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大阪大空襲による弾痕が残る「旧制北野中学校本館西壁」と「殉難碑」(大阪市淀川区・北野高校)

大阪に出張のおり、夕刻に時間ができたので、北野高校に残る弾痕壁を見学してきました。


空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」

昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、昭和20年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmに及ぶ。

大阪大空襲
1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲があり、なかでも下記の8回は特に大規模な空襲として、延べ1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

殉難乃碑
昭和20年6月15日の空襲により、北野中学2年生の中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃る 
 北野百年史

空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
 太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
 昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校、当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず、生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
 旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
 この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
 戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
  平成7年12月
   大阪府立北野高等学校

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6fcd0dbdf51dfd47d212f0bccf5bf49bc551fe7?page=1

https://www.sankei.com/article/20250429-YFNUPEQVYFJPZGZQ4NCGEG7RTQ

壁に残る28個の弾痕が生々しく、往時の惨劇を伝える。


「北中」記念碑

大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校。

「北中」記念碑
1931年竣工の昭和校舎屋上の飾り壁。
円形の窓にはめ込まれた「北中」の文字。
その幾何学的な美しい意匠は、六稜の星とともに北野の象徴として、文武に励む幾多の俊秀の胸に刻み込まれてきた。

※撮影:2025年4月撮影(PENTAX WG-1000)

※場所

https://maps.app.goo.gl/TsiyPNNsg7d688RS8


関連(大阪の空襲)

「大阪大空襲」の痕跡が残る柴島浄水場と淀川周辺の戦跡散策(大阪)

新大阪に宿泊していたある日。
早起きして、早朝に、新大阪駅から淀川に掛けてのエリアに点在している戦跡関連を散策してみました。
ざっくり朝4時30分から6時30分の約2時間の散策。
出張だったので、朝しか時間がなかったのだ。


柴島浄水場の壁面の空襲による弾痕

東淀川区・柴島浄水場の北側。崇禅寺駅と淡路駅の踏切の南側。
機銃掃射の弾痕の壁面跡が残されている。

大阪市民の水瓶・柴島浄水場も空襲の目標となり、大阪空襲では直撃弾を受けて水道水の供給が止まったという。

ちなみに、柴崎と書いて「くにじま」と読む。難読。。。

柴島浄水場壁面の空襲による弾痕
 1945年6月7日・6月15日・6月26日 東淀川区は米軍機による空襲にみまわれた。
 特に6月7日の空襲は激烈をきわめ、1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。
 米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し、浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約50メートルにわたり残された。
 この弾痕は、空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、私たちにかたりかけている。


JRガードに残る弾痕

JR東海道線と阪急京都線が交差するガードに機銃掃射の弾痕がある。


大阪市水道局 水道記念館
柴島浄水場第一配水ポンプ場)

敷地外から。
旧第一配水ポンプ場(竣工:1914年、設計:宗兵蔵)を保存活用した記念館。
国の登録有形文化財に登録(第27-0072号)。
土木学会選奨土木遺産に認定。

この建物も気になるんですけど。。。


明倫観世音菩薩像と旧長柄橋弾痕

長柄橋南詰に。
機銃掃射の弾痕と、空襲犠牲者を慰霊する観音様がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city017/index.html

合掌

旧長柄橋弾痕と菩薩像
昭和20年6月大阪大空襲で旧長柄橋周辺の堤防に多くの住民が避難した。そこへ機銃掃射があり約400人の住民が犠牲となった。
弾痕の残る橋脚の一部は、悲惨な歴史と平和の尊さを伝える戦争遺構であり、菩薩とともに住民によって設置された戦没者追悼施設である。
 大阪市北区役所

明倫觀世音菩薩
昭和二十年六月七日この橋畔において散華されたる空襲犠牲者並に
淀川水難犠牲者の冥福を祈るため此處に觀世音菩薩を建立して明倫觀世音菩薩と稱へ奉る。
願くは諸靈安らかに随願往生遂げられんことを。

南無大慈大悲觀世音菩薩
 昭和三十二年八月十四日
  三輪 勝 建立
  魚森 天心 撰文

長柄橋

日の出。朝5時20分。

※撮影:2024年5月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


露天神社に残る機銃掃射弾痕(大阪市北区曽根崎)

曾根崎心中で知られる「お初天神」こと「露天神社(つゆのてん神社)」
近くに赴く用事があったので、足を運んでみました。


露天神社に残る機銃掃射弾痕

社頭前に2つある柱に刻まれた弾痕。

昭和20年6月
福島駅・大開周辺を爆撃した後、大阪駅を超えて来襲した、米軍マスタングP51他による
「機銃掃射弾痕」
(他方の柱にも残っています。)

露天神社社頭。
この2つの柱に機銃掃射の弾痕が残る。

脇参道にある旧社号標にも、弾痕が残る。

石灯籠に傷も、そうかも知れない。

石畳。
中央部分は新しいが、左右の石畳は少し古い。
このあたりの欠けも弾痕とおもわれる削れ具合。


露天神社

祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。
創建は大宝元年(701年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。
のちに難波神明社とも称され、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも数えられたという。
「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた悲恋を人形浄瑠璃にしたのが近松門左衛門の「曽根崎心中」。
戦前は「天神の森」が鬱蒼としていたが、戦後復興で境内地を切り売りし、現在の広さとなっている。

※撮影:2024年5月

公式サイト

https://www.tuyutenjin.com


機銃掃射関連

はじめに

「弾除け霊験」で信仰された「サムハラ神社」(大阪市西区)

「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。

2016年9月参拝。いまから8年前。この当時の私は、全国の有名神社を散策していたころでした。逆に言うと、まだ戦跡には目覚めていないころでしたので、戦跡としての意識は全く無く、神社フリークとして、足を運んだ次第でした。
ふと「そういえば、大阪に弾除け信仰の神社があったな、昔の写真あるかな」と思い起こして、本記事で再掲した次第です。


サムハラ神社

この読めない4文字の漢字は・・・漢字ではなく「神字」とされている。サムハラとは、「不思議の4文字」であり、「身の安全を守る文字」とされている。

祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。
いわゆる造化三神。
「サムハラ」はこれら三神の総称

本宮が大阪にあり、そして奥の院は、美作加茂(岡山県津山市)にある。

田中富三郎は、サムハラ大神をあつく信仰し、日清・日露戦争などで戦地に行った時にはサムハラの護符を身に着けていたことから、数々の危難をまぬがれ無事生還。

1935年(昭和10年)に、田中富三郎は、出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて、旧祠を再興しサムハラ聖殿が竣工する。そして、サムハラの霊徳を世の人々に分かつため、サムハラ信光会という団体も立ち上げ、サムハラ文字の付された様々な品物を販売し、サムハラの流布がはじまる。

しかし昭和11年に、岡山県特高課(特高警察)より、迷信利用と宗教法人違反(無許可神社での商品広告など)で自主撤去を求められ、いったん神社は撤去されている。

その後、田中富三郎は出征する兵士に、サムハラのお守りを持たせ、そのおかげで救われたりケガがなかったという人が大勢いたということから、サムハラは弾除け弾避けに霊験あらたかということで戦前・戦中に爆発的期に流行した宗教となる。

