「海軍」カテゴリーアーカイブ

「清水海軍航空隊」清水三保の戦跡散策・その1

静岡県清水区三保。三保半島。
「三保の松原(三保松原)が有名な景勝地にも戦跡がある。

本編は「その1」として清水海軍航空隊を中心に掲載します。
「その2」では、格納庫跡の散策を掲載します。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No.1-92
1947年10月01日、米軍が撮影した航空写真を参照。

一部編集。

Google航空写真


清水海軍航空隊

三保の松原の一角を軍用地に転用して展開された航空隊。
昭和19年9月1日。土浦海軍航空隊から海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)第14期前期320名が新設の「清水海軍航空隊」に転入。
昭和20年4月1日。最後の予科練となる甲飛第16期入隊。水上及び水中特攻訓練の教程が実施。
教育訓練部隊のために、航空機の配属はなく、また14期15期16期の3期の教育において、航空機搭乗訓練はなく、特攻教育が主体であった。


甲飛予科練之像

甲飛予科練之像

碑文
太平洋戦争の末期ここ三保の地に清水海軍航空隊ありき
大空に雄飛せんと集いし若人海軍甲種飛行予科練習生が
日夜厳しき教育と訓練に明け暮れし所なり
往時の面影すでになし 
われら再び戦争の惨を起さず
今ここに久遠の平和を念じつつ記念の碑を建立す
 昭和63年8月吉日
  清水海軍航空隊所属
  第十四、十五、十六期海軍甲種飛行予科練習生一同
  清水海軍航空隊清空会 関係者一同

甲飛予科練之像記念碑案内
 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。
 昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生14、15、16期生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所である。
 当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。
 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。
 記念碑保存会

富士山と甲飛予科練之像

鳩を抱きかかえた予科練生徒像。

場所

https://goo.gl/maps/8DSuJ1n1nGxymRJR8


清水海軍航空隊の門柱

「甲飛予科練之像」から三保灯台通りを挟んだ向かい側の建屋の脇に、門柱が残っている。この門柱は、清水海軍航空隊の門柱ともいわれている。
隊門としては貧相なので、裏門か通用門か、といったところ。


三保灯台(清水灯台)

三保半島の東端に建つ、八角形の白亜の小型灯台。
明治45年(1912)3月31日に設置された日本で最初のコンクリート造灯台。国指定重要文化財。日本国近代化産業遺産。土木学会推奨土木遺産。

場所

https://goo.gl/maps/ew1uM3imPfvuXuZu8


三保飛行場

「甲飛予科練之像」から富士山にむかって海岸を進んでいくと、荒れ地が広がっている。これが「三保飛行場」の滑走路。
滑走路は長さ500m、幅20mという超小型の飛行場で、災害救助専用の飛行場として場外離着陸場に分類されている。

かつてこの場所には「三保根岸飛行場」という民間飛行場があり、戦中に海軍に買い上げされ、戦後に払い下げとなっている。

かつては、「日本飛行連盟」「赤十字飛行隊」の管轄だったが、現在は静岡県が管理している(静岡県静岡土木事務所)

三保半島から望む富士山。

駿河湾フェリー「富士」が富士山をバックに航行。


三保の松原(三保松原)

せっかくなので観光ぽいことも。

三代目「羽衣の松」


御穂神社

むかし、神社フリークだったことに、来たことがありました。
記録によると平成16年(2004)だったので、ざっくり約20年前、、、ちょっと自分で驚きの時間軸、、、

御穂神社は、駿河国三の宮。延喜式内社。

主祭神:
大己貴命(おおあなむち命)、一説に三穂津彦命ともいう
三穂津姫命

由緒
大国主神が国を譲られ、高皇産霊尊の娘である三穂津姫命を大后とされ、二柱で羽車に乗って三保の浦に降臨され、三保の森に鎮座されたという。また当社は出雲国御穂埼より遷座した神ともされる。当社を「駿河国三の宮」とする説もある。
醍醐天皇の延喜式では式内社列格。
現在の社殿は寛文8年(1668)の落雷のあとに仮宮として建てられたもので、本殿は江戸中期の建築という。

御穂神社正面の松参道(約500メートル)先の海岸には「羽衣の松」、「三保松原」がある。


三保駅跡(三保ふれあい広場)

昭和19年(1944)7月1日に、貨物駅として開業。
同年9月に、日本軽金属清水工場が操業開始し専用線が運用開始。
同年12月に、清水港線として旅客営業を開始。
昭和59年(1984)に廃止。
三保駅跡は、一部プラットフォームが残され、公園として整備されている。

引込み線で使用されていた小型ディーゼル機関車と、日本軽金属のアルミナ輸送に使用されていた私有タンク車(タキ8450形タキ8453)が静態保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/gbPdDfo7DE766rYs6

※2023年5月撮影


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

東郷神社で海軍ゆかりの戦跡散策

元帥海軍大将 東郷平八郎 を祀る東郷神社。
海軍ゆかりの史跡戦跡を求めて、境内を散策してみました。


東郷神社関連の記事

以下も参照で。いろいろ記事が重複しますが。


第一駆逐隊奉納の大燈籠

第一駆逐隊に所属した戦没者を慰霊するために奉納された大灯籠。
東郷神社の参道に。

第一駆逐隊
第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三年)我国最初の駆逐隊として編成され 日露戦争に参加ののち 大正九年迄艦隊第一線で活躍後 一旦 解隊された  大正十一年(一九二二年)改めて第一駆逐隊が野風 沼風で編成され 続いて波風 神風が加わり 昭和初期まで 聨合艦隊の新鋭駆逐隊として活躍した その後は主に大湊(むつ市)を基地としてオホーツク海及び千島列島 カムチャッカ半島沿岸の漁業保護に尽力その発展に大きな力となった  大東亜戦争では北はアッツ キスカ方面から南は印度洋ジャワ方面まで幾多の戦闘に参加 野風 沼風は勇戦空しく沈没したものの神風 波風は一部損傷を受けたが最期迄戦い抜き 神風はシンガポールにおいて 波風は瀬戸内海で終戦を迎えた この間渡辺保正司令 山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた この燈篭は青春を国に捧げ 若くして戦に殉じた勇敢な戦友と 最後まで海上で戦い抜き 戦後の復興に尽力 物故した乗員の霊を慰め 我が国永遠の平和を念願して 駆逐艦神風会が 駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族ならびに この主旨に賛同の方々の協力をえて建立 奉納したものである
 昭和六十二年六月二十日  
  駆逐艦神風会

第一駆逐隊

駆逐艦
神風 
野風 
波風 
沼風

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
第一駆逐隊

昭和六十二年六月吉日 
奉納 
神風会


水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。
水交社の後進にあたる水交会の本部は、東郷会館にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交神社鳥居は、築地の水交社にあった明治44年造の二代目鳥居。
昭和3年に水交社とともに芝に移転。
その後は東京水交社とともに進駐軍に接収され、昭和56年に現在の(財)水交会に返還。
同年に東郷神社に奉納された。
この鳥居は日本海軍の栄光と苦難をともに歩んできた往時を知る貴重な鳥居。

水交社

明治四十四年十月建之


東郷元帥を讃える歌の歌碑

東郷元帥を讃える歌
「天地日月のむた大き洋の大きいさをは輝きとほる」
佐佐木 信綱


大正12年に開設された我が国初の公園墓地多磨霊園名誉霊域開設時、最初に葬られたのが東郷元帥。
霊園表門を入って直ぐのところに佐佐木信綱氏の東郷元帥を讃える歌の歌碑が建っていました。
元帥国葬から約1年の間、大森すみ子氏が墓守をしており、師事していた歌人佐佐木信綱氏に染筆を願い、昭和14年に建立したものです。
多磨霊園休憩所大森茶屋の大森和夫氏(大森すみ子氏の御令孫)より令和2年12月東郷神社に奉納されました。

こは東郷元帥を偲ひまつりて
 佐佐木信綱博士の詠せられしを博士に染筆を請ひたるなり
  昭和14年 大森すみ子誌


手水・洗心

洗心
 野村直邦謹書

野村直邦は、海軍大将。東郷内閣末期の海軍大臣(嶋田繁太郎の後任)であったが、就任の翌日に東郷内閣は退陣。後継の小磯内閣では米内光政が海軍大臣となったため、野村は合計6日間のみの海軍大臣であった。

瀬戸海のもづくの
幸のめでたさを祈り
祝ひて水屋捧げむ
 廣島縣 倉橋堀榮助

食糧難に際して、モズクの採取で貢献したという倉橋の堀榮助。


海軍経理学校正門敷石

東郷神社の手水舎の前に移設された旧海軍経理学校の正門敷石。

御水舎の前の敷石は 海軍經理學校正門の敷石として使用されたものであります

海軍經理學校正門敷石
海軍經理學校の沿革
 明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。  この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。  昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献そしている。
 昭和五十五年五月  
  浴恩會(海軍經理學校同窓會)


海軍特年兵之碑

海軍特別年少兵(特年兵、14歳からの志願兵)の碑。
昭和46年5月16日、高松宮同妃殿下の御台臨を仰いで除幕式が挙行された。

海軍特年兵之碑

昭和の白虎隊
海軍特年兵の説明が碑の裏側に記されています
是非御覧下さい
 海軍特年会

香淳皇后御歌
 やすらかに
  ねむれとぞ思ふ
 君のため
 いのちささげ志
  ますらをのとも

あゝ特年兵
  作詞 山口純
  作曲 三島秀記
時代はどんなに変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ 特年兵

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

海軍特年兵
 あゝ十四才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に二才も若く しかも特例に基ずいたものであつたため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された
 昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した
 太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生約一万七千二百名におよんだ 横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した 戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された だが反面 幼いだけに犠牲者も多く 五千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした しかし 特年兵の存在は戦後 歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどつていた このままでは幼くして散つた還えらぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は 日本国民の心に永遠に留め 讃えねばならない 英霊の声に呼び覚まされたかの如く 二十五回目の終戦記念日を迎え
た四十五年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まつた 戦火は消えて二十六年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によつて碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至つた そして幻の
特年兵はようやく蘇つた そのうえ 特年兵たちが 国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む
 除幕式には 特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り 碑の礎に散りばめた
 吾々は 今は還えらぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え 祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う
 昭和四十六年五月十六日
  海軍特年兵生存者一同
  建立委員長小塙清春撰文謹書

碑銘 揮毫 
昭和四十六年五月十六日  
元 海軍大臣 海軍大将 野村直邦敬書

こちらも野村さんの揮毫でした。


東郷蔵

東郷蔵由来
昭和20年5月の戦災に依り麹町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました。同23年5月麹町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して30数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の50年祭に当り従前の蔵の姿を模して少し大きく不燃建物にて新築した記念の蔵です。
 昭和59年5月28日 社務所


潜水艦殉国碑(伊33潜潜望鏡)

