「茨城県」カテゴリーアーカイブ

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

百里基地航空祭2023・その2

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は、「その2」となります。歴史的なことは「その1」で。

高機動でフライトをする戦闘機を撮影したのは、ぶっちゃけて初めてレベル。

機材
PENTAX KP (APS-C)
HD PENTAX-DA 55-300mmF4.5-6.3ED PLM WR RE
(焦点距離84.5~460mm相当)


F-2戦闘機

航空自衛隊中部航空方面隊第7航空団第3飛行隊のF-2戦闘機。


F-15J戦闘機

北部航空方面隊第2航空団(千歳基地)所属機。


T-4練習機

基本操縦課程の全てを担う、信頼性・整備性の高い純国産の練習機。

開幕での上空フライトのみでした。


救難活動展示

UH-60J
U-125A
救難活動展示。
百里救難隊。

小美玉の方向で火事があったようで。
奇しくも救難活動と黒煙が、リアリティを増してしまい。。。


その他

米軍の機動飛行は中止。。。

あいまあいまで民間機も共用利用するのが茨城空港。

百里名物らしい、、、没収預かりコーナー。


※撮影:2023年12月

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


関連


百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


関連

土浦関連

はじめに

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その2(74式戦車&203mm自走榴弾砲引退セレモニー) 

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その2となります。その1は下記より。


74式戦車引退セレモニー

今年度(令和5年度)で引退する74式戦車の引退セレモニー
ナナヨンの最後。

車体を前後左右に傾けるデモ。
サスペンションによる車体傾斜。

上下姿勢。

砲塔を固定して、車体回転。

空砲射撃

後輩の入場。
90式戦車と10式戦車が74式戦車を見送ります。

空砲射撃で74式戦車を見送り

応える74式戦車の最後の空砲射撃

74式戦車のラストラン。

お疲れ様!74式戦車


203mm自走榴弾砲引退セレモニー

ナナヨンと同じく、令和5年度で引退をする203mm自走榴弾砲の引退セレモニー。
99式自走155mm榴弾砲を引き連れての入場。

203mm自走榴弾と99式自走155mm榴弾砲。

203mmは、陸自の最大口径でもあった。

203mm自走榴弾の空砲射撃は、無し、でした。(音の問題らしい)

かわりに、155mmが手向けの空砲を打ちます。

そして、後方に控えていた155mm榴弾砲。

99式自走155mm榴弾砲の空砲射撃

155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃

203mm自走榴弾砲の引退を見送ります。

もう一度、155mm榴弾砲 FH70の空砲射撃。珍しくバッチリ撮影できた。。。

お疲れ様!
203mm自走榴弾砲のラストラン。


静態展示コーナー

ナナヨン!

203mm自走榴弾砲

砲身に混じってるクレーン、、、

※撮影:2023年11月


関連

武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事・その1(記念式典と装備アトラクション)

2023年11月12日。
武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事が開催されましたので、足を運んでみました。

本記事は、その1です。


土浦駐屯地関連

以前の記事を参照で


武器学校・土浦駐屯地開設71周年記念行事

この日は、あいにくの空模様でした。

記念式典

10時から記念式典。
隊員がグランドに集います。

なかなかの迷彩っぷり。

土浦駐屯地が所管する自治体旗の集合。

観閲の指揮官が登場。

陸上自衛隊武器学校長兼ねて土浦駐屯地司令
陸将補 星指 𠮷見

国旗に対して敬礼

巡礼

来賓挨拶。
ヒゲの隊長こと、佐藤正久参議院議員(最終階級は1等陸佐)ですね。

ちょっと雨が、、、

撤収

施設学校音楽隊の演奏

装備アトラクション

装備アトラクションの開始ラッパ

武器学校が保有する装備が、順々に行進してきます。


88式地対艦誘導弾

03式中距離地対空誘導弾

93式近距離地対空誘導弾

11式短距離地対空誘導弾

87式自走高射機関砲

機関砲砲塔がぐるぐるまわります

96式装輪装甲車

16式機動戦闘車

52口径105mmライフル砲の砲塔をぐるぐると。

高機動車&120mm迫撃砲RT

19式装輪自走155mmりゅう弾砲

きました。
最大口径の203mm自走榴弾砲。今年度で引退。

99式自走155mm榴弾砲

そして、3世代の戦車が並んで、やってきました。

74式戦車

砲塔回転

74式戦車の後ろ

90式戦車と10式戦車

90式戦車

10式戦車

90式戦車の後ろ

10式戦車の後ろ

水陸両用車

回収車

78式戦車回収車

90式戦車回収車と11式装軌車回収車

装備アトラクション展示はここまで。

74式戦車と203mm自走榴弾砲の引退セレモニーは、その2で。


※撮影:2023年11月

土浦海軍航空隊と霞ヶ浦海軍航空隊の慰霊巡拝(土浦・阿見)

阿見と土浦で、霞ヶ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊関連の慰霊碑を巡拝しました。
以下、徒然に。


阿見空襲(阿見大空襲)

昭和20年6月10日。
当時予科練生の訓練が行われていた土浦海軍航空隊とその周辺地区が、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、予科練習生や近隣住民など370人を超える方が犠牲となった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_02.html


霞ヶ浦湖畔の海軍航空隊

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊


被爆跡記念之碑(青宿壕跡予科練戦没碑)

阿見青宿ノ鹿島神社境内。

昭和20年6月10日の空襲で、神社西側の防空壕に避難中の土浦海軍航空隊の予科練教官11名と予科練習生281名が戦死した。
犠牲者は後述する法泉寺周辺で荼毘に付された。

合掌

第二次世界対戦 被爆跡記念之碑
海軍中将 寺岡謹平書

碑文
 太平洋戦争の末期、当時前線すでに戦力乏しく国内各地は空襲をうけ、物資食糧困窮のなかに、情勢は国民すべてを捲き込む悲愴な「本土決戦」へとかたむいていた。
 時に昭和二十年六月十日。教育訓練施設である土浦海軍航空隊に敵機群が来襲、折から本土防衛の水上特攻要員編成中の飛行予科練習生を中心とする隊員ら二百八十一名が、隊内外で戦死、同時に、当青宿部落を中心に阿見町民家も銃爆撃をうけ、民家多数が焼失又は爆破され住民六名が犠牲になるなど多大の戦災を被った。
 傷恨の跡は、各地に点在するが、いまこれをすべて明らかに留めるところは少ない。
 そして 世は日につれて変わって行く—
 
この場所は、「命を捨てて同胞を護らん」と
愛国の心に燃えて結集した十七・八歳を主体とする”予科練”たちの一部が、武器持たぬ身に血をたぎらせながらやむなく待避した壕の跡であり、不運にも直撃弾二発をうけ、多数が生埋めとなった悲傷の地である。

 ここにこの地の人達が集い、慰霊をおこなってきた戦友・遺族らの意志を継いで、指標を建てる。
 春に先がけて散った若桜たちの、憂国同胞愛の清明な心をとどめる「聖なる地」を顕彰し、ともに悠久の平和を希うことこそ、次の世代に伝える、この地の人達の郷土愛のあかしとおもうからである。
 昭和55年6月10日
  青宿壕跡予科練戦没碑建立委員会撰文

海軍中将 寺岡謹平の謹書。

阿見町名所百選
青宿の鹿島神社
 最新は武甕槌命、島状台地上にある。社殿の西側に2基の円墳(1号墳と2号墳)、東側にやや大型の円墳(3号墳)があり、1号墳は乱掘にあり直刀や勾玉が出土している。3号墳は削平されて原型は定かではない。
 神社西側に戦時中防空壕があり、昭和20年6月10日の空襲で入口に爆弾が投下され、避難中の予科練の教官11名と予科練習生281名が戦死、その他119名重傷の惨事が起こった。いま境内に慰霊の碑が立っている。
 阿見町教育委員会

青宿の鹿島神社

神社の西側。古墳?

西側から、土浦海軍航空隊と霞ヶ浦の方向を望む

台地を生かした防空壕であったことがわかる。

阿見町名所百選(44 青宿の鹿島神社)

https://www.town.ami.lg.jp/0000000816.html

場所

https://maps.app.goo.gl/RaR5XejvMNFSsq6EA


元土浦海軍航空隊戦没者之碑(法泉寺)

法泉寺(土浦市)の境内。
昭和20年6月10日の空襲で戦死された土浦・霞ヶ浦海軍航空隊関係者と町民の方を慰霊する碑が集まっている。
『元土浦海軍航空隊戦没者之碑』『戦死者氏名之碑』
『霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑』
『十三重供養塔』
『阿見町戦災被爆者供養塔』

合掌

元土浦海軍航空隊戦没者之碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑。
前述の青宿の鹿島神社にあった防空壕の犠牲者は、この地で荼毘に付された。

墓誌
 太平洋戦争も終末に近づいた昭和20年6月10日、土浦海軍航空隊にB29爆撃機を含む艦載機群の攻撃をうけ、折しも本土防衛の水上特攻要員編成中の第14期甲種飛行予科練習生・錬成中の同第15・16期生、後輩の訓練に当たっていた第13期生及び教官・教員ほか退院ら281名が、隊内及び周辺で散華した。
 当時、海軍適正部(現土浦第三高等学校)の庭で荼毘に附された遺骨はそれぞれ遺族に引渡されたが、法泉寺第52世住職大僧正山岡英明和尚はその残骨を慈しんでこの地に葬り独り回向を続けること10数年、漸く平和よみがえる昭和36年6月第17回忌法要に際し、土浦市・阿見町はじめ広く各地有志の協力を得て墓碑を建立するに至った。以後、戦死者多数を出した14期生同窓一四桜会はじめ各期の戦友らが集い、遺族と共に供養を行っている。
 時流れて三〇年、七生報国・悠久の大義に殉じた若き命の冥福を祈り、ここに悲傷の日を迎えるにあたり墓所の縁起を記す。
  昭和50年6月
   元土浦海軍航空隊戦没者法要委員会

戦死者氏名


十三重供養塔(法泉寺)

