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練習艦「かしま」体験航海(横須賀港~東京港)

2025年6月。
練習艦隊「かしま」「しまかぜ」が、横須賀港(逸見岸壁)から東京港に航行するタイミングにあわせて、運良く乗艦する機会がありました。横須賀水交会(水交会横須賀支部)の部隊研修として、貴重な体験航海の模様を以下に写真中心で掲載。

ちなみに、乗艦に際しては、海上自衛隊横須賀地方総監部の正門に「朝7時集合」ということで、家からでは始発でも到達できないので、近隣で前泊しての参加、でしたが、艦に乗れるのであれば、なんてことないです。

東京湾を北上する「かしま」と「しまかぜ」


練習艦「かしま」

TV-3508
練習艦「かしま」。旧海軍の戦艦「鹿島」、練習巡洋艦「鹿島」に次いで、艦名としては3代目。
1993年4月20日起工、1994年2月23日進水、1995年1月26日就役。
母港は「呉」。
練習艦隊直轄艦、練習艦隊旗艦。

2025年は6月13日から、「かしま」「しまかぜ」にて、一般幹部候補生75期の実習幹部を乗せ遠洋練習航海へと赴くこととなる。


練習艦「しまかぜ」

はたかぜ型護衛艦の2番艦。艦名としては3代目。
1985年1月13日起工、1987年1月3日進水、1988年3月23日就役。2021年3月19日、練習艦に種別変更。
練習艦隊第一練習隊に所属、定係港は「呉」。


出港前の練習艦隊(横須賀地方総監部逸見岸壁)

壁岸壁に停泊する練習艦隊。
「かしま」と「しまかぜ」


「かしま」乗艦

午前7時すぎ。
ちなみに、招待者ゆえ、手荷物検査は一切なし、で。
「かしま」に乗艦です!!

雨が厳しいことがわかっていたんで、カッパで。


「しまかぜ」出港

「かしま」の隣に停泊する「しまかぜ」が先行して出向していきます。

ちなみに「しまかぜ」に乗艦することも任意選択で可能でしたが、やっぱ「かしま」でしょってことで。なにげに「かしま」に乗艦したのも今回が初めて。

「73式54口径5インチ単装速射砲」の存在感。

「しまかぜ」が離れていきました。

すごい旋回で一気に離岸。

曳舟(タグボート)が大活躍

「しまかぜ」出港


「かしま」出港

つづいて、「かしま」も出港です。

通称「オランダ坂」と称される傾斜は、後甲板と中甲板を結んでおり、艦上体育で艦の全周がランニングできる構造になっている。

出港に際しての立ち入り制限

タグボート

出港!

おっ、米軍の揚陸艇ですね。トラックが小さく見える。


「かしま」11メートル作業艇の揚艦

吉倉護衛艦A桟橋から、作業艇が近づいてきました。

「かしま」に接舷し、揚艦されます。

おお。作業艇を引き揚げる光景、始めて見ました!!


「横須賀」吉倉桟橋の様子

2025年6月3日の吉倉桟橋の様子。

「いかづち」むらさめ型護衛艦の7番艦

左から
「たかなみ」たかなみ型護衛艦の1番艦
「あがの」もがみ型護衛艦の6番艦
「くまの」もがみ型護衛艦の2番艦
「もがみ」もがみ型護衛艦の1番艦


「かしま・特別公室」

国家元首級の来賓を想定し、公式儀礼をおこなう内装が配慮された特別公室。
練習艦隊旗艦として、世界各国に寄港する「かしま」だからこその内装。

窓の外は前甲板

日本国練習艦隊
JAPAN TRAINING SQUADRON

この帽子、欲しい、、、

第65代練習艦隊司令官 渡邉海将補
海将補は旧軍における海軍少将
ちょうど、プレスの取材を受けていました。

特別公室への入口も豪華


初代戦艦「鹿島」の水差し

特別公室の机に、凄いものがありました。

初代戦艦「鹿島」の水差し
この水差しは、初代戦艦「鹿島」士官室で使用されていた水差しです。平成10年4月9日横須賀において、作家の阿川弘之氏が来艦された際、本艦に寄贈していただきました。

初代戦艦「鹿島」
143.3m 16,400t
明治39年5月23日~大正12年9月20日

初代 戦艦「鹿島」
士官室用水差し
平成10年4月9日
作家 阿川弘之氏 寄贈


「かしま神社」(練習艦かしま神社)

かしま神社由来
由緒
日本の船には古くから慣習として、船霊様(航海安全の守り神)を祭っております。
本艦もこの例にならい就役に先立ち、平成7年1月12日に本艦の命名地の氏神様である鹿島神宮の分社として入魂式を行い、平和と本艦の航海安全、乗員一同の健康を守る船霊様を祭っております。
例祭 1月12日

鹿島神宮由来
鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
由緒 神代の昔に、天照大神の御命令により出雲の国に天降り、大国主命と話し合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれ最後に関東地方の開拓と鎮撫に当たられ、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、地霊を鎮め氏子を異境の神々から守り、航海の安全を司る海の神様として全国の人々より崇敬されています。
例祭 9月1日

自衛艦命名書
本艦をかしまと命名する
平成6年2月23日
国務大臣防衛庁長官 愛知知男


「かしま・13メートル将官艇」

通常の護衛艦に搭載されている11メートル作業艇とは別に、13メートル将官艇も搭載されているのが「かしま」の特徴。


「かしま・76ミリ速射砲」

62口径76ミリ速射砲
オート・メラーラ社第2世代の62口径76ミリ砲(コンパクト砲)

前甲板の76ミリ速射砲


「かしま・前甲板」

手前に見えるのは、「礼砲」

すれ違うのは、オーストラリア海軍 ホバート級駆逐艦シドニー(HMAS Sydney DDG-42)

右舷1時の方向に「しまかぜ」

エモい。。。


「かしま・訓練甲板(後甲板)」

雨降る訓練甲板で作業する海自隊員

もうね、艦尾の自衛艦旗のゆらめきをずっと見ていたい。

この台は、栄誉礼用のお立ち台である。
上に物を置いたり、もたれ掛かったり、掃除用具盗ったりするな。 
射撃員長

突然の掃除用具w
そして管轄が射撃員長、、、

「しまかぜ」の台が「かしま」に置きっぱなし。。。


「かしま・下後甲板」

訓練甲板の下。


「かしま・甲板」

航行中に、制限なしで、甲板をいったりきたり。
雨なので人が少なくて、ある意味で快適。。。

前方に「しまかぜ」
右舷に転回したもよう。

潜水艦救難艦「ちよだ」

ん?
帆船?
これは、二代目「日本丸」か!

東海汽船の「セブンアイランド・友」


「かしま・艦橋」

雨だから、艦内が特に混み合ってました。
(逆にいうと甲板は、空いていました)

人員
総員 163名
幹部 19名
曹士 143名
入院 0名
休暇 16名
その他 2名
現在員 144名
司令部 51名 1名
実習幹部 195名
その他 297名
合計 687名

わたしを含めた便乗乗客が297名いるのかな、ですね。

0745 横須賀出港
1100 東京国際ターミナル入港


「かしま・食堂」

昼も夜も、どんぶり!

ポップコーンと綿菓子の振る舞いがありました。


「かしま・操縦室兼応急指揮所」

こんなところも見せてくれました、良いの?


「かしま・士官室」

士官室

「ましか」と「かしまる」


「かしま・艦内」

日本国 練習艦隊 旗艦 TV3508 KASHIMA

WAVE区画

お、男子禁制のエリア
WAVE=Woman Accepted for Volunteer Emergency Service


「かしま・実習員講堂」

雨だから、実習員講堂は、常に満杯でした。
せっかく自衛艦(練習艦)に乗っているのだから、あっちこっち見に行かないと損だとばかりに、私はかっぱを着込んで、雨を機にせず甲板をウロチョロしてました。
実習生を170名は収容できる講堂。

東京国際ターミナル到着で、下艦が始まったあと。


「かしま・東京入港」

1030ごろから入港準備、11時15分頃に下艦でした。

タグボートのお世話になります。

着岸準備

東京国際ターミナルを海側から見たのは、始めてでした。

ロープを投擲

着岸し、階段を展開


「しまかぜ・入港」

かしまの着岸が完了し、「しまかぜ」が「かしま」の左舷に横付けされます。

近づいてくる「かしま」

エモい


東京国際クルーズターミナル

11時35分に「かしま」を下艦。
約4時間をみっちり「かしま」堪能してしまいました。

ちなみに以前は「晴海」でしたが、現在は晴海に停泊ができなくなったとかで、「東京国際クルーズターミナル」に着岸。レインボーブリッジをくぐることもなくなってしまったのだ。

雨の体験航海というのも、なかなか貴重な時間。
雨ゆえに、甲板は人が少なく、それはそれで逆に得難き光景にも出会え、非常に貴重な体験を得ることが出来ました。
海上自衛隊横須賀地方総監部のご配慮に感謝します。

撮影機材:今回本格的に役に立った防水カメラ「PENTAX WG-1000」が8割で、残りは「PENTAX KP」とスマホ、でした。
撮影:2025年6月3日


関連

南極観測船「ふじ」(名古屋港)

先日、名古屋に赴いていたので、スキマ時間に「ふじ」を観覧してきました。

名古屋港ポートビルと南極観測船「ふじ」のほうに。


名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地

1907年、名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地。

「鉄桟橋」から始まった名古屋港
左下か斜めに伸びる橋が「鉄桟橋」。
名古屋港開港の1907年(明治40年)に建設されました。
長さ127m、幅14.5m。
その後、桟橋上部には貨物列車のレールも敷かれ、開港から昭和初期までの唯一の船着場として、また、接岸する船舶でにぎわう名古屋港の代表的施設として市民から親しまれました。
※10,000トン級の船の入港が可能でした。

現在の名古屋港
1981年(昭和56年)中央ふ頭と東ふ頭の間を埋め立てて完成したガーデンふ頭。
昭和59年に名古屋港ポートビル、昭和60年に南極観測船ふじ、平成4年に名古屋港水族館がオープンし、親しまれる港づくりが進められています。

1905年(明治38) 鉄桟橋建設着手、2号地埋立完成
1906年(明治39) 巡航博覧会「ろせった丸」入港
1907年(明治40) 鉄桟橋完成、名古屋港開港
1929年(昭和4) 西埠頭埋立着手
1931年(昭和6) 中央埠頭・東埠頭埋立着手
1934年(昭和9)西埠頭埋立完成
1936年(昭和11)中央埠頭・東埠頭埋立完成
1981年(昭和56) 2号地(現・ガーデン埠頭)埋立完成
1983年(昭和58) ガーデンふ頭臨海緑園完成
1984年(昭和59) 名古屋港ポートビル完成
1985年(昭和60) 南極観測船「ふじ」係留
1992年(平成4) 名古屋港水族館開館
2001年(平成13) 名古屋港水族館北館開館

だいたいこのあたりに鉄桟橋があった。

名古屋ポートビル


「南極観測船ふじ」

「宗谷」に次ぐ、2代目南極観測船。
日本初の極地用本格砕氷艦。
自衛艦初のヘリコプター搭載艦。
1965年(昭和40年)3月18日に進水、7月15日竣工。
1984年(昭和59年)4月11日に退役。1985年8月より、名古屋港博物館船として係留されている。

https://nagoyaaqua.jp/garden-pier/fuji


「南極観測船ふじ」船内

1965年(昭和40)から18年間、南極観測を支援してきた砕氷船。

第9回の南極観測時の砕氷艦ふじ艦長の森田1等海佐のコメント。

食堂室
椅子は2008年引退の初代しらせのもの。

調理室

麻酔ガスは「笑気」なんですね。

自衛艦旗
第7次南極観測記念

格納庫は、南極観測に関する展示コーナー

ふじ搭載のヘリコプター「S-61A」

艦橋

上部操舵所
そこに至るまでが怖い。。。

デッキクレーン


名古屋港ポートビル

隣の名古屋港ポートビル、へ。


名古屋海洋博物館

名古屋港発祥の地「熱田の浜」

「ろせった丸」の入港と、名古屋開港

「ろせった丸」は、明治39年(1906年)に巡回博覧会船として、全国の港を巡航し、展示品を即売した移動博覧会を実施していた。特に、当時築港工事が進められていた名古屋港(現・熱田港)への入港は、築港反対運動を沈静化させ、名古屋港開港の契機となった。

https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h3.html

1907年(明治40年)名古屋港開港

戦争中、名古屋港は機動作戦基地にはならなかったため、兵員や兵器などの軍需品輸送港としては使われなかったが、全国有数の軍需工場地帯であったため、激しい空襲にさらされることになった。
1944年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、翌年1月13日の三河地震で名古屋港の港湾機能は麻痺状態となり、終戦を迎えた。

名古屋汎太平洋平和博覧会


名古屋港ポートビル展望室

展望室から名古屋港を眺める。

ふじを上から。

ちょっとした展示コーナーも。

※撮影:2025年5月


関連

護衛艦「いなづま」(横浜開港祭2025)

横浜開港祭2025で護衛艦「いなづま」の一般公開がありましたので、足を運んでみました。
「呉からようこそ!」なのです!

