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81年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から81年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
令和8年、西暦2026年、皇紀2686年の夏、節目の日。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時15分

神門前。昨年、80年の節目と比べると人手は少ない、か。
昨年は、此の時間帯で、第二鳥居まで、参拝列ができていた。

このときは青空が見えていましたが、正午は雨になるという天候でした。

今年は、崇敬奉賛会は、サンバイザーと瞬間冷却保冷パックを配布。これは有難いですね。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

昨年と看板のデザインがかわりましたね。

毎年恒例、講談師の室井さん。

靖国神社、大塚宮司

英霊、ありがとう
心をこめて
放鳩式

室井さんも、毎年ありがとうございます。


御朱印・靖國神社白鳩の会

ストラップは毎年色がかわります。


遊就館

冷を求めて一休み。


靖國神社・午前11時15分

今年は麦茶ではなく、お水。
お水のコップをお盆に乗せて、参列者の列に配って下さいました。
瞬間冷却保冷パックもあわせて配布。
ありがとうございます。


靖國神社・午前11時50分

正午直前に、雨が振ってきました。

国歌
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

全国戦没者追悼式
令和8年8月15日(土)(日本武道館)
おことば

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来81年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/watch/okotoba/imperial-family01/addresses/ceremony2026.html#twords-2721bjlbufr4w

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

みたまやすらかに


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2026年8月15日


「富山大空襲」の戦跡と近代建築(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地に残る近代建築などを。

なお、2026年9月にも富山に訪れており、富山大空襲関連に関して追記をしました。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像・富山城址公園)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

2026年9月

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑(富山城址公園)

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像(富山城址公園)

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


愛こそ平和の母なれ(県庁前公園)

富山県出身の彫刻家・横江嘉純の作品。
終戦から10年を経て、平和を希求する強い心が慈愛に満ちた母子の姿に表現。
1968年の製像。目黒区民キャンパスや糸魚川の親不知記念広場にも建立されている。


お野立所(県庁前公園)

大正13年 秋
 当時、摂政宮であった昭和天皇は、北陸地方における陸軍特別大演習の統裁ならびに地方事情の視察のため富山県に行啓になりました。
 11月10日午前に汽車にて富山駅にお着きになり、富山県庁にて県知事らに拝謁を賜りました。同日午後からは、富山県立神通中学校での奉迎式に御臨席ののち、このお野立所(陛下の御座所)において県下の児童生徒らの体操や運動競技を親しくご覧になりました。
富山県

大正13年当時は、この付近は神通川の廃川地で、神通中学校の敷地であった。
現在は県庁前公園として、大きな噴水が特徴的な公園。


殉職警察官之碑(県庁前公園)

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


平和群像(富山駅前)

平和群像
作者は松村外次郎、建立は昭和24年(1949) 9月、再建が平成2年 (1990) 3月。

平和群像
 「平和群像」は、未来永劫の平和を祈念し人類の至高の英知を現わす自由と正義、希望と真理を象徴するモニュメントとして、原型製作者 松村外次郎のもと渡辺義知氏ら数名が協力して富山市制60周年と平和記念の一環として、昭和24年9月にコンクリート製で建立されたものです。
 その後、歳月を経て風化損傷がはげしく原型保持が困難となったことから、富山市施行100周年を記念して横山豊介氏の監修を受けて原形のままブロンズ像で再生したものです。
 平和のシンボルとして市民の皆様に愛されることを願ってやみません。
  平成2年3月 富山市
   原型製作者 松村外次郎

場所:

https://maps.app.goo.gl/v8ozqHKctTCTfFL69


富山大空襲で破損した「常夜灯」(松川・舟橋)

寛政11年(1799)の建立。
富山大空襲で破損した常夜灯。
2026年に、富山大空襲の戦火をくぐり抜けた「神通川船橋常夜灯」として、富山市の有形文化財に指定された。

場所:

https://maps.app.goo.gl/wC4kFApVoBVbxUSj7


富山大空襲で破損した「富山別院創立記念碑」

富山大空襲により一部破損しているが、明治初頭の廃仏毀釈と富山東別院創立を物語るモニュメントとして今日まで伝承されている。

富山別院創立記念碑
このたび、法要の記念整備整備事業の一環で、記念碑が境内正面に移転整備されました。
富山別院は、創立以来、大火や戦火によって何度も消失しています。そのような中、創立時から残っている唯一のモニュメントがこの記念碑です。第二次大戦の富山空襲により石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺(現白山市)の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/2aMrKkEQ8e25Z8L16


富山大空襲で破損した「日枝神社の敷石」

富山大空襲で破損した日枝神社の参道敷石が残されている。

富山大空襲の傷跡
この石畳は昭和20年8月1日未明から約2時間に渡って米軍機B29による富山市への大空襲の折、雨の様に投下された焼夷弾が当たって割れた数十枚の一枚です。
 その他破損したものは、平成14年参道改修工事を以ってすべて修復した。

日枝神社御社殿

御社殿前の鳥居

奉納 日独戦争記念

大正六年六月建立
日独戦争は、第一次世界大戦での日本とドイツ領「青島」やドイツ東洋艦隊本拠地の南洋諸島での戦い。

弁慶石
弁慶が怪力で転がし、義経が腰掛けたという石。
佐々成政の庭石でもあったという。

大正四年(1915年)の御大典記念で献納された鳥居と狛犬。

場所

https://maps.app.goo.gl/LMEn6urwCkB9UeHi8


富山大空襲で焼けた石碑(応声寺)

焼夷弾の熱と炎で表面が焼け、碑文が読めなくなった石碑

亀谷先生之碑
明治初年頃、梅沢町の亀谷家は医師として生業を営む傍ら、私塾・寺子屋として地域の子どもたちに漢籍や読み書きを教えていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RaWhNDAJwgZzUwdK7


富山大空襲の爆撃痕が残る梵鐘(大法寺)

幼稚園の神様。

場所:

https://maps.app.goo.gl/g5dQvdspAsnpH6LQA


富山薬学教育発祥之地碑

1894(明治26)年に,私立の「共立富山薬学校」が この地梅沢町に設立。
その後、「富山薬学専門学校」の門柱を、梅沢町に居住していた 一人の卒業生が譲りうけて、昭和40年(1965) に自宅の庭先である共立富山薬学校の跡地に建てたもの。という。
なお、市立の「共立富山薬学校」は、明治30年に富山市「富山市立薬学校」となり、明治40年に富山県「富山県立薬業学校」を経て、昭和24年に国立富山大学に統合されて「富山大学薬学部」となっている。

場所

https://maps.app.goo.gl/Eyqr6Qjh6BTQug6X9


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

富山電気ビルデイングの前を路面電車が走る

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山地鉄路面電車

富山駅

鱒寿司自販機!

駅そば、立山そば(202509)

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。
(202509)

駅ビルのどんぶり屋さんで。
特別純米「立山」(202509)

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)(202509)

ねばり昆布生姜(202509)

駅ビルで買って、ホテルで晩酌
「焼き鯖すし」「幻の瀧」(202509)

居酒屋で、
「呉羽梨」とほうじ茶のJIN(202509)

千代鶴(202509)

羽根屋(202509)

羽根屋(202609)

勝駒(202509)

富山の地酒(202609)

シメそば、を

とろろそば、とろろ昆布おにぎり(202509)

コロッケそばも美味しい。(202609)

あんばやし(味噌田楽)(202509)

冷やしそば出しラーメン(202509)

ラーメン屋さんで。
富山ブラックラーメン(202509)

おでん(202509)

元祖のお店で。
ブラックラーメン
さすが元祖だけあって、いちばん黒かった。
(202509)

別のラーメン屋さんで。
モツ串(202609)

モツ味噌ラーメン(202609)

別日に。
モツ味噌が美味しかったので、今度はブラック。これも美味しい。モツトッピング。
ブラックラーメン(202609)

駅ビルの8番ラーメン(202609)

いろいろ買ってますね。
ビーバー
ロングサラダ(202509)

いろんなビーバー(202609)

北陸っぽいもの。

新幹線アイス(202509)

パウチ日本酒(202509)

ビーバーとハッピーターンと柿の種(202509)

新幹線様に。(202609)

カウヒーが美味しい。。。

高田屋さんの「鱒の寿」
先輩におすすめされて。(202509)

2026年は、青山総本舗さん(202609)

※撮影:2025年9月及び2026年9月

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
一連の富山散策は、いったん、〆で。


関連

富山市に投下された模擬原爆(富山の戦跡散策5)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その5では、「富山に投下された模擬原爆」に関連する戦跡に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)


富山に投下された模擬原爆

米軍の原爆投下部隊・第509混成群団が広島・長崎を前に模擬原爆・パンプキン爆弾で投下訓練を実施。
富山市内には4発の模擬爆弾が投下された。
7月20日、3発の模擬原爆が、富山市内の重要な軍需工場となっていた不二越製鋼東岩瀬工場、日満アルミニウム及び日本曹達富山製鋼所を目標に投下。
これによる被害は死者47人、重軽傷者40人、また家屋4戸が火災に遭ったほか、家屋約50戸が損害を受けた。
7月20日の爆撃は天候不順のために目標には命中できず、観測も失敗したために、7月26日に富山市豊田地区に対して一発のパンプキン爆弾と再度投下している。この26日の爆撃では死者は6人、重軽傷者は50人、全壊家屋は8戸、半壊家屋は50戸が被害を受けた。
この一連の富山市の中田地区・森地区・下新西町地区・豊田本町地区における4発の模擬原爆による被害は、死者53人、負傷者90人であった。

そして、富山市は、8月1日に「富山大空襲」を迎えることとなる。


爆心地
(7月20日・中田地区の模擬原爆の爆心地)

昭和20年7月20日に投下された模擬原爆の「爆心地」。

昭和二十年
世界初の原子爆弾の模擬爆弾の跡地
 終戦間際の昭和二十年(一九四五年)七月二十日朝八時過ぎ、突然「Bニ十九」が飛来して、市の北部で基幹産業の工場地帯に三発(当地の他·森地内·下新地内)の爆弾を投下されました。
 後に解ったことですが、後に広島·長崎に投下された、世界初の原子爆弾の模擬爆弾であること、当初は、新潟もその候補地であった為、気象条件も似た富山が選ばれ、時間帯も朝に設定されていたとのことです。
その為、当地域では、通勤途上の十数人が犠牲となられ、また負傷者も多く出ました。
 当町内では、奇跡的に犠牲者はありませんでした。負傷者は、数名あったようです。
 しかし、家屋にも焼失した家、屋根も床も抜け柱だけの家や半壊の家が多く出ました。
 又、遠く離れた「小学校」の南向き窓ガラスはすべて割れ、破片も屋根·床を貫通していたようです。又、工場のスレートも多く破損しました。
 その爆風の威力は、田んぼの稲もまるで刈り取ったかのように、根元から綺麗に何處かに消し飛んでしまったと、翌日の新聞が報じています。
 跡地には、大きな窪地ができ、数年間に亘り直径十五メートルを超える池となり、筏を浮かべることもできました。
 これは、長崎に投下されたものと同じ形状であること·色合いが黄褐色でもあり「パンプキン」と云われていました。

爆弾の大きさ
直径:1.5M
長さ:3.5M
重さ:4.5トン

被爆後の空撮写真には、
1の現在地には、明らかに爆弾の跡に水がたまっているのが、はっきりと写っています。
窪地を年々埋めて現在のようになりました。
2は、中田八幡社の元の場所で、森地内の投下場所とほぼ等距離にあった為、被災しませんでした。
昭和31年に、全体を持ち上げて、コロ引きで、現在地まで移設遷座されました。
その後、経路沿いに植樹して、現在の桜並木になりました。

