「米軍」カテゴリーアーカイブ

ハワード・キャノン航空博物館・Howard W. Cannon Aviation Museum(ハリー・リード国際空港・ラスベガス)

ラスベガスの国際空港。
空港内にちょっとした展示コーナーがあったので、写真をぱちぱちと。
何が書いてあるかは、よく理解していません。(英語が出来ない民なので)


ハリー・リード国際空港

ネバダ州ラスベガスの国際空港
2021年に「マッカラン国際空港」から、「ハリー・リード国際空港」に改称した。
いずれも、ネバダ州出の上院議員の名前から名付けられている。

もともとは1942年開設の「アラモ空港」に始まり、1948年にクラーク郡が買取「クラーク郡営空港」となり、そして「マッカラン飛行場」となった。

ちなみに米軍基地としては、「ネリス空軍基地」がラスベガス北東7マイル(約11キロ)の距離にある。


ハワード・キャノン航空博物館

ハリー・リード国際空港の展示コーナー。

ターミナル1の2階部分、荷物受け取り所を見下ろす位置にある。
ネバダ州の航空の歴史資料が展示されている。
ハワード・キャノンはネバダ州出身の上院議員。

T-50ボブキャット(セスナ)のプロペラ。

戦略爆撃機の時代。
B-17
B-29
爆撃機に搭乗する機関銃座の担当者は、ラスベガスにあった航空砲術学校で訓練を受けたという。
現在もラスベガスのネリス空軍基地には「アメリカ空軍戦闘センター」があり、テストプログラムが実施されている。

セスナがぶら下がっていました。

下は、到着フロア
手荷物を回収したら、そのまま外に出れる感じで、この辺りは日本とはだいぶ違うなあ、と。

いたるところにカジノマシンがあります。


羽田→ロサンゼルス→ラスベガス

写真を徒然。
アメリカン航空で、往復しました。

昼食?夜食?
時差があるので、どっちの時間軸になるのかな、、、。

夜食?朝食?

ロサンゼルス
アメリカに着いたって感じ。
ここから入国審査で1時間くらいかかって、乗り継ぎはやはり2時間は必要な感じでした。
英語できない民にとっては、入国審査で、どこに行く?どこに泊まる?何しに来た?とか説明するのが大変なので、泊まる場所とか、目的とか、全てプリントしておくと宜し。

ロサンゼルスでトランジットで国内線に乗り換え。
ラスベガスに。
国内線の保安検査も、日本とは違って、靴を脱いで、チェック。
パソコン出し忘れると、引っかかります。(引っかかった。。。)

アメリカの大地って感じ。

ラスベガスにつくと、カジノ機が迎えてくれます。
おっ、ラスベガスに来た!って感じ。


ラスベガスあれこれ

とりあえず、BBQっぽい肉を喰らう。
アメリカに来たって感じ。

人生に於いて、これ以上はないステーキに出会ってしまった。
分厚いのに柔らかく美味すぎて、もうヤバい。。。
こういうのは出会ってはいけない奴です。
もう普通の食べれなくなるやんw

約400グラム(14オンス)で64ドル。

Oscar’s Steak House @ Las Vegas BOBBY Gs’ 14oz NEW YORK STRIP

ジン マティーニ とか エスプレッソ マティーニ とか マティーニも過去最高に美味。

プライムリブステーキ
Lawry’s The Prime Rib Las Vegas

もはや何を飲んだっけな?

コンビニでお買い物

ファーストフード

ラスベガスの丸いやつ。

MSGスフィア

ラスベガスのモノレール

ザ・ラスベガス!!っていう場所。

ダウンタウン

屋根がLED
こういうのは日本では無理だろうなあ。維持管理も大変そう。

WELCOME TO Fabulous LAS VEGAS NEVADA

すばらしいネバダ州ラスベガスにようこそ!

