「奉安殿」カテゴリーアーカイブ

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その1(本部地区)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その1」となります。本部地区の野外展示を中心として掲載。
その2」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


霞ヶ浦駐屯地

昭和28(1953)年に開設された霞ヶ浦駐屯地。
霞ヶ浦駐屯地は、旧日本海軍の「霞ヶ浦海軍航空隊」(霞ヶ浦飛行場)と「第1海軍航空廠」(海軍航空隊専用工場)の跡地でもある。

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep/about.html

霞ヶ浦駐屯地の駐屯地司令は、関東補給処長が兼務。
現在は、陸上自衛隊東部方面隊関東補給処、陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校、そして航空自衛隊中部航空方面隊中部高射群第3高射隊などが配備されている。


霞ヶ浦駐屯地一般公開

まずは、本部地区から。

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地

陸上自衛隊関東補給処

記念行事マップ

霞ヶ浦駐屯地(本部地区)案内図

荒川沖駅と駐屯地間は、送迎バスを利用しました。

本部庁舎(庁舎A)

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡

広報センターに、「霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡配置図」がありましたので、まずは本部エリアの散策を実施します。

駐屯地の史跡案内
●当駐屯地は、終戦によって設置されていた第一海軍航空廠跡に、昭和28年、東京都立川市から陸上自衛隊武器補給処が移転しました。平成2年に施設再配置工事が開始され、平成10年、現在の霞ヶ浦駐屯地の形になるまで第一海軍航空廠の施設を使用しておりました。
●施設再配置工事の際、旧海軍施設は取り壊されてしまったものの一部が当駐屯地に残存しており、歴史を感じることができます。

史跡配置図を参照にしながら、まずは散策を。


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

第一海軍航空廠時代の奉安殿が残る。貴重な遺産。

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

「霞ヶ浦神社」「海軍航空隊殉職者慰霊塔」などに関しては、上記のリンク先を参照で。

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

奉安殿に関しては、以下も参照で。

はじめに

合掌

霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿

かつては、菊の御紋章が掲げられていた


紀元二千六百年記念碑

皇紀2600年(昭和15年)を記念して建てられた記念碑。
慰霊殿の参道脇に。

紀元二千六百年記念碑

昭和十五年十一月十日
海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所有志建之

紀元二千六百年記念碑
昭和15年11月10日、皇紀2600年記念祝典が全国で執り行われました。皇紀年号は、初代天皇である神武天皇が即位(紀元前660年)してからを数える、日本独自の紀年法であり、この碑は海軍技術廠霞ヶ浦出張所(第一海軍航空廠の前身)有志が建てたものです。
余談ではありますが、零式艦上戦闘機(通称:零戦)はこの年に正式採用され、皇紀2600年の下二桁の00をとり、零(れい・ぜろ)式と命名されております。


兵站攻勢

慰霊殿の参道近くに。これは戦後のもの。

兵站攻勢

昭和58年6月建立。
第17代武器補給処長 陸将 中根新一謹書


飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報センターのエリアの展示物を。
飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑は、もともとは飛来着陸跡(霞ヶ浦駐屯地の飛行エリア南端付近)に設置されていいたが、平成20年現在地に移設。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑
 昭和4年(1929年)8月19日、世界最大のドイツ飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中、当時東洋一といわれたここ霞ヶ浦海軍航空隊に着陸した。5日間の滞在中に約40万人が見物、上野ー土浦間に臨時列車も運行し、阿見原(現阿見町)は人の波で埋まったという。格納庫は全長240mで第一次世界大戦の戦利品である「押収格納庫」を利用した。
 昭和6年にはリンドバーグ夫妻も飛来し、当時霞ヶ浦は世界的空港でもあった。
 昭和49年に係留石と係留環が発見されツェッペリン伯号がこの付近に着陸したことをうけ、昭和50年に記念碑を建立した。
 平成5年阿見町名所百選にも選ばれている。
 近年見学者が減少しつつあり、ツェッペリン来訪の歴史を忘れないため現在地に移設し展示するものである。
 平成20年6月18日
 第33代 霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 藤野 毅