以下は、公式な由緒として。

美作国東北条郡中原村(現・津山市加茂町中原)日詰山山中の城郭址に古祠在り、 『サムハラ』を伝えると謂れあるも年紀不詳、恐らくは中世の日詰城の域内に斯様の守護祠の在ったものかと推測される。 歳月の中に古祠荒廃し、付近の住人の細々たる尊崇のみのうちに継がれる。同地出生の当神社初代主管者・田中富三郎翁の、往時により災難除・身体健固の加護に与りて日清・日露の戦役に助かり、常陸丸、鉄嶺丸に難を逃れ、しばしばの危難を避けて無事なるは奉持した
「サムハラ」の護符の御陰と畏んで、昭和9年に奉賛会たる信光会を催し、昭和10年に荒廃の古祠を再建する。第2次大戦に至り、大阪師団司令部を通じて出征兵士に御守を贈呈、武運長久を願う。
戦後昭和21年改めて中原・日詰山山中に社殿再建。 次で昭和25年、当時の大阪市要人達の賛同を得て大阪中之島豊国神社(当時)の摂社として岡山より分霊、中原の社殿は元宮・奥宮と称する。 昭和36年、大阪市役所増築により豊国神社大阪城内に奉遷、当神社も西区立売堀に移築遷座する。平成17年、台風の為毀たれた岡山奥宮を、加茂金刀比羅神社、地元各人の協力を得て加茂町中原900-3の現在地に遷座する。

沿革について(https://www.samuhara.or.jp/about.php

公式サイト

https://www.samuhara.or.jp/

神社としての第一印象は「よくわからない神社」
なんというか・・・よくわからない神社という感覚は、「神社神道」的な理屈の目線。
理屈とか由緒とか、歴史とか、そういうことではなく、人々は生きるか死ぬかの戦時下に縋った、生きて帰ってくるための、よくわかならい霊験からくる信仰は、人々の生活に直結し、そこには理屈ではない信仰の重みを感じさせる。

田中富三郎胸像

創建者の田中富三郎は、1868年(明治元年)美作加茂生まれ。サムハラ大神をあつく信仰し日清・日露戦争で数々の危難をまぬがれた。サムハラ大神の霊徳を人々に分かつため私財でサムハラ神を建立。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100歳。

御朱印。
2016年(平成28年)の参拝。

御神環守
「指輪の御守・御神環(指輪形肌守)」

神紋

崇敬者の声。
無傷無病、延命長寿の神としての「サムハラ様」の霊験。

サムハラさんは、従来型の神社神道とは異なる新しい形の神社として、色んな意味でよくわからないながらも面白いなと感じた神社でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/a543rbEh2WGyLXUK6


大阪に落とされた模擬原爆(東住吉区田辺)

全国各地に投下された模擬原爆「パンプキン爆弾」。大阪にも投下されており、往時を伝える石碑が建立されているというので、足を運んでみた。


模擬原爆

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。


大阪に落とされた模擬原爆

終戦間近の昭和20年(1945年)8月6日広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。その11日前の7月26日午前9時26分大阪市東住吉区田辺2-3(現在の田辺小学校北側)に大きな爆弾が投下されました、大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」という資料には死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人とその爆弾による被害が記録されています。
実はこれは模擬原爆という特別な爆弾でした。模擬原爆というのは長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)と同じ型、大きさ、重さで、中身がTNT火薬の約5トンの爆弾です。ずんぐりした型で黄色い色彩からパンプキンと呼ばれました。
米軍は終戦近い7月20日から日本各地への空襲に紛れて模擬原爆を49発も投下しました。模擬原子爆弾による被害は死者400名、負傷者1200名を越えると記録されています。

なぜ模擬原爆が慌ただしく投下されたのか。原爆を投下するには技術が必要でした。目視で原爆を目標地点に投下する。投下とともに自らの機体が被爆しないように急旋回させる。それもB29という巨大な爆撃機をです。当時完成したばかりの実物の原爆は3発しかなく、それを想定通り実戦投下するためには訓練が必要でした。その訓練用爆弾が模擬原爆だったのです。

模擬原爆の存在が歴史の明るみになったのは戦後の平成3年(1991年)です。愛知県春日井市の市民グループが国会図書にあった米軍資料から模擬原爆の投下場所の一覧表や地図を見つけました。模擬原爆の事実を解明していくと人類最悪の兵器原爆がどのような意図で使用されたかが見えてきます。

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設されました。恩楽寺本堂も模擬原爆の爆風で傾いた被災モニュメントです。毎年7月26日の投下時間に碑の前で追悼式が行われます。

東住吉区 081 模擬原子爆弾投下跡地之碑(https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033897.html

模擬原爆資料館 – 恩楽寺

https://www.onrakuji.com/%E6%A8%A1%E6%93%AC%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/

模擬原子爆弾投下跡地
一九四五年七月二十六日九時二十六分広島・長崎への原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時五十五歳)他六名が死亡、多数の方が罹災しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。
二〇〇一年三月吉日

「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎えて
 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難の過ちを犯したことを、深く懺悔するものであります。
 同時に、我が国には、広島、長崎に、アメリカによる二つの原子爆弾が投下され、まことに多くのいのちが無差別に奪われ、筆舌し難い業苦を被りました。
 この二つの原子爆弾に先立ち、模擬原子爆弾という、原爆投下練習用の殺戮兵器が我が国各地に四十九発も使用され、その内の一つが、昭和二十年七月二十六日、ここ東住吉区田辺にも投下されていました。死者七名が犠牲になり、重軽傷者七十三名、四八五戸の家屋が倒壊しました。
 この事実は長く歴史に埋もれており、先人がこれを発見し、こうした隠れた痛ましい事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を建立し、毎年追悼式を行って参りました。そのように、不戦平和への願いに促されて、その現実に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。
 しかしながら、戦後七十数年、戦争の悲惨さと愚かさに対する人々の感覚は風化していきます。その風化は、現在も、基地問題で苦しむ沖縄の人たちの心に向き合おうとせず、戦争に向かう状況を生み出そうとしています。
 かつて二五〇〇年前、釈迦牟尼仏・仏陀は、私たち人間の生きざまを憐れんで、仏教を開闢されました。
 永い人類の歴史は、人が人を殺し、傷つけ合う悲しみの連続でありました。仏陀の願心は、自我愛を正当化して「賜った尊いいのち」を奪い合うことを悲しみ、私たちに「共に生きよ」と呼びかけておられます。
 「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の悲願を受け取り、あらためてここに「非戦の誓い」を表明します。当恩楽寺は、この懺悔の思念を旨として、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに仏より賜った信心の智慧をもって、人類が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎え、不戦の誓いを改めて表明するものであります。
 今日ここに集う私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。
  令和元年六月二日 釋大信

7月26日 
田辺 模擬原爆 追悼式

場所

https://goo.gl/maps/6rXxMdJ1NsvLFcv67

総務省>田辺模擬原爆投下跡地

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city016/index.html

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設している。もともとは、下記の写真のあたりにあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/oTkhdvyscHRdt3tV6

※撮影:2023年7月


関連

昭南島改称記念の国旗掲揚塔(大阪東住吉区北田辺ノ榎神社)

昭南島。
1942年から1945年にかけて、日本統治下にあったシンガポールを「昭南島」と呼称していた。
現在に残る、歴史的に貴重な国旗掲揚塔の記念碑。
「昭南島」と刻まれた文字列を、この手の記念碑で初めて拝見したので、戦跡として記録。


昭南島

第二次世界大戦において、日本軍第25軍(第25軍軍司令官・山下奉文中将)は初戦で「マレー作戦」を決行し、難攻不落とされた大英帝国が誇る一大拠点であったシンガポールを昭和17年2月15日に陥落させた。

大英帝国(イギリス極東軍司令官・パーシバル中将)のシンガポール降伏に伴い、日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。そして軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置された。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180591_00000

「マレー(馬来)方面、帝国陸軍部隊は、本15日午後7時50分、シンガポール島要塞(ようさい)の敵軍をして無条件降伏せしめたり。」
老英帝国の威信、ついに地に落つ。時に昭和17年2月15日、全国を興奮のるつぼに投じた歴史の夜はほのぼのと明けて、一億の民草あげて感激の奔流と化し、続々宮城前広場に参集、この声天にも届けと母国の弥栄(いやさか)を唱え奉る。靖国神社社頭は夜の明けきらぬ頃より参拝者引きも切らず、大東亜聖戦の華と散った多くの英霊も、この日世紀の朝を寿ぐかのようであります。町々は戦勝祝賀の歓喜に沸き立つ中にも、米英倒れる日まで戦い抜かんとする一億国民の意気は火と燃える。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

