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「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。

そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二番目の空襲被害のあった街でもあった。


蕨空襲

昭和20年、3度の空襲見舞われた蕨市。
当時、蕨には軍事工場が複数あり、工場労働者が住む住宅密集地帯もあったことなどから、標的になったといわれている。

1回目は、昭和20年4月12日、昼過ぎ。東京を襲ったB29爆撃機とP51戦闘機部隊のうち8機が蕨上空に襲来。16発の1トン爆弾が投下され、死者36名、16戸の家が全壊。
2回目は、翌日の4月13日午後8時過ぎから14日未明まで、10機ほどの編隊が無数の焼夷弾が投下、蕨の街は火の海となり、死者12人、362戸が焼失。
そして、3回目は、昭和20年5月25日午後10時頃に焼夷弾が投下され、死者2名、3戸が焼失。

蕨市を襲った3度の空襲により、死者は50名、家屋の焼失や全壊・半壊などは400戸に上った。
これは、埼玉県では、熊谷に次ぐ、大きな空襲被害であった。

なお、終戦時の蕨の世帯数は5885世帯。人口は25,279人。空襲被害割合は世帯・人口共に約7パーセントに及び、被害の多さがわかる。

広報・蕨(2010年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/101/2208kouho.pdf

広報・蕨(2015年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/096/27-08honsi-.pdf

蕨市>平和行政

https://www.city.warabi.saitama.jp/shisei/danjo/heiwa/1002996.html

なお、蕨駅西口にあった日本車輌製造・蕨工場(12万5400平方メートル)は、爆撃を受けなかった。それは、同工場に米軍捕虜が収容され、工場労働者として使役されていたから、米軍の空襲対象からは外されていたから、という。
戦後、日本車輌製造・蕨工場では新幹線の試作車や、世界初の新幹線である量産車0系が製造され、「新幹線電車発祥の地」となっている。(現在の川口芝園団地)


平和祈念碑「平和を愛して」

春日公園は、1回目の蕨空襲のあった付近。

戦後50年・平和都市宣言10周年の平成7年、春日公園に「平和祈念碑」を設置された。
彫刻は、田中毅氏。宮崎県出身で埼玉県在住の彫刻家。

平和を愛して
 製作・田中毅

平和への願い
 蔵市は、昭和60年9月9日「平和都市」と宣言し世界の恒久平和を願い、核兵器の廃絶を強く訴えている。
 この地は、第二次世界大戦中の昭和20年4月12日と13日、そして5月25日の3日間空襲と受け、爆弾と焼夷弾などにより多くの尊い生命が犠牲となつた。県下でも熊谷市につぐ大きな被害であった。
 本年は終戦から50年、歴史の大きな節目の年にあたる。この地に、市民の総意を込めて、平和のモニュメントを建立し、戦争という過ちを二度と繰り返すことなく、平和を守る決意を新たにする。
  平成7年8月15日 蕨 市

地球儀は回転する。

蕨市春日公園

春日神社と蕨市公園が同一敷地に。

場所

https://maps.app.goo.gl/c7A4euJwJjPenyz29


平和之母子像

昭和63年、蕨市民公園に設置。
彫刻家・岩田健氏(埼玉県川口市出身)

平和之母子像

蕨市平和都市宣言
 昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
 その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
 しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
 このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
 私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
 蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
  昭和60年9月9日 蕨市

平和之母子像建立
 私たち蕨市民は、いつの時代でも平和の中で、家族みんなが健康で、母と子が地域社会の愛情に支えられて、温かい家庭生活を送れることが、何よりも幸せであると考えています。
 しかし、この世にあの恐ろしい核兵器が存在する限り7万の市民が等しく希う真の平和はむなしいものとなっています。そこで、蕨市は昭和60年9月、敗戦40周年を記念して、この美しい地球から核兵器といたましい戦争をなくし、すべての生命が平和の中で育まれていくことを願い、平和都市を宣言しました。
 私たちは、この宣言によって戦争の恐ろしさを、後世に伝えていかなければならない責務と平和への思いをあらたにしたのであります。
 このたび、平和の砦を築きあげるために建立した平和之母子像は、彫刻家岩田健氏の手によって刻まれたもので、戦争を知らない世代にこれらのことを語り継ぎ、地球より重い命を守っていくことを、ここに誓ったのであります。
  昭和63年4月3日 蕨市長 田中啓一

蕨市民公園に。

場所

https://maps.app.goo.gl/BFFWk8ubWk3PSJaCA

※撮影:2026年6月


関連

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

埼玉県狭山市。
入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。


笹井戦災の跡(笹井白鬚神社)

狭山には「入間基地(豊岡陸軍飛行場)」があり、当時は陸軍航空士官学校もあった軍事拠点であった。
昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。
この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。
奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。

破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。

反対側は、類焼の被害なく。

対比させると、状態の違いが良くわかる。

笹井戦災の跡地

笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので)


笹井白鬚神社

創建年代は不詳。
古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。
この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。
明治5年、明治社格制定で、村社に列格。
昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。
社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/sasaisirahigejinjya.html


せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。


水富神社(水富国民学校奉安殿

御社殿は、もと水富小学校奉安殿。
水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。
その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。

水富神社の由緒
一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。
  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。
二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。
三、例祭 4月22日
  水富神社奉賛会

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/mizutomijinjya.html

水富小学校


入間招魂社(入間小学校奉安殿)

昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。
建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。
祭神:日清戦争以降の戦没者164柱

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumasyoukonsya.html

なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。
閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。

入間招魂社(いるましょうこんしや)
 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。
 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。
 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。
  令和元年十月
   入間遺族会
   入間奉賛会

「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。

下には「五七の桐紋」。
「16紋菊の菊花紋章」と並ぶ、最高位の紋章。

屋根の鬼瓦には、紋章がない。
奉安殿時代は、ここにも菊の御門が掲げられていたのでは?と推測。

社号標は昭和57年4月10日の建立。
靖国神社宮司・松平永芳氏の謹書。松平永芳氏は祖父が松平春嶽にして元海軍軍人(海軍少佐)陸自1等陸佐。昭和受難者(いわゆるA級戦犯)の靖国神社合祀を実施した宮司。

入間招魂社
靖國神社宮司 松平永芳  

御祭神として日清戦争以降の戦没者164柱を祀る。

明治三七八年戦役記念碑
 希典書

忠魂碑
 大正四年二月建立 入間村

明治三七八年戦役は、日露戦争の慰霊碑。
忠魂碑も時期的に日露戦争と思われるが、第一次世界大戦関係もありそうだ。どこからか、移転されてきたのだろう。


入間野神社

建久2年(1191)の鎮座。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称した。
明治元年社号改正につき、御岳神社と改称。
明治40年5月3日、浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀。
明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改称。

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumanojinjya.html


入間川神社(入間川国民学校奉安殿)

別記事にて掲載。


※2026年5月撮影


関連

日本の航空事始め・その9「国内現存最古級な航空草創期時代のプロペラ」(狭山・廣瀬神社)

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。
延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。

私の記録(思い出)をさかのぼってみると、平成14年(2002年)7月に参拝、実に24年ぶりの往訪だった。当時の私は精力的に武蔵国式内社44社を巡っていたころ、かな。まだまだ戦争関連の知見は浅く、興味の方向性も今とは異なっていた頃。
同じ場所に24年ぶりに違う目的で訪問するというのも、趣深いものがある。

今回は「奉納プロペラ」を見学のために、廣瀬神社に足を運んでみました。
ちょうど2026年5月22~24日にかけて、廣瀬神社で特別公開「廣瀬神社でお宝さがし-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-(主催:廣瀬神社 協力:狭山市教育委員会社会教育課)」があったので。

狭山市役所
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日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その9」となっておりました。
今回は、日本の航空草創期時代の貴重なプロペラ。

「その1」はこちら。


モーリス・ファルマン式

大正6年(1917)に作られ、大正11年に、廣瀬神社に奉納されたプロペラ。

このプロペラは、「モーリス・ファルマン式MF.11(ショートホーン)」世代の航空機プロペラでは?とされている。

モーリス・ファルマンは、兄のアンリ・ファルマンやディック・ファルマンとともに、ヨーロッパにおける航空先駆者。
兄のアンリ・ファルマンが設計した「アンリ・ファルマン号(1910年製)」は、日本において、最初の飛行を行った航空機。
ファルマン兄弟は1912年に航空機メーカーとなる「ファルマン」を設立。(のちにフランスの航空機国有合理化により統合。)
ファルマン兄弟は200種類に及ぶ航空機を設計し、なかでも弟のモーリス・ファルマンの設計した初期型の飛行機が、明治晩年から大正初期にかけて数多く輸入され、航空機の国産化を促している。

日本では、「モーリス・ファルマン式・MF.11(ショートホーン)」を1914年(大正3年)に輸入。臨時軍用気球研究会にて改造を加えて「会式第七号飛行機」とした。

※国際軍用機第一号が「会式第一号飛行機」

https://senseki-kikou.net/?p=52068

「会式第七号飛行機」を基にした国産機を「モ式四型偵察機」として正式採用し東京砲兵工廠と陸軍所沢飛行場で80機を生産。
複座練習機として、「モ式五型練習機」を11機、エンジン換装改良型の「モ式六型偵察機」を134機生産している。

国立科学博物館の収蔵庫には国内最古の飛行機「モ式六型」があるというが、非公開。

https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/transport/moshiki.html


広瀬神社に奉納されたプロペラ

日本の航空発祥の地「所沢飛行場」にほどちかい狭山市の鎮守ゆえに、安全祈願として奉納されたであろう黎明期のプロペラ。

びっくりの奉納品

 この木製プロペラは、今から104年前の大正11(1922)年1月に廣瀬神社に奉納され、長らく拝殿上段に掲げて保存されてきたものです。今回、それを間近でみてもらうことにしました。奉納された方は地元またはその近在の方だと思われますが、開場したばかりの所沢飛行場で整備や試験飛行などに携わっていた方という可能性があります。当時は、我が国航空の黎明期で、飛行機の安全度は非常に低く、死と隣り合わせの任務でした。恐らく「安全」に強く願いを込めた奉納だったのでしょう。
 百年の歳月によって、積層の木材がはがれ始めるなど損傷も大きくなっていましたが、当時の木材接着剤として一般的であったニカワを用い、地元の方々が協力し合って修復を試みました。その成果もぜひごらんください。
  廣瀬神社でお宝さがし

