「人物史」カテゴリーアーカイブ

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)

東京都荒川区。
南千住にかつて被服製造の官営工場があった。
近代化を推し進める明治新政府にとって、軍服や制服といった洋装は輸入に頼っており、その国産化が急がれていた。

明治8年(1875)に千葉県に羊牧場が設けられ羊毛の生産が開始。
旧長州藩士の井上省三が被服製造技術を学ぶためにドイツ留学し、その帰国を待って明治12年(1879)に東京南千住に官営工場「千住製絨所」が完成し、操業開始した。

日本の羊毛工業・毛織物工業は、南千住から始まったのだ。


井上省三(いのうえせいぞう)
「日本毛織物工業の父」
「日本羊毛工業の父」

旧長州藩士。萩藩厚狭毛利氏家臣。奇兵隊隊長として倒幕に活躍。
明治4年(1871)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学。兵学から工業に転向し猛職技術を修得。
明治8年に帰国し内務省勧業寮へ配属。その後、再度の欧州留学を行い帰国後の明治12年に官営千住製絨所の初代所長に就任。
明治19年(1886)、病死。享年42歳。

千住製絨所

明治12年に南千住で官営千住製絨所として創業を開始。
初代所長は井上省三。
明治21年(1888)からは陸軍省の管轄となり工場を拡張。陸軍所要の軍服などを生産管理した。陸軍省管轄ではあっても陸軍大臣の認可でもって、他官庁や民間からの製造依頼や研究依頼、技術指導や技術者養成なども行い、国内繊維・被服産業に大いに貢献。

昭和20年、敗戦により操業停止。民間地元企業の大和毛織に売却。しかし大和毛織は業績不振により昭和35年(1960)に操業停止となり閉鎖。こうして千住製絨所以来の被服生産は80余年で幕を引いた。
その後、跡地は大映がオーナーとなっていた大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地球場「東京スタジアム」などが建設されるが、東京スタジアムは昭和47年に閉鎖され撤去。
現在は、荒川区総合スポーツセンター、警視庁南千住警察署、東京都立荒川工業高等学校、ライフ南千住店などに姿を変えている。


井上省三像(井上省三胸像)

昭和11年(1936)12月14日に井上省三没後50年を記念して、千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された。

左右には羊の彫刻。
羊毛工業の父、ゆえに。

かつては、もうひとまわり大きな台座であったことが除幕式当時の写真で垣間見ることができる。

参考

https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202002/yamaguchigaku/index.html

井上省三像の隣りにあるモニュメント。特に説明がないので詳細は不明だが、当時の建造物の一部?かもしれない。
薄れかかった文字には以下の記載。

 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。


井上省三君碑

さらに隣には、井上省三を讃える碑も建立されていた。

井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
  荒川区教育委員会

井上省三君碑の扁額は青木周蔵の書。

https://goo.gl/maps/oZ95YzKkdFdRbAZ59


位置関係

国土交通省国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
昭和19年(1944)11月07日、日本陸軍撮影。

上記航空写真を一部加工。クリックで拡大可。

「千住製絨所」の北側、隅田川の対岸には「日本皮革株式会社の工場」があった。現在の「ニッピ」。

現在の様子。GoogleMap航空写真より。


千住製絨所のレンガ壁(都立荒川工業高校)

井上省三の碑からそのまま「若宮八幡通り」を道なりに北上をする。
右手に都立荒川工業高校の壁がみえてくる。この煉瓦壁が、当時の千住製絨所の壁でもあるのだ。

千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
  荒川区教育委員会

レンガ壁の途中に不自然なコンクリート。かつてこの場所に出入り口を作ったのであろうか。

この先もかつては壁が続いていた・・・


千住製絨所のレンガ壁(ライフ南千住店)

ライフ南千住店の駐輪場。その駐輪場の出入り口の脇に「レンガ壁」が残されていた。これも当時の千住製絨所の名残。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
  平成22年10月 荒川区教育委員会

三段に飛び出した上部の造形が美しい。

煉瓦塀を保護するために設けられた車止めの一部

正門の袖柱の一部

正門の左側が現存部分とされる。

内側からも美しい造形。

https://goo.gl/maps/3FT5bBLf1vw4HCQa8


その他、荒川区界隈の記事。

彰義隊の墓(円通寺・荒川区)

彰義隊の墓は上野公園にもある。その上野公園の彰義隊の墓は、上野山内に放置されていた遺体を「円通寺」の住職仏磨らによって茶毘に付され、そうして円通寺に埋葬したことに由縁する。

上野公園の彰義隊の墓は下記より。


彰義隊

慶応4年(1868)
1月
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北。
江戸に帰還した渋沢成一郎が「彰義隊」を結成する。
 彰義隊頭取(隊長)   渋沢成一郎
 彰義隊副頭取(副隊長) 天野八郎

3月
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城を決定。

4月
徳川慶喜が江戸を離れ水戸に謹慎。慶喜を警護すべく、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、天野八郎と意見が対立し、渋沢成一郎は彰義隊を脱退。天野八郎が彰義隊を率いる。(渋沢成一郎は振武軍を結成し、最終的には榎本武揚と合流し函館戦争を戦う)

5月15日
新政府軍は旧幕府軍・彰義隊の武力殲滅を目指し彰義隊に宣戦布告。
午前7時頃に戦闘が始まり、午後5時には新政府軍の勝利戦闘は終わった。

上野戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。
現在、上野公園内と円通寺に彰義隊の墓があるゆえんである。

円通寺は明治時代において、旧幕府軍の法要可能な寺院として旧幕臣の信仰を集めることとなった。

彰義隊戦死者の墓

戦死墓

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊士の墓
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会

死節之墓

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘にて、鳥羽・伏見、会津、函館、戊辰戦争などで戦死した旧幕臣の戦死者を供養していたが、円通寺に移設し、彰義隊と合わせて供養することとなったという。


こうして円通寺は彰義隊の供養を行った寺であったために旧幕臣関連の信仰が篤く、旧幕臣ゆかりの人々の碑も多く建てられることとなった。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑

明治44年6月15日没。明治44年7月に有志によって建立。
大鳥圭介は旧幕臣としては歩兵奉行を務める。旧幕府内でフランス陸軍の指導を受けた西洋式軍隊であった「伝習隊」を率いて戊辰戦争に参加。榎本武揚と合流して函館政権の陸軍奉行。
明治維新後は政治家・外交官・教育者など各方面で活躍。明治44年6月15日没。

天野八郎墓

渋沢成一郎が抜けたあと、上野戦争の彰義隊を「頭取(隊長)」として率いたのが天野八郎であった。新政府軍に敗れ再起を図っていたが、囚われの身となり獄中5ヶ月で病死。享年38歳。

俗名 天野八郎

天野君八郎碑

扁額は榎本武揚書

新門辰五郎碑

新門辰五郎は町火消の頭であったが侠客として著名。娘は徳川慶喜の妾。慶喜の警備なども担当する。
彰義隊が戦った上野戦争では、既に71歳であったが寛永寺の防火と鎮火、延焼防止などを勤めるも、大村益次郎率いる申請軍軍の砲火により寛永寺の伽藍は焼失。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。墓所は豊島区の盛雲寺。

三幸翁之碑

寛永寺御用商人三河屋幸三郎。明治23年建立。

上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

二十三世仏磨大和尚之墓

円通寺23世住職。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

土肥庄次郎之碑

碑は榎本武揚書。
旧幕臣。彰義隊に参戦。上野戦争で壊滅後に榎本武揚艦隊に合流。咸臨丸に乗船するも暴風雨にて本隊とはぐれ清水港入港。函館戦争には参加できなかった。以後は幇間として活動し、明治36年死去。

碑は2つに割れてしまっていた。

土肥氏之墓

中田正廣之碑

碑は榎本武揚書。碑文は山岡鉄舟の長男である山岡直記。
旧幕臣。慶応4(1868)年3月に江戸開城に激怒し江戸を離れる。
幕府撤兵隊(上総義軍)に参加し木更津の戦いで戦死。享年33歳。