シンガポール陥落は、日本国中を歓喜の渦に包み込んだ。
そんな熱狂のなかで、国旗掲揚塔の記念碑として建立されたと思われる。


昭南島改称記念の国旗掲揚塔

境内奥の大黒社の前にある国旗掲揚塔。

昭南島改稱記念
昭和17年3月10日建之

設立団体などは不詳。
日本軍がシンガポールを占領したのは昭和17年(1942年)2月15日。
占領後シンガポールは「昭南島」と改称し、その記念で、約1ヶ月後に国旗掲揚塔が建立された。


榎神社

JR阪和線・美章園駅が最寄り。
行基菩薩に由来の有る桑津墓地内にある神社。

大阪市東住吉区>榎神社

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000032782.html

大阪市東住吉区>桑津墓地

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033849.html

かつては、樹木で覆われていたようだが、現在は樹木は伐採され開放的な空間となっている。

場所

https://goo.gl/maps/5geu8gySizntetXt5

※撮影:2023年7月


関連

大阪星田で散華した学鷲・中村純一中尉の慰霊巡拝

以前、宝塚聖天を参拝した際に、目についた慰霊碑があった。
それが、中村純一中尉の顕彰碑(慰霊碑)であり、そこで交野市の星田駅近くの戦死場所にも慰霊碑があると聞き、それを知ったのはなにかの縁、いつかは行かねばと、心の片隅に気にかけていた。
先日、大阪に赴く機会があり、運良く時間があったので、足を運んでみました。


中村純一中尉慰霊碑(星田)

星田駅周辺の再開発により、新設された星田北4号公園に移設された、「中村純一中尉慰霊碑」。
移設先でも大切に整備された、清廉な慰霊の空間が設けられておりました。

合掌

陸軍中尉中村純一は 学鷲として参戦 凄惨苛烈なる戦局俄かに急迫を告ぐる頃 一切の懐疑迷妄を越え 淡々として特別攻撃隊を志す
昭和二十年七月九日 天日を覆ひて来襲せる敵機群に突入 壮絶なる空中戦を展開するも 遂に被弾 この地に恨みを残して散る 
近隣有志が相集ひ 烈士の霊を懇ろに弔い 鎮魂の碑を建つ
平和は血と涙によって築かれたるも 愛惜と悲しみは尽きず 痛恨の碑の前に伏し 御霊安かれと祷る
 鹿児島市西43-32 中村三郎 撰

中村純一中尉の弟である、中村三郎氏の撰文。

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。戦死の地に慰霊碑が設置されている。

また、被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されており、いきいきランド交野(交野市)にて展示保管されている。
兵庫県宝塚市の宝塚聖天にも遺族による顕彰碑が設置されている。

再開発の影響で、「陸軍用地の境界標石」も2つ移転されてきた。
星田駅の北側には、陸軍香里火薬製造所へ専用線路があり、その境界標石であった。なお、陸軍香里火薬製造所周辺にも境界標石が多数残存しているというが、さすがに今回は時間がないので、散策などはまたの機会で。

後方は、JR学研都市線。

陸軍香里火薬製造所へ専用線路跡、でもある。ちょうどカーブを描いて北上する位置に公園が整備された。

星田北4号公園

移転前は、このあたりに、慰霊碑があった。

じつは最初は、あるべき場所に慰霊碑がなく、ちょっと焦りましたが、移設先の記載があって安心しました。

中村純一中尉慰霊碑 場所

https://goo.gl/maps/F9RMxBNj6tz5U2m38


中村純一中尉の搭乗機「飛燕」

いきいきランド交野(交野市立総合体育施設)に、中村純一中尉搭乗の飛燕の残骸が展示されている。

平成17(2005)年3月16日に、第二京阪道路の工事で発掘された。
調査の結果、昭和20年7月9日に撃墜された中村純一中尉の飛燕と判明。

60年後にエンジン発見(高知新聞 2008年9月5日)
米機と交戦 戦闘機「飛燕」
※一部抜粋
 1945年7月9日、敵機の接近を知った中村純一中尉=当時(23)=ら17機は伊丹飛行場(現大阪空港)を飛び立った。相手は硫黄島から飛来した約60機の米戦闘機P51。爆撃機B29の護衛を主な目的とし、優れた性能を誇った。
 飛燕は戦時中、実戦に投入された数少ない水冷式エンジンの戦闘機。高馬力で選果を挙げたが、故障が多く、整備士泣かせだったとされる。
 P51一機に中村中尉らの四機が立ち向かったが、すべて撃墜され、中村中尉は落下傘で脱出、敵機の翼でひもを切られ、墜落死した。機体は水田に突っ込み、機種が地中にめり込んでいた。
 目撃者によると、遺体に目立った傷はなく、身につけた赤いマスコット人形が印象に残ったといい、遺体は住民らによって手厚く葬られた。

交野で発掘された出土品(飛行機の残骸)
 2005年(平成17)3月16日に、交野市星田北8丁目の第二京阪道路建設現場で、飛行機の残骸が出土しました。交野市は、発見者の浪速国道事務所から出土品の引き渡しを受けました。
 今後、出土品は、交野歴史文化や教育の一環に使っていきます。

概要
 星田北地域の第二京阪道路建設工事現場で3月16日、橋梁基礎杭施行中に機関銃一丁と銃弾3発が発見されました。
 その後、調査を進めるうちに3月23日には飛行機のエンジンとプロペラが見つかるなど25日までに多数の各種部品が出土しました。
 
 星田歴史風土記(平成7年、財団法人交野市文化財事業団発行)には、次のように史実が記載されています。
 
 「60年前、第二次世界大戦の終戦前の7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島県出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた」と言われています。

 今回見つかったこれらの部品は、エンジンのマークから飛燕のもので、中村純一中尉が操縦さていたものであることが確認されました。

問い合わせ 交野市「平和と人権を守る都市宣言」を進める実行委員会(事務局:交野市総務部人権と暮らしの相談課)

陸軍3式 「飛燕 戦闘機1型乙」
全幅 12.00m
前長 8.74m
全高 3.70m
エンジン 液冷 1100馬力
最高速度 590km
昭和16年12月生産開始 川崎航空機岐阜工場で昭和20年6月まで生産されました。
太平洋戦争でビルマ フィリピン 沖縄 本土防衛など各地で活躍した戦闘機です。

発動機(エンジン)

川崎航空機の社章。

陸軍で唯一、液冷の航空機を開発していたのが、川崎航空機。

ドイツ空軍のメッサーシュミット「Bf109」に搭載されていたダイムラー・ベンツ製のエンジン「DB 601」を、ライセンスを取得し国産化したのが、陸軍機を手掛けるカワサキ(川崎航空機ハ40)であった。
同じタイミングで、海軍機を手掛けるアイチ(愛知航空機アツタ21)もライセンスを取得。
同じ日本で2社(陸海軍それぞれが折半せずに)が個別にライセンス費を払ったために、ドイツ政府は困惑したという逸話もある。

三式戦闘機一型(キ61)は、ハ40発動機を搭載。
三式戦闘機二型(キ61-Ⅱ改)は、ハ140発動機を搭載。

飛燕のエンジン(川崎ハ-40)は、所沢航空発祥記念館にもありました。

プロペラ

墜落時の衝撃で曲がったものと思われる。

二式二十粍固定機関砲(ホ五)

一式十二・七粍固定機関砲(ホ一〇三)

いききランド交野

場所

https://goo.gl/maps/NbwWLRueEuGoiLHJ8


中村純一中尉慰霊碑(宝塚聖天)

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」に鎮まる中村純一中尉の慰霊碑。

終戦33周年の年、昭和53年8月に宝塚聖天に、戦没者英霊礼拝堂「大光明殿」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