太平洋戦争中に亡くなられた全ての潜水艦関係者の英霊を慰霊する。
殉国の碑。
潜水艦横断面を型どった碑の司令塔部分には、伊号33の潜望鏡が取り付けられている。

殉國

潜水艦勇士に捧ぐ
 太平洋戦争中百二十餘隻の潜水艦と共に戰没された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び 回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収 する途がない
しかし それは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戰場に在ることを意味する 民族の急 を救うべく戰った犠牲の精神は永えに其処に活きている 
 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見 つめている 願わくは日本国民の全部も ありし日の諸君の勇姿と奮戰激闘の光景と護国の 屍となった戰場とを緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願し て巳まない
 茲に曽て戰友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の靈域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ
 昭和三十三年五月二十五日

搭載用 魚雷模型
旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
実魚雷の寸法
 巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
 潜水艦用 径53㎝ 長さ7.2m
 航空機用 径45㎝ 長さ5.7m

伊33潜はトラック島で事故のため沈没、呉で修理後の昭和19年、伊予灘で訓練中再び沈没。
昭和28年に引き揚げられた。


東郷神社の狛犬(獅子)

東郷神社の狛犬は、獅子(ライオン)でいわゆる狛犬とは違う。
1921(大正10)年、彫刻家 新海 竹太郎 (1868-1927)により東京築地の国立がんセンター(東京築地の海軍大学校の敷地)の所に建っていた「有栖川宮威仁親王の御銅像」の台座の四隅にあったもの。

戦災を免れた後、高松宮殿下から東郷神社に下賜された歴史ある獅子。
ちなみに、1984(昭和59)年、「有栖川宮威仁親王像」本体は福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮威仁親王ゆかりの別荘「天鏡閣」に移設されている。

庭園と潜水艦殉国碑に、4体ある。


東郷神社

東郷神社周辺や東郷会館は2020年頃に大幅にリニューアルした。(東郷会館は2022年再開)

由緒

https://togojinja.or.jp/gosaijin

東郷神社由緒沿革


海の宮

奉斎の趣
神を敬い、祖先を祟び、先覚を敬慕してその霊を祀ることは、わが国古来の美風であります。
東郷神社におきましては、敬神・崇祖の信仰厚い人々と共に、その精神を実践するため、昭和四七年に境内霊社「海の宮」を創建、御斎神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しております


砲弾

詳細不明。御祭神ゆかりのものだろうか?


東郷神社回廊絵画

御祭神である東郷平八郎命の一生がわかる絵画


御神木

北参道にご神木がある。


水交会

ちかくには、「水交会」がある。

水交会に関しては、下記にて。


※撮影:20210527および20230528

東郷神社例祭(令和5年5月28日)

2023年(令和5年)5月28日。
東郷神社例祭(式年大祭)

御祭神(東郷平八郎命)が、日露戦争で輝かしい功績を残された日で、東郷神社において最も大きな祭典。

118年前の今日、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が勝利を確定させた日。


日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日
「日本海海戦」
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦が勃発。


海軍記念日(5月27日)

1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定。1945年(昭和20年)を最後に、日本の太平洋戦争敗戦により廃止された。


5月28日

1905年(明治38年)5月28日。
ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。


東郷神社例祭(式年大祭)

5月28日祭行

足を運んでみました。

東郷神社例大祭
5月28日 11時斎行

強運御守を戴きました。
毎月1日、5/28、5/30、12/22のみの限定頒布です。

世界の海軍史にその名を残した御祭神等郷平八郎命。
多くの苦難や困難を強靭な意思とその強運で乗り越えてきました。
東郷平八郎命には、様々な強運話があります。
左記のような話がありました。
海軍大臣山本権兵衛は、明治天皇に東郷平八郎命を連合艦隊司令長官に推薦した理由として、
「東郷平八郎は、運のいい男です」
と奏上した逸話があります。
御祭神等郷平八郎芽命の強運にあやかった御守です。

強運御守

東郷元帥の強運にあやかりたく。

御朱印も戴きました。

令和5年5月限定の御朱印だそうです。
Z旗ですね!

「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」

東郷神社の戦跡散策は別記事を予定

※2023年5月28日撮影


関連

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

軍艦「橋立」のキャプスタン(素戔嗚神社・尼崎)

関西方面に行く機会があったので、気になっていた場所に足を運んでみました。


軍艦「橋立」

大日本帝国海軍の防護巡洋艦「橋立」。
艦名は名勝「天橋立」に由来する。
排水量4,210トンで、三景艦のうち唯一の国産艦(横須賀造船部で建艦)であった。

清国が保有していた戦艦「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として、計画されたのが松島型防護巡洋艦。いわゆる「三景艦」(松島・厳島・橋立)であった。

1885年に清国北洋艦隊が就役させた「定遠」「鎮遠」
定遠級戦艦2隻は、基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mmという、当時の列強海軍が東アジアに配備していた大型艦を凌駕する、アジア最強の戦艦であった。
日本海軍は定遠級戦艦に対抗するために、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲を装備する軍艦を建造。「松島」は後部甲板に主砲を配備し、「厳島」と「橋立」の2隻は前部甲板に主砲を配備した。当時の日本海軍の艦艇では32cm砲を取り扱いするには困難を極めたが、一番艦の「松島」は日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めた。
「橋立」は、日清戦争開戦直前の明治27年(1894年)6月26日竣工。同年の8月1日に日清戦争開戦。
連合艦隊に所属し、松島・厳島・橋立の三景艦として、清国北洋艦隊の鎮遠・定遠を撃破し、日清戦争の勝利に貢献した。

明治37年(1904 )の日露戦争では、三景艦の松島・厳島・橋立と、拿捕艦であった鎮遠を交えた第三艦隊第五戦隊の旗艦を橋立が務めている。

大正11年には横須賀海兵団の練習船として使用され、大正14年に廃船となり、大正15年(1926)に解体となっている。

軍艦「橋立」のキャプスタン

兵庫県尼崎市の素戔嗚神社。
境内に、軍艦「橋立」のキャプスタンが奉納されている。
キャプスタン(capstan)は、垂直軸回転式のウインチのことをいう。

明治廿七八年日清戦役旗艦橋立表上甲板ノCAPSTANロクロナリ昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納 紀元二千六百年 赤井常吉

要約すると
明治27年~明治28年の日清戦役(日清戦争)旗艦(旗艦じゃない)の「橋立」の表上甲板のCAPSTAN「ロクロ」。
解体の翌年、昭和元年(1926)に払い下げされ、素戔嗚神社に献納された、という。

キャプスタンのことを「轆轤(ろくろ)」と表現しているのは面白い。たしかん「ろくろ」だ。

緑の四角は、塞いだ蓋。
ここに、キャプスタンバー(横棒)をさして、人力で回転させた。

明治40年頃、横須賀軍港の「橋立」
wikipedia参照写真

以下は参考まで。キャプスタンの例。

「明治丸」
これは橋立と近いメージですね。回転させるためのキャプスタンバー(横棒)があると、イメージがわかりやすい。これで人力で回します。

記念館「三笠」
橋立の5年後に竣工した三笠。すでに機械化されてますね。 

護衛艦「しらぬい」
いまどきのキャプスタン


素盞嗚神社(西素盞嗚神社)

兵庫県尼崎市大庄西町鎮座。
永禄年間の創建という。

兵庫県神社庁

https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6304065.html

武庫川の上にある「阪神武庫川駅ホーム」
「素盞嗚神社」は阪神武庫川駅の北、尼崎側の東にある。

場所

https://goo.gl/maps/TfECLbvZAEXRepdR9

※撮影:2023年4月


関連

兵庫県には海軍艦艇関連の奉納神社が多いような。

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その2・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その2」となります。

歴史的な説明は「その1」で。

また、下記も参照で。


予科練平和記念館

土浦駐屯地のとなりに「予科練平和祈念館」がある。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

買い物など


予科練の碑(予科練之碑)

土浦武器学校内の雄翔園に。

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練之碑

題字は寺岡謹平。海軍中将。

高松宮妃電化御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行
予科練習生を偲びてよめる

海はらに
 はたおほそらに
  散華せし
きみら声なく
 いく春やへし
      喜久子

昭和41年5月27日、この御歌は、高松宮喜久子妃殿下のご直筆。

碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
昭和41年5月27日
 海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
 撰文 海軍教授 倉町秋次

雄翔園・雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

今回は、土浦駐屯地開放日だったので、それはそれで問題なく開放。


旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。

旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍用地の境界標石。

https://goo.gl/maps/xhJKsb2EaJRJGEua7

場所

https://goo.gl/maps/UEmVQR16HtL1zot18


続きは「その3」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その1・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

土浦海軍航空隊の跡地。

現在の航空写真。


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。


旧土浦海軍航空隊正門

現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。

駐屯地配置図。


旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)

昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。

この部分に、渡り廊下があった。

病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。


広報史料館

土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。

駐屯地紹介コーナー

予科練第三兵舎解体記念

5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。

旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部


弾薬展示コーナー

小火器コーナー

九八式射爆照準器

覗いてみる。おもしろい。

95式射爆照準器

こっちも覗いてみた。おもしろい。

豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架

一式旋回機銃二連(航空機銃)

旧軍関連の小火器

対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃

砲隊鏡

拳銃

指揮刀


初代・山本五十六元帥像の左手

昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。

ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像

雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像

桜賑わう霞ヶ浦湖畔。

この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。

土浦駐屯地内に戻ります。


行幸記念

(表)
行幸記念

(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書

戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。

天皇行幸記念の碑
 この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
 石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。

機銃の跡。

土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。


旧土浦海軍航空隊号令台

号令台跡
 この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
 毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
 また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。

号令台の上から。


常在戦場の碑

山本五十六の常在戦場

常在戦場
昭和十年四月 山本五十六

昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之

 この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
 この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
 昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。

台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。


皇太子殿下行啓記念碑

皇太子殿下行啓記念の五葉松
 この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。


本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」

土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。

2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。

「雄飛の松」由来記
 霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
 初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
 戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
 伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
 2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
 平成7年2月22日

昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)

2代目「雄飛の松」


旧土浦海軍航空隊裏門跡

かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。

そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。

この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。


霞ヶ浦

土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。


旧土浦海軍航空隊スロープ跡

武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)


正門前の「海軍用地」境界標石

別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。


雄翔園そのほか海軍系は、その2で。

旧軍戦車と火砲は、その3で、

陸自の戦車は、その4で。

※2023年4月1日撮影


日露戦争の海軍三提督がお手植え「足利学校の月桂樹」

栃木県足利市。
下野国足利荘にある「足利学校」は、日本最古の学校として知られている国指定史跡。


足利学校

中世において足利学校は関東最高の学府であったが、明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。明治5年(1872年)に廃校となっていた。

明治36年(1903年)に足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館が設立。
そして大正10年(1921年)、残っていた足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は「足利学校跡」として国の史跡に指定され、保存されることとなった。

平成2年(1990年)に建物と庭園の復元が完了。
平成27年(2015年)には、「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」のひとつとして日本遺産に認定された。


