「東京都‐23区都心部(千代田,中央,港)」カテゴリーアーカイブ

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

東郷平八郎ゆかりの神社仏閣など

(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)

東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
  東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)

東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など


東郷神社御朱印帳

表装の和歌

おろかなる 
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ 
天つちの神

(意味)
  愚かな私ではございますが
  誠の心で尽くしますので
  なにとぞ天地の神々よ
  私を見守っていて下さい 

1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
 東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
 東宮学問所 = 皇太子の御教育機関

御朱印

東郷神社
  御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
  東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
  「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
  府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
  東郷元帥農園別墅跡

東郷寺

(府中市清水が丘3-40-10)

元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

聖将山 東郷寺 山号標

揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。

東郷寺 山門

設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。

段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。

東郷寺山門建立由来

題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立

「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。

「聖将山 東郷寺」 東郷元帥と日蓮宗

東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。

大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。

昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)

昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。

現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…

こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。

東郷寺 しだれ桜

桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)

朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。

彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・

東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。

山門側から

東郷寺墓苑

東郷寺境内
境内地を散策(地図
ポイントを地図に記載してみました。

境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…

東郷元帥墓(供養墓)

境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。

小笠原長生墓(供養墓)

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

「枢軸国必勝祈念塔」

昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。

正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。

日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫

奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。

ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている

「豊田副武墓」

海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。

「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。

更にここには意外な人物が祀られている

「河本大作墓」

元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。

東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…

大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立

妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が

戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・

合掌

東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・

鬼瓦

東郷寺御朱印

妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺

※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。

二七山不動院

さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)

二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興

東郷元帥と二七不動(九段)

東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。

明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという

大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。

大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。

二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。

インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」

写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。

東郷元帥記念公園

平成30年1月撮影

「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。

かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。

東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。

東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている

公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。

平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。

東郷神社

平成30年1月、久しぶりの参拝。

第一駆逐隊(駆逐艦 神風・野風・波風・沼風) 奉納灯籠

東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。

東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯

東郷神社御朱印

平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。

おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神

東郷神社例大祭

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。

5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。

東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。

おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!

海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。

千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい

東郷神社御神酒

東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)

トップ水雷

鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ

お酒つながりで掲載。

伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ

東郷焼酎
東郷ビールとZ旗ビール
海軍ラムネ

いずれも横須賀にて


以下は徒然に

秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。

郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。


溝口神社

川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書


神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。


軍艦三笠艦内神社 三笠神社

三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…


三笠神棚

日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

軍艦「三笠」

今回は外側を眺める程度で。


連合艦隊解散之辞
東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

「東郷平八郎銅像」(三笠公園)

日本海海戦後言志
日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
  聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)

「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)

「謎の軍艦甲板の一部」

横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。


呉・ 東郷家住宅離れ

入船山記念館(入船山公園)

旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。

舞鶴・ 東郷邸

舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。

舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。

https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html

佐世保

佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。

佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)


東郷氏祖先発祥の地

東郷氏祖先発祥地

ひとまずは以上で〆

そのほか随時で登録していきます

東京駅にのこる近代史跡

先日、東京駅に用事があったので立ち寄ってみました。


伊号潜水艦の潜望鏡?

もともとは東京ステーションホテルを支えていた柱。
当時は「日本海軍(帝国海軍)の伊号潜水艦の潜水鏡」流用とされていたが、近年の研究ではその可能性は薄いという。 とはいっても戦災復旧以降、支えてきた歴史ある柱。 (平成30年5月撮影)


原敬首相遭難現場(東京駅)

東京駅丸の内南口改札外に。
「原敬首相遭難現場」
大正10(1921)年11月4日 この場所で原敬首相が暗殺されました。
この丸い印が暗殺現場。
よく見ないと見落としてしまいます。 (平成27年7月撮影)


浜口首相遭難現場(東京駅)

東京駅の新幹線中央乗り換え口近く。
この場所も人の往来が多く見逃しやすいです。
原敬よりかは目立つタイルですが。
「浜口雄幸首相遭難現場」
昭和5(1930)年11月14日。
浜口雄幸首相が狙撃され重傷となった現場。 (平成27年7月撮影)


東京駅開業時からの柱

1914年(大正3年)の東京駅開業時からホームに残っていた鋳鉄製の柱2本が展示されている。
山手線と京浜東北線の5・6番線ホーム南端の事務室前。
上部がレリーフで装飾、下部には製造年とみられる「明治四十一年」(1908)の文字あり。
(平成27年10月撮影)


東京駅

東京駅ドーム屋根・祝賀ライトアップ

(平成27年11月撮影)

東京ステーションホテル開業100周年記念の祝賀赤色ライトアップ

軍艦「陸奥」を偲ぶ

軍艦「陸奥」

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
帝國海軍のシンボルとして長門ともども日本国民から親しまれたものの、昭和18年(1943)6月8日、主砲火薬庫から爆発を起こして沈没。

