそ人類の大きな責務であることを心に刻みたいと念じております。
 平成30年3月 江戸川区

平和の尊さを語り継ぐ
 元江戸川区役所文書庫

 昭和20年3月10日未明の東京大空襲で下町一帯は火の海と化し、江戸川区内でも死者800名、焼失家屋11000戸の被害を蒙りました。
 この辺りも、すべての家屋が焼失し、ただこの江戸川区役所文書庫だけが焼けただれた姿で残りました。
 区では、戦争の傷痕を止めるこの文書庫を貴重な歴史的遺産として保存し、戦争の惨禍を再び繰り返さぬよ次の世代に語り継ぐことにしました。
 江戸川区

内部は非公開。焼け焦げた内部壁面は江戸川区のサイトに掲載がある。

江戸川区役所旧文書庫について
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e009/kuseijoho/gaiyo/shisetsuguide/bunya/bunkachiiki/heiwatenji/bunshoko.html

場所

https://goo.gl/maps/6tdRz7ppp8zZov889


東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
世代を結ぶ平和の像

江戸川区役所旧文書庫のある「小松川さくら公園」内に。

東京大空襲江戸川区犠牲者追悼
 世代を結ぶ平和の像
 昭和20年3月10日の東京大空襲により、下町は炎の海と化し、10万人が亡くなり、100万人が家を失いました。
 江戸川区でも、平井・小松川地区がほぼ全滅、800余名の人びとが尊い命を失い、当時小松川後にあった区役所も焼失し、その中で文書庫だけが焼け残りました。
 江戸川区は、戦争の悲惨さと秘話の尊さを語り継ぐ、貴重な歴史的建造物として、文書庫を保存することにしました。
 この母子像は、文書庫の保存を記念して、戦争の過ちを再びくり返さない誓いを込めて、東京大空襲で理不尽にも尊い命を落とされた犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を超えて語り継ぐために、1万数千余の方々の浄財をもとに、戦災を体験された文化勲章受章彫刻家圓鍔 勝三先生に制作を委嘱し、平成3年3月10日に「世代を結ぶ平和の像」をつくる会より、江戸川区に寄贈されたものです。

煉瓦の基礎が残されている。これも東京大空襲で焼失した名残という。


江戸川区小松川さくらホール
江戸川区平和祈念展示室

隣の小松川さくらホールには、「江戸川区平和祈念展示室」が開設されている。

江戸川区平和祈念展示室

 昭和20年3月10日未明の大空襲で、一夜にして都内では推定10万人、区内でも約800人の尊い命が失われました。心からご冥福をお祈りいたします。
 私たちは、この日を忘れることなく、平和への想いを新たに、今後も戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に伝えていかなければなりません。
 これまで東京大空襲江戸川区犠牲者追悼「世代を結ぶ平和の像の会」の皆様が中心となって追悼の集いを催してまいりました。このたび戦争の悲惨な経験を風化させず、平和への思いをさらに確かなものとすることを祈念して、ここに常設の平和祈念展示室を設けました。区民ひとりひとりが平和を希求し、実現し、永続させるよりどころとなることを確認しております。
 平成30年3月 江戸川区長 多田正見

M69焼夷弾

M69焼夷弾
 アメリカ軍が木造住宅の密集した市街地を焼き払うために開発した爆弾です。東京大空襲では、密着性のある油脂(ナパーム)を詰めた、貫徹力の強い合金製の焼夷弾38本を束にした「M69収束焼夷弾」が用いられています。投下の数秒後に、油脂を詰めた焼夷弾単体がばらばらになって落下しました。油脂が燃えつきると、筒だけが残りました。

昭和20年3月10日

1945年3月10日 東京大空襲
 太平洋戦争末期の1944年6月、アメリカ軍の戦略爆撃機B29が北九州の工業地帯を初空襲しました。同年8月にマリアナ諸島を攻略したアメリカ軍は、B29の基地を建設して、日本本土を爆撃範囲としました。B29による東京初空襲は1944年11月で、区内でも初めて空襲による死者がでました。
 当初は主に航空機工場などの軍需施設を目標として精密爆撃でしたが、1945年3月10日の東京の下町を焦土と化す大規模な都市無差別爆撃がおこなわれ、江戸川区の小松川・平井一帯も、一夜にして焼きつくされました。

東京大空襲
 1945年(昭和20年)3月10日、東京にアメリカ軍のB29爆撃機による大規模な空襲があり、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。江戸川区でも、小松川・平井地区がほぼ焼失し、800人を超える方々が亡くなりました。
 空襲はその後も続き、東京では8月15日までにさらに数万人が犠牲となりました。

小松川文書庫の保存
 1945(昭和20)年3月10日の空襲でここにあった当時の江戸川区役所が全焼しました。奇跡的に焼け残った文書庫を、戦争の悲惨さを伝える建造物として残すために補修をほどこし、1989年(平成元)3月9日に公開されました。