膠(ニカワ)を用いて、木材を接着して修復。
修復にあたっては、膠(ニカワ)の知識が関係者では皆無だっため、人形職人の知恵も借りた、という。

航空草創期のプロペラ

大正11年(1922)に廣瀬神社に奉納されてから、100年以上ものあいだを廣瀬神社で保管をされていたが、神社での保管も限界があるため、博物館(狭山市立博物館)への寄贈も検討している、とか。

奉納されたプロペラ
刻印等:
170
大正6年5月7日制作
129

計測データ
全幅:2890mm
最大翼幅 270mm
根本厚さ:150mm
ボルト穴:6個
ボルト穴配置円直径 120mm
中央穴径:55mm
積層:7枚
先端形状:やや尖る
製作:大正6(1917)年5月7日
泰納:大正11(1922)年1月
  陸軍工兵曹長 山崎和作
刻印等
  170
  大正6年5月7日製作
  129

使われた機体の候補

モ式六型飛行機
(モーリス·ファルマンの国産化品)
製作:陸軍東京砲兵工廠
座席:2
ダイムラー式100馬力
全長: 9.33m
全幅:16.13m
最高速度:110km h
写真、データは国立料学博物館

モーリス·ファルマン
(フランスからの輸入品)
以下データはMF.11/Wikipedia
座席:2
エンジン:ルJ-88空冷V型8気筒70馬力
全長: 9.45m
全幅:16.15m
最高速度:100km h
航続時間:3時間45公

大正11(1922)年1月に、山崎和作陸軍工兵曹長が奉納したことがわかる。

廣瀬神社でお宝さがし
-資料と伝承から読み解く神社と人々の歴史-

廣瀬神社でお宝さがし展

実は、別件で狭山市に赴いたときに、そういえば「廣瀬神社にプロペラあったよな、見に行こう!」って思って足を運んだら、拝殿脇に掲げてあったプロペラが無くなっていたんで???と思ったら、ポスターを見つけ、今回のイベントを知った次第。
イベントのために再訪を余儀なくされたが、結果として間近にプロペラを見ることができたので、かなり運良いタイミングでした。


廣瀬神社

旧県社・延喜式内社・狭山上広瀬鎮座
祭神:若宇迦能売命(ワカウカノメ命=豊受姫命)・倉稲魂命
由来:日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社(明神大社・官幣大社)の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。
しかし大和の広瀬神社は日本武尊の時代よりも後の天武天皇4年(もしくは崇神天皇期)創始とされており、武蔵国に分祀された記録もない。社名は大和国廣瀬神社と同様な川の合流地点にあり、広い川瀬の地形からきたのであろうとされている。

ここにプロペラが掲げてあった。

野村素介。号は素軒。
長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と野村素介を合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人に数えることもあるが「明治の三筆」と言えば日下部鳴鶴・中林梧竹・巖谷一六の3人のことを言うのが一般的。

縣社 廣瀬神社

武蔵国四十四座の碑。
延喜式内社に列する由緒ある古社。

太鼓楼のある神社は珍しい。

※撮影:2026年5月


狭山市関連

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。
この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、そして昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われた場所でもあった。出陣前、最後に球児たちはこの地で野球を楽しみ、そして出征学徒として戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。
近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。


日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場)

明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。
日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。
昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。
現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。

早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。
当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。

戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。

明治41年(1908年)
米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。
大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。

昭和6年(1931年)
早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。

昭和8年(1933年)
日本で初めて野球場に照明設備を設置日本初のナイターが行われた。

昭和11年(1936年)
日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。

昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。
昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。
昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。

 ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。
 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。
 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。
 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。
 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。
 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。
 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。
 1990年(平成2年)10月
  早稲田大学第十二代総長 西原春夫

早慶戦百周年記念碑
早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。

2つの銅像がある。
早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。


安部磯雄胸像

野球道具をデザインしたレリーフ。

母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス
 昭和二年九月
 早稲田大学校友會内
  安部前野球部長記念會


飛田穂洲胸像

飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)
早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。
「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。

飛田穂洲先生像

 飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた
 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた
 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた
  昭和四十一年六月
   財団法人日本学生野球協会
    会長武田孟

早稲田大学総合学術情報センター

早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。

グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。

撮影:2026年3月


関連

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。
横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。
その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。


弾除け信仰

戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。


観音寺(追浜東町)

三浦三十三観音第二十二番札所。
「坂中山 観音寺」
戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。
貞享4年(1687年)の開創という。
「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。
現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。

浦郷八景:
夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘


弾丸除地蔵尊

観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。
像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。

弾丸除地蔵尊

昭和12年秋

昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。
9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。

右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。

観音寺の本堂

三浦廿二番坂中観音

観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XnKhB2BkpQspFaMU7


筒井隧道

観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。
横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。

明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。
素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。
上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。

階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DxBqrUR7sGSTbSdP6

※撮影:2026年5月


関連

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。
そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。


拓殖大学

拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。
1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。
戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。
また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。
空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。
終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。
初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。


恩賜記念館

1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。
歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。

恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。

恩賜記念館

恩賜記念館の扁額。
恩賜記念講堂当時のもの。
昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。

桂太郎銅像

桂太郎
内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。
日露戦争時の内閣総理大臣。
西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。
軍人としての階級は陸軍大将。
栄典は、従一位大勲位功三級公爵。
通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。

創立者 桂 太郎 先生銅像
 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。
  平成十二年四月

桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。

恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。


拓殖招魂社

拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。
戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。
戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。

拓殖招魂社
拓殖招魂社由来の記
拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。
毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。

拓殖招魂社由緒
拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。
ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。
 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである
拓殖大学

経緯
 本校茗荷谷五文原頭に、鎮座せられた「拓殖招魂社」は終戦直後占領軍の指令により破棄せしめられた。 この日空は暗澹として雲他く学生救職員一同、万感の念いをこめてこれを送った。
 一学生あり(専門部十九期 当房栄三郎民 宮崎県出身 故人)鳥居に掲げられた「拓殖招魂社」の扁顔を秘かに毛布にくるんて持ち帰り、これを九州宮崎の地に奉安した。その後この扁顔は在九州学友をへて在京学友及び学生に迎えられ、昭和五十一年秋、変額を奉じて恭々しく招魂社祭が教り行なわれ、ついてこれを総長室に安置申し上げた。
 雨来、学支会より、その総意として招魂社再建の熱烈なる要望があり、これを受けて高瀬総長理事長により拓殖大学創立八十周年記念を機に、ここに八王子原頭扶柔ヶ丘に拓殖招魂社再建御邊産の運びとなった。
 時に、昭和五十五年錦繍の秋、十月二十三日、此の間実に茫々三十有五年、今扁願は社頭南面する島居の上に再び高々と捐けられ、我が拓殖大学の過去と現在をそして未来をじっと見つめて居られる

拓殖招魂社

合掌

けっこうな山道。大学構内とは思えない山道。。。5分ほど登りました。


芳流 烈士脇光三碑

六烈士のうちの1名、脇光三。

脇光三をはじめとした日露戦争の六烈士に関しては、「横川省三」を調べていて知ったので、下記の記事に別でまとめました。

脇光三は、明治34年に台湾協会学校(拓殖大学の前身)の学生であったが、明治35年に中退して海を渡り、北京駐在の陸軍武官青木大佐から南下露軍の後方攬乱の秘命を受け、沖禎介、横川省三らとともに特別任務班に編成されその一員となる(辞令上は「陸軍通訳」)。
明治37年4月、横川省三と沖禎介がロシア軍につかまり、残った4人は再起を期すもロシア軍の意向を受けた馬賊に捕捉され、内蒙古クーロンホ付近で、相次いで戦死した。

烈士脇光三碑は、昭和6年4月23日(拓殖大学恩賜記念日)に除幕式が行われた。
この碑は、当初は文京キャンパスにあったが、昭和57年に八王子キャンパスに遷座している。

芳流 
烈士脇光三碑
 一戸兵衛書

烈士辞世
一朝宣戦 除百年憂 
吾党有士 死賛皇猷
興安西峙 松華東流
侠骨可埋 此山河頭

意訳
いったん宣戦の命が下れば、百年の憂いを除こうではないか。
我ら志を同じくする士(もののふ)は、命を賭して天皇の遠大な計画を助け奉る。
西には興安嶺(こうあんれい)がそびえ、東には松花江(しょうかこう)が流れている。
義侠の心に満ちたこの身を埋めるなら、まさにこの山河の地こそふさわしい。

 脇光三君は同窓の先輩なり 日露戦役の初に當り進んで特別任務に服し六士相攜へて北京に發し辛酸六旬にして深く敵地に入り東清鉄橋の爆破を企てしも事破れ二士は露軍に捕へられて遂に哈爾濱郊原の沙に屍を委て君は三士と蒙匪に襲われて倶に興安嶺邊塞の月に骨を暴しぬ嗚呼凄惨此に至って腹語るに忍びす然れとも壮圖克く敵の気を奪ひ其の戦略を覆し交戦期間多大の兵力を後方の警備に費すの已むを得さるに至らしめたるは以て忠魂を慰むるに足らん吾等遺烈を景仰し茲に諸先輩の賛助に憑り同傐協力して石碑を学園に建て之を不朽に傳うと云爾
  拓殖大学生一同
  教授宮原氏平撰文

棗(ナツメ)の木
寄贈 中村養三氏 (学部十六期 大正七年卒)
日露戦争の折 乃木希典将軍と露軍のステッセル将軍が会見した中国旅順郊外の水師営の場にあった棗の木
昭和四十三年に中村氏(当時学友会京都支部長)が大学に持参され 文京キャンパスの「拓魂碑」脇に植えられていたが碑の移設に伴いこの地に移植された