海軍三提督のお手植え「月桂樹」

足利学校孔子廟(大成殿)前庭には、海軍三提督がお手植えした月桂樹がある。
明治38年(1905)9月に終結した日露戦争の1年後の明治39年(1906)12月23日の「釋奠」(孔子祭)の行事に海軍の三提督が参列。
参列した海軍の三提督は、伊東祐亨、東郷平八郎、上村彦之丞の三名。

なお、足利学校で孔子を祀る釋奠(せきてん)の行事は冬至の日(12月22日ごろ)に行われていたが、大正4年以降は11月23日に変更され、現在に至っている。

東郷平八郎お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍大将 東郷平八郎 手植
明治39年12月23日

東郷平八郎
日露戦争時の連合艦隊司令長官。大日本帝国海軍連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃滅、完勝をして日本の勝利を導いた提督。

孔子廟大成殿の向かって左にお手植えの月桂樹がある。

伊東祐亨お手植えの月桂樹

月桂樹
元帥海軍大将 伊東祐亨 手植
明治39年12月23日

伊東祐亨
(日清戦争時の)初代連合艦隊司令長官。
日露戦争時は軍令部長として大本営で海軍を統括した。
明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に列せられた。

上村彦之丞お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍中将 上村彦之丞 手植
明治三九年12月23日

上村彦之丞
日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。
日本海海戦では、判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ勝利に貢献した。

伊東と上村の月桂樹は並んでいる。

孔子廟大成殿の向かって右側に2提督の月桂樹。

日本最古の学校として、文の象徴であった足利学校に、当時の日本で最高の武を誇った海軍提督が揃って、祭礼に参加したというのもなかなか趣深い。

孔子廟(大成殿)

聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟。
建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営

扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書。

孔子坐像

小野篁公像

杏壇門

扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。

学校門

寛文8年(1668)に創建され、現在、足利学校の象徴的な門。
扁額「學校」の文字は明の書家 蒋 竜渓 が来日した時の書を、当時の江戸国史館助教授の 狛高庸 が縮模。

孔子像

入徳門

足利学校に入る最初の門です。寛文8年(1668)徳川幕府第4代将軍家綱の時の創建であったが、火災焼失。現在の門は、明治の中頃に裏門を移転修築したものという。
扁額「入徳」は紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順の書。

方丈・庫裡


足利学校遺蹟図書館

足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903)3月に足利学校遺蹟図書館が発足し、大正4年(1915)に現在の建物が完成し開館した。

※撮影:2023年1月


良長院の海軍慰霊碑(横須賀鎮守府海軍建築部請負と横須賀鎮守府所属看護科員)

横須賀中央駅と、汐入駅の中間、聖ヨゼフ病院の近くにある良長院に、海軍関連の2つの慰霊碑がある。


横須賀海軍建築部請負工事
殉職者弔魂碑

横須賀海軍建築部請負工事 
殉職者弔魂碑
 海軍大将 野村吉三郎書

昭和8年11月建立
横須賀建工同志会・傷害救済会建立

横須賀の海軍施設請負工事で殉職した民間の方々を慰霊顕彰している。
裏面には殉職された方々の名前が刻まれている。


横須賀鎮守府看護科員 戦病死者之霊碑

横須賀鎮守府看護科員 
戦病死者之霊
 海軍大将山本英輔謹書

(裏面)
昭和7年9月23日建立
赤心会建立

文字通りに横須賀鎮守府看護科員戦病死者の方々を慰霊顕彰する碑。


良長院

龍谷山良長院(曹洞宗)
保年間(1645-1648)創建

横須賀軍港で、建築部請負工事殉職者の碑と看護科員戦病死者の碑と。
それぞれの碑前で、海軍を支えた方々の御魂に合掌をする。

※参拝と撮影は2018年4月

「駆逐艦のふるさと」浦賀ドック跡地(浦賀船渠第1号ドック)

横須賀の浦賀。ここに幾多の駆逐艦を生み出した造船所があった。
「浦賀船渠」
「西の藤永田、東の浦賀」と称された、大日本帝国海軍駆逐艦のふるさとである「浦賀船渠」跡地を散策してみた。

西の藤永田造船所のレポートは以下にて。

「浦賀ドック」は、横須賀市浦賀地区にあった造船所。
2003年に「浦賀ドック」は閉鎖され、2021年に住友重機械工業から横須賀市に無償寄付された。


浦賀造船所

嘉永6年(1853年)、ペリー来航を期に、江戸幕府は「大船建造の禁」を解禁し、大型船の建造を開始。「浦賀造船所」を設置。

安政元年(1854年)、「浦賀造船所」にて、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造される。これは、浦賀奉行所与力の「中島三郎助」の尽力による。

中島三郎助と鳳凰丸
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
 浦賀国際文化村推進協議会

安政6年(1859)には、日本初のドライドックが完成。アメリカに向かう咸臨丸の整備も浦賀で行われ、咸臨丸は浦賀から出港している。

慶応元年(1865)、江戸幕府の勘定奉行であった小栗忠順の進言により、フランスの技師ヴァルニーによって「横須賀製鉄所」が開設。造船所としての拡張も行われ、江戸幕府が瓦解したのちの明治4年(1871)に「横須賀造船所」(横須賀海軍工廠)となり、艦艇建造は浦賀から横須賀に移り、「浦賀造船所」は明治9年(1876)に閉鎖となった。

戦前の浦賀船渠

浦賀造船所の基礎を築いた中島三郎助は、戊辰戦争に際して、榎本武揚らと行動をともにし、函館政権(蝦夷共和国)下では、箱館奉行並、砲兵頭並として要職を務め、箱館戦争では、本陣前衛の千代ヶ岱陣屋の陣屋隊長として奮戦。五稜郭への撤退及び新政府への降伏も拒絶し、本陣五稜郭降伏の2日前に、中島三郎助は長男次男とともに戦死している。

明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、三郎助を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。

中島三郎助招魂碑の除幕式に参列した荒井郁之助が中心となり、榎本武揚・塚原周造も賛同し中島三郎助の業績を称えて浦賀にドックを建設することを決定。
明治30年(1897年)、かつての浦賀造船所と同じ場所に「浦賀船渠株式会社」が設立された。(浦賀船渠の浦賀ドックの竣工は明治32年)
明治31年には 東京石川島造船所浦賀分工場(川間ドック)が、渋沢栄一によって開業し、浦賀での造船競争が活発化。
最終的には、明治35年(1902)に、浦賀船渠が石川島の浦賀分工場(川間ドック)を買収し、浦賀船渠川間分工場となっている。

榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
 浦賀国際文化村推進協議会

浦賀船渠は、日露戦争に際して、横須賀海工廠から艦載水雷艇の受注を受けたことから、軍艦製造を開始。
明治40年(1907年)に、浦賀船渠は初めて駆逐艦を建造。最初の建造は駆逐艦「長月」であった。
大阪の藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」として、多くの艦艇を生産した。
海軍軍艦として建造実績は、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完、であった。
また、大正13年(1924)には、青函連絡船の原点となった、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」を竣工させ、その後の多くの青函連絡船も浦賀での建造となった。

浦賀船渠で造られた艦艇

軽巡洋艦
  五十鈴(長良型2番艦)
  阿武隈(長良型6番艦)
敷設艦
  厳島(2代目)
駆逐艦
 神風型駆逐艦 (初代、昭和5年全艦退役)
  長月、菊月
 樺型駆逐艦(昭和7年全艦退役)
  桐
以下は太平洋戦争に参加世代の艦艇
 樅型駆逐艦
  柿、萩、菱、蓮
 若竹型駆逐艦
  早苗、早蕨
 神風型駆逐艦 (2代目)
  追風(2代目)
 睦月型
  弥生(2代目)、水無月(2代目)、望月
 吹雪型
  深雪、磯波(2代目)、狭霧、潮(2代目)、雷(2代目)
 初春型
  子日(2代目)、初霜(2代目)
 白露型
  時雨(2代目)、五月雨(2代目)、山風(2代目)、涼風
 朝潮型
  霞(2代目)
 陽炎型
  不知火(2代目)、早潮、時津風(2代目)、浜風(2代目)、萩風、秋雲
 夕雲型
  風雲、高波、涼波、岸波、清波、清霜
 秋月型
  宵月
官公庁船
 関門連絡船:長水丸、豊山丸
 青函連絡船:飛鸞丸
 青函連絡船・戦時標準船:第三青函丸
 青函連絡船・W型戦時標準船:第四青函丸、第五〜第十青函丸
民間船
 貨物船:葛城丸
 貨客船:白山丸

戦後の浦賀船渠

戦後も浦賀船渠では海上自衛隊向けの艦艇の建造や、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。
昭和44年に住友機械工業と合併し、「住友重機械工業浦賀造船所」となり、追浜造船所(現横須賀造船所)も開設。工場集約に伴い浦賀地区は平成15年(2003)に閉鎖され資材置き場となる。
2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部が、住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付され、現在に至る。

昭和52年 市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選
浦賀造船所
 浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
 この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
 そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。
 明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。
 この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約千隻にのぼります。現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もな地元市民に基盤を置いています。


「浦賀ドック」ツアー見学

現在、限定公開されている浦賀ドックの見学会に参加してきました。

NPO邦人よこすかシティガイド協会

http://yokosuka.kankoh-guide.com/uraga-dokku-hp/uraga-dokku-guide.html

令和3年3月に住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄附された浦賀レンガドックは、明治32年(1899年)に建造されてから平成15年(2003年)に閉鎖されるまで1,000隻以上の船の製造や修理を行ってきた歴史のある造船所。
レンガ造りのドライドックとしては日本では浦賀にしか現存していない貴重な施設となっている。

入口。ツアーに申し込みしないと入れない。。。

レンガ片


浦賀船渠「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)

昭和20年6月と銘記のあるドックサイドクレーン。
現存する唯一のクレーン。

浦賀船渠
昭和20年6月

ジブクレーンは、一本の支柱で腕(ジブ)を支えるクレーン。


浦賀船渠「ドライドック側面」(乾ドック)

世界に4箇所(5個)しか現存していないレンガ積みのドライドックのひとつ。
長さは約180m、幅は約20m、深さ約11m。レンガ使用数は約215万個、積み方はフランドル積(フランス積)


浦賀船渠「ポンプ所」

ドライドック(乾ドック)では、ポンプが必須。壁のレンガは、レンガドックと同じ年に完成した、貴重な遺構。

浦賀湾の奥を望む。この護岸も往時からのもの。


浦賀船渠「浦賀ドック船尾側(フラップゲート側)」

海水をせき止めるのが、フラップゲート。自重で海面側に倒れるようになっているという。

船尾側(海側)から浦賀ドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。船尾側。

ゲートを開閉する装置。

このあたりはタワークレーンの跡。


浦賀船渠「ボラード」

岸壁の杭。係留用だったり進入防止用だったり。


浦賀船渠「ドック底部」

いよいよ下に降ります。

盤木。船を固定するための土台。
現在の盤木は、2002年に浦賀ドックに最後に入渠した「しらはま丸」のもの。盤木は船の設計図にあわせて、都度作成していた。

フランス積みの煉瓦

船首方向

浦賀ドックを拡張した昭和35年7月の銘板。

見えなかったが、竣工当時の銘板もあるらしい。

これはワクワクする空間ですね。


レンガドック活用センター

浦賀ドックに関する資料が集められた建屋を見学。

浦賀船渠株式会社
浦賀工場

浦賀と浦賀レンガドックの歴史
(住友重機械工業浦賀工場第1号ドック)