江戸川区役所旧文書庫と小松川さくら公園
 小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治11年(1878)に成立した南葛飾郡の郡役所があったところです。昭和7年(1932)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生したとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。
 公園の「世代を結ぶ平和の像」の後ろに残る建物は、1924年(大正13年)に郡役所の倉庫として建てられました。区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。大空襲で区役所は火災に包まれ、全焼。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎前の水路に沈めて守りました。空襲の記憶をとどめ、後世に伝える建造物として大切に保存しています。

旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑
 東京大空襲により旧中川で犠牲になった方を慰霊する碑です。2001(平成13)年8月15日の第3回「灯篭流し」で、ふれあい橋車詰に慰霊碑「鎮魂」を建立しました。揮毫は平井在住の鈴木春朝氏です。


旧中川東京大空襲犠牲者慰霊碑

小松川さくら公園から、旧中川を北上していくと、ふれあい橋が見えてくる。その端の両端に、江戸川区と江東区の慰霊碑がそれぞれ建立されている。

鎮魂
甦った川に灯籠を流す

慰霊碑のいわれ
 昭和20年3月10日の東京大空襲の折り、江戸川区平井と、江東区、墨田区に挟まれた、川巾60米程の旧中川には猛火に追われて二千八百余名に及ぶ犠牲者が出ました。この真実を後世に語り継ぎ風化させないため毎年8月15日の終戦記念日に、亀戸地区の有志と語らってこの地区で戦火に倒れた方々、併せてこの戦争で犠牲になられた全ての犠牲者の慰霊と、住民の皆様のご先祖の霊を慰めるとともに今後地域の一層の発展を願って灯籠流しを挙行しております。
 下町火戦の環境整備が進み、旧中川は甦りました。江東区側にはすでに「水彩都市」と刻まれた立派な碑が建てられているので私達有志の間から江戸川区側には、戦没者慰霊碑建設との声が湧きあがり、多くの篤志の方々の浄財によって「鎮魂」の碑が建立されました。
  平成13年8月15日 建立
   旧中川東京大空襲犠牲者慰霊「灯籠流し」を行う会

ふれあい橋の江東区側にも慰霊碑がある。

平和の祈り
 昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲の際、米国のB29爆撃機から投下された数百発の焼夷弾により、10万人の犠牲者が出たと言われています。
 又、当日の強風に煽られて下町一帯が焼け野原となり熱風に耐えかねた人々が、旧中川に次々と飛び込み3000人余りの命が失われたと記録されています。
 年々、当時を体験した人が少なくなる中、悲惨な戦争体験を次世代に語り継ぎ、太平洋戦争での犠牲者の鎮魂と永久なる平和を末永く忘れることのないように、この「平和の祈り」の記念碑を建立しました。
 平成12年12月建立(2001年2月C.N30周年)
 平成23年 4月修復 (2011年2月C.N40周年)
 東京城東ライオンズクラブ

東京大空襲に際して、火災から逃れるために多くの人々が旧中川に飛び込み、そして亡くなったという。

場所

https://goo.gl/maps/ETmVDwr3Nv6qmdvA8


関連

東京大空襲・慰霊

もう一つの東京大空襲「山の手大空襲」表参道の戦跡散策

若者たちが集う街、表参道。
表参道の交差点には1対の石灯籠があり、そこから明治神宮にかけてケヤキ並木となっている。
明治神宮とともに整備された参道。

昭和20年5月25日「山の手空襲」
表参道の石灯籠は、山の手空襲の爪痕を今も残していた。


山の手大空襲

東京は昭和19年以降、100回以上に及ぶ空襲を受けてきた。
昭和20年3月10日に東京下町を襲った空襲では死者は10万人を超え、罹災者も100万人を超えており、1回の空襲としては、世界史上に例を見ない規模として「東京大空襲」と称されれているが、その他にも多くの空襲があった。

昭和20年5月25日、空襲警報発令22時22分。
山の手地域に470機ものB‐29が襲来した空襲では、死者3600余人、罹災者は約56万人、焼失16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅も被災。皇居も被災し 昭和天皇・香淳皇后は御文庫に避難、皇居内の明治宮殿は、この空襲で焼失。

東京地方では、2番目の被災規模であり「山の手大空襲」と称されている。
なお、3月10日の下町を襲った東京大空襲で襲来したB-29は325機であり、山の手大空襲で襲来したB-29の470機は東京大空襲以上であった。

米軍は、昭和20年5月25日の「山の手大空襲」でもって、東京の市街地はほぼ壊滅したと判断し、この日以降、東京への大規模な空襲は終了した。
まさに、東京に止めを刺した空襲が、この「山の手大空襲」であった。


和をのぞむ(「山の手空襲」追悼碑)

表参道交差点、現在の「みずほ銀行青山支店」、当時は「安田銀行青山支店」の手前に慰霊碑がある。
山の手大空襲に際して、多くの人々が、火から逃れようとして堅牢であった銀行の建物前に集い、そしてそのままこの場所で斃れ、そして、この銀行のそばには多くの遺体が積み上げられていたという。
この、みずほ銀行青山支店のすぐ近くに、「山の手空襲」追悼碑が建立された。