拓殖大学八王子国際キャンパス

東京ドーム23個分の広大な敷地を持つという広大なキャンパス。
1977年に開設された。
高尾駅から直通のバスが出ている。

※撮影:2026年5月


関連

新宿の戦災樹木「稲荷鬼王神社のスダジイ」「鎧神社のイチョウ」 


新宿のふたつの神社に戦災樹木があるというので、足を運んでみました。


稲荷鬼王神社のスダジイ(新宿区歌舞伎町)

稲荷鬼王神社の境内にある、空襲の熱で焦げた痕跡が残る樹木。
歌舞伎町の賑わいとは真逆な静謐な神域。
新宿区の保存樹木に選定。

空襲の焼焦跡を感じさせる木肌。

門柱は「御大礼記念」、大正4年11月の建立。
社号標は昭和2年9月の建立。

天水琴が清らかな音を奏でる。

※2026年1月


鎧神社のイチョウ(新宿区北新宿)

1945年の山の手空襲による火災で、同神社は社殿や社務所など木造部分を全て焼失。
幹に空襲の影響で大きな空洞が残るイチョウ(銀杏・公孫樹)。ウレタン樹脂で空洞が埋められている。

ウレタンの劣化が、そのまま空襲焼焦跡を思わせるような気配を漂わせている。

昭和11年10月建立の灯籠

昭和11年9月建立の狛犬

※撮影:2026年4月


幸國寺の大銀杏(新宿区原町)

別記事にて。


新宿区平和マップ

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/soumu01_000111.html


関連

滝野川の防空壕跡?(北区)

北区の小学校の隣で発見された戦前の遺構。
防空壕跡?ともいわれているが。。。
ちょっと見に行ってみました。


滝野川小学校脇の防空壕跡?

ニュース記事

https://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20260222-GYTNT00160

上記記事の抜粋
 北区西ヶ原の区立滝野川小学校で昨年2月、正門脇にある老朽化した倉庫を解体していたところ、縦横約2・5メートルの穴が見つかった。穴の入り口は赤レンガで囲われ、内部はレンガで塞がれているため、奥行きがどれだけあるかは不明だ。
 1890年(明治23年)創立の同校は、戦時中は滝野川国民学校と呼ばれ、1944年には児童の集団疎開も行われた。45年4月13日に300機以上の米爆撃機B29が都内北部を襲った「城北大空襲」では区内も大きな被害を受けたが、同校やその周辺は焼失を免れた。
 区立中央図書館で地域資料専門員を務める保垣孝幸さん(57)は昨年夏、学校などからの問い合わせを受け、この穴の由来を調査。学校に残っていた記録を調べると、本土空襲が本格化した44年11月、滝野川警防団(消防団の前身)の分団長名で、滝野川区(現在の北区)の区長に宛てた「防空壕 開鑿かいさく 許可願」が見つかった。滝野川国民学校正門の近くの場所に、学校と警防団用の防空壕を掘るとの内容だった。
 同校の校内日誌には44年12月1日に「防空壕設定」、同4日には「地下防空壕ヲ整備、電灯ヲツケ五時 まで 作業」との記載もあった。
(略)

大谷石?っぽい擁壁や坑口の煉瓦造りが立派すぎて、これは昭和期大戦期に急造した防空壕なのか?疑問も残る。
もともと別の目的で作られたものを防空壕に流用なら、理解できるなあ、とか。

以下、写真を。

小学校のすぐ脇。

場所

https://maps.app.goo.gl/FKEjWyuj2x3mpF3c9

※撮影:2026年3月


「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和8年)

今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例の花見。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、桜の花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
御霊、やすらかに。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


令和8年3月30日の靖國神社

また、1年後に!

※撮影:2026年3月30日。


富岡空襲(横浜南部空襲)の慰霊巡拝

横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。
この富岡地区にも大規模な空襲があり、往時をしのぶ慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


富岡空襲(横浜南部空襲)

昭和20年5月29日
「横浜大空襲」

https://senseki-kikou.net/?p=34746

その12日後。
昭和20年6月10日
「富岡空襲」

横浜大空襲でターゲットから外れていた、富岡地区にあった横浜海軍航空隊と日本飛行機富岡工場・大日本兵器富岡製作所、そのほか磯子や本牧にあった軍需施設を中心として、米軍による空襲があった。
投下された爆弾は約250発とされ、100名近い犠牲者があった。

湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)では、ちょうど停車していた電車の乗客や周辺住民が駅隣の人道トンネルに避難したが、周辺で数十発の爆弾がさく裂し、多くの被害者を出した。
この富岡空襲により、湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)は、破壊され営業停止となっている。

こうして、横浜大空襲と富岡空襲(横浜南部空襲)によって、横浜の街は深刻な被害を被った。


戦争犠牲者諸聖霊(慶珊寺)

富岡空襲に際して、慶珊寺には多くの遺体が運ばれた。特に湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)周辺での犠牲者が多く運ばれた。境内に安置された遺体は40体ほどあったという。

戦争犠牲者諸聖霊

昭和二十年六月十日横浜市富岡町ハ米軍ノ爆撃ヲ受ケ数多ノ犠牲者ヲ出ス 偶々当地ニアッテ非業ノ死ヲ遂ゲシ諸聖霊無念ノ恨ミヲイダキテ当苑ニテ仮葬セラル 時移リ平和ノ世トナリテ三十数星霜往時ヲ知ル人数ナシ 今ココニ檀徒有志ト共ニ供養塔ヲ建立シ聖霊ヲ慰メ併セテ戦没者各霊ノ追福菩提ヲ祈ルモノナリ
昭和五十五年春 慶珊寺第十九世 隆定識

合掌

https://maps.app.goo.gl/iEZs7pzqnzPpxwFC7

山門の隣には、「孫文の上陸記念碑」があった。孫文は、日本には何度も来日しているので、そのうちのひとつ、ではあるが。
なお、当時、慶珊寺の門前は、すぐ海が迫っていた。埋め立てられたのは戦後もだいぶ最近の昭和52年に「並木」地区が埋立地として造成された。

孫文先生上陸之地
岸信介書

由緒
近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功の陰に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣功したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。
 昭和59年(1984)8月17日
  孫文先生上陸之地記念碑建立委員会

https://maps.app.goo.gl/4TT2jHiVxgYHBUDv9

ちかくには、直江三十五の邸宅跡、文学碑もあった。

直江三十五は、1934年に亡くなっているので、戦争とは直接の関係はないが。

京急富岡駅の境内にも、「直木三十五と富岡」についての掲示がある。

さらに近くには、松方正義別荘跡もあった。
伊藤博文や井上馨、三条実美らの別荘も近くにあり、横浜金沢は明治期の政治家の別荘でもあった。のちに鉄道の開通とともに、鎌倉逗子湘南(大磯小田原)方面にと別荘も移っていくことになる。

十二天 松方正義別荘跡

「十二天」とは、十二神将をまつる十二天神社があったことに由来する。

https://maps.app.goo.gl/9voRJYN15H5NS7Bn6


戦災殉難供養塔(持明院)

「慶珊寺」の近くに鎮座する「持明院」にも、遺体が運び込まれたという。
こちらにも慰霊碑があった。

戦災殉難供養塔
昭和二十年六月十日

昭和20年6月10日の富岡空襲の戦災殉難者の供養塔。

合掌

https://maps.app.goo.gl/Rz91yYJzPH9iNHSh9

位置関係は、こんな感じ。
緑地帯=公園から右側が埋立地。

富岡八幡公園

富岡八幡宮

富岡八幡宮の隣、

日本国憲法起草之地

終戦後の第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を任じられた金森徳次郎がこの地(印刷会社文寿堂社主・佐藤繁次郎別荘跡)に籠り、草案を書いたとされている。
ちなみに、近くの金沢八景には伊藤博文らが関わった明治憲法の草案の地でもある。

https://maps.app.goo.gl/jcDBGF2WSo5WxfNEA

日本国憲法として、マッカーサー草案は、下記も。


京急富岡駅(湘南富岡駅)

京急富岡駅は、戦前は「湘南富岡駅」と称していた。
昭和5年(1930年)に、海水浴客専用の仮駅として開業。
昭和6年(1931年)に、駅に昇格。
昭和20年(1945年)6月10日の富岡空襲(横浜南部空襲)によって破壊され、営業停止している。


人道トンネル(京急富岡駅)

京急富岡駅のとなりにある人道トンネル。昭和20年6月10日の富岡空襲に際して、鉄道の乗客や周辺住民がトンネルに逃げ込んだが、トンネルの前後で爆弾がさく裂し、多くのっ人々がなくなった。
富岡空襲は、都市空襲を目的とした焼夷弾ではなく、軍事施設の破壊を意図した爆撃であったため、破壊力の強い爆弾であり、そのために死傷者も増えたという。

このトンネル内でも、多くの人々が空襲の犠牲となった。
合掌。

往時を物語るものは特にない。
ただ、ここで爆撃があったという伝承が残っているのみ。

※撮影:2026年4月


三渓園の被災狛犬
(横浜南部空襲で被災した狛犬)

富岡空襲(横浜南部空襲)で被災した三渓園の狛犬。
むかし(2016年)、三渓園に赴いたときに、撮影していた写真があったので、掲載。
空襲被災で首から上を失った狛犬や、左耳を失った狛犬が今も残る。

三渓園は、原富太郎(原三溪)によって、1906年に造園された。
1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜南部空襲で被害を受け、一部の建造物を失っている。

楠公社と観心橋
楠公とは、南北朝時代の武将·楠正成のこと。社殿の建物は、もと大阪·観心寺にあったもので、楠正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神·牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家·米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。