以下の記事も参照に。

場所

https://goo.gl/maps/gFiLp9F5BUo3LuwMA

大阪府交野市の撮影:2023年7月
兵庫県宝塚市の撮影:2019年8月


関連

航空爆弾?のモニュメント(東大阪)

近鉄奈良線瓢箪山駅から生駒山系にむけての登り坂。
住所でいうと、大阪府東大阪市上四条町12あたり。

なぜか、道に爆弾??が落ちている。
正確には、爆弾の尾部を地表に出した状態で、半分埋まっているような状態。

なんでも、かつて近くにあった軍需工場で、海軍向けの兵器を作っていたなかで、爆弾ケース(爆弾のガワ)も作っていたが、戦後に不要となり、車除けにオブジェクトとして置いたのが、そのまま今に至っているそうな。


東大阪にあった軍需工場。

日本理器株式会社(株式会社ロブテックス)

現在の「株式会社 ロブテックス」は、戦前は、「日本理器株式会社」と称していた。
日本理器株式会社は、伊藤 兼吉 によって大正12年(1923)8月12日に創業。理髪用バリカン工場を、東大阪のロブテックス本社の地に建設し、理髪用のバリカンを製造。全国生産量の50%を占める国内トップメーカーとなった。
昭和2年(1927)年、社内に「工具部」を設立し鍛造作業工具の製造に着手。2年後の昭和4年に「エビ印:の付いたモンキーレンチを発売し、バリカン理髪機器メーカーから、総合工具メーカーへと成長していった。
昭和18(1943)、社名を「帝国精鍛工業株式会社」と改め、海軍の管理工場となった。工具メーカーとしてのノウハウを活かし、各海軍工廠に機関銃部品や魚雷部品の鍛造加工品を製造。
戦後は、工具メーカーとして再出発。新社名をロブテックスとし現在に至る。

https://www.opmia.or.jp/sys/wp-content/uploads/2016/08/%E5%81%89%E4%BA%BA%E4%BC%9D201608_2%E6%A0%A1.pdf

https://www.lobtex.co.jp/company/history/tabid/72/Default.aspx

日本理器株式会社(現・株式会社ロブテックス)は、軍需工場時代に、魚雷部品を作っていたことを鑑みると、航空爆弾ではなく航空魚雷かもしれないが、安定翼部分が加工されているために、形状からは正確な判断ができない。

距離感的には、以下の位置関係。
左上が瓢箪山駅、真ん中がロブテックス、右下が爆弾モニュメント。


航空爆弾?航空魚雷?

見学。

シュールですね。

上から

安定翼の形状からは特定が難しい。加工されているために、大日本帝国海軍の代表的な航空爆弾とも航空魚雷とも安定翼の形状が一致しない。。。

まあ、真相は不明だけど、この地区にかつて、軍需工場があったことを記録するモニュメントにもなるのかな。

瓢箪山駅から歩いていきましたが、結構な坂道でした、、、

場所

https://goo.gl/maps/pmQ74TXEA46U425i7

「爆弾らしきモニュメント」で登録されている、、、


瓢箪山

瓢箪山稲荷神社が有名。

瓢箪山駅。なんかある。

楠木正行公墓の標石。大正4年の建立。
往生院六万寺は、四条縄手の戦いで小楠公・楠木正行の本陣が置かれた場所。
実は、私は、太平記も、好きです。

※撮影:2023年7月


関連

適塾の流れをくむ「大阪仮病院」と「蘭医ボードウイン」の史跡散策

大阪の医学は、「適塾」から始まった。
もっとも「適塾」と言ってしまうと、日本の医学にも多大な影響を残しており、大坂だけの話ではなくなってしまうが。


適塾から浪華仮病院へ

緒方洪庵が、大阪船場で開塾した適塾(1838-1868)は、幕末から明治にかけての名士を多く輩出していた。福沢諭吉や大村益次郎なども適塾頭を務めていた。門下生にも、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、池田謙斎、杉亨二、高峰譲吉など錚々たる名が連なっている。
緒方洪庵は1862年(文久2年)に、大坂の適塾を養子の緒方拙斎に委ね、江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任のために江戸に移住。
1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。
緒方洪庵の墓は、大坂の菩提寺であった大阪市北区の龍海寺と、客死した先の東京都文京区の高林寺にある。

1868年(明治元年) 適塾閉鎖。
1869年(明治2年)後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、現在の大阪市天王寺区上本町四丁目の大福寺に「浪華仮病院」および「仮医学校」が設立。
設立にあたっては、適塾関係者が多く採用された。

「浪華仮病院」院長は緒方惟準(洪庵の次男)
主席教授としてオランダ軍医ボードウィン(長崎ではボードウィンのもとで緒方惟準は生徒でもあった)を招き、大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために「仮病院」が設立された。
半年後に、現在の法円坂の大阪医療センター付近(大坂代官所跡)に移転し「大坂府医学校病院」となる。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。
京都で刺客に襲われた大村益次郎が担ぎ込まれたのも、この「大坂府医学校病院」であった。医学校病院は当時は、長崎・大坂・東京のみ。

「浪華仮病院・仮医学校」は、「大坂府医学校病院」となり、その後も改組・改称を経て「大阪帝国大学」へと発展し、現在の国立大学法人「大阪大学」となっている。
つまり、大阪大学医学部の前身にあたる。


大村益次郎と緒方洪庵

大村益次郎の話と、緒方洪庵の墓などは以下の記事にて。

緒方洪庵

「緒方洪庵旧宅及び塾」として史跡となっている。

緒方洪庵の適塾

適塾

https://goo.gl/maps/4QvDxDc5sN4twULt9


大坂の假病院跡(大福寺)

大坂の假病院跡
 大福寺は、明治元年春から明治貳年秋まで、大坂の假病院にあてられた。大阪大學の醫學教育はここからはじまる。
 明治元年参月、ようやく平和を恢復した大坂の街に、明治天皇は行幸されたあと、恵まれない人のために病院をたてるべきとの御沙汰書を出された。これをうけて明治政府と大坂府は直ちに準備にとりかかり、大福寺の建物を利用して診療をはじめたが、明治貳年貳月、緒方惟準は恩師蘭醫ボードウインとともに、假病院の診療と醫学教育に専念した。
 その後、鈴木町代官屋敷、いまの法円坂町国立大阪病院敷地に大坂醫学校と病院ができたので、この假病院の使命はおわった。
 ここに、百年の歴史をかえりみて、これをたてる。

A.F.Bauduin
(1822-1885)

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
Anthonius Franciscus Bauduin
1820年6月20日 – 1885年6月7日
オランダ軍の軍医。
1862年(文久2年)、江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペ(日本に近代西洋医学教育をもたらした)の後任として長崎養生所の教頭となる。その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広める。
1866年(慶応2年)に、緒方惟準らオランダ留学生を伴ってオランダに帰国。
1867年(慶応3年)に再来日。
1869(明治2年)に、緒方惟準が浪速仮病院の院長となり、ボードウィンも病院の運営に関与。
1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、オランダに帰国。
1873年にオランダ陸軍に復帰。1884年に退役。

緒方惟準
(1843-1909)

緒方惟準(おがたこれよし・いじゅん)
緒方洪庵の次男。
慶応元年(1865)にオランダ留学。明治元年(1868)に帰国し、 明治天皇の侍医となる。
明治2年(1869)に浪速仮病院の院長となり、オランダの軍医ボードウィンらとともに病院の運営する。
明治4年(1871年)から陸軍の軍医となる。
明治18年(1885年)には、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として脚気の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立。
明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。
明治42年没。

ちなみに、陸軍部内での脚気問題は、その後の明治37年-38年の日露戦争でも多数の脚気患者が発生。陸軍手動(陸軍省医務局長の森林太郎・森鴎外)で明治41年(1908)に臨時脚気病調査会が設立され、大正13年(1924)にビタミン欠乏説が確定し、臨時脚気病調査会が解散するまで続いた。