小芝長之助墓

旧幕臣。将軍家御庭番。蝦夷共和国探索役主任、箱館市中取締頭取格。
土方歳三戦死に際しては遺骸を引き取る役目を担った。
晩年は円通寺の墓守として旧幕臣を見守り続けた。
大正5年死去。享年88歳。

佐久間貞一君記念之松

旧幕臣。彰義隊に参加するも徳川慶喜の水戸蟄居に同行したために上野戦争には参加しなかった。
明治期には財界で活躍し大日本印刷の前身となる秀英舎を創業。
「日本のロバート・オウエン」とも称された。
碑は明治33年5月13日建立。

町野五八君追弔碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦。大鳥圭介・土方歳三らの下で蝦夷共和国陸軍奉行添役を勤める。大正 5年3月8日に没。碑は 5月に建立。

澤太郎左衛門君記念之松

旧幕臣。蝦夷共和国開拓奉行。
長男は、海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞。
明治期には海軍教官を勤める。明治31年死去、享年65歳。
日本海軍初の海上砲の操砲訓練を行ったのが澤太郎左衛門という。
また、澤太郎左衛門が輸入発注手配した圧磨機圧輪が板橋火薬製造所で使用され、加賀西公園に「圧磨機圧輪記念碑」として残さている。

相馬翁輔君之碑

彰義隊隊士。一橋相馬家。結城戦争で戦死。
墓所は相馬家の菩提寺・牛込松源寺。

佐野豊三郎君之墓

旧幕臣。彰義隊士。
上野戦争で敗走後、箱館に渡る。
函館市中での借金トラブルから、明治元年12月27日に切腹。
佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治 29年 6月に建立

松平太郎君之墓

旧幕臣。陸軍奉行並。陸軍総裁であった勝海舟の下で旧幕府軍をまとめる立場であったが、大鳥圭介や榎本武揚と合流。蝦夷共和国副総裁。
明治期は不遇であった。明治42年5月24日死去。享年71歳。

永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

永井尚志は旧幕臣旗本。京都町奉行。大目付。戊辰戦争では榎本武揚と行動をともにし、蝦夷共和国の箱館奉行。
明治24年7月1日死去、享年76歳。
永井岩之丞は永井尚志の養子。養父とともに函館戦争に参加。明治期は裁判官として活躍。明治40年5月25日死去、享年63歳。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑

木下福治郎・鷹羽玄道(上原仙之助)は兄弟。
上野戦争のち、榎本武揚と合流し、函館で彰義隊メンバーを取りまとめる。
木下は明治13年に42歳で没し、弟の鷹羽は明治44年に69歳で没している。
追悼碑は鷹羽が亡くなった年に、娘・登宇によって建立。

樵村丸毛君碑

旧幕臣、彰義隊隊士。丸毛利恒。
上野戦争敗走後は榎本武揚と合流し函館戦争に参加。
明治期は横浜税関などに勤務。明治38年8月6日死去、享年55歳。
扁額は榎本武揚書。

合同舩

彰義隊士八人合同慰霊碑。
山田八郎(遊軍隊組頭のちの十六番隊組頭)
松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)
大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並・大塚霍之丞)
小林一知(旧幕府軍最後の咸臨丸艦長)
西村賢八郎(十八番隊組頭)
前野利正(第一赤隊伍長)
羽山寛一
百井求之助(会計係)

彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

旧幕臣、御書院番。
彰義隊に入隊し、慶応 4年 5月 15日の上野戦争にて上野山王台で戦死。
実弟の後藤鉄郎が建立。

旧幕府徳川之臣御書院番
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上野山王台戦死

大澤常正の句碑

さがるほど 見あげる人や ふぢの花

大澤常正は彰義隊士の世話人を務めた弁護士。
諸霊追悼のため、明治四十三年5月15日建立。

荒井郁之助君追弔碑

旧幕臣。蝦夷共和国海軍奉行。
明治期には官僚となり、初代中央気象台長。ちなみに二代目が旧幕府軍最後の咸臨丸艦長であった小林一知。
明治42年7月19日死去。享年73歳。

高松凌雲君追弔碑

一橋家の専属医師であったが、慶喜が将軍となると幕府奥詰医師として登用。
榎本武揚に合流し、箱館戦争には医師として参戦。箱館病院院長。
箱館病院院長として敵味方問わず戦傷者を治療。日本ではじめての赤十字活動とされている。
明治新政府の評価も高かったが、新政府の誘いを断り民間の町医者として活動。
大正5年10月12日死去、享年79歳。墓所は谷中墓地。

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

旧幕臣。幕府海軍指揮官。蝦夷共和国総裁。
函館戦争敗北後に明治政府に任官。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。東京農業大学の前身を創立などもしている。
明治41年10月26日死去、享年72歳。

良馬之碑

扁額は立花種恭(陸奥国下手渡藩主・貴族院議員)
三池立花藩の流れをくむ立花種恭は、旧幕府では外国奉行・老中格の会計総裁などを努めた。

戊辰戦争の際に彰義隊に下された名馬「八重垣」
犠牲になった名馬の霊も祀る。
明治32年建立。

有縁諸霊之碑

彰義隊隊士の霊を祀る。大正9年4月15日建立。


円通寺には、上野戦争での激戦地であった移築された「黒門」の奥に、旧幕臣ゆかりの墓や追悼碑が所狭しと集まっている。


上野の黒門

上野戦争で彰義隊と新政府軍が激戦を繰り広げた黒門が円通寺に移築されている。彰義隊供養のゆかりゆえであった。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門
 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

今も残る黒門には、銃痕が多数残されている。


円通寺

東京都荒川区南千住鎮座。曹洞宗寺院。
伝承によると坂上田村麻呂によって建立という。

八幡太郎義家が供養のために築いた、小塚原の地名のもととなった「四十八首塚」。


磯部浅一墓(二・二六事件)

南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。

磯部浅一

明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。

昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。

昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)

二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。

昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。

辞世の句
 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ

磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。

磯部浅一墓

磯部浅一 之墓
妻登美子 

浅一  昭和十二年八月十九日歿
    行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
    行年二十八歳

歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌

以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。

豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)

小塚原刑場

観臓記念碑

解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。

境内には歴史上の著名人の墓も多い。

橋本左内墓(橋本景岳墓)

吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)

頼三樹三郎墓(鴨崖墓)

鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓

意外なところでは、

カール・ゴッチ墓

プロレスの神様

Never lie , never cheat , never quit. 
技術と精神は常に一緒だ 
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな

ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。


関連

「日本の航空事始め・その1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

「明治の工業の父」近代硝子工業発祥之地と西村勝三墓

品川の東海寺大山墓地の入口にある史跡。
「史蹟 官営品川硝子製作所跡」「近代硝子工業発祥之地」

日本の近代ガラス工業は、この品川からはじまったのだ。

史蹟 官営品川硝子製作所跡

近代硝子工業発祥之地

明治維新後の文明開化に伴い、莫大な輸入超過に陥っていた明治政府は、西洋技術を取り入れて産業の国産化を目指していた。

明治6年(1873)太政大臣三条実美は、家令丹羽正庸の提案により、東海寺境内に日本初の板ガラス製造工場「興業社」を設立するも失敗。

明治9年(1876)、工部省」は興業社を買収し、官営「品川硝子製作所」として再生。産業育成と技術者養成を目的とし、赤字覚悟の出資をすすめ、ガラス製造や洋食器の製造を推進。

明治17年(1884)、大量の在庫をかかえ、板ガラス製造に失敗し経営不振が続いていた明治政府は、「品川硝子製作所」を西村勝三に貸し下げ、翌年には払い下げを行い、民営工場となる。