ツェッペリン伯号 飛来の地
昭和4年8月19日、世界最大のドイツ飛行船、ツェッペリン伯号が飛来しました。
シベリア上空を通り1万1千キロという距離を渡ってきたのです。滞在は4日間でしたが、新聞やラジオも大きく報じ、見物人はなんと40万人。
上野ー土浦駅間に臨時列車も運行されましたがそれでも乗車しきれず、飛行場にはこの光景を一目みるために野宿をする人もたくさんいたそうです。かつてこの場所に設置されていた飛来記念碑は、現在広報センター前に移設されております。


日独友好濫觴之地

日米友好の「濫觴=はじまり」の地を記念する碑。

ツェッペリン伯号交歓記念
日独友好濫觴之地

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地司令
 陸将 近藤 清秀 書

近藤清秀氏は技師として、61式や74式戦車開発に携わっていたことで著名。

ツェッペリン伯号係留環

由来
昭和4年8月19日は、当時世界最大の飛行船であったツェッペリン伯号が、世界一周早廻り飛行を目指して、祖国ドイツから一気に全人未翔のシベリア上空を超えて、最初の着陸地阿見原に安着した日である。滞在5日間にわたる地元をあげての歓待、就中巨大格納庫を擁する霞ヶ浦海軍航空隊の民族を超えた協力が、引き続く正規の大偉業完遂に貢献した役割は大きい。ドイツ側も駐日大使を始め多数の在留ドイツ人がこの地に交歓し、阿見原はまさに日独友好濫觴の地となった。
春秋幾星霜、今や辛うじて残されているツェッペリン伯号係留石等の他には、かつてこの地の果たした世界史的意義を想起させるものがないことは淋しい。
ここに記念碑を建立し、その誇りの継承を期する所以である。

係留環


大空の女神 歌碑

「大空の女神」とよばれた乙女。
茨城県水戸市の藤田多美子女史は、自らの身をもって戦闘機事故の根絶を願った。

大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

「大空の女神」
大君の 御楯となれる 益荒男の 空の勇士に この身捧げん
大空に産声挙げし吉田原 この身捧げて 守りまつらん

この歌碑は、昭和15年相次ぐ戦闘機事故の根絶を願い、陸軍航空通信学校(水戸市住吉町)飛行場一隅の掘井戸で入水自決した藤田多美子女史の遺書に添えられていた歌だる。
 身を挺した行動が美談と称えられ、昭和16年陸軍航空通信学校にお堂を建立し「大空の女神」として女史の胸像と歌碑が祀られていた。
 戦後、遺族が引き取り安置していたがご意志を後世に広く伝えたく、72周忌にあたる平成24年11月以降支援者等の働きかけにより、飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像と歌碑を移設し展示するものである。
 平成25年4月13日
  第37代霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 櫻木 正明

藤田多美子女史の胸像は、広報センター内に展示されている。
「その2」で掲載。

もともとは、陸軍航空通信学校に祀られていた。
昭和13年6月に水戸陸軍飛行学校が新設。航空通信や戦技、火器などの教育や研究が行われた。
昭和14年に陸軍航空通信学校(吉田)が新設されたことにより、水戸陸軍飛行学校の航空通信教育も移管となった。


旧本部庁舎前 消火栓

海軍の消火栓

消火栓
旧軍第一海軍航空廠季題、本部庁舎前に設置されていたものである。

旧本部庁舎前 消火栓
昭和16年、海軍飛行機専用工場である「第一海軍航空廠」が現霞ヶ浦駐屯地の敷地に建てられました。
海軍航空廠は海軍航空隊基地近くにあり、戦闘機や練習機などの修理・補給・制作を担っておりました。この消火栓は、平成5年頃までは旧本部庁舎前にあり、現在使用しているA庁舎が建てられるに伴い広報センター前に移設・展示されることになったのです。
海軍のシンボルである「錨」のマークもしっかりと刻印されています。