爆撃により発生した大きな窪地

爆心地の裏手にある不二越の工場。
ちなみに不二越のブランド名「NACHI」は、那智熊野大社に由来する富山発祥のメーカー。
もともとは、不二越を目標にした爆撃であった。

中田八幡

場所:

https://maps.app.goo.gl/kA6FDoP8nMExcaqL7


上記の東岩瀬の爆心地の最寄り駅。

東富山駅

あいの風とやま鉄道(旧・JR北陸本線)の駅。
明治41年(1908年)開業時は「東岩瀬駅」。
昭和13年に「不二越鋼材工業株式会社東岩瀬工場」が駅近くに設置され、工業地帯への貨物駅も担うことになった。
戦後の昭和25年に富山港線の越中岩瀬駅が東岩瀬駅へと改称することになり東富山駅に改称。

西口駅舎本屋は1908年(明治41年)9月竣工。

レンガ倉庫。
かつては、駅灯室として用いられ、駅本屋と同じく、1908年(明治41年)9月築。


平和祈願之碑

7月26日、富山市での2回目となる「模擬爆弾」が投下されたのが、「富山市豊田地区」であった。

平和祈願之碑

大東亜戦争被爆地の記
一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました。
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません。
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します。
 一九八八年(昭六十三年)七月二十六日

昭和六十三年七月建之
犠牲者の遺族が自費で建立した「平和祈願之碑」。
当地で犠牲になった鈴木善作・レツ夫妻ら住民16人を悼み、善作氏の息子である故・善蔵氏が1988年、着弾地から数十メートルの所有地に退職金を元手に建立。内部には爆弾の破片と防空頭巾が収められたという。

総務省>追悼施設
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_004/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/p3sKeQFoFVbNrq2Y9

帰路は富山港線ポートラムで富山駅に。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策6 へ


富山関連

模擬原爆関連

砲身を台座とした「利田忠魂碑」(富山の戦跡散策4)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その4では、「砲身を用いた忠魂碑」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山駅から東に約10キロ。
富山県中新川郡立山町の利田小学校脇にある「利田忠魂碑」。
バスの場合は、富山駅から日置バス停で下車して、そこから歩きで、ざっくりトータル1時間ほどで到着。


利田忠魂碑

青の砲身と金の地球と金の鷲
みたまやすらかに、と、忠魂碑に合掌

建立の由来
大正十三年
利田忠魂碑は利田村民の総力により戦没者のみたまに感謝の誠を捧げんと建設費二千八百円(当時の村年予算二千円)の巨費と四百六十人の奉仕によって建設される
上部は日本海海戦に武勲をたてし志保丸の砲身で長さ七・二米、重さ六・七屯、海軍軍人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から払下げに努力されたものである。
昭和十四年
蘇我の藤田金太郎翁が砲身の上に地球と鷲を寄贈される
昭和四十三年
明治百年を記念し大改装を行い追悼法要を執行する
平成三年八月
利田小学校グランド整備のため現在地に移転建設する

忠とはまごころ いつわりのない心 まことの心である
合祀する六十五柱のまごころに感謝し
永遠の平和を祈念するものである

合祀する六十五柱のまごころに感謝し永遠の平和を記念するものである
 平成三年八月吉日
  利田自治振興会

碑文中に出てくる「志保丸」という艦船は、日本海海戦時には海軍には存在しておらず、調査の結果、戦艦「安芸」の砲身が下附されたともいわれている。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/1339942?page=2

ん?戦艦安芸??となると、砲身の忠魂碑(慰霊碑)は、兵庫西宮の鳴尾八幡でも拝見してましたが、そちらも戦艦安芸という話が伝承されている。。。

「金鷲輝く 日本の 栄ある光 身に受けて」、、、あっ金鵄か、国民歌「紀元二千六百年」は。

場所

https://maps.app.goo.gl/o1xFzDnWAQQWJWPbA


行き帰り

バスは休日は2時間に1本程度。

行きは良いけど、帰りのバスが無いので、越中三郷駅まで50分くらい歩きました、地方あるあるです。

富山地方鉄道

越中三郷駅

ちょうど、電車が入線して、行ってしまいました。。。

これは良い佇まい。

昭和6年(1931年)開業。

「鐵電山富」「驛鄕三」
開業時の社名で右書き

予備知識無しで訪れましたが、これは良い。歩いて正解でした。

「みさと」ではなく、「さんごう」

ぼーっと、無人駅で一休みする時間も良いものです。

富山駅に戻ります。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策5 へ


関連

富山県忠霊塔・富山陸軍墓地(富山の戦跡散策3)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」、その2の「富山歩兵聯隊」関連の戦跡に次いで「富山陸軍墓地」に赴いてみました。


富山の戦跡散策1


富山歩兵聯隊跡のある富山大学前から、シェアサイクルを活用して、一気に「富山陸軍墓地」へ。
富山市の西にある呉羽山。その呉羽山の南東に富山大学、北東に「富山陸軍墓地」という位置関係。


富山県忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

富山陸軍墓地は市営長岡墓地にある。現在は「富山県忠霊塔」。
陸軍墓地として個人墓はなく、忠霊塔と3つの合葬碑が残っている。

富山県忠霊塔の沿革について
 明治四十一年、歩兵第六十九連隊が富山で編成され、同隊の公傷病死者の分骨を埋葬する「陸軍墓地」が、この富山市北代の地に設けられました。その後、各戦役ごとに「忠魂碑」が建立されて、陸海軍戦没者を合葬されております。
 向かって中央の「忠霊塔」は昭和十六年十月に建設されましたもので、昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬してあります
 向かって右の一番目の碑は、昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立されました。
 向かって右の二番目の碑は、昭和十年から同十二年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬してあります。
 忠霊塔の向かって左の碑は、歩兵第三十五連隊が富山に移駐したため、金沢陸軍墓地に合葬してあった、日清日露戦役の戦死者の分骨を富山に移されたもので、昭和八年に建立されたものであります。
 これら旧陸軍墓地の合葬者は二八七四八柱にのぼっています。
 現在ご英霊に対しましては、富山県遺族会によりまして毎年八月に、慰霊祭が厳修されております。
 ご英霊の永遠のご冥福をお祈りします。
  平成九年七月吉日
   寄贈 社団法人 日本郷友連盟富山県支部

中央に忠霊塔
むかって右に上海事件陣歿者合葬碑、
むかって左に、満州事変陣歿者合葬碑と陣歿者病死者合祀碑がある。


忠霊塔(旧富山陸軍墓地)

「忠霊塔」は、昭和十六年十月に建設。
昭和十二年七月よりの日華事変関係戦没者四七八六柱を合葬し、以来、太平洋戦争の戦没者を合葬。

2023年に改修工事があり、忠霊塔は安全面を考慮し、建立時の14メートルから9メートルに低くなった。

合掌
みたまやすらかに

2023年の改修工事の際に、銘板には高岡銅器を使用。


陣歿者病死者合祀碑(旧富山陸軍墓地)

大正14年5月に歩兵第35聯隊が、金沢から富山に転営したため、金沢陸軍墓地に合葬されていた日新日露戦争の戦死者の分骨を、富山に移されたもので、昭和8年9月に建立された。

陣歿者病死者合祀碑
陸軍中将 荒蒔義勝書

荒蒔義勝は、昭和7年(1932年)9月から昭和9年8月までに第9師団長であった。第9師団は北陸3県(富山・石川・福井)を管轄。

大正14年5月転営
昭和8年9月建之


上海事件陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和七年第一次上海事変戦没者一四八柱が合葬され、同年十二月に建立。

上海事件陣歿者合葬碑
陸軍中将 植田謙吉 書

昭和4年(1929) 支那駐屯軍司令官、昭和5年12月に第9師団長となる。第9師団長在任中に、第一次上海事変勃発し出動。停戦交渉中の昭和7年(1932)4月29日の天長節爆撃事件により左脚を失う重傷を負う。上海事件陣歿者合葬碑は、第9師団長として揮毫している。

昭和7年12月建之


満州事変陣歿者合葬碑(旧富山陸軍墓地)

昭和10年から同12年にわたる、第一次満州事変に従軍された、歩兵第三十五連隊の戦没将兵五八柱の分骨を合葬。昭和12年5月建立。

満州事変陣歿者合葬碑
陸軍中将 蓮沼蕃 書

蓮沼蕃は石川県出身。陸大兵学教官時代の教え子が栗林忠道であった。
昭和10年8月から昭和14年8月まで第9師団長。その後、最後の侍従武官長を終戦まで務めた。

昭和12年5月建之


石灯篭(旧富山陸軍墓地)

陸軍星の五芒星が刻まれた石灯篭

これは何だろう?

昭和8年3月1日建之


旧富山陸軍墓地入口

富山陸軍墓地の入口。

大灯篭

昭和12年奉納

手水石も陸軍星の五芒星、昭和12年奉納

門柱

場所:

https://maps.app.goo.gl/qSyiVWewrN2ZSANF9

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策4 へ


関連

富山歩兵聯隊跡(富山の戦跡散策2)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、その1の「富山縣護國神社(富山県護国神社)」に次いで、「富山歩兵聯隊」関連の戦跡を巡ってみました。


富山の戦跡散策1


富山の歩兵聯隊

明治29年(1896年)、石川県野田村(現在の陸自金沢駐屯地)に「歩兵第35聯隊」聯隊本部を設置。
明治40年(1907年)、「歩兵第69聯隊」が歩兵第7連隊(金沢)及び歩兵第35聯隊(石川)内に設置。
明治41年(1908年)、「歩兵第69聯隊」が石川から富山の東呉羽村に移転。
大正10年(1921年)、「歩兵第69聯隊」は富山からシベリア出兵。七尾港からシベリアに出征。
大正14年(1925年)5月、宇垣軍縮により富山「歩兵69聯隊」は廃止。「歩兵第35聯隊」が金沢から富山に転営。「歩兵第69聯隊」の600余名は、新たに富山に配属された歩兵第35聯隊に編合。

歩兵第35聯隊
昭和7年(1932年)「歩兵第35聯隊」は第一次上海事変に出征。
昭和12年(1937年)「歩兵第35聯隊」は第二次上海事変に出征し、南京追撃戦の第9師団の主力として活躍。その後、徐州会戦などに参戦し、昭和15年からは満洲駐屯。
昭和19年(1944年)7月、沖縄に移駐し防御陣地の構築に参加。11月に台湾に移駐し、終戦を迎えている。

歩兵第69聯隊
昭和12年(1937年)動員され、第109師団隷下。
昭和15年(1940年)再動員され、第52師団隷下。
昭和17年(1942年)大本営予備として待機
昭和18年(1943年)トラック島に進出、防御陣地構築にあたり、そのままトラック島で終戦を迎える。


富山歩兵聯隊跡

富山市五福の県営富山野球場のちかくに、記念碑が建立されている。
現在の富山大学五福キャンパスから県営野球場のあたりが、富山歩兵聯隊の地であった。

富山歩兵聯隊跡

題字は、瀬島龍三氏。
瀬島龍三氏は、富山県出身。陸士44期次席、陸大51期主席。最終階級は中佐。太平洋戦争のほとんどを陸軍参謀本部部員として陸軍中枢の作戦担当にあたった人物。
戦後は伊藤忠商事会長、亜細亜大学理事長、中曾根康弘首相顧問などを務めた。