明治21年(1888)に、「品川硝子製造所」は業務拡張に伴い「品川硝子」として新たに発足。麒麟麦酒の発売に伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を手掛ける。
しかし世界恐慌と板ガラス製造失敗の影響により、明治25年(1892)11月に解散。
品川硝子のガラス工場としての命運は20年でしかなかったが、この工場が日本のガラス産業に与えた影響は大きく、のちに日本初のステンドグラスを製造した岩城硝子(iwaki/AGCテクノグラス)の岩城滝次郎や、品川硝子では完成できなかった日本初の板ガラスの商品化を明治35年に完成させた島田硝子(東洋ガラス)の島田孫市も、この品川硝子の出身者であった。
当時の品川硝子のレンガ造りの建物は愛知県の明治村に移築されている。

近代硝子工業發祥之地
 此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ
 其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ
 吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル
 昭和四十年十二月

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
  所在 北品川四丁目十一番五号 三共株式会社
  指定 昭和五十三年十一月二十二日 (第八号)
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。
 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
 平成六年三月三十一日
  品川区教育委員会

珪石 ガラス原料

西村勝三

「明治の工業の父」「製靴業の祖」とも称される西村勝三(1837-1907)

  • 明治3年、日本初の西洋靴を制作(伊勢勝造靴場)
  • 明治4年、日本初のニット工業機械編み(靴下)の製造開始
  • 明治5年、日本初の近代クラブを開設(ナショナル・クラブ)
  • 明治8年、耐火煉瓦の製造開始(品川白煉瓦)
  • 明治21年、日本初のビール瓶大量生産(品川硝子/麒麟麦酒向け)

西村勝三は、天保7年12月9日(1837年1月15日)佐倉藩支藩の佐野藩付家老の子として生まれる。兄はのちに貴族院議員となる西村茂樹。
佐野藩で砲術助教を勤め、幕府の海軍伝習所へ応募するも不合格となり脱藩。幕末の動乱のなかで銃砲弾薬商として銃器の売買を行うなかで実業家へと目覚めていく。
慶応元年(1865)、日本橋に鉄砲店を開業。屋号を「伊勢屋」とし伊勢屋勝三と改名。幕府側・幕臣にしか銃を売らないことが大村益次郎の目にとまり、大村益次郎の信頼を得る。

明治3年(1870)、かねてより懇意であった大村益次郎に軍政改革の一環として日本人向けの西洋靴の開発相談を受けていた勝三は、日本人の脚にあう西洋靴の開発に成功し、東京築地に近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を開業。この開業日3月15日は「靴の記念日」となっている。また靴工場とあわせて「伊勢勝製革所」も開設。

大村益次郎は日本の近代靴が大量生産される前に、明治2年11月5日に不慮の死を迎えてしまう。大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴全廃へと繋がり、「伊勢勝造靴場」は一躍発展をしていくことになる。
「伊勢勝造靴場」は、明治17年に西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称。
明治35年に「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「株式会社リーガルコーポレーション」へ。
明治40年に「伊勢勝製革所」は「日本皮革株式会社」となり、現在の「株式会社ニッピ」へ。
いずれも西村勝三が創業したニッピとリーガルコーポレーションは、今も相互がそれぞれの筆頭株主の関係。

明治4年(1871)、西村勝三が数台の編機を輸入して、メリヤス(靴下)を製造したのが、日本におけるニット工業機械編みの始まりでもあった。

明治5年(1872)、西村勝三はヨーロッパのクラブを模範とし、築地に開設した「ナショナルクラブ」が日本におけるクラブの最初という。

明治8年(1875)、いくつかので成功をしていた西村勝三は、文明開化の象徴であった「瓦斯燈(ガス灯)」のためのガス発生炉用耐火煉瓦を国産品で賄うために、東京芝浦に「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。
明治17年「官営品川硝子製作所」の払い下げを受け、明治20年に品川硝子製作所に「品川白煉瓦」を移転設立。(白煉瓦とは耐火煉瓦のこと。建築用煉瓦は赤煉瓦と呼称。)
品川白煉瓦は、耐火煉瓦の国産化をすすめるとともに、建築用の装飾煉瓦も製造し、東京駅の赤レンガ外壁部を品川白煉瓦が納入している。(構造部の煉瓦は日本煉瓦製造株式会社・深谷市。平成24年の再建時のレンガはLIXILが納入。)
品川白煉瓦株式会社は、現在の「品川リフラクトリーズ株式会社」

明治9年、東京瓦斯局副事務長に西村勝三が就任。事務長は渋沢栄一。ガス事業は東京府から明治18年に民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へ。

明治40年、盲腸炎がもとで逝去。享年72歳。明治の近代化経済を支えた男は、東海寺大山墓地に墓所がある。
また、出身の佐倉市の佐倉市民体育館前に銅像もある(未訪問)

西村勝三墓

墓はガラス工場とゆかりのある品川東海寺大山墓地にある。

 

西村勝三に関しては、以下のサイトが良くまとまっている。

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-01-31-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-03-19-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-05-09-001/


靴業発祥の地

明治3年(1870)3月15日に、西村勝三が日本初の近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を創建したのが、この地であった。現在の地下鉄有楽町線の新富町駅・7番出入口の隣。

靴業発祥の地
 明治三年(一八七〇)三月十五日、西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋沢栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す
  昭和六十年(一九八五)三月十五日
   日本靴連盟
    題字 堀田正久 書


銅像堀公園

かつて、西村勝三の像が隅田川の近くの公園にあったという。
明治40年に、功績を讃えて銅像が建立されたというが、戦時供出で撤去され戦後に石像が再建されるも昭和40年に撤去され、今は銅像があった名前だけが残っている。

https://goo.gl/maps/WrmnXTUsZmK9JSVx5


東海寺大山墓地

なお、東海寺大山墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあるので、簡単に写真だけご紹介。

沢庵和尚 沢庵墓


賀茂真淵墓

荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人のひとり。


東海寺大山墓地にある井上勝墓は別記事にて。

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

鈴木貫太郎邸跡

現在の文京区千石3丁目。不忍通りの猫又坂に名残の石垣だけが残っている。
当時は丸山町と呼称された地域。
この地に、終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎の私邸があった。

昭和20年8月15日、鈴木貫太郎は終戦反対派に襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。(宮城事件)

戦後、鈴木貫太郎は生まれ故郷の関宿に隠棲。関宿の邸宅跡地は鈴木貫太郎記念館となっている。
文京区の私邸は長男の鈴木一がこの地に居住していたが、孫の代にマンションへと姿を変えており、残された石垣が往時の姿を伝えていた。

もしかしたらマンションの後ろの樹木は、鈴木貫太郎邸の頃からの樹木かもしれない。

石垣だけは、鈴木貫太郎時代から変わらない佇まい。

開戦時の総理大臣・東条英機邸宅跡は何も残っていなかったが、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎の邸宅跡は石垣が残っているだけ、史跡として救いがあった。

東条英機邸跡

伊藤博文公墓所

平成29年11月参拝・ 東京都品川区西大井6-10-18

毎年11月3日「文化の日」前後に数日間のみ一般公開されている。
通常非公開。

その限られた一般公開の日。
JR西大井駅の近く。
ちょうど時間もあり良い機会でしたので、平成29年11月5日(日曜日)に詣でておりました。

伊藤博文

初代総理大臣。
明治42年(1909))10月26日にロシア蔵相と会談のために中国徳北部ハルビン訪問中に朝鮮独立運動家安重根に狙撃されて69歳で没。
11月4日に日比谷公園で国葬。
伊藤博文の別邸(後述)の近くであったこの地に埋葬された。

伊藤博文公胸像
伊藤博文公生誕百年記念 紀元2600年10月16日建立

大正八年十月二十六日丁伊藤公十周年祭左記
諸氏以墓前道路狭窄相謀購傍近民有地二十余
坪得東京府庁允可拡張合於公道以為記念
 子爵 伊東已代治 男爵 林権助 子爵 金子堅太郎
 頭本元貞 鍋島桂次郎 室田義文 小宮三保松
 小山善 安楽兼道 鮫島武之助