横浜ハンマーヘッド9号岸壁にて。


護衛艦「いなづま」

DD-105 護衛艦「いなづま」
むらさめ型護衛艦の5番艦。艦名としては旧海軍時代から数えて4代目。
三菱重工長崎造船所にて1997年5月8日起工、1998年9月9日進水、2000年3月15日に就役。
第4護衛隊群第4護衛隊に所属し、定係港は呉。

午前9時半。乗艦前。

第44回横浜開港祭親善大使の4名

一日艦長さんも

THUNDER STORM
DD-105
護衛艦いなづま

らっぱ演奏

横浜ノースドッグもついつい。

※撮影:2025年6月1日


関連

タイ王国バンコクの戦跡散策その5・立川飛行機「九九式高等練習機」と日本小型「滑空機」(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記の続き


九九式高等練習機(立川飛行機・キ55

タイ王国空軍に残された「九九式高等練習機(キ55)」。
日本には残っていない日本製の航空機。

大日本帝國陸軍の練習機。通称「九九式高練」「九九高練」。
1939年(昭和14年)に立川飛行機が開発し正式採用、立川飛行機と川崎飛行機が製造を担当。
1940年(昭和15年)から新型練習機として陸軍飛行学校に配備。
1943年(昭和18年)までに、立川飛行機で1075機、川崎飛行機で311機の合計1386機が生産された。終戦まで陸軍の高等練習機の主力機。
生産された機体は、日本陸軍の飛行学校で運用されたが、一部は満洲国やタイ王国にも輸出された。
タイ王国空軍は1942年(昭和17年)に本機を導入。24機が運用された。1945年の終戦時には22機が残存し、18機が稼働状態にあり、1951年まで運用されたという。

RTAF Ki-55 Tachikawa
RTAF acquired 24 Ki-55 advanced trainers from Japan in 1942. The aircraft was used to train student pilots at Flying Training School in Nakhon Ratchasima. This one on display is one of the two Ki-55’s left in the world. The other is at air museum in Beijing, China
Commissioned:1942-1950

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍) キ-55 立川
RTAFは、1942年に日本からキ-55高等練習機24機を導入しました。この機体は、ナコーンラーチャシーマーの飛行訓練学校で訓練生のパイロット訓練に使用されました。展示されているこの1機は、世界に残る2機のキ-55のうちの1機です。もう1機は中国の北京航空博物館に所蔵されています。
就役期間:1942年~1950年

九八式四五〇馬力発動機
発動機番号 第10928号
製造年月 昭和17年6月
製造所名 日立航空機株式会社


初級滑空機「鳩」(日本小型飛行機・K-14)

1941(昭和16)年に、大東亜共栄圏の国策に応じて、朝日新聞社がタイ国に(初級)鳩型、(中級)蔦3型、(高級)鳳2型を贈り、そのうち、鳩型と鳶型が展示されている。

滑空機は、日本小型飛行機株式会社の宮原旭技師長の設計。
のちに、日本小型式K-14型(戦後生産の後進となる霧ヶ峰式はとK-14型」につながる。宮原旭は三菱名古屋航空機出身の航空機技術者、貴族院議員、男爵。戦後は自作航空機の普及啓発に努めた。

なお、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Hato」の解説文の図絵が「Tobi」になっている。

RTAF Nihon Kogata Hato
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari(Ootoriの誤字ですね) to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Hato or Lenlom on display is elementary training glider. It repuires a light tow-aircraft to become airborne.

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳩
1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「ハト(鳩)」または「レンロム」は、初級訓練用グライダーです。 飛行するには軽量の牽引機が必要です。


中級滑空機「鳶」(日本小型飛行機・K-15)

上記と同じく、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Tobi」の解説文の図絵が「Hato」になっている。

RTAF Nihon Kogata Tobi
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Tobi or Liwlom on display is aprimary training glider. It needs a catapult launch for taking off.

1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳶
日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「トビ(鳶)」または「リウロム」は、初等訓練用のグライダーです。離陸にはカタパルトの発射が必要です。


以下は、日本とは関係ないけど。同じ空間に展示されていたので紹介。

DeHavilland DH-82A Tiger Moth

イギリスのデ・ハビランド社製の練習機。愛称はタイガー・モス。
初飛行は、1931年。
タイガー・モスは、日本では、満州事変の際に鹵獲された元国民革命軍機を、関東軍が輸送・連絡機として使用していたこともある。
タイでは戦後の導入。タイ海軍で運用予定であったが、クーデター騒ぎ(マンハッタン反乱)で、海軍は懲罰として縮小され、海軍航空隊は閉鎖のうえで、航空兵力は全てタイ空軍に移管。

RTAF De Havilland DH-82A Tiger Moth
Royal Thai Navy purchased 30 Tiger Moths from England in 1950. The Navy planned to use this primary trainer in Navy Flying School. However, in 1951 the Navy had to transfer all aircraft to Royal Thai Air Force. There the Tiger Moth was used to train members of Thai Flying Club.
Commissioned: 1951-1961

RTAF デ・ハビランド DH-82A タイガーモス
タイ海軍は1950年にイギリスから30機のタイガーモスを購入しました。海軍はこの初等練習機を海軍飛行学校で運用する予定でした。しかし、1951年に海軍はすべての機体をタイ空軍に移管せざるを得なくなりました。そこでタイガーモスは、タイ・フライング・クラブの隊員の訓練に使用されました。
就役:1951年~1961年


Boeing Model 100E(ボーイング・100E)

タイ王国空軍で最古の航空機。
アメリカで1929年より運用されたアメリカ海軍複葉艦上戦闘機「F4B」の派生型が「P-12」となりアメリカ陸軍陸上戦闘機で運用。
タイ空軍向けのP-12Eの輸出型が「100E」。2機製造のうち1機は、後に日本海軍に試験機としてAXBの名称で移管された。

アメリカ国内以外での海外展示は、タイ・バンコクのみ。

RTAF Boeing Model 100E
RTAF purchased 2 Boeing 100E fighters from USA in 1931. It is an export version of P-12E. At the same time, RTAF acquired 2 Bristol Bulldog fighters from England and 2 Heinkel HD43 fighters from Germany. These aircraft ware under evaluation to find the most suitablle fighter for RTAF. This Boeing 100E on display is the oldest Thai aircraft still exists today.
Commissioned:1931-1941

RTAF ボーイング モデル100E
RTAFは1931年にアメリカからボーイング100E戦闘機2機を購入しました。これはP-12Eの輸出型です。同時に、RTAFはイギリスからブリストル・ブルドッグ戦闘機2機、ドイツからハインケルHD43戦闘機2機を取得しました。これらの航空機は、RTAFに最適な戦闘機を見つけるために評価中でした。展示されているこのボーイング100Eは、現在も残るタイの航空機の中で最古のものです。
就役期間:1931年~1941年


Curtiss Hawk 75N(カーチス・ホーク75N)

1935年にアメリカのカーチス社が開発しアメリカ陸軍などで運用された「P‐36ホーク」。
タイ空軍は、P-36 廉価版の固定脚仕様のホーク75Nを導入。
固定脚のホーク75としては現存唯一の機体。

RTAF Curtiss Hawk 75N
 Hawk 75N is a simplified version of P-36 fighter with fixed landing gear. Twelve Hawk 75N’s were purchased from USA in 1937 to become the first all etal monoplane fighter in RTAF. The aircraft flew in combat during French in RTAF. The aircraft flew in combat during French Indochina Conflict(1940-1941)and World War 2 (1941-1945). This Hawk 75N on display is theee sole surviving fixed landing gear Hawk 75 in the world.
Commissioned:1937-1949

RTAF カーティス ホーク 75N
ホーク 75Nは、固定脚を備えたP-36戦闘機の簡易版です。1937年にアメリカから12機のホーク 75Nが購入され、RTAF初の全金属製単葉戦闘機となりました。この機体は、フランス占領下、フランス領インドシナ紛争(1940~1941年)および第二次世界大戦(1941~1945年)において実戦に投入されました。展示されているこのホーク 75Nは、世界で唯一現存する固定脚式のホーク 75です。
就役:1937~1949年


ちょうど、タイ空軍の88周年の記念式典の準備が行われていたようでして。

タイ王国では国王は神の化身とされ、国民の深い敬愛の対象となっている。

※撮影:2025年2月

タイ空軍博物館、これは、また行きたいです、、、


タイ王国バンコクの戦跡散策その4・泰仏インドシナ紛争と第二次世界大戦機(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記も。


タイ空軍とインドシナ紛争

タイ王国は、フランスに5度に渡り領土を奪われ、タイ政府は国境の調整を何度もフランスに提案してきた。
フランス航空機は、タイ領空を飛行することも多く、タイ政府は領空侵犯に関しても、フランス政府に講義してきたが、フランスは変わらずに偵察機を飛ばし続きてきた。
この蓄積した対立が、のちの「インドシナ紛争」へと発展していくことになる。

1940年11月28日、インドシナ紛争において、サニット飛行隊司令官は、南方からタイ領空に侵入してきたフランス空軍機5機を迎撃するために、「V-93コルセア」「カーティス・ホークⅢ」を派遣。
迎撃対空戦にて、タイ空軍はフランス軍機を1機撃墜し、無傷完勝を収めた。
この戦いは、インドシナ紛争における最初の空中戦にして、タイ王国史上最初の空中戦(ドッグファイト)であった。

1941年1月25日、タイ王国とフランス政府の紛争を日本が仲裁を開始し、3月には調停案に合意となり、タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わった。

タイ王国空軍英雄記念碑
フランス領インドシナ紛争
1940-1941
サニット・ヌアンマニー空尉(Sanit Nualmanee)
「タイの領空は誰にも踏みにじまれることはない」