浪華假病院跡

大福寺

場所

https://goo.gl/maps/jzDxuN4Xwa5hUywA6

資料

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009681.html

https://juken.y-sapix.com/articles/5945.html


ボードウィン顕彰碑
蘭医者ボードウィン逗留の寺(大坂・法性寺)

大坂の法性寺には、「ボードウィン顕彰碑」がある。
大坂仮病院で教師をしていたボードウィンは、法性寺に居住していた。

ボードインゆかりの地

蘭医ボードウィン逗留の寺
明治元年大阪に行幸された明治天皇が、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は、阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。
A.F.Bauduin (1820-1885)

法性寺。袖門の脇に顕彰碑がある。

場所

https://goo.gl/maps/WP6ZsuubKDgafEFw6

距離感は、700m


ボードワン博士像(上野恩賜公園生みの親)

ボードワン博士像が上野公園内にある。

ボードウィン(ボードワン)は、明治2年に緒方惟準が院長となった大阪仮病院の教師に就任する。明治3年に任期が切れたボードウィンは帰国直前であったが、普仏戦争の勃発で就任予定だったドイツ人医師の着任がおくれていたため教師が空席だった東京の「大学東校」(医学校兼病院・のちの東大医学部)のショートリリーフとして2ヶ月間だけ講義を実施。その際に「大学東校」の校地として上野の山が候補にあがっていたのを、ボードウィンは大反対をし、「東京一の公園にすべきだ」と主張。オランダ大使館を通じて政府にも忠告書を提出し、明治政府はボードウィンの主張を受け入れて、「大学東校」の上野認可を取り消し、上野に公園を建設することに決定した。「大学東校」は上野から本郷加賀屋敷跡に変更。結果として、上野には東京一の「上野公園」が建設され、本郷には「東京大学」が設置された。
ちなみに、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤が、太田胃散のもとともなっている。

ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin
 オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

実は、1937年に建立されたボードウィン像は、弟の写真をベースにした像であったことが判明したため、2006年にボードウィンゆかりの大坂法性寺の寄贈で、現在の兄のボードウィン像に改められた。
撤去された弟のアルベルト・J・ボードウィンの像は、オランダ大使館を経て、神戸市ポートアイランド北公園に設置されている。これは、アルベルト・J・ボードウィンが、神戸初代領事であったゆかりによる。

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
1973年10月

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
大阪市 法性寺
2006年10月


※撮影:2022年7月

次回の大坂では、適塾跡と法性寺に行かないと、です。

2022年9月に再訪分追記しました。

真田山の騎兵第四聯隊(大阪)

大阪城の南に築かれた出城、真田丸。
その真田丸のあったエリアに展開されていたのが、騎兵第四聯隊であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

真田山陸軍墓地と騎兵第四聯隊。
もっとも実際には騎兵第四聯隊は、昭和7年に真田山から堺に転営し、昭和14年に真田山公園となっているので、航空写真も「真田山公園」。


騎兵第四聯隊

大坂第四師団所属の騎兵第四聯隊。
明治22年に創立。戦歴としての最初の出動は日清戦争。ついで日露戦争に参戦。日露戦争では第2軍に属し、遼陽会戦・沙河戦に参戦。明治38年3月10日奉天入城。
昭和7年に手狭となったために聯隊兵舎は堺(金岡)に移転。

その後、騎兵第四聯隊跡地は大阪市に払い下げ、昭和14年(1939)に全域が真田山公園として整備。
騎兵第四聯隊は、昭和17年にフィリピンから内地に帰還し解隊、軍旗は奉還された。
昭和18年に再動員、捜索第四聯隊となる。昭和20年にタイ国で終戦を迎えている。


騎兵第四聯隊忠魂碑

もともとあった2つの下段「真田山兵舎史跡碑(騎兵営址碑」に、戦後増設で、最上段に「忠魂碑」が建立されている。

忠魂

騎馬のレリーフ

騎兵營址
陸軍大将鈴木荘六書

昭和8年11月
 騎兵将卒建之

騎兵第4聯隊歌
1.東に生駒の山高く
  西にはチヌの海眺め
  軍馬のいななき勇ましく
  集う八州の健児なり
  その名も高き桃山に
  聞かずや高くうたわるる
  錦城騎兵四聯隊
2.春は花咲く吉野山
  若草もゆる信太森
  吹く朝風に勇ましく
  栗毛の駒にまたがりて
  槙尾の山の桜花
  駒の蹄の音高く
  わが駒勇め今しばし
3.青葉若葉の風薫る
  はつ夏の頃早やすぎて
  炎熱もゆる八月の
  波風高き高師浜
  水馬演習も勇ましく
  武門の名誉偲びつつ
  怒涛に駒を乗り入れる
4.秋風立ちて中つ頃
  播州加古川上流の
  青野ヶ原の原頭に
  四百の騎兵勇ましく
  襲え襲えの号令に
  戦場の華とうたわるる
  あゝ爽快の襲撃ぞ
  あゝ爽快の襲撃ぞ

騎兵第4聯隊之歴史

騎兵第4連隊は、もとこの真田山公園の全域にあった。
明治22年(1889年)2個中隊の大隊編成として始めて大阪に新設され、兵員250、馬匹200程度で、大隊長は大高坂正元少佐である。
明治29年日清戦役の直後同年11月19日、軍旗を拝受し爾来昭和7年まで此の地にあり、軍旗を拝受すると共に、騎兵第4連隊と改編、茲に、日本帝国の、陸軍の華として発足した。
当時は国民皆兵制のため、徴兵令に従い、男子21才に達すると全国一斉に徴兵検査が施行せられ、身体、精神の厳密な検査をうけ、少しの故障、又は欠陥ある者は不合格となり、徴兵司令官より甲種合格の証書を自ら渡された時は、軍人の資格を得たことに、男子の本懐として強く感激したものである。
古来日本民族には 武勇を尊び、正義を愛し、その貫徹には死をも恐れぬ気概があり、入隊した者は、軍隊生活の第一日から厳格な訓練をうけた。
騎兵は又特科隊とも呼ばれ、馬も活兵器として、むしろ兵より大切にとり扱われ、食事も兵は馬よりいつも後であった。
戦歴としては、日清戦役に出動が最初で、日露戦役には、明治37年(1904年)第2軍に属し、金洲、南山の攻撃、蓋平、大石橋、海上の戦闘に続いて遼陽会戦に参加、次いで沙河戦を経て明治38年3月10日、敵の最重要拠点、奉天に入城、国運を懸けた。
さしもの大戦も、連合艦隊の大勝と相俟って、遂に露軍の全面降伏となった。
斯くして、この戦況に重大な関心をもつ世界の列強を驚かせ日本恐るべしの感を抱かせたのも事実である。
その後昭和20年(1945年)までこの3月10日を陸軍記念日(祭日)として全国民を挙げて戦勝記念日の行事が各地で行われた。
昭和7年の春、現連隊では狭隘のため訓練に支障の故をもって、堺、金岡に兵舎は移転された。
昭和12年に入るや、日本に対するアメリカの経済封鎖は日を経て強まり、日、中、米の情勢は緊迫を告げ、支那事変、大東亜戦争に突入するの止むなきに至った。
真田山連隊の出身者にして外地に出征した将兵は極めて少なく金岡部隊の出征者が殆んどで8割を超えるものと思われる。
昭和17年8月比島方面の連隊は一旦内地に帰還し、軍旗は奉還された。
翌18年9月再び動員下令となり、この度は南方に出動した。
この時は捜索第4連隊となり連隊長は、やはり今村安大佐であった。
昭和20年2月タイ国に進駐、同4月タイ国の師団主力の位置に復し、同地に於て終戦となった。
茲に於て我が誇りとした騎兵第4連隊は光輝ある大日本帝国、陸、海軍と共に惜しくも永遠にその歴史の幕を閉じた。
作戦の建制上堺留守隊に於て編成出征した各部隊及其の長は次のようである。
捜索第34連隊(森岡正中佐・田川泉中佐)、騎兵第75連隊(吉沢末俊中佐)、騎兵第104大隊(高橋保和中佐)、堺金岡留守部隊(森岡正中佐)、独立輜重兵第54大隊(内木彦一少佐)、独立輜重兵第55大隊(浅利正基少佐)、同第75大隊(藤原長治少佐)である。
尚全戦線に亘り、軍直轄部隊として、自動車廠、碇泊場司令部に多数の騎兵第4連隊出身者がその要職につかれた。
以上は騎兵第4連隊創設以来の概要であるが、此の忠魂碑は昭和7年連隊が堺へ移転の翌8年11月建立された。
顧りみれば戦争終結以来星流れ時移りて40年、我々は言語に絶する猛訓練に堪え、更に命運を決する数多くの戦闘に参加、遺憾なく果敢な騎兵精神を発揮した。
この記録は不滅のものであり、永く日本の戦史を飾るものと思う。
我々日本の国民は、一時は信ぜざる事態に直面し呆然としたが、戦争に従軍した我々軍人は死力を尽して戦った。
勝敗の如何に拘らず、死線を超え不思議に生還した我々に今は何の悔いもない。
しかしながら不運にして戦病死された勇士、亦帰還後亡くなられた方々のお心を察するとき、我々は国民各位と共に深く犠牲者に感謝し、その名誉を称え、み霊に対し奉り、とわの安らかなる眠りにつかれんことを心から祈念するものである。
 騎兵第4聯隊並関連諸部隊有志