例の有名なウェルカムボードのコピーですね。


ラスベガス→ロサンゼルス→羽田

帰りもアメリカン航空。

ロサンゼルス

ちなみに、行きも帰りも遅れて。
異国の地の飛行機の遅れは勝手がわからなくて、結構困りますね。
ロサンゼルスでは、搭乗口も何回か変わって、あっち行ったりこっち行ったりもあって。

ゲート155から

ゲート41に移動って、場所がぜんぜん違うし。

夜飯?

ワインが美味しかった。

朝飯?

実は、人生初のアメリカ、でした。
それなのに、ソロでの移動、なかなかの緊張感で、、、いやあ、英語できない民としては、怖かったですわ。
(ラスベガス着いたら、現地の業務委託スタッフと合流できたので、なんとかなりましたが)

※撮影:2025年4月



「Atomic Museum(核実験博物館)」(アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス)

仕事でラスベガスに行く機会があった。
砂漠を開拓した都市なので歴史的なネタはないかなと思いつつ、それでも、なにかしらの面白い発見があればと地図を眺めていたら「アトミックミュージアム(核実験博物館)」があった。そういえば、ネバダ核実験場か、、、ということで、脚を運んでみた。

もっとも、私は英語がダメなので、ほぼフィーリングになりますが。


マンハッタンプロジェクト・トリニティ実験

オッペンハイマーを中心としたマンハッタン計画の研究者たちがニューメキシコ州のロスアラモスに研究所が置かれることが決定したのが1941年11月であった。
そして、1945年7月16日にアメリカで実施された人類最初の核実験が「トリニティ実験」。
ニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施された。
トリニティ実験では、のちに長崎に投下された「ファットマン」と同様の構造であったが、ファットマンのように空中投下ではなく、鉄塔添え付けでの爆発であった。
7月16日のトリニティ実験の成功を踏まえて、1ヶ月も経たない短期間で、8月6日に広島に「リトルボーイ」、8月9日に長崎に「ファットマン」が投下された。

そういえば、映画「オッペンハイマー」もみましたが、なんというか、「原爆の父」であるオッペンハイマーの心理的な自伝であって、戦後のオッペンハイマー事件も含め、その背景を知っているか知っていないかで、だいぶ見え方が変わってくる作品でした。良くも悪くも日本人として描いてほしい原爆の話は皆無で、そういう観点でいうと、日本人にとっては駄作なのかもしれず。
まあ、そういう意味でも、このラスベガスの核実験博物館も然りで、米国からみる原爆の見え方は、日本とは異なるわけで。


核実験博物館( Atomic Museum)

核実験博物館( Atomic Museum)はアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにある博物館。非営利団体であるネバダ核実験場歴史財団(Nevada Test Site Historical Foundation)の運営であり、核実験とネバダ核実験場の歴史を主に展示している。2005年3月に開館した。スミソニアン協会にも加盟している。
おもな展示物は、核爆弾の発達に関するものやファットマンの模型など。

ATOMIC MUSEUM
A SMITHSONIAN AFFILIATE

It’s A BLAST!

最高だよっ!
核爆発級の、科学と歴史の体験を!!ってこと、らしいですが。。。

ノリノリの女性の写真は、1950年台にラスベガスで発生した「ミス・アトミックボム(ミス・原爆)」で知られる「リー・マリーン」(1957年)
キノコ雲水着というのが、当時の「核実験鑑賞ツアーブーム」とともに文化的象徴でもある。

うーん、なんというか、表現が、ラスベガスというか、アメリカンっぽいですね。
なんか、核に対する根本的な意識が、これに集約されている感もあり。

入館料は、大人$29。だいたい4,000円~4,500円くらい。

National Atomic Museum

メインの展示室

HARRY REID GALLERY
ATOMIC ODYSSEY

このコーナーは、科学技術的な展示室。私には難しすぎた。。。

ハーリー・リードはネバタ州出身の政治家。
ラスベガスの国際空港も以前はマッカラン国際空港であったが、改名され「ハーリー・リード国際空港」と、その功績を讃えている。