中島飛行機「一式戦闘機・隼(キ43)」残骸

地中に埋められれていた隼の残骸が2013年に発見された。
ドンムアン飛行場に駐留していた大日本帝国陸軍の中島キ43・一式戦闘機「隼」。
タイ空軍では、1943年から1949年にかけて、「13型戦闘機」の名称で24機のキ43‐2b「隼」戦闘機(一式戦闘機二型乙)が運用されていた。

1945年3月15日に墜落したと思われる「隼」のエンジン、プロペラ、ホイールベース。

手前の発動機は、次項目記載の「九七式戦闘機(キ27)」の中島ハ1(寿)。


中島飛行機「九七式戦闘機(キ27)」残骸

「九七式戦闘機(キ27)」の翼部分の残骸
1981年に漁船が「九七式戦闘機(キ27)」残骸を発見した。
南方作戦に参加した帝国陸軍の機体。

タイ空軍では、1942年から1949年まで、12機の九七式戦闘機(キ27)を「12型戦闘機」の名称で運用していた。


ノースアメリカン「P-51D・マスタング」残骸

アメリカ陸軍航空隊第2航空コマンド群所属のノースアメリカン「P-51D・マスタング戦闘機(44‐15302)のアルバート・エイブラハム大尉の機体。
1945年4月9日、ドンムアン飛行場を機銃掃射中に対空砲で撃墜され、エイブラハム大尉は脱出するも、戦争終結まで捕虜となった。


カーチス「ホークⅢ・BF2Cゴスホーク」
Curtiss HawkⅢ(Curtiss BF2C Goshawk)

カーチス社が1934年に開発した複葉機「BF2Cゴスホーク」。
1935年、タイ空軍は、アメリカのカーチス社から、「BF2Cゴスホーク」の海外輸出機「ホークⅢ(HawkⅢ)」を24機発注し、50機の国内生産ライセンスを取得。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」は、カーチス社が、アルゼンチン、中国、タイ、トルコ向けに770馬力(R-1820-F53)発動機を搭載したBF2C-1の輸出バージョン。総生産数137台。

「ホークⅢ」は、タイ空軍初の戦闘機。
タイ空軍では、10型戦闘機と愛称され、フランス領インドシナ紛争や第二次世界大戦での主力機であった。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」同型機の現存機は、世界で唯一の機体。


ヴォート「V-93S・O2Uコルセア(初代コルセア)」
Vought V-93S/SA Corsair

ヴォートO2Uコルセア
1927年にアメリカ海軍に発注されヴォート社によって開発された。
複葉複座の偵察/観測機。
残存するコルセアは1機だけで、タイ空軍博物館に展示されている「O3U-6」のタイ向け輸出型「V-93S」のみ。
タイ空軍で、タイ・フランス領インドシナ紛争の時に活躍。

日本海軍も「ヴォートAXV1」として、1929年に評価のために大日本帝国海軍航空隊に一機だけ供給されたO2Uがあり、これは後に、九〇式二号水上偵察機となる。


グラマン「ベアキャット」
Grummam F-8F-1/1B Bearcat

タイでは戦後の導入であるが、第二次世界大戦中に開発された、最強のレシプロ艦上戦闘機。米軍では1945年から運用が開始された。

タイ空軍では、1951年より導入され、愛称は15型戦闘機。
最盛期には、ベアキャットを200機以上、保有していた。
タイ空軍最後のピストンエンジン駆動・プロペラ駆動の戦闘機。


シャム航空機工廠「ポリパトラ」複葉複座軽爆撃機
(Boripatra Bomber Type2)レプリカ

1927年に初飛行したシャム航空機工廠での設計製造された複葉複座軽爆撃機。
タイ王国で設計された最初の航空機。
現在はレプリカが2機、タイ王国空軍空軍博物館で展示してある。
(紹介プレートがない、、、)

意外なことに、タイ王国は自国で航空機設計ができる技術力を有していたのだ。


タイ王国空軍博物館には、大戦機として、「米カーチスSB2Cヘルダイバー」「英フェアリーファイアフライ」「英スーパーマリン・スピットファイア」などもいるというのだが、展示飛行機が多すぎて、見逃していたり、見当たらなかったり、とかで。
うーん、これは再訪しないといけないかもしれません。。。

※撮影:2025年2月

タイ王国バンコクの戦跡散策その3・黎明期のタイ航空機と大東亜戦争タイ空軍の絵画(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記もあります。


タイ王国空軍博物館

バンコク・スカイトレインBTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)「Royal Thai Air Force Museum駅」(タイ王国空軍博物館駅)の直ぐ目の前。
立地としては、ドンムアン国際空港、ならびにドンムアン空軍司令部に隣接した場所となる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/8B7F1oqc8y93ofTn7

正面

ラマ5世銅像
タイ三大王のうちの一人、タイの近代化を推進。

銅像の裏。

入口。

F-5Aがお出迎え。

タイ空軍の部隊の所在地かな。


タイ王国の航空黎明期

「航空力は我が国を戦争から守る唯一の盾であり、また平時には輸送にも大きな役割を果たしている。」
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)、のちのラーマ6世
タイ王国空軍の父(ラーマ6世)

ちなみに、ラーマ5世の王子は、それぞれ3軍の父となっている。
海軍の父 
 チュムポーンケートウドムサック親王
  アブハカラ・キアーティヴォンセ王子
空軍の父 
 ピサヌロークプラチャーナート親王 
  チャクラポンプーワナート王子
陸軍の父 
 ナコーンチャイスィースラデート新王 
  チラプラワットワラデート王子

航空黎明期
1903年のライト兄弟から始まった航空機時代

1921年‐1932年まで使用されたタイ王国空軍のパイロット制服

第二次世界大戦


タイ王国の最初の航空機

タイ王国の航空史は、1911年に、サラパトゥム競馬場にベルギーパイロットにおいて展示されたことから始まる。
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は1912年に3人の将校をフラン氏に派遣。1913年11月2日に、航空技術を習熟した3人の将校は8機の航空機とともに帰国した。
1914年にドンムアンに常設飛行場が完成しタイ王国での航空機運用が開始された。

タイにおける最初の航空機と飛行場

ニューポール単葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

プレゲ複葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

タイ航空の父 ラーマ6世

タイ国産機(Paribatra)


タイ空軍に関係する絵画

タイ王国での最初の国産機「パリバトラ」(ボリパトラ)
Luang Amphorn Baisal飛行中尉

いろいろなタイ空軍に関係する絵画があった。見ていて楽しい。
言葉がわからないけど、絵なら伝わってくる。

サヤーム王国(タイ王国)陸軍局局長であったヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は航空機に多大な関心を示し、1912年2月28日、「タイ王国を飛行機先進国とする」という使命を帯びた3名の将校を航空技術習得のためにフランスに派遣した。
派遣された3名の将校、ルアン・サックサンラヤーウット少佐(スニー・スワンナプラティープ)、ルアン・アーウットシキゴーン大尉(ロン・シンスック)、ティップ・ゲトゥタット中尉は、飛行技術を習得し、1913年11月2日、8機の航空機(ブレゲー4機、ニューポール4機)とともに本国に帰国。
この3名の将校は、今日「タイ空軍の父」と見なされている。

3人の肖像は、すなわち、タイ空軍の黎明期を担った彼らなのだろう。

1914年1月13日、国王陛下隣席での3機の航空展示


唐突に出てきた、お姉様。

この辺りは、日本でもグッとくる万国共有の感性。


日本供給航空機の絵画(大東亜戦争絵画)

1940年、フランス領インドシナ紛争により米国がタイ国へ航空機の供給を停止した。そのためタイ空軍は航空機の供給を日本に切り替え、三菱キ30軽攻撃機「九七式軽爆撃機」(M103「ナゴヤ」)25機と、三菱キ21重爆撃機(キ21-I)「九七式重爆撃機」9機を購入することとなった。

タイ政府は日本軍の通過権を承認し、日本と同盟を結び、タイ王国空軍は1942年-43年にかけて日本軍の進軍を援護した。
三菱 キ21 九七式重爆撃機

インドシナ紛争においてタイ王国空軍は防空において積極的に役割を果たし、タイ王国海軍とタイ王国陸軍の支援を実施。

1942年、タイ王国空軍はキ27b Nate 戦闘機「九七式戦闘機」を12機、日本に発注した。
この機体は7.7mm2挺と55ポンド爆弾4発を搭載していた。

1943年、大東亜戦闘において、12型戦闘機(中島キ27bNate)「九七式戦闘機」は、ランバーン県コーカ飛行場の第16飛行隊に配備され、爆撃機や攻撃機の護衛任務を努め、タイ北部の哨戒任務に努めた。

1943年、タイ王国空軍は、日本から24機の中島キ43Ⅱb「隼」戦闘機を購入。12,7mm機関銃2挺と550ポンド爆弾2発を搭載できる「隼」は、大東亜戦争中のタイ王国空軍で最も高性能な戦闘機であった。

1944年6月5日、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機98機はバンコクのマカサン鉄道操車場を攻撃した。タイ空軍は3機の中島キ43「隼」を派遣し、迎撃を試みたが失敗に終わった。

1944年11月27日、バンスー操車場は、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機55機による空襲を受けた。たいと日本の中島キ43「隼」戦闘機14機が、巨大なB-29の迎撃を試みた。
隼のパイロットの一人、テルサック飛行中尉は、B-29を攻撃し損傷させたが、反撃により撃墜された。テルサック飛行中尉は、重度の火傷を負いながらも、ベッチャブリー上空で損傷した隼からパラシュートで脱出した。損傷したB-29は基地に帰還する途中で撃墜され行方不明となった。


そのほか展示物

写真をいくつか。。。
展示物は多すぎてお腹いっぱい、取りこぼしも多数。。。


そのほか航空機

写真は順不同

タイ王国で最初のジェット機T-33

F-5

Douglas A-1H Skyraider

いっぱい並んでる。

Fairchild C-123B Provider

中に入れた。

右も左も圧巻の展示。

Cessna A-37B Dragonfly

ファントレーナーFT-400

ヘリコプターも

レーダーも展示?

