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生玉公園地下壕跡(生玉公園・大阪)

谷町9丁目駅からほど近くに鎮座している「生国魂神社」(いくだまさん)に隣接する「生玉公園」に地下壕があるというので足を運んでみた。


生玉公園

生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園。
生玉公園の地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設されたもの。

生玉公園地下壕
 先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
 生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設された。
 地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。
 また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。
 戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
 1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市

地下壕の構造
 内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。

生玉公園の上部に、「通気口」が残る。

斜面

開口部はコンクリートで閉鎖をされている。

しばらく工事していました。
2025年3月に訪れた際に工事していて、10月に訪問した際に工事が完了してました。
(そのまえ9月の段階でもまだ工事していて、実のところ、工事がいつ終わるかわからなかったため、不定期に何回か様子見るために訪問していました)

場所

https://maps.app.goo.gl/79iT3oobLXTJVNxZ6


生國魂神社

祭神:
生島神(いくしま神)
足島神(たるしま神)
相殿:大物主神

祭神は神祇官西院にて生島巫によって祀られる神。
歴代天皇が即位の際に祀る神として国家祭祀(八十島祭)の社。国土神霊として崇敬されてきた。

由緒:
 神武天皇が九州から難波津にお着きになられた際に、現在の大阪城付近に生島大神・足島大神を祀られたのが、当社の創祀とされている。そののち相殿に大物主神を祀っている。
 平安期の延喜式には「難波坐生國咲國魂神社」(二座)と記載され、御祭神は特別に生島巫によって祀られるなど、国家祭祀(八十島祭)の社として知られている。
 中世期には当社に隣接して「石山本願寺」が建立。元亀年間には信長の本能寺攻めにより延焼。その後、再興されるも秀吉の大阪築城によって天正11年(1585)に現在地に遷座したとされている。
 以来、当社は「難波大社」の尊称をもって広く崇敬され、明治期には官幣大社に列せられ、国土守護神・大坂総鎮守として篤く信仰されてきた。

 本殿社殿は「生國魂造」と呼ばれる独特の建築様式。本殿と幣殿は一つの流れ造りでふきおろし、正面屋根には千鳥破風・すがり唐破風、さらに千鳥破風の三破風をすえたものとなっている。
 社殿は明治45年、昭和20年に焼失し、さらには昭和25年の台風によって総檜素木造の本殿が倒壊。
 現在の社殿は昭和31年に鉄筋コンクリートによって建てられたもの。


※撮影:

2025年3月・10月


大阪関連

はじめに

ナウシカ「メーヴェ」を模した「M-02J」ラストフライト!「空まつり 2025 in SEKIYADO NODA」(関宿滑空場)

ナウシカの「メーヴェ」を再現した、ジェットエンジン搭載グライダー「M-02J」(メディアアーティストの八谷和彦氏の自作有人飛行機)が、2025年の野田市・空まつりでラストフライトをするという。
これは見に行かねば、ということで、関宿滑空場に足を運んでみました。

戦跡でもなく、近代史跡でもないけど。
空を飛ぶことを夢見た人々の情熱は、今も昔も変わることなく、それこそ航空黎明期に空を翔けることを追い求めた技術者たちの想いと通じるものもあるのかな、と。

以下、写真メインで。


関宿滑空場

昭和45年に運用を始めた、首都圏に最も近い日本国内で最大面積の公共用滑空場。
草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。

旧格納庫

新格納庫

草地滑走路は平行に4本。
堤防側から川側へと、A(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)、D(デルタ)と名づけられている。


空まつり 飛行展示

パラモーター(PPG パワードパラグライダー)
ドリフター、PHG 超軽量動力機
オープンスカイ
マイクロライトプレーン
宿滑空場 展示飛行
U-コン(コントロール・ライン)
ラジコン飛行機


M-02J(メーヴェ)

オープンスカイプロジェクト
『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」の機体コンセプトを参考に八谷和彦氏が、実際に飛行可能な一人乗りのジェットグライダーの試作を試みたプロジェクト。

風の谷のナウシカに出てくる「メーヴェ」を参考に制作したジェット機「M-02」のデモフライト。

今回が、最後のフライト、という。


地上展示・飛行展示

パワードパラグライダー(PPG)は、背中にプロペラのついたエンジンを背負って、平地から飛び立つことのできるパラグライダーのことをいう。

関宿滑空場の曳航機

JA4087 パイパー・スーパーカブ(アメリカ製)

JA4016 ロバン (フランス製)

非常に軽量・小型で動力を有する航空機。
アメリカではウルトラライトプレーン、ヨーロッパではマイクロライトプレーン、日本では、超軽量動力機と呼称。

舵面式は昇降舵、方向舵、補助翼を有し、この3舵により機体をコントロールするタイプ。 補助翼のない2舵式もある。

超軽量動力機(ウルトラライトプレーン・マイクロライトプレーン)
体重移動式
トライクとも呼ばれる。ハングライダーに座席と降着装置とエンジンを付けたような機体

ジャイロプレーン。
固定翼の代わりに回転翼を装備し、ヘリコプターに似ているが、ジャイロプレーンは回転翼を動力で回転させていない。飛行時にはパイロットの背中側のエンジンの動力によって前進し、前進によって起こる相対的な気流を回転翼に受け、回転させて揚力を生み出し飛行する。

グライダー(滑空機)

飛行機に曳航されるグライダー

モーターグライダー(モグラ)

関宿滑空場の最寄り駅は川間駅。バスで「平井入口」まで赴く。

※撮影:2025年11月


関連

「雄大剛健」三神峯公園の仙台陸軍幼年学校跡(仙台の戦跡散策・その13)

仙台市南部の「三神峯公園」。いまは桜の名所で知られる公園。
戦前は、仙台陸軍幼年学校。戦後は、旧制の第二高等学校、東北大学に利用され、1967年に三神峯公園が設置された。


仙台陸軍幼年学校

仙台陸軍幼年学校(仙台陸軍地方幼年学校)は、はじめ今の宮城野区五輪一丁目に校舎を置いていたが、1924年(大正13年)に廃止されていた。

1937年(昭和12年)に、仙台陸軍幼年学校が場所を三神峯に定めて再建された。
仙台陸軍幼年学校の入校年齢は13歳から15歳までで、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学できた。
1945年(昭和20年)の7月10日にあった仙台空襲で被害を受け、敗戦で陸軍とともに廃止された。


雄大剛健(仙台陸軍幼年学校)

仙台陸軍幼年学校を記念する石碑

「雄大剛健」石碑
 右の石碑はこの三神峯一帯に仙台陸軍幼年学校があったことを記念する碑です。
 石碑の裏面にその趣旨の記載があります。

雄大剛健
規模や心が非常に大きく雄々しく、心身ともに強くたくましく、困難にも決してくじけない様子、を意味する。
仙台陸軍幼年学校では、雄大剛健感恩報謝を校風としていた。

仙台陸軍幼年学校ののちに、戦後にこの地にあった旧制第二高等学校(現在の東北大学)でも、奇しくも「雄大剛健」は二高のモットーであった。旧制二高は昭和20年に戦災に遭って北六番丁校舎が全焼し、戦後に旧仙台陸軍幼年学校跡に移転した。昭和25年に閉校になるまでを「三神峯時代」と呼ばれている。

 仙台陸軍幼年学校は、明治三十年榴岡に開校し大正十三年一旦廃止、昭和十二年ここ三神峯の地に復活、同二十年第二次大戦の終焉を以って武窓の歴史を閉ず。
 雄大剛健感恩報謝を校風とし修分練武をかさねし生徒二千九百余名を算う。その多くは祖国の危急に際し艱難の戦野に赴き、戦空を翔り身命を同胞の守護に捧ぐ。曽て台上に桜樹を植栽し爛漫の春に謳い玲瓏の秋を愛でし若武者の姿、今や無し。
 同窓相寄り昭和四十八年校史「山紫に水清き」編纂して事蹟を誌すも杜の都を心の故郷と慕う、情やみ難く開校八十年再建四十年を卜し英霊の誠を彰れし祖国の平和と繁栄を祈念して校跡に建碑す。
 昭和五十二年五月
  仙幼会

仙台の南部を見下ろす高台。


雄建神社跡(仙台陸軍幼年学校)

「雄健神社」跡
ここに仙台陸軍幼年学校の校風「雄大剛健」に因んだ「雄健神社」がありました。

第42期生卒業記念

昭和16年3月

第41期生卒業記念

昭和14年11月


東北大学三神峯明善寮懐旧の碑

散りにし花は幻か わが若き日の夢なるか

東北大学三神峯明善寮懐旧の碑
 東北大学三神峯明善寮は、一九四九年(昭和二十四年)五月旧制第二高等学校明善寮の後身として発足した。寮は、当時の東北大学第一教養部構内の一角に、現在ある碑の北二百五十米の所に、木造二階建の寮舎及び食堂の二棟があって百六十余名収容の自治寮であった。
 一九五三年五月長町鹿野に有朋寮が新設されるに及び、在寮生の殆どが新寮に移り、翌年四月には増築された同寮及び臨設された鴻学寮に残余の全員が移って、寮は約5年間の歴史を閉じた。この間の寮生は延四百数十名でああった。
 当時の社会は敗戦の荒廃から未だ回復せず混乱と窮乏のさなかであったが、寮生は困難な環境に屈せず新しい日本を創る気概に燃えて勉学に励んだ。また、時として夜を撤して世界を論じ、人生を語り、三神峯の丘を遥しては青春を謳歌した。
 爾来三十幾星霜、寮生は各界で活躍しているが苦しい時代に培われた互の友情はいささかも色褪せることなく続いている。教養部も寮も、もはや痕跡すら残していない。今往時を偲ぶよすがとすべくこの碑を建立するものである。
一九八九年五月
東北大学三神峯明善寮
元寮生有志