ATOMIC LOUNGE & GALLERY

SPY関係の展示があるというがクローズだった。
ここに、ドイツのエニグマ暗号機関連の展示を中心としたコーナーというが、見学できずで残念。。。

DINA TITUS GALLERY
THE MANHATTAN PROJECT

マンハッタンプロジェクトに関連する展示室。
日本人的には、ここが一番、見どころあるというか見ておかないとダメなコーナー。


Fat Man(長崎に投下された原子爆弾)模型

Fat Man(ファットマン)
長崎に投下された原子爆弾の原寸大の模型。
太った男性の丸い形、、、

人類史上初の核実験である「トリニティ実験」に使用されたガジェットと同型。
アメリカ軍での分類番号は「Mk.3」
マンハッタン計画の一部として、ロスアラモス国立研究所でつくられた核兵器。
リトルボーイ(Mark .1)が高濃度ウランに対し、ファットマンはプルトニウムを用いてた。
1945年8月9日に、実戦投入され、長崎に投下された。

第二次世界大戦後も製造が続けられ、1940年台の米軍の核戦力の中心にあった。1947年にはロスアラモス国立研究所にはファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能な状態で13発が備蓄されていた。そして1949年までに120発が生産された。

降伏文書のコピー

参考までに。
外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開時に撮影)

ファットマンの模型の後ろで、ミズーリの降伏調印の画像を展示。
ファットマンのおかげで、米国が勝利し、日本が降伏、その通りではあるが。

降伏文書調印式の日本全権 重光葵

ミズーリ号の甲板上にて。

WAR IS OVER
戦争終結

原爆投下部隊が語る JAP 日本の都市襲撃のエピソード。

原子爆弾が、ジャップを驚愕させる。。。

なんとも複雑な思い。


核実験博物館での「ヒロシマ」「ナガサキ」

カメラマンが福岡で出会った男性。

Old Man

<意訳>
この時代の男性の珍しい西洋スタイルのロングコートと帽子が目に止まり写真を撮りました。
撮影した人から簡単な質問をされることは慣れていましたが、この男性は過去のことを語ってくれました。
「アメリカに住んでいたが戦争が始まった際に家族を訪ねていた際に日本で捕えられた。」
原爆についても言及し、私を驚かせました。

「私は家族全員とほとんどの友人を失いました。彼らはあなたや私と同じように罪のない人々で、死ぬべきではありませんでした。私はアメリカを許しますが、忘れろとは言わないでください。土に種をまくように、この灰の中から建物が立ち上がるでしょうが、残念ながら私が生きている間には無理です。あなたは、原爆投下後の状況を人々に伝えてください。」

彼の言葉は、その後、数ヶ月間、私の心を悩ませました。

I lost my entire family and most of my friends. They were like you and me, Innocent ones, and they did not deserve to die. I can forgive America, but don’t ask me to forget. Like planting seeds in the dirt, buildings will rise out of these ashes, but unfortunately not in my life time. You tell your people what it was like after the bomb.


ガジェット(人類初の原子爆弾)模型

人類初の原子爆弾(プロトニウム原子爆弾)
マンハッタン計画で製造
1945年7月16日、ニューメキシコ州のホワイトサンズ射爆場での核実験「トリニティ」で爆発した。
ガジェット(ちょっとした装置)の名称は、爆弾を連想させないことで、情報漏洩を防止し開発を秘匿する意味があった。
「ガジェット」は、「ファットマン」と同様の構造をしていた。
当時、米国では「ガジェット」「リトルボーイ」「ファットマン」を並行して製造しており、トリニティで「ガジェット」の爆発成功から1ヶ月以内に、「リトルボーイ」と「ファットマン」を実戦に投入している。


核開発の歴史

核兵器を開発せざるをえなかった歴史的なお話。
「5W1H」で。

WHY?

WHAT?

WHO?

WHERE?

HOW?

WHAT NOW?