和をのぞむ
  太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
  表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
  戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
  港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
  平成十九年一月
  港区赤坂地区総合支所
  区政六十周年記念事業実行委員会


表参道・ケヤキ並木

表参道は、明治神宮の参道として、昭和9年(1920)に開通。
表参道のシンボルであるけやき並木は、昭和10年に植樹。
しかし、山の手大空襲で、201本のうち13本のみを残して全焼。現在のケヤキのほとんどは戦後に植え替えられた。
ケヤキの幹の太さで、戦前の植樹か戦後の植樹かが分かるらしい・・・。


表参道・石灯籠

表参道の二基の大灯籠。山の手大空襲の生き証人。
台座の一部が欠けているのは、焼夷弾が着弾した痕、ともいう。
そして、石灯籠の台座は黒ずんでいる。これは、山の手大空襲の犠牲者の血と脂が黒く滲みこんだものといわれている。

合掌


表参道・山陽堂書店

明治24年(1891年)創業。
昭和6年(1931年)御幸通り造成のために現在地に移転。地上3階地下1階の鉄筋鉄骨コンクリートビル建立。建物の地下には井戸が掘られていたことが、後々、功を奏することとなった。

昭和20年5月25日、山の手大空襲。青山の表参道交差点周辺は火の川となる中で、好運にも山陽堂書店ビルは鉄筋鉄骨コンクリートと地下室の井戸水に助けられ、多くの避難民の命を救った。
この界隈では、鉄筋コンクリート建ての「同潤会青山アパート」 と」「山陽堂書店ビル」、そして青山霊園に避難して助かった人々がいた。

昭和38年(1963年)東京オリンピックのため青山通り道路拡幅で山陽堂書店ビルは頑丈であったために壊すのではなく3分の1に建物を削り現在の姿となった。


善光寺(青山善光寺)

南命山善光寺。信州・善光寺の東京宿院。東京都港区北青山3-5-17鎮座。
善光寺は、永禄元年(1558)谷中に創建、宝永2年(1705)当地へ移転。

毎年、山の手大空襲のあった5月25日に、青山善光寺本堂にて「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

青山善光寺の境内に建立されている慰霊碑。
帝国陸軍のシンボル、金色の五芒星が輝いている。

陸軍経理学校生徒隊1500余名のうち戦死された方々を慰霊鎮魂。
昭和十二年八月に初代区隊長が戦死し、その法要を善光寺で行なった縁により慰霊碑が建立された。

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑
碑誌
陸軍經理學校生徒隊ハ昭和十一年ヨリ終戦迄陸軍經理部ノ中核タル将校訓育ノ揺籃タリ
ココニ志魂ヲ育クマレタル健兒一千五百餘名ハ先ノ大東亜戦争ニ際シ勇戰奮闘克クソノ精華ヲ發揚セルモ戰局ノ推移ニ伴イ全戰域ニ亙リ數多散華殉難ノ士ヲ出スニ至リタルハ痛惜ニ堪エズ
コレガ供養ノ為昭和十二年八月初代區隊長戰死ノ法要ヲ當善光寺ニテ執行以來戰後モ毎歳新タナル物故者ノ合祀ヲ重ネ慰霊法要会ヲ嚴修シ連綿今日ニ及ベリ
此ノ間住職心譽觀導上人ヲハジメ當山ノ囘向終始懇篤ナルハ洵ニ感激ニ堪エザルトコロナリ
曽ツテ同ジ武窓ニ行住坐臥苦樂ヲ共ニセシ我等今日幽明ヲ異ニスルモヤガテハ彼岸ニ於テ同坐團樂ヲ希ウノ情切ナルモノアリ
茲ニ第四十三囘法要会ニ際シ一同ノ総意ニヨリ因縁深キ當寺寶前ニ靈璽簿ヲ奉安スルト共ニ慰霊碑ヲ建立シ全会員及ビソノ家族ニ至ルマデノ心ノ縁タラシメントスルモノナリ
 昭和五十四年五月二十日
 陸軍經理學校生徒隊  十誠会 会員一同

戦災殉難者諸精霊供養塔

戦後、山の手大空襲の犠牲者の法要が、表参道のみずほ銀行の前で行われていたという。
昭和41年に、山の手大空襲の犠牲者が多かった土地の土を持ち帰り、善光寺境内に「供養塔」を建立し、現在は、毎年5月25日13時より、「山の手大空襲慰霊法要」が執り行われている。

戦災殉難者諸精霊供養塔
昭和二十年五月二十五日 為大東亜戦争青山周辺戦災殉難者
昭和四十一年五月二十五日  有志一同建立

後世を担う若人たちで賑わう街、表参道。
「山の手大空襲」の歴史は、静かに伝承されていた。

改めて、
慰霊鎮魂の合掌を。

※撮影2021年4月-6月


関連

東京大空襲・慰霊

陸軍糧秣廠本所倉庫跡と千種稲荷神社(錦糸公園)