陸奥主砲(船の科学館)

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
写真の主砲は船の科学館にて展示時代のもの(2016/6/26撮影)

2016年6月。
船の科学館も不幸だし陸奥も不幸だし… まあ、船の科学館の話は寂しくなるのでまた機会にして… 「陸奥」41cm主砲身(四番砲身)を「船の科学館」で見納めしてきました。

「二式大艇」もいなくなって、館内も閉鎖され、そうして「陸奥主砲身」もいなくなって。 「船の科学館」が訪れるたびに寂しくなってしまいます…。

2016年9月。
9月12日に「戦艦陸奥移設工事」が実施されるときいたので直前の見学を。

帝国海軍を過ごした艦「陸奥」と「宗谷」のラストショット

船の科学館本館と陸奥の大きさ比較の看板も見納めですね…
船の科学館 にて42年間の展示、ありがとうございました!

陸奥主砲(ヴェルニー公園)

陸奥主砲の受け入れ準備

2016年9月12日に「船の科学館」から旅立つ戦艦陸奥主砲。
横須賀では受け入れ準備がすすんでいました。
9月13日にヴェルニー公園にて主砲移設工事が実施。

陸奥主砲の移設後

「船の科学館」で帝国海軍最後の生き残りである「宗谷」とともに有る姿を見納めして。
そして今は戦艦陸奥生まれ故郷の横須賀で、海軍のDNAを伝統墨守する海自主力艦「いずも」とともに有る姿と新たに出会えました。感無量です…

戦艦陸奥。
大正9年に横須賀海軍工廠で進水。大正10年(1921)竣工。
昭和18年(1943)瀬戸内海柱島沖で爆発沈没。
昭和45年主砲引揚げ。
昭和49年より平成28年まで船の科学館にて展示。
平成28年秋に横須賀に移設。

横須賀へお帰り言うたってくれ…

「ベルニー公園」に展示中の陸奥砲身が「上下逆さま」で、なおかつ傾いて据付されているとの報告がA様よりご連絡がありました。(実はベルニー公園に来る前の船の科学館時代から逆さまだった)
陸奥砲身の後部の「尾栓開閉機構」の歯車が砲尾の右斜め下にあるが、これは砲身が上下逆さまに設置されたので、歯車が下側になっていることが、逆さまに設置されている証拠です。

A様よりメールにてご連絡あり、ありがとうございます

陸奥の遺品

大和ミュージアム

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
大和ミュージアムの館外に戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。 その様子を簡単に。

戦後、1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導による本格的なサルベージが行われ、全国各地に陸奥の遺品(引揚げ品)が展示されている。

「陸奥の艦尾旗竿」

「陸奥の主錨」

「陸奥の艦尾フェアリーダー(右舷用)」

陸奥41センチ主砲身(4番主砲塔左)
呉海軍工廠で開発されたもの。陸奥建艦当時は世界最大の艦載砲。
展示品は大正10年に完成し昭和11年に陸奥に搭載されたもの。

陸奥スクリュープロペラ

陸奥主舵

大和ミュージアム展示品の部位


靖國神社「遊就館」大型展示室

九段の靖國神社遊就館。 ここにも戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。

戦艦陸奥「14cm副砲」

五十口径三年式十四糎砲
陸奥副砲は昭和48年に遺骨とともに引揚げられ、艦と共に殉職した乗組員千百二十二柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために爆沈より38年後の昭和56年6月8日に靖國神社に奉納。

陸奥小錨
左前艦側舷窓
艦長室御真影奉安所上部菊花雲型、そのほか遺品
舷窓内径は約35センチ。爆沈の際はこの窓から脱出した人もいたという。

軍艦陸奥装備副砲奉納銘碑

碑文
軍艦陸奥は連合艦隊司令長官古賀峯一の直率の下に瀬戸内海柱島水道に警戒碇泊中、昭和十八年六月八日不慮の爆沈により艦長海軍少将三好輝彦外一千百二十一名の将兵が悲運にも艦と運命を共にし永久の大義に殉ぜられた。
軍艦陸奥引揚促進期成会は軍艦陸奥の引揚の大部を了せる此機を選び、引揚たる副砲と共に其の銘碑に殉職者の英名を刻み、之を靖国神社に奉献し其英霊を永へに顕彰することにした。
軍艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約下最後の軍艦であり、其戦力発揮の為全海軍の叡智と心血とを注いで完成した稀少値の芸術品であって、其乗員も亦誇りを以って二十余年に亘り祖国の護りに精魂を傾けて献身し、名実共に天下第一艦として戦争抑止の実を発揮した栄光の軍艦である 。
昭和50年6月8日
 軍艦陸奥引揚促進期成会会長
 元軍艦陸奥艦長  
    保科善四郎謹書