聖徳光被の碑(明治天皇後遺蹟記念碑)

明治9年と14年には 明治天皇が巡幸された。
明治44年には、 皇太子(大正天皇)も行啓されている。


三神峰公園

こうしてまとめているときに、どうにも見逃していたのが多数あることに気がついており。

・仙台陸軍幼年学校の正門門柱
・行啓記念の松 
・行啓記念碑

三神峰公園にはバスで訪れたのだが、入口がわからず、変なところから峰に登ってしまったので、結果として、正門をスルーしてしまっていたようで。

うーん、再訪必須か。

これは一番東側の入口。(正門は真逆だった)

奥が三神峰の高台。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

「仙台市・西公園(桜ケ岡公園)」散策(仙台の戦跡散策・その12)

仙台市の西側にある総合公園。開園は明治8年(1875)と仙台市内で最も古い都市公園となる。広瀬川の東側に位置しており、広瀬川を挟んで対岸は、青葉山公園となっている。

西公園には記念碑が多く集まっているので、ちょっと散策してみましょう。


西公園

開園は1875年(明治8年)で、仙台市内で最も古い都市公園。
開園当時は「桜ケ岡公園」と呼ばれていたが、市の東側に「榴岡公園」が設けられた際(明治35年・1902)に、「榴岡公園」を東公園、「桜ケ岡公園」を西公園と呼称されるようになったが、「西公園」の呼称が定着した。
明治19年(1886)には陸軍第二師団の陸軍将校クラブの「仙台偕行社」が設置。 
天皇や皇族が仙台を訪問した際の宿泊や休憩にも利用された。
第二次世界大戦中には、西公園内に防空壕が設けられ、仙台空襲に際しては西公園は焦土と化したが、多くの仙台市民が防空壕に避難をした。

場所

https://maps.app.goo.gl/NMSSmhoUK8zuVVAz6


明治天皇御駐輦址碑

明治天皇御駐輦址碑
元帥伯爵東郷平八郎謹書

昭和2年建立。

1876年(明治9年)4月15日から宮城県博覧会が桜ケ岡公園で開催。
明治9年年6月には、 明治天皇が巡幸に訪れた。(明治九年六月東北巡幸)
博覧会では競馬が催された。


故内大臣海軍大将子爵齋藤公碑

昭和15年建立。

斎藤実は、岩手県水沢市出身。
海軍大将、海軍大臣、文部大臣、外務大臣、朝鮮総督、そして、第9代 内大臣、第30代 内閣総理大臣を歴任した。
内大臣時に、二・二六事件で暗殺された。


宮城縣殉職警察宦之碑(解体済)

昭和8年建立。
殉職した警察官の霊をまつり、永遠にその勲功を讃えるもの公益財団法人警察協会が管理、であった。
2024年に名取市の宮城県警察学校内に慰霊碑が新設され、それに伴い西公園の慰霊碑は撤去されたもよう。

うーん、なくなった


支倉六右衛門碑

明治41年建立。
支倉常長の記念碑。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、武将慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した伊達家臣。

扁額は東郷平八郎。


殉職消防組員招魂碑

昭和6年6月6日建立。
公益財団法人宮城県消防協会が慰霊祭を行っている。


広瀬川橋梁・西公園高架橋(地下鉄東西線)

広瀬川をわたる地下鉄東西線。
全駅が地下駅であるが、広瀬川は橋梁となっている。これは広瀬川を地下とした場合、青葉山で極端に深い地下駅となってしまうのを防ぐため。


明治天皇御駐輦所址

明治天皇御駐輦所址

昭和5年建立。
明治9年に西公園内で旧仙台藩士12名により行われた天覧騎射が開催され、その観覧を記念したもの。


西公園の防空壕跡

「仙台市・西公園」周辺の地下を広瀬川の崖から掘った横穴式の防空壕。総延長は200メートル超という。

工事中、でした。


大橋

広瀬川に架かる橋梁。
現在の大橋は、1938年(昭和13年)にコンクリートの橋となる。
鉄筋コンクリートのアーチ橋で、親柱、灯篭、高欄に和風の装飾を凝らす。長さ約116メートル、幅約11メートル。

仙台城の石垣も見える。

大橋の東側ちかくには、「仙台キリシタン殉教碑」「仙台高等学校発祥の地」などがある。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

仙台空襲からの戦災復興「壱弐参横丁・仙台朝市」(仙台の戦跡散策・その11)

仙台空襲で焦土と化した焼け野原。
戦後、露天商などが集まり誕生したのが「横丁」であった。


壱弐参横丁(いろは横丁)

昭和20年7月10日。「仙台空襲」で焦土と化した仙台の中心部。
焼け野原となった街なかで、昭和21年(1946年)、「仙台中央公設市場」が誕生したのが「壱弐参横丁」の始まり。
長屋の集合体に屋根を付けた商店街。
戦後の仙台の復興を象徴する横丁。東日本でも最大級のバラック商店街だ。
ちなみに、一番町2丁目3番地にあるから「壱弐参」(いろは)という。

東側の入口は「仙台市立東二番丁小学校」に面している。

西側は「サンモール一番街」というアーケード商店街と接続している。

長屋の連なり。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey51XHnS6e6fK5GFA


文化横丁

壱弐参横丁の隣には「ブンヨコ」と愛称される「文化横丁」がある。文化横丁は、昭和元年設立で、100周年。
大正13年に誕生した「東百軒店街」が原型とされ、大正14年に開業した「文化キネマ」に由来するという。
もともと文化横丁はサンモール一番町商店街を挟んで反対側にあった。
仙台空襲で文化キネマと文化横丁は焼失、戦後復興の昭和24年に露店・闇市から再スタートした「文化横丁」は現在の場所で再開されたという。

https://www.sendaimiyagi-fc.jp/search/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%A8%AA%E4%B8%81

まったく、横丁とは関係ないけど、
ちかくの「ラーメン二郎 仙台店2」を食す。


仙台朝市

仙台朝市の歴史は、仙台空襲で焼け野原となった仙台駅前に並んだ露店、通称「青空市場」から始まると言われている。

https://sendaiasaichi.com/history

時間の都合で、朝には来れませんでしたが。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Fybh58uTLnnWx2zU7

仙台の戦後復興といえば、牛タンも関係している。


※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

入間航空祭(2025年11月3日)

11月3日(文化の日)といえば、入間基地航空祭。

今年は、うっかり、ブルーインパレスの最前列を確保してしまっため、8時から12時まで、人垣の最前列で身動き取れず、トイレにも行けず(行ったら最後、戻ってこれないほどの人垣)、で。
そんな人垣に揉まれる苦行の先に、ブルーインパルスを最前に観覧できたという収穫はあれど、さすがにそこまでブルーインパレスには執着していないので、最前列の修行は、しばらくはいいかなって感じ。

そういえば、C-1が居なくなった入間は、結果としてC-2とブルーがメインの航空祭。


入間基地航空祭

午前6時10分に、「北門」の行列に並び、6時30分には北門への移動が始まり、7時には誘導路手前まで誘導され、7時30分にはメイン会場が解放。
手荷物検査もなしで、あっという間に、観客を基地内に入れたというのも、国内最大の来場者を誇る入間基地航空祭、ゆえか。
2025年は26万人が来場した、という。

今年は、かなり圧縮されたタイムスケジュールで、開門が8:00で終了が13:00と、午前中に集約され、かなり締めが早い時間軸。


展示飛行

0800 地上展示開始
第2輸送航空隊
0900 オープニングフライト C-2 第1空挺団空挺降下
0930 U-680A
0940 T-4
0950 CH-47J
1000 C-2 U-4
ブルーインパルス
1030 ウォークダウン開始
1100 離陸
1140 着陸
1200 ウォークバック終了
1300 地上展示終了

いつも、ブルーインパルスは、午後という感覚があったので、午前中に終わってしまうのはかなり新鮮。今年の入間のスケジュールは、違和感が多いが、今後のスタンダートとなるのか?


ブルーインパレス・ウォークダウン

以下、写真メインで。


ブルーインパレス・展示飛行


ブルーインパレス・ウォークバック


C-1地上展示

おおお、2025年3月で引退したC-1がまだ駐機されておりました。

C-1 031

おもえば、1年前に、このC-1 031号機がちょうどラストフライトであった。あれから1年後に、まだこうして会えるのが何よりも嬉しく。

C-1 02試作機 フェニックスも

フェニックスも居ました!