(おまけ)巡洋戦艦「天城」流用の浮桟橋

まったく、関係ないけど、三渓園のある本牧の高台から、ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所磯子工場を垣間見る事ができる。此処には、関東大震災で被災し解体された巡洋戦艦「天城」船体の一部を流用した浮桟橋が今も護衛艦の整備等で活躍している。
三渓園に行ったときに撮影してましたので、メモ程度に掲載。

※撮影:2016年8月(三渓園と本牧)

本牧は、下記をメインで過去に散策していました。


関連

富岡にあった横浜海軍航空隊(浜空)の海軍飛行艇部隊。

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(信濃町)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の信濃町キャンパスには、慶應義塾大学病院があり、そして、僅かながらに戦争の痕跡も残っている。
そんな、慶應義塾大学病院の周辺を散策してみました。


慶應義塾大学医学部予防医学校舎

1929年(昭和4年)建設。
慶應義塾大学・信濃町キャンパスにおいて現存する鉄筋コンクリート造りの建物の中で、この予防医学校舎が最も古い建物となる。

1945年5月24日未明に受けた空襲で、慶應義塾大学医学部と病院を有する信濃町キャンパスは約1万5千余坪のうち9300坪を失った。
当時、木造建築物が多かったために病院の主要部分は焼失したが、予防医学校舎、北里記念医学図書館は鉄筋コンクリートであったために、焼失から逃れて現存している。


昭和20年5月24日25日の空襲
山の手大空襲

昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と「3月10日の東京大空襲」で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。
さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。


予防医学校舎に残る焼夷弾の跡

慶應義塾大学医学部予防医学校舎の車寄せに残る「六角形の焼夷弾の跡」。1945年5月24日未明に受けた空襲の痕跡。

M69油脂焼夷弾の六角形の形がしっかり残っている。まっすぐに叩きつけるように落ちた焼夷弾の衝撃を物語っている。
痕跡と思われるものを、すくなくとも3箇所は、確認できました。

六角形の焼夷弾「M69焼夷弾(M69油脂焼夷弾)」は、イメージとして下記の記事も参照に。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2025/6

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2024/5


北里記念医学図書館

起工1936(昭和11)年6月5日
竣工1937(昭和12)年10月7日
慶應大学医学科を創立し「日本細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎を顕彰するために1937年(昭和12年)に北里記念医学図書館として、建設された。

https://www.lib.keio.ac.jp/med/about/history.html


慶應義塾大学食養研究所跡(食研跡地記念碑)

慶應義塾大学食養研究所(食研)は、1926年に医学部内に設立された研究機関。空襲の戦災を耐えた食養研究所であったが、1990年(平成2年)建物は解体された。外壁の一部が残され、記念碑が建立された。

往時の食研外壁
平成2年11月解体

食研跡地記念の碑
 塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
 研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。

地域文化財
第51号
慶應義塾大学食養研究所跡
食養研究所は大正15年に、日本の人口·食糧問題の解決や患者の食事療法
の研究を目的として慶應義塾大学医学部に設置された。鉄筋コンクリート3階建ての研究所が建てられ、大森憲太を中心に栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われた。平成2年廃止となり、現在は「食研跡地記念の碑」が建つ。
新宿区

慶應義塾大学病院

となりには、信濃町煉瓦館。これはこれで、興味深い建造物。


信濃町の陸軍境界標石
(陸軍第一師団輜重兵第一大隊)

陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界標石。
大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。

陸軍省所轄地

慶應義塾は1917年11月 四谷区信濃町の陸軍用地を購入し大学
医学部と病院の本拠とした。
本標はこの地が陸軍省所轄地であったことを示す境界石である。
2023年5月 慶應義塾

慶應義塾大学によって、案内看板が設置されておりました。

信濃町の南には、青山練兵場があった。

ざっと1時間もかからずに、ちょっとした散策が楽しめる「信濃町の戦跡散策」でした。

※撮影:2026年3月


関連

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(三田)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の三田キャンパスには、いくつか戦争に関するモニメント(戦跡)がある。キャンパス散策をしてみました。


慶應義塾大学と戦争

太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾であったという。
昭和20年4月、日吉・工学部校舎の8割が焼失。
昭和20年5月、信濃町地区(医学部)と三田地区の施設の半分以上が焼失。
慶應義塾の塾長・小泉信三も傷を負った。
慶應義塾の塾生は、陸海軍に、勤労動員に、疎開に、散り散りとなり、学生による学徒出陣は約3,500名となり、義塾関係の戦歿者は2,200名以上を数えた。
8月終戦。慶應義塾は全国の大学の中で、最大の空襲被害を受けた罹災校であった。
9月には日吉地区に米軍が進駐し、昭和24年秋まで接収されたため、戦後の復興計画もすすまなかった。

https://www.keio.ac.jp/ja/about/learn-more/publications/juku/stainedglass/1995/193.html


還らざる学友の碑

「還らざる学友の碑」は、先の戦争により学び舎に戻ることが叶わず、志半ばにして逝った学友を偲んで1998年に建立された。碑には、「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)が、収められている。

 還らざる友よ
  君の志は
   われらが胸に生き
 君の足音は
  われらが学び舎に
   響き続けている

ここには
「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿」
(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)
が納められています
 平成26年10月 慶應義塾

還らざる学友の碑
この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
学友を偲び慶応義塾が建立する
 平成十年十一月
  慶應義塾塾長 鳥居泰彦

戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。

みたまやすらかに
合掌


「平和来」朝倉文夫

戦没した学徒や卒業生を追悼するために、1952年に製作され、1957年に設置された。
「へいわきたる」(へいわらい)
作者は、朝倉文夫。第8回日展出品作品。
台座には、戦時中塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。

平和来 朝倉文夫作

丘の上の平和なる日々に
 征きて還らぬ人々を思ふ
  小泉信三 識


「青年」菊池一雄

1948年製作、菊池一雄の代表作。
戦時下の応召中に喉を潰した声楽家志望の青年をモデルにする。


手古奈(空襲被災)

彫刻家・北村四海の代表作。
明治45(1912)年4月に竣工した図書館玄関ホールに設置。
1945年5月の東京大空襲によって被災し、戦後まもなくより図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。
歴史的痕跡を留める方針とし、欠損部分は補填せず、戦禍による痕跡についても残すこととなった。

http://www.art-c.keio.ac.jp/en/research/collections-research/2004/2007-05-07-tekona/

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2025/6

あえて戦災の痕跡を残し修復された


戦没学生記念像 わだつみのこえ

図書館の地下一階に。
戦没学生記念像 わだつみのこえ(1950年・本郷新)

戦没学生記念像
わだつみのこえ
 ほんごうしん作

なげけるか いかれるか
 はたもだせるか
きけ はてしなき
 わだつみのこえ


幻の門(旧表門)

慶應義塾が三田に移転した明治時代初期にさかのぼる門柱。当時はこちらが表門=「正門」であったという。

第2次世界大戦中の1943(昭和18)年11月、三田で塾生出陣(学徒出陣)の壮行会が挙行された。
大講堂前を出発した出陣学徒は他の塾生たちに見送られ、表門から旅立ち、福澤の墓参に向かった。

戦時中には、陸軍のトラックが門柱を破損した事件もあった。当時用度課長であった羽磯武平が、小泉信三塾長にそのことを報告すると「軍と雖(いえども)遠慮することは無用である。然るべく要求し請求すべきである」との指示を受けたそうである。

1945(昭和20)年5月の空襲で表門も被災したが、その2年後に横須賀三田会の寄付などによって修復された。戦後間もなく右側の門柱に「慶應義塾」と墨書きされた門標が掲げられた。しかし何者かに持ち去られてしまい、今はその門標は慶應義塾には存在しない。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2022/5


慶應義塾図書館旧館

曾禰達蔵・中條精一郎の設計によるゴシック様式の建物。
明治45年(1912)4月、慶應義塾創立50年記念の寄付金によって建立。
国の重要文化財。

大正12年(1923)9月の関東大震災で大きく損傷し、八角塔は一度解体された。
昭和20年(1945)5月の米軍による空襲では、本館部分(大閲覧室や事務室、ステンドグラスなど書庫以外の部分)を全焼。
昭和44年(1969)には国の重要文化財に指定。
昭和57年(1982)に図書館新館が開館したことに伴う改修工事で、戦後形状が大きく変わっていた屋根を復旧し、本館部分の用途を変更。平成28-30年(2016-19)にかけて免震化工事を実施し、あわせて外装も修復。
福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館が2021年に開館している。

https://history.keio.ac.jp/?page_id=104

外壁の損傷
一部欠落しているのは、戦災被害の痕跡


福沢諭吉記念 慶應義塾史展示館

慶應義塾図書館旧館内に。

修復工事でも残された空襲の痕

戦没者調査とアーカイブ
大学別では、慶應義塾は早稲田に次ぐ戦没者

チャフ(電波欺瞞紙)
戦争系の資料は多く拝見しているが、チャフを意識して見たのは初めてかも知れないなあ、と。

アメリカ軍が散布した伝単(福澤諭吉肖像入)
慶應義塾に保管されている伝単が福澤諭吉というのが、良いですね。

空襲により損傷した考古資料
大山巌の息子の大山柏文学部教授の採集資料

陸軍予科士官学校教科書「本邦史教程」
福沢諭吉の「学問のすゝめ」を批判する教科書。。。

廃墟と化した三田の惨状
信濃町キャンパスの焼け跡

開設まもない日吉キャンパス 昭和10年頃

日吉から野外教練に出発する塾生 昭和16年2月

日吉キャンパスの連合艦隊司令部地下壕

小泉信三 塾長訓示
昭和15年

慶應義塾のシンボルたち

展示室の光景


上原良司(特攻出撃前夜の手記)

そうだった、特攻隊員として、著名な上原良司氏は、慶應義塾の出身だった。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司

上原良司「所感」(特攻出撃前夜の手記)
昭和20年(1945)5月10日
権力主義全体主義の国は「最後には敗れる」、特攻は「理性をもって考えたなら実に考へられぬ事」、最後に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」などと記す出撃前夜の義塾出身特攻隊員の遺書。筆者は翌日沖縄方面で戦死。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司
 大正十一年九月廿七日生