陸奥主砲抑気具記念碑

大阪の難波八阪神社境内には「陸奥」にゆかりあるものが奉納されておりました。

四十五口径三年式四十一糎砲
補用抑氣具格納筐
抑気具ヲ砲身ヨリ取外シタル時ハ必ズ函中ニ格納シ置クベシ

主砲抑気具とは、つまり砲口蓋「主砲の砲口の蓋」です。

主砲抑気具記念碑・碑文
この抑気具(砲口蓋)は沈没し海底から引揚げられた 戦艦陸奥の主砲八門の内の一個で、艦と 運命を共に した艦長三好輝久大佐以下千百二十一名の将兵の魂を慰霊し永遠の平和を祈るものである

海ゆかば
 水漬く屍
山ゆかば
 草むすかばね
大君の
 辺にこそ死なめ かえりみはせじ


「陸奥爆沈」

昭和18年6月8日午後12時10分ごろ、戦艦「陸奥」は広島湾沖柱島泊地にて謎の爆沈を起こした。 陸奥の爆沈原因はいまだに謎とされている。 吉村昭氏の「陸奥爆沈」は一読の価値ある名著ですので参考までに。

吉村昭著「陸奥爆沈」

陸奥は戦後に艦体の一部や主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示されている。

参考:ウィキペディア
陸奥 (戦艦)→引き揚げ展示品と展示場所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E5.BC.95.E3.81.8D.E6.8F.9A.E3.81.92.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.93.81.E3.81.A8.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.A0.B4.E6.89.80

「陸奥の遺品」に関しては、訪れましたら写真を追記していきます。

姉妹艦「長門」に関してはこちら

旧海軍の内火艇?

月島橋近くに桟橋状態で係留されている船がある。

どうもこの船が「旧帝国海軍の内火艇」と、まことしやかに伝承されている。真偽の程は不明であれど、ちょっと撮影してみました。

ネットに転がる噂話によると、月島橋の係留船は「比叡に搭載されていた内火艇」ともいわれている。


内火艇

内火艇」とは内燃機関を搭載したモーターボート。日本海軍の小型艇。
「艦首が反り上がらずに真っ直ぐ」になっていて、「甲板後方が下がっている」のが「内火艇」の特徴という。


旧海軍の内火艇?(月島橋)

見てみましょう。

後甲板に対するなだらかな勾配が内火艇の特徴という。

艦首は反り上がらずに真っ直ぐしているのも内火艇の特徴という。
確かに特徴通り。

※平成31年4月撮影


参考:長官艇(15メートル内火艇)

大和ミュージアムにて奇跡的に撮影していたので比較用に掲載しておきます。
(我ながら、よく撮っていたものです)

確かに艦首はまっすぐで、後甲板は低いです。
月島橋の船も同じ形してますね。似てます。

九段会館(軍人会館)解体前の記録

九段会館、戦前の軍人会館。

東日本大震災の影響で2011年(平成23年)4月に廃業し、平成31年現在は解体中。
2022年に帝冠様式の外壁を残した状態で高層ビルに生まれ変わる予定。

平成30年4月撮影~最後の桜

「軍人会館」(九段会館)

着工は昭和7年(1932)2月。竣工は昭和9年(1934)3月。
鉄骨鉄筋コンクリート構造・ 日本趣味建築「帝冠様式」

歴史的には昭和11年2月26日の二・二六事件に対する戒厳令発令に伴い、軍人会館に戒厳司令部が置かれたことが有名。

戦後はGHQに接収され「アーミーホール」、進駐軍撤退後の昭和32年(1957)に「九段会館」として再開業。

平成23年(2011)3月11日 、東日本大震災でホール天井が崩落し2人死亡。
閉館。


「九段会館」思い出の写真

平成28年2月26日撮影

平成28年4月

平成28年6月

平成29年4月

平成30年3月25日
工事直前の撮影、軍人会館と桜の撮影。

「九段会館」解体工事のお知らせ
工期 平成30年5月7日~平成32年7月31日
九段会館屋上の「護國神社」
九段会館屋上の「護國神社」
工事の足音が。

「明治10年の忠魂碑」西南戦争の頃の忠魂碑。


九段会館屋上の護國神社(取壊済)

「九段会館」、戦前は「軍人会館」
もともと当地は「靖國神社」の境内地でもあり、万が一に「靖國神社 」に被害が生じた場合、即座に遷座が可能なように「仮殿」が設けられていた。

昭和9年(1934)年、帝冠建築とも呼称される独創的な建築によって軍人会館が竣工すると、靖国神社仮殿は「護国神社」として「軍人会館」の屋上に移された。
戦後は建物は「九段会館」と名称変えるも、かわらず屋上には「護國神社」が祀られていた。