招待者観覧エリアの奥なので近寄れないのが残念


YS-11

スーパーYS-11も


飛行展示・地上展示

退出は、正門にしました。
ホームから人が溢れてホーム入場規制が始まっていた稲荷山公園駅は回避で。

正門についたのが、13時50分とだったり。

13時で終了な航空祭。
ブルーインパルス終了、イベント終了という感じで、一番多くの人が集まっている状態からの脱出ゲームの開始。退出路の導線が非常によろしくなく、トイレに行くのも大変で、過去一番に航空祭から打出するのに難儀した、感じでした。私はゆっくり帰るつもりだったのですが、退出路の途中にしかトイレがないというのが、導線的によろしくなく、とにかく大変でした。

※撮影:2025年11月3日


「空襲警報を伝えたサイレン」と「仙台市戦災復興記念館」(仙台の戦跡散策・その10)

仙台の戦跡散策。
仙台市の戦災復興記念館に足を運んでみました。


警報サイレン

モーターサイレンは今も昔も形状は大きく変更がない確立された原理っぽい。

サイレン
 旧仙台市役所庁舎の塔屋内にあり、正午の時報を知らせていま
した。
 戦争中は、空襲の警戒警報、空襲警報にも使われました。
 イヤホンを耳にあてて、ボタンを押すと当時の警報を聞くことができます。

不明のジャンボサイレン発見 毎日新聞1983年(昭和58年)6月30日
戦前から正午の時知らせ
戦時下空襲警報も
(省略)
発見されたサイレンは、真っ赤にサビ付いていたが鉄製で、内部の羽根はアルミで出来ている。内蔵されたモーターが羽根を回し”うなり”を出す仕組み。大きさは約1メートル立方もあるジャンボサイズ。
このサイレンの製造、設置年月日は不明だが、記念館側の話では、戦前に旧庁舎のサイレン塔に取り付けられ、戦中、戦後と市民に正午の時を知らせたり、戦時下では空襲警報や警戒警報を伝え、多くの市民に知られた存在だったという。
しかし、背負わ41年、現市庁舎の前庭部分に建っていた旧庁舎が取り壊された際、行方がわからなくなった。
このほど、このサイレンが確認された場所は仙台市追廻の市公園管理事務所青葉山倉庫で、他のガラクタと一緒に放置されたままになっていたという。
(省略)

なかなか迫力のあるサイレン


仙台市戦災復興記念館

仙台市戦災復興記念館について
 当館は、仙台市の「戦災復興の資料及び記録を総合的に展示し、市民の戦災復興への努力とその成果を記念するとともに、市民に文化活動の場を提供し、市民文化の向上に資する」(仙台市戦災復興記念館条例)ことを目的として、昭和56年4月1日に設置されました。

館内の様子。
ちなみに、入館料は大人120円。安すぎる。

仙台空襲と戦後の復興事業に関する展示

軍都仙台
軍都への歩みは、1871(明治4)年川内(仙台城二の丸跡)に軍の「東北鎮台」が置かれた事に始まります。後に仙台鎮台と改称し、鎮台は1888(明治21)年には第二師団となりました。また、榴岡には歩兵第四連隊がおかれました。

仙台空襲前後の空撮

明治·大正·昭和初期の建物
仙台の近代化の象徴であった、洋風建築物の多くは戦災によって焼失しましたが、県庁や市役所、仙台市立病院、三越百貨店など、戦災を免れた建物もわずかにあります。榴岡公園内に建つ歴史民俗資料館は、元歩兵第四連隊兵 舎 [1874( 明 治 7) 年 築 ] で 、 現存する県内最古の洋風建築です。

戦時下の食事

仙台に投下された焼夷弾

B-29による都市空襲の経緯
大都市に続いて、中小65都市が空襲されていった

仙台空襲

仙台空襲
1945(昭和20)年7月10日、0時3分ごろから約2時間にわたって、仙台はアメリカ軍B29型爆撃機による空襲を受け、被災者は57,000人、1,000人を超す尊い命が奪われました。917.6トンもの焼夷弾や爆弾が、仙台駅西側の街の中心部、第二師団のおかれていた川内の軍事施設及び市内の住宅地に投下され、静かなたたずまいをみせていた仙台は、一夜にして瓦礫の原にかわってしまいました。

1945年(昭和20年)7月10日午前0時3分

米軍資料から見た仙台空襲

1.B-29の日本本土空襲
 第2次世界大戦末期の1944年夏、米軍はマリアナ諸島にB-29の基地を造り、同年11月から2500km以上離れた日本本土への空襲を開始した。
 連日のように軍需産業や都市が空襲され66都市が焦土となった。そして原爆投下。この他にも数多くの町や村が小規模な空襲にさらされ、また米英海軍の艦載機攻撃や艦砲射撃を受けた。その結果,数10万人の生命が失
われた。

2.B-29による本土空襲の区分
B-29による空襲は下の資料1のように区分される。
*第|期は主に航空機産業を高高度より精密爆撃を行った。
*第Ⅱ期は東京・大阪等大都市への焼夷空襲で、低空から主に夜間のレーダー攻撃。沖縄作戦支援。工場爆撃を行った。
*第Ⅲ期は6月中旬より全国の中小都市を、1夜に4都市ずつ低空からレーダーで焼夷空襲。梅雨時の悪天候対策であった。

 7月10日の仙台空襲は第II期、16回に及ぶ中小都市空襲の7回目で、比較的大きな市街地への最後の攻撃であった。
戦争終結のわずか1か月余り前のことである。

3.なぜ仙台は,空襲されたか
 この問いの答えは,米軍資料にあった。米軍は日本の戦争継続能力に打撃を与えるため、大都市の大規模空襲に続き全国の中小都市を次々と空襲していった。
 攻撃目標の都市を選択する資料となったのが、180の都市を人口順に並べた資料2である。この中で仙台市は13番目、223,630人 *。人口の他,都市の密集性・延焼性・軍需や輸送等徹底分析が行われ、目標として選ばれたのである。
*1940年国勢調査

4.空襲への手順
米軍は空襲前に収集した情報と偵察写真により、綿密な空襲計画を立て実行した。実行中も戦史将校をおき自らの戦闘を記録、 空襲後の評価を含む膨大な記録を残した。これらは米国立公文書館などに保存されており、情報公開されている。
この資料によって、仙台空襲がどのように計画され実行されたのかを知ることができる。
 空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案した詳細な計画に従い、7月10日に空襲を実施した。
 空襲によって与えた損害を知るため7月25日に航空写真を撮影し分析。焼失しなかった駅東部に対し、8月10日、再空襲計画を立てた。しかし15日に戦争が終わり、駅東部地域は再空襲を免れた。

7月10日仙台空襲と再空襲の計画

写真加工提供:工藤洋三氏
写真:米国立公文書館所蔵

街は2時間3分で焼け野原
空襲中の写真に現在の地図を重ねる
*左上は元写真。炎上部分の現在地がわかる。1時27分撮影
*空襲開始から1時間半後、左下の現東北大川内キャンパスにあった旧陸軍施設は盛んに燃えている。
*右側、現在の地下鉄南北線沿いの街並みは燃え、当時の木町通国民学校が炎上中。約30分後に攻撃は終わった。
*爆撃中心点は右下写真外に位置する。

空襲前後の写真比較 市街地の27%が焼失
損害評価図-与えた被害の程度を分析した図-
(図上に空襲目標の円と主な位置を記した)
*空襲後の写真上に焼失区域が斜線で示されている。円内にある市街地中心部と円外左の川内の軍事施設が焼失。
*円内でも駅の東部、南部(東北帝大)は焼け残った。
*黒の実線内が米軍の設定した住宅密集地域.。焼失した斜線部はこの27%で、他都市に比べて小さい。
*このため、再び空襲する計画が立てられた。

焼け残った東部に再空襲計画
再空襲の2つの目標エリア
(写真上に再空襲目標を示す2つの実線円と爆撃中心点座標、7月10日仙台空襲時の空襲目標を示す破線円を記した)
*8月10日、再空襲の計画が立てられ、焼け残った北東部と南東部に、半径0.9kmの円が設定された。
爆撃中心点は現在の常盤木学園南方(座標:081123)と、仙台一高南方(座標:081081)。どちらも東北本線沿線であった。
*半径1.2kmの破線円は仙台空襲時に設定された円。
*8月15日,戦争が終わり、再空襲を免れた。

仙台空襲と防空壕

下記で展開しました

空襲警報旗

米軍が透過した伝単

米軍が投下した伝単
伝単とは戦争相手国の市民や兵士の戦闘意欲を失わせる目的でばらまくビラ。
太平洋戦争末期、米軍は日本本土上空から大量の伝単をまいた。空襲予告や降伏勧告、戦況の不利などを知らせる内容で、これらの伝単を拾った者は、憲兵や警察へ届けることになっていた。拾って持っていると、非国民として処罰されたため、現在残っている物は少ない。

君達の指導者は嘘つきだ!!