この塔は、平成6年6月5日、土浦海軍航空隊戦没者の50回忌に際して建立された。


霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑(法泉寺)

霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑は、昭和50年6月に建立。
昭和20年6月10日の阿見空襲で戦死した24名の方々の氏名が刻まれている。


阿見町戦災被爆者供養塔(法泉寺)

平成28年6月建立。


土浦海軍航空隊適性部跡(海軍航空要員研究所)跡地

現在、茨城県立土浦第三高等学校の敷地となっている海軍航空要員研究所跡地。
海軍航空要員研究所(適性部)では、飛行兵の採用試験や適性検査が行われていた。

霞ヶ浦を望む高台。

場所(法泉寺)

https://maps.app.goo.gl/fjWhJUSD3myijdgs6


霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者慰霊塔(神龍寺)

土浦市文京町の神龍寺。
ここに海軍時代に建立された慰霊碑がある。

霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者の慰霊塔は、昭和10(1935)年に建てられ、殉職者41人の名が刻まれています。 
神龍寺の参道近くには霞ヶ浦海軍航空隊に副長として赴任中だった山本五十六が住んでおり、住職の秋元梅峯と交友があったという。
神龍寺24代住職・秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、慰霊塔建立の10年前の大正14年(1925年)には私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが「土浦全国花火競技大会」の始まりでもあった。

霞ヶ浦航空隊
航空殉職者

航空殉職者

犠牲者の名前が刻まれている

石造念仏車。(念仏車、後生車、輪廻塔)
戦争関連の慰霊塔で、念仏車を備えているのは珍しいと思います。

隣は、消防の慰霊塔。

神龍寺

場所

https://maps.app.goo.gl/m4MfFoxtRFLXhRGXA


忠魂碑(亀城公園)

大正11(1922)年、陸軍大臣山梨半造の揮毫により建立。大正9
(1920)年におこった尼港事件の犠牲者を弔うため、土浦町の青年会の働きかけが建立のきっかけになったといわれている。

ちなみに水戸にある「尼港殉難者記念碑」も同じく陸軍大臣山梨半造の揮毫

忠魂
陸軍大臣山梨半造


土浦城跡(亀城公園)

太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓は復元。
続日本100名城に選定。


原脩次郎銅像(亀城公園)

原脩次郎(1871~1934)は茨城県初の国務大臣。
昭和10(1935)年に立像が建てられましたが戦中に金属回収に伴い供出。戦後、胸像が復元された。

亀城公園内のミニ動物園には、ニホンザル(日本猿)がいました。

土浦は、まだまだ訪れたいところがありますので、また再訪します。

※撮影:2023年11月


「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その3(飛行場地区)・霞ヶ浦海軍航空隊跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その3」となります。飛行場地区を中心として掲載。
その1」「その2」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

今回は、霞ヶ浦海軍航空隊の左側、四角で囲った格納庫エリアの散策。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

道路を挟んだ南側に、霞ヶ浦飛行場の飛行場地区がある。
 陸上自衛隊 航空学校霞ヶ浦校
 航空自衛隊 霞ヶ浦分屯基地


霞ヶ浦飛行場

管制塔

KASUMIGAURA
BASE OPERATIONS

管制塔の隣の「格納庫A」は戦後のもの。

この先の方に、押収格納庫があった。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫

手前から、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

茨城倉庫と庚申塚は、下記の記事にて

ファイル:USA-R373-84
1947年10月25日、米軍撮影の航空写真を加工。
該当の格納庫エリアを拡大。

現在の様子を、Google航空写真で照合。
自衛隊側の右から3番目だけ、屋根の形状が異なる。
それ以外の5つの格納庫は、往時から変わらない。

今回は、この格納庫を間近で見ることも目標。
(別途、井関農機の敷地内にも中央格納庫関連施設が現存しており、機会あれば見学したいが、それはまたその機会が来るまでお預け。

格納庫が6基並んでいる。

霞ヶ浦駐屯地の格納庫C

手前は、霞ヶ浦駐屯地の格納庫D
奥の3棟が自衛隊敷地外の民有地にある茨城倉庫土浦営業所の倉庫

霞ヶ浦駐屯地の格納庫Dは、だいぶリニューアルされている。

茨城倉庫土浦営業所の倉庫は、通し番号としては、手前から倉庫3、倉庫2、倉庫1となる。

霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとB。

ヘリを見ずに格納庫ばかり見ている、、、

手前から、霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとB、管制塔、格納庫A

霞ヶ浦駐屯地の格納庫C

霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとD、茨城倉庫土浦営業所の倉庫

霞ヶ浦駐屯地の格納庫B

ようやく、ヘリにも、歩み寄りました。

救難消防車庫

最新の空港用化学消防自動車、米オシュコシュ社製ストライカー3000。救難消防車IB型として飛行場に配備されている。

手前の救難消防車は、色褪せてますね。世代交代、お疲れ様でした。

※撮影:2023年6月


関連(茨城県)

はじめに

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その2(広報センター)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は、「その2」となります。本部地区の広報センター内部展示を中心に掲載。
その1」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


旧第一海軍航空廠及び霞ヶ浦海軍航空隊模型

これは、良くできた模型。
わかりにくい、霞ヶ浦飛行場周辺の海軍関係施設が、一目瞭然に理解できます。

年表で代表的な事項をピックアップしてみる。

  • 1921(大10)7月 霞ヶ浦海軍飛行場開設
  • 1922(大11)11月 霞ヶ浦海軍航空隊開設
  • 1924(大13)4月 押収格納庫竣工
  • 1929(昭4)8月16日 ツェッペリン伯号着陸
  • 1939(昭14)航空廠先発隊として横須賀海軍技術廠霞ヶ浦出張所が開設。航空廠建設に着手。
  • 1940(昭15)11月 土浦海軍航空隊開設。紀元2600年記念。
  • 1941(昭16)10月 第一海軍航空廠設立。
  • 1943(昭18) 押収格納庫解体。海軍軍需部霞ヶ浦支部で燃料供給開始(朝日分屯地)
  • 1944(昭19) 「桜花」試作一号機完成。
  • 1945(昭20)6月10日 阿見大空襲で土浦海軍航空隊の予科練生ら281人戦死。8月15日、終戦。10月、第一海軍航空廠は米軍に接収。賠償指定工場となる。

昭和20年頃の海軍各施設。
でも、押収格納庫は昭和18年には解体されているけど、ね。

第一海軍航空廠

霞ヶ浦海軍航空隊。
中央に、霞ヶ浦海軍航空隊中央格納庫や霞ヶ浦海軍航空隊戦闘指揮所がある。
井関農機の敷地内に現存している。

霞ヶ浦海軍航空隊

奥は、土浦海軍航空隊
真ん中は、霞ヶ浦海軍航空隊
手前は、第一軍需工廠


陸自のコーナー(1階)

武器補給処 追憶乃碑

野外にあった石碑とリンクしますね。これは、陸自時代の思い出。


旧第一海軍航空廠庁舎

昭和16年10月1日に開庁した第一海軍航空廠の庁舎。
昭和28年からの霞ヶ浦駐屯地でも、平成5年3月まで本部庁舎として使用。
施設再配置工事にて解体。


中島健氏の絵画

階段には、飛行機絵師・中島健氏の絵画が掲げられていた。

零式艦上戦闘機52型。
以前にコメントにていただいていた情報を思い出しました。

なるほど。
これは、作者として特定の個人を連想させないように、あえて顔を描かなかった、もしくは、顔を描けなかった、ような気配を、私は感じ取った次第です。


ハンザ式水上偵察機プロペラ

ハンザ式水上偵察機は大正15年に正式採用され、同年までに300機前後が生産された。当展示プロペラは刻印から同機種に取り付けられていたと推察され、写真の2枚羽が大半であったが、展示品は希少な4枚羽である。(写真:霞空十年史)

いわれてみれば、木製4枚羽のプロペラはあまり見ない。。。

14式水上偵察機、ってありますね。

プロペラの刻印。

単葉
ヒ式200H.P.
愛知No.473
15.8.31

ヒ式200馬力は、イスパノスイザ発動機とのことで、三菱ヒ式発動機でライセンス生産された。愛知時計電機製航空機製。

海軍のシンボル錨も刻印されている


第一海軍航空廠ゆかりの航空機

第一海軍航空廠が整備、修理、部品受領等で関わった航空機。

圧巻。日本海軍の航空機が勢ぞろいしている感がある。


第一海軍航空廠の関連資料

止水栓


高須四郎海軍大将の遺品

高須四郎は、茨城県稲敷市の出身。
旧制土浦中学(現在の土浦第一高等学校)卒業。
開戦時は、第一艦隊司令長官。
昭和19年、海軍大将。海軍乙事件において連合艦隊司令長官古賀峯一大将が殉職した際に、南西方面艦隊司令長官であった高須四郎は、次席指揮官として、後任の豊田副武大将が着任するまでの間、連合艦隊司令長官代行として、レ号歓待の指揮を執っている。


大空の女神 胸像
(藤田多美子女史胸像)

「その1」で掲載した歌碑とともに、胸像が、霞ヶ浦駐屯地にて保管されている。

藤田多美子女史の歌碑は、広報センター外に展示されている。「その1」で掲載。

歌碑に記される二首の歌
大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

 飛行機事故が起きませぬ様にわが命を捧げる事によって空の勇士を守り給えと祈りつつ、大空翔ける勇士の安全と武運を祈り、水戸通信学校の皆様に宛てた遺書に添えられていた藤田多美子女史の歌である。写真前に展示してある書籍「山桜の花影に」は、多美子さんの純粋で一途な愛国の心を後世に伝えるべく、多美子さんの実妹である増田芳江女史が平成16年に自費出版したものである。

