霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。
戦跡関連は、下記にて
目次
霞ヶ浦駐屯地記念行事
昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。
記念式典会場
厚生センター
整列
10式さん
はじまり
指揮官入場
観閲官入場
国旗掲揚
巡閲
陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令
陸将なので銀色桜星3個。
観閲行進
補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。
空自も。
16式機動戦闘車
10式戦車
グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。
霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策
本部庁舎
霞峰の松
霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)
慰霊殿(奉安殿)の由来
慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
平成21年3月
慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。
飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑
広報資料などは、2023年の記事で。。。
高機動車試乗
当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。
霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)
旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。
庚申塚(庚申青面金剛)
2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。
庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。
庚申塚の由来
(前略)
庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。
霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)
霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。
- 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
- 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
- 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
- 茨城倉庫3
- 茨城倉庫2
- 茨城倉庫1
今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。
自衛隊側からはこちらで。
周辺の建屋
近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。
※撮影:2024年4月