品川の東海寺大山墓地の入口にある史跡。
「史蹟 官営品川硝子製作所跡」「近代硝子工業発祥之地」
日本の近代ガラス工業は、この品川からはじまったのだ。
目次
史蹟 官営品川硝子製作所跡
近代硝子工業発祥之地
明治維新後の文明開化に伴い、莫大な輸入超過に陥っていた明治政府は、西洋技術を取り入れて産業の国産化を目指していた。
明治6年(1873)太政大臣三条実美は、家令丹羽正庸の提案により、東海寺境内に日本初の板ガラス製造工場「興業社」を設立するも失敗。
明治9年(1876)、工部省」は興業社を買収し、官営「品川硝子製作所」として再生。産業育成と技術者養成を目的とし、赤字覚悟の出資をすすめ、ガラス製造や洋食器の製造を推進。
明治17年(1884)、大量の在庫をかかえ、板ガラス製造に失敗し経営不振が続いていた明治政府は、「品川硝子製作所」を西村勝三に貸し下げ、翌年には払い下げを行い、民営工場となる。
明治21年(1888)に、「品川硝子製造所」は業務拡張に伴い「品川硝子」として新たに発足。麒麟麦酒の発売に伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を手掛ける。
しかし世界恐慌と板ガラス製造失敗の影響により、明治25年(1892)11月に解散。
品川硝子のガラス工場としての命運は20年でしかなかったが、この工場が日本のガラス産業に与えた影響は大きく、のちに日本初のステンドグラスを製造した岩城硝子(iwaki/AGCテクノグラス)の岩城滝次郎や、品川硝子では完成できなかった日本初の板ガラスの商品化を明治35年に完成させた島田硝子(東洋ガラス)の島田孫市も、この品川硝子の出身者であった。
当時の品川硝子のレンガ造りの建物は愛知県の明治村に移築されている。
近代硝子工業發祥之地
此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ
其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ
吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル
昭和四十年十二月
品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
所在 北品川四丁目十一番五号 三共株式会社
指定 昭和五十三年十一月二十二日 (第八号)
日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。
昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
平成六年三月三十一日
品川区教育委員会
珪石 ガラス原料
西村勝三
「明治の工業の父」「製靴業の祖」とも称される西村勝三(1837-1907)
- 明治3年、日本初の西洋靴を制作(伊勢勝造靴場)
- 明治4年、日本初のニット工業機械編み(靴下)の製造開始
- 明治5年、日本初の近代クラブを開設(ナショナル・クラブ)
- 明治8年、耐火煉瓦の製造開始(品川白煉瓦)
- 明治21年、日本初のビール瓶大量生産(品川硝子/麒麟麦酒向け)
西村勝三は、天保7年12月9日(1837年1月15日)佐倉藩支藩の佐野藩付家老の子として生まれる。兄はのちに貴族院議員となる西村茂樹。
佐野藩で砲術助教を勤め、幕府の海軍伝習所へ応募するも不合格となり脱藩。幕末の動乱のなかで銃砲弾薬商として銃器の売買を行うなかで実業家へと目覚めていく。
慶応元年(1865)、日本橋に鉄砲店を開業。屋号を「伊勢屋」とし伊勢屋勝三と改名。幕府側・幕臣にしか銃を売らないことが大村益次郎の目にとまり、大村益次郎の信頼を得る。
明治3年(1870)、かねてより懇意であった大村益次郎に軍政改革の一環として日本人向けの西洋靴の開発相談を受けていた勝三は、日本人の脚にあう西洋靴の開発に成功し、東京築地に近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を開業。この開業日3月15日は「靴の記念日」となっている。また靴工場とあわせて「伊勢勝製革所」も開設。
大村益次郎は日本の近代靴が大量生産される前に、明治2年11月5日に不慮の死を迎えてしまう。大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴全廃へと繋がり、「伊勢勝造靴場」は一躍発展をしていくことになる。
「伊勢勝造靴場」は、明治17年に西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称。
明治35年に「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「株式会社リーガルコーポレーション」へ。
明治40年に「伊勢勝製革所」は「日本皮革株式会社」となり、現在の「株式会社ニッピ」へ。
いずれも西村勝三が創業したニッピとリーガルコーポレーションは、今も相互がそれぞれの筆頭株主の関係。
明治4年(1871)、西村勝三が数台の編機を輸入して、メリヤス(靴下)を製造したのが、日本におけるニット工業機械編みの始まりでもあった。
明治5年(1872)、西村勝三はヨーロッパのクラブを模範とし、築地に開設した「ナショナルクラブ」が日本におけるクラブの最初という。
明治8年(1875)、いくつかので成功をしていた西村勝三は、文明開化の象徴であった「瓦斯燈(ガス灯)」のためのガス発生炉用耐火煉瓦を国産品で賄うために、東京芝浦に「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。
明治17年「官営品川硝子製作所」の払い下げを受け、明治20年に品川硝子製作所に「品川白煉瓦」を移転設立。(白煉瓦とは耐火煉瓦のこと。建築用煉瓦は赤煉瓦と呼称。)
品川白煉瓦は、耐火煉瓦の国産化をすすめるとともに、建築用の装飾煉瓦も製造し、東京駅の赤レンガ外壁部を品川白煉瓦が納入している。(構造部の煉瓦は日本煉瓦製造株式会社・深谷市。平成24年の再建時のレンガはLIXILが納入。)
品川白煉瓦株式会社は、現在の「品川リフラクトリーズ株式会社」
明治9年、東京瓦斯局副事務長に西村勝三が就任。事務長は渋沢栄一。ガス事業は東京府から明治18年に民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へ。
明治40年、盲腸炎がもとで逝去。享年72歳。明治の近代化経済を支えた男は、東海寺大山墓地に墓所がある。
また、出身の佐倉市の佐倉市民体育館前に銅像もある(未訪問)
西村勝三墓
墓はガラス工場とゆかりのある品川東海寺大山墓地にある。
西村勝三に関しては、以下のサイトが良くまとまっている。
靴業発祥の地
明治3年(1870)3月15日に、西村勝三が日本初の近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を創建したのが、この地であった。現在の地下鉄有楽町線の新富町駅・7番出入口の隣。
靴業発祥の地
明治三年(一八七〇)三月十五日、西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋沢栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す
昭和六十年(一九八五)三月十五日
日本靴連盟
題字 堀田正久 書
銅像堀公園
かつて、西村勝三の像が隅田川の近くの公園にあったという。
明治40年に、功績を讃えて銅像が建立されたというが、戦時供出で撤去され戦後に石像が再建されるも昭和40年に撤去され、今は銅像があった名前だけが残っている。
東海寺大山墓地
なお、東海寺大山墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあるので、簡単に写真だけご紹介。
沢庵和尚 沢庵墓
賀茂真淵墓
荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人のひとり。
東海寺大山墓地にある井上勝墓は別記事にて。
〆