変わる身近な街並み

仙台市電
1926(大正15)年、仙台市街電車(市電)が開通しました。区間は仙台駅前~大町一丁目間と東五番丁~荒町間。
その後北仙台、長町、八幡町まで延長され、1948(昭和23)年原町線の開通で完成をみました。通勤·通学·買い物客の足として多くの市民に愛され、利用されましたが、1976(昭和51)年、半世紀にわたる歴史を閉じました。


宮城県の戦争遺跡「防空壕」

特別コーナー的にまとめられていて、なかなか興味深い展示であったので、メモとして記録。

仙台戦災復興記念館

https://www.hm-sendai.jp/sisetu/sensai

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

商店街に刻まれた仙台空襲の爆心地「仙台空襲爆撃中心点」(仙台の戦跡散策・その9)

仙台市のクリスロード商店街というアーケード街に、人知れず刻まれたモニュメント。

「仙台空襲爆撃中心点」

仙台空襲において、この場所が、B-29爆撃機の目標地点であったのだ。

平和の願い込めて踏み固める「平和の礎」


仙台空襲爆撃中心点

1945.7.10
仙台空襲爆撃中心点
2021年12月8日設置 
仙台空襲を記録する有志の会

仙台新伝馬町ビルの入口の足下に設置されている。

仙台市戦災復興記念館での解説によると、実際は、このマンホールの位置が本当の中心点という。

場所:
https://maps.app.goo.gl/jw7Bay6mMWgy2MCcA


「仙台空襲爆擊中心点」の解説
(仙台市戦災復興記念館)

仙台市戦災復興記念館より関連する事項を抜粋

B-29は「リト·モザイク」という地図をたよりに仙台を空襲しました
左は70余年前,仙台の街を空襲するため、B-29爆撃機が持参した地図で、半径1.2kmの黄色の円が描かれています。
米軍は,この円内に、投下した焼夷弾の半量が落ちれば、仙台の街は焼け落ちると考えており、全ての焼夷弾を円の中心(爆撃中心点)に落とすよう命じました。
日付が7月10日に変わった頃、長町方面から飛来したB-29、123機は、1機ずつ爆撃中心点を目指して焼夷弾を投下し仙台の街を焼きました。その間2時間余。
近年、この時の爆撃中心点は、現在のクリスロードと東三番丁の交差点であった事が、米軍資料より分りました。

リト·モザイク
この下の写真は、B-29が携行してきたリト·モザイク(爆撃中心点参照用石版集成図)です。
南から市内に侵入してきたB-29 は、黄色の円中心の爆撃中心点にすべての焼夷弾を投下するよう命じられていました。

「仙台空襲爆擊中心点」銘板
仙台空襲の爆撃中心点に2021年に設置され、その後の銘板更新に伴い、
「仙台空襲を記録する有志の会」より寄贈された銘板です。
歴史を忘れず、平和の礎を踏み固めてほしいという願いをこめております。
ぜひ銘板を踏み、平和の礎を踏み固める一歩にしていただきたいと思います。

踏みしめてみて下さい。
爆撃中心点の銘板です。

場所:

https://maps.app.goo.gl/N2Fi6E1LMbMMYo2b7


東二小の「戦災くすのき」

仙台市立東二番丁小学校。

仙台空襲で焼失したが、再び芽吹いた「くすのき」
仙台復興のシンボルでもある。

昭和20年7月10日の仙台空襲で校舎とともに焼失したが、3年目に再び芽を出し現在の姿に成長した。

場所:

https://maps.app.goo.gl/KQjMmvBREfDeD3Eb7


東二小の「仙台空襲死歿児童慰霊碑・平和観音碑(大悲無倦)」

仙台市立東二番丁小学校。

敷地外からだと、碑面裏しか見えずだが、これがきっと「平和観音像の碑」。

仙台市戦災復興記念館より。

昭和20年7月9日夜半の仙台空襲で亡くなった児童(23名)の冥福を祈るために昭和23年に建立された石碑。
土井晩翠の画を碑面に彫刻したものという。土井晩翠は仙台出身。
昭和28年12月4日建立。

大悲無倦


仙台空襲を伝承する石蔵

石造の秋保石でできた「旧志ら梅酒造の石蔵」。
仙台空襲の生き証人。

昭和20年の仙台大空襲では降ってきた焼夷弾が瓦屋根を突き抜け内部の収蔵品すべてを灰燼に帰したが、石造蔵の外観は残った。

https://www.sira-ume.jp/%E7%A7%8B%E4%BF%9D%E7%9F%B3-%E7%9F%B3%E8%94%B5

なお、「志ら梅」の吉岡酒造店は2010年閉店し酒造事業を撤退。酒蔵跡地は駐車場になり当時の石蔵が残る。現在はテナントビル業と駐車場業に転業している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6fSyaWQ8Un8keExC9

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

御嶽三吉神社に残る東北帝国大学科学計測研究所の防空壕跡(仙台の戦跡散策・その8)

仙台の戦跡散策。北山駅周辺を散策してみました。

北山駅のちかくに鎮座する御嶽三吉神社の境内にある「東北帝国大科学計測研究所の保管壕(地下壕)」
東北帝国大科学計測研究所が資料を保管するために作られた地下壕という。


東北帝国大科学計測研究所

東北帝国大学では、国の総力戦体制の中で、科学動員の一環として、研究所の拡充を図り、1940年から1945年にかけて、全国の帝国大学で計26もの研究所が設立されていた。


東北帝国大学では、最多の8研究所を増設し「研究所大学」との異名を取るに至っていた。
新たに設立されたのは、選鉱精錬研究所、抗酸菌病研究所、科学計測研究所、航空医学研究所、高速力学研究所、電気通信研究所、非水溶液研究所、硝子研究所で、いずれも理系に分類される研究所。

東北帝国大科学計測研究所は、昭和18年設立。

2001年に、東北大学の3つの附置研究所(選鉱製錬研究所→素材工学研究所、科学計測研究所、非水溶液化学研究所→反応化学研究所)を統合・再編して「多元物質科学研究所」が設立されている。


仙台空襲と防空壕

「仙台市戦災復興記念館」の掲示から

仙台空襲と防空壕
1945年7月10日午前0時過ぎ、仙台市は米軍の B-29爆撃機123機による焼夷空襲を受け、市の中心部550 haが焦土と化し、被災者57,000人、死亡者1,399人(「仙台はフェニックス」より)を数える大きな被害を受けました。
 東京では、約10万人の死亡者を出した3月10日の大空襲の後は自宅の防空壕(待避所)に入るよりも、早期に避難することが多くなっていました。これに対し、仙台では初めての空襲であったことから、防空壕の安全性を信じて避難した人が多く、猛火に包まれて逃げ場を失い多数の市民が命を落としました。
防 空壕とは焼夷弾や爆弾が落ちた時、直ちに飛び出して消火するための応急施設で、「待避所」と呼ぶことが1942年に定められましたが、無防備の市民にその意識はなく、防空壕は、火の雨から身を守る唯一の場でした。1,000余人の死亡者のうち防空壕での死亡が確認されるのが約90人。ほかに一家全員同じ場所で死亡するなど、防空壕でと推 測 さ れ る 方 が 200 人 、 合 計 す る と お よ そ 300 人 が 防 空 壕 で 生 命 を 断 た れ ま し た。

防空壕のいろいろ
 防空壕は、行政の観点からは名称も役割も異なる点がありましたが、形の上では大きく2つに分けられます。

(1)竪穴式防空壕
崖がない街中など平地に掘られた壕。
1 個人宅のたこつぼ型の簡易な壕。
2 校庭や道路脇の素掘りの溝型壕。
3 戦争最末期、自治体や国の補助金により造られた掩蓋式防空壕。家の消火義務のある者以外の避難用とされた。公会毎に造られたが、空襲には無力で、逃げ込んだ多くの市民が犠牲になった。

(2)横穴式防空壕
崖や山腹を横に掘り進めた壕。仙台市の市街地近くには河岸段丘崖が広がり、壕の構築に適していた。
1 個人で掘った小規模の横穴。
2 戦争最末期、避難用に自治体や国の補助金で造った大規模な横穴式防空壕。周辺の住民を救ったが、数や立地場所が限られ、大勢を救うことはできなかった。

仙台市に残る防空壕に記載のある「北山」が今回の防空壕

「仙台市戦災復興記念館」にて。
竪穴式防空壕の再現模型


東北帝国大科学計測研究所の防空壕

本殿の下側に位置する地下壕。

湿気などの問題もあり、実際に保管壕としては使用されなかった、という。

散策

最深部。
燭台のように、くり抜かれた部分もある。

9月は、まだまだ緑に覆われてました。

御本殿の下。

御嶽三吉神社

仙台大観音がよく見える眺望

奥の高台に、地下壕がある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/y5Yu4rngHQKA3YM66

※2025年9月撮影


関連

仙台の戦跡散策・その1から

仙台空襲慰霊「戦災死歿精霊供養碑」(仙台の戦跡散策・その7)

仙台市北山霊園にある仙台空襲に関連する慰霊碑に足を運んできました。
仙台の戦跡散策。

その6はこちら


仙台空襲

昭和20年(1945)7月10日に仙台市に対して行われた空襲。この仙台空襲によって仙台市の中心部は焼け野原となった。
米軍B-29は123機でもって空襲を実施し、死者は1064名以上という犠牲をだした。また、仙台城も被災し国宝の大手門と脇櫓を焼失、二の丸の第二師団も被害を受けた。伊達政宗の霊廟である国宝の瑞鳳殿も焼失、仙台市の国宝は大崎八幡宮のみが空襲被害から逃れた。


戦災死歿精霊供養碑

仙台空襲の慰霊碑

戦災死歿精霊供養碑
昭和20年7月10日殉難

戦災死歿精霊供養碑
 昭和二十年七月十日未明、仙台市は約二時間にわたって焼夷弾による攻撃を受けました。
 この攻撃によって約一万二千戸、五万七千人あまりが被災しました。
 亡くなられた方は、身元不明の方を含め約千三百人にのぼりました。
 この碑は、仙台空襲により奪われた尊い諸霊のご冥福をお祈りするために昭和二十六年に建立したものです。
 仙台市 
  被害状況は、仙台市戦災復興誌ほかより