メイン展示室

いったん、メイン展示室に。

トルーマン大統領、、、

<意訳>
製造が間に合わず、原子爆弾を2発しか保有しておらず、実験もトリニティ実験の1回のみであったが、米国として「日本との戦争を迅速に最小限の犠牲者で終わらせるために」、未実験だったリトルボーイをヒロシマに投下。それでも日本は降伏をしなかったために、トリニティ実験で成功した同型のファットマンをナガサキに投下し、日本は降伏した。

<意訳>
1945年7月26日、連合国(アメリカ・イギリス・ソ連)は、日本にポツダム宣言を通告するも、日本はこれを拒否した。連合国による日本本土侵攻はアメリカ軍だけでも推定100万人の犠牲者がでるとされ、政策立案者たちは全員一致で、原子爆弾が最も少ない流血で戦争を終結させ、軍事目標に対して警告なしで使用すべきと結論づけた。
そして、1945年8月に、2発の原子爆弾が投下され、日本は降伏した。
連合国による大規模な侵攻作戦と戦後の戦勝国間の分裂を回避することができた。
<意訳ここまで>

うん、、、、

結果、ヒロシマとナガサキで、21万人以上という市民の犠牲者を招いたわけで。

ヒロシマにリトルボーイを投下した「B-29 エノラ・ゲイ」の模型。


ネバダ核実験場

ラスベガスの北西約105キロのネバダ砂漠にある核実験場。
1951年に核実験場として開設。
ラスベガスに、核実験博物館がある理由でもあり。


展示あれこれ

ネバダ州と、核と、その歴史などが時系列で、いろいろと展示してある。
私は、何度も言いますが、英語がダメなので、なんとなくフィーリングで察しつつ、気になるところはスマホ翻訳をさせながら、観覧をば。

第二次世界大戦後の、原子爆弾の開発の歴史。

あっ、またこのおねえさん。。。

ネバダ実験場

原爆実験をネタにしたグッツの数々。

戦艦ネバダ
1916年就役、1948年海没処分
1941年の真珠湾攻撃に際して日本軍機の攻撃によって被弾するも戦艦列の中では損害は軽微であったが着底座礁。1942年2月に引きげられ1943年3月に大改造を経て修理完了。アリューシャン列島でアッツ島攻略作戦に加わり、その後、ノルマンディー上陸作戦を支援。
1945年2月、硫黄島の砲撃に参加し、その後、沖縄攻略作戦に参戦。
戦後、ビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供出。
1946年7月1日と25日の2回の核爆発実験で、ネバダは生き残った。
真珠湾で調査を受けた後、1848年に標的艦に指定され、7月31日に戦艦アイオワなどから砲撃され、海没処分となった。

クロスロード作戦

核開発の歴史はすすむ。

地下核実験へ、と。

核弾頭ミサイルの変遷

アメリカからみた、戦勝国からみた、核兵器・原子爆弾。
ここでは良し悪しを言うつもりはありませんが、いろいろと考えさせられた博物館。
ラスベガスといえば、ギラギラしたカジノをはじめとしたエンターテイメントの街のイメージしか持っておりませんでしたが、核実験場もある街であったこと、学ばさせていただきました。

※撮影:2025年4月


関連

世界最大の駆逐艦「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦・マイケル・モンスーア」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

横須賀に「世界最大の駆逐艦」が来航したというので、足を運んでみました。


マイケル・モンスーア
USS Michael Monsoor DDG-1001

ズムウォルト級ミサイル駆逐艦の2番艦。
2019年就役
姉妹艦は、3隻

満載排水量 14,564 トン
全長 600 ft (182.9 m)
最大幅 80.7 ft (24.6 m)
吃水 27.6 ft (8.4 m)
兵装 62口径155mm単装砲 2門
30mm機関砲 2門
Mk 57 VLS(20セル) 4基

満載排水量は14,000t以上で、これは現在アメリカ海軍が唯一保有する巡洋艦であるタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦よりも大きい。世界最大の駆逐艦。

主砲は、単装155mm先進砲システム(AGS)2基搭載。

海自護衛艦と比較。遠近は考慮しても、とにかく大きい。

せっかくなので「横須賀軍港めぐり」を活用して、近くから拝見。

YOKOSUKA軍港めぐり

https://yokosuka-gunko.jp


横須賀軍港めぐり~米海軍

マッキャンベル (ミサイル駆逐艦)
マッキャンベル (USS McCampbell, DDG-85) は、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。イージス艦。