「身は壌土と化すとも魂はかならず永しへに、この地にとどまり大空翔ける皆々様の御武運をお守りいたす事で御座いませう」遺書の一文。

「大空の女神」と呼ばれた乙女
 この胸像の女神は、茨城県水戸市に実在した藤田多美子女史である。
 多美子さんは、昭和15年11月29日、開戦気運が高まる中、相次ぐ航空機事故で命を落とす軍人たちを目の当たりにして、「何かお国のために、女ながらお役に立ちたい」との切望のもと、陸軍航空通信学校(旧・水戸市吉田原、現・水戸市住吉町)の飛行場の一隅にあった井戸に、身を投じ、わが身を、わが心を、わが命を飛行機事故が起きませんように、一人も犠牲者が出ませんようにとの祈りを込めて身を没しました。享年22歳の事である。
 多美子さんの行動は美談として称えられ、地元有志らにより、一周忌にあたる昭和16年11月、陸軍航空通信学校内に胸像と写真の歌碑、お堂が建立され「大空の女神」として戦時中、同校に祀られたものである。

展示までの経緯
 戦後、陸軍航空通信学校は米軍に接収され、女神像も遺棄されたが、昭和20年頃農家の納屋で発見され以来67年間に亘り、ご実家に安置され守られてきた。
 多美子さんの父親が生前「事故の根絶という娘の遺志を叶えるべく、せめて飛行場の見える位置に安置してあげたい。」と願っていたという事実を知りえたご遺族、旧陸軍航空通信学校出身者及びその支援者の働きかけにより、「場所は違えど、同じ茨城県内唯一の陸上自衛隊航空科部隊の飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像及び歌碑を置きたい。」との申し出があり、72周忌にあたる平成24年11月以降、ご意志を広く後世に伝えるため、当広報センターにおいて展示するものである。


藤田信雄海軍兵曹長

アメリカ本土を爆撃した唯一の事例として、藤田信雄氏のコーナーが設置されている。

レーガン大統領から「英雄」藤田信雄氏に贈られた星条旗とメッセージ。

1942年9月9日と29日に2回に渡って、アメリカ合衆国オレゴン州ブルッキングスの森林に焼夷弾を投下し山林火災を企図。
これが、歴史上で唯一の航空機による爆撃となり、そのときに爆撃を実施したのが伊25潜水艦から離水した零式小型水上偵察機11型の藤田信雄飛行長であった。
藤田信雄氏は、霞ヶ浦航空隊で水上機教育を受け、そして霞ヶ浦海軍航空隊で教育担当も行い、昭和17年に伊号25潜水艦で出撃し、米本土爆撃後の昭和18年に、再び霞ヶ浦海軍航空隊に配属され終戦を迎えている。


ツェッペリン伯号

ドイツの飛行船、ツェッペリン伯号のコーナー

係留環

藤吉 直四郎
昭和4年に、少佐としてドイツ出張。ツェッペリン伯号を日本まで誘導する任務を担った。
帰国後は、霞ケ浦空飛行船隊長。その後も、各地の航空隊司令を勤め、終戦時は、少将で土浦空司令であった。

藤吉直四郎海少佐(後少将)
昭和4年8月、ドイツ国の飛行船ツェッペリン伯号の世界一周に際し同船をドイツから霞ヶ浦飛行場まで1万1千キロ余の航程誘導の大任を無事果され、日本海軍の航空技術の優秀性を世界に示された。

ツェッペリン伯号関連の記念碑は広報センターの外に展示されている。「その1」で掲載。


陸自のコーナー(2階)

2階のむかって左半分は陸自のコーナー。(右半分が戦前のコーナー)

「兵站攻勢」
補給処の業務遂行の礎として。(石碑は野外の慰霊殿の近くにありました。)

火器展示

模型展示

※撮影:2023年6月

「その3」では、飛行場地区など。


関連(茨城県)

はじめに

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その1(本部地区)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その1」となります。本部地区の野外展示を中心として掲載。
その2」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


霞ヶ浦駐屯地

昭和28(1953)年に開設された霞ヶ浦駐屯地。
霞ヶ浦駐屯地は、旧日本海軍の「霞ヶ浦海軍航空隊」(霞ヶ浦飛行場)と「第1海軍航空廠」(海軍航空隊専用工場)の跡地でもある。

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep/about.html

霞ヶ浦駐屯地の駐屯地司令は、関東補給処長が兼務。
現在は、陸上自衛隊東部方面隊関東補給処、陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校、そして航空自衛隊中部航空方面隊中部高射群第3高射隊などが配備されている。


霞ヶ浦駐屯地一般公開

まずは、本部地区から。

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地

陸上自衛隊関東補給処

記念行事マップ

霞ヶ浦駐屯地(本部地区)案内図

荒川沖駅と駐屯地間は、送迎バスを利用しました。

本部庁舎(庁舎A)

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡

広報センターに、「霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡配置図」がありましたので、まずは本部エリアの散策を実施します。

駐屯地の史跡案内
●当駐屯地は、終戦によって設置されていた第一海軍航空廠跡に、昭和28年、東京都立川市から陸上自衛隊武器補給処が移転しました。平成2年に施設再配置工事が開始され、平成10年、現在の霞ヶ浦駐屯地の形になるまで第一海軍航空廠の施設を使用しておりました。
●施設再配置工事の際、旧海軍施設は取り壊されてしまったものの一部が当駐屯地に残存しており、歴史を感じることができます。

史跡配置図を参照にしながら、まずは散策を。


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

第一海軍航空廠時代の奉安殿が残る。貴重な遺産。

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

「霞ヶ浦神社」「海軍航空隊殉職者慰霊塔」などに関しては、上記のリンク先を参照で。

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

奉安殿に関しては、以下も参照で。

はじめに

合掌

霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿

かつては、菊の御紋章が掲げられていた


紀元二千六百年記念碑

皇紀2600年(昭和15年)を記念して建てられた記念碑。
慰霊殿の参道脇に。

紀元二千六百年記念碑

昭和十五年十一月十日
海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所有志建之

紀元二千六百年記念碑
昭和15年11月10日、皇紀2600年記念祝典が全国で執り行われました。皇紀年号は、初代天皇である神武天皇が即位(紀元前660年)してからを数える、日本独自の紀年法であり、この碑は海軍技術廠霞ヶ浦出張所(第一海軍航空廠の前身)有志が建てたものです。
余談ではありますが、零式艦上戦闘機(通称:零戦)はこの年に正式採用され、皇紀2600年の下二桁の00をとり、零(れい・ぜろ)式と命名されております。


兵站攻勢

慰霊殿の参道近くに。これは戦後のもの。

兵站攻勢

昭和58年6月建立。
第17代武器補給処長 陸将 中根新一謹書


飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報センターのエリアの展示物を。
飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑は、もともとは飛来着陸跡(霞ヶ浦駐屯地の飛行エリア南端付近)に設置されていいたが、平成20年現在地に移設。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑
 昭和4年(1929年)8月19日、世界最大のドイツ飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中、当時東洋一といわれたここ霞ヶ浦海軍航空隊に着陸した。5日間の滞在中に約40万人が見物、上野ー土浦間に臨時列車も運行し、阿見原(現阿見町)は人の波で埋まったという。格納庫は全長240mで第一次世界大戦の戦利品である「押収格納庫」を利用した。
 昭和6年にはリンドバーグ夫妻も飛来し、当時霞ヶ浦は世界的空港でもあった。
 昭和49年に係留石と係留環が発見されツェッペリン伯号がこの付近に着陸したことをうけ、昭和50年に記念碑を建立した。
 平成5年阿見町名所百選にも選ばれている。
 近年見学者が減少しつつあり、ツェッペリン来訪の歴史を忘れないため現在地に移設し展示するものである。
 平成20年6月18日
 第33代 霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 藤野 毅

ツェッペリン伯号 飛来の地
昭和4年8月19日、世界最大のドイツ飛行船、ツェッペリン伯号が飛来しました。
シベリア上空を通り1万1千キロという距離を渡ってきたのです。滞在は4日間でしたが、新聞やラジオも大きく報じ、見物人はなんと40万人。
上野ー土浦駅間に臨時列車も運行されましたがそれでも乗車しきれず、飛行場にはこの光景を一目みるために野宿をする人もたくさんいたそうです。かつてこの場所に設置されていた飛来記念碑は、現在広報センター前に移設されております。


日独友好濫觴之地

日米友好の「濫觴=はじまり」の地を記念する碑。

ツェッペリン伯号交歓記念
日独友好濫觴之地

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地司令
 陸将 近藤 清秀 書

近藤清秀氏は技師として、61式や74式戦車開発に携わっていたことで著名。

ツェッペリン伯号係留環

由来
昭和4年8月19日は、当時世界最大の飛行船であったツェッペリン伯号が、世界一周早廻り飛行を目指して、祖国ドイツから一気に全人未翔のシベリア上空を超えて、最初の着陸地阿見原に安着した日である。滞在5日間にわたる地元をあげての歓待、就中巨大格納庫を擁する霞ヶ浦海軍航空隊の民族を超えた協力が、引き続く正規の大偉業完遂に貢献した役割は大きい。ドイツ側も駐日大使を始め多数の在留ドイツ人がこの地に交歓し、阿見原はまさに日独友好濫觴の地となった。
春秋幾星霜、今や辛うじて残されているツェッペリン伯号係留石等の他には、かつてこの地の果たした世界史的意義を想起させるものがないことは淋しい。
ここに記念碑を建立し、その誇りの継承を期する所以である。

係留環


大空の女神 歌碑

「大空の女神」とよばれた乙女。
茨城県水戸市の藤田多美子女史は、自らの身をもって戦闘機事故の根絶を願った。

大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

「大空の女神」
大君の 御楯となれる 益荒男の 空の勇士に この身捧げん
大空に産声挙げし吉田原 この身捧げて 守りまつらん

この歌碑は、昭和15年相次ぐ戦闘機事故の根絶を願い、陸軍航空通信学校(水戸市住吉町)飛行場一隅の掘井戸で入水自決した藤田多美子女史の遺書に添えられていた歌だる。
 身を挺した行動が美談と称えられ、昭和16年陸軍航空通信学校にお堂を建立し「大空の女神」として女史の胸像と歌碑が祀られていた。
 戦後、遺族が引き取り安置していたがご意志を後世に広く伝えたく、72周忌にあたる平成24年11月以降支援者等の働きかけにより、飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像と歌碑を移設し展示するものである。
 平成25年4月13日
  第37代霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 櫻木 正明