錦糸町駅前の「錦糸公園」は、かつて陸軍の倉庫であり、空襲犠牲者の仮埋葬地であった。

錦糸公園

墨田区立錦糸公園は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京復興事業の一環として、隅田公園・浜町公園と並んで計画された公園であった。
当地は、帝国陸軍の糧秣廠本所倉庫であったが、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられて移転し、公園として再整備が行われ、昭和3年(1928)7月に開園。
太平洋戦争中は、空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。1945年3月10日の東京大空襲においては、1万2895の遺体が錦糸公園に仮埋葬された。
仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されている。
現在、錦糸公園には仮埋葬などを物語る戦跡などは特に残っていない。


千種稲荷神社

郷土の守護神としてこの地に鎮座してきた稲荷様。
陸軍糧秣廠本所倉庫の建設に際し、陸軍省は稲荷社を撤去。その後、倉庫周辺で火災が頻発したことから対策に苦慮し、取り払った稲荷社を元に戻したところ、火災は収まったという。
その後に、関東大震災で東京大空襲でも稲荷社周辺は無傷であった。

千種稲荷神社由来記
千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。

その後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設しその敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整理に際し、この稲荷社を取り払いし処、その後倉庫並びに周辺に再三火災が発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にもその後火災等は全くなくなりました。大正十二年の震災には此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃神田より製菓業者が公園周辺に集団移転し、営業を開始した処早々より町内に火災多発して、町民が不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られてあった守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に、町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり、又商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渉り工事を重ね、境内の整備を完了した次第です。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園になりました。
昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より)

錦糸公園内に鎮座する千種稲荷社の御由緒が、往時をわずかに物語っている。

錦糸公園


関連

東京大空襲・慰霊

「哀しみの東京大空襲」と「時忘れじの塔」

上野には、2つの東京大空襲関連の慰霊碑がある。
その2つともに、海老名 香葉子 氏(落語家初代林家三平の妻・作家)が携わっていた。

2005年、海老名 香葉子 氏 は私財と寄付でもって上野に、東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」「時忘れじの塔」を建立している。


哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲

慰霊碑 哀しみの東京大空襲
何の罪もない多くの人々が、
戦時体制の下で悲惨な最期を
遂げられたことを心から悼み、
あらためてそのご冥福をお祈り
すると共に、再びこうした悲劇が
繰り返されないことを願って、
この慰霊碑を建立する。
 平成十七年(二〇〇五)年三月十日

哀しみの心をいつまでも
 今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。
 この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷されました。
 その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。
 房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に
下町を襲いました。
 この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの
高性能焼夷弾を投下したのです。
 人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたっ
た二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。
 それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。
 そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい
数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵
や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。
 やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方
もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。
 そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の
震災記念堂にお祀りされました。
 無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、こ
の上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、
凄まじいものでした。
 今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に
薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、
東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
 平成十七(二〇〇五)年三月十日
  海老名香葉子
  建立有志一同

場所
現龍院墓地の前、寛永寺が土地を提供している。

https://goo.gl/maps/QepVyD9k6WmH8wu5A


時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑。
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立。

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)
  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

場所
都立上野公園。
都立公園内に一般寄贈の碑が建立された珍しい例でもある。

https://goo.gl/maps/mxgdrSDJ2fXUUwp3A

※2つとも2021年3月11日撮影(3月10日の翌日)


東京大空襲関連

東京大空襲・慰霊

上野公園関連

3月10日(東京大空襲から76年)

令和3年(2021)3月10日で76年目。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱

東京大空襲・戦災資料センター

以前から気になっていた場所。
東京大空襲を知る上で、欠かせない場所です。

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄にしました。罹災者は100万人をこえ、推定10万人もの貴い命が失われました。3月10日を含め、東京は100回以上もの火の雨にさらされ、市街地の6割を焼失したのです。
 民間の「東京空襲を記録する会」は、空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきました。当研究所は、この資料を保存し都民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学習に役立つ場にと願い、2000年3月から募金および新資料収集をよびかけました。この壁面裏にお名前が刻まれておりますが4000名をこえる方がたのご協力により、どのような公的資金もなしに、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかったこの地に、当センターを完成することができました。ぜひ、お立ち寄りください。
 財団法人 政治経済研究所

世界の子どもの平和像
平和を築く

平和のために敷地とともに寄贈された稲荷社

防火用水

母子像
戦火の下で

平和地蔵


資料センターの館内へ。
いくつかをピックアップ。

被弾し、傷ついたピアノ
 1945年5月24日 目黒(現・目黒区)
1945年5月24日の空襲で、屋根を突き抜けた焼夷弾がピアノの左肩をかすめた。不発だったので、傷ついたが、焼けずに残ったピアノ。

ピアノをかすめたM69焼夷弾

ピアノがあった家で使われていた防空かぶと

噫横川国民学校(複製)
 1978年 作/井上有一

E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。

M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。

M18(E28)集束焼夷弾の弾頭バラスト
集束焼夷弾が前から落ちていくようにする重り。日本本土への初期の空襲では、弾頭信管で作動するM18(のちに改称されE28)集束焼夷弾が使われた。中にはM69焼夷弾が38発納められている。中央部に弾頭信管を取り付けるためのくぼみがある。