木レンガ

第一海軍航空廠整備工場内に設置されていた木製レンガ。

木レンガ
旧軍第一海軍航空廠時代、大型航空機の整備工場の中に設置されていたものである。


総蹶起の月 記念碑

防火水槽の一部を保存。

総蹶起の月 記念碑
昭和19年、太平洋戦争の戦況は好転せず、山場を迎えようとしていました。この碑は、かつて航空廠内北東に存在した航空エンジン試験場裏に、防火水槽を作ったのを記念して北側外壁に刻み込んだものです。
この年、大都市では疎開が始まり、予科練製の大部分は特攻隊員となり、米軍がサイパンに上陸。学徒動員、女子挺身隊勤労令が発せられました。
総蹶起とはいいながら、この時期日本には十分に性能を発揮して戦える飛行機は残されていませんでした。

「総決起の月」記念碑
旧軍第一海軍航空廠時代、航空エンジン試験場の裏防火水槽を作ったのを記念して水槽北側の外壁に刻み込んだものである。


そのほかの戦跡

以下の2つは、立入禁止エリアでしたので、情報のみで。

飛行機係留環及び米軍爆撃跡地
大型機体組立工場に隣接していた、北東に延びるコンクリート製の飛行機係留場。現在も1/3程度が残されており、火器車両部が資材置き場として使用しています。
飛行機を繋ぐ係留環は地面にそのままの形で残されていますが、米軍により爆撃を受けた箇所は補修によって周囲のコンクリートと材質が異なっており、その威力と範囲をうかがい知ることができます。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚は下記にて


霞ヶ浦駐屯地の記念碑

以下は、陸上自衛隊時代の記念碑。

武器補給処「追憶の碑」
武器補給処は昭和29年に霞ヶ浦駐屯地に移駐。平成10年に関東補給処と改編。47年間の歴史を追憶する記念碑。

煌(きらめき)
「煌」とは、首都防衛任務の要たる東部方面隊を支える駐屯地として「内から自ら煌く駐屯地」に変貌を遂げるべくとの期待を込め名付けられたもの。平成15年建立。霞ヶ浦駐屯地開設50周年記念。

90式戦車
石像の戦車。みごと。

90式戦車の本物。

10式戦車も。
2台とも土浦の武器学校から来たっぽい。ご近所さん。


厚生センター

日替わり定食を。天丼と蕎麦。

※撮影:2023年6月

「その2」では、広報センター内の展示資料など。


関連(茨城県)

はじめに

「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて


奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028313/1028787.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171572

場所

https://goo.gl/maps/V9VM4JE1EXPDqPvD6

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

入間川神社(八幡神社境内社)・入間川国民学校奉安殿(狭山市入間川)

狭山市駅から西の高台に鎮座している古社。新田義貞ゆかりの八幡神社の境内に鎮座している地元の犠牲者を祀る護国神社は入間川神社として、祭祀されている。
この入間川神社も、もとは奉安殿の建物を流用したものであった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


入間川神社

終戦後、取り壊しの予定となっていた入間川小学校の奉安殿を、護国神社として町民の勤労奉仕によって、八幡神社の境内に移し22年2月に鎮座した。

入間川神社
祭神
日進、日露、第二次世界大戦の戦役に殉じた軍人軍属及び旧入間川町の発展に貢献した文化人を祀る。
由緒
昭和20年大戦の集結にともない旧入間川小学校の奉安殿を現在地に移し22年2月鎮座祭が斎行された。
例祭
4月15日