享保5年(1720年)
浦賀奉行所の開設

嘉永6年(1853年)
浦賀沖にペリー来航、久里浜に上陸

慶応元年(1865年)
横須賀製鉄所の起工
幕末に開国した日本は、欧米諸国に追いつくため、現在の米海軍横須賀基地と京急線汐入駅周辺の場所に、日本で初めて石造りのドライドックを備える横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を建設した。蒸気機関を動力として、造船に必要な部品生産から組み立て、メンテナンスまでを一貫して行い、技術者育成機関も備える大工場だった。伴って、蒸気機関に欠かせない水道や物流に欠かせない鉄道など都市基盤の整備もいち早く進み、横須賀は最先端技術が集まる造船の町へと変容していった。

明治28年(1895年)
渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所が、浦賀ドックにほど近い川間でドック建設に着手
明治28年に、渋沢栄一率いる㈱東京石川島造船所(現在の㈱IHI)は、浦賀ドックにほど近い川間でドライドック建設に着手し、明治31年に営業を開始した。明治32年には、浦賀船渠㈱により、浦賀1号ドライドックが竣工し、浦賀には、同時期に2つのドライドックが稼働することになった。後に、浦賀船渠㈱が川間のドライドックを買収・合併することとなった。

歴史の小話
明治28年3月8日付の「国民新聞」には、浦賀に計画された2つの造船所について書かれている。「榎本武揚ら武士が発起人となって、西浦賀に設立しようとする船渠は、政府内部の許可は早くとれたのに、地元の地主との交渉が難航して、未だ工事に着工できない」一方、「渋沢栄一ら町人一派が東浦賀に計画している船渠は、すでに地主との間に売買の契約が整い、一坪3円ずつお手付け金も渡してあるが砲台に近いという理由で、陸軍省からクレームがあり、これまた設立に至らず。」どちらが先に問題を解決して、造船所の建設を進められるのか。浦賀の人々を自陣に取り込もうと、榎本ら武士と渋沢ら町人が、両者一歩も引かぬにらみ合いが行われていたようだ。

明治32年(1899年)
浦賀1号ドライドック(浦賀ドック)の竣工
明治30年に、農商務大臣であった榎本武揚らの提唱により、浦賀船渠㈱が設立された。浦賀1号ドライドックの工事着手に先立ち、オランダの技師デレーケに設計を委嘱、元横須賀造船所技師の古川庄八の協力などにより設計と整備が進められた。明治30年に本工事に着手し、最終的には、横須賀造船所のドライドック建造に関わった経験を持つ杉浦栄次郎が、浦賀ドック㈱の主任技師に赴任し、紆余曲折を経て完成した。

平成15年(2003年)
住友重機械工業裏が工場の閉鎖
浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)で最後の修繕した船は”しらはら丸”。
惜しまれつつ閉鎖した後、令和3年に、浦賀1号ドライドック(現在の浦賀レンガドック)と周辺部が住友重機械工業㈱から横須賀市に寄付され、現在に至る。

場所

https://goo.gl/maps/LFqbbg3TVQ4HZWH86


浦賀船渠「浦賀ドック渠頭側」

渠頭側からドックを一望する。

船とドックのセンターを合わせる水平装置。渠頭側。

敷地内の見学は、以上。
レンガ積みのドライドック。これは、ぜひとも、見学すべき貴重な空間。

次は、浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)に向かいます。


浦賀船渠「浦賀ドック煉瓦壁」

道すがら。
外壁の一部も往時からのもの。

内側から


浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀奉行所を模した入口。

浦賀屯営碑
旧浦賀ドック構内の非公開エリアにある、浦賀屯営碑の説明。
明治9年9月1日から浦賀に「浦賀水平屯集所」が設立。以後、水兵練習所・浦賀屯営・横須賀海兵隊と名前を変えつつ水兵養成機関があった。

場所

https://goo.gl/maps/AJo4HEZkbRR1JqCr8


浦賀ドックの最後の建造「護衛艦たかなみ」

2003年(平成15年)3月12日、浦賀ドック(住友重機械工業浦賀艦船工場)で最後の建造となったのが護衛艦「たかなみ」。
「たかなみ」竣工後の3月31日に、浦賀工場は閉鎖した。

護衛艦「たかなみ」

2017年に撮影していた「たかなみ」の姿。


陸軍用地境界石

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に保存されている陸軍用地の境界石。


浦賀ドック跡

浦賀駅前周辺。

屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、1875年(明治8年)、「浦賀水平屯集所」が設置されました。
 その後「東海水兵分営」、明治15年には「水兵練習所」、明治18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。
 その事績を残すため、昭和9年に「屯営跡の碑」が建てられました。
 この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われていました。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

参考

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/higasi2.html

敷地の外から浦賀ドックを。

※撮影:2022年7月及び8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-143
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

浦賀ドック周辺

現在の様子

浦賀ドック

現在の様子


2016年の浦賀ドック

2016年に浦賀に訪れていたときに何気なく撮影をしていました。
今思えば、もっと撮影をしておくべきでした。。。

昭和18年建造のハンマーヘッドクレーンの姿も撮影していました。
撤去解体済み。

「ドックサイドクレーン」(ジブクレーン)も写真を撮っていました。

※撮影:この箇所のみ2016年4月


関連

海軍機雷学校跡・海軍潜水学校跡(久里浜)

千代ケ崎砲台の南側に、海軍の学校があった。
千代ヶ崎砲台を見学した後に、足を伸ばしてみました。

千代ヶ崎砲台はこちらにて。

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

海軍機雷学校

日露戦争の教訓を踏まえ、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定したことに始まる。
昭和16年3年に機雷戦専門の学校として「海軍機雷学校」が設立。所在地は、久里浜港の突端にあたる久里浜長瀬。

海軍対潜学校

昭和19年3月、海軍機雷学校は海軍対潜学校に改称。対戦戦闘を重視した措置であった。
昭和20年に本土決戦要員を捻出するために、術科学生は繰り上げ卒業となり、対潜学校は閉校。高等科教育は海軍水雷学校に編入となった。(海軍水雷学校久里浜分校)
繰り上げられた学生は、ほぼ特攻要員(伏龍)とされたようで。

海軍対潜学校の最後の校長は、キスカ撤退を指揮した木村昌福少将であった。

跡地は、横須賀刑務所、久里浜少年院、防衛装備庁艦艇装備研究所、港湾技術研究所などとなっている。

浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定。
陸軍桟橋から引揚者が上陸していたが、引揚船内でコレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられている。
横須賀刑務所内には、引揚者の供養塔があるという。


海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

跡地は刑務所や少年院、行政機関の敷地などになっており、立ち入ることができない。なにやら岸壁や沖合には構造物が残っているようでもあるが、大事なことなので2回書くが立入禁止なので。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

碑の由来 
ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称)
この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。
終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。
この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 
 平成5年(1993年)4月1日 
  有志一同

ぱっと見は、記念碑しか残っていない。

場所

https://goo.gl/maps/arnEcR4YRp6uzyX38

※撮影:2022年7月


軽質油庫跡

上記の記事を書くために情報を整理していたときに、遺構として軽質油庫(軽質原油庫)が残っているとのことがわかったので、再訪をしました、、、

近くのケアセンターの駐車場として活用されていました。

とても綺麗な壕ですね。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡地

跡地は気楽に立ち入りできない施設が多い。

横須賀刑務所支所

防衛装備庁・艦艇装備研究所

久里浜少年院

港湾施設

※撮影:2022年11月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-162
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

海軍機雷学校(海軍対潜学校)の該当部分を拡大。
千代ヶ崎砲台のすぐ南であることがわかる。

現在の様子。

ちなみに、久里浜少年院の沖合に、謎の構造物がある。どうやら干潮時に燈明堂の海岸から見えるところまで、近づくことができるらしい。。。

構築物は海軍機雷学校(海軍対潜学校)の施設として使用されていたもので、当時は陸続きであったらしい。荷役施設として使用され、戦後は、引揚船内でコレラが発生したために、浦賀港で会場隔離が実施され、浦賀引揚援護局浦賀検疫所が久里浜の海軍対潜学校跡地に設けられ、検疫所としても活用された。


長瀬海岸

長瀬海岸から、海軍対潜学校と千代ヶ崎の岬を望む。
平作川の北側。

干潮時には下に降り、ちかくで見れるらしいが、この日は潮が満ちてまして。。。
フランス積みのレンガ片が転がっている。古い時代のレンガ。この界隈では、千代ヶ崎、観音崎、浦賀ドック、猿島などもフランス積み。

※撮影:2022年11月


関連

米海軍横須賀基地フレンドシップデー2022

2022年10月16日、3年ぶりに開催された、米軍横須賀基地のフレンドシップデー。足を運んでみたので、写真中心に記事を掲載。


旧横須賀海軍病院の境界塀

大日本帝国海軍の海軍病院。明治13年開庁。
戦後、米海軍に接収され、横須賀米海軍病院(United States Naval Hospital Yokosuka)として現在も当時の庁舎等が米軍横須賀基地内で病院として機能している。立ち入り制限があるため、今回は「大日本帝国海軍時代からの横須賀海軍病院」の軍用地境界の塀(壁)のみ見学。

米軍の消防緊急車両が、横須賀海軍病院前を通過。

むだに流し撮りをしてみる。


横須賀鎮守府軍法会議所正門跡

ここには、横須賀鎮守府軍法会議所があった。


横須賀海軍工廠造船部の建屋

横須賀海軍工廠造船部時代の建屋という。

横須賀海軍工廠造機部の建屋

横須賀海軍工廠造機部時代の建屋(組立工場)という。


海軍砲術学校入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。

よくみると、トンネルに「海軍砲術学校」とある。

当時からの護岸かも。

地下壕跡、かな。

大日本帝国海軍関係で記録できたのは、ひとまず以上。
ほかにも、日本海軍の電話線マンホールや消火栓などもあるが、今回は記録できなかった。


※2019年に米軍基地内で以下を記録してました。

消火栓


第7艦隊旗艦 ブルーリッジ
USS Blue Ridge, LCC-19

アメリカ海軍の揚陸指揮艦。日本横須賀に拠点を置く第7艦隊の旗艦。
就役は1970年。アメリカ海軍現役艦艇では最古参。


ブルー・リッジ甲板から

ラルフ・ジョンソン
USS Ralph Johnson, DDG-114

原子力空母の修理拠点
米海軍修理バージ YR95、YR96、YR85

小さい船は、かわいい。

見学の大行列、、、

横須賀の軍港を、米軍側から見れるのは貴重。
写真の左手は、吾妻島。米海軍の倉庫がある。

はるか向こうに、住友の横須賀製造所もみえる。

たぶん、旧帝国海軍の建屋も点在しているはず。

謎キャラ登場。


米海軍オレゴン号の錨

In Memory Of A Gallant Ship
USS OREGON
1896-1919

アメリカ海軍インディアナ級戦艦3番艦「オレゴン」(USS Oregon, BB-3)の
1919年の退役後は武装解除され博物館船となっていたが、1941年に海軍はスクラップ艦として再活用しようとしグアムへ曳航。そのままグアムで終戦を迎え、1956年に解体された。