この地は明治41年5月より昭和20年10月まで37年間、越中飛騨信濃等の青年が入隊し錬武に励んだところである
 題字 瀬島龍三 書
 昭和53年8月19日建之
富山聯隊跡地記念碑建設協賛会


本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地

昭和20年(1945年)4月に本土決戦に備えて創設された陸軍聯隊の動員編成地。

1945年(昭和20年)4月2日、第209師団が創設され、第209師団所属歩兵第514聯隊(加越第21613部隊・加越第3部隊)が動員された。
第209師団は機動打撃師団として、上陸してくる敵に対し、「地上特攻」総攻撃すべく水際殲減決戦部隊であった。
富山大空襲では、隊員25人が爆死している。

本土決戦機動兵団歩兵第514聯隊動員編成跡地
歩共第514聯隊(通称加越第3部隊)(富山市)の創設記念碑文

 昭和20年終戦目前の4月、本土決戦(米軍本土進攻)準備のため、陸軍において8個の機動師団が動員され、その款下に第1総軍、第12方面軍 第36軍(浦和)、金沢師管区では第209師団が編成され、その隷下部隊として 步兵第514聯隊(通称加越第3部隊)総勢4368名が富山市に創設された。
 機動師団の特質は、師団を拳げて、一意怒涛の「地上特攻」総攻撃を連続不断に実施し、上陸してくる敵を水際において殲減すべき決戦の思想のもと、皇士防衛の重大任務を帯び、穿貫戦力を保持するため、兵は、昭和19年懲集の19歳から20歳の現役兵を主力とし、下士官は25歳以下とし、小隊長は、全員、予備士官学校卒業直後の見習士官を当て、中隊長並びに将校は年齢30歳以下、大隊長は、陸軍士官学校区隊長(現役将校)より赴任し、各方面軍の優秀戦歴者を現地から充用し、当時陸軍では最も若い年龄の最精銳で編成された。
 4月27日動員第1日、富山聯隊兵営(現国立富山大学)から5月5日次の各分駐所べ移駐した。聯隊本部及び直轄中隊の聯隊砲中隊·通信中隊·作業中隊·乗馬小隊は、富山男子師範学校(現富山市立南部中学校)及び西田地方国民学校(現市立西田地方小学校)へ、
第1大隊は安野屋国民学校(現富山中部高校校庭)及び県立神通中学校(現県立富山中部高校)
第2大隊は、私立大谷女学校(現機部町公園)及び星井町国民学校(現富山市角川介護予防センター)へ
第3大隊は、県立富山中学校(現県立富山高校)へ移駐
 5月5日及び5月25日の2回にわたり、現役初年兵入隊。5月12日第209師団長初度巡視を神通中学校て受閲、聯隊は編成定員を充足し、将兵一同強固な団結のもと、日夜重大任務の即戦必須の猛訓練に邁進。
 6月19日軍旗親授式が宮中で拳行、大元帥陛下御手づから聯隊長陸軍中佐力石勝寿、聯隊旗手陸軍少尉山口重信に親授され、荘重にして御力強い勒語を賜る。6月21日神通中学校按庭において、軍、官民、国防諸団体、学生ら県民総参加で、軍撰奉拝式を盛大に挙行。8月1日第36軍司令官初度巡視·検開を呉羽山練兵場で受閲。
 8月1日深夜~2日未明にかけて、B29爆撃機170余機(米軍戦術任務報告書)による富山市への大空襲時、聯隊各分駐所は富山中学校以外は全焼し、隊員25人が爆死した。焼実弾の猛火の中、聯隊旗手山口重信陸軍少尉は、師範学校裏の 冷川の中で天佑神助無事軍旗泰安の任を果たす。
 聯隊は、空襲後富山中学校及び校庭に集結するも、本土決戦の重大任務のため8月3日一面の焼野原となった富山市を後に、転進地下新川郡の16ヶ所の各国民学校、光闡寺に移駐したが、戦況は米軍進攻の危機が急迫し、聯隊は、引続き本土決戦に即応すべく必須の訓練に邁進した。8月13日決号作戦警戒命令発令され将共士気旺盛なりしところ、突如運命の8月15日終戦(聯隊本部、三日市国民学校·現黒部市役所)、8月25日 軍旗奉還式を挙行(三日市国民学校)、軍旗は8月29日に陸軍省へ奉還した。聯隊は9月3日復員下令され、三日市国民学校において解散式を挙行し、9月5日解散した。聯隊は、決戦地域関東に赴くことなく創設から5ヶ月で青史を終えた。11月中旬兵器弾薬一切は残留部隊が立野ヶ原演習場廠舎(現城端·福光地区)において進駐軍(司令部富山電気ビルに駐屯)に引渡しを終了した。
 戦後平和の礎に、昭和の大戦末期において国家存亡の危機に直面し、終戦·占領·独立·復興を経て平和日本への史実があったことを後世に伝える。
  平成27年4月27日(動員編成70周年記念日)
   公益財団法人借行社 富山偕行会
   一般社团法人日本郷友連盟 富山県郷友会
   防衛大学校同窓会北陸地区支部

機動兵団歩兵第514聯隊創設記念碑 建立誌
 聯隊旗手山口重信陸軍中尉(昭和20年8月20日昇任)は97才でご健在であり、終戦後70年の節目にあたり、当時の米軍本州上陸が差し迫り、日本が土壇場の中、富山で聯隊が編成された歴史を後世に伝えようとの声が彷彿と上がり、当時の憂国と明日への希望の思い出を留め、新たなる日本、新たなる北陸、新たなる富山の建設の思いの礎としたく、記念碑建の隣の旧歩兵第35聯隊碑傍地に記念碑を建立したものである。
(以下、記念建立委員会名簿及び建立協賛及び賛同団体名・会社名・個人名などは略)

県営富山野球場

富山地方鉄道富山市内軌道線呉羽線

富山縣護國神社の最寄りとなる「安野屋」から、歩兵聯隊跡地となる「富山大学前駅」まで、路面電車を活用。

ちょうど居合わせたのが「7018号」
富山地鉄の路面電車7000形で唯一、登場時からのクリーム色と緑の「旧塗装」を維持している車両。

富山大学前電停の近くにあったシェアサイクルを活用して、その3では、陸軍墓地に訪問します。

場所:

https://maps.app.goo.gl/c3vayBNuBCaSq1br8

※2025年9月撮影


富山の戦跡散策3 へ


関連

富山縣護國神社(富山の戦跡散策1)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
初の富山県散策、まずは「富山縣護國神社(富山県護国神社)」から。


富山縣護國神社(富山県護国神社)

富山縣護國神社は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争までの戦没者を祀る。また、境内の伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。

明治45年(大正元年・1912年)3月に「富山縣招魂社」として設立が認められ、翌年の大正2年(1913年)8月に竣工、9月18日に鎮座式が執り行われた。
昭和14年(1939年)4月1日、全国の招魂社が護國神社に改称されるにあわせて「富山縣護國神社」に改称。
昭和20年(1945年)8月の富山大空襲で手水舎など一部を残して社殿焼失。
昭和22年、「富山縣鎮靈神社」と改称し、仮殿竣工。
昭和26年10月24日、「富山縣護國神社」に復称。
昭和29年10月20日、現在の社殿の竣工となる。

https://www.toyama-gokoku.jp/concept/

 私達の祖國日本は、幕末以來、幾多の戦役を經験してまゐりました。そして、その折、澤山の方々が國の爲、又、家族、郷土の為に、世界の平和と共存共榮を祈りつつ、尊い命を棒けられました。

 ここ、富山縣護國神社は、それらの方々の御靈を尊んで、「御英靈」とお呼びし、神さまとしてお礼り申し上げてゐます。
 現在、日本の國が平和で、何不自由なく暮せるのも、ひとへに、諸英靈の大きなお守りのおかけであることを私達は決して忘れてはなりません。
 御英靈に感謝の
 まことを棒けませう
 どうぞ、手水舎にて身心を清められ、神さまのおそば近くで御參拜下さい。


大灯篭(富山縣護國神社)

昭和13年4月の建立。富山空襲の難を逃れた。

富国徴兵保険相互会社、世相を感じる会社。

大灯篭のレリーフ。
靖國神社の大燈籠の基壇部分日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が、陸海軍それぞれ7面描かれているが、そのなかから「日露戦争奉天入城式」(左)と「日本海海戦の戦艦三笠艦橋の東郷元帥」(右)を、靖國神社の許可を得て、奉掲。


御社殿(富山縣護國神社)

広々とした境内。参道が折れ曲がっている。

清々しい神域

大拝殿

みたまやすらかに
参拝

旧社号標

「富山縣招魂社」

昭和10年7月建之、富山大空襲の難を逃れた。

昭和12年3月10日再建とある鳥居


御朱印(富山縣護國神社)

御朱印。「忠魂不滅」
遺詠は、お祀りされている高田豊志命が御家族に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上様」宛の歌

忠魂不滅
 遺詠
  夢にだに忘れぬ
   母の涙をばいだきて
   三途の橋を渡らむ

 この御朱印に書かれてる歌は、富山縣護國神社にお祀りされてをります高田豊志命が御家族様宛に遺言としておくられた最後の手紙の中の「母上さま」宛とした歌でございます。
 高田豊志命は昭和二十年五月十三日、飛行第二十戦隊陸軍伍長として台湾宜蘭基地を出撃、沖縄本島西海岸に群がる米艦船に体当たりし散華されました。
 父豊次郎さんが、八十歳になられた時、戦後久しく仏壇に収められてるた白木の箱の中に「うた日記」を発見されました。この「うた日記」には、高田豊志命が昭和十八年の三月から二十年の四月まで、毎日和歌を作ることを志し、和歌七八三、俳句十七、詩文九が書き綴られてをりました。この「うた日記」は遺芳館に展示されてをります。


伊佐雄志神社(富山縣護國神社)

伊佐雄志神社として、富山大空襲での戦災死された御霊、公務殉職者、神社関係者の御霊を祀る。


遺芳館(富山縣護國神社)

御英霊の遺書や遺品を展示。

見学を。

奉納模型

幣帛料など。

富山大空襲
昭和20年8月1日、死者約3,000人、負傷者約8,000人。

朝倉豊次海軍少将の軍装
朝倉豊次は、富山県出身(現在の黒部市前沢の出身)
富山県出身の唯一の閣下(海軍少将)
海兵44期48番卒業
太平洋戦争開戦時は重巡洋艦「高雄」艦長。1943年12月に、戦艦「武蔵」艦長(第三代艦長)。
1944年5月に海軍少将に昇進、8月に武蔵艦長を猪口敏平大佐に引き継ぎ、南遣艦隊参謀長を経て、第10方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長として昭南島(シンガポール島)で終戦を迎えた。
終戦後は、富山に戻り、黒部市の初代教育長を務めている。

天に星 地に花 人に愛

左は、山崎定義陸軍中将の軍装
山崎定義は、富山県出身(現在の富山市)
名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業。金沢歩兵第35聯隊勤務。日露戦争では小隊長として出征し、旅順包囲戦で負傷。
1910年、陸軍大学校(22期)卒業し、陸軍歩兵学校勤務。
桜歩兵第57連隊長や東京歩兵第2旅団長などを務め、1934年に陸軍中将昇進し待命、予備役編入。
1936年に富山市長に就任。1940年に市長を退任。