本籍 長野県東筑摩郡和田村一七三
現住所長野県南安曇郡有明村一八六
出身校慶應義塾大学経済学部

所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべ
き陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐ
るものなきを痛感致して居ります
思へば長き学生時代を通じて得た信念とも申
すべき理論万能の道理から考へた場合これは

或は自由主義者と謂はれるかも知れませんが
自由の勝利は明白な事だと思ひます。人間の本
性たる自由を減す事は絶対に出来なく例へそ
れが抑へられて居る如く見えても、底に於ては
常に闘ひつゝ、最後には必ず勝つと云ふ事は、
彼のイタリヤのクローチエも云って居る如く真
理であると思ひます。権力主義全体主義の国家
は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後
には敗れる事は明白な事実です。我々はその真
理を今次世界大戦の枢軸国家に於て見る事が

出来ると思ひます。ファシズムのイタリヤは如
何ナチズムのドイツ亦、既に敗れ、今や権力主義
国家は、土台石の壊れた建築物の如く、次から次
へと減亡しつつあります。真理の普遍さは今、現
実に依って証明されつゝ過去に於て歴史が示
した如く未来永久に自由の偉大さを証明して
行くと思はれます。自己の信念の正しかつた事
この事は或は祖国にとって恐るべき事であ
るかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限
りです。現在の如何なる闘争もその根底を為す

ものは必ず思想なりと思ふ次第です。既に思想
に依って、その闘争の結果を明白に見る事が出
来ると信じます。
愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き
大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空し
くなりました。真に日本を愛する者をして立た
しめたなら日本は現在の如き状態には或は追
ひ込まれなかったと思ひます。世界何処に於て
も肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見
た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと
一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器
械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵
の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の
一分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら
実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云
ふ如く自殺者とでも云ひませうか、精神の国、日
本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器
械である吾人は何も云ふ権利もありませんが
唯、願はくば愛する日本を偉大ならしめられん

事を、国民の方々にお願ひするのみです。
こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何
にもならないかも知れません。故に最初に述べ
た如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って
居る次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一
旦下りればやはり人間ですから、そこには感情
もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた
時自分も一緒に精神的には死んで居りました。
天国に待ちある人、天国に於て彼女と会へると
思ふと死は天国に行く途中てしかありません
から何でもありません。明日は出撃です。過激に
亘り、勿論発表すべき事ではありませんてした
が、偽はらぬ心境は以上述べた如くです。何も系
統だてず思った儘を雑然と並べた事を許して
下さい。明日は自由主義者が一人この世から去
って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満
足で一杯です。
云ひたい事を云ひたいだけ云ひました無礼を
御許し下さい。ではこの辺で

出撃の前夜記す

みたまやすらかに


塾監局

大正15年(1926年)9月の竣工。シック風の建物。
設計は1912(明治45)年竣工の図書館旧館と同じく曾禰達蔵・中條精一郎による。
戦中から戦後の一時期には教室と事務室に併用されていた。
塾監局とは、事務局のこと。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2018/1


三田演説館

明治8(1875)年5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。慶應義塾において、福澤諭吉存命中から存在する唯一の建造物。
木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物。
国の重要文化財。

以下、2026年5月23日に公開された「三田演説館」の様子。(東京建物祭2026)


デモクラシー

1949(昭和24)年に完成した「学生ホール」。
その中に設けられた学生食堂の東西両壁面には、戦後民主主義の到来で伸びやかに歌い語らう青年男女たちを描いた猪熊弦一郎の壁画「デモクラシー」が飾られた。
壁画「デモクラシー」は学生ホール取り壊し後は、西校舎内生協食堂に移設。上部が三角形となっているのは学生ホール時代の屋根の形の名残。

で、食堂に行ってみた。
「生協食堂」が休みだったので、「山食」へ。

若き血 味噌ラーメン をいただきました。
色付きの麺が特徴的。トウガラシを練り込んでいると言う赤い麺。
そんなに辛くないが、味噌のコクが強い。

「山食」から、「生協食堂」を見ることができました。

デモクラシーの壁画。


※撮影:2026年2月及び5月


大学関連

「君欄干を握りて体を支え敵塞を睨んで叱咤の聲闇を破りけむ」旅順閉塞作戦「朝顔丸の欄干」と「向菊太郎之墓」(谷中霊園)

谷中霊園を訪れた際に、前々から気になっていたお墓に足を運んできました。


旅順口閉塞作戦

日露戦争における旅順口攻撃において、大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦(旅順港の閉塞作戦)。
3回目に渡って実施されたが閉塞作戦であったが、旅順艦隊の航行を制限するまでには至らず、旅順港を十分に封鎖する事はできなかった。

第一回旅順口閉塞作戦(第一次閉塞作戦)
明治37年(1904年)2月23日深夜、5隻の閉塞船と第五駆逐隊(4隻)が旅順港近くの老鉄山下に進出。
近づくにつれ、ロシア軍の黄金山・城頭山・白銀山の砲台からサーチライトと激しい砲撃を浴びせられ、閉塞船団は位置の把握も困難となった。
報国丸が戦艦レトヴィザンからの砲撃を受けつつもかろうじて湾口の灯台下で自沈できたものの、他の閉塞船は湾口の手前で自沈し、閉塞は不十分なものとなった。機関兵1名が戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦(第二次閉塞作戦)
3月27日未明に決行され、閉塞船4隻を投入するもロシア軍に察知されて失敗。
福井丸を指揮した広瀬武夫少佐(没後、中佐)と杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)の4名が戦死している。

第三回旅順口閉塞作戦(第三次閉塞作戦)
第一回目は5隻、第二回目では4隻の閉塞船を投入し失敗したことを踏まえ、第三回目は12隻もの閉塞船を投入した最大規模の作戦であった。
しかし天候不順により、総指揮官の林三子雄中佐は作戦の中止を決断する。 しかし、中止命令が後続艦に行き渡らず閉塞船8隻及び収容隊がそのまま突入した。結局それらの閉塞船も沿岸砲台によって阻まれ、湾の手前で沈められた。
この第三回旅順口閉塞作戦では、野村勉少佐、向菊太郎少佐、白石葭江少佐、湯浅竹次郎少佐、高柳直夫少佐、内田弘大尉、糸山貞次大尉、山本親三大尉、笠原三郎大尉、高橋静大尉、寺島貞太郎機関少監、矢野研一機関少監、岩瀬正機関少監、清水機関少監、青木好次大機関士のほか、准士官、下士及び卒ら、あわせて死傷者行方不明者が91名という大損害を出し、閉塞作戦は断念し、旅順陥落まで海上封鎖を続けることとなった。
(向、高柳、野村、白石、湯浅の各大尉は戦死とされ少佐へ進級)

旅順攻囲戦
海軍に寄る旅順閉塞作戦は、当時の日本が保有していた1000トン以上の商船197隻のうち、約1割にあたる21隻を投入したが、事実上の失敗に終わった。
ロシア軍は、ウラジオストク艦隊での通商破壊作戦の対処と、バルチック艦隊のアジア派遣による時間的な制約もあり、旅順艦隊を要する旅順港の攻略を陸軍に要請、乃木希典による第3軍の旅順攻囲戦、陸上作戦に移行することになった。
日本陸軍による旅順攻囲戦と、旅順港を脱出しようとした旅順艦隊を迎撃した黄海海戦により、旅順艦隊は無力化することとなった。


向菊太郎と朝顔丸

向菊太郎
「松島」航海長であった向菊太郎は、第三回旅順閉塞作戦において「朝顔丸」指揮官として参加。
「作戦中止命令」が行き渡らずに突撃する僚艦の動きを追随し突入を再開。陸上砲台からの集中砲火を浴びて黄金山付近で撃沈。指揮官の向菊太郎少佐以下、乗組員18名全員が戦死。
向菊太郎大尉(死後特進少佐)は33歳であった。

朝顔丸
明治22年(1889)イギリスで竣工。2461トン。三菱会社が社船「朝顔」として購入。
明治26年(1893)日本郵船に売却。「朝顔丸」と改称された。
その後、海軍に徴用され、日露戦争での第2回旅順閉塞作戦で閉塞船に投入された。

三菱が購入時には、船首に婦人木製の像が取り付けられていたが、船首像はのちに取り外され、宮中建安府に保管されていた。戦後昭和23年に運輸省海技専門学院に移管され、神戸商船大学に引き継がれ、現在は、「神戸大学海事博物館」に収蔵されている。(まだ行ったことない、、、)

https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00183/contents/0002.htm

https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81012189/81012189.pdf

http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/

http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/shiryou_det.cgi?shiryou_no=89


向家之墓(向菊太郎墓)

向家之墓

合掌
御英霊に、感謝と哀悼の意を
やすらかに

海軍少佐従六位勲四等功五級 
向菊太郎
明治三十七年五月三日没 
享年三十三才

向菊太郎の奥さんは、日露戦争前の明治36年12月に25才で亡くなっていたこともわかる。お子さんも若く、昭和6年に32歳で亡くなっていた。

場所
谷中霊園 乙3号1側

https://maps.app.goo.gl/AUrHcmNS2skG3BaGA


朝顔丸の欄干

向家の墓所に、柵のように設置された「朝顔丸の欄干」。
そして欄干のエピソードを記載した碑もある。

向菊太郎の向家は加賀藩士の出自。
向家墓所に由来碑を建立した藤岡作太郎(東京帝国大学・国文学者)は、向菊太郎の金沢時代の竹馬の友であった。
また、西田幾太郎(哲学者)も同郷の友として、向菊太郎を偲ぶ回想の記録を残している。