米国船オネイダ号 国際平和記念碑
USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

USS ONEIDA INTERNATIONAL PEACE MEMORIAL

The USS Oneida distinguished herself during the American Civil War and fought bravery in the New Orleans,Vicksburg and Mobile Bay Navel Battles.
It during the Mobile Bay Naval Battle where her heroic crew earned 8 Medals of Honor.
During the Meiji Restoration she served the best interests of the United States and the Emperor of Japan by having a part in putting down a Warlord uprising near Osaka.
This is dedicated to the 115 Sailors and Officers of the USS Oneida whose lives were lost in the service of their country.May her legacy continue to inspire all Sailors;past, present and future in the pursuit of freedom and international peace.
“Greater love has no one than this; to lay down one’s life for his friends.”
John 15:13
Memorial maintained by Yokosuka Chief Petty officer’s Mess
Erected 2007

1870年1月24日、米国船オネイダ号は母国アメリカ合衆国に向けて東京湾をあとにしました。船はこの地点から真東に4マイル位のとことでイギリスの貨物船「ボンベイ号」に激突され、その後15分の間に沈んだ。この悲劇の結果は、水兵海兵隊員、そして中国人を含む115人の乗組員の命の損失であった。
そのうち回収された遺体はわずか3体だけであった。この記念碑は東洋と西洋の古代の象徴を組み合わせ、亡くなった人々の思い出に敬意を表し、また過去、現在、未来と、歴史的かつ継続的な日米の協力関係を表すものである。
水兵たちが安らかに眠らんことを。



MASUOKA PARK(増岡公園)

「ミスターネイビー(Mr,Navy)」として、長年にわたり衆議院事務局に勤務していた増岡一郎氏は、日米安全保障の架け橋として、米海軍によって永遠に語り継がれ、記念として、「MASUOKA PARK」が設けられている。

This park is named for the honorable Ichiro Masuoka.
“MR,NAVY” a true friend and selfless supporter of the navy and the united states-japan security relationship.
Because of his peaseverance and dedication. Our sailors and their families enjoy a significantly improved quality of life
He shall live forever in our hearts.


米海軍横須賀基地ヘリポート管制塔

かつてこの場所には、潜水母艦「大鯨」の艦橋を流用した航空管制塔があったという。昭和52年頃までは現存していたというが、現在は撤去されており、新しい管制塔となっている。

沖合に何かいた。。。米海軍。

民間船のようにみえますが、これは米海軍ワトソン級車両貨物輸送艦「ダール」。ワトソン級車両貨物輸送艦は、世界最大のガスタービンエンジン推進艦。

猿島。冬になったら行こうと思う。。。


Yokosuka Friendship Day
ヨコスカフレンドシップデー

ライブ開場

郵便局

MILITARY POST OFFICE, YOKOSUKA JAPAN

マクドナルド

警備艇

アメリカンな焼肉。

あとは、ふらふらとアメリカの空間を堪能。
ネイビーバーガーを食べたけど、写真はいまいち。


三笠公園

モニュメント撤去工事中


買い物。
スタバのエナジードリンク。バニラとモカ。バニラはやばいくらい甘いらしい。力尽きたときに飲もう。。。

※撮影:2022年10月


関連

茂原海軍航空基地跡散策・その2「引込線跡と地下壕跡」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。そんな掩体壕群は「その1」で記載しました。

「その2」では、掩体壕以外の「茂原の戦跡」をまとめます。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

茂原駅から、引込線の跡をたどりながら、北上をしていきます。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


茂原駅

午前8時、茂原駅到着。散策のスタート駅。


茂原海軍航空基地引込線跡

サンシティ町保通りを北上する。この道がかつての引込線の跡。


北上していくと、文教エリアに到達する。

茂原海軍航空基地本部跡(茂原市立萩原小学校)

特に何もないけど、萩原小学校がかつての本部跡。

ちょっと雰囲気のある建屋があった。
往時の航空写真では一致できなかったので、茂原海軍航空基地とは関係ないとは重いけど。


茂原海軍航空基地兵舎跡(茂原市立茂原中学校)

茂原中学校のあたりには兵舎があった。こちらも何もない。

この道は引込線の跡。

なにもないと思ったが、ちょうど引込線が阿久川を渡るためにカーブするあたりに、古めの建屋があった。関係ないかもしれないけど兵舎っぽいといえば、兵舎っぽい。関係ないと思うけど。

長屋をぶった切った感じがするんです、、、


茂原海軍航空基地引込線橋脚土台跡

阿久川を渡るための引込線の橋脚土台が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/4dwuYPRmr4p1oMc67

阿久川

沢井製薬の工場。滑走路エリア。

滑走路のあった方向。


茂原海軍航空基地誘導路跡

掩体壕を散策した記事は「その1」にまとめました。掩体壕があるのであれば。もちろん誘導路もあるわけで、誘導路を歩いてみる。

沢井製薬関東工場の前の道が誘導路。

誘導路が滑走路の向けて曲がるあたりは、三井化学アグロ株式会社。


茂原海軍航空基地滑走路跡

東西の誘導路が合流して、南に真っ直ぐ伸びる正面の道路が滑走路跡。

場所

https://goo.gl/maps/cWbGLbL27odWdUuN6

誘導路の先には、茂原市が管理している掩体壕への誘導がある。

このさきに掩体壕がある。この道も誘導路。

この先の掩体壕の記録は別記事の「その1」で。


茂原海軍航空隊病院壕「腰当地下壕」

場所は変わって、掩体壕エリアから外房線を横断して、茂原市腰当へ。ここにはかつて茂原海軍航空隊の海軍病院壕があり、通称「腰当地下壕」と呼称されている。

その山の下に地下壕がある。

ちかくにある、光福寺。

地下への入り口っぽいのがあるが、封鎖。

洞窟内の壁が一部崩れており危険ですので中には入れません。
茂原市教育委員会

あっ、はい。。。

場所

https://goo.gl/maps/2jttYmGYJhqHfFpy5

光福寺から山裾の道をたどって裏へ。天然ガス基地の裏。

いくつか開口している。そして毎回、思うわけです。夏に山を散策するのは駄目だと。。。

今回は、むりに壕には入らない。退散します。

腰当地下壕のある山。

そのまま山裾の道を歩いて行く。


茂原海軍航空隊司令部壕「長尾地下壕」

なにか見えた。
いい感じの素掘りのトンネル。海軍がこの地に地下壕を設置する前に掘られたトンネルのようで、海軍も連絡路として活用していたという。
この地にあった茂原海軍航空隊司令部壕は、通称で「長尾地下壕」と呼称されている。
私は北から歩いて来たが、茂原市立豊田小学校の脇から赴くのがわかりやすい。

切通のトンネル。

トンネルの北側に、なんとなく山に入れる獣道のような小道がある。
進んでみましょう。

開口してます。

入れそうなので、入ってみましょう。

入ってみたものの、装備はライトのみ。普通の靴なの足下がこころもとない。足下が水気を帯びた泥に張り付かれながら、慎重に歩いて行く。

まがりみち。

おおう。水没してみますね。これは長靴がないと厳しい。

引き返しましょう。
地下壕に関しては、諸先輩方がいらっしゃいますので、私はさわりのみで。
ちなみに他にも地下壕の開口がいくつかあり、山を縦断すれば、前述の腰当地下壕にも到達できるらしいが、何分にも夏場は山の散策は無理です。冬ですね、再訪するのであれば。

場所

https://goo.gl/maps/4WcqMt2WsrRHnfxP8

切り通しに戻ってきました。


長尾地下壕から新茂原駅まで歩き。

新茂原駅

新茂原駅に戻ってきました。
茂原駅に比べると、かなり寂しい駅ですね。

新茂原駅から北西方面には、地下壕があった。

新茂原駅から北東方面には、掩体壕群。

新茂原駅の東側には、誘導路があった。

そして新茂原駅の南東には、滑走路があった。

茂原駅から、引込線と誘導路を経由して掩体壕群を10基めぐって、地下壕を2箇所を確認して、新茂原に戻ってきた行程が下記となります。
15キロ約5時間、でした。真夏にやることではないですね。。。

※撮影:2022年8月


関連

茂原海軍航空基地跡散策・その1「茂原掩体壕群」

千葉県茂原市。掩体壕が残る街。それも10基もの掩体壕が今も残っている。これだけ残っているのは、全国屈指レベル。まさに掩体壕群と呼称するにふさわしい。
そんな掩体壕の街「茂原」を散策してみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-8
1947年02月22日、米軍撮影の航空写真。

以下、抜粋の上、補足加工。

滑走路は西側の1本完成していたが、東側の二本目と南側の東西滑走路は未完成。

北側には誘導路があり、多くの掩体壕がある。
誘導路は現在の道路とは一部しか重なっていない。

番号は茂原市の管理番号に従います。


茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。


掩体壕(茂原市教育委員会)

第3掩体壕にある茂原市の解説板。

掩体壕
 太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
 司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
 この壕は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。
 築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
 戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
  令和2年12月25日
   茂原市教育委員会

茂原市

https://www.city.mobara.chiba.jp/0000007259.html


まずは、掩体壕を中心に散策を。

第1掩体壕

個人宅敷地内で車庫兼物置小屋。
掩体壕の番号は茂原市での管理番号。散策順番とは異なります。

敷地外から遠望。

個人宅の掩体壕は、さくっとチラ見で。

場所

https://goo.gl/maps/fvRLf8kpVHNc7pdq7


第10掩体壕

個人宅敷地内で車庫として利用。同じく敷地外から遠望。

裏にまわると、ソーラーパネル。

場所

https://goo.gl/maps/spg6VhoXtQW2L5ps7


第11掩体壕

ソーラーパネルに囲まれている、、、。

掩体壕とソーラーパネル。

ある意味で、新鮮な組み合わせ。

近寄ることはできない。

場所

https://goo.gl/maps/ejUFpKmWPZ5VF4wi6


第3掩体壕

茂原市が管理している掩体壕。

場所

https://goo.gl/maps/nqEvbGiV74ihoGAu7


第6掩体壕

田んぼの中に。

ムシロの様子もわかる。

場所

https://goo.gl/maps/roafNBT1nFcqvPcG9


第8掩体壕

個人宅で物置として活用。敷地外から遠望。

場所

https://goo.gl/maps/H6s5r7arH8oEYZ3p8


第9掩体壕

個人所有。作業場として活用。

住めそうな空間。

場所

https://goo.gl/maps/qw2w6behUU87MEmS9


旧東郷小学校跡記念碑

東郷小学校は飛行場設置に伴い、移転を強いられた。

場所

https://goo.gl/maps/zALnxudqvN4PY24S8


第7掩体壕

ちょっとした森の中に。

場所

https://goo.gl/maps/96DXpDWZqqaz61xN7


第5掩体壕跡

宅地造成で消失。第6掩体壕の北西だった。


第4掩体壕

物置小屋。状態はよくない。

場所

https://goo.gl/maps/Wutb7NoLGty4TtMa8


第2掩体壕

物置小屋。よい状態。

場所

https://goo.gl/maps/24UZZUzcigZ4Nah19

以上、茂原に残る掩体壕10基の散策でした。
「その2」では、掩体壕以外の茂原海軍航空基地関連の戦跡を巡ってみます。

※撮影:2022年8月


関連(千葉と茨城の掩体壕)