日本暦2645年  
西暦1985年 
昭和60年11月3日
 忠魂碑維持 大阪騎兵会
  永代供養 三光神社

大きい。。。陸軍境界標柱。北側。

陸軍省所轄地

往時のコンクリート塀。

陸軍境界標柱。南側。こっちは摩耗している。

陸軍省所轄地

うっすら、「陸」はわかるかな、という感じ。

往時のコンクリート塀。真田山公園側。

南側はコンクリートの状態がかわっている。。。

真田山公園。

場所

https://goo.gl/maps/9Pr8qubXmyGJRPXH9

※撮影:2022年7月


関連

大阪護國神社

「森之宮団地の大阪砲兵工廠跡」と「鵲森宮の機銃掃射弾痕跡」(大阪)

大阪城の東を走る大坂環状線。そのさらに東側に大阪メトロ森之宮検車場や森之宮小学校、大坂公立大学森ノ宮キャンパスや、UR森之宮団地がある場所、さらには、大阪城公園の近くや、大阪城ホール、大坂ビジネスパークなどの広大なエリアは、かつて軍需工場であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。

赤い線の内側が大阪砲兵工廠。
大阪城の北側に正門があり、化学分析所と守衛所は今も残る。
大阪環状線は、砲兵工廠のある大阪城の東側のみが高架ではなく、唯一の地上線路となっている。これは高架にして工場を一望されることを防いだためという。なお、大阪城公園駅ができたのは戦後。当時は駅は設けていなかった。


大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)

大阪砲兵工廠は、陸軍の大口径火砲を製造していた極東最大の軍需工場であった。戦前の日本では最先端の重工業工場でもあったため、兵器以外の金属製品も多く製造していた。

明治維新後、大日本帝国陸軍創設指揮をとっていた大村益次郎の建言により造兵司(大坂造兵司)を設置。
明治5年(1872年)の陸軍省発足とともに、「大坂製造所」と呼称。
明治12年(1879年)に、「大阪砲兵工廠」と呼称。
大正12年(1923年)に、「陸軍造兵廠大坂工廠」と改称。
昭和15年(1940年)に、陸軍兵器本部の設置に伴い、「大坂陸軍造兵廠」と改称。

大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲工場として、火砲や戦車、弾薬などを開発・製造していた。また鋳造や金属加工に関する最先端の技術水準を誇っていたということもあり、軍需のみではなく民需の依頼も受注していた。

靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)

終戦前日の昭和20年8月14日午後の集中空襲で、大阪砲兵工廠は80%以上の施設が破壊され、工廠としての機能を失った。

大阪城の近くに残る大坂砲兵工廠関連の戦跡に関しては、以下も。

南の玉造には機銃掃射弾痕が残る。


大阪砲兵工廠跡

現在、UR森之宮団地内に「大阪砲兵工廠跡」の碑が建立されている。

大阪砲兵工廠跡

誰がいつ建立したのか、跡碑には詳細がなく履歴は不明。

大坂砲兵工廠跡碑と、地蔵様と、よくわからないモニュメントの3つが並んでいる。

場所

https://goo.gl/maps/BdAWGGJc6MUNmxzN7


もう一つの「大坂砲兵工廠跡碑」

上記は別に大阪城ホールの近くにも「砲兵工廠跡」の碑がある。
大阪城ホールに大阪砲兵工廠本館があった。

場所

https://goo.gl/maps/ME5yP49RVPxWuEVT8


鵲森宮(森之宮神社)

森ノ宮駅の南西すぐ近くにあるのが、鵲森宮(森之宮神社)。「かささぎのもり」。
創建は、聖徳太子の時代まで遡る。
御祭神は、聖徳太子の両親である用明天皇と穴穂部間人皇后、そして聖徳太子を祀る古社。

当社の狛犬台座には機銃掃射の銃痕が残っている。

大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス
昭和19年7月

狛犬の台座に残る無数の修復の痕跡が、機銃掃射の弾痕の名残。

場所

https://goo.gl/maps/D66eh6nPQZmrwiez7


森ノ宮駅

城見エリア、がある。

大阪城の天守が見えました。

ホームからみる大阪城、いいですね。
大阪城の戦跡という言い方をすると、戦国時代も含まれますね。私のサイト内では、もっぱら昭和にしか触れていませんでしたが。

※撮影:2022年7月撮影


関連

機銃掃射弾痕が残る黒門町架道橋(JR大阪環状線玉造駅)

JR大阪環状線玉造駅のすぐ隣の鉄橋。ここに無数の穴が開いている。
この無数の穴は、機銃掃射の弾痕、という。

中央の柱に残る、強烈な痕跡。H鋼の2枚を貫通した弾痕に、すさまじい威力を感じるとともに、恐怖と悲劇も思い起こさせるものがある。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。


黒門町架道橋(橋脚)

道路の真ん中にある、黒門町架道橋の橋脚部分。
大きくえぐられた穴がある。なかなかに衝撃的な穴である。

機銃弾痕は、東側から西側に銃弾が飛んだことを予想させる痕跡を残していた。

東側。

交通量が多いため、なかなかじっくりと写真を撮ることも難しいため、グーグルストリートビューの画像を借ります。

https://goo.gl/maps/vj9pm79fqNTXqn8v5

東側。

機銃痕をマークしてみた。

実は、ひとつ謎がある。

銃痕が下から上って、どういうことでしょうか?

