「弾除け霊験」で信仰された「サムハラ神社」(大阪市西区)

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「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。

2016年9月参拝。いまから8年前。この当時の私は、全国の有名神社を散策していたころでした。逆に言うと、まだ戦跡には目覚めていないころでしたので、戦跡としての意識は全く無く、神社フリークとして、足を運んだ次第でした。
ふと「そういえば、大阪に弾除け信仰の神社があったな、昔の写真あるかな」と思い起こして、本記事で再掲した次第です。


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サムハラ神社

この読めない4文字の漢字は・・・漢字ではなく「神字」とされている。サムハラとは、「不思議の4文字」であり、「身の安全を守る文字」とされている。

祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。
いわゆる造化三神。
「サムハラ」はこれら三神の総称

本宮が大阪にあり、そして奥の院は、美作加茂(岡山県津山市)にある。

田中富三郎は、サムハラ大神をあつく信仰し、日清・日露戦争などで戦地に行った時にはサムハラの護符を身に着けていたことから、数々の危難をまぬがれ無事生還。

1935年(昭和10年)に、田中富三郎は、出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて、旧祠を再興しサムハラ聖殿が竣工する。そして、サムハラの霊徳を世の人々に分かつため、サムハラ信光会という団体も立ち上げ、サムハラ文字の付された様々な品物を販売し、サムハラの流布がはじまる。

しかし昭和11年に、岡山県特高課(特高警察)より、迷信利用と宗教法人違反(無許可神社での商品広告など)で自主撤去を求められ、いったん神社は撤去されている。

その後、田中富三郎は出征する兵士に、サムハラのお守りを持たせ、そのおかげで救われたりケガがなかったという人が大勢いたということから、サムハラは弾除け弾避けに霊験あらたかということで戦前・戦中に爆発的期に流行した宗教となる。

以下は、公式な由緒として。

美作国東北条郡中原村(現・津山市加茂町中原)日詰山山中の城郭址に古祠在り、 『サムハラ』を伝えると謂れあるも年紀不詳、恐らくは中世の日詰城の域内に斯様の守護祠の在ったものかと推測される。 歳月の中に古祠荒廃し、付近の住人の細々たる尊崇のみのうちに継がれる。同地出生の当神社初代主管者・田中富三郎翁の、往時により災難除・身体健固の加護に与りて日清・日露の戦役に助かり、常陸丸、鉄嶺丸に難を逃れ、しばしばの危難を避けて無事なるは奉持した
「サムハラ」の護符の御陰と畏んで、昭和9年に奉賛会たる信光会を催し、昭和10年に荒廃の古祠を再建する。第2次大戦に至り、大阪師団司令部を通じて出征兵士に御守を贈呈、武運長久を願う。
戦後昭和21年改めて中原・日詰山山中に社殿再建。 次で昭和25年、当時の大阪市要人達の賛同を得て大阪中之島豊国神社(当時)の摂社として岡山より分霊、中原の社殿は元宮・奥宮と称する。 昭和36年、大阪市役所増築により豊国神社大阪城内に奉遷、当神社も西区立売堀に移築遷座する。平成17年、台風の為毀たれた岡山奥宮を、加茂金刀比羅神社、地元各人の協力を得て加茂町中原900-3の現在地に遷座する。

沿革について(https://www.samuhara.or.jp/about.php

公式サイト

神社としての第一印象は「よくわからない神社」
なんというか・・・よくわからない神社という感覚は、「神社神道」的な理屈の目線。
理屈とか由緒とか、歴史とか、そういうことではなく、人々は生きるか死ぬかの戦時下に縋った、生きて帰ってくるための、よくわかならい霊験からくる信仰は、人々の生活に直結し、そこには理屈ではない信仰の重みを感じさせる。

田中富三郎胸像

創建者の田中富三郎は、1868年(明治元年)美作加茂生まれ。サムハラ大神をあつく信仰し日清・日露戦争で数々の危難をまぬがれた。サムハラ大神の霊徳を人々に分かつため私財でサムハラ神を建立。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100歳。

御朱印。
2016年(平成28年)の参拝。

御神環守
「指輪の御守・御神環(指輪形肌守)」

神紋

崇敬者の声。
無傷無病、延命長寿の神としての「サムハラ様」の霊験。

サムハラさんは、従来型の神社神道とは異なる新しい形の神社として、色んな意味でよくわからないながらも面白いなと感じた神社でした。

場所


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