「仙台市戦災復興記念館」の掲示から

合掌

仙台市北山霊園案内図

戦後の戦災復興に伴い区域内の寺院墓域は北山霊園に移転された。

万霊塔

北山駅

仙台大観音を望むことのできる高台。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XaYDCC9S9SJ8by8SA

※撮影:2025年9月

「仙台の戦跡散策・その8」はこちら。


関連

仙台の戦跡散策・その1から

所沢陸軍飛行学校の戦跡散策(所沢航空記念公園)

所沢には何度も足を運んでいるし、所沢航空記念公園にも何度も通っているのに、ちゃんとまとめていなかったので、本記事にて「陸軍飛行学校」などの戦跡をまとめておきます。

下記の記事とも連動します。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


陸軍航空学校・所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。


改めて、所沢航空記念公園の散策へ。


有刺鉄線支柱

航空公園駅から、西武線に沿って運動場やスポーツ広場を見ながら南下。
台地と低地の境目、台地側に支柱が数本残っている。

樹木に圧迫されたり。

樹木に取り込まれたり。

当時の航空学校の滑走路地区と学校地区の境目。
航空公園スポーツ広場から北側が、当時の滑走路地区となる。


整備工場跡

テニスコートのあるあたりが、整備工場や倉庫のあった場所という。

不自然に階段が残っている。

西武線のすぐ脇。

テニスコート


所沢飛行場前駅跡(所沢御幸町駅跡)

航空公園の敷地から、少し南に。

昭和13年(1938)6月21日「所沢飛行場前駅」が開業。
所沢陸軍飛行場にあった、所沢航空技術学校の要請による開設であった。
昭和15年(1940)12月1日に、軍施設が明らかになる駅名がよろしくないとして、防諜のために「所沢御幸町駅」と改称。
戦後、所沢飛行場跡に駐留していた在日米軍の貨物輸送の兼ね合いで、所沢御幸町駅を北に2キロ移転させることとなった。そうして昭和26年(1951)6月11日に「北所沢駅(現在の新所沢駅)が開設され、「所沢御幸町駅」は廃駅となった。なお、所沢御幸町駅跡は複線化用地に転用され、何も残されていない。

川を越えるガードの袂の築堤上に張りつくようにしてホームと小さな駅舎が設けられた単式ホーム1面1線の棒線駅で、駅舎へは階段が通じていた、という。

このあたりに「所沢御幸町駅」があったという。


正門跡

所沢御幸町駅跡から、北に向かえば、「所沢航空記念公園」は眼の前。
ちかくには、「陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所」や「旭橋・飛行機新道」などもある。
奥に見える野球場のあたりに、「飛行学校本部」があったという。


防空壕跡

所沢航空記念公園には、ところどころ斜地がある。
下記のあたり、防空壕の跡地、といわれている。

いまは、防空壕は埋められている。


飛行船「雄飛号」格納庫跡

雄飛号の格納庫がこのあたりにあった、という。

雄飛号飛行船
青山練兵場で大破した“パルセバル”飛行船を、臨時軍用気球研究会が改装して誕生した飛行船。岩本周平技師が設計主任となって所沢飛行場の格納庫で製作され、1915(大正4)年4月21日に完成、“雄飛号”と命名された。パルセバル飛行船と同じエンジンながら、機体の再設計により速力、上昇力が向上していた。1916(大正5)年1月21日、当時としては画期的な飛行船による東京~大阪往復飛行に出発し、460kmの距離を実飛行時間11時間34分、平均速度40km/hで大阪の城東練兵場まで飛行したが、復路はエンジンの不調と強風のため飛行できず、解体されて鉄道輸送された。その後はほとんど活躍せず、1917(大正6)年7月21日~22日の所沢~仙台間夜間往復飛行を最後に廃船となった。


米軍基地正門(第1ゲート)跡

米軍時代は、日本陸軍時代と異なり、この場所が正門であった。


兵舎跡・校舎跡

所沢航空記念公園の南東エリアに、高台と階段がいくつも残っているエリアがある。
この場所が兵舎と校舎の跡地、である。

基礎っぽい跡も残っている。

自然保護エリアは、当時の倉庫跡、でもある。
この南側に兵舎や校舎があった。


パーキングロット跡(米軍基地跡)

米軍のクラブ駐車場跡。
所沢飛行場跡は、戦後すぐに米軍が進駐し接収された。
米軍所沢通信基地(Tokorozawa Communication Site)として、使用され、返還は昭和46年(1971)6月30日。
その名残が、「英字で残るクラブの駐車場跡地」

CLUB PARKING LOT


荒鷲達の憩いの庭園の跡

少年飛行兵たちの歴史を繋ぐ場所。

荒鷲達の憩いの庭園の跡
 戦時中、飛行訓練を終えた少年飛行兵達の憩いの場所であり、終戦間近の特攻隊員が特攻隊基地に向かう時の憩いの場所ともなっていたところです。現在はコンクリートで固まった池の跡が残っています。
 なお、一説によると特攻隊員の若者達が寄付した浄財によって造られたとも言われています。
 以前は「荒鷲達の憩いの池」の木製の看板が立てられていました。
  2022年3月 
  所沢市・所沢航空資料調査収集する会


建空神社(航空神社)参道跡

なんとなく、このあたりに参道っぽさが残っている。

脇にもなんとなく遺構が。


建空神社(航空神社)跡

少年航空兵像のある場所に「建空神社(航空神社)」があった。


所沢にあった航空神社は、のちに所沢から入間(豊岡)の航空士官学校に移転し、そして戦後は北野天神社に遷座している。

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/c1JCC1NEf9zF2RjFA


※撮影:2025年8月


関連

「戦艦・比叡の錨」と「九一式改二型航空魚雷」(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その2)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

その1は、下記にて。


下総航空基地記念行事

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


戦艦「比叡」の錨

前回の基地再訪問時に、存在は知っていたけれども見ることが叶わなかったのが「比叡の錨」。
今回の基地祭で、案内所の隊員に「比叡の錨は見学できるか?」と聞いてみたところ、「立ち入り禁止エリアかどうかちょっとわからないので、とりあえず近くまで行ってみると良いよ、場所は、ここを真っすぐ行って、ここを右に、、、」という感じで教えてもらったとおりに足を進めてみたら、ありました、近寄れました。ありがとうございます!

やっと見学できました。比叡の錨。


艦種   高速戦艦 比叡
重量   7.5トン
錨鎖重量 2.5トン

比叡要目
建造年 1914
排水量 26330トン
速力 27.5kt
全長 214.6m
全幅 28m
主砲 36cm砲8門
副砲 15cm
魚雷発射管 8門
高角砲 12.7cm2連装×18
飛行機 4機
乗員 1437人平常
機銃 12.7mm2連装×18


九一式改二型航空魚雷

航空魚雷もありました。

九一式改二型航空魚雷
この魚雷は旧海軍一式陸上攻撃機、天山艦上攻撃機にとう載されていたものである。
全長 5.71m
全備重量 1.06トン
炸薬量 420kg
直径 45cm
直進機構 ジャイロ
動力 星型8気筒エンジン

場所は、第3術科学校 2号隊舎・学生隊本部 のあたり。


史料室

下総厚生センターの史料室は公開

整備魂
 この絵は、一水会々友藤瀬部國画伯の作品で、昭和18年6月頃のラバウル飛行場における出撃前の零戦整備の風景を描いたものです。
 「整備魂」の名称は、愛機の武運を自らの技術の全てを懸け黙々と炎天下の野戦整備に励んだ兵士たちの精神を上手に表現しています。
 苛烈を極めた航空戦闘の陰には、このような日夜寸暇のない整備に明け暮れた兵士の努力がありました。
 しかし、戦況は悪化し整備関係の多くの兵士は艦艇や不慣れな陸戦に参加し、無念を胸中に亡くなられました。
 この絵は、その遺徳の顕彰と鎮魂を祈念して、海軍関係将兵の生存者の浄財により、靖国の御社に奉納されたものです

2025年は第3術科学校の史料室は非公開でした。残念。
旧軍的には、第3術科学校の史料室のほうが見ごたえ高し。

ポスター

厚生センターの売店(デイリーヤマザキ下総航空基地店)で、「市ヶ谷台(本格焼酎・長期貯蔵酒・宮崎の神楽酒造)」が売っていたので、思わず購入。

「下総航空基地メロンパン」と「下総クリームアンパン」と「梨ウォーター」


※撮影:2025年10月


関連

救難飛行艇「US-2」地上滑走展示(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その1)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

関東で、滅多に見れない「US-2」を見れる!となれば、悪天候であっても行くしかない航空祭。年に一度の楽しみなのです。


「US-2」地上滑走・タクシーアウト

悪天候のため、飛行展示は中止となりましたが、代わりに、地上滑走展示がありました。
エンジンを稼働させて、エプロン(駐機場)から誘導路・滑走路に向け地上滑走していくだけですが、それでも、動いている「US-2」が見れるというだけでも大満足!でした。