「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その2

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は、「その2」となります。「その1」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


海軍技術研究所科学研究部
相模海軍工廠科学実験部

昭和5年に、海軍火薬廠用地の一部割愛し海軍技術研究所平塚出張所を開設。科学研究部第二科(化学兵器担当)が平塚に移転をする。
昭和9年に「海軍技術研究所化学研究部」として独立。
昭和17年に寒川に「相模海軍工廠」を新設。化学研究部は改称し、「相模海軍工廠科学実験部」となる。
現在の平塚市交通安全協会や平塚市美術館、平塚警察署や平塚合同庁舎などが、「相模海軍工廠科学実験部」の敷地であった。跡地では旧日本軍の毒ガスの分解生成物として発生する有機ヒ素化合物・ジフェニルアルシン酸が検出されていたりもする。

史跡
海軍技術研究所化学研究部 
相模海軍工廠化学実験部 跡

海軍技術研究所は昭和5年(1930年)この地に科学研究部を設け 多くの市民から「技研」の愛称で親しまれた 昭和18年(1943年)相模海軍工廠化学実験部と改称 終戦と共にその役割を終えた
いま往時を偲び懐旧の思い新たに 先人の鎮魂と世界の平和を祈念し ここに記念碑を建立しその足跡を留める
  平成6年(1994年)春  
  相模記念碑建立委員会建立

平塚市役所公用車駐車場の奥

場所

https://goo.gl/maps/4a3NUQ17SmXUCkve8


相模海軍工廠科学実験部 境界壁

敷地の東側。
「湘南リンテック加工 平塚工場」の東側の壁が、当時の境界塀。

場所

https://goo.gl/maps/Lzb6HuPL2oV6Drk89


日本国際航空工業株式会社 平塚製作所
(日産車体)

昭和12年(1937)に日本航空工業株式会社が設立。
昭和16年に国際航空工業と合併し、社名を日本国際航空工業と改称。
この工場は、陸軍戦闘機「疾風」(四式戦)の三翼自動可変ピッチ・プロペラや大型輸送用グライダー(四式中型輸送滑空機)を製作していた。
戦後は、日産車体株式会社となる。

再開発で、「ららぽーと湘南平塚」もできた。

場所

https://goo.gl/maps/6v8HUfiVJNe3jtbw6


平塚自動車部品製作所・平塚傷兵工場
平塚金属工業)

戦時下、傷痍軍人援護のため、昭和15年(1940)4月に創設された「平塚自動車部品製作所」(トヨタ系列)。
平塚自動車部品製作所は、「平塚傷兵工場」ともいわれ、戦場で傷つき傷害を持つ人々のために創られた日本で唯一の傷痍軍人を従業員とする会社であった。
「戦場で傷ついた勇士達に対し、一時的ではなく永遠に感謝の徴意を表すため、何か意義ある御奉公をさせて頂きたい」という意義のもとでの設立であった。
戦後は「平塚金属工業」として、再生し現在に至っている。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/8.html

https://otani.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1179&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=28

場所

https://goo.gl/maps/4HWEVGJNy3UTFX4x6


第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
(湘南倉庫)

航空機のエンジンと航空機用機銃やその部品を製作していた第二海軍航空廠の跡地。
第二海軍航空廠は、空襲により100%破壊され、外壁を残るだけであった。
現在、湘南倉庫の一部外壁は、この第二海軍航空廠の外壁が再利用されている。

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/4.html

裏の倉庫も、往時?とおもったけど、違うとのこと。

場所

https://goo.gl/maps/hcCKtqHrzBrV7WZM9


横須賀海軍工廠 造機部 平塚分工場
(三興製鋼)

現在の三興製鋼は、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場であった。

なかなか迫力のある工場ですね。

工場の第4ヤードには、今も機銃掃射弾痕が残っているという。
また、「慰霊乃碑」もあるという。

参考

http://www.sankoseiko.co.jp/judan.html

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/5.html

平塚競輪場
ちかくには、平塚競輪場もある。これも、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場の跡地。

場所

https://goo.gl/maps/KJUYQ3LyzY9EocEA9


陸軍架橋記念碑

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、相模川にかかる馬入橋が倒壊し、東西の交通が断絶してしまった。そこで、9月17日、豊橋の陸軍第15師団所属工兵大隊と、京都の第16師団所属工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が行われ、橋の全長450メートルの内、平塚側の300メートルを第16師団が、茅ヶ崎側を第15師団が担当し、10月3日に完成。
平塚側を請け負った、第16師団所属工兵大隊を称えるために、建立されたもの。

陸軍架橋記念碑

場所

https://goo.gl/maps/MkTBUAc9ZJAb4qxj8


東海道本線・相模川鉄橋残骸

関東大地震では、馬入橋だけではなく東海道本線の相模川鉄橋も倒壊している。
その橋脚の台座が、今も相模川には残っている。

参考

https://hirahaku.jp/kids/rekishi/rekishi05/index.html

場所

https://goo.gl/maps/3og9f1YPkx7cweUE6


犠牲動物慰霊塔(蓮光寺墓地)

馬入の蓮光寺近くにある「蓮光寺墓地」には、動物慰霊塔がある。それも「犠牲動物」の慰霊塔。
すなわち、「海軍技術研究所平塚出張所」(海軍技術研究所化学研究部・相模海軍工廠科学実験部)において使われた実験動物の慰霊塔。

合掌

犠牲動物慰霊塔

海軍技術研究所平塚出張所有志

創建年代は不詳。「海軍技術研究所平塚出張所」時代は、昭和5年から昭和9年となる。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/minzoku/00000063/24.html

場所

https://goo.gl/maps/KgCvNTK2PjsJaQLp9


※撮影は2022年4月及び9月

平塚散策ですが、都合3回実施してしまいました。
1回目は、2022年4月。その時の記事を書き始めて調査不足が発覚して9月に訪問。さらに調査不足が露呈して3回目も実施。3回目にして、レンタサイクルを駆使して、行動範囲を拡大させました。まだ漏れがあるかもしれませんが、いったん掲載をしておきます。


関連

「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その1

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は「その1」となります。

かつての横須賀水交社平塚集会所(現在の旧横浜ゴム平塚製造所記念館)。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


平塚大空襲(平塚市博物館

平塚地区には、第二海軍火薬廠のほかにも横須賀海軍工廠造機部平塚分工場、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場、日本国際航空工業などの軍需工場が集まっていた。
平塚市は、昭和20(1945)年2月16日以降、艦載機等による空襲を受けていた。
昭和20年7月16日深夜から17日未明にかけて、B29爆撃機133機による大空襲を受け、「平塚空襲」として特に大規模な空襲であった。人的被害は死者328名以上という。

7月16日の平塚空襲で被災を逃れた日本国際航空工業や横須賀海軍工廠平塚分工場など軍需工場は、2週間後の7月30日の空襲で被災した。

以下は平塚市博物館の展示物。

平塚空襲に関する展示など。

平塚市博物館

海軍火薬本廠

火薬廠門柱札
海軍火薬本廠は昭和14年から16年にかけての名称。

中央の筒は、「火薬缶」

相模海軍工廠で作っていた防毒面。

戦争関連は、ほんのすこしだけですが一見の価値あり。

書籍も入手できます。

場所

https://goo.gl/maps/DsUSuBkDv9pdxcRC6


さて、ここからは順不同で、平塚の戦争関連の遺跡(戦跡)を散策していきます。まずは、平塚駅からスタート。

平塚駅と柳の木

平塚駅北口のロータリーにある柳の木。明治20年に平塚駅が開業したことを記念して植樹された柳の木は、現在は3代目という。

平塚駅と柳の木
 明治20年(1887年)7月11日、平塚駅の開業を記念して、駅舎正面に一本の柳の木が植えられた。この木は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災や、太平洋戦争の終結年である昭和20年(1945年〉の平塚大空襲による駅舎の全壊にも耐えてきたが、惜しくも、昭和31年(1956年)、歳月とともに枯れてしまった。
 幸いにも、当時の駅員がその柳の枝を挿し木にしており、平塚市の限りなき発展を祈念し、平塚駅開業70週年記念に駅前に栽培され、柳の木は引き継がれてきた。
 平成21年(2009年)の北口駅前広場バリアフリー化工事により、柳の木の移植が必要となったが、老齢化が著しいため、挿し木にして生長させた後、平成22年(2010年)2月にこの地へ植栽した。
平塚市観光協会

脚下には、二代目を引き継いて植樹した当時の平塚市長であった戸川貞雄氏の碑文が摩耗しながらも残っている。作家でもあった戸川貞雄氏の文は短いながらも趣がある。

平塚駅の柳の木 碑文
 明治二十年七月十一日平塚停車場が開驛し驛舎の入口に一本の柳の木が植えられた。それから七十年柳の木はいくたびか受難しつつ世界につらなる平塚の動きをじっとみつめていた。その下を往来した多くの人たちからながくしたしまれてきた柳の老木もとうとう枯れた。しかし昨年の春地に挿されたそのひと枝があらたに芽をつよく吹きはじめた。昭和三十一年七月十一日のこされたたったひと枝の生命をわたくしはここに植えた。生長をかぎりなき生長を市民とともに祈らずにはおれない。
         戸川貞雄文
         田中真門書

場所

https://goo.gl/maps/egwxCbWM9DGtkE947

平塚空襲を経て、復興した平塚市。
フェスタロードと東海道が交わる歩道橋から。


平塚八幡宮

祭神:応神天皇・神功皇后・武内宿禰

旧県社・相模国一国一社八幡宮・相模五之宮ともいう。
仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の「国府祭」にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

仁徳天皇68年、相模地方に地震があり人民の苦難のさまを伝え聞いた仁徳天皇が、国土安穏祈願のために応神天皇を祀るように勅されたのが当社の起源という。
古くは鶴峯山八幡宮と称した。
当社は一国一社の八幡宮としてあつく崇敬され、総社六所神社の国府祭にも参加する神社。
明治6年に政府の指示により「八幡神社」と改称。昭和53年に「平塚八幡宮」の旧名に復した。
明治社格では県社。現在は神社本庁別表神社。平塚市総氏神。

ちょうど参拝時は4月末だったため。国府祭を控えていました。
毎年、五月五日に相模国の一宮から五宮までの五社と総社六所神社の神輿が集う祭事。

場所

https://goo.gl/maps/m2jh6eHZ8jnTtB9C8


忠魂碑と明治三十七八年戦役記念碑(平塚八幡宮)