聖帝四代御製碑建立の記

聖帝四代御製
明治天皇御製
 世とともに 語りつたへよ 國のため 
  命をすてし 人のいさをを

大正天皇御製
臨靖国神社大祭有作
武夫重義不辞危 
想汝従戎殞命時 
靖国祠中嚴祭祀 
忠魂萬古皇基

昭和天皇御製
爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ 
いくさとめけり 身はいかならむども

今上天皇御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
平らけさせき世を 願いあゆまむ

 富出縣護園神社が御創立百周年を迎え 、しづかに戦歿御英霊のおこころをおしのび申し上げ、その精神が青少年の教育の基本となることを願ひつつ、御創立百周年記念大祭を齋行し、そしてその記念大祭を更に意義あらしめる為に、明治天皇、大正天皇、今上天皇が我国の為、散華された御英霊の遺徳を偲び、或は、国民の上を思ひ遣り給ひてお詠みなられました御製・ 御製詩を石に謹刻申し上げたのであります。
 この『 聖帝四代御製碑』が、これからの日本を擔ふ青少年諸君を始め縣民全ての精神的指針となり、祖國日本の復古維新の源となることを祈念してやまないのであります。
    富山縣護園神社
      宮司 栂野守雄


拓魂

富山県出身の満蒙開拓殉難者1千4百余柱の慰霊顕彰碑。

建立の由来 
満蒙開拓の事業は 昭和7年に始まり 終戦まで重要国策として進められ 本県からは 県選出の開拓団並びに青少年義勇隊 報国農場等合せて5千5百余名の多数の同志が入植していた 私達開拓者は 故国を離れ 満蒙の地に民族の先達として 不屈の精神をもって五族協和の道義世界建設の理想に燃え 新天地の開拓に精進していた しかるに敗戦という冷厳なる事実に直面し 言語に絶する民族の悲劇に遭い 1千4百余名の将来ある生命が絶たれた かって日本の生命線と呼ばれた彼地に 雄図空しく斃れた非命に痛恨の情が尽きない 開拓の精神は創意発展の神髄であり 真理探究の道である 諸君の悠久の生命を信じ 遺志を無にすることなく 恒久平和への道標としてここに合祀し 碑を建立して 道義日本の将来を祈念するものである
  昭和51年8月 建立
   富山県満蒙開拓引揚者一同


馬魂碑

陸軍歩兵第69聯隊の軍馬慰霊顕彰碑。
富山大学の地は、陸軍歩兵聯隊の軍用地、であった。のちほどで訪問しますが、後述。

碑歴
旧陸軍歩兵第69連隊時代の建立になる馬魂碑は、戦後長い歳月その所在が明らかでなかったが、昭和51年3月富山大学構内整備作業中発見
 ここ護国神社境内に移設し永くその魂の安らかんことを祈る
   昭和51年8月11日 (再建)
     富山県馬術連盟会長 平野平好
     富山県馬事振興会会長 松村清年


つばさの塔

富山県出身陸軍少年飛行兵の戦没者48柱の慰霊顕彰碑

つばさの塔
 昭和9年2月に誕生した陸軍少年飛行兵は同20年8月の終戦に至るまで 航空部隊の中核として約3万人が巣立ち 富山県からも多くの紅顔の少年たちがこれに参加した
 顧みれば 支那事変や大東亜戦争で 祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら 尊い命を捧げられた多くの人たちが思い出される
 なかでも 14歳で志願し 17歳で出陣して 大空の決戦場に花と散った陸軍少年飛行兵の至純な姿を忘れることはできない
 日本の空に 平和が訪れて既に26年 かって苦楽を共にした われわれ生存者相集い今は亡き 郷土出身の友を偲び 心からその栄誉と崇高な精神を讃え 永く後世に伝えるとともに 世界永遠の平和と人類の福祉を祈念して ここに「つばさの塔」を建立する
  昭和46年6月13日
   元陸軍少年飛行兵 富山県内生存者一同


嗚呼 海原よ 大空 に

海軍甲種飛行予科練習生の戦没者の慰霊顕彰碑

神風特別攻撃隊第五七生隊
海軍大尉森丘哲四郎辞世
ちはやふる 
 神の持たせる
  命なり 
砕きて守れ 
 大君と國
  同期 千玄室謹書

富山県黒部市出身の森丘哲四郎氏は海軍飛行14期予備学生
裏千家家元であった千玄室が同期であった。

連合艦隊告示(布)第一〇九号
布告
海軍少尉森丘哲四郎外二十六名神風特別攻撃隊第五七生隊員トシテ昭和二十年四月二十九日勇躍出撃沖縄本島東方約六五浬附近ニ於テ航空母艦四隻戦艦三隻ヲ基幹トスル有力ナル敵機動隊ヲ捕捉相続イテ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ克ク其精華ヲ発揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
 昭和二十年六月十日
  聯合艦隊司令長官 小沢治三郎


金鵄勲章碑

金鵄勲章受勲戦没者の慰霊顕彰碑

金鵄奉献
 金鵄勲章は明治23年2月11日勅令をもって制定せられ戦場における武功抜群の軍人にのみ授与せされた国家最高勲章であります。
 御英霊は国家の興亡に際し身命を捧げて護国の華と散られたものでその武勲は悠久不滅でありよき平和日本の礎を築かれたことは厳然たる事実であります。国民は斉しくご英霊の至誠に応え崇敬の誠を捧げなければなりません。
 ここにご英霊の鎮魂を慰めその勲を顕彰し併せて金鵄の尊厳を後世に伝え国運の隆昌を祈念するためこの碑を奉納いたします。
 敬白
  昭和53年10月吉日
    富山県金鵄会

金鵄勲章のレリーフ


建国記念塔

建国の日 2月11日


パール判事の碑

不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい
印度国判事
ラダビノード・パール


明治百年記念

碑歴
明治維新の大業成り明治改元より百年を迎えるに当たり不滅の偉業と恩恵を讃えその精神と教訓を今に生かし世界的視野のもと新世紀に臨む決意を確固とし次代へ継承し限りない希望をこめ富山市大場町奉納の安政の大鳶崩れに流出と伝えられるこの巨石に刻してこれを建立する
 明治43年4月吉日 
  明治維新百年富山縣護國神社記念事業実行委員会


天皇皇后両陛下御親拝記念碑

昭和33年10月19日の御親拝


第一次世界大戦従軍記念碑

第一次世界大戦において青島に出兵した戦没者の慰霊顕彰と従軍者を顕彰する碑

大勲位守正王御諚
  國護る自衛の躾道義心
 第一次世界大戦従軍記念碑
 山東省青島
   ビスマルク兵舎駐屯

國のため 朽ちて流れん みなと川 来くむ人の あれを悟りて
 昭和44年1月11日 建立


噫 ニューギニア

ニューギニアに出征した富山県出身の戦没者の慰霊顕彰碑

ニューギニア島を思わせる形をした碑石


嗚呼 トラック諸島

トラック諸島にて戦没された御英霊200余柱の慰霊顕彰碑

 大東亜戦の様相益々苛烈を極め、南方戦域死守の要いよいよ急を告げる昭和18年秋、精鋭を誇る我が聯隊及び師団司令部は中部太平洋トラック諸島に急派された。
 遠征途次、南海に幾度か魚雷・空爆の猛襲を受け乍ら救援のため、サイパン島を迂回した第2陣と一丸となり、海軍と密に連携して夏島を中心とする各島に分散配置した聯隊は、敵の制海・制空により補給途絶・孤立無援の戦況下、連日の凄惨執拗な艦・空爆撃を受け、人間生存の極限とも思える飢餓及び、特有の悪疫を克服し乍ら玉砕の覚悟を以て、遂に敵の攻略を許さなかったのである。
 しかし乍らこの大任遂行中、酷熱の赤道間近に於いて戦歿された御英霊が200余柱の多きに達したことは、痛恨の極みである。
  嗚呼悲壮なるかな!!
 戦後正に40年、嘗ては死生血涙を共に苦闘を続け今は亡き戦友のご冥福を祈ると共に、涙を呑んで散華なされた南溟の空を仰ぎ、鎮魂の誠を捧げるためゆかりのある聖域にこの碑を建立した。
   昭和60年12月8日
    金沢第52師団司令部 富山歩兵第69聯隊 トラック諸島戦友会

お知らせ
 1 碑文の裏面にトラック諸島の位置を表示してあります
 2 碑の正面下にトラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型と、その上に墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石を添えてあります
 3 碑に正面した方向(南南東)にトラック諸島が在ります。機会ある毎に遥拝し英霊をお慰めして下さい

トラック諸島夏島に現存する「戦没者の墓」の1/5の模型

墓石を用いた玄武石(現地より持参)の原石


皇太子殿下御降誕記念

陸軍大臣の林銑十郎の謹書
昭和8年12月23日に、 明仁さまが御降誕あそばされた。


紀元二千六百年記念

昭和15年(1940年)は紀元2600年。


支那事変記念

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から始まった支那事変の戦没者慰霊顕彰碑。
昭和14年に建立。
歩兵第35聯隊の第22代聯隊長の川久保鎮馬による揮毫


大正天皇御製 登呉羽山碑

大正天皇御製 登呉羽山
皇太子時代の明治42年(1909)に呉羽山に登られた。

珍しい漢詩の御製

登呉羽山
雨後風無秋気温 (雨後に風無くして秋気温かく)
呉羽峻阪留履痕 (呉羽峻阪にして履痕を留む)
維昔秀吉進征旆 (維れより昔秀吉進みて旆を征し)
敵将力窮降軍門 (敵将力窮まりて軍門に降る)
吾来此地見形勢 (吾此地に来りて形勢を見れば)
中越全景眼中存 (中越の全景眼中に存り)
立岳衝空向東聳 (立岳空を衝き東に向かいて聳え)
神通水漲指北奔 (神通水漲り北を指して奔る)
兵営一路連城中 (兵営一路城中に連なり)
海湾直接罷亞原 (海湾直に罷亞原に接す)
眺望如此難多得 (眺望かくの如く多く得ること難からん)
真是北国好公園 (真に是れ北国の好き公園なり)


陸軍省境界杭(陸軍省境界標石)

境内の一画に、陸軍の境界標石(境界石・境界杭)がまとめられている。

片側には「陸軍省」、もう片側には「疆界」

「疆界」の境界は珍しい、あまり見かけない。

上から

奉納砲弾も残る

富山縣護國神社
静謐な凛とした神域を保たれた良きおやしろでした。
ありがとうございます。

※撮影:2025年9月


富山の戦跡散策2 へ


関連

「二引の旗章」信濃丸サロンチェアと「青い目の人形」(横浜・山手資料館)

「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」
そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運んでみた。


信濃丸

日本郵船の貨客船「信濃丸」
日露戦争に際しては、仮装巡洋艦として哨戒中にバルチック艦隊を発見し、日本海海戦での日本海軍の勝利に貢献した。

信濃丸は日本郵船の貨客船として1900年4月に竣工。
竣工後は欧州航路に就航したが、1901年にシアトル航路に転用。1903年には信濃丸で、永井荷風が渡米している。

1904年2月6日、日露戦争開戦。信濃丸は当初は、陸軍御用船として徴用されたが、12月に徴用解除。翌1905年3月15日に海軍に徴用され、呉鎮守府所属の仮装巡洋艦として整備された。仮装巡洋艦として十五栂安式速射砲1基、十二斤安式速射砲3基が兵装された。
信濃丸は、4月に対馬海峡に移動し、哨戒任務にあたった。
1904年5月27日午前2時45分、信濃丸は五島列島沖合を北東方面に向かって航行中に1隻の汽船・病院船「アリヨール」を発見。
「アリヨール」に接近し回り込んだ結果、バルチック艦隊の列に入り込むかたちとなり、午前4時45分。信濃丸は直ちに転舵し、全速力で退避。
三六式無線機にて「敵艦見ユ」として知られる一連の通報を送信しバルチック艦隊が確実に対馬海峡を目指していることを伝え、6時過ぎに巡洋艦「和泉」に引き継ぐまで触接を続けた。