昭和28年に書かれた由緒書。

由緒
當社は昭和廿年八月十五日大東亜戦争が我国に利あらず遂に未曾有の敗戦となった結果国の状勢が一変し敬神の念をもって建設せられた各学校の奉安殿も全部とりのぞくこととなり茲に入間川町當局にあっても種々協議の結果護国神社として町の鎮守たる八幡神社に移管し保存方正式に交渉があったので八幡神社役員審議の上戦歿者の英霊を祀ることによって英霊双びに遺家族をなぐさめ励まし困苦を克服して生活していただく様にと決しここに早速この由を町當局に申出同二十年十二月に町より移転費の交付を受けただちに工事に着手し神社役員日清日露以来の遺家族を始め同町共生會青年団婦人會帰還軍人等の心からの賛同を得て全員汗と涙の勤労奉仕に当り寒風膚をさす十二月より翌年初頭に渡る約四十日間を奉仕し二月一日ここに入間川神社として恵まれた天候の下に日清日露戦役以来の英霊の遺家族双びに名士有志各位多数参列の中に盛大なお且厳粛なる遷座祭を挙行全員涙の中に終了をみましたその後国の規則の変更によって軍人軍属以外でも国家双び地方公共のために尽力されたる人も文化人として祀るようにとの達しがありこれにより昭和二十一年より最初の文化人として審議厳撰の結果三名の合祀をみるにいたりました昭和二十六年末よりは入間川神社奉賛会発足によってこの神社の維持運営を司るようになった
 昭和二十八年四月八日
  入間川神社奉賛会

砲弾がある。

昭和六年十一月 
移転改築記念

戦捷紀念碑(乃木希典書)

忠魂碑

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/irumagawajinjya.html

場所

https://goo.gl/maps/BAtFgRKkdHGMu9dX6


八幡神社(入間川八幡神社)

入間川村の総鎮守。
九州宇佐八幡宮を本社とする。
新田義貞必勝祈願の八幡宮。「新田の八幡宮」と呼称されたこともあった。

本殿並びに彫刻は、狭山市指定文化財(江戸時代末期)

新田義貞駒つなぎの松。

元弘3年5月、北条高時を討つべく上州新田群生品明神の社頭に挙兵した新田義貞は、5年10日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当八幡神社へ自ら戦勝を祈願した。

八幡神社サイト

https://www.sayamahachimanjinja.com/

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/irumagawa_chiku/hachimanjinjya.html

撮影:2022年2月

下新河岸ノ日枝神社・高階国民学校奉安殿(川越市下新河岸)

川越市下新河岸。
新河岸川は江戸時代は船運が盛んな河川であり、新河岸の日枝神社の近くには多くの船問屋が集まっていたという。ここも奉安殿が流用とのことで、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


新河岸ノ日枝神社

本殿は、高階小学校奉安殿を流用したものという。
昭和23年に同地に移築。
下新河岸日枝神社の創建年代等は不詳。
明治5年に村社に列格、明治40年に上新河岸の村社厳島神社及び同境内社の水神社・琴平神社を合祀。

場所

https://goo.gl/maps/f3b3jnhronEDdJk37


砂氷川神社

奉安殿とは関係ないが、新河岸駅から、下新河岸日枝神社に赴く途中にあった神社。
道路の両脇に、旗掲揚台が備えられていた。
明治39年建立とあるので、日露戦争の凱旋記念の構造物。なかなか立派。

場所

https://goo.gl/maps/JchK5rYUFJUJRt8CA

※撮影:2022年2月

稲荷神社・青梅第五小学校奉安殿(青梅市梅郷)

青梅市梅郷。
吉野梅郷の「梅の公園」入口交差点の近くに鎮座している稲荷社。かつての奉安殿だというので、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


青梅市梅郷ノ稲荷神社

青梅線日向和田駅から多摩川を渡って吉野街道に。梅の公園入口の信号近くに鎮座している。
社号標もなく、忽然と祠がある状態である。
うしろに控える「青梅私立第五小学校」の奉安殿であったという。奉安殿の役目を終え、戦後に180度回転して、吉野街道側に再鎮座し、稲荷社となったとされる。