明治三十七年の戦役における旅順港口の閉塞は壮烈鬼神をも泣かしむべし海軍少佐向菊太郎君は五月三日第三回の閉塞に朝顔丸の指揮官たり朝顔丸一度往きて復還らず乗組員挙って国事に殉せり今年一月君と同郷にして親交ある千秋海軍少佐の旅順口に至るや沈没せる旧友の船が干潮の際舩橋を露出せるを見て官に請ひ其欄干を得て帰る同志相謀り之を修して君が墓域の鐡柵とす思うに閉塞の時風浪険悪船は動いて軽塵の如し君欄干を握りて体を支え敵塞を睨んで叱咤の聲闇を破りけむ此鐵柵は即ち君が最期の紀念にして当日の殊勲を聲なきに語るものなり
 明治三十八年十月連合艦隊凱旋の日
  故人が竹馬の友藤岡作太郎誌す

さすがの東京帝国大学の国文学者、藤岡作太郎。
格調高いレクイエム。

「君欄干を握りて体を支え、敵塞を睨んで叱咤の聲闇を破りけむ」
(君はその時、この欄干を握って身を支え、敵陣を睨みつけながら、闇を切り裂くような叱咤の声をあげていたに違いない。)

「此鐵柵は即ち君が最期の紀念にして当日の殊勲を聲なきに語るものなり」
(この鉄柵は、君の最期の記念(かたみ)であり、あの日の殊勲を声なき声で語り続けているのである。)

以下、現代語訳を。

明治三十七年(日露戦争)の旅順港閉塞作戦は、鬼神をも泣かせるほど壮絶なものであった。海軍少佐・向菊太郎君は、五月三日の第三次閉塞作戦において「朝顔丸」の指揮官を務めたが、朝顔丸は一度出撃したきり帰還せず、乗組員全員が国難に殉じたのである。

今年一月、君と同郷で親交の深かった千秋海軍少佐が旅順を訪れた際、干潮時に旧友の沈没船(朝顔丸)の船橋(ブリッジ)が露出しているのを発見した。千秋少佐は当局に願い出て、その「欄干(手すり)」を譲り受けて持ち帰った。そして同志たちと相談し、これを修理して君の墓所の鉄柵としたのである。

思えば閉塞作戦の折、激しい風浪の中で船は塵のように揺れ動いていただろう。君はその時、この欄干を握って身を支え、敵陣を睨みつけながら、闇を切り裂くような叱咤の声をあげていたに違いない。この鉄柵は、君の最期の記念(かたみ)であり、あの日の殊勲を声なき声で語り続けているのである。

旅順閉塞作戦に従事した朝顔丸の乗員たちが握りしめたであろう、往時を偲ぶ名残の欄干。

君が最期まで握っていたものと共に眠らせてあげたいという、友の気持ちが伝わる。

※撮影:2026年1月


関連

大和田通信隊土支田分遣隊の跡地散策(練馬区・稲荷山憩いの森)

練馬区の公園に、旧帝国海軍の地下通信施設の跡があるというので、足を運んでみました。


大和田通信隊土支田分遣隊

現在の練馬区土支田(どした)にある「「稲荷山憩いの森」。練馬区による稲荷山公園の都市計画区域として、練馬区の調査によって、稲荷山憩いの森の地中には、3つの部屋と通路等があることが判明した。

昭和20年9月に作成された大和田通信隊土支田分遣隊の引渡目録によると、土支田に地下送信機室、地下発電機室、半地下兵舎の3棟の地下施設があったという。

以下、練馬区のサイトより。

稲荷山憩いの森の地中には、3つの部屋と通路等(以下、「地下施設」という。)があることを確認しました。
・コンクリートの一部を採取し強度試験を実施したところ、コンクリート構造物としては概ね安定していることを確認しました。
・3つの部屋以外への広がりは、確認できませんでした。
・国立公文書館アジア歴史資料センターに所蔵されている「大和田通信隊(土支田分遣隊)」の引渡目録において、3つの地下施設が当該区域にあった旨の記述を確認しました。
・各部屋の寸法は以下のとおり
 部屋1・・・幅:約4.0m 長さ:約15.0m 高さ:約3.5m
 部屋2・・・幅:約4.0m 長さ:約25.0m 高さ:約3.5m
 部屋3・・・幅:約3.0m 長さ:約4.0m 高さ:約3.0m

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/fukei/nerima_park/genkyozu/inariyama_tikasisetu.html

今後について、練馬区では、地下施設の文化的価値についての検証をすすめるとのことなので、保存に向けて取り組んでいただけると幸いです。

稲荷山憩いの森 地下施設について(報告)

https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/kaigi/kaigiroku/kouen/inariyama_iinkai/0662022120240628.files/siryou4.pdf


海軍大和田通信隊

新座市・清瀬市・東久留米市にまたがっていた「海軍大和田通信隊」

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」、であった。


大和田通信隊土支田分遣隊の跡地散策
(稲荷山憩いの森)

地下施設が3つのエリアに別れているというが、現在は、全ての開口部が埋められており、地上部分に残存している構造物から、往時を偲ぶ形となる。

地上構造物がコンクリート残骸となっている。

おっ、通気口ですかね。

稲荷山というだけあり、見晴らしが良い高台。

この高台の下に、地下施設がある。


豊楽園神社(稲荷山憩いの森)

練馬区稲荷山憩いの森にある豊楽園神社。小祠として稲荷様が祀られている。稲荷山の起源でもあるが、「稲荷山憩いの森」は、もともとは、昭和7年に「豊楽園」と命名された行楽地であった。

豊楽園の碑の裏面に由来が記載されている。
「稲荷山」は、昭和7年に山主の加藤氏の好意により「豊楽園」として解放されたことがわかる。

稲荷山の湧き水。


土支田八幡宮

稲荷山憩いの森を東端まで歩くと、土支田八幡宮に辿り着く。近隣では一番大きな神社。散策の際に、大きめの神社があると、ついつい立ち寄ってしまうのが、私の散策でもある。郷土の鎮守様には、記念碑があるということもあり。

太平洋戦碑
昭和四十三年建立

表忠碑
陸軍中将林仙之謹書
昭和7年1月建立
帝国在郷軍人会上練馬村分会第五班

明治十年之役(西南戦争)、明治二十七八年之役(日清戦争)、明治三十七八之役(日露戦争)の出征軍人を表忠している。

ちゃんと写真を撮っていなかったが、社号標の隣りにある井戸は「南極井戸」と呼ばれている。

1911年(明治44年) に正参道入口の井戸に、宮司の島義武が南極から持ち帰った氷を入れたことから「南極井戸」と呼称されている。島義武(は、白瀬中尉(白瀬矗)の南極探検隊に事務長として参加し、南極大陸に上陸し沿岸探検支援隊として活動した。

https://shirase-kinenkan.jp/tanken_member.html

※撮影:2026年1月


関連

陸軍船舶兵出身「狂気と異端の建築家・渡邊洋治と軍艦マンション」(東新宿)

ふとしたことから「軍艦マンション」というものがあることを知った。「ふーん、文字通りに軍艦みたいなマンションなのかな」と軽い気持ちで検索してみたら、「おお、確かに軍艦だ、東新宿か、見に行けるな」って思い、さらに建築家の渡邊洋治氏を調べてみたら、なんかいろいろ面白くなってきたので、まとめてみた次第。


渡邊洋治

渡邊 洋治(わたなべ ようじ)
1923年6月14日 – 1983年11月2日
新潟県直江津市(現:上越市)出身の建築家。
建築家・吉阪隆正に師事した。
「鬼軍曹」ともあだ名された、とか。

代表作は、「糸魚川市の善導寺(1961年)」「龍の砦・嶺崎邸/嶺崎医院(1968年)「「第3スカイビル/鉄のマンション・軍艦マンション(1970年)」「斜めの家(1976年)」など。

陸軍軍人、それも陸軍船舶兵出身という出自も建築家としして異端であった。
1944年、陸軍船舶兵として徴兵され、幹部候補生試験に合格し陸軍予備士官学校に入学。
卒業後、新潟にあった陸軍の船舶隊司令部に勤務。

軍艦マンションや龍の砦に代表される狂気とも呼ばれる異端な設計に、船舶兵としての経験が下地にあったのかどうか。


軍艦マンション(1970年)

1970年の建築。
2026年現在の正式名称は「GUNKAN東新宿ビル」
旧称は「第3スカイビル」、「ニュースカイビル」、通称として「鉄のマンション」とも呼ばれた。
2024年に解体が予定されていたが、リノベーションされ解体を免れ延命している。

GUNKAN東新宿ビル
GUNKAN Higashi shinjuku

GUNKAN東新宿ビルの歴史
『GUNKAN東新宿ビル』は、東京都新宿区大久保1丁目に立地する 戦艦 をモチーフにしたユニークな建築物です。
陸軍船舶兵出身の建築家·渡邊洋治氏が手がけたこの建物は、その特異な外観から「軍艦マンション」の愛称で長年親しまれてきました。
特徴的な 円筒形の給水タンクは艦橋のミサイル を思わせ、 各階に配置されたY字型の廊下と150室の鉄製6畳ユニット  戦艦の内部空間 のような印象を与えます。
各室にはエアコン室外機用のコンパクトなバルコニーが設けられています。2010年から2011年にかけて実施された大規模リノベーションにより、外装は従来のシルバーメタリックから落ち着いたグレーと淡い緑色の配色に一新されました。
新宿の高層ビル群を望む屋上スペースも特徴的で、歴史的建造物の趣きと現代的な利便性を兼ね備えた 唯一無二の空間 となっています。

スタジオとレンタルスペース、ビルオーナー会社と住居となっている。
「R」屋上は「軍艦デッキ」

外観を見学。

各階のY字型の廊下に、居室ユニットが配置。

ミサイルのような円筒は、「受水槽」

正面。
張り出した居室ユニットには、エアコンの室外機を配置したベランダもある。

場所


第2スカイビル(解体済)

1968年建築。軍艦マンションと呼ばれた第3スカイビルの2年前に、渡邊洋治の設計で建築されたが、残念ながら2024年に解体。
渡邊洋治は、第5スカイビル(1971)も設計していたが同じく解体済み。


渡邊建築事務所ビル兼自邸(1962年)