平成31年4月。再開発事業により屋上は解体。
軍人会館以来の歴史を有していた護國神社も姿を消した。


九段会館の屋上に行く機会があったので、以下に当時の記録を記載しておく。
平成21年夏の記録。

以前に嫁が会社の人たちと「屋上ビアガーデン」にいってきたという。
そう聞かされたら羨ましくてしょうがない。
実は、私は「九段会館の屋上」にいったことがなく、靖国仮殿の噂のみをきいていた。
そうしたら猛烈に行きたくなった私の気持ちを汲んでくれたようで、今年も嫁が嫁会社関係の人たちとビアガーデンにいくという。
折角の機会なのでその席に便乗してみる。かなり感謝なのだ。そうして若干遅刻しつつ、ビアガーデン会場=九段会館屋上=軍人会館屋上に到着。

ビアガーデンもそこそこに、一目散に神社の写真を撮りに行く。ビールよりもそれが目的。
参拝をすませ写真をとったら、そうしたらあとはゆっくりとビールをたしなもう。
「英霊ありがとう」
靖国の英霊の御霊に感謝祈念しながら、しずかに喉を潤すひととき。
ひさしぶりにビールがおいしい夜であった。

<「神のやしろを想う」より>

平成21年7月撮影 社号標「護國神社」は昭和9年3月竣工時のもの。
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影

「九段会館」解体直前の姿

平成30年4月1日撮影
遂に工事用の白い壁が・・・


平成30年7月28日撮影


平成30年8月15日撮影


平成30年9月2日撮影


平成31年3月29日撮影

このときに屋上の鳥居を確認したのが最後でした・・・

「九段会館」解体中の写真

平成31年4月14日撮影

令和元年8月4日撮影

昭和の建築物が、またひとつ消失していく瞬間。
これは「保存」といえるのだろうか・・・


再開発中

令和3年(2021)3月撮影

令和3年(2021)12月撮影
だいぶ、ビルができてきました。。。

令和4年(2022)4月撮影
ほぼ、ビルが出来上がってきました。

2022年10月、新しく九段会館テラスとして再稼働。。。
別記事にて。


白金台に残る海軍墓地の名残「白金海軍葬儀場跡」

平成30年5月撮影

港区白金台にある明治学院大学・白金キャンパス。 この地はかつては海軍墓地であった。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

現在は「旧海軍軍人白金墓地記念堂」という納骨堂形式の建物が明治学院大の隣に残る。(非公開)
主に日清日露戦争時代の犠牲者を祀る海軍墓地。

施錠してあり敷地内は非公開。門の隙間から内部を見学を。

白金海軍墓地
 帝国在郷軍人会芝区連合分酋長(個人名略


昭和13年9月  
 芝区海軍分会建立

旧海軍軍人白金墓地記念堂の現在の建屋

定礎
 1991年9月 学校法人明治学院大学

現在は明治学院大学の管理。


旧海軍軍人白金墓地記念堂

白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)

歴史的な背景。
終戦後の昭和20年秋、海軍の解体と共に旧海軍墓地は大蔵省に移管。
東京白金海軍墓地(白金海軍葬儀場)は明治学院大学に有償で払い下げられている。
白金海軍葬儀場は、その後に現在の「納骨堂方式」に変更されている。


位置関係

地図を見てみます。
「今昔マップ on the web」を活用。 http://ktgis.net/kjmapw/index.html …

明治42年、はっきりと「海軍墓地」と記載あり

昭和20年、墓地の南部に学校がありますね

昭和41年、明治学院大!!

敷地内は非公開。過去に公開したことがあるのかどうかも不明。

今回は、ひとまずこれで本記事を〆・・・


場所

https://goo.gl/maps/UC3Um7Rpk8s21TNL7

近代海軍発祥之地跡散策(築地)

平成29年5月撮影 ※現在は築地再開発により現地状況変わっております。

近代海軍発祥の地「築地」散策。 そのほか魚河岸水神社・波除神社・本願寺・聖路加病院などの散策。

築地

江戸時代に「地を埋め立てて築いた」ことから築地と呼称されたという土地。いまでこそ「築地市場」のイメージしか湧かない場所柄ですが、戦前は海軍用地として展開。 そんな海軍ゆかりの地を散策してみました。

「築地」の歴史をざっくりと。

江戸時代。 1657年(明暦3)明暦大火の際に焼失した浅草御門南の「西本願寺」の代替地として佃島の住人によってこの土地が埋め立てられ造成。 現在の「築地本願寺」を中心した寺町が形成される。 ※現在の本堂は1934年竣工(後述)

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設置。 これが海軍部門の軍艦教授所(安政4年/1857)となり、のちに「軍艦操練所」(築地軍艦操練所)に改称され勝海舟らが教授として赴任している。(勝はのちに神戸海軍操練所を設立する)

明治維新の後、築地界隈の大名屋敷や築地軍艦操練所跡は明治政府に接収。
明治2年(1869)「海軍操練所」が創立。
明治3年「海軍兵学寮」に改称。
明治9年「海軍兵学校」と改称。
「海軍兵学校」は明治20年に広島・江田島に移転。