藤田多美子女史の胸像は、広報センター内に展示されている。
「その2」で掲載。

もともとは、陸軍航空通信学校に祀られていた。
昭和13年6月に水戸陸軍飛行学校が新設。航空通信や戦技、火器などの教育や研究が行われた。
昭和14年に陸軍航空通信学校(吉田)が新設されたことにより、水戸陸軍飛行学校の航空通信教育も移管となった。


旧本部庁舎前 消火栓

海軍の消火栓

消火栓
旧軍第一海軍航空廠季題、本部庁舎前に設置されていたものである。

旧本部庁舎前 消火栓
昭和16年、海軍飛行機専用工場である「第一海軍航空廠」が現霞ヶ浦駐屯地の敷地に建てられました。
海軍航空廠は海軍航空隊基地近くにあり、戦闘機や練習機などの修理・補給・制作を担っておりました。この消火栓は、平成5年頃までは旧本部庁舎前にあり、現在使用しているA庁舎が建てられるに伴い広報センター前に移設・展示されることになったのです。
海軍のシンボルである「錨」のマークもしっかりと刻印されています。


木レンガ

第一海軍航空廠整備工場内に設置されていた木製レンガ。

木レンガ
旧軍第一海軍航空廠時代、大型航空機の整備工場の中に設置されていたものである。


総蹶起の月 記念碑

防火水槽の一部を保存。

総蹶起の月 記念碑
昭和19年、太平洋戦争の戦況は好転せず、山場を迎えようとしていました。この碑は、かつて航空廠内北東に存在した航空エンジン試験場裏に、防火水槽を作ったのを記念して北側外壁に刻み込んだものです。
この年、大都市では疎開が始まり、予科練製の大部分は特攻隊員となり、米軍がサイパンに上陸。学徒動員、女子挺身隊勤労令が発せられました。
総蹶起とはいいながら、この時期日本には十分に性能を発揮して戦える飛行機は残されていませんでした。

「総決起の月」記念碑
旧軍第一海軍航空廠時代、航空エンジン試験場の裏防火水槽を作ったのを記念して水槽北側の外壁に刻み込んだものである。


そのほかの戦跡

以下の2つは、立入禁止エリアでしたので、情報のみで。

飛行機係留環及び米軍爆撃跡地
大型機体組立工場に隣接していた、北東に延びるコンクリート製の飛行機係留場。現在も1/3程度が残されており、火器車両部が資材置き場として使用しています。
飛行機を繋ぐ係留環は地面にそのままの形で残されていますが、米軍により爆撃を受けた箇所は補修によって周囲のコンクリートと材質が異なっており、その威力と範囲をうかがい知ることができます。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚は下記にて


霞ヶ浦駐屯地の記念碑

以下は、陸上自衛隊時代の記念碑。

武器補給処「追憶の碑」
武器補給処は昭和29年に霞ヶ浦駐屯地に移駐。平成10年に関東補給処と改編。47年間の歴史を追憶する記念碑。

煌(きらめき)
「煌」とは、首都防衛任務の要たる東部方面隊を支える駐屯地として「内から自ら煌く駐屯地」に変貌を遂げるべくとの期待を込め名付けられたもの。平成15年建立。霞ヶ浦駐屯地開設50周年記念。

90式戦車
石像の戦車。みごと。

90式戦車の本物。

10式戦車も。
2台とも土浦の武器学校から来たっぽい。ご近所さん。


厚生センター

日替わり定食を。天丼と蕎麦。

※撮影:2023年6月

「その2」では、広報センター内の展示資料など。


関連(茨城県)

はじめに

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その4・陸自編

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その4」となります。(土浦駐屯地シリーズの締め)
歴史的な説明は「その1」で

陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。

校風の碑

武器学校の校風。

進取着実
科学精神


戦車と観桜

あとは、観桜をお楽しみください。
(詳細省きます、、、)

観桜会
立ち入り可能な場所をチェック

広報地区

砲身と桜

10式戦車

わかる人は、砲身で、なんの戦車かわかるかと。

61式戦車、です。

日本の戦車。

61式、74式、90式、10式。

61式は好きかも。

74式戦車

90式戦車

10式戦車

後ろ側にもまわれました。

戦車群。

いろいろ

かわいらしい。

60式自走106mm無反動砲

いろいろ。多すぎるので説明省略。

旧陸軍の病舎の前に。

水槽に集まる桜

10式戦車

戦車回収車。

16式機動戦闘車。最新鋭ですね。これは好き。戦車ではないけど、74式戦車相当の火力を有している装輪戦車。

19式装輪自走155mmりゅう弾砲

これも最新鋭。

いろいろ

駐屯地といえば、通信鉄塔

厚生センター

武器学校一番人気 温玉豚しゃぶ丼

警衛隊の小型トラック 黒版。

警衛隊の小型トラック 白版。

体育館は、観桜会食会場。一般は立入禁止、、、

グランドも開放。なにもないけど。

的はあった。

こんな感じの、土浦駐屯地の観桜会でした。

※2023年4月1日撮影

土浦界隈は、興味ある調査対象が増えたので、また行きます。

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その3・陸軍編

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その3」となります。
歴史的な説明は「その1」で


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。

三式中戦車 チヌ

大日本帝国陸軍の中戦車。
開戦時の主力戦車「九七式中戦車 チハ」は主砲の威力不足もあり、連合国軍の「M3軽戦車」に苦戦を強いられていた。そこで陸軍は、主砲を換装した「九七式中戦車 チハ新砲塔型(新砲塔チハ)」と。更に防御力と機動力を改良した「一式中戦車 チヘ」を購入して、M3軽戦車に対抗した。
しかし、米軍はより強力な「M4中戦車」を大量配備することで、日本陸軍も新型戦車の豆乳が必要となった。
完全な新設計となっていた「四式中戦車 チト」と「五式中戦車 チリ」は開発中のため、一式中戦車の武装を改良した「三式中戦車 チヌ」を開発。昭和19年九月に三菱にて試作が完成し、10月には早くも量産となった。第二次大戦終戦までに166輌が生産された。

アリクイさんチームの戦車ですね。

八九式中戦車乙型

大日本帝国陸軍の中戦車。日本初の国産制式戦車。
1928年3月に開発が進められ、試作が1929年4月に完成。
1929年10月に軽戦車として「八九式軽戦車」として仮制式化されるも改修により、1935年(昭和10年)9月13日に制式名称を、新部類された中戦車として「八九式中戦車」と制式化される。
現存唯一の89式中戦車乙型。なお本機は武器学校教育の一環として自走可能状態までレストアされている。

アヒルさんチームの「はっきゅん」ですね。

土浦駐屯地・武器学校では、帝国陸軍の戦車が2両、保管されている。

火砲館

文字通り、火砲にまつわる展示。
日清・日露戦争当時の野砲・山砲・対戦車砲等が展示。

三八式野砲
改造三八式野砲

四一式山砲

九一式十糎榴弾砲

九四式三十七粍砲
一式機動四十七粍砲

鹵獲クルップ砲

四年式十五粍榴弾砲


続きは「その4」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その2・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その2」となります。

歴史的な説明は「その1」で。

また、下記も参照で。


予科練平和記念館

土浦駐屯地のとなりに「予科練平和祈念館」がある。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

買い物など


予科練の碑(予科練之碑)

土浦武器学校内の雄翔園に。

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練之碑

題字は寺岡謹平。海軍中将。

高松宮妃電化御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行
予科練習生を偲びてよめる

海はらに
 はたおほそらに
  散華せし
きみら声なく
 いく春やへし
      喜久子

昭和41年5月27日、この御歌は、高松宮喜久子妃殿下のご直筆。

碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
昭和41年5月27日
 海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
 撰文 海軍教授 倉町秋次

雄翔園・雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

今回は、土浦駐屯地開放日だったので、それはそれで問題なく開放。


旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。

旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍用地の境界標石。

https://goo.gl/maps/xhJKsb2EaJRJGEua7

場所

https://goo.gl/maps/UEmVQR16HtL1zot18


続きは「その3」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その1・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

土浦海軍航空隊の跡地。

現在の航空写真。


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。


旧土浦海軍航空隊正門

現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。

駐屯地配置図。


旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)

昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。

この部分に、渡り廊下があった。

病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。


広報史料館

土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。

駐屯地紹介コーナー

予科練第三兵舎解体記念

5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。

旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部


弾薬展示コーナー

小火器コーナー

九八式射爆照準器

覗いてみる。おもしろい。

95式射爆照準器

こっちも覗いてみた。おもしろい。

豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架

一式旋回機銃二連(航空機銃)

旧軍関連の小火器

対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃

砲隊鏡

拳銃

指揮刀


初代・山本五十六元帥像の左手

昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。

ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像

雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像

桜賑わう霞ヶ浦湖畔。

この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。

土浦駐屯地内に戻ります。


行幸記念

(表)
行幸記念

(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書

戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。

天皇行幸記念の碑
 この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
 石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。

機銃の跡。

土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。


旧土浦海軍航空隊号令台

号令台跡
 この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
 毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
 また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。

号令台の上から。


常在戦場の碑

山本五十六の常在戦場

常在戦場
昭和十年四月 山本五十六

昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之

 この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
 この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
 昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。

台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。


皇太子殿下行啓記念碑

皇太子殿下行啓記念の五葉松
 この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。


本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」

土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。

2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。

「雄飛の松」由来記
 霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
 初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
 戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
 伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
 2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
 平成7年2月22日

昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)

2代目「雄飛の松」


旧土浦海軍航空隊裏門跡

かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。

そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。

この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。


霞ヶ浦

土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。


旧土浦海軍航空隊スロープ跡

武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)