滑走路を飛ぶ寸前まで滑走したUS-2。
次こそは、飛んでいるところを見たいです。


「US-2」地上滑走・タクシーバック

滑走路・誘導路からエプロンまで戻ってきました。

マーシャラー(グランドハンドリング)の見事な誘導。
まるで、US–2と会話しているかのように。
見惚れてしまいました。

グッド!な感じでエンジン停止。


「US-2」地上展示

なかなかの悪天候でしたが、逆に、人が少ないがゆえにゆっくり見学てきたのはラッキーだったかも、です。

まるで水面にいるかのようで、水たまり感が良い感じ。


「US-2」あれこれ


「P-1」地上滑走・地上展示

「P-1対潜哨戒機」も飛行展示は中止。
地上滑走の展示のみとなった。


そのほかの地上展示など

P-1が下総航空基地では、展示の主役ですね。

哨戒ヘリコプターSH-60K

P-3C対潜哨戒機たち

真ん中にいるのは、「多用機UP-3C」。
P-3Cの試験研究機となり、厚木基地所属。同型番機は、この一機のみ存在という。

悪天候で、人がいなさすぎるのも、また貴重な航空祭。

P-1対潜哨戒機

TC-90練習機

LC-90多用機

陸自からは、「対戦車ヘリAH-1S」

管制塔

格納庫

第2格納庫

第3格納庫

管制塔の隣は消防車庫

管制塔の上から

13時過ぎの様子。

下総航空基地と戦艦大和の対比イメージ


一日群司令任命式(松田実桜さん)

防衛省広報アドバイザー「松田実桜さん(まつだみお・サンミュージック所属)」の「下総航空基地・一日群司令任命式

「下総教育航空群司令」の吉田1等海佐から、松田実桜さんが、一日群司令に任命されました。

式典は第四格納庫、で。

下総航空基地の名物


「その2」は下記にて。

※撮影:2025年10月


関連

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


「木更津海軍航空隊と第2海軍航空厰」木更津の海軍戦跡散策3

木更津の戦跡散策。
その1とその2は、陸上自衛隊木更津駐屯地を中心に取り上げましたが、「その3」では駐屯地の外を散策してみました。

「その1」は、下記にて。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津には「木更津海軍航空隊」と「第2海軍航空厰」がありました。

現在の様子(GoogleMap)


巌根駅

袖ヶ浦駅と木更津駅の間に位置する、巌根駅。
開設は、昭和16年11月20日。太平洋戦争開戦の直前。
第2海軍航空厰を開設した大日本帝国海軍の要請に基づく。
現存する駅舎も、昭和16年11月の開業以来の佇まいを残している。

巌根駅


巌根駅・第2海軍航空厰の連絡道路

巌根駅から「第2海軍航空厰」への連絡道路。

連絡道路のつきあたりに「倉庫」がある。この敷地がかつての「第2海軍航空厰」となる。


海軍航空厰

海軍航空厰は、海軍航空隊で使用される軍用機の製造や部材調達・保管や修理などを行っていた工場。

昭和7年4月に「海軍航空厰」として、追浜に設置されたことに始まる。
昭和14年4月に追浜の海軍航空厰は「海軍航空技術厰」に改称。

第1海軍航空厰
昭和16年10月に、海軍航空技術厰霞ヶ浦出張所が、改めて「第1海軍航空厰」として独立。
第2海軍航空厰
第1と同じく、昭和16年10月に木更津に「第2海軍航空厰」が新設。第2海軍航空厰の本厰は「木更津(巌根)」。そのほか館山・八重原・瀬谷などに工場が展開され、昭和19年には松本にも疎開工場が展開された。
第11海軍航空厰
昭和16年11月に、広海軍工廠から航空機部が独立。本厰は広。
第12海軍航空厰
昭和16年10月、第11海軍航空厰分廠を改編。本厰は大分市今津留。
第21海軍航空厰
昭和16年10月、長崎県大村市に開庁。
第31海軍航空厰
昭和17年4月、第11海軍航空厰舞鶴支厰が独立。
第41海軍航空厰
昭和17年4月、第2海軍航空厰大湊支厰が独立。昭和19年10月に、千歳に本厰が移転。
第51海軍航空厰
昭和17年4月、第21海軍航空厰鎮海支厰が独立。


第2海軍航空厰・巌根工場の防音運転場
(現・貸スタジオ)

昭和16年10月開設。
現在は、木更津倉庫株式会社や貸スタジオの敷地となっている。

そこに残る建屋が「防音運転場」。
航空機の発動機の動作確認を行っていた防音施設だったようで。
現在は、防音ということを活かして、現在は、貸スタジオ(ハウススタジオ)となっている。
STUDIO ZERO NOIR (Pilot’s)
下記のサイトに内部写真が掲載されている。

https://studio.powerpage.jp/#!/detail/10784

大体の場所

場所:

https://maps.app.goo.gl/ab8ucVKCLmFi3mnt9


第2海軍航空厰・巌根工場の建屋
(現・貸スタジオ)

空自入り口の左側の三角屋根の建屋は海軍時代のもの。
空自の敷地ではなく、民間の撮影スタジオとなっている。

場所:
https://maps.app.goo.gl/hh2ektFWwp9iBrPp8


第2海軍航空厰跡
(現・航空自衛隊木更津分屯基地)

木更津の空自。
ちなみに、木更津には、陸自と海自と空自と揃っている。

航空自衛隊木更津分屯基地

第4補給処木更津支処
木更津地方警務隊

基地のなかには入れないので、外から外周を歩きながら見学。

なんかいた。

F-104J

T-1B


第2海軍航空厰・海軍木更津飛行場の連絡道路
(海軍道路)

この界隈では、交通量に見合わず格別に広い道路。
まさに、海軍のために設けられた道路。

第2海軍航空厰のあった「空自」から、木更津海軍航空隊のあった「海自」に赴く。「海自」の奥は「陸自」もある。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


木更津海軍飛行場の格納庫
(現・海上自衛隊航空補給処)

木更津の海自は、海上自衛隊の航空機が使用する搭載装備品の補給・整備を中心とした後方支援業務を実施している。
ここ木更津が本処。
海自は、千葉県内には「下総航空基地」と「館山航空基地」を有している。

何かのいかりと大きな格納庫

海軍飛行場時代の格納庫

敷地には入れないので、全て敷地外から。

色は、緑系で、手前が濃くて奥が薄め。

裏に回ってみました。

存在感

場所はこのあたり。


海軍時代の施設跡(防空壕・退避壕)
(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)

木更津駐屯地の北東から北端の周辺道路を歩いてみる。
海軍時代の建造物が散見しているのがわかる。

こんなかんじで、不自然なコンクリート建造物がある。
1つめ。

2つめ。

3つめ。

4つめ。

なにか新しく建造中。富士山見えてる。

5つめ。
往時っぽい建造物はほかにあるかもしれないけど、周辺を歩いてみるだけでも、かなりの数が目に止まる。


木更津海軍飛行場時代の橋梁

北西端あたりに橋梁跡が残っている。


木更津海軍飛行場時代の掩体壕

北西端あたりに、掩体壕がいくつか残っている。
敷地外からも、垣間見ることができる。

木更津飛行場の北西端は、江川海岸・潮干狩場

東京湾を挟んで、富士山が見えた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/vyecfVRcwesDAEZf8


木更津海軍飛行場時代の施設

木更津市中里の交差点(セブンイレブンとかパールショップともえなどがある交差点)の北西部の住宅街に残るコンクリート施設。

だいたいこのあたり


海軍時代の止水栓蓋

木更津駅の北側、房総往還道路に面した商店街の歩道に残っていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/uzpYyMVZLNhwcTPm6

古そうな建物も周辺に残っている。
旧金田屋洋品店は、昭和7年の建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6RLrUgELkNA7c8CFA


※撮影:2024年2月

日本の航空事始め6・日本初の国産軍用機「会式一号飛行機」

所沢航空記念館に展示してある「会式一号飛行機」。
入り口の天井に吊られているので、見逃しやすい飛行機であった。
せっかくなので、独立した記録として掲載しておきます。

所沢航空発祥記念館は、リニューアル工事中につき休館中です。
再開後は展示形態が異なっていることが予想されます。
再開は、2027年春予定。
https://tam-web.jsf.or.jp


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その6」となっておりました。

「その1」はこちら。


会式一号飛行機・会式一号機(日本・1911)

展示してある機体は、会式一号の原寸大レプリカです

所沢で飛んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏夫前の設計・製作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した“アンリ・ファルマン機”を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作る事を目的として、所沢飛行場格納庫内で製作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や字中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが製作された。

空の英雄、徳川大尉の名を日本に広める
“会式一号機”の名称は、同大尉が所属していた「臨時軍用気球研究会」で作られた「1号機」という意味だが、当時の新聞がこの飛行機を“徳川式”と報道したため、一般には“徳川式”と呼ばれた。大正元(明治45)年10月27日、同大尉は初の東京訪問飛行を行うため、“会式一号機”を基に新たに開発した“会式二号機”に乗って所沢飛行場を飛び立ち、代々木練兵場を経て青山~愛宕山~芝公園~品川~日比谷~九段の96.5kmを飛行し、東京市民(当時)の熱狂的な歓迎を受けた。

“アンリ・ファルマン機”からの主な改良点
1.上翼よりも下翼が小さい一葉半とし、翼面積を減らして速力の向上をはかった。
2.異断面を変え、前部の湾曲を深くして揚力の向上をはかった。
3.補助翼を上翼にのみ取り付けた。
4.翼間支柱の断面を前後対称型から流線型に変え、空気抵抗の減少をはかった。
5.発動機とプロペラの位置を高くして、飛行機全体の姿勢を低くした。
6.座席の前に風よけの覆いを取り付けた。
7.各結合部の金具を強化した。
これらの改良によって、“会式一号機”は“アンリファルマン機”にくらべ速力で19km/h、高度で15m上回る記録を出した。