国土地理院の地図で高低差を見てみると、大阪城南部の高低差がわかってきます。

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.674529/135.533202/&base=std&ls=std%2C0.72%7Cslopemap%7Chillshademap%2C0.23%7Crelief%2C0.59&blend=101&disp=1111&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

それこそ大阪城のの東側は低地、南の高台には「真田丸」もありました。
この高低差は、今も昔も変わりません。

つまり、米軍の戦闘機(P-51 マスタング)は、あり得ないほどの超低空飛行で長堀通り上を飛行し、地表スレスレの位置から、黒門町架道橋を機銃掃射したことが予想されます。
長堀通りの高低差に合わせて超低空飛行での機銃掃射であれば、「黒門町架道橋」の部分が下から上ということも理解はできます。行為そのものに理解出来るかはまた別ですが。

https://www.google.com/maps/place/%E7%8E%89%E9%80%A0/@34.6742724,135.5364859,30a,35y,276.45h,79.32t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x6000e0b04f5c6103:0x48697e6491d73e8!8m2!3d34.673469!4d135.532835


黒門町架道橋(橋桁)

橋桁部分にも無数の機銃掃射痕跡がありました。

位置関係

https://goo.gl/maps/iFTn7Rb3jkfckGAo9


東成警察署 中道本通警ら連絡所

玉造駅からほど近いので、脚を運んでみた。
建設は、昭和12年(1937年)。暗越奈良街道の細い道に面している。
この界隈は、ほぼ空襲で焼失したなかで、残った戦前の建造物。
「警ら連絡所」は、警察官は常駐せず、主にパトロール中に立ち寄る、といういうもので、どうやら大阪のみで使用されている名称のようで。

場所

https://goo.gl/maps/xMDE5tJeF7WuS3W6A

※撮影:2022年7月


関連

「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡1(誕生の地・大阪府堺市)

鈴木貫太郎。
日本の戦争を終わらせた総理大臣。

実は先日に、関西に出張がありました。
どこかに寄れないかな、と地図を見ていたら見つけたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
これは、行ってみたい。
駅から離れているし、ちょっと不便な場所ではあるけども、そもそも「石碑」しかないのもわかっているけども。
それでも足を運んで見たいと思うのが、史跡オタクの性分。
そんなわけで足を運んでみました。

鈴木貫太郎は、千葉の関宿出身だと思っていました。
どうやら、関宿藩の飛び地が堺市内(大阪府堺市中区伏尾・和泉国伏尾)にあり、関宿藩家老であった父親が飛び地で代官をしていた時に、鈴木貫太郎が生まれたと。

本記事は「その1・誕生の地」です。
せっかく、誕生の地を訪れたのであれば、晩年の地もいかねばなるまい。
生誕の地を訪れた週末に、晩年の地へも足を運んできました。
「その2・晩年の地」では、関宿に触れます。


鈴木貫太郎誕生之地

海軍大将 侍従長
鈴木貫太郎誕生之地
第四師団長林弥三吉書

昭和4年6月建之

昭和4年に、大坂の第4師団長・林弥三吉陸軍中将が建立。昭和4年の鈴木貫太郎は、 昭和天皇の強い願いもあり、海軍を予備役編入され、侍従長に就任した年。
鈴木貫太郎が侍従長に就任したことを記念しての建立にしても、それを海軍ではなく陸軍が建立するということに、すでに鈴木貫太郎の存在感の凄さを感じることができる。終戦内閣など、まだその余燼も感じさせない時代に。

鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

その後の鈴木貫太郎は、「その2・晩年の地<関宿>」の記事で触れます。

久世関宿藩代官所跡

久世関宿藩代官所跡
この辺りは関宿藩の陣屋です。
鈴木貫太郎は慶応3年12月24日に関宿藩士で鈴木為輔(由哲)も長男として和泉国久世村で生まれました。
海軍兵学校を卒業し海軍大将、侍従長を経て第42代内閣総理大臣に任命され、徹底抗戦一色のなか鈴木内閣は戦争終結に導き昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わりました。
戦後の復興を見守っていた貫太郎は、「為萬世開太平」を胸に永遠の平和を願って昭和23年4月17日、野田市関宿において80歳の生涯を閉じました。
 平成28年3月
  久世地区まちづくり協議会
  伏尾自治会

鈴木貫太郎誕生之地碑の隣に、最近建立された「久世関宿藩代官所跡の石碑」ではあれど、内容がほぼ鈴木貫太郎に関するものであった。
少しだけでも久世関宿代官所時代の話なども知りたいものではあるが。

場所

https://goo.gl/maps/ERXdgTuYpRNR1Lhr8


このまま街道を南下すると地蔵尊が見えてきた。街道の辻に建立された地蔵尊は道祖神的な立ち位置でもあり。

上神谷街道

歴史の道 上神谷街道(にわだにかいどう)
 伏尾、和田、宮山台など、この地域の歴史は古く、古墳時代の伏尾遺跡や小阪遺跡があり、一説によると奈良時代の高僧行基(668年~749年)が築造した「茨池」は原池とも考えられており、これによる感慨が地域の発展に寄与しました。
 また宝永2年(1705)から明治2年(1869)までの間は、現在の千葉県野田市を拠点とした関宿藩の支配下にありました。関宿藩は、伏尾に陣屋を置き、泉州の多くの村々を統治していました。
 そして、明治22年(1889)に市町村制が施行された際、関宿藩主であった「久世氏」に因み、この地域は「久世村」と呼ばれるようになりました。
(略)
 令和3年3月 堺市中区役所

伏尾地蔵尊

伏尾の集落。

場所

https://goo.gl/maps/PazA5myNwzLiTaxA8


伏尾の辻から更に南下をしていくと、「荒山公園」に到達する。
この荒山公園の中に、次の目的地である「多治速比売神社」が鎮座している。鈴木貫太郎が崇敬をしていた産土の神社、である。

多治速比売神社

大阪府堺市南区宮山台にある神社。
延喜式神名帳に記載されている和泉国大鳥郡の式内社。(和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつ)
旧社格は郷社。
荒山宮とも呼ばれ、境内の周りは荒山公園として整備されている。
宣化天皇の時代(530年頃)の創建。
 主祭神 多治速比売命(たじはやひめのみこと)
 合祀神 素盞嗚尊、菅原道真公
本殿は室町時代の建造物で国の重要文化財に指定。天文8年(1539年)から天文12年(1543年)の間の再建という。
延喜式内社としては、鴨田神社、阪上神社も合祀されている。

鈴木貫太郎と多治速比売神社
和泉国大鳥郡伏尾で生まれた鈴木貫太郎は、産土神として、多治速比売神社を崇敬していた。その崇敬心は篤く海軍中佐時代(日露戦争時)にも参拝をしている。
また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月に、鈴木貫太郎は、たか夫人とともに本復祝の参拝をしている。
戦後、鈴木貫太郎の長男であった鈴木一を中心として「鈴木神社」創建の話が出た際は、(実現はしなかったが、)鈴木貫太郎の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が建立に適していると、当時の宮司との相談もあったという。

本殿は国指定重要文化財。


金高稲荷社(多治速比売神社境内摂社)

大正12年3月の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。

大正12年3月は、鈴木貫太郎は、呉鎮守府司令長官であった。
大正12年8月3日に、海軍大将に昇進している。

海軍中将
 鈴木貫太郎

場所

https://goo.gl/maps/KGuwbDPm3BvDqCBeA

鈴木貫太郎の関連史跡2・晩年の地(野田市関宿町)」に続く。

※撮影は2022年7月


行程

泉北高速鉄道「深井駅」
↓ 徒歩30分(約2.5キロ)
鈴木貫太郎誕生生誕之地之碑
↓ 徒歩7分(約500メートル)
伏尾地蔵尊
↓ 徒歩20分(約1.5キロ)
多治速比売神社
↓ 徒歩25分(約2.0キロ)
泉北高速鉄道「泉ヶ丘駅」


関連

鈴木貫太郎邸跡



高射第3師団司令部があった大阪市立美術館

天王寺公園の大阪市立美術館。
戦時中は、高射砲第3師団司令部が置かれていた。


大阪市立美術館

大阪市立美術館は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。
東京府、京都市に次いで日本で三番目に設立された公立美術館。

当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館。
建造は1936年(昭和11年)4月、鉄骨鉄筋コンクリート構造。

太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)には陸軍が接収。戦争末期には高射第3師団司令部が置かれた。

1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)までは占領軍が接収している。

耐震補強及び設備の全面更新のため、2022年(令和4年)10月から2024年度(令和6年度)までの予定で休館


高射第3師団司令部

昭和20年(1945年)4月、主として阪神地区を主とする政治、軍事、軍需の中枢を防衛するため編成された。
第15方面軍(第15方面軍司令部は大阪城内、旧大阪市立博物館)に属していた。