正門前の「海軍用地」境界標石

別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。


雄翔園そのほか海軍系は、その2で。

旧軍戦車と火砲は、その3で、

陸自の戦車は、その4で。

※2023年4月1日撮影


水戸陸軍墓地跡と水戸歩兵第二聯隊跡地の散策

水戸市内の戦跡散策。
水戸市内には、「水戸歩兵第二聯隊」が駐留していた。

以前に、水戸歩兵第二聯隊には触れており、今回はその際に散策しきれなかった箇所などを追記。


参考記事

水戸歩兵第二聯隊や茨城県護國神社など。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M177-A-7-13
1946年06月26日、米軍撮影の航空写真。

該当部を拡大。

水戸歩兵第二聯隊は茨城大学、水戸工兵隊は茨城大教育学部付属中、練兵場は堀原運動公園、そして水戸陸軍墓地は堀町公園墓地となっている。


水戸歩兵第二聯隊

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

詳細は、「水戸歩兵部隊の跡碑」にて。


水戸陸軍墓地

現在の「水戸市営堀町公園墓地」。
墓地の北西の一角に「戦没者碑」として、個人墓石を100基弱纏めた区画に整理されている。
もともと水戸陸軍墓地に埋葬されていた遺骨などは、遺族会が、昭和25年に墓地跡地に建てた「戦没者留魂の処」に7700余柱を納骨していた。
その後、昭和38年に茨城県護国神社内に「顕勲の塔」建立し遺骨を改葬。
当地には遺骨はなく、墓石のみが、整然と整理されている。

水戸陸軍墓地の門柱

水戸市堀町公園墓地

墓地区画の隅に「戦没者碑」とある。

再整備で整然と並び過ぎの墓石。
当時からの区画ではなく、再整備で追いやられたともいう。

手前は、上等兵などで中列は伍長など。大きな墓石は佐官と尉官。

まわりよりも大きな墓石。
奥の2基は、陸軍少佐、手前の3基は陸軍少尉。

石上中尉記念碑

石上中尉記念碑
工兵第十四大隊長 石井泰一書


大正13年9月11日、爆破操作中に石上指揮官(石上則得工兵中尉)が操作を誤り、部下3人を爆死させてしまったことを自責し、大正14年11月に工兵を除隊し11月27日に自刃。
石上中尉の一周忌に際して、大正15年11月27日に、工兵第十四大隊によって記念碑が建立された。
記念碑を揮毫した石井泰一の最終階級は陸軍少将。大正12年に陸軍工兵大佐・工兵第十四大隊長となる。

水戸陸軍墓地内に、墓石とは違うが石上中尉記念碑もある。

場所

https://goo.gl/maps/qupyzjdbHBgPm4dX9

https://goo.gl/maps/zH7pHgU4i6WNg2MD8


陸軍境界標石(練兵場南西隅)

水戸陸軍墓地に赴く途中、「新原二丁目バス停」から、当時の練兵場の南辺に沿って歩いていたら、突き当りに境界石を見つけました。

陸軍用地

現在も「境界」(水戸市道界)として活用されています。

場所

https://goo.gl/maps/18Km1bZ2rJcTV7Bp9


陸軍境界標石(水戸陸軍墓地)

水戸陸軍墓地の入り口脇の倉庫に立掛けるように、境界票石がありました。界隈で引き抜かれたものが保存されているものと思われます。

陸軍用地


陸軍境界標石(練兵場西辺)

これは違うかもしれません。しかし位置的にも材質的にも、往時の陸軍境界標石であったもおかしくない感じです。

場所

https://goo.gl/maps/yEaxv6SWy2393knBA

※撮影は2022年9月


戦没者留魂の處

水戸陸軍墓地に戦後、納骨施設が作られた。
昭和25年に建設された「戦没者留魂の處」には、7700余柱の遺骨が納骨されていた。
昭和38年に茨城県護國神社内に、「顕勲の塔」が建設され、遺骨は塔内に移管。「戦没者留魂の處」の碑などは、昭和59年に「顕勲の塔」の脇に移設された。

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

※撮影は2017年8月

顕勲の塔

水戸陸軍墓地にあった7700余柱の遺骨は、現在は、茨城県護国神社境内の「顕勲の塔」に納骨されている。

顕勲の塔
碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

合掌

※撮影は2017年8月


茨城県護國神社

https://ibaraki-gokokujinja.jp/precincts/

軍艦那珂忠魂碑(大洗磯前神社)

大洗磯前神社には何度も参拝をしておりました。
それこそ、「ガルパン」とか「艦これ」とかで賑わう前から、神社フリークとしても東国有数の古社「延喜式内明神大社」にして「国幣中社」という格式からも欠かせない神社。初参拝は平成13年(2001)3月でした。約20年前となると往時は学生でしたね。。。

あまりにも身近すぎたために、このサイトに掲載するのはうっかり忘れておりましたので、久しぶりに参拝をしまして、「軍艦那珂忠魂碑」を改めて撮影、掲載することにします。


軽巡洋艦「那珂」

大日本帝国海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)。川内型軽巡洋艦の3番艦。姉妹艦は「川内」「神通」川内型軽巡洋艦は、5500トン型軽巡洋艦の第3グループ(最終グループ)にあたる。艦名は大洗磯前神社のある大洗町の北側を流れる那珂川に因んで命名された。
横濱船渠(横浜船渠)で1925年(大正14年)3月24日進水。

美保関事件
1927年(昭和2年)8月24日。
那珂は第五戦隊を編成し、観戦武官として伏見宮博義王が乗艦していた。
夜間演習で戦隊は衝突を起こし、神通は駆逐艦蕨と衝突し、神通は大破し蕨は沈没、那珂は駆逐艦葦と衝突し両艦とも大破するという、美保関事件が発生している。

第四艦隊事件
1935年 (昭和10年) 9月25-27日。
第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた。
麾下の初雪で溺者1名にはじまり、荒天で夕霧が艦首切断で行方不明27名、さらに救助中の初雪が艦首切断行方不明24名という、第四艦隊事件が発生している。

太平洋戦争
太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活躍。(四水戦)
1942年(昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。
復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。
1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところ「トラック島空襲」に遭遇、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没。

トラック空襲
軍艦那珂忠魂碑にある艦歴の記載から抜粋する。

昭和十九年二月十七日
トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦同島南西海域ニ於テ九時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末満身創痍砲ハ飛散艦首艦橋切断海中ニ没ス 
後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

軍艦那珂忠魂碑 艦歴

那珂の艦歴をかたる碑は、これ以上は何も語っていない。
ただただ「那珂」を偲ぶだけだった。
この簡潔にして勇壮な文章が那珂の最期を伝え、そしてありし日のすがたを偲ぶ。私は、大洗の地から太平洋を望み、那珂が終焉を迎えたはるかなトラック群島の気配を感じるだけであった。

アメリカ軍がマーシャル諸島を泊地としたことから、連合艦隊の根拠地であったトラック群島は極めて危険な状態となり、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は連合艦隊主力艦隊を昭和19年2月10日に退避。
そのわずか一週間後の17日に米軍のトラック大空襲(スプルーアンス中将率いる第五艦隊・空母5軽空母4戦艦6巡洋艦10駆逐艦28)が敢行された。
トラック基地及び第四艦隊(司令官小林仁中将)の迎撃は後手となり、航空機のほととんどが離陸時に撃墜。完全に制空権を握られ17日18日の二日間の空襲で基地機能喪失、航空機270機喪失、軽巡洋艦「那珂」、駆逐艦「太刀風」「追風」「文月」、特設巡洋艦「愛国丸」「清澄丸」「赤城山丸」、特設潜水母艦「平安丸」「りおでじゃねいろ丸」、輸送艦30隻(194000トン)が撃沈。
そのほか水上機母艦「秋津洲」駆逐艦「時雨」「秋風」、特務艦3隻、潜水艦4隻が損害を受けた。
またトラック島を出港しようとした新鋭軽巡洋艦「阿賀野」がトラック空襲の前日16日に潜水艦の雷撃で撃沈。
翌17日に脱出しようとした練習軽巡洋艦「鹿取」駆逐艦「舞風」「野分」が包囲していた戦艦部隊に捕捉され「鹿取」「舞風」は撃沈。「野分」だけはトラック島からの脱出に成功した。

こうして、軽巡洋艦「那珂」は、最期のトラック空襲では9時間にも及ぶ対空戦を行い艦首艦橋切断大破しつつも満身創痍で奮戦し沈没した。
那珂沈没で約240人が戦死し末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。


軍艦那珂忠魂碑

軍艦那珂忠魂碑
第四代艦長 従四位勲三等 今和泉喜次郎 書

今和泉喜次郎大佐は、軽巡洋艦那珂の第24代艦長。1943年3月25日から1944年1月6日まで勤めている。今和泉艦長時代の「那珂」は第十四戦隊として、トラックラバウル界隈の輸送護衛や「タラワの戦い」の支援なにど従事している。


ただただ「那珂」を偲ぶ。ありし日の姿を偲ぶ。
大洗の海から太平洋、そしてはるかなトラック群島を拝む。

那珂ちゃんの聖地
「那珂ちゃん!」「艦隊のアイドル!」
そのきっかけはなんであれ、歴史を伝承する最初のきっかけとして「艦これ」が機能するのであれば、それも良きこと。