平塚八幡宮の境内に戦争関連の石碑がある。

忠魂碑
元帥伯爵東郷平八郎書

明治三十七八年戦役記念
 希典書

忠魂碑は「西南戦役」「明治二十七八戦役(日清戦争)」「明治三十三年事変(北清事変)」「明治三十七八年戦役(日露戦争)」にまつわる。
東郷さんと乃木さんの石碑。


八幡山公園

平塚八幡宮が鎮座する八幡山。
公園としては、八幡山の洋館(旧横浜ゴム平塚製造所記念館)、平和の慰霊塔や戦災復興事業完成記念碑、「平和の慰霊塔」や「戦災復興事業完成記念碑」などがある。

場所

https://goo.gl/maps/yS3JeuKB1Ynqk7Sg9


横須賀水交社平塚集会所
旧横浜ゴム平塚製造所記念館(八幡山の洋館)

国登録有形文化財(建造物)。愛称が「八幡山の洋館」

砲用発射無煙火薬
日露戦争当時、日本海軍は爆薬として「下瀬火薬(下瀬爆薬)を用いていたが、発射推進火薬としての砲用発射無煙火薬は、同盟国の英国からの輸入に頼っていた。
日露戦争後に、無煙火薬国産化の必要性が急務となり、その新設火薬製造所建設の地に平塚が選定された。
選定理由として、東海道線を用いた資材輸送の利、軍港横須賀との地の利、相模川等の豊富な水資源、広大な国有の遊休地があったことなどがあげられている。

日本火薬製造株式会社(日本爆発物製造株式会社)
明治38年12月、日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として設立。
八幡山の洋館は、その際に英国人支配人の執務室あるいは住居として建設された、という。

海軍火薬廠
大正8年(1919)、日本海軍が全施設を買収し、海軍火薬廠が発足。海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
昭和14年、海軍火薬本廠に改編。
昭和16年、第二海軍火薬廠に改編。
火薬廠の発足後、「八幡山の洋館」建物は横須賀水交社平塚集会所(海軍の将校クラブ)として使用された。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、現在に至る。

https://hiratsuka-yokan1906.jp/westernhouse/index.html

昭和10年頃の海軍火薬廠正門

昭和5年、南ベランダ前
昭和5年、玄関前

海軍火薬廠時代の応接室。

沿革

第二海軍火薬廠略図。この位置関係情報が、あとあとでかなり重要になりました。

内装。

場所

https://goo.gl/maps/fhFK6JTGgVHd57yY8


煉瓦積基礎の遺構

国の登録有形文化財(建造物)「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」
煉瓦積基礎の遺構
 この煉瓦積は、「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」を当地に移築する際に基礎を全て鉄筋コンクリート造に改めたため、移築前の旧い煉瓦積基礎(布基礎)の一部分を、その遺構として保存したものです。
 この建物は、海軍火薬廠の前身となる英国法人:日本火薬製造株式会社(The Jpanese Explosives Company Limited)の英国人宿舎の中心的建物で、明治44年に前身建物が火災で焼失した際に再建されました。
 この基礎の元の位置は、塔屋がある棟の正面(南)側西より部で、煉瓦の積み方はイギリス積(English Bond)、厚みは一枚半で15段積です。この基礎は、再建時に新しい間取りに合わせて新規に積まれた部分ですが、建物全体の基礎の6割にあたる部分では、前身建物(明治39年建設)の基礎フーチングをそのまま再利用して、その上に積まれていました。
 使用される煉瓦は、およそ巾10.9cm(0.35尺)、長さ22.1cm(0.73尺)、厚6.0cm(0.20尺)で、一部の煉瓦の平の面には図のような刻印が見られました。
  平成21年4月 平塚市教育委員会


平和慰霊塔

平塚八幡山公園にある、慰霊塔。

平和慰霊塔

平和慰霊塔の記
本市は明治以来幾たびかの戦争において尊い生命を捧げられた犠牲者のみ霊を慰めその冥福を祈るために昭和三十八年一月平塚市戦没者慰霊施設建設準備委員會を設けここに市民の浄財と市費をもってこの慰霊塔を造立した
ねがわくは諸霊この塔にあつまり給いて市民に誠意に應え永く世界の平和を護持されんことを祈る
 昭和四十年晩秋 
  平塚市長 加藤一太郎謹書

寄贈 平塚市遺族會 
会長 宮川惣次郎 
副会長 根岸勘次郎 副会長 安村惠三

合祀碑

 戦災による殉難の諸霊を平和慰霊塔に合祀し
 つつしみて短歌三首を捧ぐ

米軍の 空襲の日に 被弾して 
 倒れし市民(とも)の 霊(たま)を弔う
この塔に あわせまつりし 悲しみの 
 市民のみ霊よ 永久にやすかれ
戦いは 地獄なりけり つぎの世に 
 このかなしみを またあらしめじ
   平塚市長加藤一太郎

昭和四十七年十月十二日

水流れて滄海に帰す

翔和四十四年十月 平塚市遺族會婦人部

平和慰霊塔と八幡山の洋館

場所

https://goo.gl/maps/z84PCdzzxwX8EwQL9


平塚戦災復興事業完成記念碑

八幡山公園の西端にある。

平塚戦災復興事業完成記念

神奈川県知事 内山岩田郎書

平塚市は昭和20年7月16日の空襲により市の中心部と工業地帯を含む 314ヘクタールが被災しました。
この壊滅的な打撃を受けた平塚市を再建するため昭和21年9月県市をあげて 平塚都市計画事業土地区画整理事業に着手以来、復興の意欲に燃える市民各位を中心に関係者協力一致、 多くの苦難を克服し、21年の歳月と総工費11億円を費やして、ここから南に展開する新しい平塚市が誕生いたしました。昭和42年3月記

場所

https://goo.gl/maps/iwtepkcfnMGarKPi8


第二海軍火薬廠正門門柱

現在の横浜ゴム株式会社平塚製造所の正門は、当時の第二海軍火薬廠の正門跡。

なお、横浜ゴム敷地内には、正門門柱のほかには、奉安殿・地下壕入口・貨車引込線・鉄筋コンクリート建屋など一部現存しているというが通常非公開。
コロナ禍以前は、「Think Ecoひらつか」で公開もあった。

https://www.y-yokohama.com/thinkeco/Historic_site_tour/

場所

https://goo.gl/maps/TvkFrk3FNvE9epUx7


海軍火薬廠の跡

横浜ゴムの南の公道側に、跡地碑がある。

海軍火薬廠の跡
 岸本肇書
ここを正面に 四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である
同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング  ノーベル チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造製造株式会社 を 大正八年海軍省が買収したものであって 爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬 技術の中心として 数多い功績を残すと共に 平塚市の発展と文化に多大の貢献をしたところ である
ここにその事績を偲びこの碑を建てる
  昭和四十九年秋日   
  海軍火薬廠跡の碑建立の会  
   水島英耀書

場所

https://goo.gl/maps/Yvd665TffPn9PG7J7


横浜ゴム株式会社平塚製造所東門

東門の門柱も雰囲気がある。
当時からのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/51W6uRv5TKsYRd3KA


平塚海軍共済病院(平塚共済病院)

海軍火薬廠の職域病院として、横須賀海軍共済組合病院平塚診療所が1919年(大正8年)に開院したことにはじまる。
現在の平塚共済病院。
平塚海軍共済病院本館が、旧外来棟として現存している。

平塚海軍共済病院本館
昭和7年 (1932)竣工。

防火水槽
平塚海軍共済病院本館の手前に、防火水槽も残っている。

白鷺塚と白秋歌碑
近くには、北原白秋の白鷺の和歌碑もある。

白鷺塚

平塚市長 戸川貞雄

北原白秋
白鷺の 白鷺の
飛べば夕日の高麗寺 
月になるやら 風じゃやら

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が東側の境界に残る。

平塚海軍共済病院通用門跡

平塚共済病院

平塚海軍共済病院軍用地境界壁
軍用地境界壁も残る。駐車場の隅。

平塚海軍共済病院軍用地境界柵
軍用地境界柵が駐車場にも残っていた。

煙突
神奈川県立平塚盲学校の敷地内にある煙突。
当時からの雰囲気を感じる煙突であるが、「解体」とのこと。。。

2022年9月再訪時したら、解体進行中でした。。。

場所

https://goo.gl/maps/2YukTJFrQiNmdYyCA


第二海軍火薬廠 寄宿舎正門跡
(県立ろう学校)

現在の県立ろう学校の西側の壁。この飛び出た柱が、火薬廠寄宿舎の正門門柱であったという。

場所

https://goo.gl/maps/y22EDTFQzoz9GpK47


中原御林(平塚市総合公園)

徳川家康が鷹狩の折に宿泊所としていた中原御殿があった場所。
このあたりも海軍火薬廠の用地でした。

場所

https://goo.gl/maps/LHYGTqmdUFyk8i5o8


鷺塚(平塚市総合公園)

海軍火薬廠の敷地内になっていた松林。そこには多くのシラサギやゴイサギが生息していたが、昭和13年の暴風雨で多くの鳥たちが亡くなってしまったという。そこで海軍火薬廠の従業員が慰霊の塚を建立したという。

昭和13年8月31日夜半暴風にて9月1日払暁に至り大暴風雨のため惨死せる白鷺及び五位鷺五百数十羽の霊を弔うものなり
昭和14年二月建之 火薬部第一工場

往時はコンクリート製の鷺塚であったが、市制50周年を記念し、総合公園再整備事業にて、鷺塚も御影石で復元したという。

場所

https://goo.gl/maps/KCZ6bi8agWRNuKZHA


第二海軍火薬廠 第二工場 綿薬精製場
(富士チタン工業)

現在の富士チタン工業。
第二海軍火薬廠の建物が、最もよく残されている場所。
綿薬精製場の建物がほぼ完全に残されている。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/2.html

場所

https://goo.gl/maps/axC81PmYSG6LEkUh9


第二海軍火薬廠 第一工場 実験場
(パイロット蒔絵工房NAMIKI)

現在はパイロット蒔絵工房NAMIKIは、海軍火薬廠の建物。
第九実験場であったという煉瓦建造物。

見学は事前申し込み、平日のみ。。。

https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

場所

https://goo.gl/maps/QhrJjVAmdBJXuqF77


第二海軍火薬廠 第七工場
(クミアイ油脂)

北側に位置する第七工場。クミアイ油脂敷地内の建屋も、往時のものと思われる佇まい。

場所

https://goo.gl/maps/3EqPatKjsKkSmpEb8


第二海軍火薬廠 境界塀
(北西部)

北西部の高橋工業所の前に、境界塀が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/aGbCgt3qvroY53mQ9


第二海軍火薬廠 第六工場 砲台跡
(松が丘公民館・殉国碑)

松が丘公民館の敷地がかつての第六工場の砲台跡であった。
いまは、「殉国碑」が建立されている。(昭和31年建立)