旗山碑

明治5年(1872)築地の元尾張別邸に「海軍省」(前身)が創立。 大名屋敷庭園の築山に「海軍卿の旗」(海軍大臣の前身が海軍卿)が掲げられた為「旗山」(きざん)と呼称。 のちにこの地が「海軍発祥の地」として記念碑が建立された。

旗山碑

この旗山碑はもともとは今の市場の中心地にあったというが、戦後の市場再整理に伴い移動。
同じく「築地の水神社(後述)」も移動して、それぞれが現在の場所に鎮まったとされます。
今後の築地再開発(?)で、どうなるかは知りませんが。

築地の海軍省は明治15年に築地より移転。(兵学校は明治21年移転ですのでそれよりも早く移動)
海軍省と兵学校が移転後の築地には海軍軍医学校や経理学校(後述)などが展開されていきます。

築地は明治期の海軍一大拠点だったのです。

旗山碑 銘文

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

永野修身海軍大将の謹書

余談。
築地「海軍発祥之地」は永野修身海軍大臣。
で、私はこれを「近代海軍発祥之地」と表現しました。

ややこしいことに昭和15年に皇紀2600年として宮崎県に神武東征ゆかりの「日本海軍発祥之地碑」(米内光政 首相 海軍大将)が建立されてまして。(未訪

築地魚市場

大正12年(1923)関東大震災発生。 日本橋魚市場が壊滅的な打撃を受け市民生活復旧の為に水運・陸運に恵まれていた築地の「海軍用地」を一時的に借り受けて魚市場を再開。
気がつけばそのまま昭和10年、東京市中央卸売市場が開設。

築地の水神社

魚河岸水神社遥拝所
日本橋魚市場が関東大震災で被災し、この築地の「海軍用地」に移転してきた際に「魚市場の守護神」として当神社の築地に新たに祀られた。

天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」が起源という。

神田神社の境内に「魚河岸水神社」が建立。 日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立され「水神さま」として市場関係者の崇敬が篤い。

※写真は神田明神境内の「魚河岸水神社」の本社。(平成29年5月撮影)

築地の水神社(魚河岸水神社遥拝所)
御祭神 弥都波能売命

築地市場の護り神
「海軍の築地」から「魚市場の築地」へ 気がつけば、近代海軍発祥之地碑「旗山碑」も魚市場を守護する神社境内の片隅に。

鳥居は昭和10年(1935)建立。関東大震災ののちに築地海軍用地に臨時の東京市設魚市場が設置され、正式に現在地に東京市中央卸売市場が開設された年が昭和10年。
旗掲揚台は昭和17年造でした。

今は使われていない水盤は舟形でした。 狛犬の台座には昭和11年の銘あり。

ところで魚河岸水神社遥拝所は遷座の歴史を繰り返してきたわけで。

日本橋魚市場→築地魚市場。

この先は豊洲魚市場となった場合は、魚河岸水神社遥拝所も豊洲に遷座する可能性があるわけで。
今は神社と同居している近代海軍発祥の地「旗山の碑」は、どうなるんだろうね。近隣移動するのかな…
水神社前。大盛況。 観光客から市場関係者まで往来がひっきりなし。 これは築地ならではの活気ある光景ですね。

せっかく築地にいるのだから。 水神社の横にある「水神様通り」に。

吉野家です。噂に聞く「吉野家・築地一号店」 築地といえば海鮮物も迷いどころですがどこも並んでおりまして、ここはサクッと吉野家ですよw

ターレットトラック(ターレ)で乗り付ける市場関係者で大盛況。

吉野家・築地一号店

日本橋魚市場に鎮座していた「魚河岸水神社」は関東大震災後に市場とともに築地に遷座。関係する商店も移動。 日本橋魚市場で開業した「吉野家」もまた築地に移動しており、ここが「吉野家一号店」

「近代海軍発祥の地」は「吉野家発祥の地」でもあり…

吉野家・築地一号店
威勢良いおばちゃんが「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう!」と声をあげる。この雰囲気は良いです。朝から麦酒が呑みたくなります(仕事あるので自粛したけど)
いつもの「吉野家の牛丼」が、…いつも以上に美味しく感じられますw

市場場内域をでるとすぐそこに鎮座している神社

波除神社

江戸時代の万治2年(1659) 「築地」埋立時に海面を漂う光り物(稲荷大神の御神体)を祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという説話が残っている築地の鎮守様。魚市場関係者の崇敬が篤い。

境内には漁業及び市場関係者の奉納碑が多い。 ここでは個別掲載はしないので、公式サイト参照で。 →http://www.namiyoke.or.jp/jinjyanogosyoukai.html …

ん?この碑は昔に参拝した時には無かったぞ。 去年奉納されたようで知りませんでした。
「奉納 吉野家 碑」
銘文によると、築地市場の豊洲への移転に伴い「築地一号店」も移転することになった、と記されてました。 移転問題は引き続き推移を見守りましょう…