火器類

こっちにも

左:ノースアメリカン製中間練習機T-28Trojan
右:ピラタス製軽飛行機PC-6

建物を取り囲むように航空機の展示が続く。

Beech C-45F Expeditor

Fairchild Swearingen SA-227AT

食堂と喫茶室とお土産屋さんがある建物。

軍人さんも利用。

ココナッツアイスコーヒーで一休み。テーブルの下に、戦闘機がいました。

いやはや、圧巻ですよ、これはまた期待です。
(スピットファイアとかヘルキャットをみるためにも)

駅チカ。

※撮影:2025年2月


「ともちゃん地蔵」満洲難民収容所の悲話を伝承するお地蔵様(岩槻)

六本木にある「ともちゃん地蔵」に関しては、以前の記事に記載しました。

「ともちゃん地蔵」は、東京「六本木」を皮切りに、全国各地に賛同者を得て造立されてきた。

  • 六本木
  • 岩槻
  • 箱根
  • 浜松

今回は、岩槻の「ともちゃん地蔵」を掲載。


ともちゃん地蔵

ともちゃん地蔵は、増田昭一さん(2020年12月に急逝、ドラマ「遠い約束」の原作者)が自身の体験をつづった「満州の星くずと散った子供たちの遺書 新京敷島地区難民収容所の孤児たち」に収められた「ともちゃんのおへそ」という伝承に基づく。
「ともちゃんのおへそ」は、のちに絵本にもなった。

公益財団法人中国残留孤児援護基金 中国帰国者支援・交流センター 

https://www.sien-center.or.jp

ともちゃんのおへそ

https://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/shuki/sm/hokuman_top.html

増田昭一の本

http://www.yumekoubou-t.com/raiburari/masudasyouitinohonn.html


岩槻の「ともちゃん地蔵」

岩槻の「ともちゃん地蔵」は、千野誠治さんの活動に賛同して建立されたお地蔵様。
慈恩寺「玄奘三蔵霊骨塔」の裏に鎮座している。

ともちゃんの おへそは お母さんの 顔

ともちゃん地蔵
ともちゃんは 夕方になると 難民収容所の 隅っこの お母さんのお墓の前で 小さな手を合わせます
ズボンをちょっと下げ 上着をまくりあげ おへそを眺めます
「お母さんに会いたいときは おへそを見なさい きっとお母さんの顔が 見えるでしょう」
お母さんは死の床で そう言いました
寒さが収容所を襲うと 弱い者から命を奪われます
ともちゃんも仲間のお兄さん達も 身体をくの字に曲げて おへそを眺めながら 死んでいきました
遠い昔中国の北の街に そんな子供達がいたことを 忘れないでください
二度とこんな悲しみを 子供達に 負わせないでください
 2001年1月25日
  紅梅の会 
   村上米子

合掌

撮影用に、おへそを確認しましたが、実は服を着ていたので、撮影完了後に服を戻しました。


玄奘三蔵霊骨塔

西遊記(孫悟空)で名高い、玄奘三蔵法師の霊骨石塔。
13重で高さは18mあり、慈恩寺が管理。

三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現・西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になったが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨された。日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開となった。
第2次大戦後、日本仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に13重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が造営。
その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/1byCHzxw8RE7pe6k8

石亀がいました

ピザ窯だそうで。

慈恩寺の本堂。玄奘三蔵霊骨塔は飛地のため、少し離れている。

玄奘塔への行き方。

鎮護国家の旗台は昭和17年2月奉納。

忠魂碑
日露戦争と、支那事変・大東亜戦争での犠牲者。

※撮影;2025年5月

場所:

https://maps.app.goo.gl/QdGTBUxTaUEUmdFB9


関連

大阪大空襲による弾痕が残る「旧制北野中学校本館西壁」と「殉難碑」(大阪市淀川区・北野高校)

大阪に出張のおり、夕刻に時間ができたので、北野高校に残る弾痕壁を見学してきました。


空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」

昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、昭和20年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmに及ぶ。

大阪大空襲
1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲があり、なかでも下記の8回は特に大規模な空襲として、延べ1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

殉難乃碑
昭和20年6月15日の空襲により、北野中学2年生の中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃る 
 北野百年史

空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
 太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
 昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校、当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず、生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
 旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
 この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
 戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
  平成7年12月
   大阪府立北野高等学校

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6fcd0dbdf51dfd47d212f0bccf5bf49bc551fe7?page=1

https://www.sankei.com/article/20250429-YFNUPEQVYFJPZGZQ4NCGEG7RTQ

壁に残る28個の弾痕が生々しく、往時の惨劇を伝える。


「北中」記念碑

大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校。

「北中」記念碑
1931年竣工の昭和校舎屋上の飾り壁。
円形の窓にはめ込まれた「北中」の文字。
その幾何学的な美しい意匠は、六稜の星とともに北野の象徴として、文武に励む幾多の俊秀の胸に刻み込まれてきた。

※撮影:2025年4月撮影(PENTAX WG-1000)

※場所

https://maps.app.goo.gl/TsiyPNNsg7d688RS8


関連(大阪の空襲)

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」と「中国帰国者之墓」(西多摩霊園・あきる野市)

あきる野市にある「西多摩霊園」。
ここに、「中国帰国者之墓」と、ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」があるというので足を運んでみた。

「まんしゅう母子地蔵」が浅草寺に鎮座しており、どちらも漫画家のちばてつや氏のデザインとなる。


「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵」は、あきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横に鎮座。
浅草の浅草寺にある「まんしゅう母子地蔵」と同じく、ちばてつや氏がデザイン。

中国帰国者之墓
内閣総理大臣 海部俊樹 書

海部俊樹総理大臣の銘。1990年6月の建立。

合掌

墓碑銘
 1931年9月満洲事変以降、五族共和・王道楽土建設の名のもと多くの日本人が中国東北地方に渡った。特に重要国策として、日本全国から開拓団青少年義勇軍が中ソ国境に送り込まれた。
 しかるに第二次世界大戦末期ソ連軍の侵攻に際し、日本軍の庇護無く、多くの婦女子が、飢え・病・酷寒に苦しんだ。また逃避行の果て家族は離散し異郷に永く放置されたが中国の人々に救われた。
 戦後四十有余年、多くの孤児・夫人達が念願叶い、故国に帰ったが、定着自立の過程で不幸にして他界された御霊を此処に祀る。
 再び過ちが繰り返されぬことを願い永遠に安らかに眠られんことを祈る。
  1990年6月
  中国残留孤児の国勢取得を支援する会
   会長 河合弘之

由来
 望郷の思い久しくようやく帰国した残留孤児・残留夫人は懸命に定着、自立の努力を続けていますが、その過程で新たな問題が発生しました。それは、せっかく祖国に帰りながら不幸にして他界した夫人・孤児あるいはその家族の人達の御霊が眠る墓所がないことです。
 そこでこの墓所を中国残留孤児の国籍所得を支援する会が発案し、孤児支援関係者・厚生省など関係各庁の方々、西多摩霊園、宮川石材株式会社等、そのほか心ある方々の協力によって建立されたものです。衷心よりお礼申し上げます。
 1990年6月
  中国残留孤児の国籍取得を支援する会
   事務局長 千野誠治

「まんしゅう地ぞう」由来
 今日は遠路『まんしゅう地ぞう』さまにお参りされご苦労さまです。
この機会に、お地蔵さま建立の由来について申し上げたいと思います。
 おとなたちが起こした、さきの大戦敗戦の結果、当時の満州で数万の子供たちが亡<なりました。一九四五年八月九日、突然のソ連軍侵攻。守ってくれる筈の日本軍は頼りにならず、ソ連戦車に蹂躙され、暴民の襲撃にさらされながら、人々は一歩でも祖国に近づこうと必死の逃避行を続けました。襲い来る飢、疫病、酷寒そして集団自決、そのなかでおとなたちの手によって死んでいった子供たちもいました。罪のない子供たちが、なぜ虫けらのように死ななければならなかったのでしょうか。
子供たちの魂は日本に帰えれず、花一本供えられることもなく、まだ満洲の荒野で迎えを待っているのではないでしょうか。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りました。ともすれば戦争の惨禍が忘れられ、多くの子供たちの貴い命がその犠牲になったことも消えてしまいそうです。改めてここに、幼い御霊よ安らかなれと祈り、再びあやまちを繰り返さないことを誓い、永遠の平和の願いをこめて『まんしゅう地ぞう』を建立した次第です。お地蔵さまのお慈悲、皆の思いは遠く満洲の地に眠る非運の子供たちに届くことを信じてやみません。
 最後に、和田圭子さんから頂いた短歌を捧げてご冥福をお祈り申し上げます。
 異郷にて はかなくなりし幼児の みたまかへれよ ちちははの手に
 風となり  雲ともなりて  遊べかし  お地蔵さまに  見守られつつ

デザイン ちばてつや 題字 井上翠園
彫刻 和泉成治 石材 宮川八三吉
 一九九五年十一月
  まんしゅう地ぞう建立委員会

中国帰国者支援・交流センター
https://www.kikokusha-center.or.jp/index2.html

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)は、漫画家のちばてつや氏のデザイン。
ちばてつや氏は、2歳の時に満洲国奉天にわたり、6歳のときに同地で終戦を迎え、多くの困難を経て満洲国から引き揚げを経験している。

まんしゅう地ぞう

「まんしゅう地ぞう」から、西多摩霊園を眺める。


西多摩霊園

東京郊外の大規模霊園。予想以上に広く、そして山を切り拓いた感もあり、アップダウンも激しい。
私は、福生駅からシェアサイクルで赴いたが、同じく福生駅からは無料送迎バスもあるとのことで、バスを使うのものあり。

https://nishitamareien.com/guidance_top/guidance/guidance1

西多摩霊園は、都内最大の民営公園墓地。昭和41年開設。広大な聖域は15万坪(50万平方メートル)を有し、総区画数は約3万区画にも及ぶ。

もちろん、場所がわからなかったので、管理事務所で「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵」の場所を尋ねると、受付のお姉さんが教えてくれます。
「案内図のここ(黒線で行き方を記載)を右にいった、第5区の1号の1列、おおきなお地蔵さんがあるので、すぐわかると思いますよ」

親切にありがとうございます。
お陰様で、迷わず、たどり着けました。

https://nishitamareien.com/img/Gardenmap2023.jpg

ちなみに、5区の入口には東海大学の創設者・松前重義博士の顕彰碑「望星塚」がある。

※撮影:2025年5月
※Pentax WG-1000


満洲関連

世界最大級の無線送信施設だった「依佐美送信所」(依佐美送信所記念館・愛知県刈谷市)

完成当初、世界最大級の無線送信施設で、東洋一の長波送信所であった「依佐美送信所」の記念館に足を運んでみました。


依佐美送信所

依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
依佐美送信所は昭和4年(1929)に運用を開始した長波及び短波の無線送信所。
開設当初の対になる受信所は「四日市受信所(海蔵受信所)」(昭和3年竣工、兵庫県の小野受信所開設に伴い昭和13年廃止)であった。
大戦中は、海面下にも届く長波(超長波)の特性を活かして、帝国海軍の潜水艦との交信に活用された。
昭和16年12月2日、瀬戸内海に停泊する連合艦隊旗艦「長門」から有線で東京通信隊に送信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、「船橋送信所」から短波と長波で発信され、「依佐美送信所」からは超長波で潜水艦向けに発信されたという。
戦後、米国海軍は依佐美送信所を接収し、潜水艦通信に使用。平成5年(1993)に送信停止され、翌年に日本に返還。
鉄塔本体は平成9年(1997)に全8基の解体が完了し、残った局舎なども平成18年(2006)までに解体された。
社宅跡は「フローラルガーデンよさみ」として公園整備がなされ、その一角に依佐美送信所記念館が平成19年(2007)4月に開館している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1078-17
1948年3月3日、米軍撮影の航空写真。

依佐美送信所界隈を拡大。

250m鉄塔(無線鉄塔1号塔)は、こんな感じ。影の長さが、高さをよく表している。


依佐美送信所記念館

詳細は公式サイトにて

https://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp

依佐美送信所記念館
 依佐美送信所は昭和4年(1929)に建設された、当時としては世界最大級の無線送信施設で、長波によるヨーロッパへの送信を日本で初めて行いました。これにより当時の外交や通商は飛躍的に向上し、その後短波通信施設も強化され、長・短波ともに日本の国際通信設備としての重要な役割を果たしました。
 第二次世界大戦後の在日米国海軍の接収、平成6年(1994)の日本への返還を経て、その役割を終えた送信所は平成18年に全施設が解体・撤去されました。
 この送信所の産業遺産としての価値を評価し、長波用送信装置および関係資料を保存し後世に伝えていくことを目的として、ここに依佐美送信所記念館を建設し、平成19年4月に開館しました。