せっかくなので、都内に残っている渡邉洋治の建築を散策してみる。
麴町駅近く。
1962年、渡邉洋治が39歳のときの建築。
高野長英が麹町貝塚に蘭学塾「大観堂学塾」を開いた場所。

小さく、細長い敷地に、コンクリート打ちっぱなしで異様な存在感を放つ建造物。

軍艦マンションの8年前の建造物。

3階部分のバルコニーには家紋

そして、2階のバルコニーには穴があけられており、

仏様(不動明王ぽい?)が。

なんとも不思議な意匠。

場所(高野長英 大観堂學塾跡)

https://maps.app.goo.gl/hrcczVs6pwjmAWSz5


明和ビル(1970年)

軍艦マンションと同じく、1970年の建造。
凛としてすっきりとしたビルではあるが、ベランダ部分の意匠になんとなくらしさがある。

場所

https://maps.app.goo.gl/zSDWn7YtHNYDCEr87


三和ビル(1967年)

上野駅近く。
「渡邊建築事務所ビル兼自邸」と同じように、家紋(社紋?)が存在感を放っている。
単純に窓を配置するわけではなく、鉄壁な防御を施したような意匠。
まわりとの異端さに渡邉洋治らしさ、が漂っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/A5trSaBFLYDXaNT48

こうなってくると、現存する渡邉洋治の建造物を見に行きたくなりますね。
糸魚川市の「善導寺」、伊東市の「龍の砦・嶺崎邸/嶺崎医院」、上越市の「斜めの家」が代表的な建築物。逆に言うと、ここで取り上げた「軍艦マンション」「三和ビル」「明和ビル」以外は残っていないとも。


軍艦ビル・芝パークビル(1982年)

渡邉洋治は関係なく、軍艦つながりで。
通称「軍艦ビル」と呼称されているのが「芝パークビル」。
芝公園近く。
A館とB館に分かれており、基準階面積はあわせて1,810.0坪(5,983.47㎡)。
14階建てのビルは、延べ床面積が10.3万平米で、全長140メートル、奥行き50メートルの威容から「軍艦ビル」と呼称された。

場所

https://maps.app.goo.gl/ixyBnsaW1ykoJcog8


野村軍艦ビル・日本橋野村ビルディング(旧館1930年)

旧野村財閥(野村コンツエルン)が大阪から東京に進出する拠点として計画され、ビルの所有者は、旧財閥の不動産等資産を管理にあたる野村殖産。野村ホールディングスや野村證券の所有するビルではない。

終戦後の1946年11月3日、建物は占領軍に接収され、アメリカ軍やその家族の宿泊ホテル「リバービューホテル」として、1952年10月20日の接収解除まで供された。
1959年に本館、1981年には別館が増築され、野村證券が本社を置いた。

日本橋野村ビルディングは、日本橋川沿いに建つ「軍艦ビル(野村軍艦ビル)」として呼称されていた。
旧館・本館・別館から構成されていたが、再開発により、本館と別館は解体。旧館は外観保全の上で改装となる。
旧館は、中央区指定有形文化財。

はい、改築の真っ最中でした。
※2026年2月

場所

https://maps.app.goo.gl/C3iFRPcyGQgv3S348

また来ましょうかね、、、

撮影:2026年2月


「日本の航空事始め・8」伊藤音次郎と航空神社(東峰神社・成田)


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その8」となっておりました。

「その1」はこちら。

「日本の航空事始め・3」では、民間航空のパイオニアとして「奈良原三次」の記事を書いたときに、民間パイロット第2号にして、民間人として初の帝都初飛行をした「伊藤音次郎」にも触れ、末筆で「東峰神社」のことも記載をしていた。
もともと「伊藤音次郎」を知る前から、「成田空港にある東峰神社はヤバい(色んな意味で)」という話も聞いており、興味は持っていた。
先日、足を運びたいと思っていた「東峰神社」にようやく訪れることができたので、以下に記録を。

「日本の航空事始め・3」では、
伊藤音次郎に関連として、
 旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎
 山縣飛行士殉空之地
などの掲載をしている。


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎の操縦にて、伊藤飛行機が開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。

戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」(恵美農場)を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。

昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく満80歳で他界。成田空港の開港は7年後の1978年であった。


航空神社(航空科学博物館)

航空科学博物館内鎮座。
祭神は天照大神・天鳥船命。
ご神体の木札には、長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者8名を祀っている。
最初の建立地は「伊藤飛行機研究所」(習志野市)。

長男の伊藤信太郎は、1936年に19歳の折に日本軽飛行倶楽部の練習中、二等飛行士・斉藤国松操縦の練習機に同乗し墜落。二人とも落命している。

山縣豊太郎は、伊藤飛行機研究所の第一期生として1917年(大正6年)に卒業。伊藤音次郎の一番弟子。後に日本民間人初の連続宙返り飛行を成功させる。1919年(大正8年)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

伊藤飛行機研究所は、1937年に「伊藤飛行機株式会社」となり、1942年には「日本航空工業(のちの日産車体)」と合併。

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

天照大神・天鳥船命のほかに、
伊藤音次郎の長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者を祀っている。

YS-11のうしろ。

シコルスキーS-62のうしろでもある。

YS-11試作第1号機

航空宇宙技術遺産
YS-11

一般社団法人日本航空宇宙学会は、2024年4月19日にYS-11型国産旅客機を航空宇宙技術遺産に認定しました。試作1号機を展示する当館は、認定証を受領し、館内に展示中です。

日本航空機製造 YS-11
 この機種は、日本の日本航空機製造が1962年(昭和37年)から生産した66人乗りプロペラ旅客機です。
 この機体は、試作第1号機で、日本航空機製造の社有機として各種の試験飛行に使用されていました

スピード:時速450Km
エンジン:ターボプロップエンジン 2台(各2,700馬力)
機体全体の重さ:23.5トン
運べる重さ:10トン
価格:5億7,600万円 USS1,600,000(昭和45年当時)
当機が飛行していた期間:1962~1982
(寄贈 日本航空機製造)

YS-11
航空宇宙技術遺産

YS-11航空宇宙技術遺産に認定!
YS-11が日本航空宇宙学会の航空宇宙技術遺産に認定されたため、4月19日
航空科学博物館が代表で認定式に参加しました。認定式には、試作1号機を展示する当館のほかに、量産1号機を展示する科博廣澤航空博物館と、型式証明を保有する三菱重工業株式会社が参加しました。

どうして認定されたの?
YS-11は、戦後7年間の航空に関する活動禁止の後、日本で初めて設計、生産された国産旅客機です。日本初の与圧キャビンを持った中型輸送機であること、初めて型式証明をとった機体であることなどが評価されました。また、日本国内だけでなく、海外でも多く使われました。高い運航率を誇り、国内の旅客機としては2006年まで40年にわたって運航された、非常に
優秀な飛行機でした。これらYS-11 シリーズの開発経験や運用実績は、その後のXC-1の開発などに活かされており、戦後ふたたび航空機設計の基技術を確立したとして航空宇宙技術遺産にふさわしい機体ということです。
YS-11試作1号機
当館のYS-11は1962年に初飛行に成功した実機です。型式証明取得のために試験飛行に使用されていました。
その後、大阪国際空港にてANAの整備訓練機として第二の人生を過ごしていました。航空科学博物館開館にあたり、当館の初代理事長でありYS-11開発の主要人物だった木村秀政が試作1号機を展示するよう働きかけ、1989年に当館に設置されました。
航空科学博物館

展望台から

場所

https://maps.app.goo.gl/sbhyvcnq5owssoxw7


東峰神社

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

現在の東峰神社には、二宮尊徳の神霊が、東峰地区の開拓産土神として祀られている。

手水舎は、東峰に遷座とともに、伊藤音次郎が鷺沼の伊藤飛行機研究所から持ってきたもの

皇紀二千六百年
日本航空三十周年
日本軽飛行機倶楽部

東峰神社

東峰神社の社号標の裏面

航空神社

こちらも伊藤音次郎が、伊藤飛行機研究所から持ってきたもの。

皇紀二千六百記念
社友会

この日は、快晴であったが、風向きがわるく、東峰神社の滑走路(B滑走路)は使用されず、航空機を間近で見ることはなかった。

むかしは、警備監視が厳しく職質もされたとのことだが、近年は飛行機が近くで見れる観光スポットになっているようで。


「三里塚闘争」とか「成田闘争」とか、そういう戦跡といえば、戦跡ではあるが、私のライフワークとはちょっと違う。

場所

https://maps.app.goo.gl/mUXg5QZZHSdL6EeQ7


東峰十字路事件の慰霊碑

戦跡の方向性が違うとはいえ、眼の前に慰霊碑があれば、手を合わせる。

この近くの天神峰で、成田空港建設反対派の襲撃により、3名の警察官の方々が命を落としている。
神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査が殉職をされた。(没後、二階級特進し、それぞれ警視・警部・警部補に昇進)

合掌

https://maps.app.goo.gl/yUV8JMYmHcHqzeXe9

https://maps.app.goo.gl/TDeaRRuxeRyJbhbN7

https://maps.app.goo.gl/j7BJLdCoo3Lbx9U68


航空科学博物館

日本初の航空専門博物館という。1989年開館。

以下、興味持ったものを。

イスパ/V型エンジン
the Hispano-Suiza V-type Engine
フランスのイスパノ·スイザ社が、1927年から生産したピストンがV字形に配置されているエンジンである。
日本では三菱重工業で1930年から製作され、旧日本海軍十三年式空母用攻撃機に使用されたエンジンである。

零戦コクピット
世界で最も有名な日本機である零戦(レイセン)の操縦席に乗ってみよう。
零戦は、旧日本海軍が三菱重エに発注した、一人乗りの空母搭載用飛行機で、原型機は1939年に初飛行した。
開発の責任者である三菱重エの堀越氏は、世界的に有名な設計者である。