「上がり藤」
伊藤家の家紋

門柱は明治43年10月造
貴族院有志による建立。もともとは伊藤博文公の墓所敷石の鳥居であったが、担当大震災で倒壊し、その後に門柱に再利用されたものという。

大勲位伊藤博文公墓所
大正13年甲子5月1日

伊藤博文公墓所

伊藤博文公墓所
神式の円墳は高さ約2m。
従一位大勲位公爵伊藤博文墓
明治42年十月26日薨

従一位大勲位公爵伊藤博文墓

明治四十二年十月二十六日薨

石垣は明治43年に奉納。韓国統監府の職員などによる。

品川区指定史跡
伊藤博文墓所

 伊藤博文は、天保十二年(1841)に長州藩(山口県)の武士の子として生まれ、松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ。若くしてイギリスに遊学し、帰国後は海外の状勢をもとに、新政府の樹立に力を尽した。
 明治の新政府では要職を歴任し、その間に三度も欧米諸国を巡って各国の制度を視察して、憲法制度や行政組織などの内閣制度の基礎をつくった。明治十八年(1885)にわが国初の総理大臣となり、長期間にわたって国政の発展に貢献した。
 明治四十二年(1909)十月に、中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって狙撃され、六十九歳で没した。
 平成8年3月31日
 品川区教育委員会

伊藤梅子墓

隣には伊藤博文夫人、梅子の墓所。

伊藤梅子
初の内閣総理大臣夫人
伊藤博文公が暗殺されれた際には
「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」
と詠んだという。
1924年4月12日に死去

末松謙澄夫妻の祠
 伊藤博文公墓所の祠

末松謙澄夫妻を祀るという。
末松謙澄夫人は、伊藤博文の次女、生子。

水盤

上がり藤の伊藤家家紋が描かれた水盤。
明治43年10月26日に奉納、福岡県 貝島大助

参道には多くの灯籠が林立している。

勤施四方
立憲政友会

明光上下
立憲政友会

墓所の隣は墓守さんのお宅でしょうか。敷地内には邸宅もありました。それゆえの制限付き一般公開なのかな、とも。
墓所参道には時代を物語る公爵子爵等により奉納された灯篭が林立。伊藤博文公への追慕の念を感じさせる空間でした。

しながわ観光協会>伊藤博文公墓所

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/itouhirobumikumonjo/


近くには伊藤博文を偲ぶものが残されている。

品川区立伊藤学園の旧正門・伊藤門
(伊藤博文公宅の門柱と門扉)

「品川区立伊藤学園の旧正門」
旧正門は、昭和25年に伊藤博文公宅から譲り受けた門柱と門扉。
晩年をこの地で過ごし、没後この地へ埋葬された伊藤博文にちなみ、界隈はかつて伊藤町と呼称されていた。

伊藤学園の門
艱難辛苦に挑む
気迫あふれる
少年少女だけが
この門をくぐる
ことができる


伊藤博文公別邸跡

この地には平成10年まで伊藤博文別邸があった
(老朽化のため解体。別邸の一部は山口県萩市に移築)
今は再開発で当時の面影なく…

伊藤博文公別邸跡
 この解説板の南側一帯の広大な敷地(地図参照】は初代内閣総理大臣となった伊藤博文の別邸跡にあたります。明治40年(1907)、大日本帝国憲法制定に功績があった伊藤に対して、明治天皇から憲法草案の審議場であった元赤坂仮皇居会食所の建物と、移築費として2万1千円が下賜されました。伊藤は東京府荏原郡大井村のこの地に約五千坪の土地を購入して移築し、「恩賜館」と名づけました。
 その後、恩賜館の隣には和洋館並列型の二階建て邸宅が建てられ、伊藤の嗣子・博邦一家が居住しました。伊藤没後、大正7年(1918)に恩賜館は明治神宮に献納され、「憲法記念館」と呼ばれ皇室関係の行事に使用されました。昭和22年(1947)からは、明治神宮の結婚式場「明治記念館」として一般に利用されています。
 和洋館の邸宅と敷地は、大正11年に上杉伯爵家へ譲渡され、昭和19年には日本光学工業(株)の所有となりました。平成10年(1998)老朽化のため解体され、邸宅の一部は山口県萩市に移築・公開されています。
 平成27年12月25日
 品川区教育委員会

品川に残る伊藤博文公ゆかりの地でした。


付記:

伊藤博文像(国会議事堂)

きちんと撮影できていませんでした。形だけ写真を。。。

国会議事堂は撮影2017年5月


阿川弘之を偲ぶ(阿川弘之墓)

令和元年11月参拝
鎌倉・浄智寺

阿川弘之墓(阿川家之墓)

海自第2術科学校にて「井上成美 海軍大将」に関する講話と初公開の肉声テープを拝聴した帰路に。

「井上成美」といえば、で、
海軍提督三部作(山本五十六・米内光政・井上成美)を描いた阿川先生のことをふと思い出し、北鎌倉の浄智寺の墓前に参拝させていただきました。

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

紅葉が深まりつつ有る浄智寺の境内で。
観光客の雑踏が届かない墓苑の高台に鎮座する阿川先生の墓前に、静かに拝する。
合掌

阿川先生!また、参りますね

軍艦長門

軍艦長門の碑
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)

山本五十六

雲の墓標ゆかりの百里原

井上成美

米内さんの本の写真も撮らないと・・・(あとで

【封鎖中】児玉神社(江ノ島)

令和元年11月参拝

ちょっと最近、気になっていた児玉神社さんに参拝してきました。

ここでは深くは言及しませんが、再建の資金繰りも悪化しているところに台風被害などもあり、なかなか厳しい状況のようですので、この記事を目にしていただきました皆様も機会ありましたら是非に参拝を。。。

令和3年(2021)春に、境内地は封鎖。
石碑や社号標などにはブルーシートがかけられ、所有者によって「立入禁止」となりました。。。

以下、コメントをいただきましたので、一部記載内容を更新しました。

鵠沼在住の藤沢市民です。
残念なことに2020年、江ノ島児玉神社は競売により人手に渡りました。
現在は大鳥居だけはそのままですが、数々の石碑、掲示板などはブルーシートで覆われ、人目を拒んでいます。山道入り口は鉄扉が固く閉じられ、「立入厳禁・所有者」の貼紙が掲げられています。歴史的記念碑や台湾からの寄贈の物品などはどうなるのかとても心配です。

littleball より:2021年7月16日 9:13 AM(編集)

児玉神社

御祭神 児玉源太郎命

児玉源太郎(1852~1906)
明治政府及び明治陸軍の中枢で活躍。
日露戦争では満州軍総参謀長として日本の勝利に貢献。文部大臣・内務大臣・陸軍大臣なども歴任。第4代台湾総督も務める。
日露戦争開戦前は、台湾総督兼内務大臣であったが、参謀総長大山巌から請われて内務大臣を辞して、降格人事となる参謀本部次長に就任。日本陸軍史上で唯一となる降格人事を了承した例ともなった。

日露戦争直前のころ、参謀本部次長に就任した児玉源太郎は週末は鎌倉の別荘で静養をしていた。しかし面会希望者が殺到したために、江ノ島の山中に退避していたという。いつしか江ノ島にも面会希望者の面々(陸軍や政府の要人たち)が押し寄せるために、江ノ島町内では、誰が山中に籠もっているのかといぶかしんでいると、それが児玉源太郎であった知り、江ノ島町民は大いに徳としたという。
児玉源太郎は明治39年(1906)7月23日に55歳で急逝。三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が向島の私邸に社を建立したのが児玉神社の始まりという。そののち児玉源太郎が、たびたび足を運んでいた江ノ島の現在地に遷座、江ノ島町民は将軍静養の地に将軍の霊祠を迎え、大正7年に正式に「児玉神社」となった。