M50エレクトロン焼夷弾 AN-M50-A2
中心部分に燃焼剤のテルミット(アルミニウムと酸化鉄の混合物)があり、その外側を包むマグネシウムを燃焼させるため、テルミット・マグネシウム焼夷弾とも呼ばれる。
1945年3月10日の空襲では使われなかったが、中小都市空襲では用いられることも多かった。

日本軍の高射砲弾の破片
高射砲は空中で破片になって飛び散ることで、敵の飛行機を落とす武器。空襲の際にも撃たれるため、逃げる人々は焼夷弾だけでなく、味方の高射砲弾の破片からも身を守るために、防空頭巾や鉄かぶとをかぶる必要があった。

1945年3月10日 土曜日 0:08

館内では、都内での空襲関連の慰霊碑や細かい空襲情報の資料も豊富。
駅からはちょっとアクセスしにくい場所ですが、また足を運びたいと思っております。


東京大空襲・戦災資料センター

公式サイト

https://tokyo-sensai.net/

場所

https://goo.gl/maps/iukVKVW7qzyzeR9q9

書籍

書籍を購入しました。
東京大空襲関連の慰霊碑などの慰霊巡礼、フィールドワークに役立たせようと思います。


関連

https://senseki-kikou.net/?p=7127

https://senseki-kikou.net/?p=10715

https://senseki-kikou.net/?p=2065

https://senseki-kikou.net/?p=497

東京大空襲と下町(墨田区本所)

墨田区の本所と呼ばれる地域は、かつては東京市本所区であった。
江戸・東京の下町であり、江戸の東端、でもあった。
大正12年(1923年)の関東大震災では本所区の9割を焼失し、約4万8000人と言われる死者を出し、昭和20年(1945年)の東京大空襲でも甚大な被害を受けた地域。

本所地域には多くの慰霊碑があり、まだ網羅しきれていないが、いくつかを此処に掲載していきます。


墨田電話局慰霊碑

NTT石原ビルの敷地に建立された慰霊碑。
東京大空襲のさなか、最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊。
空襲で周囲が火災に包まれていても職場を放棄せずに、重要な通信設備を守り抜いた10代から20代の電話交換手の若い女性たち(女子交換手)28名と男子職員3名を慰霊している。

電話交換手の悲劇は、樺太の真岡郵便電信局のみならず、東京でもあったのだ・・・。

慰霊
 昭和三十三年三月十日建立

吉川英治の碑文が添えられている。

「昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に、国を愛する清純と自らの使命の為、ブレストも身に離たず、劫火のうちに相擁して斃れた主事以下の男職員三名、ならびに女子交換手二十八名が、その崇高な殉職の死を、永遠となした跡である」

「可憐なる処女らや、ほか諸霊にたいし、痛惜の悼みを新にそそがずにいられない」

「ふとここに佇む折りもあらば、また何とぞ一顧の歴史と、寸時の祈念とを惜しませ給うな」

碑文
春秋の歩み文化の進展は その早さその恩恵に馴るゝ侭
つい吾人をして 過去の尊いものをも忘れしむる
こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災
殉職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半
における大戦の大空襲下に 国を愛する清純と自
らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうち
に相擁して仆れた主事以下の男職員三名 ならびに
女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠と
なした跡である
当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を
茲に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての
可憐なる処女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の
悼みを新にそゝがずにいられない
人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあ
らば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念
とを惜しませ給うな
         吉川英治 謹選

吉川英治の名が見える。

由来
 この慰霊碑は昭和二十年三月十日未明の
大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、
電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳
を最年少とする電話交換手二十八名及び男子
職員三名が最後まで職場を守り殉職された。
職員の霊と、関東大震災において殉職された
男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度と
このような悲劇の起こらないことを祈願して
昭和三十三年三月十日に建立されました。
 慰霊碑手前には吉川英治氏の自筆による
碑文があります。
   昭和五十九年三月十日
         墨田電話局

墨田電話局で生き残った元職員の富澤さんの言葉も刻まれている。

平和の尊さを
おろそかにしてはなりません
そして
世界の平和こそが
最大 最高の幸に
つながる事を
 平成13年2月10日没
 墨田電話局
 富澤きみ 92歳

殉職者御芳名

https://goo.gl/maps/9isxR2btxnoVZbGE8


戦災殉難諸精霊供養之碑
大震火災遭難者追悼之碑
 (能勢妙見山別院)

墨田電話局のあったNTT石原ビルから北東に3分ほど歩むと、「能勢妙見山別院」が鎮座している。
能勢妙見山別院は勝海舟の崇敬寺院であり、一度、本サイトでも勝海舟関連として取り上げたが、今回は別の話題でとり上げる。
能勢妙見山別院境内には、戦災殉難者の慰霊碑も建立されているのだ。