さて築地エリア・波除神社から道をまっすぐに北西方向に。
「国立がんセンター」が次の目的地。
場所→https://goo.gl/maps/pQMrusHNDwH2 …
東京都中央区築地4丁目15の北側。 料金所の近くにひっそりと、海軍関係の2つの碑があります。

海軍兵学寮跡
海軍軍医学校跡

国立がん研究センター築地キャンパス構内に鎮座する2つの碑。

「海軍兵学寮跡碑」
明治2年1869、前身の海軍操練所が築地に開設。 翌3年「海軍兵学寮」、明9年に「海軍兵学校」と改称。 明21年1888に海軍兵学校は江田島に移転。 齋藤實海軍大将の揮毫。昭和9年5月建立。

「海軍軍医学校跡」
明治6年1873、海軍病院付属学舎が設立するものち廃校。 紆余曲折があり明22年に芝に「海軍軍医学校」開設。 明治41年1908、築地移転し昭和20年11月1日閉校。 碑は最後の軍医学校校長であった神林美治海軍医中将揮毫。

「海軍兵学寮跡」 「海軍軍医学校跡」 この2つの碑がある場所の横の意味ありげな柵が気になりました。 なんの説明もないけども、なんか年代物です。 きっと歴史的な何かなんでしょう(わからないけど

日本国海図及び海洋調査発祥の地

東京国税局の前庭に。

水路記念碑
日本国海図及び海洋調査発祥の地
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。
 平成23年9月12日
 海洋情報部関係者一同

軍艦操練所跡

晴海通りを隅田川方面に移動。皇居桜田門・凱旋濠界隈から勝鬨橋方向に伸びる晴海通りにシレッとある看板は「軍艦操練所跡」案内。 案内看板はありますが、特に碑はありません‥ これもまた、近世から近代へと移り変わるさなかの海軍発祥の布石でもあり。

八紘一宇の碑(国旗掲揚台)

近くには八紘一宇の碑もありました。
紀元2600年(昭和15年・1900)記念、築地門跡青年団 の建立

勝鬨橋

昭和15年竣工。国重要文化財指定。 隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。 1970年11月29日を最後に開閉が停止、1980年には電力供給も停止。 勝鬨橋にも興味は深々ですが今回は軽く触れるに留めておきます。

勝鬨橋之記
勝鬨橋竣工の昭和15年建立された碑 碑文 明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
 昭和十五年十二月
 東京市長  大久保留次郎 撰併書

勝鬨橋の由来が記されし碑文。時代の名残が現在の名称に残る。
「かちどきの渡し」 明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機として有志が築地月島間に渡船場を設置し「勝鬨の渡し」と命名。 昭和15年に新たに橋が開通すると「勝鬨橋」とその名残の名称が受け継がれ「勝鬨の渡船」は廃止。

海軍経理学校之碑

海軍経理学校は、海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校のひとつ。 明治7年1874、海軍会計学舎が芝に開校。 明治21年1888、築地へ移転。 明治40年1907、海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称。

海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたがのち幾変遷を経て明治40年にそれが海軍経理学校となった。その間明治21年校舎は築地に移されたがその敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度か移改築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月、同校は約70年の歴史を閉じた 。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。
昭和51年4月

ちなみに、 中曽根康弘氏は海軍経理学校の短期現役士官出身。

海軍経理学校之碑 裏面

裏面に掲げられし門標は昭和18年に開校した海軍経理学校品川校のもの。 学生の増加と戦局の悪化による疎開を兼ね、築地と品川のほかに浜松・垂水・橿原に分校が置かれた。

海軍経理学校校歌 (作詞・片岡覚太郎)

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭
 波よする 築地の岸に聳えたつわれ等が母校
星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり
 五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす
ああなつかしき われ等が母校
 母校の光栄はわれ等が誇り
この誇りすてず進みゆくこそ
 われ等が担う 永遠の使命ぞ

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かって生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。  昭和51年4月 浴恩会

附記) 今回は脇道にばかり逸れてしまってますが、せっかくなのでこの機会に触れておきます。

「海軍経理学校」ゆかりのものが都内の神社に残っています。

東郷神社御水舎の前の敷石
海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年5月
※平成28年5月撮影

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの史跡。

海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年4月
「靖國神社」社殿裏梅園ちかくに。
こちらは東郷神社の敷石とは違い金属片が残っています。

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの遺産。

海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品

「靖國神社」遊就館大展示室。
海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品が奉納されています。
(海軍経理学校品川校)
滑車・網巻・吊金具
(浴恩会・昭和60年5月) ※平成29年3月撮影


さて話を築地に戻さないと。 とは言っても実はこの先は海軍ネタはもうオシマイ。 近代建築を観て歩くことにしました。
その前にいったん休憩。 例の焼きたての「玉子焼」