奉安殿らしい重厚さを備えている。

社殿の後ろは、青梅私立第五小学校。

場所

https://goo.gl/maps/msjxyoDA645Cngem8

※撮影:2023年1月

五所神社境内社「頌徳社」・湯河原小学校奉安殿(湯河原)

湯河原に鎮座する「五所神社」(旧社格は郷社)の境内に鎮座する「頌徳社」は、かつては「奉安殿」であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


湯河原頌徳社

元は、湯河原小学校の奉安殿であったという。奉安殿としての由来は不詳。
昭和21年9月24日、奉安殿を移設し、祖霊社として創立された。
旧湯河原及び熱海市泉から出征した戦没者301柱と郷土の自治功労者200余柱を祭神としている。

湯河原頌徳社

湯河原頌徳社
神奈川県足柄下郡湯河原町宮下三五九-一

一、祭神
明治以来郷土湯河原(旧湯河原町=奥湯河原、湯河原、宮上、宮下、城堀、門川)及熱海市泉(本区、五軒町、中沢)より出征し祖国防衛に挺身、散華した殉国の士三〇一柱と郷土の発展に尽した先賢(自治功労者)二〇〇余柱

一、由緒
大東亜戦終結直後の昭和二十一年九月二十四日心ある有志の熱意により祖霊社として創立、昭和二十五年三月二十一日奉賛会を結成、同年五月十九日五所神社境内社として神社本庁の認証を受く、昭和五十一年八月十九日創立三十周年を記念して大忠魂碑の東側より現在地に社殿を移転、頌徳碑及社号標を建立、大忠魂碑並頌徳碑裏面に祭神名を刻みその栄誉を称え境内外の整備拡充をした

一、例祭並合祀祭
毎年四月二十九日(以前は春分の日・昭和五十二年より四月中、下旬の日曜日)

14弁の菊の御紋。十四菊。

頌徳碑


忠魂碑(五所神社境内)

大きな忠魂碑が、隣接して鎮座している。

灯籠には文字が刻まれている。

千載不朽
芳名萬古
陸軍大将男爵本庄繁書

千年ののちまで朽ちない、永久に名を残す、の意味。
本庄繁が、侍従武官長時代の昭和10年の建立。

忠魂碑
陸軍大将本庄繁書

昭和10年5月27日に軍友会によって建立。日露戦争の戦没者を祀る忠魂碑。
のち、昭和51年5月19日にその後の大東亜戦争の戦没者が追記され合祀されている。

明治三十七八年役戦歿者碑


以下は付記として。

五所神社(湯河原)

ご本殿は、神奈川県指定重要文化財
元和七年棟札

明神の楠

五所神社のクスノキ、御神木。


湯河原駅


土肥氏館跡

湯河原駅前。
源頼朝の石橋山の戦いに参じた土肥実平ら一族。


養生園の碑(東郷平八郎)

湯河原の熊野神社の境内に。

養生園の碑
明治38年、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別荘の庭園「養生園」で英気を養いました。
東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。
 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、
 衆と之を楽しむ。
 余既に園の風勝を愛し、
 今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、
 遂に筆を抽きて之の為に記す。
石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。

東郷平八郎筆の「養生園」


熊野神社

湯河原温泉の神様。

手水は温泉源泉。


湯河原温泉

湯河原温泉は万葉集に、「足柄の 土肥の河内に 出ずる湯の 世にもたよらに 子ろが言はなくに」と詠まれている古い温泉。

万葉歌碑

湯河原温泉街を流れる藤木川。

湯河原町町営の「こごめの湯」。
2・26事件の光風荘の近く。

温泉タヌキ
湯河原温泉の伝説。

狸福神社

温泉タヌキを祀る神社。


坦々焼きそば

湯河原温泉の伝説から生まれた、湯河原名物の坦々焼きそば。

撮影:2023年2月


関連

はじめに

さいたま市に残る「奉安殿」流用建造物

大宮浦和のさいたま市に残っている、かつての奉安殿を流用した建造物を求めて散策してみる。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