翌5月28日、信濃丸と台南丸、八幡丸の仮装巡洋艦3隻は、沖ノ島北方海上で哨戒を行い、戦艦と駆逐艦を発見。八幡丸が駆逐艦を追跡し、信濃丸と台南丸が戦艦に接近すると、戦艦は前日の日本海海戦で大破損傷した「シソイ・ヴェリキィー」海防戦艦であった。
「シソイ・ヴェリキィー」は降伏し、乗員は信濃丸と台南丸が救助。「シソイ・ヴェリキィー」は曳航を試みるも浸水が止まらずに沈没。
6月、信濃丸は仮装巡洋艦としての役目を解かれ、徴用解除となった。

徴用解除後の信濃丸は、シアトル航路に復帰。のちに、神戸基隆航路に転じ、1913年の孫文亡命の際は、信濃丸に乗船している。

第一次大戦では徴用から免れ、1923年に日本郵船の近海航路部門が独立し「近海郵船」が設立。神戸基隆航路は近海郵船に継承され、信濃丸も移籍し、引き続き神戸基隆航路に就航した。

1929年に「北進汽船」に売却。1930年に「日魯漁業(ニチロ)」に売却され、蟹工船に改装。1932年に「太平洋漁業」に売却され、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用。

1941年12月に勃発した太平洋戦争では、輸送船として徴用。水木しげるも陸軍兵士として乗船していた。
1943年に「太平洋漁業」が「日魯漁業」に合併。信濃丸の所属は再び「日魯漁業」となった。すでに船歴40年近い老朽船であったが、無事に戦争を生き延びた。

戦後は、引揚船として、シベリアからの引揚者の輸送に従事。大岡昇平も同船で復員した。

1951年に船籍解除。スクラップとして売却解体された。
日露戦争と第二次世界大戦と2度の徴用を受け戦没せずに戦後まで生き延びた「信濃丸」は、激動の51年の長き生涯を誇った強運船であった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Japanese_AMC-Shinano_Maru.jpg


信濃丸サロンチェア

「二引(にびき)の旗」が彫られた重厚な椅子。

白地に引かれた二本の赤いライン
通称「二引の旗章」
日本郵船のシンボル

1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社(岩崎弥太郎)は、国内の競争相手であった共同運輸会社(渋沢栄一)と合併し「日本郵船会社」が誕生する。
当時の日本海運界を代表する三菱会社と共同運輸の二社が大合同したことを表すとともに、日本郵船の航路が地球を横断するという決意を示していた。

https://museum.nyk.com/history.html

https://museum.nyk.com/permanent_exhibition.html

信濃丸の椅子は、横浜の「山手資料館」とレストラン「馬車道十番館」に残されている。
「信濃丸」のサロンで使用されていたものを、廃船時に譲り受けたもの。

https://museum.nyk.com/kouseki/200110/index.html

あら、青い目の人形さん。
青い目の人形も戦争に関連する史跡(戦跡)のひとつ、ですね。

山手資料館

馬車道十番館に行くことがあれば、写真を追加するかもしれませんが、いったんはこれで。


青い目の人形

信濃丸の椅子に座っていた人形。
「青い目の人形」

日米親善のため海を渡った人形。
1927年(昭和2年)に日米関係の悪化を憂いたアメリカの牧師ギューリック博士らと渋沢栄一が中心となり、友情の証としてアメリカから日本の子供たちへ贈られた約1万2000体の人形。

※深谷駅前の「渋沢栄一からくり時計」

人形をとおして相互の友情と交流を図り、日米両国民の理解と親善を深めようとして日本に贈られ、善意の人々の想いを抱いた「平和の親善大使」。
米国から日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼として日本から米国に贈ったのが「市松人形」であった。

しかし、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、アメリカは「敵国」とされ、人形は「敵国の人形」「スパイ人形」としてみなされるようになりました。その結果、多くの人形が竹槍で突かれたり、焼却されたり、池に沈められたりして処分される悲劇もあった。
現在日本に残っている人形は、当時の先生や子供たちが校庭の隅や床下などに隠して守り抜いたごく一部(全体の約3%)という。


※撮影:2026年5月


関連

納豆売りから海軍軍令部次長へ「刻苦勉励の篤志家・斎藤七五郎海軍中将」(仙台市若林区荒町)

仙台でちょっとした時間ができたので、仙台駅周辺で戦争関係の史跡を調べていたときに「斎藤七五郎記念元気広場(海軍中将斎藤七五郎生誕地)」という文字列を発見。
これは?と目に止まり、調べてみました。こうして、知らなかった人物のことを調べるのは、知的好奇心が刺激されて楽しいですね。

以下、斎藤七五郎に関係する史跡に足を運んでみた記録。


斎藤七五郎

斎藤 七五郎(1870年1月13日[1](明治2年12月12日[2]) – 1926年(大正15年)7月23日)
海兵20期恩賜、海大4期首席。最終階級は海軍中将。

仙台荒町の麹屋の家に生まれる。生家は貧しく納豆売りなどをして家計を助けた。海軍兵学校に20期として入学。
1893年(明治26年)12月卒業。卒業順位3位で恩賜品を拝受。
少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従事。

1896年(明治29年)、一等戦艦「富士」廻航委員としてイギリス出張。ロンドンでは、南方熊楠と意気投合し大英博物館を一緒に訪れている。
海軍大尉に進級し、「豊橋」分隊長、「金剛」砲術長、「鳥海」航海長、「千代田」航海長、呉鎮守府副官を歴任。

1902年(明治35年)、海軍大学校将校科甲種学生(4期)。このときの海軍大学校戦術教官が秋山真之。秋山真之が教官としてはじめて教えた生徒の一人が斎藤七五郎であり、日露戦争の参謀として先輩後輩の仲となる。

1904年(明治37年)、日露戦争に際して、海軍大学校を退校し第一艦隊参謀、連合艦隊参謀。
連合艦隊先任参謀の有馬良橘中佐を中心とした旅順港封鎖作戦の策定に参加し、第1回閉塞作戦では「仁川丸」、第2回閉塞作戦では「弥彦丸」の指揮官として参加し勇名を馳せる。のちに旅順海戦の状況や戦況報告を 明治天皇の御前注進(直接の報告)申した。

日露戦争の終結後、1905年(明治38年)12月に海軍大学校に復学、1906年7月に首席で卒業し、第一艦隊参謀、練習艦隊参謀、出雲航海長、軍令部参謀、参謀本部部員を歴任し、1908年(明治41年)に海軍中佐進級。
1910年(明治43年)2月からアメリカ駐在、翌年にイギリス駐在。
1911年(明治44年)12月、敷島副長、翌1912年(大正元年)12月に海軍大学校教官、1913年(大正2年)12月、海軍大佐に進級。

その後、海軍省人事局員、人事局第1課長、人事局第2課長、八雲艦長、第三艦隊参謀長を歴任し、1918年(大正11年)12月、海軍少将に進級し、呉鎮守府参謀長に就任。

1920年(大正9年)12月、軍令部第1班長、1922年(大正11年)12月、海軍中将に進級すると同時に第5戦隊司令官に就任。

1923年(大正12年)6月、練習艦隊司令官。斎藤七五郎が練習艦隊司令官であった際の練習艦「磐手」艦長が米内光政であった。

翌24年に軍令部次長に就任するも、胃癌を発症し、1926年(大正15年)7月、軍令部次長在職のまま、満56歳で死去。

仙台市若林区荒町の生家の敷地は、斎藤七五郎の遺言により、1934年(昭和9年)に仙台市に寄付。生家跡は「斎藤記念館」となった。
戦後は公共施設用地となり、2010年までは荒町市民センターが所在。荒町市民センターが移転後に「斎藤七五郎記念 元気広場」として整備され、斎藤七五郎顕彰碑が現存している。
斎藤七五郎の遺品(練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物など)は、荒町市民センターに展示されている。


齋藤七五郎記念 元気広場

齋藤七五郎記念 
元気広場
本広場は、齋藤七五郎氏の遺言”生家・私邸の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育と社会の薫化の一端を資して欲しい”に依るものである。
 平成23年 元気広場 協議会

齊藤七五郎頌德碑(石碑転記)
至誠 海軍大将正三位勲一等功三級 有馬良橘 題額
齋藤記念館記
大正十五年七月二十三日
 海軍々令部次長 海軍中将正四位勲一等功四級 齋藤公溘焉として易簀す。嗚呼惜しい哉
 公、諱は七五郎、明治二年(一八六九年)十二月十二日
 仙臺荒町の自邸に生まる。人と為り誠實勤勉、幼くして學を好む。其の家太富ならず。苦学力行以って家計を資く。人皆其の至性に感ずと云う。年甫弱冠、奮然として志を立て、海軍兵學校に入る。刻苦精励、優等にて卒業、特に双眼鏡を賜り、海軍少尉に任ぜられる。
 明治三十七年日露戰役の興るや海軍大尉を以って従軍す。東卿聯合艦隊司今長官幕僚と為り、旅順口閉塞之事を進策す。擢られて仁川丸及び弥彦丸の指揮官と為り、奮聞して功有り。当時広瀬海軍中佐と並び称される。功を以って功四級に叙せられ、全鶏勲章を賜る。尋いで海軍少佐に進み海軍大學校教官に補さる。海軍中将に累進し大正十二年六月練習艦隊司令長官と為る。十三年四月抜擺されて海軍々令部次長に補さる。世學げて以って榮と為す。超すこと二年不幸にして病を獲て起ず。享壽五十有八。朝野歎惜せざるは莫し。
 公、人格崇高、独力修養、誘掖を好まざれども、後進を諄々と教悔して終始渝らず。郷党の子弟之が為に立身し、名を為す者一にして足らず。公、幼き時荒町小學挾に學び、始めて讀書と習字とを知る。徳の深きに因って常に母抜の為に盡力す。前後金品を寄与するに枚挙に違あらず。其の卒する数日前、特に親友 鈴木重兵衛君を枕頭に延き、慇懃に遺嘱して曰く、
 余の生家は母校と隣接して日タ就學す。
 余の今日有るは即ち母校の賜なり。
 乃って生家邸宅の一切を仙臺市に寄附し、
 聊か子弟の教育、社会薰化の一端に資せんと欲す。
 幸いにして之の利用を得れば則ち余の望足れり。
 君余の為に之を謀らんことを願う。
鈴木君感奮し泣きて焉を諾す。公の嗣子富士郎君、克く其の遺志を体して更に請うところあり。未亡人静子も亦、具状して公の意を懇陳す。
 仙臺市長渋谷君感激惜かず。昭和九年三月具案して諸を市会に咨り、満場一致採納を可決す。是に於て邸宅利用の議起り、遂に齋藤記念館建設後援會組織さる。広く義金を募りしに、四方饗應、忽にして數千金を得たり。市会も亦其の學に賛し相議して市費を支出し以って之を大成せしむ。及ち材を鳩め匠を戒え昭和十二年四月起工、同年七月竣成す。
 館、輪奐の美 無しと雖も、堂宇は宏荘にして、建築は素撲、數百人を容るるに足る。洵に文式両道修養の一大道場たるに愧じず。亦以って公の遺志に副うものと謂ふべし。項者有志 胥に謀りて記念館碑を建て、以って公の遺徳を頌えんと終し、余をして其の事を記せしむ。余公と素故あり。敢て記するを辞さず。其の梗概、若夫、公の進退、行動其の偉人為る所以は、別に傳記有りて之を存す。故に之を贅せずと云。
 昭和十二年九月
  仙臺
   処士篁洲 今泉 彪 謹撰
   正六位勲六等 四寵 仁通 書