巡洋艦那珂
常備排水量5,595トン 機関出力90,000馬力 速力35,25ノット

「輝シイ武勲ヲ残シテ終焉」の一言が重い。

軍艦那珂艦歴
大正14・3・24 進水
仝〃11・30   竣工呉鎮守府所管トシテ艦籍ニ入ル
仝〃12・5    第1艦隊第3戦隊編入南支沿岸台湾方面行動
昭和4・11・30 第1艦隊第1水雷戦隊編入上海方面ニ行動
仝7・1・28   第1次上海事変ニ出動
仝9・11・15  艦籍ヲ横須賀鎮守府所管ニ転籍
仝10・11・15 第2艦隊第2水雷戦隊旗艦トナル
仝11・2・26  二二六事件発生鎮圧ノ為東京品川沖ニ出動
仝14・11・25 第2艦隊第4水雷戦隊旗艦トシテ南支方面行動
仝16・12・7  太平洋戦争比島部隊トシテ比島ルソン島出撃
仝〃 〃 10   ビガン攻略
仝〃 〃 22   同島リンガエン湾大上陸作戦支援部隊デ活躍
仝17・1・7   蘭印部隊トシテ出撃ボルネオタラカン攻略
仝〃 1・21   ボルネオパリクパパン進撃攻略
仝〃 2・27   ジャワ島スラバヤ作戦大船団護衛南進中
          米英蘭艦隊ヲ迎撃
          敵艦撃沈大戦果ヲ収メクラガン上陸作戦ヲ
          成功セシム
仝〃 3・26   印度洋上クリスマス島作戦参加攻略
仝〃 12・8   ジャワ島攻略作戦ノ勲功ニヨリ
          山本五十六連合艦隊司令長官ヨリ感状授与サル
仝18・4・1   第4艦隊第14戦隊旗艦トナリ
          南洋トラック島ヲ基地ニ
          南洋方面作戦特ニ輸送任務ニ活躍
仝〃 11・5   上海方面ヨリラバウル方面ニ陸軍部隊輸送ス 
          ラバウル港ニ於テ敵機部隊ト交戦
仝〃 〃 25   マーシャル群島
          ポナペ島クエゼリン島クサイ島ミレ島ニ
          陸軍部隊輸送
仝19・2・17  トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦
          同島南西海域ニ於テ
          9時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末
          満身創痍砲は飛散艦首艦橋切断海中ニ歿ス 
          後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没
          連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ
          輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

大洗磯前神社の境内案内

軍艦那珂(なか)は、日本海軍の軽巡洋艦。神社の北側を流れる那珂川に因んで命名され、艦内神社として当社がお祀りされていました。
 艦内神社とは、古くから船には神様を祀る風習があり、軍艦には艦名に縁がある神社の御分霊をお祀りして艦長はじめ乗組員は事あるごとにお参りしていました。
 軍艦那珂は20年ほど前線で活躍しましたが、残念ながら昭和19年2月17日に沈没しました。沈没後40年にあたる昭和58年に忠魂碑が建立され、現在も毎年2月17日に慰霊祭が行われています。

軍艦那珂忠魂碑 https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

場所

https://goo.gl/maps/GSXpc6PDpzdj2Vo3A


大洗磯前神社(式内名神大社・国幣中社)

御祭神
主祭神:大名貴命
(オオナムチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)
配祀神:少彦名命
(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神)

文徳天皇実録(六国史の一つ)によると、斉衡三年(856)、度々地震が発生し人心動揺し国内が乱れて居た時に、常陸国鹿島郡大洗の浜に「両恠石」(二つの怪しい石の意)が示現し、それは「高各尺許、体於神造、非人間石」というものであったという。
石の出現の翌日には「亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐」とされ、里人の一人に神がかりして人々にいうには「我は、これ大名貴、少彦名神也。昔、この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救うために再びこの地に帰ってきた」と仰せられたという。
オオクニヌシ神(元々、オオクニヌシ神とスクナヒコナ神は同神との説もある)は自ら東国の混乱を鎮める平和な国土を構築するために大洗の降臨したということになる。

大洗磯前神社は創立当初から関東一円の総守護神として祀られ、酒列磯前神社共々に天安元年(857)には官社、そして延喜の制では「大洗磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。(両社の関係は不明だが、那珂川を挟んで鹿島郡・那珂郡にそれぞれ両神が祀られたと考えて良いだろう。)

永禄年間(1558-1570)に小田氏治の兵乱で社殿以下の諸建築を焼失してしまい、以後小社で祭祀を続けていたという。
水戸藩主徳川光圀は見るに忍びず元禄三年(1690)に現在の社地の中程に社殿を造営。徳川綱條が享保十五年(1730)に本殿、拝殿、神門を再興したという。
現存の社殿は当時の建造物(本殿・拝殿は県文化財)。明治の世になると明治七年には県社、明治十八年には国幣中社に列せられている。

神磯の鳥居

神磯の鳥居。
まぶしいばかりに輝く太平洋を望む。
大洗の浜からやってきた神様を祀る。

ありがたい空間。

那珂川

那珂川。関東地方では第三の大河。
北側は、ひたちなか市。

那珂川から太平洋を望む。

那珂川の南側にはアクアワールド大洗水族館。

北側は那珂湊の漁港。

今回は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」でレンタサイクルをして、大洗磯前神社に赴きましたが、水戸駅や大洗駅からバスも出ています。大洗駅にもレンタサイクルがありますね。


関連

那珂ちゃんは、横浜ドックの産まれ。

艦内神社

軍艦の慰霊碑
軍艦多摩慰霊碑
戦艦武蔵の碑

「水戸陸軍飛行場跡(水戸東飛行場跡)」水戸つばさの塔(ひたちなか市)

茨城県ひたちなか市。

戦前、水戸の周辺には3つの陸軍飛行場があった。
水戸飛行場(水戸東飛行場)
水戸南飛行場(吉田飛行場)
水戸北飛行場(水戸北秘匿飛行場)、未完成の特攻用飛行場。

今回は、その中心にあたる「水戸飛行場(水戸東飛行場)」に関して。


水戸飛行場

昭和13年(1938年)、「水戸飛行場」設定。場所は茨城県那珂郡前渡村(現在のひたちなか市新光町)。
昭和14年(1939年)、「水戸陸軍飛行学校」が開校。東部には「陸軍航空審査部水戸試験場」が設置。
昭和15年(1940年)、水戸南飛行場に「陸軍航空通信学校」が開校。
昭和18年(1943年)8月、「水戸陸軍飛行学校」は仙台に移駐となり、「明野陸軍飛行学校分校」(明野陸軍飛行学校水戸分校)が開校。
昭和19年(1944年)6月、陸軍教育機関が随時で防空戦闘体制に移行。「明野陸軍飛行学校分校」も「常陸教導飛行師団」に改編。以降、水戸東飛行場及び水戸南飛行場から本土防衛のための特攻作戦が敢行された。
昭和20年(1945年)4月、「常陸教導飛行師団」主力は群馬の「新田飛行場」に移転。
昭和20年7月、各地の教導飛行師団は統合され地名を冠しない「教導飛行師団」(本部は宇都宮)に統括。「常陸教導飛行師団」も教育部隊と作戦部隊に分離改編され、「教導飛行師団第2教導飛行隊」「飛行第112戦隊」となる。

各地の教導飛行師団としては、下志津教導飛行師団、明野教導飛行師団、浜松教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、常陸教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団があった。統合後の単一組織としての教導飛行師団本部は宇都宮。明野には第1教導飛行隊が、常陸(水戸)には第2教導飛行隊が置かれた。

そして改編分離された作戦部隊として新設された、明野教導飛行師団第1教導飛行隊「飛行第111戦隊」と、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊「飛行第112戦隊」は、最後の陸軍戦闘機部隊であった。

戦後は付近一帯の現国営ひたち海浜公園および常陸那珂地区が1946年(昭和21年)から27年間アメリカ軍の「水戸対地射爆場」として使用され、1973年(昭和48年)に日本に返還されている。


陸軍航空通信学校

昭和15年(1940年)8月、水戸陸軍飛行学校内で開設。
昭和15年12月、水戸南飛行場(吉田飛行場)に移転。
昭和20年5月、陸軍航空通信学校は「水戸教導航空通信師団」に改編。水戸教導航空通信師団の任務は主として将校と下士官の教育であった。

水戸教導航空通信師団事件
昭和20年8月17日、水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐らは、宮城事件などで東京で終戦阻止で決起した部隊と合流しようと画策。林慶紀少尉は決起に反対する教導通信第二隊長田中常吉少佐を射殺。
そうして、水戸教導航空通信師団の将兵391人は、終戦阻止の動きに呼応して「東京での徹底抗戦」を目指し、水戸駅を出発、正午過ぎに続々と上野公園(東京美術学校)に集結。

近衛第一師団参謀石原貞吉少佐が上野で上京した水戸教導航空通信師団部隊に対し撤収の説得を行った。これは、指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子であったからという。
しかし、石原貞吉少佐は、林慶紀少尉に射殺され、そして林慶紀少尉は自決。林少尉の所属していた小隊長の松島利雄少尉も責任を取り自決。リーダー格であった岡島哲少佐、杉茂少佐も自決し事件は収拾した。


水戸飛行場に関係する組織

水戸陸軍飛行学校
 (仙台陸軍飛行学校)
陸軍航空通信学校
明野陸軍飛行学校分校
 (明野陸軍飛行学校水戸分校)
常陸教導飛行師団
 (教導飛行師団第2教導飛行隊と飛行第112戦隊)
水戸教導航空通信師団
陸軍航空審査部水戸試験場


水戸つばさの塔

かつての陸軍水戸飛行場跡の一角、現在の那珂湊運動公園の南東に、往時を偲ぶ空間があった。

水戸つばさの塔
 菅原道大書

散る桜 残る桜も
 散るさくら

菅原道大は、陸士21期。最終階級は陸軍中将。生粋の航空畑育ちで陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官であった菅原の名とともに垣間見る「残る桜」の重みを痛感。

合掌

昭和50年5月吉日建立。つばさと日本刀を象徴しているという。


由来記

由来記
 昭和13年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し翌年水戸陸軍飛行学校が開校。通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。
 昭和15年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。
 戦局の要請により昭和18年8月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。昭和19年6月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編。精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。
 この地にあってその職に殉ずる者および、昭和20年2月16・17日の艦載機群邀撃等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於いても電鍵を片手に華と散った者数知れず。更に昭和19年11月以降特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第24振武隊、第53振武隊、第68振武隊、平井隊、誠35飛行隊の勇士七十余人は、相ついで進発レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。
 昭和20年4月、師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。
 ここに終戦30周年を期し、関係者ならびに有志相計りこの戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念して、この塔を建立す。
  昭和50年5月3日
   水戸飛行場記念会