宮原町二丁目自治会館神輿蔵
宮原尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区宮原町。
昭和14年建立。流造一間社。
宮原尋常高等小学校の奉安殿として建立された。
戦後、建築後6年しか経過していないことなどもあり、小学校から撤去するには惜しく、そのまま宮原二丁目の公民館脇に移築し、神輿等祭礼具の収蔵庫として活用することとなった。

屋根には、奉安殿のころから変わらずに、菊花紋章が掲げられたまま残されている。

場所

https://goo.gl/maps/W1Ng1ATYhVDVosZa9

※撮影:2022年2月


日進神社境内門客人神社
日進尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市北区日進町。
昭和8年頃建立の日進尋常高等小学校奉安殿。
日進尋常高等小学校(現・日進小学校)の奉安殿を戦後に移築し、日進神社境内社の門客人神社となった。

日進神社。
創建年代は不詳。大宮氷川神社からの勧進。日進村の村社。

場所

https://goo.gl/maps/4ByoXWN1pPEnBPcf9

※撮影:2022年2月


並木氷川神社本殿
三橋尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区三橋。
昭和13年頃建立の三橋尋常高等小学校奉安殿。鉄筋コンクリート造。
三橋尋常高等小学校(現・三橋小学校)の奉安殿を戦後に移築し、並木氷川神社本殿となった。

並木氷川神社。
創建年代は不詳。並木村の村社。

神社合祀の記念碑と、日清日露戦役記念碑。

日清日露戦役記念碑の碑銘は、山県有朋。

場所

https://goo.gl/maps/TmxmeiehtyKw3bb77

※撮影:2022年2月


楢姫稲荷神社本殿
大宮南尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町。
昭和7年頃建立の大宮南尋常高等小学校奉安殿(大宮尋常高等小学校南分校奉安殿)。
大宮南尋常高等小学校(現・大宮南小学校)の奉安殿を戦後に移築し、楢姫稲荷神社となった。

場所

https://goo.gl/maps/nZ3rrSCQXNZAgwMP8

※撮影:2021年7月


起志乃天神社
浦和第一尋常高等小学校奉安殿

埼玉県さいたま市浦和区岸町。
昭和7年頃建立の浦和第一尋常高等小学校奉安殿(浦和第一国民学校奉安殿)。
浦和第一国民学校(現・さいたま市立高砂小学校)の奉安殿を昭和二十一年に譲り受けて当社の社殿とした。

起志乃天神由緒
菅原道真卿を祭神とする太宰府の天満宮は文教の祖神として崇敬のまとであるが、天歴元年後村上天皇が京都の北野に天満宮を造営され一条天皇の車駕行以来歴聖の行幸二十数変に及び世人これを北野行幸と呼んだ。
當天満宮は青山家祖先藤原朝臣忠勝が京都より移り住むに當り永仁六年に北野より勧鎮座したものであり、今から約六百八十数年前である。
尓来当地方の天神様として広く敬愛され幾星霜を経た、明治四年名主青山貞勝により石祠殿が建立された昭和六年青山治作他世話人により石祠殿の修理があった。
その後住人の移り変りと支那事変、大東亜戦争と騒乱の時代を迎え文教の守護神である當社は次第に荒廃の度を加えた。
昭和二十一年当町内相川、佐久間、辻村、内田等の諸氏が実行となり高砂小学校にあった旧奉安殿の建造物を当処に移築し石祠は新社殿に内臓した。さらに境内地は浦和市児童遊園地に指定を受け今日に至ったものである。
昭和五十五年社屋の修築と周辺の整備を行うに当たり地域在住諸氏の協賛に感謝しここに由緒を誌す。
   昭和五十五年二月
  起志乃天神奉賛会
    会長 相川曹司
     他 役員一同