ラファエル・ペラルタ (ミサイル駆逐艦)
ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

デューイ (ミサイル駆逐艦・2代)
デューイ (USS Dewey, DDG-105) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の55番艦。

ブルー・リッジ (揚陸指揮艦)
ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)は、アメリカ海軍の揚陸指揮艦。ブルー・リッジ級揚陸指揮艦の1番艦。

修理宿泊船(非自走) YRB-30
1945年5月12日進水、5月28日運用開始という戦前の船は、横須賀で最古参の現役船。

ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦
T-AKE-11
ワシントン・チャンバース
USNS Washington Chambers

米海軍の警備艇、艦首に機銃あり


横須賀軍港めぐり~海自

「たかなみ」「あすか」

「あすか」の後甲板には、レールガン砲塔が白幕で隠されてました。

護衛艦「たかなみ」
試験艦「あすか」

潜水艦救難艦「ちよだ」

海洋観測艦「にちなん」

海保

田浦の倉庫群

潜水艦は、呉と横須賀のみ。

新井堀割水路
明治期に、海軍が短絡水路のために人工的に掘割を設けたことにより吾妻島として半島が切り離された。

特務艇「はしだて」
迎賓艇、病院艇

多用途支援艦「えんしゅう」

補給艦「ときわ」
護衛艦「まや」

護衛艦「きりしま」
護衛艦「くまの」
練習艦「やまぎり」

海洋観測艦「わかさ」

護衛艦「もがみ」


海自横須賀

護衛艦「もがみ」が一般公開でした。

ちなみに、横須賀基地からは、米軍基地方面は撮影禁止、でした。
マイケル・モンスーアに配慮。。。

海洋観測艦「わかさ」
近くで見る機会がなかなかない艦


高台から

例の高台から。
横須賀のヌシ(いずも)がいない光景も新鮮。

※撮影:2025年7月


関連

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月


多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

米海軍横須賀基地フレンドシップデー2022

2022年10月16日、3年ぶりに開催された、米軍横須賀基地のフレンドシップデー。足を運んでみたので、写真中心に記事を掲載。


旧横須賀海軍病院の境界塀

大日本帝国海軍の海軍病院。明治13年開庁。
戦後、米海軍に接収され、横須賀米海軍病院(United States Naval Hospital Yokosuka)として現在も当時の庁舎等が米軍横須賀基地内で病院として機能している。立ち入り制限があるため、今回は「大日本帝国海軍時代からの横須賀海軍病院」の軍用地境界の塀(壁)のみ見学。