社号標は昭和八年建立

勝運の神
児玉神社

児玉神社 明治45年(1912年)創建
日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄 児玉源太郎 (1852-1906)をお祀りし、明治45年の創建以来、勝運の神として崇められてきました。御祭神は台湾総督在任時、善政によって現地の人々に慕われ、その縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾からの寄進です。
社殿の設計は寺社建築の第一人者、伊東忠太博士によるもので、境内には山縣有朋歌碑を始め、後藤新平や石黒忠悳の詩碑、二〇三高地の石などの文化財があります。

児玉神社扁額
李登輝元台湾総統の揮毫

鳥居
昭和八年三月奉献
台湾婦人慈善会

現在、神楽殿は改修工事中です

御社殿改修工事および境内整備工事ご奉賛のお願い

山縣有朋歌碑

山縣有朋歌碑
(碑文)
児玉藤園の身まかりける日
讀ける 有朋
越えはまた里やあらむと
 頼みてし
杖さへをれぬ老のさかみち

明治の元勲山県有朋が、御祭神の逝去を悼んで詠んだ歌である。この石碑は当初、杉山茂丸が向島の別邸に建てた私祠内にあったが、遷座のとき境内に移された。なお下段には山県の側近であった政治家芳川顕正が、御祭神と山県とを竜虎に喩えた詩を刻している。

児玉神社誌
昭和四年十二月建立

台湾奉納の灯籠

謝介石詩碑

謝介石詩碑
(碑文)
伏鉞登壇衆所尊功成百戦得雄藩
大賢自著多聞政
賤子頻嘗有味言萬里驅馳思景行
卅年事變遡重源
神鴉社鼓江之嶋矍相當時盖僅存
奉題
 児玉公神社 大同元年十二月
 満州國外交部總長謝介石

 台湾の人謝介石の奉献。国民の尊敬を集めた御祭神の武勲、才知、徳を讃えている。謝介石(字は又安)は満州国初代外交部総長を務め、のち満州国駐日全権大使として日本に駐在したこともある。

後藤新平詩碑

後藤新平詩碑
(碑文)
森厳羽衛老將軍 功烈眞兼武興文 
造次不離忠孝旨 于花于月又思君
             新平
寄兒玉爵帥在満州舊製

 政治家後藤新平が、御祭神の文武の功績と忠孝の徳を讃えて奉献した。御祭神の台湾総監時代、後藤は民政長官に任じられ、日本統治下にあった台湾の運営と近代化に手腕を発揮した。

石黒忠悳詩碑

石黒忠悳詩碑
(碑文)
出將入相無匹儔 
 武功文勲傳千秋 
英魂長鎮画島裡
 天朗海洪浮白鴎

 子爵であった石黒忠悳(いしぐろただのり)の奉献。御祭神の文武の功績は千年先まで伝えられるであろうと絶賛している。石黒は陸軍軍医総監まで務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に尽くし、退官後は貴族院議員や日本赤十字社社長などに就任している。

爾霊山の石

爾霊山の石
 二〇三高地は、日露戦争において激戦地となった旅順市(中国東北部遼東半島南端)背後にそびえる標高二百三メートルの高地である。当地の石を横須賀鎮守府が日本に持ち帰って別地に寄贈したが、のち当社境内に移設され現在に至る。この「二〇三」に爾霊山(にれいさん。「なんじの霊の山」の意)の字をあてたのは乃木希典将軍である。

昭和拾年一月一日
爾霊山高地
  石
  棗萩松碑
横須賀鎮守府


江ノ島の入り口近く。
「片瀬江ノ島駅入口」交差点の南側の駐車場近くに「乃木希典銅像」があった。その地のあったものを平成13年(2001年)に移設したという。

児玉神社のある江ノ島とは別の場所ですが以下にまとめておきます。

乃木大将像台座石
ここはかつて日露戦争時に陸軍司令官として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明となり、台座だけが残されました。この石は、その台座石として使われたものです。

藤沢市生涯学習部郷土歴史課
みゆネットふじさわ より

http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=1019


児玉神社に戻ります。

我が国を守った砲弾

我が国を守った砲弾
明治日本の技術遺産二十八センチ榴弾砲の砲弾

 明治三十七~三十八年(一九〇四~一九〇五)、圧倒的武力で日本を占有しようとする帝政ロシアに対し、日本の国民が一丸となって戦ったのが日露戦争です。列強が世界中を植民地化していた時代に、我が国だけが最強国のロシアに勝ち、尊厳ある独立を守り抜いたのです。日本の勝利に東アジアの諸民族は歓喜し独立の気運に沸き立ちました。
 この戦争の勝敗を決したのが旅順攻略です。旅順は極東侵攻を見据えた露の軍事的要衝で、鍵となる二百三高地占領に日本は苦戦を強いられました。その時、御祭神が司令部から直接戦場へ赴いて指揮を執り、巨大な二十八センチ榴弾砲を用いて猛攻をかけ、二百三高地を確保、旅順港停泊中のロシア艦隊をも全滅させました。これが日本海海戦での完勝へとつながり、我が国の勝利を決定的にしました。もし日本が負けていれば、日本はロシアの植民地とされて事実上消滅、全日本人は人権をもたぬ奴隷民とされ労働力として生涯を搾取苦役に従事し、歴史は断絶、ひいては東アジア全体もロシア領となっていたであろうことは多くの歴史家が指摘しております。
 今日、我が国が独立国家として存在し繁栄を享受し得るのは、ひとえに先人の御蔭であり、その勇気、祖国愛、犠牲を我々は決して忘れてはなりません。その二十八センチ砲弾が、京都嵐山美術館館長の新藤源吾氏より寄贈されました。寄贈に当たり佐々木信之氏、甲飛喇叭隊隊長の原知崇氏と隊員の方々にご尽力頂きました。砲弾は全長八十センチ、直径二十八センチ、重量約二百五十キログラム、現存の砲弾としては珍しく完全形を残すものです。
 ロシアの支配をはねのけた日本戦勝を記念し、御祭神の御功績を仰ぐよすがとして、さらには維新後三十年程で、国土防衛のための近代兵器を知恵と工夫を以って作り上げた明治日本の技術遺産として、この砲弾を末永く当社境内に安置し、後世に伝えるものであります。
 西暦二〇一九年四月十四日 御祭神御生誕百六十七年祭
 児玉神社宮司 山本白鳥

咸臨丸図面発見の地

咸臨丸図面発見の地
 日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした
本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、永世に記念するため本碑を建立した。
 昭和五十五年十二月十六日

児玉神社御社殿

百年経過の為 ただ今 神楽殿を修復中です。
この工事期間のみ普段は見えない本殿をここから拝むことができます
 児玉神社

御本殿は大正7年(1918)造営。神門の奥に鎮座。

神楽殿(拝殿)は再建中

供養塔

創建時からの物故者、日清日露の英霊、日本領有時の台湾にて殉職・戦死された日台の英霊を祀る。

台湾の狛犬

昭和5年(1930)11月に奉納された狛犬。
第13代台湾総督石塚英蔵の寄進。台湾の名工によって台湾観音山の石で作られた逸品。口の中で動く丸石が転がる造形は見事。


児玉神社の境内から眺める風光明媚な湘南の海

江ノ島


児玉神社を参拝。久しぶりでした。
神楽殿は再建中で、境内の景観はしょうしょう寂しい状況ですが、心配していた最悪の状況ではなく。

運良く、社務所に神職様がいらしましたので、御朱印と御神札、お守りなどを頂戴しました。

御朱印は東郷神社の御朱印帳に。
これは乃木神社にもお参りしないと、ですね。


児玉神社公式サイト

https://www.kodamajinja.or.jp/

ひとまず〆

「日本の航空事始め・その3」民間初飛行の奈良原三次(民間航空発祥之地散策・千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

※以下は所沢航空発祥記念館にて

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m


民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲毛公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/inage-kouku-kinenkan

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」


こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


以下、民間の航空をいくつか。

日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社

http://www.shirato-web.com/history.html


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。


旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/index.htm

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/isan-archive-History_of_Japan_Aeronautic_Meiji-Taisho.htm