陸軍 境界票石

上記の由来記の記念碑の隣に、さりげなくある。

2 陸軍用地


国旗掲揚塔(紀元2600年記念)

紀元2600年記念は、昭和15年(1940年)。

昭和15年に水戸陸軍飛行学校長であった、中薗盛孝の書と思われる。中薗盛孝は、最終階級は陸軍中将。
第3飛行師団長として出征し昭和18年(1943年)9月、搭乗機が広東上空で撃墜され戦死。


陸軍航空通信学校の門柱

水戸南陸軍飛行場にあった陸軍航空通信学校の門柱。


この校門は昭和15年陸軍航空通信学校が開校された元の所在地(水戸市住吉町)付近の畑に破損したまま放置されていたもので表題字は同校元副官山口敦氏の揮毫である。
 昭和56年4月16日
 水戸つばさの塔奉賛会

陸軍航空通信学校
山口敦の揮毫

金具が一つしか残っていない。


立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ

立川九八式直接協同偵察機
別称は、九八式直協偵察機、九八式直協、九八直協、直協機など。司令部偵察機(司偵機)は戦略的な偵察任務を主とし、直接協同偵察機(直協機)は戦術的な偵察、近距離偵察を主任務としていた。立川飛行機としては初めての全金属製機であった。九八直協の総生産機数は1,334機で、立川飛行機としては最も多く生産した機種でもあった。

単葉機の割には短距離での離着陸が可能で、操縦性・低速安定性もよく、エンジン故障が少なく整備も容易だったため、使いやすい万能機として偵察、指揮、連絡、対地攻撃などの任務、さらには爆装した特攻機として終戦まで活躍した機体。

立川98式直協偵察機の「陸軍ハ13甲エンジン(九八式四五〇馬力発動機)(海軍呼称では天風エンジン」につけられていたプロペラが展示してある。

立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ
このプロペラは、昭和20年2月26日の艦載機大空襲の際に、当飛行場から迎撃に飛び立ち、激闘のすえ壮烈な自爆を遂げた戦友(不詳)の最期を偲ぶもので、昭和51年8月11日、日立港沖合の海底から引揚げられたものである。
 昭和52年1月吉祥日
  水戸つばさの塔奉賛会


2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン

川崎二式複座戦闘機(二式複戦)。愛称は屠龍。エンジンは、三菱の陸軍ハ102(海軍呼称では瑞星21型)。
1942年(昭和17年)2月(皇紀2602年)に二式複座戦闘機として制式採用され。B-29迎撃で活躍。屠龍生産機数は1,704機。三菱のエンジン(陸軍ハ26・ハ102、海軍瑞星、陸海軍統合ハ31)としては、全型式総計で12,795台生産された。

2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン
この発動機は大洗沖で操業中の漁船の網に掛かりひき揚げられたもの。二式複座戦闘機(キ-45屠龍)のものと判明


増槽

屠龍のエンジンの後方には「増槽」も展示してある。
屠龍の増槽タンクなのかは不詳。後部には安定翼もあるジュラルミン製の燃料増槽タンク。


航空神社の御手洗

常陸教導飛行師団の本部前の航空神社の御手洗盤。


この御手洗はかつて本部前の航空神社に奉納されていたもので正面には当時の常陸教導飛行師団所属機が尾翼につけたマークが刻まれている
 昭和53年1月吉祥日
 水戸つばさの塔奉賛会

常陸教導飛行師団の所属機尾翼とおなじシンボルが描かれている。


水戸つばさの塔奉賛会

昭和50年5月3日、水戸つばさの塔竣工除幕式ならびに慰霊祭を執り行い、名称を水戸つばさの塔建立委員会(昭和42年発足)から水戸つばさの塔奉賛会と改称し、以後毎年慰霊祭を執り行い現在に至っている。


アクセス方法

私は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」からレンタサイクルで訪問しました。バスもないエリアのようで、公共機関ではこの選択肢が最適な感じです。歩くとなると、阿字ヶ浦駅か磯崎駅かとなりますので、どのみち「ひたちなか海浜鉄道」となります。

場所

https://goo.gl/maps/vG1adtmDfo8E5vBJ8

※撮影:2022年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R526-6
1949年01月12日、米軍撮影の航空写真。
すでに北側に、射爆場が拡張されている。

「水戸つばさの塔」は、水戸飛行場(水戸東飛行場)の南東にあたる。


関連

茨城縣護國神社と水戸歩兵第二聯隊の戦跡散策

平成29年8月

レンタサイクルで水戸市内の戦跡散策を。

茨城県護国神社

茨城縣護國神社は昭和16年11月に創建。
御祭神は幕末から明治維新以後、日清日露の戦役、大東亜戦争に至る支那事変等において国事にたおられ護国の礎となられた茨城県出身の63400余柱の戦没者(軍人・軍属のほか従軍看護婦など女性も含む)の英霊を祀る。

慰霊安鎮

訪れたらちょうど「みたままつり」の季節。
7月10日から8月19日まで実施されているようです。
良き時期の参拝。ありがとうございます。

御朱印。
女性の神職さんが力強い筆使いで書いてくださいまして。 そして一言「全国の護國神社を廻られているんですか?」と。
気がついて戴けました。ありがとうございます。
「靖國神社の御朱印帳に護國神社の御朱印」集印を。地道に少しずつ…

征清記念碑

陸軍大将 小松宮彰仁親王篆額
日清戦争に際して犠牲となった茨城県人を慰霊。

征清記念碑
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
 我が神州、建國以来、外征の史に見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは、神后三韓を征し、近くは豊太閤朝鮮を伐つ。其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近、皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き、海は大艦を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版圖を廣ぐるに足るなり。其の、皇威を震耀し、國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功夐に豊太閤に軼りて、其の烈實に、神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城一縣を以て之を算ふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び盡瘁して病没せる者、數百人を下らず。是れ盡く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮靈の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今茲志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑る所有り、而して其の名をして傳はる所有らしめんと欲し、余に其の文を撰ばんことを請ふ。余嘗て國乗を讀み、夙に關東の古俗、特に義勇を以て著るるを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を輕んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戰勝功取に於て蓋し最も與って力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけんや。善きかな此の舉たるや。余適任に在り、毎に管民軍士を歸葬し、郡市を舉げて、輙ち哀を致すを観る。而して今又修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く國家の兵士を待つの恩意を體すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀れむべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。
 明治30年4月
 茨城県知事正五位勲五等江木千之撰 
 茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

征清記念碑
 この碑は明治34年4月即ち日清戦争の直後に水戸常盤地内鎮霊社の傍らに茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世に人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い県で建てられたものであります。
 碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
 戦が大きかっただけに、我軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病者が数百人以上ある。誰が国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
 後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

北征記功碑

陸軍中将 閑院宮載仁親王篆額
日露戦争に際して犠牲となった茨城県人千数百名を慰霊。

北征記功碑
 この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
 これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
 元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
 茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
 この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

北征記功碑
陸軍中将大勲位功四級載仁篆額
 我が邦の威武、四表に烜燿たるや尚史し。弘安の役、元寇を一輿に殲す者は、上に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。三十七八秊の役、我軍を百戦に剿する者は、・に叡聖神武の 英主有り、下に輔弼賛襄の良臣有るを以てなお将士の忠勇義烈に至りては、即ち日を同じくして語るべからざるもの有り、且つ元寇は十萬を出ず、我軍は即ち百萬を過ぐ。故に戰大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。彼は宇内の強大國を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て 王師海を絶り以て掃蕩を期す。海軍は即ち敵艦を旅順港外に撃破し死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧残し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殲滅す。海上権は全く我に帰す。陸軍は則ち先づ鴨緑江の儉を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、得利寺、岫崿、柝木、遼陽、旅順の諸要砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。海陸大小數百戦、竒勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀すべからず。我が縣の従軍する者、将士合わせて數萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍・・の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百餘人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、即ち一なり。今や和成り、事平なり。余郷紳と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を不朽に傅へん。顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等慮艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の龜鑑と為す。後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、即ち其の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきなり。
 明治三十九年二月    
 茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
  (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

大東亜戦争記念碑

天皇陛下御在位60年を奉祝し昭和61年8月15日建立。

碑銘
 過ぐる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか、祖國日本の苦難の歴史は、昭和六年九月十八日、満州事変に発し、支那事変(昭和十二年七月七日)、張鼓峰事件(同年七月九日)、ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て遂に昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦の布告となり、その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曾有の長期大戦争に進展するに至った。
 かくしてその戦域は中国全土及び東南アジア諸域はもとより遥か度洋、豪北、ニューギニア各地、さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に渡る広大な範囲に拡大され、四百余万にのぼるわが将兵は、過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属化に喘いでいた旧植民地の各地に転戦。終始連合国軍の圧倒的物量攻勢と対決し、陸に海に空に善戦敢闘苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した。
 その間、わが本土もまた度重なる敵の無差別爆撃や艦砲射撃を受け、なかんずく非人道的極まりない原子爆弾投下により一面の焦土と化し、銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った。しかも一億国民の気概は屈することなく、なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず、戦局は必ずしも我に利あらず、最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち、折しもソ連の機を穿っての不法参戦大挙侵入に遭うなど、諸般の大勢の赴くところ、遂に聖断によってポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り、終戦の大勅を拝するに及び、一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた。
 この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ、茨城健児も精悍無比、この国家危急の秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが、五万三千五百余名の軍人軍属を始め、四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死亡者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである。これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は今にして想い起こすだに惨烈悲痛の極みである。
 終戦のこのかた四十年、我が国民は「終戦の詔書」の示されるところに従い 敗戦の汚名を甘受し、耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが、われわれ県民も同様、筆舌に尽くしがたい数々の屈辱と苦渋を乗り越え、辛苦勉励によりこの経済復興し繁栄とをもたらし得たのである。ここに及んで往時を顧みればこれひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい。さらにまた、長い戦乱の陣痛ののち、かってのアジアを始めとするも全世界の植民地が次々に解放され、新たなる希望に満ち、民族独立の雄叫びが聞かれるとき、この西欧列強と伍し、日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家とし、その名誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様、この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果たした「聖戦」であり、世界人類史上に残した燦然たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する。
 よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり、聖寿のいや栄えまさんことと、祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久の平和を祈念しつつこの碑を建立し、以て英霊の功績をとこしえに顕彰するものである。
 昭和六十一年八月十五日 
 茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人