齋藤七五郎 記念広場 概要
所在地 仙台市若林区荒町97番地
面積 約500平方メートル
付属施設 齋藤記念館記(石碑)·薫化の園(花壇)

沿革
1934年 仙台市へ寄付(板碑本文参照)
1937年 齋藤記念館 完成
1973年まで 仙台市役所 荒町出張所
1973年 荒町市民福祉会館として改称、改築
1983年 荒町市民センターと改称
2010年 移転改築のため 現状となる
2011年 元気広場(愛称)と命名

至誠

海軍大将有馬良橘の題額。
有馬良橘は、日露戦争の連合艦隊先任参謀であり、旅順閉塞作戦では、斎藤七五郎とともあった。

董化の園
「薫化の園」命名の由来 齊藤七五郎さんが残した次の遺言に拠る。
“生家及び邸宅の一切を仙台市に寄付し、子弟の教育、社会の薫化に資して欲しい“に拠るものです。此の言葉の中から二文字を頂きました。

整えられた花壇。

地元の荒町商店街でも、「斎藤七五郎さんを知ろう」のイベントがあったようです。

https://www.aramachi.info/shichigoro_2024

隣には、荒町小学校。仙台の「一番小学校」

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZJrAWEU2G3x73viV6


斎藤七五郎記念室(仙台市荒町市民センター)

仙台市荒町市民センターの中に「娯楽室兼記念室」という部屋がある。
記念室とは、すなわち斎藤七五郎の記念室。
仙台市荒町市民センターに許可を得て、記念室を見学をさせていただきました。

娯楽室兼記念室

刻苦勉励の人
齋藤 七五郎

 粉雪が降る寒い2月の朝荒町のまち。
「なっとう なっとう」
 みの笠をかぶって小走りに通り過ぎる少年。
「だれだと思ったら、斉藤糀屋の七さんでねがや」
「そうだ、こんなに降っているのに感心だなや」
「七兵衛さんは本当にしあわせだなや」
「成績もうんといいどしゃ。朝早くから手伝いはやるしね。」
 こんな会話が荒町のまちかどで交わされました。少年は七五郎といって斎藤屋の子供でした。明治13年頃は糀の売れ行きが悪く、生活が逼迫して、七五郎少年も家計を手伝わざるを得ませんでした。年譜によれば「この頃より行商して家計を助ける(11歳)」とあります。
 二高生の時、2円50銭の授業料が払えず中途退学し、長町小学校の代用教員になりました。しかし、青雲の志やみがたく上京して(明治21年)、夜学にも通いました。翌22年、念願の海軍兵学校に合格しました。
 兵学校の生活は厳しいものでした。七五郎は人一倍努力して、心身を鍛えました。当時の日記の中に次のような文章があります。
 日記は何のために作る。身を省み行を改め気質を変化し、以て
 我が到らんと欲する人にならんがためにあらずや…。

七五郎は4年の苦闘が報われて、3番の成績で卒業しました。
 明治37年日露戦争が始まり、七五郎大尉は旅順口閉塞作戦で戦果をあげました。

  一日も早く平和になれかしと
  捧ぐるいのち聞 し召せ神

平和のために自分の命を捧げる、なんと崇高な精神でありましょうか。その後七五郎は、艦隊司令官などを歴任し軍令部次長に栄転しました。大正15年、七五郎は疲労が重なったのか志なかばにして倒れ、58歳で帰らぬ人となりました。中将七五郎の死は海軍はもとより仙台市民からも惜しまれました。次に紹介するのは詩人土井晩翠の弔辞の一部です。

  納豆売りし いたいけな子は遂に占めぬ
  海軍軍令部次長の椅子を
  旅順口再び鰐の口わけて
  命をかけし君にやあらぬ

 七五郎は刻苦勉励の人でした。納豆売り、高校中退、代用教員、上京し夜学にも通いました。海軍に身を投じて旅順口海戦で活躍、中将までのぼりつめました。高級軍人には旧士族出身が多くを占めた当時としては異例の出世でした。七五郎の努力には血のにじむものがありました。

自ら定めた〈家訓10則>の一部を紹介します。

 一つ 太陽とともに起き、夜9時と10時の間にねる
 二つ 酒色は遠ざける。
 三つ 禁煙。
 四つ わが身を自分のものと思うな。

 強靱な精神力をもつ一方で郷土への愛情も深く、軍人となっても度々故郷仙台に帰ってきました。母校などでの講演を重ね、父母の墓参も欠かしませんでした。

 斎藤七五郎中将は明治2年12月12日斎藤屋の七番目の子として荒町(現荒町市民センター所在地)に生まれました。

   ~あらうんどあらまち 荒町界限物語~より抜粋

斎藤七五郎の写真

斎藤七五郎の肖像画と写真

仙台・荒町出身
斎藤中将 輝き戻った
「郷土の先人 姿見て」

仙台の洋画家、小山喜三郎さんが、斎藤七五郎海軍中将の肖像画を2009年12月に修復。(写真上左のカラー肖像画)

齋藤七五郎の歌
昭和二年四月 文部省認可 唱歌
 我が郷土荒町地区には 此の詩にあるような 偉大な人物がありました。齋藤 七五郎と云います。彼の死を悼み その一生を詩に託し 霊前に弔詩として捧げたのが 友人だった土井 林吉 後の 土井晩翠である。詩の内容が立派だったので当時の文部省(現文化省)は 此れを“斉藤七五郎の歌”として 児童生徒に 教えることを 認可しました。昭和2年1927年のことです。
 しかし不幸にして太平洋戦争終結後は 時流に合わないと次第に 歌われ無くなり いつの間にか 楽譜まで逸散してしまいました。八方手を尽くして関係者に当たってみたけれど遂に見つからず 此の儘では 偉大な先輩の遺業も 地域から忘れられ 終いには 歴史からも消えて無くなるのではないだろうかと さえ 思われるようになってしまいました。
 そこで昭和初期と云う数奇な歴史の舞台に立って居た荒町小学校同窓生(昭和20年まで唱歌として 愛唱した人達)が自分たちが元気な中に あの詩と楽譜を揃えて復元し 後世に残そうではないか と 衆議一決しました。
 或る者は 忘れかけていた メロデーを思いだしながら歌い、地域の有志はそれを楽譜に書き起こして下さるなど 夫々の分野を 持ち合うことで 漸く発掘の態勢が出来上がりました。2014年 年頭のことでした。
 ところが 如何なる天の配剤か 此の活動の最中に 七五郎公の孫に当る 齋藤 幸子様が偶々 別の御用で 市民センターに 御挨拶に お見えになりました。担当の職員が 唱歌復元の話を 申しあげましたところ 即座に 御協力を 快諾下さいました。それから 数日後 皆が 夢にまで見ていた 弔詩と楽譜が贈られて参りました。此の歌に関しては 現存する最初の 唱歌教材では 無いかと思われます。これで復元活動の総てが完結しました。真に 佛の導きとも 思われる 有難い事でした。
 復元を誓い合った 彼らは 活動の趣旨を次のように 締め括っている。
これから先 歴史がながれ 200年、300年 否それ以上 経った時 誰かが 何かの理由で 郷土史の研究をする機会に 此の詩と楽譜を必要とすることがあるだろう。其の日の為に 改めて 復元して後世に残すものである。郷土の歴史を明かす ーコマとなれば 望外の
喜びである。
 証し として 一紙を添える
  平成26年(2014)7月23日
  荒町第二豊齢社交クラブ 会長 庄司 博

齋藤中将の歌
 作詞 土井林吉 後の土井晩翠
 作曲 梁田貞 他に「どんぐりころころ」等

1
青葉の麓 廣瀬川 清らぎ咽ぶ 岸近く
 生まれを享けし 運命の 奇なりし君を 今思ふ
2
五十餘年の 古に 中将 齋藤七五郎
 貧しく生れ いたいけの 子は朝夕の なっと賣り
3
立志の模範 金鐵の 堅きは心 山と積む
 辛苦を凌ぎ 勝ち得たり 海軍軍令部 次長の職
4
日露の役よ 旅順港 雨と飛び来る弾丸の
 下に再び その港 封ぜし中の 花なりき
5
南極星を 仰ぎ見る おほ海神に 練習の
 艦隊率ゐ 藍の波 分けしも昔 今は夢
6
雲散り風吹き水流る 變転無窮の 世の姿
 中に留まり 揺るぎなく 大いなるもの 誠あり
7
誠一つに 國のため 尽くしし址の 芳しき
 中将 齋藤七五郎 静かに眠る 五城楼

  (荒町尋常小学校 昭和2年12月2日 文部省認可)

荒町が生んだ 誠の人 斎藤七五郎

齋藤記念館について
故齋藤七五郎氏の遺志により、昭和九年三月
当地にあった生家を市に寄贈され、市はその遺
志を永く記念するため昭和一二年七月齋藤記念
館を建設しました。

木造瓦葺二階建 延床面積 三八0·九五㎡
一階 出張所、マザースホーム、管理人室
   延床面積 二四七·〇七㎡
二階 集会所、会議室
   延床面積一三三·八八㎡
その後、昭和四八年五月に荒町市民福祉会館
として全面改築され、昭和五八年四月に名称が
荒町市民センターと変更されて現在に至ってお
ります。

※齋藤七五郎氏
 一八六九年(明治二年)
   ~ 一九二六年(大正一五年)
海軍中将、仙台市荒町生まれ
麹商糀屋齋藤七兵衛氏の第七子

荒町の齋藤家

大正12年の正月の書。

斎藤七五郎書

斎藤七五郎と、仙台の第二師団長に着任した井上一次との往来書簡

大正11年の「第五戦隊司令官」時代の書簡か?
名取に将旗を掲げた、云々。

八雲
斎藤七五郎が練習艦隊司令官として乗艦した艦。

斎藤七五郎の遺品。
練習艦隊司令官として遠洋航海を指揮した際の土産物(椰子の実の加工品など)が残されている。
幼少時にお世話になった荒町小学校の子供たちに見せたいと珍しいものを土産物として寄贈した。

記念室

場所

https://maps.app.goo.gl/TNCq1sGneKEo3iEv7


斎藤七五郎墓(昌傳庵)

故海軍中将 正四位勲一等功四級 斎藤七五郎墓

大正十五年七月二十三日
 行年五十八

篤屋院殿忠純至道居士

「詳しくはこちらへ」のQRコードはリンクが切れてました。
木板に記された文字はかすれており、全文の判別が不可能でした。

墓苑の端に寄せられていた。
斎藤七五郎の墓にたどり着くまで、境内には特に案内板などもなく、探し出すのにしょうしょう時間を要した。

奕葉山 昌傳庵(昌伝庵)
曹洞宗

場所:

https://maps.app.goo.gl/GjxiCoAoPQDX5un89

※撮影:2026年6月


仙台関連

はじめに

「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。

そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二番目の空襲被害のあった街でもあった。


蕨空襲

昭和20年、3度の空襲見舞われた蕨市。
当時、蕨には軍事工場が複数あり、工場労働者が住む住宅密集地帯もあったことなどから、標的になったといわれている。

1回目は、昭和20年4月12日、昼過ぎ。東京を襲ったB29爆撃機とP51戦闘機部隊のうち8機が蕨上空に襲来。16発の1トン爆弾が投下され、死者36名、16戸の家が全壊。
2回目は、翌日の4月13日午後8時過ぎから14日未明まで、10機ほどの編隊が無数の焼夷弾が投下、蕨の街は火の海となり、死者12人、362戸が焼失。
そして、3回目は、昭和20年5月25日午後10時頃に焼夷弾が投下され、死者2名、3戸が焼失。