ならしの豆知識(習志野市)

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/mamechishiki.html


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日本の航空発祥の地


位置関係

今昔マップ On The Web

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.646807&lng=140.052355&zoom=14&dataset=kanto&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場


付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

海軍大佐 野島新之丞 邸(国立市)

令和元年9月撮影

海軍大佐 野島新之丞

野島新之丞は三重県出身・海兵30
正五位勲三等功五級
昭和28年9月2日に死去、墓所は多磨霊園

海軍兵学校第30期(海兵30期)
明治35年12月14日卒業(187名)
30期の同期(クラスメイト)は
 海軍大将 百武源吾
 海軍中将 今村信次郎・重岡信治郎・濱野英次郎・松山茂
 海軍少将 金子養三・鹿江三郎・館明次郎・ 常盤盛衛・森田登 
等々がいる。

前後のクラスでいうと、
29期 海軍大将   高橋三吉・藤田尚徳・米内光政
31期 海軍大将   及川古志郎・加藤隆義・長谷川清
32期 海軍大将元帥 山本五十六
   海軍大将   塩沢幸一・嶋田繁太郎・吉田善吾
等々の世代。


なお、ネット上では「赤城の艦長であった野島新之丞」とあちらこちらで紹介されている。
「軍艦赤城」「戦艦赤城」という記載も含め諸々に疑問符が浮かんだので経歴や艦長歴などを調べてみたところ、初代「赤城」(砲艦)及び、巡洋戦艦から空母に改装された2代目「赤城」いずれも野島新之丞が艦長であったという経歴が見つけられなかった。
参考までにgoogle検索「赤城 野島新之丞」リンクを張っておきます。

野島新之丞 の艦長経歴として確認できたものは以下。

(1)
春雨型駆逐艦5番艦「有明」(初代「有明」)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1909年12月1日-1910年12月13日

(2)
山彦型駆逐艦1番艦「山彦」
 元ロシア駆逐艦 レシーテリヌイ(Решительный)
駆逐艦長 (兼任 砲術学校兼水雷学校教官)
野島新之丞 海軍大尉 1911年12月1日 – 1912年7月5日

(3)
敷波型駆逐艦1番艦「敷波」(初代「敷波」)
 元ロシア水雷巡洋艦 ガイダマーク(Гайдамак)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1912年7月5日 – 1913年4月1日

1913年12月1日 海軍少佐
1918年12月1日 海軍中佐
1922年12月1日 海軍大佐
1923年4月1日  予備役

なお、砲艦「赤城」(初代)の除籍は1911年。空母「赤城」の進水は1925年。
野島新之丞 は砲艦赤城の除籍時は海軍大尉であり駆逐艦長。
そして(巡洋) 戦艦 =空母「赤城」の進水前には予備役(引退)となっている。

赤城艦長説の出どころは不明・・・

前置きが長くなりました。

旧野島家住宅
(現ル・ヴァン・ド・ヴェール)

文化財分類種別 市登録有形文化財・建造物
所在地 国立市中1-16-35
公開状況 公開
所有者・管理者 個人(ル・ヴァン・ド・ヴェール)
登録日 平成30年4月1日

概要
旧野島家住宅は、昭和2(1927)年頃、元海軍大佐野島新之丞・喜美夫妻が国立駅近くに建てた住宅です。建てられた当時は、煙突やバルコニー等を備えたモダンな印象を与える洋館で、開発初期の国立大学町を象徴する先進的近代洋風住宅のひとつでした。
また、個人住宅にとどまらず、昭和6(1931)年頃からは国立のキリスト教関係者の集会所、昭和13(1938)年頃には国立町会の事務所が置かれ、地域の拠点施設になっていました。
昭和56(1981)年には外観をほぼ保ったまま再生され、現在はレストラン「ル・ヴァン・ド・ヴェール(緑の風)」として親しまれています。
国立の開発史を伝える貴重な建造物であり、国立の人々に長く親しまれてきた地域の文化財です。

国立市> 市登録有形・建造物(7)  より http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html#a10

ん?
廃墟にみえます・・・

お客様各位
平素は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

このたび「ル・ヴァン・ド・ヴェール」の建物は
国立市登録有形文化財(建造物)になりました。

昭和2年の建設から80年以上経ち老朽化が進み
文化財の名に恥じぬよう修理することにいたしました。

今後共、国立の洋館をお楽しみ頂けますように
2018年2月1日から、しばらくお休みを頂きます。

お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが
リニューアルオープンにご期待下さいますようお願い申し上げます。

裏側にまわってみました。

2018年の休業以来、放置されている雰囲気が・・・
早い修復修理を期待しております・・・

高島秋帆と高島平(火技中興洋兵開祖)


高島秋帆 (たかしま しゅうはん)

江戸時代末期の砲術家
高島流砲術の創始者(流祖)
火技之中興洋兵之開祖

寛政10年(1798)の生れ。先祖は近江国高島郡の武士。
高島四郎太夫、諱は茂敦、字は舜臣、通称は糾之丞、秋帆と号す。贈正四位。

文化11年(1814)に父の跡を継ぎ長崎会所調役頭取に就任。日本砲術と西洋砲術の格差に愕然とし出島のオランダ人を通じて洋式砲術を学ぶ。
天保5年(1834)に私費を投じて銃器を揃え高島流砲術を完成。
天保6年(1835)には自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を完成。
天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の高島平)にて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この結果、高島秋帆は砲術専門家として幕府に徴用され、老中阿部正弘から「火技中興洋兵開祖」と称賛された。
しかし天保13年(1842)に、長崎会所の杜撰な運営の責任者として長崎奉行に逮捕投獄される。
嘉永6年(1853)、ペリー来航(ペルリとも呼称)による社会情勢の変化により赦免され出獄。
その後は幕府の砲術訓練指導に尽力。
慶応2年(1866)に69歳で死去。


高島平

当地はかつては徳丸ヶ原と呼称されてた。
江戸時代は、荒川の後背湿地であり幕府の鷹狩場に指定された荒地。

天保12年(1841)
砲術家 高島秋帆 が「徳丸ヶ原」にて日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。

昭和40年代に当地域の再開発がはじまり、昭和44年に板橋区によって「高島秋帆」に因む町名「高島平」が採用された。


高島秋帆先生紀功碑

東京都板橋区「松月院」境内。
大正11年(1922)落成。
陸軍省より下付された高島秋帆ゆかりの「安政4年(1857)鋳造の銅製二十四斤加農砲砲身」を中心に、東京砲兵工廠にて鋳造された「火焔砲弾4発」などの付属品を配置した記念碑。 砲術訓練を行った際の本陣跡に設けられた。

高島秋帆先生紀功碑

 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。

 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。

 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。

 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。

 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。

平成26年度区登録文化財

火技中興洋兵開祖
 正二位勲一等 文学博士
 男爵 細川潤次郎 書

贈正四位高島四郎太夫先生 諱は茂敦 字は子厚 秋帆と号す。長崎の人なり。夙に内外の形勢を洞察して本邦兵制の革新せさるへからす。火技戦法の採用せさるへからさるを悟り私財を損てて新様の鉄砲を購ひ門人に教ふるに洋式の操練を以てせり。(略)

天皇皇后両陛下御下賜金貳百圓
(略)

紀功碑用砲身 陸軍省下付
紀功碑架台及付属品 東京砲兵工廠
(略)
着手 大正十一年六月十四日
落成 大正十一年十二月六日
(略)


萬吉山 宝持寺 松月院

高島秋帆先生紀功碑のある「松月院」

東京都板橋区赤塚鎮座。曹洞宗の寺院、山号は萬吉山。
房総の千葉自胤が康正2年(1456)に千葉市川から当地の赤塚城に移り(武蔵千葉氏)、1492年に当地の宝持寺を菩提寺として定め、松月院と改称したことにはじまるという。
幕末に高島秋帆が砲術訓練を行った際に、境内に本陣を設けている。
明治期には一時期、旧赤塚村役場が境内に設置されていた。