築地といえば

築地本願寺

国重要文化財指定建造物。 昭和9年(1934)に竣工。 設計は伊東忠太。インド石窟寺院風の独特なデザイン。

昭和9年(1934)竣工。国重要文化財。伊東忠太設計。

細部も観ていて楽しい。

築地本願寺(浄土真宗本願寺派)
本願寺派や大谷派の寺院は朱印はございません、って。
西本願寺
(本願寺派 →http://www.hongwanji.or.jp/faq/#q000522 
東本願寺
(大谷派 →http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/02.html …
神社専門なので深入りはしません…

現在進行形で境内整備中。平成29年10月までは工事が行われる模様です。

で、実は私がここに訪れた理由がもう一つありました。

築地本願寺境内西側にあるという記念碑
「日清戦争・近衛師団碑」  野津道貫 近衛師団長陸軍大将謹書
「日露戦争・後備第一師団記念碑」 川村景明 鴨緑江軍司令官陸軍大将謹書

これが…境内をどこを探しても「ない」んです。

ん?
途方に暮れて、工事警備員の方にスマホで検索して出てきた個人サイトのweb画像を見せつつ聞いてみます。


「こんな記念碑、見たことあります?」
工事警備員の方
「みたことないあ。ちょっとわからないなあ」
え? (けっこう大きいのに見たこと無い…だと?

警備の人が見た事ないというので、本堂事務所の受付の方に同じように聞いてみました。


「記念碑を探しているんです?」
寺務所の人
「境内の碑は全てあのエリア(写真の場所)に集めてあります。そこにない場合、重要度が高くないと判断して区画整理の際に処分してます。」

えっ? ええええ

動揺しました。
そりゃあ寺院側からすれば日清日露のなんやかんやは「重要度が高くない」と判断したかもしれませんが、記念碑にはそれを建立した人々の願いがこめられているんですよ。


「どこかに保存とかしてないんですか?」
寺務所の人
「担当ではないのでわかりませんが保存とは聞いていません」

あぁ…
頭が真っ白です。 建造物は安全性耐震性等で無くなることはありますが、記念碑が無くなる事態は想定してませんでした。

在りし日の参考
http://www.paper-band.jp/ppBlog/index.php?UID=1393635829 …

http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/sansakutenbyou/beautifulspot/Tsukiji-Teppouzu-Tsukudajima_SansakuH260916/Sub1_Tsukiji-Jougai_Ichiba-Tsukiji_Honganji-Sei_Roka_Kokusai_Byouin/newpage06-S.html …

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13co-tsukiji-honganji.htm …

なくなってしまったものはしょうがないです。
記念碑が何処かにあるかもしれないって、まだかすかな希望を抱いていますが参考Webの写真群と私の撮った最新写真と背景位置やアングルが被るため、そこにないことか確定なんですよね。

とぼとぼと歩いてだどり着いたのが「聖路加国際大学」
へー、芥川龍之介生誕の地…でしたか。
明治16年で、このあたりに牧場があったのも驚きです。

聖路加国際大学の裏手。このあたりが築地の居留地だったそうです。 明治の居留地時代のレンガ塀遺構。イギリス積。 あわせて明治末期のガス灯と大正15年に建築された明石小学校旧校舎の石剤がベンチに再活用されてました。 明治大正の不思議な保存空間。

聖路加国際病院旧病院棟・旧館

一部保存棟
昭和8年(1933)竣工 昭和18年(1943)には 戦時体制下で「大東亜中央病院」と呼称。 戦時中は当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れたともされている。

聖路加国際病院旧病院棟 基礎石
神の栄光と人類の奉祀のため 
聖路加国際医道院 徳川家達書(徳川宗家16代当主)

上下の穴は大戦中に憲兵命令で遮蔽強制された名残。
(敵性語とか敵性文化とか面倒くさいやつですね。。。

「聖路加国際病院トイスラー記念館」
昭和8年、聖路加国際病院の宣教師館として竣工。(旧館と同じ時期の竣工ですね) 昭和初期の住居としては珍しい鉄筋コンクリート造一部木造建造物

ルドルフ・ボリング・トイスラー
(Rudolf Bolling Teusler、1876年2月25日 – 1934年8月10日)
米国聖公会の宣教医師、聖路加国際大学の創立者。日本初の近代型医療施設の聖路加病院 開設者で初代院長。

「アメリカ公使館跡石標」
明治8年に築地の外国人居留区に米公使館が新築。 明治23年に赤坂の現在地に移転し残された8個の石標のうち3個は赤坂のアメリカ大使館、2個は聖路加ガーデンに、残り3個が聖路加国際病院に設置。 白頭鷲(米国国鳥)・星条旗・星の彫刻。

朝7時過ぎに大江戸線築地市場駅に到着して、築地市場から「近代海軍発祥の地巡り」を本来の目的としつつ築地鎮守の神社と寺院(波除と本願寺)を巡り、聖路加(キリスト教)まで巡るという見事な神仏習合を発揮してしまい、だいたいの所要2時間半。 今回はなかなか有意義で楽しい散策でした

|-`).。oO(若干、かなり、ショッキングなこともございましたが。それもふくめて「フィールドワーク」の成果が得られたと思います。巡ってみなければわからないことです。 (とはいえ、まさか記念碑がなくなるなんて・・・ですが・・・