大阪市立美術館の写真など

以下、周辺の写真など

訪れたときは、閉館中だったので中に入れず、残念。。。

この建屋も歴史ありそう。

裏に佇む門柱。

手前の門柱。

夕方のスキマ時間にちょっと軽い気持ちで予備知識無しで足を運んだら、大きさにびっくりしました。。。

※撮影:2022年7月

場所

https://goo.gl/maps/ytbRuo7oNfEEE9pB8


関連

難波宮跡公園周辺の戦跡散策(大阪)

大阪城の南側、難波宮跡周辺を散策してみた。
「難波宮跡公園」界隈。


大阪医学校跡 明治天皇聖躅碑
大阪師範学校跡 明治天皇聖躅碑
(国立病院大阪医療センター)

大阪城の南側、中央区の法円坂。明治の初め頃、この地に大阪医学校と大阪師範学校があった。
そして、学校が廃止された後は、陸軍の地、であった。

大阪医学校
大阪医学校の歴史は、適塾までさかのぼる。緒方洪庵が大阪で開いた蘭学・蘭医学の個人塾「適塾」。その緒方洪庵の息子であった緒方惟準が院長として就任したのが明治元年(1869)2月に設立した「大阪府仮病院」(上本町の大福寺を仮地としてスタート)。大阪府仮病院には適塾出身者が多く採用された。
明治2年に「大阪府仮病院」は法円坂に移転し「大阪府医学校病院」(大阪医学校病院)となった。緒方洪庵の弟子であった大村益次郎が運び込まれて、そして絶命したのが、この病院であった。南東角には「大村益次郎卿殉難報国之碑」は建立されている。

「大阪医学校」は明治5年の学制発布により文部省管轄の「第四大学区医学校」と改称。
しかし、改称2ヶ月後の明治5年(1872)10月に大阪の「第四大学区医学校」は廃校となり、「第一大学区医学校」(東大医学部)に医学教育が集中されることとなる。
「大阪医学校」は官立であったために国の方針で廃校となってしまったが、その後に公立医学校として復活。現在の大阪大学医学部へとつながっている。

大阪師範学校(官立大阪師範学校)
明治5年(1872)に廃校となった「大阪医学校」の跡地に、明治6年8月に大阪師範学校(官立大阪師範学校)が開設。明治11年(1878)に学制改革により廃止。大阪府師範学校として、現在の大阪教育大に連なる。

明治天皇聖躅碑
明治天皇は、大阪師範学校を明治10年(1877年)2月に行幸されており、 明治天皇聖躅碑が大正14年5月に建立された。
明治天皇聖躅碑は、所在不明であったが2016年に発掘調査時に発見された。

明治天皇聖躅碑

大阪医学校
大阪師範学校

大阪市青年聨合團

大正14年5月10日建之


国立病院 大阪医療センター
(独立行政法人国立病院機構大阪医療センター)

大阪医学校・大阪師範学校のあと、この地は陸軍の兵営となった。
昭和22年、「旧大阪陸軍病院」の流れをくむ「国立大阪病院」が河内長野から現在地に移転。

大阪医学校があった地は、陸軍の時代を経て、再び医学の地に戻ったこととなる。


歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)

「大阪医療センター」の敷地内に陸軍時代の記念碑がある。
歩兵第三十七聯隊に関係する石碑。

歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)
明治29年(1896)連隊本部設置
明治31年(1898)3月24日  明治天皇より軍旗拝受
明治37年(1904)日露戦争従軍
昭和12年(1937)南京攻略戦に参加、翌年昭和13年に徐州会戦に参加
昭和15年(1940)漢水作戦に参加
昭和17年(1942)バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島パレンバン警備
昭和20年(1945)タイに転戦、タイ・ビルマ国境で終戦。

歩兵第三十七聯隊
創立100周年 記念碑

碑文
明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 
 平成十年三月吉日 
  歩三七会建立

歩兵第三十七聯隊跡
昭61年11月 歩三七会 建之

克忠

克忠とは、「より忠に」の意。大正11年5月二五日建立。
上部の「克忠」は、第四師団長・鈴木荘六中将の揮毫
下部の「詩」は、歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫

(碑面裏)
此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。

歩兵第三十七聯隊
明治三十六年創設
昭和二十年廃止
 三七会

かつて営門築山にあった灯籠?かもしれない。

大阪医療センターの一角に記念碑が集められていた。


歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)

またも負けたか八連隊(大阪の歩兵第8連隊)、それでは勲章九連隊(くんしょうくれんたい)(京都の歩兵第9連隊)」といわれた大阪の歩兵第八聯隊の兵営地は、現在の難波宮跡公園であった。
その歩兵第八聯隊は、決して弱かったわけではなく多くの勝ち戦もある。語呂の耳障りの良さと大阪人らしい気質とウィットに富んでいたために流布された里謡という側面もありそうだ。

歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)
明治7年(1874)5月、第10大隊と第14大隊を基幹に改編
        10月、萩の乱に第3大隊が従軍
12月、 明治天皇より軍旗拝受
明治10年(1877)西南戦争に従軍
明治27年(1894)日清戦争に従軍
明治37年(1904)日露戦争に従軍
大正3年(1914)第一次世界大戦にて、青島の戦いに参戦
昭和12年(1937)満州転戦
昭和17年(1942)第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島に移動
昭和20年(1945)仏印に転進、明号作戦に参加、その後タイへ転進し終戦

歩兵第八聯隊跡

碑文
歩兵第八聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
 昭和50年4月
  歩八会

御臨幸之
 昭和7年11月14日

昭和7年(1932)年11月、奈良と大阪で陸軍特別大演習が行われ、
昭和天皇が大阪城東練兵場において観兵式を御統監になったのを記念して建立された碑。

石垣部分は当時からのもの、という。

排水孔

歩兵第八聯隊兵営の南門門柱。

難波宮跡公園。
大阪城と教育塔を望むことができる。

※撮影は2021年4月


関連

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑(大阪京橋)

1945年8月14日、約150機のB29による大阪空襲にて、国鉄京橋駅では甚大な被害が発生した。
そのため「京橋空襲」とも呼称されている。

往時の犠牲者の慰霊碑がJR京橋駅南口に建立されているので、参拝を。

合掌


大阪大空襲

大阪市では昭和20年(1945)3月から8月にかけて、8回もの大規模な空襲があり、1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。

昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

京橋空襲(京橋駅空襲)

これまで7回の空襲を大阪に対して行っていた米軍ではあったが、大阪最大の軍需工場であった大阪陸軍造兵廠への爆撃は失敗に終わっていた。
昭和20年8月14日、米軍は約150機のB29でもって「大阪陸軍造兵廠」を狙い、約700個に及ぶ1トン爆弾を集中投下。大阪陸軍造兵廠は壊滅した。
この爆撃によって、大阪陸軍造兵廠(大阪城)の北東に位置する国鉄京橋駅周辺にも1トン爆弾が4発落下し、駅にいた乗客などに直撃し身元判明車210名以上、身元不明者600名以上の犠牲者を出した。


大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑

大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
 太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。       
 当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。

納経塔
 戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。

釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像
 この惨事を後世に伝えるため、昭和59年に釈迦牟尼仏尊像が建立された。これは大阪城東ライオンズクラブが結成20周年事業として寄贈したものである。

 空襲被災者慰霊祭世話人会
 大阪市城東区役所
 JR西日本京橋駅

(正面) 南無阿彌陀佛
(側面) 昭和20年8月14日受難者供養之為
(背面) 昭和22年8月14日 森本栄一郎建之

釈迦牟尼仏尊像

納経塔

JR京橋駅前の平和祈念像

平和よ永遠なれ


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