大東亜戦争記念碑 大東亜戦争要図

満州事変以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人軍属 53,542人
一般県人 4,879人
計 58,421人

平和のねがい

工兵第22連隊戦友会(昭和62年8月9日建立)
昭和十三年六月に水戸工兵隊より編成され第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立。
主に中国大陸で展開され、終戦時はビルマ反撃作戦準備の為道路構築中であった。

顕勲の塔

碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

戦没者留魂の處

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

さくら山遺品館

開館時間は午前10時から午後2時まで。
私が参拝したのは午後3時すぎ。
残念です。また来ましょう。

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

水戸第十四師団隷下、水戸歩兵第二聯隊を鎮魂する。
歩兵第二聯隊長は中川州男大佐。
中川連隊長がペリリュー島守備隊長となり、水戸連隊がペリリュー島の戦いの主役となる…

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑
碑文
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、 世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
 平成五年十一月二十四日
 歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

ペリリュー島の戦い

昭和19年9月15日~11月25日
水戸歩兵第二連隊を中心とした日本軍が要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法により組織的な抵抗戦術で米軍を苦しめた戦い。
この戦い方法が、のちに硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

日本軍戦死者10,695名・捕虜202名・最後まで戦った生存者34名
アメリカ軍戦死者 2,336名・戦傷者 8,450名
一般人(島民など)死者・負傷者ともに0名  
 ※ 戦闘開始前に日本軍は島民を強制退避させている

鎮魂 岩上大隊の英霊ここに眠る

国のため散りし御魂の名をぞ記さん

岩上大隊とは独立混成歩兵第1連隊第2大隊の通称。
アドミラルティ諸島の戦い
部隊はアドミラルティ諸島ロスネグロス島に展開するも昭和19年3月3日の夜襲総攻撃にて壊滅玉砕。生存者の一部はマヌス島転進。

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成同年一二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて一九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、同年一月二十五日アドミラルテイ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯攻撃を繰り返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
 依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが効を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
 かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
 されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明しその方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地ヌマス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き返りし現地の霊砂と、個人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
 願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌
 平成元年五月吉日(西暦一九八九年)
 岩上大隊遺族マヌス会 

蟹石

自然石に「蟹」
日本画家・木村武山のゆかりの石。

「壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ描キテ寄進ス 藤沢校長」
藤沢校長とは藤沢繁三陸軍中将、陸軍航空通信学校長。 のちにフィリピン担当の第14方面軍第2航空通信司令官となる。

境内社 桜ノ宮


茨城県護国神社の境内入口に2つの石碑が林立している。

鎮魂
(歩兵第二百十三聯隊碑)

昭和五十二年十一月吉日建立
第三十三師団歩兵第二百十三聯隊(弓六八二二部隊)戦友会

歩兵第213聯隊は茨城県出身者にて編成。
第33師団隷下としてインパール作戦に参戦。
聯隊の犠牲者のほとんどはインパール作戦であったという。

 昭和十二年支那事変勃発し、次いで昭和十六年大東亜戦争に突入するや八紘一宇の聖戦のみ旗のもと、支那大陸並びに南方戦線に遠征し、史上最も惨烈を極めたるインパール作戦を始め、各作戦に於て、軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪えて善戦敢闘せり。此の間祖国の平和の礎となりて異國の山野に散華戦没されし戦友や将又幾許ぞ、あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖国に捧げける崇高なる戦友の魂塊は、今や髣髴として甦り、春は桜に匂い秋は紅葉に色染めて、世々是れ照覧し給ふ。あゝ尊き哉、靖國の神々、戦後三十有余年堅き戦友愛に結ばれし戦友会は、み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し、以て不滅の祖国愛の久遠の光を万古不変に輝かすべく、その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり。
 昭和五十二年十一月吉日
 第三十三師団歩兵第二百十三聯隊
 (弓六八二二部隊)戦友会一同

あゝ戦友の碑
(茨城県東部ニューギニア戦友会)

茨城県東部ニューギニア戦友会
昭和四十七年二月吉日建立

国を想い
 南溟の果てに
  散り行きし
戦友の亡きがら抱き涙す

碑文
 とこしえの平和を願って
 過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の将兵は第四十一、五十一師団、第四十四兵站等の主力として昭和十八年十一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの地に優勢なる米豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い命を失うに至りました。
 これら戦友の諸子はその戦いの場において命終わる人とするとき、何を願い何を祈ったことでありましょうか
 終戦後二十七年、我が国は奇跡的とも云うべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら8千有余の同胞のご加護によるものと信じるのであります。昭和四十四年秋県民各層のご支援のもとニューギニアの生存帰還者は収骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され念願久しかった現地での慰霊を行うとともに御遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顕勲の塔納骨大祭を催すことを得ました。
 しかるに、この二十有余星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をととしる英霊の鬼気は陰々として膚に寒くその慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
 ひるがえって、日本の現状に想いを致すとき、世をあげて安寧豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく若人はまたその理想を失い堕弱享楽の幣風吹きて止まざるものがあります。人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪条件のもと三年有余にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の意志を偲び祖國の前途を思うものまことに寒心に堪えざるものを覚えます。
 よって、ここに記念碑を建立し亡き戦友諸子の冥福を祈るとともに、そのいさおしを後世に伝えもって祖國恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
 昭和四十七年二月吉日
 茨城県東部ニューギニア戦友会 

御英霊に感謝と哀悼を。

こうしてだいたい1時間ほど境内を巡らせていただきまして茨城県護国神社をあとします。
しばし千波公園・沢渡川のあたりをふらふら。ちらりと好文亭も見えました。

次はちょっと北上し茨城大学方面に。


レンタサイクルにて茨城大学、茨城県営球場方面に。

水戸歩兵部隊の跡碑

水戸歩兵第2聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。
茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡に建立。歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

大東亜戦争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治七年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治四十二年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戦争の戦勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下五千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和十九年十一月遂に玉砕し 七十年の歴史を閉じた
また歩兵第百二聯隊は ニューギニアに転戦敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第三十七部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戦の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である
 昭和四十一年四月
 水戸歩兵聯隊遺跡保存会

尼港殉難者記念碑

陸軍大臣山梨半造書
水戸歩兵部隊の跡碑の隣にひときわ大きな石碑
大正11年(1922年)3月建立

尼港事件の犠牲者を慰霊する碑
大正9年(1920)シベリア出兵に際して勃発した尼港事件
派遣された守備隊、水戸歩兵第2聯隊第3大隊は在留邦人を保護し防戦をするがパルチザン軍との戦いで玉砕…

尼港殉難者記念碑
 この碑は、大正九年(一九二〇)シベリア出兵の際、尼港事件に遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである 尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
 大正8年4月第十四師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第ニ聯隊第三大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に到り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
九月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
ニ月五日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため三月十二日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、十九日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
五月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「五月二十四日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、六月三日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。
 平成八年五月二十四日
 水戸歩兵第二聯隊会
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建立
 (撰 加藤保男)

https://goo.gl/maps/TY5mFANjA6AZ3tVW7

尼港事件

ロシア革命の内戦に際し1920年(大正9年)3月から5月に勃発した赤軍パルチザンによる大規模虐殺事件。
赤軍は尼港(ニコラエフスク)住民を虐殺。その中には日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊(石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊)などが犠牲に。

あぁ 在留邦人を護るために戦い玉砕した水戸歩兵第2連隊第3大隊
焼け落ちる領事館で自決した領事一家や在留邦人
投獄された日本人全員の虐殺

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名…

尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
Wikipedia「尼港事件」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%bc%e6%b8%af%e4%ba%8b%e4%bb%b6

尼港陣歿将士銘碑

聳え立つ記念碑の隣に「尼港陣歿将士銘碑」
水戸歩兵第2連隊第3大隊の犠牲者の名が刻まれていた。
隊長石川正雅(陸軍少佐)以下、軍属の馬丁に至るまでの305名という。

龍車閲軍之跡
賜閲駐輦之跡

尼港殉難者記念碑の隣にひっそりと2つの碑がありました。

「龍車閲軍之跡」陸軍大将井上幾太郎書
「賜閲駐輦之跡」

「龍車」「輦」は天皇の乗物を示しており「閲」は閲兵。
昭和4年(1929)に茨城県で行われた「陸軍特別大演習」関連の記念碑
昭和5年建立

石碑がある公園は人影も少く静まり返っている。

道路を挟んだ向かい側には「茨城県営球場」や「茨城県武道館」などの運動公園が広がっており賑わっている。 石碑のある公園の裏側は「茨城交通茨大前営業所」がありバスが連なっていた。
そんなところに「第二聯隊」を偲びし碑が静かにあった。


水戸工兵隊記念碑

国立茨城大学教育学部附属中学校の隣、道路の片隅の標石。
「水戸工兵隊記念碑」
水戸工兵隊の一部は水戸歩兵第二聯隊とともにペリリュー島の戦いに参加。ペリリューの要塞構築にも尽力したことであろう。

https://goo.gl/maps/VqkdWMxM3yyABNJf6

水戸工兵隊跡碑

安井栄三郎書
「水戸工兵隊記念碑」のあった道路をすすみ団地を抜けると「跡碑」があった。 安井栄三郎は工兵出身で陸軍少将。津軽要塞司令官を勤めた人物。
碑は昭和四二年建立。 水戸工兵隊の兵営があった地。

https://goo.gl/maps/zHXnL6dnBs6KvNPAA

茨城県護国神社と陸軍関連の石碑などを探索でした。
ほかにも探せば何かしらが残っている可能性もありますが本編はひとまずは以上。
水戸ではレンタサイクルで約14キロ約2時間30分所要でした。