海軍省跡・軍令部跡の碑

平成29年5月撮影

平成29年5月。 現在の「農林水産省」があるあたりに、戦前は「海軍省・軍令部」があった。 その同じ区画「中央合同庁舎第5号館」の北東脇に往時の海軍時代を偲ぶ碑が建立されている。 しょうしょう訪れるのが大変な場所ですが参りましょう 。

現在の「中央合同庁舎第5号館」
この区画に戦前は「海軍省・軍令部」が展開されておりました。 (正確な位置は「中央合同庁舎第5号館」の北側に当たる「農林水産省」がある界隈)

この庁舎の内庭に「往時を偲ぶ碑」が建立されているが見学難易度が高く…

中央合同庁舎第5号館

まずは、日比谷公園の隣にある「厚生労働省の東玄関(正門)」からアクセスすることとなります。

厚生労働省アクセス案内
http://www.mhlw.go.jp/general/syozai/annai.html …

ストリートビュー的にはこんな感じの建物。

中央合同庁舎第5号館

https://goo.gl/maps/RnYRmBU4qrKTsktS7

正門(日比谷公園側)入館方法

https://www.mhlw.go.jp/topics/2009/02/tp0209-1.html

まずは入口の警備員に「海軍省跡の碑を見学させて下さい」と申告しましょう。
警備員が「庁舎受付」に誘導してくれます。

このご時世ですので部外者が庁舎に入館するのはなかなか大変です。
警備員の誘導に従って受付に参りましょう。

受付では「身分証の提示」と「名前・住所など」を記帳し「入館申請」をします。

なお、警備員に聞きましたが「碑の見学は平日のみ」だそうです。「土日祝日は対応不可」とのことでした。

入館申請が終わりますと、警備員さん誘導のもと「海軍碑」まで案内していただけます。

「海軍碑」(警備員さんたちは「海軍碑」と呼称していました。「〇〇さん、海軍碑の見学だって、案内してあげて!」という感じで。)は、画像でいうところの地下鉄「B3a」出入口近くの敷地内・庁舎内庭です。

そうしてようやく対面

海軍省跡 軍令部跡 碑

海軍省跡
軍令部跡

内閣総理大臣 
中曽根康弘書

碑の上面は波打っておりました。
(晴天時は反射が厳しいので撮影は曇天が良いかも)

なお、見学時には警備員の指示に従って撮影等を行って下さい。
状況により見学に制約がある場合があります。

昭和60年11月 財団法人・海軍歴史保存会 建立

中曽根康弘氏は海軍第六期短期現役主計士官(海軍経理学校・主計短現六期)出身。重巡洋艦「青葉」乗組経験あり。終戦時は海軍主計少佐。

海軍碑裏面も警備員の許可を得て見学致しました。
(状況により見学制約がある場合あります。警備員に従ってください。)

海軍省・軍令部略史 (一部表記を見やすく変更しております)

慶應三年十二月   王政復古
慶應四年一月    海陸軍務課設置
明治二年七月    兵部省設置
明治四年七月    兵部省に海軍部を置く
明治五年二月    海軍省設置
明治六年十月    初代海軍卿 勝安房
明治十一年十二月  参謀本部設置
明治十八年十二月  内閣制度発足 海軍大臣 西郷従道
明治十九年三月   参謀本部に海軍部を置く
明治二十二年二月  大日本帝国憲法発布
明治二十二年三月  海軍大臣の下に海軍参謀部を置く
明治二十六年五月  海軍参謀部を海軍軍令部とし
          天皇の直隷機関とす
明治二十七年七月
明治二十八年四月  日清戦争(黄海海戦)
明治二十七年十二月 海軍省・海軍軍令部をこの地に移す
明治三十七年二月
明治三十八年九月  日露戦争(日本海海戦)
大正三年七月
大正八年六月    第一次世界大戦
昭和八年十月    海軍軍令部を軍令部とす
昭和十六年十二月
昭和二十年八月   大東亜戦争
昭和二十年十月   軍令部廃止
昭和二十年十一月  海軍省廃止 海軍大臣 米内光政

昭和六十年十一月
 財団法人海軍歴史保存会

帝国海軍の中枢があった事を偲ばせる唯一の空間。
感慨深いものがあった。

初代海軍卿 勝安房(勝海舟)

最初の海軍大臣 西郷従道

最後の海軍大臣 米内光政

この碑に淡々と刻まれし海軍の歴史は濃縮の重みがあった。

見学するのはとても大変な場所ですが、海軍史にご興味があれば是非とも訪れて欲しい空間です。

なお当たり前の事ですが警戒厳重な「中央省庁舎」ですので、くれぐれも警備員の指示に従うようにお願い致します。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…