依佐美送信所鉄塔
 明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらしました。こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年(1925年)3月帝国議会において「日本無線電信株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧送信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(三重県三重郡海蔵村)に設けられることになりました。
 依佐美送信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年(1927)7月に着工、4年3月に完成しました。送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置されました。アンテナ電力500キロワットは長波としては世界最大のものでした。
 この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され、相対する鉄塔間に張られた4本の吊架線に逆L型T6条のアンテナが吊り下げられました、接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設されました。
 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設されました。
 昭和4年3月全ての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始されました。これは外交上および通商上の画期的躍進でした。
 第二次世界大戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至りましたが、昭和25年4月在日米国海軍に接収され、昭和27年7月から運用が再開されました。
 平成6年(1994)8月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成9年3月にアンテナ、鉄塔等の撤去を完了しました。こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消しました。
 ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存します。
  刈谷市

鉄塔平面図

鉄塔姿図

依佐美記念館の外観。
依佐美送信所には長波の発信機である高周波発電機が残されており、2006年の解体時に、新たに建造した記念館で保存している。記念館外観は、旧送信機室を模したもので、内部には高周波発電機をはじめ、ローディングコイル、制御盤など旧送信所の設備の8割が静態保存されている。

旧送信機室を模している。


記念鉄塔と鉄塔頂上部(無線鉄塔2号塔跡地)

記念館に隣接する高さ25mの記念塔。解体された無線鉄塔の2号塔跡地にあり、1/10スケールで復元されている。(平成11年建設)
また、敷地内には、250mの鉄塔の頂上部がある。

250mの鉄塔の頂上部


フローラルプラザ(公園事務所)

依佐美送信所の建物(送信局舎本館)をモチーフに作られた公園事務所。

「フローラルガーデンよさみ」

樹木の根元も無線鉄塔イメージでかわいい。


依佐美送信所記念館内部

館内には依佐美送信所で使用された送信機器類など関係資料が保存されている。

米国海軍が送信所を使用していた際に送信室の入口に掲示されていた送信室の説明「Explanation」

依佐美送信所の無線鉄塔跡のマップ。
全部巡ると4キロ60分だそうで。

無線鉄塔の位置関係を俯瞰。

依佐美送信所ジオラマ

位置関係がわかりやすい

長波送信局舎

現在のフローラルプラザと依佐美送信所記念館の建物は、本館と送信所を模している。
長波送信局舎の敷地は、現在はソーラーパネル発電所。

長波用大鉄塔

大鉄塔は1996-7年に解体。鉄塔基礎の跡地は刈谷市の所有となり、長波送信局舎構内から移植されたクスノキが2本ずつ植えられている。
8号塔跡地には鉄塔基礎が残る。(今回はそこまでは行けませんでした。。。)

引留鉄塔

戦後の米国海軍のアンテナ改良にとり、引留鉄塔は廃止され、その痕跡は残っていない。

短波送信局舎

短波送信局舎は、長波局舎の南約1キロの場所に、昭和11年(1936)二完成。
戦後は民間企業に買い取られ、現在も企業敷地内に現存していいる。依佐美送信所の建物として唯一の現存建造物。(あとで見に行こう。。。)

臨時鉄道引込線

名鉄の小垣江駅から2.4キロの臨時線路が敷設された。
線路は送信所完成後に撤去され、道路や田畑となっている。

社宅・寮

フローラルガーデンよさみが、社宅の跡地。

コイルハウス

戦後、昭和38年にコイルハウスを建設に性能向上が図られた。

依佐美変電所

現在の中部電力刈谷電力所依佐美変電所として往時と同じく電力を供給している。

製塩所

戦後に余剰電力を用いて不足していた塩を確保するために2年間ほど、声援事業が行われた。

神明橋

依佐美送信所の建造協力のお礼として鉄筋コンクリートの橋が村に提供された。送信所から世界に電波を発信をイメージして四隅に地球儀が設置され「地球橋」とも呼称された。
現在の神明橋は2000年に造営されたもので、往時を模して四隅に地球儀が設けられている。

短波用木柱郡

短波用アンテナは建設費が安い木柱が多様された。高さは最大で60m。

短波用75m鉄塔

昭和12年に短波用75m鉄塔は5基設置された。

短波用85m鉄塔

短波用アンテナは合計で43基設置された。
85mが5基、75mが5基、60m、45m、40m、30mの木柱が70本。
85m鉄塔は昭和13年に設置。
短波用鉄塔や木柱は昭和29年までに全て撤去され痕跡は残っていない。

在日米海軍通信隊による注意と立入禁止の看板

米海軍通信隊の看板

米海軍の紋章盾

主直流機励磁用電動発動機操作盤

主直流機励磁用電動発動機

主誘導電動機

主直流電動機

高周波発電機

送信機操作盤

高周波チョークコイル

鉄塔台座

250mの鉄塔を支えた台座。上部が球体になっているのは鉄塔が強風によって横揺れを受けても荷重を一点でうけ下部台座に力を均等に分散するため。

碍子

鉄塔支線

依佐美送信所本館の玄関ステンドグラス

航空障害灯

配布物、いろいろ


対欧無線通信発祥地

1989年に、電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立。

對歐無線通信發祥地
本田静夫書

依佐美送信所は我が国に於ける最初の欧州向け無線通信設備として建設され昭和四年四月十五日に運用を開始してから本日ここに六十周年を迎える
当時の長波送信機は周波数一七四四二ヘルツの回転型高周波発電機で二百五十メートルの鉄塔と七百キロワットの空中線電力は世界最大の規模であった
本送信所は昭和の時代と共に幾多の変遷を経て現在も電気興業依佐美送信所として真空管式送信機により運用されており歴史的学問的に貴重な価値を有するものである
ここに電子情報通信学会の東海支部創立五十周年と依佐美送信所の電波発射六十周年を記念して此の碑を建立する
 平成元年四月十五日
  電子情報通信学会東海支部
   創立五十周年記念事業会代表
    本田静夫

平成20年(2008) には、IEEEマイルストーンに認定されている。
IEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.)は米国に本部を置く世界最大の電気電子技術者の組織。
平成20年11月16日、依佐美送信所が国内9番目に認定された。世界最大の出力でヨーロッパへ国内で初めて送信したことや記念館に設備が保存されている点が評価された。

マイルストーン銘板

https://www.ieice.org/tokai/activity

場所

https://maps.app.goo.gl/RnBJeaVcrY5bpuip7


依佐美送信所・短波送信局舎

現在の小林クリエイト内に往時の建屋が残っている。

https://maps.app.goo.gl/w9iKYuJKmy3WGu8u7

正面の中央が往時の建屋。私が(歩き疲れたということもあり)現地で、正面に回り込むことを怠ったため、Googleストリートビューからキャプチャ。

北側からだと、こんな感じ。正直、よくわからない。

場所(正面)

https://maps.app.goo.gl/aMgkdphyLfurXD4P9

当時の航空写真(1948年)

現在の様子(Goole航空写真)


無線鉄塔1号塔跡地(依佐美クスノキ1号)

無線鉄塔の跡地には、刈谷市の木である「クスノキ」が2本ずつ植えられている。
なお、2号鉄塔跡地が、依佐美送信所記念館となっている。


無線鉄塔4号塔跡地(依佐美クスノキ4号)

短波送信局舎の近くに4号。


無線鉄塔3号塔跡地(依佐美クスノキ3号)

結構、遠くからでもわかるクスノキ。

依佐美送信所記念館は、遠くからでもよく分かる。

ちなみに、野田新町駅から2キロ30分歩いて、「フローラルガーデンよさみ」について、依佐美送信所記念館に1時間くらい滞在して、寄り道しながら4キロ60分ほど歩いて野田新町駅に戻った、とか、そんな感じ。
それなりに歩く覚悟が必要な場所です。(ちょうど良いタイミングでバスがなかった、、、)

※撮影:2025年3月


関連

「修武台・陸軍航空士官学校」修武台記念館(航空自衛隊入間基地)

2025年の冬に。
入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。

修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、また基地移動中も撮影禁止のため、今回のレポートは、記念館内の写真は無しとなります。

写真の公開には制約がありますが、日本で唯一の「桜花」など、写真を撮ることの制約はないので、そこは思う存分に。
敷地外から撮影した写真と、入手したパンフレットの画像を中心に、見学を検討している皆様向けに、そして自らの備忘のために記事を作成します。

修武台記念館と修武台記念碑(基地敷地外から撮影)


陸軍航空士官学校(修武台)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


修武台記念館

入間基地では、隊員の教育訓練(精神教育)及び航空自衛隊の良き伝統の継承を目的に、「修武台記念館」という歴史資料館が運営されています。

修武台記念館見学会応募要領に関しては、下記の公式サイトにてご確認をば。

https://www.mod.go.jp/asdf/iruma/kouhou/public_kinenkan/index.html

私が申し込んだ際は、(あえて人の少なさそうな)平日を狙って申込みをしたので「自由見学方式」と「ツアー見学方式」で合わせて10人もいないくらいの少人数で開催となり、私は自由見学方式を申し込み。ほぼ2階の旧軍関連の資料の観覧と撮影に時間を費やしました。
ツアー見学組は、90分の見学時間を使って無駄なくみっちりと解説を聞きながらの観覧のようでした。
次回は、ツアー見学で話を聞くのもありかなって思いました。

残念だったのは、野外展示の観覧が不可だったこと。
移動バスが、修武台記念館の前に直付けとなり、修武台記念館の外にも移動禁止。外の見学が出来ないのは、警備人員配置の都合だとかで。


修武台記念碑(修武臺記念碑)

昭和16年12月10日 陸軍大将 東條英機 謹書

修武台記念碑(基地敷地外からの撮影)

陸軍航空士官学校航空神社跡を後ろから(基地敷地外からの撮影)

修武台記念館(基地敷地外からの撮影)


航空歴史資料館 修武臺記念館(修武台記念館)

以下、パンフレットを参照にします。
(撮影したデータは公開不可のため)

航空歴史資料館 修武臺記念館

以下、拡大しつつ。

陸軍航空士官学校の航空標識(インシグニア)として使用された意匠

修武台記念館は、航空自衛隊員の教育訓練及び航空自衛隊の伝統の継承を目的として運営されています。
陸軍航空士官学校(航士)
昭和13年(1938年)5月、所沢にあった陸軍士官学校分校が入間川豊岡に移転し、同年12月に陸軍航空士官学校(航士)として創建されました。終戦までに七千名に及ぶ士官候補生らが教育を受けました。
旧陸軍航空士官學校本部長舎
太平洋戦争後の米軍進駐と撤収を経て、航空自衛隊の管理に委ねられ、昭和61年(1986年)から平成17年(2005年)まで旧修武台記念館として運営されました。旧陸軍士官学校本部庁舎の外観を模した修武台記念館は、同庁舎跡地に建設されて平成24年(2012年)に開館しています。

修武臺の碑

「修武台」の由来
北魏・孝文帝の詔「国家宗文以懐九服修武以寧八荒」を由来とします。
昭和16年(1941年)3月、第54期生卒業式に臨席された昭和天皇が豊岡の航空士官学校の地を「修武臺」と命名されました。同年12月に御命名書の御染筆を刻んだ碑(修武臺の碑)が建立されています。

航空神社跡碑

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※北野天神社の記録は下記にて

記念館周辺史跡及び記念碑

このあたりも見たかったんです。

パンフレットの次頁

以下、拡大しつつ。

入口玄関にあるのは「陸軍航空士官学校模型」。
位置関係のイメージ把握を。

2階部分。


陸軍航空と海軍航空の歩みを年表形式で解説。
明治43年の陸軍「臨時軍用気球研究会」、そして大正6年の海軍「臨時潜水艦航空機調査会」から始まった日本陸海軍の航空史。


