東京都清瀬市
現:独立行政法人国立病院機構東京病院・外気舎記念館
結核治療のメッカとなった清瀬。いまでも多くの病院が集まる病院街。
そんな清瀬の森に戦前からの結核治療を物語る歴史が残されていた。
現在の「独立行政法人 国立病院機構 東京病院」は、戦前は「傷痍軍人東京療養所」として、軍人結核治療の中心地であった。
特効薬がなかった時代でもあり、ここでは自然療法での治療が行われ、そしておそらく多くの結核患者がなくなったであろう場所であった。
合掌。
目次
傷痍軍人東京療養所・外気舎
外気舎記念館
外気舎記念館
傷痍軍人東京療養所は昭和14年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな武蔵自然林内に別図のごとく診察室及及び食堂を中心として外気舎72棟が扇形に建設されました。そこでは一棟に二人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は72棟の外気舎も満員で130名から140名ほど入舎しておりましたが、昭和41年4月に作業患者が18病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。
国立療養所 東京病院
市指定有形文化財
外気舎記念館
所在地 清瀬市竹丘3丁目
(独立行政法人国立病院機構東京病院内)
指定日 平成26年月14日
清瀬における結核治療の歴史は、昭和6年(1931)に「東京府立清瀬病院」が開院したことに始まります。昭和8年(1933)には「べトレヘムの園病院」、昭和14年(1939)には「傷痍軍人東京療養所」が開所し、以後続々と病院がつくられ、今の病院街が形作られていきました。
当時、結核は不治の病として恐れられ、死亡原因の上位に位置しました。抗結核薬であるストレプトマイシンの発見以前は、きれいな空気の中で、栄養を取りながら安静に療養生活を送ることが治療の方法だったのです。
ここに残る「外気舎記念缶館」は、傷痍軍人東京療養所の付帯施設として、回復期にある患者を二人一組にして大気療法や軽作業を行い体力の回復を図るために使用した病棟(外気舎)です。こうした病棟は72棟が建てられましたが、現存するのはこの「外気舎記念館」のみになります。室内は狭く、木製のベットが2台置かれており、大きな窓が作られています。療養の為空気の循環を良くするために、この窓は冬の夜でも開け放たれていたと伝えられています。
国民疾患であった結核の治療の歴史を今に伝える施設として大切なものです。
平成28年月31日
清瀬市教育委員会
とても小さく素朴な病棟
前後には、上下に開く扉が備え付けられている。半蔀(はじとみ)
内部には2つの簡易的なベットと小さな洗面台。
左右と前後の扉。すべてを開け放てば極めて開放的な空間。
まさに文字通りの「外気舎」。外の空気を取り入れることに特化した病棟。
軒先には鐘が吊り下げられていた。
非常時に打ち鳴らすのだろうか・・・。
清瀬の森の中に残された結核治療病棟「外気舎」
再起奉公
東京府知事 岡田周造
昭和15年5月
恩賜財団 軍人援護會東京府支部寄贈
慰安施設
1.釣堀池
2.休憩舎
3.温室
4.大弓場
5.テニスコート
6.バレーボールコート
7.果樹園
8.広場
9.庭園
10.野外卓
11.腰掛
12.其他
この紀念碑は昭和62年11月まで社会事業大学敷地(旧東京病院敷地)に残されていたがこのたび当院敷地内に移設したものである。
第二次大戦中当院に入院していた傷痍軍人が「再起奉公」を願い又国民がこれを支えた碑があります。この碑が所在していたあたりには右側にある外気舎72灯に140名ほど入舎していたと云う。
昭和62年11月吉日
国立療養所東京病院
(当表札は平成14年10月吉日に復元)
桜の園
この地は東京病院の前身である傷痍軍人療養所に隣接して当時は松の大木等が生い茂り昔の武蔵のそのままの状態であったのですが昭和17年に当療養所で1万坪を購入し農場と運動場とを作りました。運動場の回りには桜(桜園の回りに特に大きい桜)を植え、グランドには庭球コートを設け患者職員の運動会を催したものであります。戦争が激しくなるにしたがって職員の食糧自給の必要が生じ運動場を職員各自に地割をして畑にし食糧増産の場となりました。終戦後食料も次第に入手できる様になると畑を作る人もなくなったので、昭和31年埼玉県安行から桜の木(ソメイヨシノ)を購入し、樹高約4m、幹の太さ直径5-6cmの木を患者の作業療法として植付けたものです。桜爛漫の春となると患者のための憩いの場となっております。
国立療養所東京病院
ここに寿康館ありき
ここに寿康館があった。
傷痍軍人東京療養所が昭和14年に開設された際、恩師財団軍人援護会からの寄贈にかかる。傷痍軍人療養所時代には国家的祝日がここで祝はれたし「精神講話」も行はれたし、はなやかな慰問演芸が拍手をもつて迎へられた。患者と職員が直立して終戦の放送を聞いたのもここであったが、終戦後は患者会、職員組合の熱っぽい集会にも利用された。患者の文化祭も行はれ、劇「父帰る」出演者のうち少なからぬ人達が再悪化をしたと云ふ記録も残っている。日本間には全国国立療養所の組合の本部がたむろしたこともあったが、ここで歌会や句会が行はれたから多くの風流人の思い出の場所でもある。ところが終戦以来殆ど手入がなされないまま放置されたため屋根は傾き屋台骨は腐り果て、風、火、地震の危険にさらされるに至ったので昭和53年春ついに取りはらわれ残された礎石がわづかに昔を語っている。こうして国立結核療養所の歴史の1こまが終わったのである。
昭和53年8月
国立療養所東京病院長
砂原茂一
独立行政法人国立病院機構東京病院
位置関係
国土地理院航空写真:USA-M68-A-6-2-151
1946年02月09日-米軍撮影
上記を一部加工
現在の様子