航空機の歴史、とか。

日本の名機

奈良原式 四号飛行機「鳳」号
旧日本海軍 横須賀工廠式 ロ号甲型 水上偵察機
川西式 K-7A 水上輸送機

旧日本陸軍 八八式偵察機
朝日新聞社 「神風」号
航空研究所 試作長距離機

旧日本海軍 零式艦上戦闘機

毎日新聞社「ニッポン」号

あぁ、MRJの夢

朝日新聞社 A-26 長距離機
旧日本海軍 彩雲 艦上偵察機

下田信夫画伯の飛行機画。

お、この展示コーナーは既視感があるぞ。
所沢航空発祥記念館の出張展示。

YS-11のカット模型、これは初めて見た。

YS-11 試作1号機
カットアウェイモデル(1/20)

この模型は、国産旅客機 YS-11 試作1号機をもとに製作された「カットアウェイモデル」です。カットアウェイモデルとは、航空機メーカーや航空会社が顧客向けのプロモーション用に製作した、一部を切り欠いて内部構造や客室の様子を示す模型のことです。
機体の技術的特徴や、提供を想定した機内サービスを分かりやすく伝える目的で用いられました。屋外展示場にある実機の試作1号機には、客室内装や座席は設置されませんでしたが、この模型には当時想定された客室レイアウトやデザインが再現されています。
模型職人の高度な技術と、YS-11が描いていた旅客機像を知る手がかりとなる貴重な資料です。
(所蔵:鉄道博物館)

展望台から。これは一日眺めていても楽しい。

クロネコヤマトの貨物専用機(フレイター)。
なんかカッコよくて可愛いぞ。

平和佛舎利塔、成田空港建設の歴史に絡む寺院

時間の都合で、「成田空港 空と大地の歴史館」に行くのをうっかり失念していたこと。
また行かないと。。。

※2026年1月撮影


関連

日本の航空事始め

はじめに


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基(軍都柏・その9)

柏飛行場の「教材置場」見学会に参加した際に、「柏歴史クラブ」さんが展示していた燃料庫の写真に、「おっ!」と思い、話を聞いてみると、昨年に整備されて公開になった、と。
以前に訪れたときは、まだ地中だったんですよね。これは行かねば、ということで、柏の葉キャンパス近くの「こんぶくろ池自然博物公園(一号近隣公園エリア)」に足を運んでみました。

前回訪問時の上記記事では、まだ地中の中で、埋設保存だった。


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基

再整備され、保存されている、ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基。
おおお!
整備されている!

秋水と燃料庫

秋水
 「秋水」は、米国の B29 爆撃機に対抗するために、ドイツのロケット戦闘機をモデルに日本の陸海軍が共同で開発を進めた迎撃用有人ロケット戦闘機です。
 昭和13年(1938)、今日の柏の葉地域に首都東京の防空を目的として、陸軍柏飛行場が設置されました。太平洋戦争末期になると、飛行場は秋水の基地として指定され、昭和 20年(1945)から、陸軍による実戦配備のための実験や訓練が開始されました。一方、海軍は7月7日に横須賀で初の飛行試験を行いましたが失敗し、秋水は完成することなく終戦を迎えました。

秋水燃料庫
 柏市内に造られた秋水の燃料庫(推進剤貯蔵施設)には、2種類あります。
●既製品の下水道管であるヒューム管を用いたL字型半地下式【柏飛行場の東·柏の葉地域】
●大型のコンクリート製コの字型覆土式【ここからさらに約4km.東の花野井·大室地区】
 ここに残るヒューム管式の燃料庫2号は、内部に設けたコンクリート製の棚に高濃度過酸化水素「甲液」を入れた大きなガラス瓶を並べて保管したと伝えられます。
 平成22 年(2010)、柏歴史クラブの調査により柏の葉地域でいくつかの燃料庫が確認されました。こんぶくろ池自然博物公園内(一号近隣公園エリア)には、現在も2基の燃料庫が保存されています。

秋水燃料庫2号
 現存する2号の燃料庫本体の長さは約2.5mですが、当初は8本のヒューム管が連結され、全長20mあったと推測されます。この燃料庫には、20リットル瓶を64本貯蔵可能であり、その重量は約1.7トンとなります。飛行時間7分30秒で1.5トンの過酸化水素を使い果たす秋水にとっては、わずか1回分の貯蔵能力です。
 燃料庫2号の貯蔵室後方上部には、コンクリート製の円盤が残っています。この構造物はコンクリート管で燃料庫内部とつながり、上面には円筒形の壁が立ち上がっていた痕跡が確認されており、燃料庫内部での撒水及び燃料の流出・火災の発生に備えるためであったと考えられます。
 令和7年3月 柏市教育委員会

リング状遺構は消火用貯水槽の底部と推測。
この上部には、円筒状の消火用貯水槽があったと推測されている。
貯水槽とヒューム管は管でつながり、過酸化水素の流出や火災の場合に大量の水を流す仕組みであった。

ヒューム管の長さは約2メートルで、それを9~10個つないだ燃料保管庫であった。

燃料庫内部。
内部に設けたコンクリート製の棚に高濃度過酸化水素「甲液」を入れた大きなガラス瓶を並べて保管した。


陸軍柏飛行場と秋水

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫1号基

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

上記の写真のみ2021年データを流用

こちらは埋設保存。

場所

https://maps.app.goo.gl/z5rxZ311EoPTekUj8


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

右側の「秋水燃料庫」が該当する。

※撮影:2026年2月


関連

陸軍柏飛行場「教材置場」(流山)解体前の最初で最後の見学会(軍都柏・その8)

軍都柏の戦跡散策、その8。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏飛行場関連施設として残存していた「教材置場」の解体前の最初で最後の一般公開の模様を掲載。

本記事は、流山市駒木台「流山市内の戦跡」となりますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として掲載します。

建造当時の様子を残す梁棟。

ちなみに、前回記事の「ガス庫及び部品庫」の向かい側にある建造物が今回取り上げる「教材置場」となるが、前回散策時は、、、記録できていなかったです。。。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会・概要

旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会

令和8年2月7日・8日
主催 流山市教育委員会
協力 柏歴史クラブ 柏市教育委員会

柏飛行場は、昭和13年(1938)に開設され、昭和 20年(1945)まで陸軍の飛行場として利用されました。流山市と柏市の市境には、飛行場の本部や格納庫、立川分廠本部などの施設が建てられていました。昭和20年の戦争終結以降、飛行場の大半は米軍の通信基地として利用されたほか、建物の一部は民間に払い下げられ、住宅や倉庫、工場等に利用されていたようです。
米軍の通信基地は、昭和54年(1979)に日本に返還されます。返還後は、柏の葉公園や東京大学大学院、千葉大学、住宅地等が整備され、かつて飛行場だった面影はほとんど残らなくなりました。
そのような中、昨年の5月に旧所有者の関係者から柏飛行場と思われる建物を解体する予定だとの相談がありました。このため、流山市教育委員会は、柏飛行場の調査を以前より進めていた柏市教育委員会、柏歴史クラブ、建造物の研究者と共同で調査を実施し、今回見学会を実施する建物が、柏飛行場関連の教材置場と呼ばれる施設であることが明らかとなりました。
教材置場は、飛行機を整備するための部品などを展示していた場所と考えられています。建物は、その後クリーニング工場と住居として利用されていたため、建物内部は大きく改造されていますが、随所に当時の痕跡が残っています。

流山市

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/tourism/1013087/1052392.html

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/res/projects/default_project/_page/001/052/392/chirasi.pdf


「教材置場」見学会

解体前の最初で最後の見学会。


「教材置場」見学会・建屋の内部

戦後は、クリーニング工場であった、という。

往時からの窓枠が残る。

紐で上下にスライドできた。

教材置場としての入口は側面のシャッターがある場所あたり。

建屋の手前3分の2がクリーニング工場。
建屋の板張りの奥3分の1が居住スペース。
大改築されているが、陸軍時代の残存部分もある。

右側の板張りが戦後の増築部分。

手前が戦後の増築部分。


「教材置場」見学会・建屋の天井や梁棟

小屋梁や垂木、棟木など、往時からの様子がよく残っている。

水色っぽい色合いは、戦後の塗装。

建造当時の木材は、黒っぽい塗装。
天井部分を開口して発見。

天窓があったのかどうか、それは不明。
解体されるその日まで、少しずつ構造物をバラしていくことで、往時の様子が解明できる。不明部分も今後の解体調査次第で明らかになっていく。

戦時中の建造物ということもあり、金属に余裕がなく、金属使用部分は限られている。
梁を補強するボルトのみが金属であった。

電球取付部は当時からのものと推測されるが、要調査。


「教材置場」見学会・建屋の入口

開口部分が、往時の建屋入口。

扉の溝(鴨居)が残っている。

奥にも出入り口があったことがわかる。


「教材置場」見学会・建屋窓

建屋の窓の位置も状況から推測できる。

戦後に取り付けられた配電盤の左右にも窓があった形跡が残る。

増築部分の壁にも、窓があった痕跡が残る。

窓枠が残る。

窓枠の上部だけ残る。


「教材置場」見学会・建屋壁

往時の壁の構造を知ることも出来た。

モルタルは戦後。
往時は、木を張り筋違を設けた建造。

調達された木材の仕入元などの記録も残る。

床面も剥がすことで当時の状態を解明することができる。
解体時にわかってくることもある。

会場は「流山市教育委員会(流山市立博物館)」と「柏歴史クラブ」がタッグを組んだ説明会でした。

「柏飛行場調査報告書」は、PDFがダウンロードできるよって教えてくれました。これは良いもの。

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh1.pdf

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh2.pdf

この充実の資料がPDFがで読めるのが、ありがたいです!


「教材置場」見学会・建屋の外観

外観を。

宅地造成工事
着手は令和8年4月から。

陸軍柏飛行場関連施設(教材置場)として、解体の最後の時まで記録と調査が実施されます。

最初で最後の見学会を開催いただいた流山市教育委員会・柏市教育委員会・柏歴史クラブの皆々様に感謝です。
ありがとうございました。


※撮影:2026年2月


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