昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。
目次
海外引揚者
終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。
- 中国軍管区
満州以外の中国全土、台湾など
約312万人 - ソ連軍管区
満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
約161万人 - イギリスならびにオランダ軍管区
インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
約74万人 - オーストラリア軍管区
ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
約14万人 - アメリカ軍管区
38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
約99万人
実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。
横須賀地方復員局
厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。
浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)
「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。
昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。
なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。
「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」
また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。
- 久里浜援護所(海軍工作学校)
- 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
- 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)
馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」
陸軍桟橋(西浦賀緑地)
陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。
この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。
関連
浦賀港引揚記念の碑
西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。
浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
横須賀市
裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)
(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一
浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。
関連
船番所跡
陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。
関連
浦賀の渡し(浦賀渡船)
浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。
もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。
関連
関東大震災の慰霊塔
現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。
叶神社
浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。
西叶神社
東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)
撮影:2022年7月
叶神社の御朱印帳と御朱印
むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。
以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。
西叶神社、平成28年(2016年)
東叶神社、平成28年(2016年)
昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。
懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