蕨市を襲った3度の空襲により、死者は50名、家屋の焼失や全壊・半壊などは400戸に上った。
これは、埼玉県では、熊谷に次ぐ、大きな空襲被害であった。

なお、終戦時の蕨の世帯数は5885世帯。人口は25,279人。空襲被害割合は世帯・人口共に約7パーセントに及び、被害の多さがわかる。

広報・蕨(2010年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/101/2208kouho.pdf

広報・蕨(2015年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/096/27-08honsi-.pdf

蕨市>平和行政

https://www.city.warabi.saitama.jp/shisei/danjo/heiwa/1002996.html

なお、蕨駅西口にあった日本車輌製造・蕨工場(12万5400平方メートル)は、爆撃を受けなかった。それは、同工場に米軍捕虜が収容され、工場労働者として使役されていたから、米軍の空襲対象からは外されていたから、という。
戦後、日本車輌製造・蕨工場では新幹線の試作車や、世界初の新幹線である量産車0系が製造され、「新幹線電車発祥の地」となっている。(現在の川口芝園団地)


平和祈念碑「平和を愛して」

春日公園は、1回目の蕨空襲のあった付近。

戦後50年・平和都市宣言10周年の平成7年、春日公園に「平和祈念碑」を設置された。
彫刻は、田中毅氏。宮崎県出身で埼玉県在住の彫刻家。

平和を愛して
 製作・田中毅

平和への願い
 蔵市は、昭和60年9月9日「平和都市」と宣言し世界の恒久平和を願い、核兵器の廃絶を強く訴えている。
 この地は、第二次世界大戦中の昭和20年4月12日と13日、そして5月25日の3日間空襲と受け、爆弾と焼夷弾などにより多くの尊い生命が犠牲となつた。県下でも熊谷市につぐ大きな被害であった。
 本年は終戦から50年、歴史の大きな節目の年にあたる。この地に、市民の総意を込めて、平和のモニュメントを建立し、戦争という過ちを二度と繰り返すことなく、平和を守る決意を新たにする。
  平成7年8月15日 蕨 市

地球儀は回転する。

蕨市春日公園

春日神社と蕨市公園が同一敷地に。

場所

https://maps.app.goo.gl/c7A4euJwJjPenyz29


平和之母子像

昭和63年、蕨市民公園に設置。
彫刻家・岩田健氏(埼玉県川口市出身)

平和之母子像

蕨市平和都市宣言
 昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
 その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
 しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
 このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
 私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
 蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
  昭和60年9月9日 蕨市

平和之母子像建立
 私たち蕨市民は、いつの時代でも平和の中で、家族みんなが健康で、母と子が地域社会の愛情に支えられて、温かい家庭生活を送れることが、何よりも幸せであると考えています。
 しかし、この世にあの恐ろしい核兵器が存在する限り7万の市民が等しく希う真の平和はむなしいものとなっています。そこで、蕨市は昭和60年9月、敗戦40周年を記念して、この美しい地球から核兵器といたましい戦争をなくし、すべての生命が平和の中で育まれていくことを願い、平和都市を宣言しました。
 私たちは、この宣言によって戦争の恐ろしさを、後世に伝えていかなければならない責務と平和への思いをあらたにしたのであります。
 このたび、平和の砦を築きあげるために建立した平和之母子像は、彫刻家岩田健氏の手によって刻まれたもので、戦争を知らない世代にこれらのことを語り継ぎ、地球より重い命を守っていくことを、ここに誓ったのであります。
  昭和63年4月3日 蕨市長 田中啓一

蕨市民公園に。

場所

https://maps.app.goo.gl/BFFWk8ubWk3PSJaCA

※撮影:2026年6月


関連

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

埼玉県狭山市。
入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。


笹井戦災の跡(笹井白鬚神社)

狭山には「入間基地(豊岡陸軍飛行場)」があり、当時は陸軍航空士官学校もあった軍事拠点であった。
昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。
この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。
奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。

破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。

反対側は、類焼の被害なく。

対比させると、状態の違いが良くわかる。

笹井戦災の跡地

笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので)


笹井白鬚神社

創建年代は不詳。
古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。
この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。
明治5年、明治社格制定で、村社に列格。
昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。
社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/sasaisirahigejinjya.html


せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。


水富神社(水富国民学校奉安殿)

御社殿は、もと水富小学校奉安殿。
水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。
その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。

水富神社の由緒
一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。
  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。
二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。
三、例祭 4月22日
  水富神社奉賛会

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/mizutomijinjya.html

水富小学校


入間招魂社(入間小学校奉安殿)

昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。
建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。
祭神:日清戦争以降の戦没者164柱

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumasyoukonsya.html

なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。
閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。

入間招魂社(いるましょうこんしや)
 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。
 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。
 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。
  令和元年十月
   入間遺族会
   入間奉賛会

「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。

下には「五七の桐紋」。
「16紋菊の菊花紋章」と並ぶ、最高位の紋章。

屋根の鬼瓦には、紋章がない。
奉安殿時代は、ここにも菊の御門が掲げられていたのでは?と推測。

社号標は昭和57年4月10日の建立。
靖国神社宮司・松平永芳氏の謹書。松平永芳氏は祖父が松平春嶽にして元海軍軍人(海軍少佐)陸自1等陸佐。昭和受難者(いわゆるA級戦犯)の靖国神社合祀を実施した宮司。

入間招魂社
靖國神社宮司 松平永芳  

御祭神として日清戦争以降の戦没者164柱を祀る。

明治三七八年戦役記念碑
 希典書

忠魂碑
 大正四年二月建立 入間村

明治三七八年戦役は、日露戦争の慰霊碑。
忠魂碑も時期的に日露戦争と思われるが、第一次世界大戦関係もありそうだ。どこからか、移転されてきたのだろう。


入間野神社

建久2年(1191)の鎮座。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称した。
明治元年社号改正につき、御岳神社と改称。
明治40年5月3日、浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀。
明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改称。

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumanojinjya.html


入間川神社(入間川国民学校奉安殿)

別記事にて掲載。


※2026年5月撮影


関連

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。
延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。

私の記録(思い出)をさかのぼってみると、平成14年(2002年)7月に参拝、実に24年ぶりの往訪だった。当時の私は精力的に武蔵国式内社44社を巡っていたころ、かな。まだまだ戦争関連の知見は浅く、興味の方向性も今とは異なっていた頃。
同じ場所に24年ぶりに違う目的で訪問するというのも、趣深いものがある。

今回は「奉納プロペラ」を見学のために、廣瀬神社に足を運んでみました。
ちょうど2026年5月22~24日にかけて、廣瀬神社で特別公開「廣瀬神社でお宝さがし-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-(主催:廣瀬神社 協力:狭山市教育委員会社会教育課)」があったので。

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日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その9」となっておりました。
今回は、日本の航空草創期時代の貴重なプロペラ。

「その1」はこちら。


モーリス・ファルマン式

大正6年(1917)に作られ、大正11年に、廣瀬神社に奉納されたプロペラ。

このプロペラは、「モーリス・ファルマン式MF.11(ショートホーン)」世代の航空機プロペラでは?とされている。

モーリス・ファルマンは、兄のアンリ・ファルマンやディック・ファルマンとともに、ヨーロッパにおける航空先駆者。
兄のアンリ・ファルマンが設計した「アンリ・ファルマン号(1910年製)」は、日本において、最初の飛行を行った航空機。
ファルマン兄弟は1912年に航空機メーカーとなる「ファルマン」を設立。(のちにフランスの航空機国有合理化により統合。)
ファルマン兄弟は200種類に及ぶ航空機を設計し、なかでも弟のモーリス・ファルマンの設計した初期型の飛行機が、明治晩年から大正初期にかけて数多く輸入され、航空機の国産化を促している。

日本では、「モーリス・ファルマン式・MF.11(ショートホーン)」を1914年(大正3年)に輸入。臨時軍用気球研究会にて改造を加えて「会式第七号飛行機」とした。

※国際軍用機第一号が「会式第一号飛行機」

https://senseki-kikou.net/?p=52068

「会式第七号飛行機」を基にした国産機を「モ式四型偵察機」として正式採用し東京砲兵工廠と陸軍所沢飛行場で80機を生産。
複座練習機として、「モ式五型練習機」を11機、エンジン換装改良型の「モ式六型偵察機」を134機生産している。

国立科学博物館の収蔵庫には国内最古の飛行機「モ式六型」があるというが、非公開。

https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/transport/moshiki.html


広瀬神社に奉納されたプロペラ

日本の航空発祥の地「所沢飛行場」にほどちかい狭山市の鎮守ゆえに、安全祈願として奉納されたであろう黎明期のプロペラ。

びっくりの奉納品

 この木製プロペラは、今から104年前の大正11(1922)年1月に廣瀬神社に奉納され、長らく拝殿上段に掲げて保存されてきたものです。今回、それを間近でみてもらうことにしました。奉納された方は地元またはその近在の方だと思われますが、開場したばかりの所沢飛行場で整備や試験飛行などに携わっていた方という可能性があります。当時は、我が国航空の黎明期で、飛行機の安全度は非常に低く、死と隣り合わせの任務でした。恐らく「安全」に強く願いを込めた奉納だったのでしょう。
 百年の歳月によって、積層の木材がはがれ始めるなど損傷も大きくなっていましたが、当時の木材接着剤として一般的であったニカワを用い、地元の方々が協力し合って修復を試みました。その成果もぜひごらんください。
  廣瀬神社でお宝さがし

膠(ニカワ)を用いて、木材を接着して修復。
修復にあたっては、膠(ニカワ)の知識が関係者では皆無だっため、人形職人の知恵も借りた、という。

航空草創期のプロペラ

大正11年(1922)に廣瀬神社に奉納されてから、100年以上ものあいだを廣瀬神社で保管をされていたが、神社での保管も限界があるため、博物館(狭山市立博物館)への寄贈も検討している、とか。

奉納されたプロペラ
刻印等:
170
大正6年5月7日制作
129

計測データ
全幅:2890mm
最大翼幅 270mm
根本厚さ:150mm
ボルト穴:6個
ボルト穴配置円直径 120mm
中央穴径:55mm
積層:7枚
先端形状:やや尖る
製作:大正6(1917)年5月7日
泰納:大正11(1922)年1月
  陸軍工兵曹長 山崎和作
刻印等
  170
  大正6年5月7日製作
  129

使われた機体の候補

モ式六型飛行機
(モーリス·ファルマンの国産化品)
製作:陸軍東京砲兵工廠
座席:2
ダイムラー式100馬力
全長: 9.33m
全幅:16.13m
最高速度:110km h
写真、データは国立料学博物館

モーリス·ファルマン
(フランスからの輸入品)
以下データはMF.11/Wikipedia
座席:2
エンジン:ルJ-88空冷V型8気筒70馬力
全長: 9.45m
全幅:16.15m
最高速度:100km h
航続時間:3時間45公