陸軍会式一号機
国 名:日本
用途:実験機
年代:1911年(明治44年)
エンジン:グノーム空冷回転星型7気筒(50馬力)
翼幅:11.00m
全長:11.00m
自重:450kg
全備重量:550kg
最大速度:72km/h
航続時間:3時間
人員:1名

初の国産軍用機一”会式一号”機
所沢飛行場が開設され、頻繫に飛行練習が行われるようになると、4機の飛行機は酷使され、損傷が激しくなってきた。徳川大尉は飛行機の不足を痛感し、1911(明治44)年4月、臨時軍用気球研究会の事業として新しい飛行機の設計を開始した。“アンリ・ファルマン1910年型”複葉機を参考にして設計されたが、機体強度、上昇力、速度などの向上が図られていた。同年7月より所沢飛行場の格納庫内で製作され、10月初頭に日本最初の国産軍用機、“臨時軍用気球研究会式一号”(略して会式一号”)が完成した。10月13日、所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速72km/h、最高高度85mという良好な成績で成功した。

なお、この当時、会式一号機が完成するまで、日本国内には「アソリ・ファルマン機」「ハンス・グラーデ機」「ブレリオ機」「ライト機」のわずか4機しか保有していなかった。

“会式一号”機と徳川大尉
“会式一号”機は、徳川大尉の監督指導により製作された。機体材料はすべて国内で調達したが、適当な工作機械がなかったため木材は鋸で加工した。当時の日本の工業水準は低く、製作は試行錯誤であった。多くの困難を克服して完成した”会式一号”機は、設計・製作の両面で徳川大尉の功績が大きかったため、一般には徳川式と呼ばれていた。

次々につくられた “会式機”
“会式一号”機の成功に自信をつけた臨時軍用気球研究会は、次々に新しい飛行機を開発し、1912(明治45)年から1916(大正5)年までの間に、合計6機の“会式機”が誕生した。“会式二~四号”機は徳川大尉の設計で、会式一号”機を改良した飛行機であった。“会式五号”機からは設計が沢田秀中尉となり、続いて六号機、七号機がつくられた。最後に製作された “会式七号小型飛行機(会式七号駆逐機)”は沢田中尉が独自に設計した、日本最初の国産戦闘機であった。

あらためて、復元機(レプリカ)を観察してみる。

日本初の国産軍用機といっても、武装をしているわけではなく、陸軍が作ったというわけでの軍用機。

※撮影:2025年8月


帝都近郊で初実施「大正元年の陸軍特別大演習」関連の記念碑探訪(狭山・所沢・川越)

川越を歩いていたら「御野立の森公園」という公園があって、「おっ」と思い、なんとなく写真を撮っていました。(実はラーメン二郎・川越店に行く途中に見つけた、とか)

そこから少し調べてみたら、川越と狭山と所沢から色々話題が集まってきたのうえに、以前なんとなく記録していた記念碑なども「大正元年の陸軍特別大演習」の関係として芋蔓式に繋がってきたので、まとめてみましたという記録になります。

今回、記念碑を辿ることで、 大正天皇は下記の行程で、陸軍特別大演習に臨まれたことがわかりました。

大正元年
11月14日-15日 川越
11月16日 狭山
11月17日-19日 所沢


大正元年の陸軍特別大演習(第11回陸軍特別大演習)

大元帥であらせられる 大正天皇が入間川で指揮を執った「陸軍特別大演習」
大正元年(1912年)11月15日〜19日の4日間、実施された。

明治45年/大正元年(1912年)7月30日に 明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位した 大正天皇として、初めての陸軍特別第演習。
参加総数は4万8700人余り、軍馬は8200頭であったという。

  • 統裁 大元帥 大正天皇
  • 参謀総長 長谷川好道(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍司令官 大島久直(軍事参議官・陸軍大将)
  • 北軍 第13師団(高田)師団長:長岡外史(陸軍中将)
  • 北軍 第14師団(宇都宮)師団長:山田忠三郎(陸軍中将)
  • 南軍司令官 大島義昌(陸軍大将)
  • 南軍 近衛師団(東京)師団長:閑院宮載仁親王(陸軍中将)
  • 南軍 第1師団(東京)師団長:木越安綱(陸軍中将)

演習は、首都占領を目指す北軍に対し南軍が防衛するという設定で行われた。


特別大演習御野立所記念碑
狭山の御野立所(狭山市立稲荷山公園)

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

渡辺千秋は、1910年(明治43)から1914年(大正3)の宮内大臣。
この間に、明治天皇の大葬の儀、大正天皇の即位の礼などがあった。

狭山は、「稲荷山」に「16日」。後述する川越と少し異なりますが、基本の文意は同じですね。

3つに割れた痕跡がある。薄い石碑ゆえに、、、か。

思ったよりも薄い石碑。

御野立所から入間川の方向を望む。
記念碑は斜面の先の入間川に面した方向を向いている。
大正天皇が望んだ方向ときっと同じなのだろう。

石碑の周りの石柱柵も往時のものと思われる。

狭山市立中央児童館が目の前にある。

隣には、埼玉県最古のプラネタリウムもある。(昭和52年設置)

場所:

https://maps.app.goo.gl/yjQnD2FmdKGzvbMr6


稲荷山公園(狭山市営稲荷山公園)

大演習からちょうど1年後の11月16日。
大正天皇の行幸を記念した碑の除幕式が行われた。
碑は現在、中央児童館脇の階段を上ってすぐのところにある。
除幕式後の町議会で、稲荷山付近を記念公園にすることが可決された。

「稲荷山公園」の見晴台からの展望

参照:狭山市

https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/shisetsu/bunkashisetsu/hakubutsukan/index.files/4241103-4250114kiti.pdf

場所:

「埼玉県営狭山稲荷山公園」ではなく「狭山市営稲荷山公園」が今回、話題とした公園。
紛らわしいが、西武線の「稲荷山公園」の最寄りは「埼玉県営狭山稲荷山公園」

https://maps.app.goo.gl/qaHxjq2zP9SdgYBm8


大正天皇御駐輦之跡碑
(所沢航空記念公園)

所沢航空記念公営にある記念碑。
大正元年の陸軍特別第演習では、所沢飛行場からの航空機も参加した。
陸軍特別大演習で航空機の参加も、初となる。

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎大将の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会

井上幾太郎大将は、初代陸軍航空部本部長でもあり、航空黎明期において陸軍航空の第一人者。

場所:

https://maps.app.goo.gl/msALrPY9tbwWvHYM6


所澤駐蹕碑・大正天皇行幸記念碑
(所沢神明社)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
大正天皇が行幸され駐蹕された。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書

別記事にて。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kiqEy1bZw7a1iUHq8


秋田家住宅(所沢)

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
伏見宮貞愛親王は、陸軍大将であったが、大正元年の陸軍特別大演習当時は、内大臣府出仕として即位されたばかりの 大正天皇を補佐していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qthJ66qa8hHnXAw69


特別大演習御野立所記念碑
川越の御野立所(御野立の森公園)

こちらは、川越にある記念碑。

特別大演習御野立所記念碑
宮内大臣伯爵渡邊千秋書

大正元年十一月 
今上登極之初行陸軍特別大演習於武蔵野其十五日
龍駕臨幸仙波村躬親統督三軍此地實繫當時之 
聖蹤也因鎸以諗後世

大正二年十一月上浣 
 埼玉縣入間郡長從六位勲五等 市川春太郎撰并書

川越は、「仙波村」に「15日」。他は、狭山にある記念碑と同文。
ただ、狭山の薄い記念碑と違って、川越の記念碑は、石碑に厚みがある。

大正天皇は、陸軍特別大演習に際して、記念碑を辿ることで、初日の15日に川越の「仙波村の御野立所」、翌16日に狭山の「稲荷山の御野立所」、そして16日に所沢飛行場に御臨席されたことがわかる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ELG9pHNQDnjqBY8s8


大正元年特別大演習行在所
(川越高校)

大正天皇は、川越高校に宿泊(当時の川越中学校)された。
川越城跡地でもある場所であった。

大正元年11月14日、川越駅に(現・本川越駅)お着きになった天皇は、喪章をつけて白馬に乗られ、町をあげてお迎えする中を大本営(川越中学校の大本営)に入られた。

大正元年特別大演習行在所

学校敷地内にあるため、表からのみ、見学。

川越高校の正門

場所:

https://maps.app.goo.gl/xWT5ZqsQrdS6qu4i8


撮影:2025年9月

防空壕きくらげ(川崎市麻生区)

川崎市麻生区に、「防空壕」で作られた「きくらげ」があり、それを販売する自販機がある聞いたので、足を運んでみました。


川崎初空襲

昭和17年4月18日、日本本土に対する空襲(ドーリットル空襲)
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。
日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

川崎には、ドーリットル爆撃隊16機のうち、東京を目的としていた5番機・6番機・7番機と横浜を目的としていた12番機の4機が、結果として川崎に爆撃を実施している。


川崎大空襲

昭和20年4月4日、川崎地区において、B-29 による初空襲。
以後、川崎は、大規模な重化学工業や軍需生産に欠かせない大規模工場が多く集まっていたために、臨海地区や南武線沿線の工場を中心に何度も空襲被害にあってきた。
そして4月15日には、B-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲された。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html