士官と搭乗員の育成について。


太平洋戦争の航空戦について。
海軍空母機動部隊の航空戦と、島嶼戦における航空戦。そして航空消耗戦へと。
零戦と飛燕
日米の飛行場の違い。


陸軍機と隼戦闘機
屠龍の残存部品展示
隼の残存部品展示
檜與平少佐の義足、空中戦で片足を失いつつも義足で戦闘機に乗り続けたパイロット。


中島エンジンの展示。
鍾馗用「ハ41」零戦用「栄21」
日立航空機(日野自動車)エンジン「(海軍)初風・(陸軍)ハ47型」


海軍特攻兵器
「桜花」
日本に現存する唯一の「桜花」の展示。
これが見たかったのです。ようやく拝見できました。


特攻隊員顕彰室
義烈空挺隊など。

10
入間基地特別展示室
加藤隼戦闘隊と軍神加藤について。

11
ジェット機の登場
ジェットエンジンの進化に関して。橘花。

そういえば、橘花のジェットエンジン「ネ20」には、出会ってました。

ここから1階に移動


12
航空自衛隊の発展

保管庫に移動すると3機の展示。
アンリ・ファルマン機、ここにいましたか。久しぶり。

所沢航空発祥記念館で、以前に会ってました。

修武台記念館 館内案内図

撮影した写真が、掲載できないのはもどかしいですが、是非とも見学して自ら鑑賞してくださいってことですね。必見ですので。


撮影:2025年冬

陸軍航空士官学校の校内神社「修武台航空神社」(所沢・北野天神社)

所沢の北野天神社の境内社「小手指神社・航空神社」は、かつての陸軍航空士官学校の校内神社の御社殿を戦後に遷座したものであった。

深く拝する


陸軍航空士官学校(修武台・航士校)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。


航空神社(修武台航空神社)

陸軍航空士官学校の校内神社「航空神社」
航空士官学校の跡地である航空自衛隊入間基地の修武台記念館の前庭には、「航空神社跡碑」がある。

航空神社跡碑
航空神社は、航空殉職者を慰霊するため所沢飛行学校長だった徳川好敏中将によって建立され、その後士官学校分校とともに所沢から豊岡に奉遷されました。戦後、北野天神社(小手指)に遷宮され例祭が営まれていましたが事情により昭和40年に廃社となりました、。神社跡碑は関係者の尽力により現在の場所に移転しました。殉職者らの霊璽は、令和6年(2024年)より北野天神社に再び遷座されています。

※修武台記念館のパンフレットより

北野天神社のサイトには、以下の記載がある。

所沢の航空神社とは

所沢の航空神社は昭和12年に創建された慰霊と航空安全のための神社です。
空の安寧を祈るとともに、所沢市の航空史、戦争の歴史を伝えております。

御祭神
主祭神 天照大御神 神武天皇 明治天皇
配祀 陸軍航空隊の殉職者並びに戦没者4956柱
御社殿
伊勢神宮及び武蔵一宮氷川神社の御用材を以て造営されました。

ご由緒と奉遷
 航空神社は、日本初の公式飛行に成功した徳川好敏(とくがわよしとし)の宿願により、昭和12年、所沢陸軍飛行学校に建立されました。
主祭神として、天照大御神、神武天皇、明治天皇、併せて、航空発展の途上に一命を捧げた航空殉職者と戦争で尊い犠牲となられた4956柱の英霊をおまつりしております。社殿は、伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られています。 大正6年には北野天神社宮司が斎主となり、所沢飛行場(現在の航空公園)で航空殉職者の慰霊祭をしていたことが祝詞より分かっております。 爾来、所沢陸軍飛行学校、陸軍士官学校分校、入間市豊岡(昭和天皇が行幸したことにより修武台と名付けられる)の陸軍航空士官学校の航空神社、及び、所沢陸軍航空整備学校の建空神社の祭祀を司って参りました。 昭和20年9月3日、入間市修武台の陸軍航空士官学校にあった航空神社が、進駐軍の接収を避け、命懸けで当社神域に遷座されました。航空神社の例祭は東久邇宮殿下のご臨席を賜り、音楽隊の吹奏を行い、「航空神社の歌」までできるなど盛大に斎行されました。 しかし、昭和40年11月3日に諸般の事情により奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に軍関係の霊位牌や霊名簿が奉安される事となりました。残されたご祭神は相殿する小手指神社の御霊(地元小手指地域の戦没者)とともにお祭りしておりました。 奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に奉案された霊位牌と霊名簿は、入間基地の修武台記念館が設立され整備も着々と進んできたのを機に、昭和63年に奈良基地から入間基地の修武台記念館にお移りになられました。 歴史の大波に翻弄された数奇な運命を辿りましたが、令和6年、徳川好敏氏の云う「因縁」、菅原道大氏の云う「奇縁」、また、その御縁を繋げて下さった皆様の力強いご尽力により、御霊が北野天神社内航空神社にお戻りになり、再び例祭を斎行する事となりました。 徳川好敏氏の願いは航空神社の「永久崇祀」です。大切に御霊をお祭りし、歴史を伝えて参りましょう。

航空神社と北野天神社(物部天神社)の繋がり
 北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。物部天神社は延喜式神名帳にも記載される古社(式内社)で、平安時代以前より当地に鎮座しております。 祭神は、古代、武蔵國入間郡の郡司であった 物部氏の祖先神である櫛玉饒速日命をおまつりしております。 饒速日命は『古事記』、『日本書紀』にも登場しますが、特に『先代旧辞本紀』には、 「天磐船に乗りて、大虚空を翔行めぐり…」とあり、 天磐船という空飛ぶ乗り物に乗って、日本に降りてこられたことが伝えられています。この故実より、航空の神としても崇敬されます。 奇しくも、饒速日命が鎮まるこの所沢市に日本初の飛行場が出来まして、また北野天神社の格式が式内社・県社であるため、航空神社の斎主となりました。宮司家は創建された当時から今日にいたるまで祭祀を司り、御霊を大切にお祀りしております。

航空神社のこれから
現在、時代に翻弄され幾度も奉遷された御神霊は北野天神社境内・航空神社に戻られて、静かにお鎮まりになられています。 敗戦直後、進駐軍がやってくる中で軍施設の校内神社を受け入れるという事は、並大抵の事ではなく、命がけの覚悟がいりました。 そういった歴史を踏まえ、先代宮司は「航空神社は静かに、大切にお祀りしなさい。」とよく申しておりました。 その言葉通り、現在まで遺族の方々・神社役員、地域の氏子さんや心を寄せて下さる崇敬者さんと共に、丁寧に祭祀を続けてまいりました。  航空神社は慰霊と航空安全のために創建された神社です。航空神社は所沢市の戦争の歴史を背負っており、所沢市に”二つ”とあってはいけません。  所沢市の航空史において、戦争による悲しく尊い犠牲と当時の人々の深い想いは、伝えていかなくてはならないものです。 かけがえのない歴史が塗り替えられることの無いように、大切にお祀りしましょう。

航空神社の歌
作詞 航空神社奉賛会
作曲 航空音楽隊長 松本秀喜
1, 大空に
命ささげた 人々を
まつる社の 尊さよ
君をたたえて もろともに
心ゆくまで 語りましょう
遠いあの日の 思い出を
2, 玉垣に
翼あこがれ 今も尚
忘れな草が 咲いている
心ゆくまで 歌いましょう
あの喜びも 悲しみも
3, 青空に
君のみ心 うけついで
銀の翼が とんでいる
父を慕って 僕もまた
強く明るく 生きましょう
このみ社の み恵みに
https://kitanotenjin.com/kouku.html

招魂会(おぎたまかい)解散の経緯について
 この神社は、元豊岡の陸軍航空士官学校修武台に国の安泰と戦勝を祈願するため祀られた神社で、北野天神社宮司が毎年厳粛に祭典を行ってまいりましたが、昭和20年の敗戦による混乱をさけるため、急遽当神社に遷座されたものです。
 終戦の混乱より落ち着きを取り戻した昭和30年頃より当学校の校長を始め幹部達十二・三名が寄り寄りに、北野天神社の社務所に集り前途を話し合って、結局慰霊祭を行うことを決め、同時に当所小手指・北中・北打越地区の戦没者を合祀し盛大な祭典を行ったのです。即ち、東久邇宮殿下のご臨席を賜わり、音楽隊の吹奏を行い、それに関する歌まで出来るなどして、毎年4月15日に慰霊祭が営まれました。
 しかし、昭和40年11月3日に元陸軍士官学校の校長等の手により軍関係の御霊のみ碑となって奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に分霊される事となりました。そこで残された英霊を祀るため、北野天神社及び六所神社の惣代役員また区長・遺族等が旧公民館に集り招魂会を結成し、その初代会長に川口重雄氏を選出し、従来通り4月15日を例祭とし決め、以来半世紀に亘り、慰霊祭を営んで参りました。当初は大変多くの遺族の方々が参列する程でしたが、時の流れと共に遺族の高齢化・減少も甚だしく、茲に招魂会を解散し、その基金を神社改修に充て、向後は神社境内の摂末社並の祭典を北野天神社の総代役員で執行することとなりました。
  平成二十六年十二月吉日
   北野天神社宮司   栗原彌生子
   同 総代会会長   鈴木正治
   六所神社総代会会長 鹿島敏寿
   招魂会会長     小暮信至

小手指神社
この社は日清日露の両戦役から終戦に至るまでの戰に参戦し祖国の尊い英霊となられた方々を祀った社です。
毎年4月十五日には(北中北越地区を含む)北野上新井西所沢地区の関係者により厳かに慰霊祭が執行されております。

航空神社
大正6年 北野天神社宮司が祭主となり所沢飛行場(現・航空公園)で航空殉職者の慰霊祭を行いました。
爾来 昭和12年 所沢陸軍飛行学校に航空神社が造営され 陸軍士官学校分校・陸軍航空士官学校(現・航空自衛隊入間基地)の祭典を行って参りました。
昭和20年8月の敗戦により航空神社は米軍の進駐が予期される慌ただしさの中 同年9月3日 当神社神域に遷座され 慰霊祭が厳かに執行されました

航空神社は空の守り神として多くの人々の崇敬を集めて参りました
主祭神のとして天照大御神・神武天皇・明治天皇 併せて陸軍航空隊の御霊四九五六柱をまつります
社殿は伊勢神宮と武蔵一宮氷川神社の御用材より作られました


航空神社(修武台航空神社)参拝

北野天神社の境内に。
小手指神社・航空神社の合社。

参拝。

玉串料 元校長
金阡圓 徳川好敏
昭和廿八年十二月廿日

元航士校長一同

余談だが、昭和28年の1000円は物価価値的には、3万5千円ほど。
徳川好敏は昭和38年に78歳で亡くなっている。

昭和28年の埼玉県知事の玉串料は5千円。一個人の徳川好敏に対して、さすがは県知事ゆえの5倍ですね。

「空の華」は、熊谷ですね。

徳川好敏関連は、下記にて。


境内の石碑

表忠碑(大正11年、東郷平八郎謹書)と忠魂碑(昭和30年、靖国神社宮司・筑波藤麿禁書)
もともとは小手指小学校に建立され、その後は市役所小手指出張所にあったが、昭和52年に北野天神社に移転。