大震火災遭難者追悼之碑
昭和6年3月1日 東京市長永田秀次郎書

戦災殉難諸精霊供養之碑
昭和36年3月10日 東京都知事 東龍太郎

境内には勝海舟の胸像もある。

https://goo.gl/maps/mXxGbSm6LmoAE6p19


本所警察署の慰霊碑

本所警察署。ここには2つの慰霊碑がある。
「本所原庭警察署殉職警察官碑」と「大震火災相生警察署員殉職の碑」。
関東大震災で最大の犠牲を出した旧陸軍被服廠跡・横綱町公園は本所警察署の管轄であった。関東大震災と東京大空襲で殉職した警察官を慰霊している。

本所原庭警察署殉職警察官碑
 この碑は大正12年の関東大震災の業火の中で積極果敢多くの人々の救出誘導にあたり遂に尊い殉職をされた当時の本所原庭警察署和多警部補以下15名の勲功をたたえ翌年同署員によって現在の墨田区東駒形2丁目1番に所在した同署庁舎前に建立され以来制度改正により厩橋警察署となりさらに四署統合により本所警察署となった今日に至るまで連綿として警察精神の在るべき姿を教え諭してきた。
 このたび旧庁舎が取り壊しの運びとなったことからこの碑をこの地に移しあわせて明治13年凶悪犯人逮捕にあたって殉職された当時の第六方面第三分署永山巡査をはじめ昭和20年3月の東京大空襲の際の殉職者など29柱の御霊を合祀しその遺勲を後世に伝えようとの気運が盛りあがり管内有志の方々および署員の浄財によってここに本所原庭警察署殉職警察官碑を移設しその由来碑を建立したものである。
 殉職者氏名
  永山三月 水谷正助 楢崎善三郎 
  塗茂宗正 丸子善四郎 福澤一恵
  須川榮次郎 小野寺清志 岩元榮 
  溝永徳雄 山浦功 吉並雄太郎
  武次権太夫 小林庀伝治 刑部安治 
  川原一男 小野里幸三郎 白峯武雄
  榊原義夫 武井輝夫 佐原健次 
  高島四六 田中靖 花上市太郎
  寺島久俊 吉田良平 野澤昭三郎 
  石井孝治 小山寅之助
   昭和59年(1984)11月20日
    警視庁本所警察署 有志一同
    警視庁本所警察署管内 有志一同

大震火災相生警察署員殉職の碑
 この碑は大正12年9月1日の関東大震災においてここ本所一帯をなめつくした猛火の中で避難する人々を身を挺して救出せんとして多くの人々と共に尊い殉職をされた警視庁相生警察署山内署長以下34名の崇高にして警察精神の権化ともいうべき活動を後世に伝えるため昭和8年9月1日当本所警察署東南角に建立され現在に至るまで幾多署員にその行動の尊さを教え示してきたものであるがこれら殉職者の尊い教訓はただ単に署員の鑑のみとするものでなく広く墨田区民の方々に地震風水害等自然災害の猛威とこれら災害から身を護るにはいつにかかって平素の心構えと普段の準備がいかに大切な事柄であるかということを伝えもって防災意識高揚の一助とすることに役立つならば殉職者の霊にいささかなりとも報ゆることが出来るものとこの位置に移設したものである。
 さらに殉職碑を移設するに当って当本所警察署の前身である両国(旧相生)言問(旧向島)厩橋(旧原庭)太平四警察署の署員にして昭和20年3月10日この地における空襲において幼い子供を猛火からかばいつつ尊い殉職をされた両国警察署川原巡査ほか13名の戦災による殉職者も合祀するとともにこれら警察署管内に居住され戦災によって亡くなられた方々の霊を慰めこれら殉職殉難された多くの御霊の永く安らかならんことを心から祈るため管内有志の方々および署員の浄財によってここに大震火災相生警察署員殉職之碑を移設しその由来碑を建立したものである。
  昭和51年(1976)9月1日
 警視庁本所警察署
  大震火災相生警察署員殉職之碑
  移設同由来碑建立 有志一同
 大震火災相生警察署員殉職之碑
  移設同由来碑建立 有志一同

https://goo.gl/maps/XVHtroXgQf8utsKV6

関東大震災の慰霊碑と東京大空襲の慰霊碑が重なってしまうのが、墨田区の近代史でもあり。
合掌しながら歩む鎮魂の散策でもあり。


関連

東京大空襲・慰霊

まんしゅう母子地蔵と浅草寺の戦跡散策

浅草寺境内を戦跡を中心に散策してみました。


まんしゅう母子地蔵(母子地蔵

母子地蔵建立の由来
第二次世界大戦末期、ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(満州)で逃避行の末、命を落とした日本人は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑う母子が生き別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど、その悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会のかなわない親と子の心のよりどころとして、二度と戦 争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、ここに母子地蔵を建立いたしました。
 一九九七年四月十二日
   願主   千野誠治
   デザイン ちばてつや
   文字   森田拳次
 まんしゅう地蔵建立委員会
 まんしゅう地蔵建立応援団 
 中国残留孤児援護基金