場所

https://goo.gl/maps/s6a7HPhFe7t44SBEA

※撮影:2020年9月


関連

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

傷ついた兵士の療養所「傷痍軍人箱根療養所」(箱根病院・小田原)

箱根登山鉄道「風祭駅」。
かまぼこの鈴廣の本店や土産物店、鈴廣かまぼこ博物館などで賑わう駅前とは反対側の山の方に、「箱熱病院」がある。この病院は、かつて戦場で傷ついた軍人たちの療養所であった。


傷痍軍人箱根療養所
箱根病院

「廃兵院」は、日露戦争により、四肢の欠損や脊髄損傷などの重傷を負い、社会復帰が困難で身寄りのない者を収容する施設であった。

日露戦争直後の明治39年(1906)に、「廃兵院法」によって戦傷病兵を国で扶養することを決定し、明治40年に東京予備病院渋谷分院の一画に「廃兵院」が設立。明治41年(1908)に渋谷から巣鴨に移転。

大正12年(1923)、廃兵院法の改正が行われ、陸軍省から内務省に移管。
昭和9年(1934) 、「廃兵院」は「傷兵院法」により「傷兵院」と改称。
昭和11年(1936)、巣鴨の地から現在の小田原市風祭へと移転。東京巣鴨周辺の都市化が進み、療養環境が維持できなくなったための移転という。
昭和13年(1938)、厚生省の設置とともに、傷兵院は厚生省の外局として発足。「傷兵保護院」に所属。
昭和14年(1939)、傷兵保護院は事業拡大し、「軍事保護院」と改称。
昭和15年(1940)、軍事保護院は「傷痍軍人箱根療養所」を併設。当時、臨時東京第1病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を収容した療養所であり、国内唯一となる脊髄損傷専門の「療養所」であった。
これは、箱根病院が、全国唯一の「国立精髄療養所」に分類されている由来でもある。

昭和20年(1945)、終戦とともに傷痍軍人箱根療養所は厚生障害教区の医療局に所属。「国立箱根療養所」と改称。軍事保護院(傷兵院)は廃止。「国立箱根療養所」が所管を継承した。

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場。
そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた御方であった。

昭和50年、「国立療養所箱根病院」と改称。
平成16年、「独立行政法人 国立病院機 構箱根病院」に組織変更。
平成20年(2008)、最後の傷痍軍人の入院が終了となった。

こうして、傷兵院(傷痍軍人箱根療養所)は、戦後は「国立療養所箱根病院」 として医療活動を継承し、こんにちに至っている。

巣鴨にあった「傷兵院」の記念碑は以前にレポートしました。


傷兵院本館(箱根病院)

内務省営繕管財局設計、昭和11年(1936)竣工。
傷兵院が巣鴨から小田原に移転した際に建設された。

車寄せ部分。

三角屋根。

ちょっとおしゃれ。

建物北側

建物南側

数年前までは、本館のほかに講堂も残されていたが、駐車場拡張のために取り壊し済み。


傷兵院奉安殿

傷兵院時代に奉安殿として使用されていた建屋が残されていました。
回遊庭園の島の中に鎮座。往時は水が張られていたかもしれない。

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿付近から、風祭駅方面を望む。


機銃台座??

不自然なベンチ。なんとなく機銃台座にみえるのですが詳細不明。

崖にせり出してます。この台座。

箱根病院

言わずもがなですが、
病院ですので、常識ある行動をお願いいたします。

風祭駅の北側

箱根登山電車。
小田原と箱根湯本の中間あたり。なのでこのエリアは小田急ぽい。

本格的山岳鉄道として土木遺産に認定されてます。(2007年の認定)


参考

https://hakone.hosp.go.jp/about/history/index.html

https://www.sankei.com/region/news/140819/rgn1408190054-n1.html

https://www.shokeikan.go.jp/


関連

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿(羽生市)