米軍の消防緊急車両が、横須賀海軍病院前を通過。

むだに流し撮りをしてみる。


横須賀鎮守府軍法会議所正門跡

ここには、横須賀鎮守府軍法会議所があった。


横須賀海軍工廠造船部の建屋

横須賀海軍工廠造船部時代の建屋という。

横須賀海軍工廠造機部の建屋

横須賀海軍工廠造機部時代の建屋(組立工場)という。


海軍砲術学校入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。

よくみると、トンネルに「海軍砲術学校」とある。

当時からの護岸かも。

地下壕跡、かな。

大日本帝国海軍関係で記録できたのは、ひとまず以上。
ほかにも、日本海軍の電話線マンホールや消火栓などもあるが、今回は記録できなかった。


※2019年に米軍基地内で以下を記録してました。

消火栓


第7艦隊旗艦 ブルーリッジ
USS Blue Ridge, LCC-19

アメリカ海軍の揚陸指揮艦。日本横須賀に拠点を置く第7艦隊の旗艦。
就役は1970年。アメリカ海軍現役艦艇では最古参。


ブルー・リッジ甲板から

ラルフ・ジョンソン
USS Ralph Johnson, DDG-114

原子力空母の修理拠点
米海軍修理バージ YR95、YR96、YR85

小さい船は、かわいい。

見学の大行列、、、

横須賀の軍港を、米軍側から見れるのは貴重。
写真の左手は、吾妻島。米海軍の倉庫がある。

はるか向こうに、住友の横須賀製造所もみえる。

たぶん、旧帝国海軍の建屋も点在しているはず。

謎キャラ登場。


米海軍オレゴン号の錨

In Memory Of A Gallant Ship
USS OREGON
1896-1919

アメリカ海軍インディアナ級戦艦3番艦「オレゴン」(USS Oregon, BB-3)の
1919年の退役後は武装解除され博物館船となっていたが、1941年に海軍はスクラップ艦として再活用しようとしグアムへ曳航。そのままグアムで終戦を迎え、1956年に解体された。


米国船オネイダ号 国際平和記念碑
USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War and fought bravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.
It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew earned 8 Medals of Honor.
During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising near Osaka.
This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives were lost in the service of their country.May her legacy continue to inspire all Sailors;past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.
“Greater love has no one than this; to lay down one’s life for his friends.”
John 15:13
Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer’s Mess
Erected 2007

1870年1月24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。船はこの地点から真東に4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。この記念碑は東洋と西洋の古代の象徴を組み合わせ、亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである。
水兵たちが安らかに眠らんことを。



MASUOKA PARK(増岡公園)

「ミスターネイビー(Mr,Navy)」として、長年にわたり衆議院事務局に勤務していた増岡一郎氏は、日米安全保障の架け橋として、米海軍によって永遠に語り継がれ、記念として、「MASUOKA PARK」が設けられている。

This park is named for the honorable Ichiro Masuoka.
“MR,NAVY” a true friend and selfless supporter of the navy and the united states-japan security relationship.
Because of his peaseverance and dedication. Our sailors and their families enjoy a significantly improved quality of life
He shall live forever in our hearts.


米海軍横須賀基地ヘリポート管制塔

かつてこの場所には、潜水母艦「大鯨」の艦橋を流用した航空管制塔があったという。昭和52年頃までは現存していたというが、現在は撤去されており、新しい管制塔となっている。

沖合に何かいた。。。米海軍。

民間船のようにみえますが、これは米海軍ワトソン級車両貨物輸送艦「ダール」。ワトソン級車両貨物輸送艦は、世界最大のガスタービンエンジン推進艦。

猿島。冬になったら行こうと思う。。。


Yokosuka Friendship Day
ヨコスカフレンドシップデー

ライブ開場

郵便局

MILITARY POST OFFICE, YOKOSUKA JAPAN

マクドナルド

警備艇

アメリカンな焼肉。

あとは、ふらふらとアメリカの空間を堪能。
ネイビーバーガーを食べたけど、写真はいまいち。


三笠公園

モニュメント撤去工事中


買い物。
スタバのエナジードリンク。バニラとモカ。バニラはやばいくらい甘いらしい。力尽きたときに飲もう。。。

※撮影:2022年10月


関連

厚木海軍飛行場の戦跡散策(米海軍厚木航空施設)

2022年8月20日(土曜日)、3年ぶりに米海軍厚木航空施設にて、「盆踊り(BONODORI)」が実施され、一般公開が行われた。せっかくでしたので脚を運んでみました。


厚木海軍飛行場

帝国海軍が帝都防衛の拠点として昭和13年(1938年)に工事着工、昭和17年(1942年)完成した飛行場。
整備訓練航空隊として「相模野海軍航空隊」「第二相模野海軍航空隊」や戦闘機操縦士錬成部隊として「厚木海軍航空隊(第二〇三海軍航空隊)」が置かれた。末期には防空隊として「第三〇二海軍航空隊」が設置され、帝国陸軍の調布・柏・松戸・成増などとならび、首都防空の一翼を担った。
戦争末期、特に302空司令の小園安名大佐は徹底抗戦を主張し、8月15日は混乱と反乱状態にあたった。8月22日、小園大佐の拘束後も逃走せず暴動状態であった兵たちを強制退去させ、厚木飛行場の反乱は収束。8月30日にダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。アメリカ軍の管理下に置かれた。