像のデザインは、ちばてつや氏
題字と碑文は、森田拳次氏

満洲の赤い夕陽色の幟旗に囲まれた「まんしゅう母子地蔵」

雨の日の「母子地蔵」

雨が降ると、満洲の赤い夕陽色の幟旗はより濃厚となっていた。

以下は、新宿の「平和祈念展示資料館」戦後75年企画「ちばてつや×森田拳次 漫画家からのメッセージ」企画展より。
(令和2年8月12日~11月15日)

https://www.heiwakinen.go.jp/kikaku/20200720-1000/

母子地蔵 エスキース(複製)ちばてつや

母子地蔵
日本有数の観光地である東京の浅草寺の一角、仲見世を抜けた先、宝蔵門(仁王門)を正面に見て右手側に、「母子地蔵」と呼ばれる小さな親子像があります。
 その母子3人が寄り添った姿には、引き上げの際に死に別れた母子の霊を慰めるとともに、残留婦人や残留孤児となって生き別れた母子の心の拠り所となるように、との願いが込められています。像の建立にあたっては、「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」の元事務局長の千野誠治氏(故人)が発起人・願主、ちば氏が像のデザイン、森田氏が題字・碑文をそれぞれ担当しました。また、森田市の呼びかけで、引き揚げ漫画家14名による色紙販売が行われ、資金調達の一助とされました。
 多くの母子が離れ離れとなる場面を目の当たりにし、自身が残留孤児になってもおかしくはなかった、ちば・森田両氏のひとかたならぬ思いが、この像の建立につながったのです。毎年4月には、両氏を中心とした「日本漫画家事務局 八月十五日の会」による法要が営まれています。
 森田拳次

「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」はあきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横にも鎮座(1995年)。同じく、ちばてつや氏がデザイン。

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

https://search.ameba.jp/search/entry/%E6%AF%8D%E5%AD%90%E5%9C%B0%E8%94%B5.html?aid=chibatetsu

https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-12264010862.html


母子地蔵の裏側に。

戦災者供養 平和地蔵尊

平和地蔵尊由来記
第二次世界大戦はその規模においても、その被害においてもまことに甚大であった。ことに昭和二十年三月十日の大空襲には、この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ、世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため、昭和二十四年四月ここに安置された次第である。
 昭和24年4月
  龍郷 定雄 建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city003/index.html

龍郷 定雄 翁


旧五重塔跡

現在の五重塔の反対側。浅草神社側に。

旧五重塔跡
 五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。
 この場所は、江戸時代の慶安元年(一六四八)、徳川家光 によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。
 浅草の五重塔は、天慶五年(九四二)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。
 江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。
 また、歌川広重・歌川国芳 などの浮世絵の格好の画題としても全国にしられ、朱塗り・碧瓦(へきがわら)(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災で惜しくも焼失した。
 金龍寺 浅草寺


旧仁王門基礎石

旧仁王門基礎石
 慶安二年徳川家光 公により再建落慶した旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)が、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲 により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
 その後、現本堂に続き昭和三十九年(一九六四)四月一日仁王門を宝蔵門 と改めて同跡地に再建されました。
 この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘り出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
 石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約一・二m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約一・四m角、高さ約一m。この礎石の下部と周囲は十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
 江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。
 浅草寺


平和の時計

平和を祈る時計。五重塔を上回る九重塔の平和の時計。
浅草ライオンズクラブ建立。


水吹きイチョウ

銀杏の木が火災の際に水を吹き出すことで消火に役立ったとされ「水吹きイチョウ」「霧吹きイチョウ」の伝承を残し、多くの寺社で銀杏が植えられていた。これは銀杏の葉には多くの水分が踏まれていることによるものという。
浅草寺にも多くのイチョウが植えられており、関東大震災、そして東京大空襲でも、樹肌を焼かれながらも防火に活躍した。


浅草寺の神木「いちょう」

浅草寺の神木・いちょう
 浅草寺本堂東南に位置するこのいちょう は、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。
 昭和五年に当時の文部省より天然記念物 に指定されたが、昭和二十年三月十日の戦災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。
 金龍山 浅草寺

今も残る痛ましい焦げ跡。東京大空襲の爪痕。


浅草大平和塔

浅草寺淡島堂の境内に。

建立当時はこの5倍ほどのそびえていたが、いつしか改修されて小さくなった。2016年頃の写真では「大平和塔」であったが、今では「大」とは言い難い規模。(改修時期や理由などは確認し忘れました。)

かつての姿を、参考までに総務省サイト内の写真を以下に。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city004/index.html

東京大空襲後の浅草

浅草駅や神谷バー、仲見世、厩橋や吾妻橋などが確認できる。

みたまよ
 とこしえに
  安らかに
われら守らん
 世界の和

 湯川秀樹

建設趣意書
 思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、 一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
  以て瞑せられよ。
  昭和三十八年八月十五日
   浅草大平和塔維持会


浅草寺淡島堂の境内に。

戦没供養地蔵尊

戰災靈供羪
地蔵大菩薩
浅草寺恭順拜書

昭和二十年三月十日

建 立 旧浅草藝妓屋組合
後 援 淺草三業會
建立日 昭和三十七年三月十日


浅草寺淡島堂の境内に。

天水桶

天水桶
 太平洋戦争が激しくなってきた、昭和十八年(一九四三)十一月十八日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音様をお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに埋めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
 戦後の昭和二十二年(一九四七)三月七日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
 明和七年(一七七〇)造立。
  金龍山 浅草寺


