阿見と土浦で、霞ヶ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊関連の慰霊碑を巡拝しました。
以下、徒然に。
目次
阿見空襲(阿見大空襲)
昭和20年6月10日。
当時予科練生の訓練が行われていた土浦海軍航空隊とその周辺地区が、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、予科練習生や近隣住民など370人を超える方が犠牲となった。
霞ヶ浦湖畔の海軍航空隊
土浦海軍航空隊
霞ヶ浦海軍航空隊
被爆跡記念之碑(青宿壕跡予科練戦没碑)
阿見青宿ノ鹿島神社境内。
昭和20年6月10日の空襲で、神社西側の防空壕に避難中の土浦海軍航空隊の予科練教官11名と予科練習生281名が戦死した。
犠牲者は後述する法泉寺周辺で荼毘に付された。
合掌
第二次世界対戦 被爆跡記念之碑
海軍中将 寺岡謹平書
碑文
太平洋戦争の末期、当時前線すでに戦力乏しく国内各地は空襲をうけ、物資食糧困窮のなかに、情勢は国民すべてを捲き込む悲愴な「本土決戦」へとかたむいていた。
時に昭和二十年六月十日。教育訓練施設である土浦海軍航空隊に敵機群が来襲、折から本土防衛の水上特攻要員編成中の飛行予科練習生を中心とする隊員ら二百八十一名が、隊内外で戦死、同時に、当青宿部落を中心に阿見町民家も銃爆撃をうけ、民家多数が焼失又は爆破され住民六名が犠牲になるなど多大の戦災を被った。
傷恨の跡は、各地に点在するが、いまこれをすべて明らかに留めるところは少ない。
そして 世は日につれて変わって行く—
この場所は、「命を捨てて同胞を護らん」と
愛国の心に燃えて結集した十七・八歳を主体とする”予科練”たちの一部が、武器持たぬ身に血をたぎらせながらやむなく待避した壕の跡であり、不運にも直撃弾二発をうけ、多数が生埋めとなった悲傷の地である。
ここにこの地の人達が集い、慰霊をおこなってきた戦友・遺族らの意志を継いで、指標を建てる。
春に先がけて散った若桜たちの、憂国同胞愛の清明な心をとどめる「聖なる地」を顕彰し、ともに悠久の平和を希うことこそ、次の世代に伝える、この地の人達の郷土愛のあかしとおもうからである。
昭和55年6月10日
青宿壕跡予科練戦没碑建立委員会撰文
海軍中将 寺岡謹平の謹書。
阿見町名所百選
青宿の鹿島神社
最新は武甕槌命、島状台地上にある。社殿の西側に2基の円墳(1号墳と2号墳)、東側にやや大型の円墳(3号墳)があり、1号墳は乱掘にあり直刀や勾玉が出土している。3号墳は削平されて原型は定かではない。
神社西側に戦時中防空壕があり、昭和20年6月10日の空襲で入口に爆弾が投下され、避難中の予科練の教官11名と予科練習生281名が戦死、その他119名重傷の惨事が起こった。いま境内に慰霊の碑が立っている。
阿見町教育委員会
青宿の鹿島神社
神社の西側。古墳?
西側から、土浦海軍航空隊と霞ヶ浦の方向を望む
台地を生かした防空壕であったことがわかる。
阿見町名所百選(44 青宿の鹿島神社)
場所
元土浦海軍航空隊戦没者之碑(法泉寺)
法泉寺(土浦市)の境内。
昭和20年6月10日の空襲で戦死された土浦・霞ヶ浦海軍航空隊関係者と町民の方を慰霊する碑が集まっている。
『元土浦海軍航空隊戦没者之碑』『戦死者氏名之碑』
『霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑』
『十三重供養塔』
『阿見町戦災被爆者供養塔』
合掌
元土浦海軍航空隊戦没者之碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑。
前述の青宿の鹿島神社にあった防空壕の犠牲者は、この地で荼毘に付された。
墓誌
太平洋戦争も終末に近づいた昭和20年6月10日、土浦海軍航空隊にB29爆撃機を含む艦載機群の攻撃をうけ、折しも本土防衛の水上特攻要員編成中の第14期甲種飛行予科練習生・錬成中の同第15・16期生、後輩の訓練に当たっていた第13期生及び教官・教員ほか退院ら281名が、隊内及び周辺で散華した。
当時、海軍適正部(現土浦第三高等学校)の庭で荼毘に附された遺骨はそれぞれ遺族に引渡されたが、法泉寺第52世住職大僧正山岡英明和尚はその残骨を慈しんでこの地に葬り独り回向を続けること10数年、漸く平和よみがえる昭和36年6月第17回忌法要に際し、土浦市・阿見町はじめ広く各地有志の協力を得て墓碑を建立するに至った。以後、戦死者多数を出した14期生同窓一四桜会はじめ各期の戦友らが集い、遺族と共に供養を行っている。
時流れて三〇年、七生報国・悠久の大義に殉じた若き命の冥福を祈り、ここに悲傷の日を迎えるにあたり墓所の縁起を記す。
昭和50年6月
元土浦海軍航空隊戦没者法要委員会
戦死者氏名
十三重供養塔(法泉寺)
この塔は、平成6年6月5日、土浦海軍航空隊戦没者の50回忌に際して建立された。
霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑(法泉寺)
霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑は、昭和50年6月に建立。
昭和20年6月10日の阿見空襲で戦死した24名の方々の氏名が刻まれている。
阿見町戦災被爆者供養塔(法泉寺)
平成28年6月建立。
土浦海軍航空隊適性部跡(海軍航空要員研究所)跡地
現在、茨城県立土浦第三高等学校の敷地となっている海軍航空要員研究所跡地。
海軍航空要員研究所(適性部)では、飛行兵の採用試験や適性検査が行われていた。
霞ヶ浦を望む高台。
場所(法泉寺)
霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者慰霊塔(神龍寺)
土浦市文京町の神龍寺。
ここに海軍時代に建立された慰霊碑がある。
霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者の慰霊塔は、昭和10(1935)年に建てられ、殉職者41人の名が刻まれています。
神龍寺の参道近くには霞ヶ浦海軍航空隊に副長として赴任中だった山本五十六が住んでおり、住職の秋元梅峯と交友があったという。
神龍寺24代住職・秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、慰霊塔建立の10年前の大正14年(1925年)には私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが「土浦全国花火競技大会」の始まりでもあった。
霞ヶ浦航空隊
航空殉職者
航空殉職者
犠牲者の名前が刻まれている
石造念仏車。(念仏車、後生車、輪廻塔)
戦争関連の慰霊塔で、念仏車を備えているのは珍しいと思います。
隣は、消防の慰霊塔。
神龍寺
場所
忠魂碑(亀城公園)
大正11(1922)年、陸軍大臣山梨半造の揮毫により建立。大正9
(1920)年におこった尼港事件の犠牲者を弔うため、土浦町の青年会の働きかけが建立のきっかけになったといわれている。
ちなみに水戸にある「尼港殉難者記念碑」も同じく陸軍大臣山梨半造の揮毫
忠魂
陸軍大臣山梨半造
土浦城跡(亀城公園)
太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓は復元。
続日本100名城に選定。
原脩次郎銅像(亀城公園)
原脩次郎(1871~1934)は茨城県初の国務大臣。
昭和10(1935)年に立像が建てられましたが戦中に金属回収に伴い供出。戦後、胸像が復元された。
亀城公園内のミニ動物園には、ニホンザル(日本猿)がいました。
土浦は、まだまだ訪れたいところがありますので、また再訪します。
※撮影:2023年11月