大正11(1922)年1月に、山崎和作陸軍工兵曹長が奉納したことがわかる。

廣瀬神社でお宝さがし
-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-

廣瀬神社でお宝さがし展

実は、別件で狭山市に赴いたときに、そういえば「廣瀬神社にプロペラあったよな、見に行こう!」って思って足を運んだら、拝殿脇に掲げてあったプロペラが無くなっていたんで???と思ったら、ポスターを見つけ、今回のイベントを知った次第。
イベントのために再訪を余儀なくされたが、結果として間近にプロペラを見ることができたので、かなり運良いタイミングでした。


廣瀬神社

旧県社・延喜式内社・狭山上広瀬鎮座
祭神:若宇迦能売命(ワカウカノメ命=豊受姫命)・倉稲魂命
由来:日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社(明神大社・官幣大社)の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。
しかし大和の広瀬神社は日本武尊の時代よりも後の天武天皇4年(もしくは崇神天皇期)創始とされており、武蔵国に分祀された記録もない。社名は大和国廣瀬神社と同様な川の合流地点にあり、広い川瀬の地形からきたのであろうとされている。

ここにプロペラが掲げてあった。

野村素介。号は素軒。
長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と野村素介を合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人に数えることもあるが「明治の三筆」と言えば日下部鳴鶴・中林梧竹・巖谷一六の3人のことを言うのが一般的。

縣社 廣瀬神社

武蔵国四十四座の碑。
延喜式内社に列する由緒ある古社。

太鼓楼のある神社は珍しい。

※撮影:2026年5月


狭山市関連

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。
この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、そして昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われた場所でもあった。出陣前、最後に球児たちはこの地で野球を楽しみ、そして出征学徒として戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。
近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。


日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場)

明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。
日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。
昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。
現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。

早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。
当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。

戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。

明治41年(1908年)
米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。
大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。

昭和6年(1931年)
早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。

昭和8年(1933年)
日本で初めて野球場に照明設備を設置。日本初のナイターが行われた。

昭和11年(1936年)
日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。

昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。
昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。
昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。

 ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。
 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。
 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。
 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。
 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。
 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。
 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。
 1990年(平成2年)10月
  早稲田大学第十二代総長 西原春夫

早慶戦百周年記念碑
早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。

2つの銅像がある。
早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。


安部磯雄胸像

野球道具をデザインしたレリーフ。

母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス
 昭和二年九月
 早稲田大学校友會内
  安部前野球部長記念會


飛田穂洲胸像

飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)
早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。
「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。

飛田穂洲先生像

 飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた
 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた
 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた
  昭和四十一年六月
   財団法人日本学生野球協会
    会長武田孟

早稲田大学総合学術情報センター

早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。

グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。

撮影:2026年3月


関連

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。
横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。
その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。


弾除け信仰

戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。


観音寺(追浜東町)

三浦三十三観音第二十二番札所。
「坂中山 観音寺」
戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。
貞享4年(1687年)の開創という。
「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。
現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。

浦郷八景:
夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘


弾丸除地蔵尊

観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。
像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。

弾丸除地蔵尊

昭和12年秋

昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。
9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。

右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。

観音寺の本堂

三浦廿二番坂中観音

観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XnKhB2BkpQspFaMU7


筒井隧道

観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。
横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。

明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。
素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。
上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。

階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DxBqrUR7sGSTbSdP6

※撮影:2026年5月


関連

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。
そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。


拓殖大学

拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。
1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。
戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。
また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。
空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。
終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。
初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。


恩賜記念館

1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。
歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。

恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。

恩賜記念館

恩賜記念館の扁額。
恩賜記念講堂当時のもの。
昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。

桂太郎銅像

桂太郎
内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。
日露戦争時の内閣総理大臣。
西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。
軍人としての階級は陸軍大将。
栄典は、従一位大勲位功三級公爵。
通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。

創立者 桂 太郎 先生銅像
 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。
  平成十二年四月

桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。

恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。


拓殖招魂社

拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。
戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。
戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。

拓殖招魂社
拓殖招魂社由来の記
拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。
毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。

拓殖招魂社由緒
拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。
ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。
 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである
拓殖大学

経緯
 本校茗荷谷五文原頭に、鎮座せられた「拓殖招魂社」は終戦直後占領軍の指令により破棄せしめられた。 この日空は暗澹として雲他く学生救職員一同、万感の念いをこめてこれを送った。
 一学生あり(専門部十九期 当房栄三郎民 宮崎県出身 故人)鳥居に掲げられた「拓殖招魂社」の扁顔を秘かに毛布にくるんて持ち帰り、これを九州宮崎の地に奉安した。その後この扁顔は在九州学友をへて在京学友及び学生に迎えられ、昭和五十一年秋、変額を奉じて恭々しく招魂社祭が教り行なわれ、ついてこれを総長室に安置申し上げた。
 雨来、学支会より、その総意として招魂社再建の熱烈なる要望があり、これを受けて高瀬総長理事長により拓殖大学創立八十周年記念を機に、ここに八王子原頭扶柔ヶ丘に拓殖招魂社再建御邊産の運びとなった。
 時に、昭和五十五年錦繍の秋、十月二十三日、此の間実に茫々三十有五年、今扁願は社頭南面する島居の上に再び高々と捐けられ、我が拓殖大学の過去と現在をそして未来をじっと見つめて居られる

拓殖招魂社

合掌

けっこうな山道。大学構内とは思えない山道。。。5分ほど登りました。


芳流 烈士脇光三碑

六烈士のうちの1名、脇光三。

脇光三をはじめとした日露戦争の六烈士に関しては、「横川省三」を調べていて知ったので、下記の記事に別でまとめました。

脇光三は、明治34年に台湾協会学校(拓殖大学の前身)の学生であったが、明治35年に中退して海を渡り、北京駐在の陸軍武官青木大佐から南下露軍の後方攬乱の秘命を受け、沖禎介、横川省三らとともに特別任務班に編成されその一員となる(辞令上は「陸軍通訳」)。
明治37年4月、横川省三と沖禎介がロシア軍につかまり、残った4人は再起を期すもロシア軍の意向を受けた馬賊に捕捉され、内蒙古クーロンホ付近で、相次いで戦死した。

烈士脇光三碑は、昭和6年4月23日(拓殖大学恩賜記念日)に除幕式が行われた。
この碑は、当初は文京キャンパスにあったが、昭和57年に八王子キャンパスに遷座している。

芳流 
烈士脇光三碑
 一戸兵衛書

烈士辞世
一朝宣戦 除百年憂 
吾党有士 死賛皇猷
興安西峙 松華東流
侠骨可埋 此山河頭

意訳
いったん宣戦の命が下れば、百年の憂いを除こうではないか。
我ら志を同じくする士(もののふ)は、命を賭して天皇の遠大な計画を助け奉る。
西には興安嶺(こうあんれい)がそびえ、東には松花江(しょうかこう)が流れている。
義侠の心に満ちたこの身を埋めるなら、まさにこの山河の地こそふさわしい。

 脇光三君は同窓の先輩なり 日露戦役の初に當り進んで特別任務に服し六士相攜へて北京に發し辛酸六旬にして深く敵地に入り東清鉄橋の爆破を企てしも事破れ二士は露軍に捕へられて遂に哈爾濱郊原の沙に屍を委て君は三士と蒙匪に襲われて倶に興安嶺邊塞の月に骨を暴しぬ嗚呼凄惨此に至って腹語るに忍びす然れとも壮圖克く敵の気を奪ひ其の戦略を覆し交戦期間多大の兵力を後方の警備に費すの已むを得さるに至らしめたるは以て忠魂を慰むるに足らん吾等遺烈を景仰し茲に諸先輩の賛助に憑り同傐協力して石碑を学園に建て之を不朽に傳うと云爾
  拓殖大学生一同
  教授宮原氏平撰文

棗(ナツメ)の木
寄贈 中村養三氏 (学部十六期 大正七年卒)
日露戦争の折 乃木希典将軍と露軍のステッセル将軍が会見した中国旅順郊外の水師営の場にあった棗の木
昭和四十三年に中村氏(当時学友会京都支部長)が大学に持参され 文京キャンパスの「拓魂碑」脇に植えられていたが碑の移設に伴いこの地に移植された


拓殖大学八王子国際キャンパス

東京ドーム23個分の広大な敷地を持つという広大なキャンパス。
1977年に開設された。
高尾駅から直通のバスが出ている。

※撮影:2026年5月


関連

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 


新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。


稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町)

稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。
歌舞伎町の賑わいとは真逆な静謐な神域。
新宿区の保存樹木に選定。

空襲の焼焦跡を感じさせる木肌。

門柱は「御大礼記念」、大正4年11月の建立。
社号標は昭和2年9月の建立。

天水琴が清らかな音を奏でる。

※2026年1月


鎧神社のイチョウ(新宿区北新宿)

1945年の山の手空襲による火災で、同神社は社殿や社務所など木造部分を全て焼失。
幹に空襲の影響で大きな空洞が残るイチョウ(銀杏・公孫樹)。ウレタン樹脂で空洞が埋められている。

ウレタンの劣化が、そのまま空襲焼焦跡を思わせるような気配を漂わせている。

昭和11年10月建立の灯籠

昭和11年9月建立の狛犬

※撮影:2026年4月


幸國寺の大銀杏(新宿区原町)

別記事にて。


新宿区平和マップ

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/soumu01_000111.html


関連

滝野川の防空壕跡?(北区)

北区の小学校の隣で発見された戦前の遺構。
防空壕跡?ともいわれているが。。。
ちょっと見に行ってみました。


滝野川小学校脇の防空壕跡?

ニュース記事

https://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20260222-GYTNT00160

上記記事の抜粋
 北区西ヶ原の区立滝野川小学校で昨年2月、正門脇にある老朽化した倉庫を解体していたところ、縦横約2・5メートルの穴が見つかった。穴の入り口は赤レンガで囲われ、内部はレンガで塞がれているため、奥行きがどれだけあるかは不明だ。
 1890年(明治23年)創立の同校は、戦時中は滝野川国民学校と呼ばれ、1944年には児童の集団疎開も行われた。45年4月13日に300機以上の米爆撃機B29が都内北部を襲った「城北大空襲」では区内も大きな被害を受けたが、同校やその周辺は焼失を免れた。
 区立中央図書館で地域資料専門員を務める保垣孝幸さん(57)は昨年夏、学校などからの問い合わせを受け、この穴の由来を調査。学校に残っていた記録を調べると、本土空襲が本格化した44年11月、滝野川警防団(消防団の前身)の分団長名で、滝野川区(現在の北区)の区長に宛てた「防空壕 開鑿かいさく 許可願」が見つかった。滝野川国民学校正門の近くの場所に、学校と警防団用の防空壕を掘るとの内容だった。
 同校の校内日誌には44年12月1日に「防空壕設定」、同4日には「地下防空壕ヲ整備、電灯ヲツケ五時 迄まで 作業」との記載もあった。
(略)

大谷石?っぽい擁壁や坑口の煉瓦造りが立派すぎて、これは昭和期大戦期に急造した防空壕なのか?疑問も残る。
もともと別の目的で作られたものを防空壕に流用なら、理解できるなあ、とか。

以下、写真を。

小学校のすぐ脇。

場所

https://maps.app.goo.gl/FKEjWyuj2x3mpF3c9

※撮影:2026年3月


「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)

今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例の花見。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜の花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
御霊、やすらかに。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


令和8年3月30日の靖國神社

また、1年後に!

※撮影:2026年3月30日。