川崎市麻生区栗木の防空壕

川崎市麻生区栗木に鎮座している「常念寺」。
戦時中に、川崎市川崎区の大島国民学校(現・川崎市立大島小学校)に通う児童が常念寺に疎開していたという。なお、川崎臨海部の国民学校は内陸の麻生区の寺院に分散して疎開していたようでもある。
麻生区の隣の町田鶴川には白洲次郎の武相荘もあった。

川崎市麻生区栗木の防空壕は、常念寺で疎開児童のためにつくられた防空壕であった。

防空壕について
神奈川県川崎市麻生区栗木の住宅街のそばの竹林に防空壕があります。終戦1年前の昭和19年8月、空襲に備えて学童疎開が発令され、川崎区の大島国民学校の3年生4年生の女子児童39名が、家族と離れて栗木の常念寺に来て終戦までの一年間共同生活をしました。
この防空壕はその子供たちを守るためにお寺のすぐ近くに日本軍によって掘られたものだと伝えられています。軍によって掘られたものは特殊地下壕と呼ばれています。
防空壕きくらげをお召し上がりいただくことでご家庭で戦争や平和、防空壕のない世界について話し合うきっかけになれば幸いです。

すぐ近くの日本軍?
同じ、川崎市麻生区には、探照灯基地(照空灯基地)もあったので、展開している部隊が居ても、まあ、おかしくはない。

https://senseki-kikou.net/?p=14765


防空壕きくらげ

【防空壕きくらげについて】
菌床:日本産
品種:アラゲキクラゲ
戦前の防空壕を補修改修し、国産キクラゲ栽培をしています。
防空壕の中は、夏は25℃、冬は15℃です。キクラゲの成長温度は20℃~25℃なので、冬場に少しヒーターで御園してあげれば、夏しか育たないキクラゲが一年中収穫できるのです。適温でゆっくり育ったキクラゲは肉厚でプリプリの食感です。国内のキクラゲ市場は95%が中国産の感想キクラゲとなっています。希少な国産のキクラゲは食感良く、食物繊維が豊富に含まれています。

自販機で、キクラゲが売っている!!

大ボトル 乾燥きくらげ(22g)1,000円
大ボトル 生きくらげ(170g) 800円
小ボトル 乾燥きくらげ(12g)600円
小ボトル 生きくらげ(100g) 500円
防空壕きくらげキムチ 1200円
 (麻生区限定おつけもの慶)

防空壕

購入しました。
小ボトル 生きくらげ(100g) 
 と
防空壕きくらげキムチ

サイト

https://netsugen-system.co.jp

https://boukuugoukikurage.stores.jp

場所

https://maps.app.goo.gl/XEyaWqZDprqP6HwJ9

※2025年8月


関連

地下壕では、日本酒も熟成されます

沖縄戦で失われたケービン鉄道「旧沖縄県営鉄道那覇駅跡の転車台遺構」(沖縄戦跡慰霊巡拝14)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その14」となります。

その13は、下記にて。

2022年10月記録です


泊まっていたホテルの最寄駅が「旭橋駅」であったことから、旧那覇駅にも程近く、せっかくなので足を運んでみました。


旧沖縄県営鉄道那覇駅跡

軽便鉄道の起点となっていた那覇駅だけにあったとされる「転車台」の遺構が移設保存されている。
那覇駅遺構は沖縄戦や戦後のバスターミナル建設などによって残っていないと考えられていた。
ところが、2015年に那覇バスターミナル再開発工事で「転車台」の遺構が発見された。

那覇駅跡
 沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。
 日本の鉄道は、近代化への象徴として、明治新政府により推進され、1872年に初めて新橋〜横浜間が開通した。沖縄県でも、本土から来た寄留商人を中心に、鉄道事業の計画が何度かなされたが、資金調達等で目途が付かず、計画中止が相次いだ。
 通常の線路幅である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道設置を認め、建設費や維持費の抑制を図った「軽便鉄道法」(1910年)の成立を受け沖縄県では、1913年(大正2)に線路幅762mmの計便鉄道の敷設を決定した。
 1914年(大正3)12月1日に、那覇と与那原を結ぶ与那原線(全長約9.8km)の操業が開始され、その後、1922年(大正11)に那覇〜嘉手納線(約23.6km)、1923年(大正12)に那覇〜糸満線(約18.3km)が開業した。那覇港への引き込み線(約0.7km)も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は「アギフィーグルマ」(陸火車:陸蒸気船)とも呼ばれたが、人々からは「ケービン」の愛称で親しまれた。
 那覇駅は、与那原線開業時に整備され、路線増加とともに拡充された。赤瓦葺きの木造平屋建ての駅舎には売店もあり、林s熱して鉄道管理所や交番が置かれた。構内には転車台・機関庫・石炭置き場、北端には職員住宅もあった。
 車両は、蒸気機関車12両、ガソリン動車6両、客車52両、貨車51両あったといい、1930年(昭和5)に初めて導入されたガソリン動車では、快速運転も行われ、乗客から人気があったという。那覇からはそれぞれ30分(与那原)、60分(嘉手納)、50分(糸満)程で結ばれていた。普段は3両編成であったが、キビの収穫時期や盆・正月、波上祭の時期には、5〜8両編成になったという。沿線地域の子どもたちは、「シッタンガラガラ」と音を立てて走る「ケービン」の姿や、「アフィー・アフィー」と聞こえる汽笛を真似て、遊んだという。
 那覇駅は、1944年(昭和19)10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヶ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用された。しかし、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。
 終戦後の1947年(昭和22)には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路の整備が優先された。さらに1950年(昭和25)の朝鮮戦争勃発による鋼材不足のため、スクラップ(くず鉄)ブームが起こり、車両やレールの残骸もスクラップとなった。
 那覇駅跡周辺は、1953(昭和28)から区画整理が始められ、1959年(昭和34)には那覇バスターミナルとなった。かつての那覇駅構内の北端に位置した仲島の大石は、ターミナル内の出入り口付近に二個慣れている。

戦前の那覇駅構内図

那覇駅構内図
転車台の位置がわかる。

沖縄県営鉄道及びバス路線図

沖縄県営鉄道那覇駅跡出土の転車台遺構
 沖縄県営鉄道那覇駅は、沖縄戦による破壊や戦後のバスターミナル建設等によって当時の施設は全く残っていないと思われていました。ところが、再開発中に、当時の駅構内にあった施設の遺構が発見されました。発掘調査の結果、遺構は沖縄では唯一那覇駅だけに設置されていたと言われる、機関車を方向転換させるための「転車台」と呼ばれる施設であることがわかりました。
 「転車台」遺構はコンクリートの基礎とその上にレンガを積み上げたドーナツの形をした構造で、かなり破壊されていましたが、全体の形がほぼわかる状態で残っていました。大きさは直径約6.8m、高さは最も残りの良い状態で最大約1.1mあります。
 基礎部分の地中には、直径約18cm前後の木杭が多数埋め込まれていました。これは、那覇駅一帯が埋め立て地で地盤が軟弱なため、「転車台」全体の沈下を防ぐための工事であったと考えられます。発見された「転車台」遺構は、近代沖縄の交通の歴史、建築・土木技術など、様々なことを知ることができる大変貴重な文化財です。

戦前の那覇駅構内(左側に見える円形が転車台)

機関車と転車台のイメージ模型(縮尺:6分の1)


沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

沖縄県営鉄道「ケービン」が昭和20年3月に運行を停止し、沖縄戦で鉄路が破壊されて以来、沖縄には鉄道がなかった。
戦後、米軍主導で道路整備が優先されるも、経済活動が活発化してくると慢性的な道路交通の渋滞が発生していた。
そうした中、「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線・モノレール」として、2003年に「沖縄都市モノレール線・ゆいレール」が誕生した。


付記:沖縄の海保(第十一管区海上保安本部)

海上保安庁のなかで、最大規模の管区を誇る。

沖縄の海をクルージングするタイミングがあって、そこで海保の船をいくつかみたので、記録程度に、メモしておきます。

PLH06「おきなわ」

PLH09「りゅうきゅう」

PL03くだか

双胴船でのクルージング、でした。


付記:沖縄で飲食したものとか

なんとなく記録的に。これで締めなので。

ブルーシール

沖縄限定の紅茶花伝

オリオンビール

ソーキソバ

パワーギア

オリオンビール

ステーキハウス88(締めのステーキ)

ブルーシール

シークワーサー

さんぴん花茶
べにいもたると

ブルーシール(塩ちんすこう)

なんかスマホにのこっていた飲食系の写真がだいぶ偏っていることがわかりました。
もちろん、他にもいろいろ飲み食いしていたんですけど、写真に残っていたのが。。。


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

本編は、これで締めです。1日半の記録、でした。
1日目(全日) 沖縄本島南部周辺
2日目(半日) 那覇中心部周辺
また、行きたいですね。
今回のまとめで、かなり沖縄戦に関する知識が増えました。
次回もより深い巡拝ができるかと思います。まとめればまとめるほど、行かなばならない場所が増えてしまい。

みたまやすらかなれ、と深く拝し、合掌し。

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