浅草寺

以上、浅草寺境内の戦跡散策でした。

東京大空襲・慰霊

東京大空襲・慰霊

撮影:平成29年3月及び平成30年3月

昭和20年(1945)3月10日
「東京大空襲」
罹災者は100万人を超え、死者は7万から10万人以上といわれている…

3月10日。
毎年この日には、墨田区横網町公園「東京都慰霊堂」や台東区隅田公園「戦災により亡くなられた方々の碑」をはじめ、都内各所にて東京大空襲に関連した追悼慰霊行事がある。

慰霊鎮魂の日

合掌

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html


言問橋

東京大空襲の際、浅草方面及び向島方面へ避難する人々などが、橋の上で交叉し身動きがとれない状態となってしまった。
それは、浅草(台東区)と本所深川(墨田区)とそれぞれの住民が川の向こう岸は安全だと信じて、火を逃れ対岸に逃げるために橋に殺到したためだった。
そうこうしているうちに橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。

石柱には黒焦げた跡が残る・・・


言問橋の欄干と縁石

江戸東京博物館には、言問橋の欄干と縁石が保存されている。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人びとだけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ日が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。


関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑

場所は変わって隅田川の下流、東京湾のかつての防波堤。

賑わう「台場公園」の片隅にヒッソリとある石碑。

関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑
東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
 これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
 いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
 平成六年三月吉日  東京都港湾局


東京都慰霊堂(横綱町公園)
旧陸軍被服廠跡地

墨田区・都立横網町公園
「東京都の歴史的建造物」選定

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

伊東忠太設計。
昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨も納め、死亡者の霊を合祀。昭和26年に現在の姿に。仏教各宗により慰霊祭祀されている。

当地は元々「陸軍被服廠」があったが1922年に赤羽に移転し、東京市が買収し公園として整備しているさなかに関東大震災が発生。造成中の横網町公園に避難していた3万8千人が犠牲となり、昭和5年に震災記念堂が創建。

200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41m。基部が納骨堂。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
多くの公園や寺院などに犠牲者が仮埋葬。終戦後に身元不明の遺骨などを「震災記念堂」納骨堂を拡張し合祀。
昭和26年(1951年)に「東京都慰霊堂」と改称され現在に至る。
祭壇には震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した位牌が2基祀られている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都


震災遭難児童弔魂像

震災遭難児童弔魂像
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5000人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に制作を依頼、昭和6(1931)年5月16日に除幕式が行われました。
 その後、像部分は、昭和19(1944)年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36(1961)年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津山昌平、山畑阿利一両氏に制作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。(略


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲
となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
 平成13年3月 東京都

内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、3月10日と9月1日の法要の際は、内部公開も行われる。

花壇のレイアウトデザインは、都度都度かわるという。


東京都復興記念館

震災記念堂(東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年に建立。
「東京都の歴史的建造物」選定。

https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

(上記サイトより引用)
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年11月~31年3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
現在は、外壁の改修に着手していて、特徴あるテラコッタ仕上げなどの修復をしています。

摩耗していた怪獣は、復元リニューアル(令和3年3月撮影)

復興記念館館内

昭和4年開催 帝都復興展覧会出品模型
第二号幹線九段坂付近(靖國神社前) 復興局出品


築地本願寺慈光院

東京都慰霊堂のある墨田区横網町公園の南隣に。
陸軍本所被服廠跡にたつ寺院。

震災慰霊。
関東大震災を祈念して建立された寺院。
境内の梵鐘は、関東大震災および第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ。3月10日には、戦災記念追悼法要・東日本大震災追悼法要が斎行される。


なお、東京大空襲に際して、軍人・軍属の犠牲者は「東京都戦没者霊苑」において慰霊追悼している。

東京都戦没者霊苑


東京大空襲関連

戦災電柱

本記事は、ひとまず

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

戦災電柱

平成29年11月撮影 台東区三筋町

台東区三筋の住宅地のなかに残る戦跡。

昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。

場所→台東区三筋1ー13ー12
https://goo.gl/maps/h4N11AgjgHu …

第二次世界大戦下の1945(昭和20)年3月10日、米軍機B29による東京大空襲で、10万人以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海となりました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻みこまれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起こした戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。
 Mar 101988 焼け残った電柱を保存する会

台東区三筋町の住宅地のなかに残る戦跡。
昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。
交差点の向こうにみえる赤い鳥居は「梅森稲荷神社」


黒焦げの電柱(複製)

現地に保存されている電柱の複製が、江戸東京博物館に保存されている。

 台東区三筋1-13の交差点角に立っていた電柱で、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で被災したものである。高さは本来7mほどあったが、焼けて半分ほどになってしまった上に、黒く炭化してしまった。
 戦後は街路灯として使用されていたが、付近の交通が頻繁になり、撤去することになった。しかし空襲の記憶を語り継ぐ資料として現地保存されていた。
 1995年(平成7)、当館に収蔵された。


関連

東京大空襲・慰霊