紀元二千六百年記念
昭和十六年五月竣成

新東京八名勝
赤塚 松月院

新東京八名勝は1932年に東京市が拡大されたことを記念し報知新聞社が企画したもの。松月院は第五位。

  • 池上本門寺(大森区)
  • 西新井大師(足立区)
  • 北品川天王社(品川神社)(品川区)
  • 日暮里諏訪神社(荒川区)
  • 赤塚松月院(板橋区)
  • 目黒祐天寺(目黒区)
  • 洗足池(大森区)
  • 亀戸天神(城東区)

伝千葉一族の墓
 松月院は、康正2年(1456)に下総国での戦いに敗れ、市川城から武蔵国の赤塚城・石浜城へと移った千葉一族の菩提寺です。また、この墓も同一族を弔ったものと伝えられています。
 当墓については、文化9年(1812)に斉藤幸孝が記した『赤塚紀行』に挿絵入りで記されるなど、当時から広く知られていました。
 向かって中央右側にあるものが千葉介自秀の墓とされ、松月院殿南州玄参大禅定門の法名と、永正3年(1506)6月23日の忌日が刻まれています。この墓碑については、すでに江戸時代の段階で後世に造立されたものと指摘されています。また、松月院ではこれを開基檀越である千葉自胤の墓碑としており、文化文政期(19世紀前半)に成稿した地誌、『新編武蔵風土記』でも墓銘にある自秀は自胤を誤記したものとしています。
 左側には比丘尼了雲の宝篋印塔があります。『赤塚紀行』では、これを自秀室の墓としていますが、時代的にはそれ以前の、元徳元年(1329)の年号が刻まれています。これは、区内最古の墓碑であり、境内の発掘調査成果と合わせて、武蔵千葉氏が当地に移る以前の段階で、当所に寺院が存在していたことを証明する貴重な資料となっています。
 平成22年3月
 板橋区教育委員会

下総を追い落とされた武蔵千葉氏一族の墓。
千葉自胤(よりたね)は武蔵千葉氏2代目当主。千葉一族の勢力争いに破れ下総に帰還することなく、子孫は武蔵国人に転落。

高島平駅からバス、もしくは成増駅からバスで。赤塚8丁目バス停下車。


徳丸ヶ原碑(徳丸原遺跡碑)

高島平駅すぐ近くの「板橋区立 徳丸ヶ原公園」
もともと新高島平駅ちかくの弁天塚に1922年に建立されていた「徳丸ヶ原碑」が1968年に現在地に移転。
1841年に高島秋帆による西洋式砲術調練が行われた徳丸ヶ原を記念する石碑。

徳丸原遺跡
此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年五月高嶋四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練等を行ひし處とす
 大正十一年六月
   高島秋帆先生紀功碑建設首唱者

扁額は徳富蘇峰の筆。

徳丸ヶ原 
 東京都旧跡(大正9年) 
 区登録記念物(昭和60年度)

 高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原とよばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保12年(1841年)には、5月7日~9日の3日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭には黒塗円錐形のトンキョ帽と言う兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられ開墾が行われ、最終的には約4百ヘクタールの徳丸田んぼ、赤塚田んぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和40年代となると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。 高島平の地名は、当地で砲術訓練を行なった高島秋帆にちなんで付けられたものです。
 平成25年3月
  板橋区教育委員会


東京都文京区向丘(白山駅近く)に鎮座する大円寺に高島秋帆の墓がある。
(出生の長崎市にも高島家墓地あり)

高島秋帆墓

国指定史跡
高島秋帆墓
 (江戸時代の砲術家 1798-1866)
 文京区教育委員会 

戦災で被災した墓石は傷つき、かろうじて「高」の字のみを残していた。

史跡 高島秋帆墓

大円寺は「ほうろく地蔵」で有名。


場所は変わって川口市。

18ポンドカノン砲(復元)

鋳物の町・川口。
川口の鋳物師・増田安次郎が高島秋帆と協力して作ったという大砲=18ポンドカノン砲を増田安二郎から連なる増幸産業株式会社が復元している。

18ポンド カノン砲
 この大砲は幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩により依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。
 幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打ち払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行なっていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師 増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国家の干城なり」という褒状を授与されました。
全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m
材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾

武州足立郡川口
鋳物師増田安二郎

嘉永壬子五年仲春

高島秋帆が増田安二郎に送った褒状が、川口市立文化財センターのサイトに掲載されている。
「国家干城可也」の一文がある。

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_031.html

また、増幸産業株式会社様のサイトにも「大砲の歴史」がまとめられている。

http://www.masuko.com/company/taihou.html

川口の戦跡などはこちらにて


さらに場所はかわって深谷市。渋沢栄一で盛り上がっている街へ。

高島秋帆は、岡部藩(現在の深谷市)に11年間、幽囚されていた。
そして深谷市の北部には、渋沢栄一の出身地である血洗島があった。

高島秋帆幽囚の地

天保13年(1842年)、長崎会所の責任者としての不備を問われ長崎奉行によって逮捕投獄。讒言であったという。
囚われた高島秋帆は武蔵国岡部藩にて幽閉される。
幽閉中であっても、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた、という。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により11年にわたる幽閉がとかれ赦免出獄している。

高島秋帆幽囚の地
 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。
 その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
 平成3年3月
  埼玉県
  深谷市

http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu02/1487555460716.html

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/takashimasyuuhan.pdf

岡部藩について
 岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計 5,250 石を基に発展しました。
 信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永 13 年(1636)に三河国内 4,000 石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に 10,000 石を加増されて信盛は大名となりました。
 その後、所領高 20,250 石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。
 慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/okabehann_leaflet.pdf

秋帆先生幽囚之地

陸軍中将渡邊金造、昭和14年2月建立。

国道17号の岡部北交差点に、案内標石がある。

高島秋帆が捕らえられていた岡部藩陣屋と、渋沢栄一の出身地・血洗島の位置関係。4キロほどしか離れていないのだ。


以上、高島秋帆に関わるあれこれ、でした。

早川徳次像(地下鉄の父)

令和元年8月撮影(令和5年写真更新)

日比谷線銀座駅の地下通路に。


早川徳次(はやかわ のりつぐ)

明治14年(1881)10月15日~昭和17年(1942)11月29日

東京地下鉄道(のちの帝都高速度交通営団→東京地下鉄・東京メトロ)の創業者。
日本に地下鉄を紹介・導入したことから「日本の地下鉄の父」と称された。
山梨県出身。郷里の先輩に根津嘉一郎(東武鉄道・南海鉄道に関わった実業家、日本の鉄道王)がいる。
早川は根津の右腕として手腕を発揮し佐野鉄道(東武佐野線)や高野登山鉄道(南海高野線)の再建に成功。

大正9年(1920)8月29日に東京地下鉄道株式会社を設立。
大正14年(1925)9月27日に浅草ー上野間の地下鉄工事を開始。
昭和2年(1927)12月30日、浅草駅から上野駅まで開業。(現在の東京メトロ銀座線の同区間)

早川徳次の像は昭和16年の朝倉文夫作。
前年昭和15年の皇紀2600年記念式典において、早川徳次が緑綬褒章を賜ったことを記念し翌年の昭和16年に株主・社員一同によって設立された。
早川徳次はその翌年昭和17年に61歳で亡くなっている。

もともと早川徳次胸像は、昭和16年(1941年)に、新橋駅に建立されていたが、開通50周年に際して1977(昭和52)年に、銀座駅に転座している。
この旨は、金春安明様よりコメントを頂きまして、再確認をしました。