モリス・ファルマン式飛行機

フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号を復元中

大正4年5月に河野長敏初代気球隊長が撮影し奉納された「フランスのモリス・ファルマン式飛行機18号の写真」に因む復元

今年は戦後80年の節目にあたります。
航空安全をお祈りするとともに
祖国を守るため、尊い命を捧げられた英霊に
感謝の誠を捧げます。

モリス・ファルマン式飛行機18号


北野天神社参拝

おもえば、平成14年(2002)以来の参拝かもしれない。
23年も前じゃないですか。
当時の私は、武蔵国の延喜式内社を全て回ることをライフワークにしていたので、その一環で、当社にも参拝していたというわけです。

通称「北野天神社」と呼称しているが、正式名は「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」という。延喜式神名帳に名を連ねる武蔵国の延喜式内社。

式内社・物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
式内社・国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
配祀:宗良親王・小手指明神・天穂日命・応神天皇・日本武尊・倉稲魂命

由来:北野天神社(物部天国渭地祇神社)とは物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社の総称。
景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ。
さらに長徳元年に菅原道真5世の孫である修成が武蔵守になったときに、勅許を得て京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮としたと伝えられ、この時から当地を「北野」とよぶようになったという。このころはまだ3社は別殿であったが、いつのころからか合殿となり、社名も「北野天神社」となったという。
現在の本殿は安永年間(1770年代)の建築であり、拝殿幣殿は平成6年の建築。

前田利家の大納言梅

征夷大将軍・宗良親王
小手指ヶ原合戦での御在陣の御遺蹟
「君の為世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」

諸神宮

源頼朝が建久6年(1195)9月に延喜式内総社3132神を勧進。
室町期の再建という社殿は、埼玉県内では、神社建築として、出雲伊波比神社が亨祿元年(1528年)で最古となるが、それを踏まえると小祠といえども、同じ室町期として、かなり貴重な建造物。

以上、北野天神社でした。

※参拝:2025年4月


所沢関連

「振武台」陸軍予科士官学校跡・朝霞駐屯地の観桜一般開放(令和7年)

陸上自衛隊朝霞駐屯地の観桜一般公開。
朝霞駐屯地は、公開の機会が少ない駐屯地のため、観桜のときに狙っていかないと、なかなか散策の機会がない駐屯地なのです。。


朝霞駐屯地

陸上総隊司令部や東部方面総監部のある「朝霞駐屯地」。
戦前は、「東京ゴルフ倶楽部」ゴルフ場を買収して新設された「陸軍予科士官学校」があり、そして戦後は「米軍朝霞キャンプ」もあった場所。

東京ゴルフ倶楽部
昭和7年(1932)5月、東京ゴルフ倶楽部が朝霞コースを開場。
東京ゴルフ倶楽部の痕跡として「びわ湖」がある。これは「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コース(膝折ゴルフ場)の三番ショートホールの名残。
昭和15年、東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの地が、陸軍省によって買収され、東京ゴルフ倶楽部は狭山に移転。朝霞コースは昭和16年閉鎖。

陸軍予科士官学校
昭和16年(1941)10月1日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転。
昭和18年(1943)12月9日、 昭和天皇行幸し、「振武台」と命名。

アメリカ陸軍
昭和20年9月(1945)9月、アメリカ陸軍が朝霞地区を接収し、「キャンプ・サウス・ドレイク」(米軍朝霞キャンプ)として進駐。

陸上自衛隊
昭和29年(1954)の警察予備隊時代を経て、昭和35年(1960)3月15日に「朝霞駐屯地」が開設。
主な部隊は以下となる。
陸上総隊司令部
東部方面総監部
第1偵察戦闘大隊、第1施設大隊、第2高射特科群(第335高射中隊)、東部方面システム通信群、東部方面後方支援隊、東部方面衛生隊、 東部方面会計隊、東部方面指揮所訓練支援隊、東部方面情報処理隊、東部方面音楽隊、女性自衛官教育隊、東部方面警務隊、中央情報隊、電子作戦隊、システム通信団(一部)、中央音楽隊、輸送学校、自衛隊体育学校、朝霞駐屯地業務隊

一般開放エリア
南の大泉門側の案内図

北の朝霞門側の案内図
それぞれ進行方向を上としているので、南北が異なる。


関連

陸軍予科士官学校時代の位置関係や、振武臺記念館等は以前の記事を参照に


振武台碑(振武臺碑)

陸軍予科士官学校(陸軍豫科士官學校)
かつて、朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在していた。
陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)あったが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転となった。

振武台の名の由来は、昭和天皇が予科士官学校(朝霞)に行幸された際、「将来益々るい、八肱一宇の為をなせ」といった意味から付けられてる。

  • 市谷台 市ヶ谷:座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 座間:陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 所沢:陸軍航空士官学校(航士)
  • 振武台 朝霞:陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 若松:陸軍経理学校
  • 健武台 八王子:東京陸軍幼年学校(東幼)

振武臺碑について
昭和18年12月9日、昭和天皇が陸軍予科士官学校に行幸された際、この地に「振武台」の名を賜り、翌年この碑が建立されました。当時の碑記は、長年の風雪に晒され風化していたため、平成12年4月、陸軍予科士官學校卒業生の手によって復元されました。

陸軍大将 山田乙三 による揮毫。
山田乙三陸軍大将は、参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任し、最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。

振武台碑の下には、終戦直後に占領軍の辱めを受けるのを免れるために「雄健神社」の御神体(御神霊・神剣・宝鏡)、そして陸軍予科士官學校扁額と学校本部の菊御紋章が埋められた。
20年後の昭和40年に掘り返され、御神霊は靖国神社に奉安され、扁額と御紋章は、振武臺記念館の2階に保存展示されている。

陸上自衛隊広報センター サイトより

振武台碑は、大泉門(朝霞駐屯地正門)を入ったすぐ左手にある。


雄健神社跡(おたけびじんじゃ)

雄健神社跡地は立入禁止。陸軍予科士官学校本部と正門の間にある。

振武臺記念館には、20分の1に再現した雄健神社がある。

陸上自衛隊広報センター サイトより

もともとは市ヶ谷にあった。
昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は、朝霞に奉遷。


陸軍予科士官学校本部跡(東部方面総監部庁舎)

陸軍予科士官学校本部跡地は、現在は東部方面総監部の庁舎となっている。

本部前の桜。このあたりのロータリー感は往時のまま。
右手に、雄健神社があった。

東部方面総監部の紋章


琵琶湖の桜

往時を物語る遺構。

琵琶湖について
 昭和5年、東京ゴルフ倶楽部ゴルフ場が、土地問題等で駒沢からこの地に移転し、同年工事が開始され昭和7年から10年間運用され、東京ゴルフ倶楽部というすばらしいゴルフ場がありました。この琵琶湖(人造湖)は、当時3番池越えのショートホールで、唯一の遺構です。名前の由来は、滋賀県にある琵琶湖と形が似ているということで名付けられました。
参考:
 元々は、膝折ゴルフ場と呼ばれていましたが、「膝を折る」とは、縁起が悪いと言うことで、東京ゴルフ倶楽部名誉会長である「朝香宮殿下」の御名に因んで同音異字の「朝霞」に決定し、同時に朝香町が誕生しました。

観桜を愛でる、なかなか佳きかな。


埼玉県殉職隊員之碑

埼玉県殉職隊員之碑
防衛庁長官 中曽根康弘書

主碑は、昭和45年の建立。
副碑には、埼玉県殉職隊員芳名が刻まれている。
80余名のご芳名。

合掌


環状交差点(ロータリー交差点)

陸軍時代から、位置関係が変わってない環状交差点(ロータリー交差点)。


中庭(朝霞クラブ)

現在の酒保というかPXというか、朝霞クラブな居酒屋に、なんとなく庭園(中庭)があるけど、往時からの酒保庭園(中庭)かどうかは不詳。


UH-1H

41722号、用途廃棄機で訓練用に使用


朝霞駐屯地での観桜

迷彩は溶け込みますね。

どうやら、犬小屋?

小砂子(ちいさご)

陸自らしい観桜を愛でる。

なんか来た。

資材運搬車(キャリアダンプ)、小さくて可愛い。。。
ベースは、諸岡の民生用キャリアダンプ

小型消防車。ダイハツ・ハイゼットがベース

警衛隊


朝霞厚生センター(コンビニ)

酒保ですね。

それっぽいものを買いました。

グランドのキッチンカーで、以下を。

観桜の定番


振武臺記念館の桜

門柱


振武臺記念館

陸上自衛隊広報センターから。

振武臺記念館の開放もあったので、見学。

りっくんランド
(陸上自衛隊広報センター)


CH-47J導入1号機

昭和61年(1986)から導入の始まったCH-47Jの1号機。
CH47Jは、52901号機から52934までの34機が導入され、35号機からは改良型のCH-47JAとなった。
朝霞駐屯地の南西に留置されており、敷地外から見学が可能。


撮影:2025年3月30日

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その2・戦前の日本が建造した唯一の輸出潜水艦の艦橋が残る「タイ王国海軍博物館」

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)
今回は時間を確保できたので「タイ王国海軍博物館(タイ海軍博物館)」に足を運んでみました。

BTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)タイ王立海軍兵学校駅(Royal Thai Naval Academy)の東側。Bangkokバンコクの中心部からは少し距離がありますが、BTSで一本で来れるので楽チン。

とはいえ、まだまだバンコクでの一人旅は慣れていないけど。

本編は「タイの戦跡散策その1」の続きになります。

まずは、目に飛び込んでくるのが潜水艦の艦橋(セイル部分)。この潜水艦は日本製!なのです。

タイ海軍博物館。
タイ海軍にまつわる貴重な品が5,000点以上保管されている博物館。
入館は無料。
私が訪問したときは、守衛に「I want to visit the museum」でパスポートを提示して、OKでした。ちなみに受付のタイ海軍水兵さんは、英語は今ひとつ(私もですけど)だったので、スマホでタイ語翻訳を使いながら、会話などを。


マッチャーヌ級潜水艦(มัจฉานุ)

タイ海軍の近代化
1933年、タイ王国は近代海軍を創設。大日本帝国がタイ王国の近代海軍化に向けて協力をすることになった。
後に「タイ海軍の父」と言われるチュムポーンケートウドムサック親王(アブハカラ・キアーティヴォンセ王子)は、近代化海軍整備計画として、日本に軍艦の建造を発注した。
そんななかで、川崎重工業で作られた「トンブリ」級海防艦や、浦賀造船所で作られた「メクロン」などとともに、「マッチャーヌ級潜水艦」も発注された。
(戦前の日本から、タイ王国には、2000トン級のトンブリ級海防戦艦2隻、1400トン級のメクロン級スループ艦2隻、マッチャーヌ級潜水艦4隻が輸出された)

タイ海軍初の潜水艦
4隻が建造されタイ王国へ1938年(昭和13年)に輸出された。
戦前戦後を含めて、日本で建造され日本以外で運用された唯一の潜水艦。つまり、日本が建造した唯一の輸出潜水艦であった。
1937年から1938年にかけて、三菱重工業神戸造船所でマッチャーヌ級潜水艦(三菱型潜水艦)として4隻が竣工。当時の日本製潜水艦(ハ号クラスに準じる設計と性能であった。

マッチャーヌ級潜水艦は、乗員29名、基準排水量は水上375トン(水中430トン)、全長51 メートル。
推進機関としてディーゼルエンジン 2 基が搭載されており、水上では約15.7ノット(時速約 28 キロメートル)、水中では約 8.1ノット(時速約 15 キロメートル)の速力を出すことができた。兵装は、45cm魚雷発射管を艦首に4 門(8発)、8cm高角砲 1 門を備えていた。