場所

https://goo.gl/maps/aGbCgt3qvroY53mQ9


第二海軍火薬廠 境界塀
(北東部)

北東部の外郭にあたる場所。このあたりも往時の境界塀と思われる。色は白く塗られているが。

場所

https://goo.gl/maps/NDGGrmmo5WjsZyp78


第二海軍火薬廠引込線跡

駅から伸びていた引込線のあと。なんとなく線形が追える。

場所

https://goo.gl/maps/GfbmxQJx1XAoz6h67


※撮影は2022年4月及び9月

つづきは、「その2」にて。


関連

軍艦那珂忠魂碑(大洗磯前神社)

大洗磯前神社には何度も参拝をしておりました。
それこそ、「ガルパン」とか「艦これ」とかで賑わう前から、神社フリークとしても東国有数の古社「延喜式内明神大社」にして「国幣中社」という格式からも欠かせない神社。初参拝は平成13年(2001)3月でした。約20年前となると往時は学生でしたね。。。

あまりにも身近すぎたために、このサイトに掲載するのはうっかり忘れておりましたので、久しぶりに参拝をしまして、「軍艦那珂忠魂碑」を改めて撮影、掲載することにします。


軽巡洋艦「那珂」

大日本帝国海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)。川内型軽巡洋艦の3番艦。姉妹艦は「川内」「神通」川内型軽巡洋艦は、5500トン型軽巡洋艦の第3グループ(最終グループ)にあたる。艦名は大洗磯前神社のある大洗町の北側を流れる那珂川に因んで命名された。
横濱船渠(横浜船渠)で1925年(大正14年)3月24日進水。

美保関事件
1927年(昭和2年)8月24日。
那珂は第五戦隊を編成し、観戦武官として伏見宮博義王が乗艦していた。
夜間演習で戦隊は衝突を起こし、神通は駆逐艦蕨と衝突し、神通は大破し蕨は沈没、那珂は駆逐艦葦と衝突し両艦とも大破するという、美保関事件が発生している。

第四艦隊事件
1935年 (昭和10年) 9月25-27日。
第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた。
麾下の初雪で溺者1名にはじまり、荒天で夕霧が艦首切断で行方不明27名、さらに救助中の初雪が艦首切断行方不明24名という、第四艦隊事件が発生している。

太平洋戦争
太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活躍。(四水戦)
1942年(昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。
復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。
1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところ「トラック島空襲」に遭遇、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没。

トラック空襲
軍艦那珂忠魂碑にある艦歴の記載から抜粋する。

昭和十九年二月十七日
トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦同島南西海域ニ於テ九時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末満身創痍砲ハ飛散艦首艦橋切断海中ニ没ス 
後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

軍艦那珂忠魂碑 艦歴

那珂の艦歴をかたる碑は、これ以上は何も語っていない。
ただただ「那珂」を偲ぶだけだった。
この簡潔にして勇壮な文章が那珂の最期を伝え、そしてありし日のすがたを偲ぶ。私は、大洗の地から太平洋を望み、那珂が終焉を迎えたはるかなトラック群島の気配を感じるだけであった。

アメリカ軍がマーシャル諸島を泊地としたことから、連合艦隊の根拠地であったトラック群島は極めて危険な状態となり、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は連合艦隊主力艦隊を昭和19年2月10日に退避。
そのわずか一週間後の17日に米軍のトラック大空襲(スプルーアンス中将率いる第五艦隊・空母5軽空母4戦艦6巡洋艦10駆逐艦28)が敢行された。
トラック基地及び第四艦隊(司令官小林仁中将)の迎撃は後手となり、航空機のほととんどが離陸時に撃墜。完全に制空権を握られ17日18日の二日間の空襲で基地機能喪失、航空機270機喪失、軽巡洋艦「那珂」、駆逐艦「太刀風」「追風」「文月」、特設巡洋艦「愛国丸」「清澄丸」「赤城山丸」、特設潜水母艦「平安丸」「りおでじゃねいろ丸」、輸送艦30隻(194000トン)が撃沈。
そのほか水上機母艦「秋津洲」駆逐艦「時雨」「秋風」、特務艦3隻、潜水艦4隻が損害を受けた。
またトラック島を出港しようとした新鋭軽巡洋艦「阿賀野」がトラック空襲の前日16日に潜水艦の雷撃で撃沈。
翌17日に脱出しようとした練習軽巡洋艦「鹿取」駆逐艦「舞風」「野分」が包囲していた戦艦部隊に捕捉され「鹿取」「舞風」は撃沈。「野分」だけはトラック島からの脱出に成功した。

こうして、軽巡洋艦「那珂」は、最期のトラック空襲では9時間にも及ぶ対空戦を行い艦首艦橋切断大破しつつも満身創痍で奮戦し沈没した。
那珂沈没で約240人が戦死し末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。


軍艦那珂忠魂碑

軍艦那珂忠魂碑
第四代艦長 従四位勲三等 今和泉喜次郎 書

今和泉喜次郎大佐は、軽巡洋艦那珂の第24代艦長。1943年3月25日から1944年1月6日まで勤めている。今和泉艦長時代の「那珂」は第十四戦隊として、トラックラバウル界隈の輸送護衛や「タラワの戦い」の支援なにど従事している。


ただただ「那珂」を偲ぶ。ありし日の姿を偲ぶ。
大洗の海から太平洋、そしてはるかなトラック群島を拝む。

那珂ちゃんの聖地
「那珂ちゃん!」「艦隊のアイドル!」
そのきっかけはなんであれ、歴史を伝承する最初のきっかけとして「艦これ」が機能するのであれば、それも良きこと。

巡洋艦那珂
常備排水量5,595トン 機関出力90,000馬力 速力35,25ノット

「輝シイ武勲ヲ残シテ終焉」の一言が重い。

軍艦那珂艦歴
大正14・3・24 進水
仝〃11・30   竣工呉鎮守府所管トシテ艦籍ニ入ル
仝〃12・5    第1艦隊第3戦隊編入南支沿岸台湾方面行動
昭和4・11・30 第1艦隊第1水雷戦隊編入上海方面ニ行動
仝7・1・28   第1次上海事変ニ出動
仝9・11・15  艦籍ヲ横須賀鎮守府所管ニ転籍
仝10・11・15 第2艦隊第2水雷戦隊旗艦トナル
仝11・2・26  二二六事件発生鎮圧ノ為東京品川沖ニ出動
仝14・11・25 第2艦隊第4水雷戦隊旗艦トシテ南支方面行動
仝16・12・7  太平洋戦争比島部隊トシテ比島ルソン島出撃
仝〃 〃 10   ビガン攻略
仝〃 〃 22   同島リンガエン湾大上陸作戦支援部隊デ活躍
仝17・1・7   蘭印部隊トシテ出撃ボルネオタラカン攻略
仝〃 1・21   ボルネオパリクパパン進撃攻略
仝〃 2・27   ジャワ島スラバヤ作戦大船団護衛南進中
          米英蘭艦隊ヲ迎撃
          敵艦撃沈大戦果ヲ収メクラガン上陸作戦ヲ
          成功セシム
仝〃 3・26   印度洋上クリスマス島作戦参加攻略
仝〃 12・8   ジャワ島攻略作戦ノ勲功ニヨリ
          山本五十六連合艦隊司令長官ヨリ感状授与サル
仝18・4・1   第4艦隊第14戦隊旗艦トナリ
          南洋トラック島ヲ基地ニ
          南洋方面作戦特ニ輸送任務ニ活躍
仝〃 11・5   上海方面ヨリラバウル方面ニ陸軍部隊輸送ス 
          ラバウル港ニ於テ敵機部隊ト交戦
仝〃 〃 25   マーシャル群島
          ポナペ島クエゼリン島クサイ島ミレ島ニ
          陸軍部隊輸送
仝19・2・17  トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦
          同島南西海域ニ於テ
          9時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末
          満身創痍砲は飛散艦首艦橋切断海中ニ歿ス 
          後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没
          連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ
          輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

大洗磯前神社の境内案内

軍艦那珂(なか)は、日本海軍の軽巡洋艦。神社の北側を流れる那珂川に因んで命名され、艦内神社として当社がお祀りされていました。
 艦内神社とは、古くから船には神様を祀る風習があり、軍艦には艦名に縁がある神社の御分霊をお祀りして艦長はじめ乗組員は事あるごとにお参りしていました。
 軍艦那珂は20年ほど前線で活躍しましたが、残念ながら昭和19年2月17日に沈没しました。沈没後40年にあたる昭和58年に忠魂碑が建立され、現在も毎年2月17日に慰霊祭が行われています。

軍艦那珂忠魂碑 https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

場所

https://goo.gl/maps/GSXpc6PDpzdj2Vo3A


大洗磯前神社(式内名神大社・国幣中社)

御祭神
主祭神:大名貴命
(オオナムチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)
配祀神:少彦名命
(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神)

文徳天皇実録(六国史の一つ)によると、斉衡三年(856)、度々地震が発生し人心動揺し国内が乱れて居た時に、常陸国鹿島郡大洗の浜に「両恠石」(二つの怪しい石の意)が示現し、それは「高各尺許、体於神造、非人間石」というものであったという。
石の出現の翌日には「亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐」とされ、里人の一人に神がかりして人々にいうには「我は、これ大名貴、少彦名神也。昔、この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救うために再びこの地に帰ってきた」と仰せられたという。
オオクニヌシ神(元々、オオクニヌシ神とスクナヒコナ神は同神との説もある)は自ら東国の混乱を鎮める平和な国土を構築するために大洗の降臨したということになる。

大洗磯前神社は創立当初から関東一円の総守護神として祀られ、酒列磯前神社共々に天安元年(857)には官社、そして延喜の制では「大洗磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。(両社の関係は不明だが、那珂川を挟んで鹿島郡・那珂郡にそれぞれ両神が祀られたと考えて良いだろう。)

永禄年間(1558-1570)に小田氏治の兵乱で社殿以下の諸建築を焼失してしまい、以後小社で祭祀を続けていたという。
水戸藩主徳川光圀は見るに忍びず元禄三年(1690)に現在の社地の中程に社殿を造営。徳川綱條が享保十五年(1730)に本殿、拝殿、神門を再興したという。
現存の社殿は当時の建造物(本殿・拝殿は県文化財)。明治の世になると明治七年には県社、明治十八年には国幣中社に列せられている。

神磯の鳥居

神磯の鳥居。
まぶしいばかりに輝く太平洋を望む。
大洗の浜からやってきた神様を祀る。

ありがたい空間。

那珂川

那珂川。関東地方では第三の大河。
北側は、ひたちなか市。

那珂川から太平洋を望む。

那珂川の南側にはアクアワールド大洗水族館。

北側は那珂湊の漁港。

今回は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」でレンタサイクルをして、大洗磯前神社に赴きましたが、水戸駅や大洗駅からバスも出ています。大洗駅にもレンタサイクルがありますね。


関連

那珂ちゃんは、横浜ドックの産まれ。

艦内神社

軍艦の慰霊碑
軍艦多摩慰霊碑
戦艦武蔵の碑