2025/07/13、投稿します。様々なページに、「東京メトロ銀座駅構内の早川徳次像」と紹介されてますが、「地下鉄開通50周年記念行事」までは早川徳次氏の会社と、渋谷駅から来た会場の接合点の「地下鉄銀座線の新橋駅」に有った像を銀座駅構内に移設したのです。地下鉄の博物館に説明が有りますし、能楽の金春安明の記憶にも新橋から銀座に移設という記憶あり。
2025年7月13日 11:18 PM

メトロアーカイブのサイトにも「早川徳次胸像」に関して下記の記載がありました。

早川徳次氏胸像の除幕式
地下鉄開通50周年記念行事のひとつとして、新橋駅構内に設置してあった「早川徳次氏の胸像」を銀座駅に移転し除幕式を行った時の様子。
その他の記念行事としては、記念乗車券の発売や、日本橋三越での地下鉄50年展などがあり、それぞれが大盛況であった

https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/box09-082.html


早川徳次胸像

銀座駅に。

社長早川徳次像

以下は、駅改修工事中の写真(令和元年)

地下鉄の父
早川徳次像
(1881~1942)
朝倉文夫作

氏は明治14年山梨県に生まれ
帝都高速度交通営団の前身である
東京地下鉄株式会社を創立、幾多の困難を克服
昭和2年12月30日アジアで最初の地下鉄
浅草~上野間(2.2キロ)を開業させ
引き続きて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、
今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。

社長早川徳次像
夙ニ帝都ヲ立體的近代都市タラシムルノ計画ヲ樹テ 東京地下鐵道株式會社ヲ創立シ 未曾有ノ難事業ヲ完成セリ 洵ニ是レ我國交通史上ニ一新紀元を劃ヌルモノ 天下萬人之ニ依ツテ享クル利便頗ル大ナリ 其ノ功績畏クモ 天聴ニ達シ皇紀二千六百年記念式典ニ際シ緑綬褒章賜フ 茲ニ同志相謀リ壽像ヲ建立シテ永ク後世ニ傳フト爾云

昭和16年5月
重役株主社員一同

日比谷線・銀座駅

余談
早川徳次(はやかわのりつぐ)は、「東京地下鉄道」の創業者、地下鉄の父
早川徳次(はやかわとくじ) は、「シャープの創業者」


写真を追加(2023年1月)
駅改修完了後の写真

旧多摩聖蹟記念館(多摩市)

令和元年8月

京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」。京王線ユーザーであれば馴染み深い駅名。

気にはなっていましたが、実はまだ「聖蹟」に脚を運んだことがなく。
近いと言えば近いので、ちょっと赴いてみました。

京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」
格別に美しい駅名だと思います。

ここから「記念館」行きのバスに。

旧多摩聖蹟記念館

明治天皇が当地に行幸されたことを記念して作られた施設。

旧多摩聖蹟記念館 多摩市指定有形文化財

 明治10年代、明治天皇が30才の頃、ここ連光寺の山や多摩川に兎猟 や鮎漁を行うため、4回ほど訪れました。
 時の天皇が行幸された地を「聖蹟」と呼び、全国的に多くの記念碑がみられます。
 この記念館は昭和5(1930)年に、明治天皇の偉業を讃えるため、元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々による土地の寄付や工事の協力などによって建設されました。
 「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は、この建物の名前をもとにつけられたものです。
 この建物を設計した関根要太郎は、20世紀初頭にヨーロッパでおこった建築革新を目指す運動に関心をもった建築家といわれています。大正末期から昭和初期にかけての日本の近代建築は、鉄筋コンクリート構造の急速な普及に加え、外観のデザインとして欧米の古典主義的なものから、モダンデザインのものまで、さまざまな様式の影響を受けた建物がみられます。
 この記念館は、オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます。数少ない多摩地域の近代洋風建築の中でも完成度が高く、最も優れたものであります。
 このように貴重な建築作品であることから、文化財保護の目的に沿って保存・公開すると同時に、建物の有効活用をはかるため、ギャラリーとしてもご利用いただくことができます。
 昭和61年6月24日指定
 多摩市教育委員会

多摩聖蹟記念館
昭和5年9月
伯爵田中光顕敬著

多摩市指定文化財
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」選定

関根要太郎と蔵田周忠が設計。
近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂。
起工1929年10月12日、竣工1930年6月26日

曲線の多用した大胆なデザインが美しい建造物。

渡辺長男作、明治天皇騎馬等身像(昭和5年)は圧巻。
明治天皇が当地に初めて訪れた30歳の姿を再現。

内部は撮影禁止のため、パンフレットと図録より。

五賢堂

五賢堂
 1968年(昭和48年)、明治維新100周年を祝して全国的に記念行事が行われました。当時、多摩聖跡記念館を管理・運営していた財)多摩聖跡記念会でも、維新の志士を顕彰する目的で「五賢堂」を建設することにしました。
 「五賢」とは、明治維新に功績のあった五人の志士(三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛)を言います。五賢堂は神奈川県大磯の元総理大臣吉田茂邸にもありますが、西郷隆盛の代わりに伊藤博文が数えられています。西郷隆盛は西南戦争で朝敵とされましたが、吉田茂のすすめもあって五賢に数えられたとされます。
 1968年(昭和43年)11月3日に建設式典が行われ、小金丸幾久が制作した五賢のブロンズ製胸像が安置されました。なお、明治天皇の立像も小金丸幾久が同時期に作成したものですが、初代は記念館内に置かれており、1986年(昭和61年)の改修工事の際に五賢堂内に移されました。

明治大帝( 五賢堂 )

明治大帝

第一二二代天皇御名睦仁
御在位一八六七、一九一二年
嘉永五年九月二十二日孝明天皇の第二皇子として京都で御誕生され御年少の折のよび名を祐と称された
慶応二年十二月孝明天皇崩御のあとをうけ慶応三年一月九日御践祚
翌慶応四年一月に元服三月に五ヶ条の御誓文を神前に誓い九月八日明治と開眼して一世一元の制を定めた
十二月一条天皇の三女美子昭憲皇太后皇后に迎えられた
明治天皇は統帥権をもちみずから積極的に政治に携わられた
御性格は英邁御在位期間における国威の著しい伸長とあいまって英明の君主とうたわれ大帝とたたえられ国民の尊敬を一身に集められた
一九一二年全国民の病気回復の願望空しく病没京都伏見桃山御陵に葬られた
御歳六十一才であった

明治維新五賢堂建立の趣旨
五賢堂は明治維新にあたり明治大帝を補佐し新日本の建設に偉勲を樹てた三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の功労を後古に伝えるため明治百年に際し明治百年記念事業の一環として明治維新五賢堂建立委員会を設け全国各方面にわたる有志のご協力によりその建立の実現をみたものであります
 昭和43年11月3日
 (以下略

五賢人(五賢堂)

三条実美之像

岩倉具視之像

木戸孝允之像

大久保利通之像

西郷隆盛之像

五賢堂のとなりに石碑がある。

田中光顕公歌碑

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
  奉祝 青山田中先生耆徳
 
 皇紀二千六百年三月二十八日
 田中光顕公追慕會

明治天皇御製
昭憲皇太后御歌 歌碑

明治天皇が明治17年(1884)に当地へ行幸された際の御製と、昭憲皇太后が詠まれた御歌2首。

明治天皇御製
 春の半頃山ふかく狩し
 ける折に鶯の鳴くを
 きゝて
春ふかき山の林にきこゆ
なりけふをまちけむ鶯の


昭憲皇太后御歌
 御狩場よりかへらせたまひ
 ける日狩場雪といふことを
兎とる網にも雪のかかる日に
ぬれしみけしを思ひこそやれ
 おなしおり深山鶯といま
 ことを
春もまたさむきみやまの
鴬はみゆきまちてや鳴き
はしめけむ

正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書

明治百年
記念の樹

明治天皇御野立所跡の碑

皇紀二千六百年仲秋建立(1940年/昭和15年)

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

御野立所からの遠望

桜ヶ丘公園

参考リンク

http://www.city.tama.lg.jp/0000003475.html

http://www.city.tama.lg.jp/0000001541.html

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html