マッカーサーガーデン
MacArthurGarden

1945年8月30日。
ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。細いコーンパイプを咥えてタラップを降りたマッカーサーは、「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。

日本の民主主義の生みの親マッカーサー

この表現には、いろいろ思うところもあるが、少なくとも「戦後民主主義」の枕詞が必要かと。

なるほど、日本人による寄贈か。。。

余談だが、マッカーサーの像は八王子にもある。

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館


厚木海軍航空隊時代の止水栓(海軍栓)

米海軍厚木航空施設には、海軍時代の遺構として「止水栓(海軍栓)」がいくつか残っている。探せばもっとあるのかもしれないが、今回の立ち入り可能範囲内では「6つ」を見つけることができました。

1つめ
入口ゲート近く

2つめ
ゲートからまっすぐ歩いた向かって右側

3つめ。
正門ゲート直進の鳥居の近く。

4つめ。

5つめ。

6つめ。

以下は、参考までに、「止水栓(海軍栓)」のわかりやすい見本ものせておきます。
厚木は摩耗していたり、黄色いペンキで塗ってあったりでいささかわかりにくいので。

上記の写真は横須賀の海軍工機学校敷地内に残っているもの。記事は下記から。


謎のコンクリート造形物

米海軍厚木航空施設内にあった、不自然なコンクリートの塊。コンクリートの状態から、帝国海軍時代のものと思われるのだが。一節には「防空監視哨」という話もあるが、設置場所は、いうほど高台ではないので監視できているかもあって謎。


米海軍厚木航空施設(海上自衛隊厚木航空基地)

以下、写真にて。

ATSUGI NAF JAPAN

米海軍厚木航空施設 海上自衛隊厚木航空基地

k-9 POLICE

字が反転している。

危険 軍用犬

盆踊り22

BONODORI

SNJ-6
テキサン
海上自衛隊のT-6ですね。

米海軍厚木航空施設マンホール

塗装なしマンホール

こっちは海自のマンホールかな。

MWR ATSUGI JAPAN

多分偉い人のレセプション会場

米海軍厚木基地

盆踊り会場

友好広場
ALLIANCE PARK

協調と安全保障の50年を記念して

友好広場には錨もありました。

ごーるでんふぁるこんず!
HSC-12 GOLDEN FALCONS

おねーさん!!
目線Thanks!

F-14 Tomcat

F-4S

A-4 SKYHARK

旭日と富士山塗装のヘリ。

H-3 SEA KING

フードコード

ぴったりが支払えない場合は、カード払いで。。。

コップを購入したら飲み放題になるシステム。しかし補充が追いつかず、飲み尽くされた状態。。。。

教会

McDonald’s

マクドナルド!

限定メニュー

実は、厚木基地は初めて行きました。

盆踊りが始まる前に離脱してしまいました。。。

また、次回も機会があれば、止水栓(海軍栓)探しを行ってみましょう。

※撮影:2022年8月


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

米軍 大和空軍基地跡

令和元年6月撮影

玉川上水駅のロータリーに往時を物語る石碑があった。

大和空軍基地

昭和三十一年二月二十四日 正式開設   

我々は世界の平和が総ての自由愛好国家の間に於ける親睦友好関係に対する努力を通して得られることを心に銘記して居ります。  
日本とアメリカ合衆国両国民の間に育てられた固い絆は平和のための永久の防波堤となるでありましょう。  
我々は大和空軍基地将兵が当基地と大和町民とによって現在享有されている尊敬友情を更に助長するよう総ゆる面に於いて身を処して行くことを願うものであります。

かってこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。
この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼に帰しました。
その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。
この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。
玉川上水駅前広場を整備するにあたり、その歴史の証としてここに移設したものであります。     
平成二年一月吉日
東大和市長 尾崎清太郎

米軍が進駐する前、戦前の此の地には「日立航空機」の工場があった。