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿

埼玉県羽生市中岩瀬鎮座。
御祭神は稲荷神、宇迦之御魂神。本務社は羽生市小松鎮座の小松神社。
神社としての由緒は不詳。

社殿は昭和6年頃築の旧忍高等女学校御真影奉安殿の移築という。移築された経緯等も不詳。

埼玉県立忍高等女学校は、忍藩藩校「進修館」の流れをくむ伝統校。大正4年(1915)に忍進修館尋常小学校内に忍町立実科高等女学校として設立。その後、女子教育を行う旧制中等教育学校として大正14年(1925年)に忍高等女学校となり、戦後の行田女子高等学校を経て平成17年(2005)に行田女子高等学校・行田工業高等学校・行田進修館高等学校は合併し、進修館高等学校として統合され、閉校している。行田女子高等学校旧校地は埼玉県立総合教育センターの移転先として再活用されている。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿の建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震耕造で、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去がすすむが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされている。

http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/10257/

https://goo.gl/maps/1X4tigGucYBkatNU8


関連

https://senseki-kikou.net/?p=9576

https://senseki-kikou.net/?p=9224

https://senseki-kikou.net/?p=9196

https://senseki-kikou.net/?p=5469

氷川八幡神社・白子国民学校奉安殿(和光)

埼玉県和光市下新倉鎮座

氷川八幡神社境内・琴平神社稲荷神社
(白子国民学校奉安殿)

氷川八幡神社の旧本殿と社務所は昭和20年5月の戦災にて焼失。
戦後に、白子国民学校(白子小学校)の奉安殿を移築して氷川八幡神社の本殿として奉斎。
平成8年に本殿・幣拝殿を新築した際に、琴平神社・稲荷神社として再移築。
平成9年10月に、銅板に葺き替え。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


日露戦役記念碑

日露戦役記念碑
陸軍大将子爵長谷川好道書


氷川八幡神社

祭神:建速須佐之男尊・誉田別尊
第73代堀河天皇の寛治5年(1091)に八幡宮として創建。
文禄3年(1594)に氷川神社を合祀。
明治社格では村社列格。


関連

長慶寺稲荷社・池雪国民学校奉安殿(大田区)

大田区東雪ヶ谷鎮座。

長慶寺境内・朝日稲荷社
(池雪国民学校奉安殿)

昭和15年築の旧池雪尋常小学校奉安殿(旧池雪国民学校奉安殿)という。
池雪国民学校は現在の池雪小学校。

稲荷社としての由緒由来は不詳。池雪国民学校奉安殿が当時に移築された由来も不詳。昭和21年頃に長慶寺境内に移築されたという。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿の雰囲気を色濃く残す佇まい。

扉は鉄筋コンクリート。内側が一部崩落気味。

都内に残る数少ない奉安殿の名残。


長慶寺

境内社の朝日稲荷社はご本堂の後方に鎮座している。


関連

清水稲荷神社・鷹番国民学校奉安殿(目黒区)

目黒区に鎮座するお稲荷様は、なんとなく変わった御社殿。

戦前に「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物=鷹番国民学校奉安殿が、戦後にこの清水稲荷神社の御社殿として再活用された、という。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

清水稲荷神社
(旧鷹番国民学校奉安殿)

清水稲荷神社
 目黒本町1-1

 この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったと言われ、その付近に真夏の旱天でも清水が湧き出していました。この湧き水外なりの社名の源となったと思われます。
 大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主のさんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲を志摩市yた。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
 その後、昭和27年(1952)に篠原福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。
 この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒が振る舞われ、盛んな祭りが行なわれます。
 平成5年3月
 目黒区教育委員会

鉄筋の分厚い扉。
壁面も赤く塗られているが、基はコンクリート。
奉安殿の特徴を感じることが出来る。

社殿の欄干や階段部分もすべて奉安殿時代からの流用という。

鳥居は大正13年建立。関東大震災の翌年。御由緒にある土地分譲の再開発時期と合致。


関連

「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。