マッチャーヌ級潜水艦1番艦2番艦は1936年5月6日起工、同年12月24日進水、1937年9月4日に竣工引渡された。この日はタイ海軍では「潜水艦の日」に制定されている。
続けて、3番艦4番艦も竣工し、マッチャーヌ級潜水艦4隻は1938年6月に、日本で訓練を受けたタイ海軍の訓練生らによって、神戸を出港し、3週間かけて、台湾とフィリピンを経由し、バンコクに到着し。7月19日にタイ海軍に就役した。

1940年の仏領インドシナとの国境紛争に際しては、哨戒任務に従事。
1945年のバンコク空襲では、搭載発電機を用いて市街に電力供給を実施。

バンコク空襲
タイ王国は日本の同盟国として英米に宣戦布告をしており、1942年から1945年までバンコク中心部のトンブリ地区では大規模空襲が34回あったとされ、日本の敗戦濃厚になってきた1944年1月から45年1月までの1年間はタイ王国全土でおよそ250回の空襲があったという。

戦後
マッチャーヌ級潜水艦4隻は、結果として大きな戦闘に従事することなく、終戦を迎えている。
日本の敗戦により、日本製潜水艦の保守部材供給に難があることや、1951年のタイ海軍クーデーター(マンハッタンの反乱)失敗に巻き込まれ、1951年に4隻ともに体液となり、解体された。

そのうち、1番艦「マッチャーヌ」の艦橋と単装砲がタイ海軍博物館に展示されている。

マッチャーヌ潜水艦の艦橋

8cm高角砲

そのほかの野外展示物。

アルバトス飛行艇
タイ海軍クーデターの失敗後、航空戦力を保有できなくなったタイ海軍が解禁後に導入した飛行艇。1968年に米空軍より中古導入。

野外展示


タイ王国海軍博物館
(NAVAL MUSEUM 海軍博物館)

入口に、退役軍人さんかな、受付がありまして、そこに記帳を求められます。記帳後に、私がそれなりに大きなリュックを背負っていたので、ロッカーにいれることをおすすめされました。(タイ語だけどなんとなく、ジェスチャーで理解)
そして、左側の部屋から見るようにと、案内をしてくれました。(タイ語だけど、なんとなく理解)

犬が当たり前のようにくつろいでいるのが、タイ王国クオリティー


タイ海軍歴史部門(タイ海軍博物館)

タイ海軍の歴史を中心とした部屋。
歴史学科海軍教育部


HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)
เรือหลวงพระร่วง

タイ海軍がイギリスから導入した最初の近代的な駆逐艦。
タイ海軍プラ・ルワン(Phra Ruang)
旧名(英国海軍):ラディアント(Radiant)

HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)のガルーダ艦首

「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง
模型

船首像

タイ海軍の駆逐艦「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง」(英海軍:レディアント/Radiant)は、1916年に進水し第一次世界大戦時にイギリス海軍(R級駆逐艦)で運用された後に、タイ海軍に1920年の売却された駆逐艦。本艦の購入資金を捻出するために国王ラーマ6世やその他の上流階級の人物が個人的に寄付を行ったことは、タイ王国において軍艦購入のため寄付が行われた最初の例でもあった。
タイ海軍提督アブハカラ・キアーティヴォンセ王子が直々にイギリスへ本艦の購入交渉に向かい、売却後のイギリスからタイ王国への回航の際にはキアーティヴォンセ提督が自ら本艦の指揮を執った。
第二次世界大戦、そしてその後もタイ王国海軍で運用。練習艦として活用され1957年に退役。海軍から除籍後も訓練用の艦体として活用され2000年頃以降に解体され、その後に船鐘やガルーダ船首像などの一部が保存されている。

以下は、タイ王国王が本艦を購入するに至るまでの王室の寄付などのエピソードが記載されている。

タイ王国海軍「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)」としての活躍のエピソードなど。

1929年7月25日
プラチャーティポック国王(ラーマ7世)のシンガポール・ジャワ・バリ島への王宮訪問に同行

1940年
フランス領インドシナ紛争、大東亜戦争では、
ルアン・シントゥソンクラームチャイ 少将の指揮下で部隊編成され、HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)は第三艦隊に所属。

1959年6月19日
退役


「タイ王国海軍の父」タイ海軍とアブハカラ・キアーティヴォンセ王子の歴史

タイ海軍の歩みなど。

「タイ海軍の父」
海軍創設に尽力したチュムポン王子(チュムポーンケートウドムサック親王/アブハカラ・キアーティヴォンセ王子・Abhakara Kiartivongse)
ラマ5世の28番目の王子であった、タイ王国海軍の創設者、タイ海軍の父のエピソードなど。


Abhakara Kiartivongse祭壇(タイ海軍の父の祭壇)

タイ海軍の父
Abhakara Kiartivongse(アブハカラ・キアーティヴォンセ)の祭壇。

祭壇の絨毯は土足禁止。

神獣
象と鹿と鳥と魚と蛇と縁起の良い5つの動物が合成された神獣。


武器室(タイ海軍博物館)

火器が展示してある部屋

見る人が見れば、楽しいのかもしれないけど、火器関係は知識不足なので、さくっと。


2階へ

祭壇がありました。


タークシン王の祭壇

トンブリー王朝のタークシン王に関するコーナー。

伝記も。タイ語だけど。


タイ海軍の歴代制服とか

なぜかウミガメ

なぜか、アジアゴールデンキャット


奥の建屋に移動。

ガルーダ船首像がお出迎え。

タイ海軍のかつての軍艦模型

軍艦模型

いろいろ、じっくり見ていたら時間がなくなる。。。


HTMS Maeklong/メクロン(メークロン)模型

タイ王国が自国の沿岸警備のために日本の浦賀造船所に発注した軍艦。
1937年竣工、1995年退役。


B-24のプロペラ

1944年5月7日にタイ海軍艦が撃墜したB-24のプロペラ。


HTMS SAMUI サムイ(大東亜戦争)

大東亜戦争で活躍したタイ海軍(HTMS SAMUI サムイ)のエピソード。
電力燃料不足に陥ったタイは、シンガポールとタイのあいだの燃料輸送を、HTMSサムイに委ねる。
HTMSサムイはタイへの燃料輸送を17回成功させたが、1945年3月の18回目で力尽き、潜水艦シーラインの雷撃で沈没。艦長以下31人が死亡し、17人が生存した。

サムイ号の模型(タイ海軍のタンカー)


コーチャン島沖海戦


フランス領インドシナ紛争の一環として、1941年1月17日に起きたタイ海軍とフランス海軍の戦い。
フランス軍の圧勝であった。

HTMS Thonburi トンブリ
タイ王国海軍の海防戦艦(砲艦)
神戸の川崎造船所で建造された。起工は1936年1月12日、進水は1938年8月5日。1938年8月5日に就役。
1941年1月17日のコーチャン島沖海戦で横転擱座。さらには友軍のタイ空軍の誤爆にあうなど、タイ海空軍の練度の低さが露見してしまった。
横転擱座したトンブリは、サルベージには成功したが損傷が激しく、係留状態での練習艦として利用し、1959年6月19日に除籍され、1967年に解体された。
艦橋の一部と主砲塔がタイ海軍兵学校で記念保存されている。(今回は未訪問でしたが)

タイ海軍博物館には、フランス艦の砲撃を受けたHTMSトンブリの船尾装甲も展示されている。

トンブリの模型

チャン島の戦い


HTMS Chakri Naruebet(チャクリ・ナルエベト)模型

タイ海軍の航空母艦(軽空母・ヘリ空母)。1994年7月12日に起工、1996年1月20日に進水し1997年8月10日に就役。


そのほか

タイ語なのでよくわからないけど、(スマホでGoogleレンズを活用しつつ)ふらふらと眺めてみる。


野外展示

魚雷!!


絵画

HTMS Thonburiトンブリ、
フランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。

HTMS SONGKLA ソンクラ
同じくフランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。


Royal Thai Naval Academy(タイ海軍兵学校駅)

タイ海軍兵学校駅から。

見ての通り、ほとんど人がいない博物館。
ゆっくり見学して、それでも11時30分から13時くらいまで、1時間半くらいの所要でしたが、その気になれば(きちんと翻訳をしながら見学するのであれば)半日いても良い感じ。
今度は、向かいにあるタイ海軍士官学校(トンブリの見学)にも行きたいですね。(次のバンコク行きはいつだろ?)

※撮影:2025年2月


ラヨーン

ちなみに、仕事はバンコクから3時間くらい南のラヨーンのリゾートホテルでのAPACなミーティング参加、でした。

リゾートっぽい

仕事?ノマド感・・・

キーボード沼の終着点。
HHKB Professional Hybrid Type-S SnowWhite

タイの戦跡とは関係ないですが、タイのリゾートっぽい感じってことで。


3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から80年(令和7年・東京都慰霊堂)

令和7年(2025)3月10日。
あの日から80年目。

昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

今年は、80周年。
いつもよりマスコミが多いような感じ。

いつもより警備も厳重な感じ。

午前9時50分ごろ。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

篠宮家の公用車
「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では歴代最小生産数で、ある意味で幻の乗用車でもある。

10時45分頃、秋篠宮両殿下が退出。

今年は例年よりも式典が長かった様子。

中に入れたのは11時20分頃。

合掌

納骨堂でも合掌を

今回は午後から仕事(午前中を有給)としたために、これにて撤収しました。

※撮影:2025年3月10日


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

空襲の類焼を防いだ幸國寺の大銀杏(新宿区)

新宿区の幸國寺の大イチョウは加藤清正手植えとも伝わる銘木。
昭和の大空襲で被災しながら北側からの炎を食い止め、南への類焼を防いだと言い伝えが残る戦災樹木。


幸國寺の大銀杏

幸國寺大銀杏記録の碑から
幸國寺大銀杏は東西にあり、共に樹齢五百年の新宿区内最大の銀杏(イチョウ)の木です。
この地が加藤清正公の下屋敷の一つだったことから「清正公お手植えの大銀杏」と言い伝えられ新宿区天然記念物に指定されております。
西側の大銀杏は太平洋戦争の戦災に遭いながらも、北側からの炎に立ち塞がり南側の家屋への類焼を防ぎました。その為に傷みが激しく、大風や着雪により大きな枝がたびたび折れ、辛うじて樹形を維持していました。
平成十年には、突然緑の葉を落としはじめ異常な事態になりました。取り急ぎ専門家に、応急処置をお願いいたしましたが、体力の無い樹木のため徹底的な治療が必要と診断されました。幸い五百年の時間を失う前に、大銀杏とご縁の深い方々が「大銀杏延命施術浄財勧募」を展開し、多くの理解者、協力者と優れた技術に恵まれ危険な状態は回避することができました。
荒んだ時代になってしまった今日、ここに御志納いただいた方々のお名前を記録し、この方々の「やさしさ」が源となって「平和で人と自然が調和のとれた世界」になることを祈念いたします。
http://www.koukokuji.or.jp/about.html

西側の大銀杏

東側の大銀杏

新宿区指定天然記念物

幸國寺

山門は田安徳川家屋敷門と伝わる。

撮影:2025年1月


大和田建樹終焉の地

ちなみに近くの法身寺は、「大和田建樹終焉の地」。
鉄道唱歌の作詞で有名。
大和田建樹は、養生先の法身寺の庫裏で亡くなったという。(墓は青山霊園、生家跡は宇和島市)


関連