「海軍」カテゴリーアーカイブ

百里原海軍航空隊跡散策

平成29年7月

平成29年7月30日。 茨城空港(百里基地)の近くに残されている「百里原海軍航空基地」の跡を偲びに脚を運んでみました。

なお、私が訪れた後に、百里原海軍航空隊ゆかりである「百里神社」を取り巻く環境がかわり、社叢の杜は開拓され深々とした緑に包まれる森ではなくなったことを先に明記しておきます。

また、「百里神社」を管理(管理される神社=所管社)する常陸小川の「素鵞神社」(管理する神社=本務社)にて、百里神社関連の御朱印帳や御朱印の頒布が始まりましたが、私は素鵞神社へは未参拝ですので、言及いたしません。

以下は「素鵞神社 」サイトを参照まで

https://www.sogajinja.com/%E5%BE%A1%E5%AE%88%E3%81%A8%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/%E5%BE%A1%E6%9C%B1%E5%8D%B0/

百里基地内の記念碑は下記にて


石岡駅から

石岡駅から茨城空港行きのバスに乗り込む。
(もっとも私は「鹿島鉄道(かしてつ)」跡散策も兼ねていたので(小川駅や小川高校下駅跡)寄り道してます。

当時、海軍航空隊員たちの足となっていた鉄道(鹿島鉄道)も、もはや残っておらず。現在はその百里原航空基地の流れをくむ、茨城空港行きのバスが石岡駅から出ている。


雲の墓標 阿川弘之

阿川弘之による小説。海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていく。作中に「百里原」も出てくることを思い出し、このときの散策後に読み出してしまい・・・

「百里原は、茨城県でももっとも辺鄙なところで、三里四方民家が無いと言われており、鉄道からも遠く、楽しい外出など思いも寄らぬことになるであろう。」

「上野発2時3分で常磐線石岡、軽便鉄道で小川を経て、百里原へは夕方7時ちかくに到着した。小川から2里、交通機関なし。」

雲の墓標 阿川弘之

鹿島鉄道跡地のバス専用道

茨城空港へ。
ちなみに乗り込んだバスは・・・木張りでした!
バスマニアではないのですが、これにはテンション上がりました。

車内で「かしてつバス」1日フリーきっぷを購入。
廃線前の鹿島鉄道に思い入れがある私としては、ひとつひとつにグッとくるものがありますが、早いもので10年ひとむかし。
廃線前は鉄道に乗りに来ておりましたが、廃線後はこの沿線に足を運ぶこと亡く、気がつけば10年たってしまいました。

しょうしょう話が逸れます・・・

鹿島鉄道

2007年春
茨城県石岡市から鉾田市まで霞ヶ浦北湖畔を走っていた鉄道が廃線を迎えた。
あれから10年。
2017年の夏(撮影時)に、私はようやく廃線跡と対面することとなった。 現役時代の往時を思い出しつつ・・・

鹿島鉄道坂戸駅跡

あぁ…鹿島鉄道坂戸駅。
廃駅から10年の月日が過ぎ往時の名残を自然が飲み込もうとしていた。
この駅が現役だった頃を知っている身としては、変わり果てた姿を目の前にすると何やらこみ上げてくるものがある。
10年ぶりの覚悟の訪問…

鹿島鉄道 小川高校下駅跡

鹿島鉄道 現役時代の写真

当時の写真はまだまだあるけど、キリがない上に趣旨から外れるのでこのぐらいで。2006年頃は毎月のように石岡の鹿島鉄道に通っていました。このときはまだ戦跡方面には興味がなかったのが今思えばもったいないことで。

さて、
「鹿島鉄道」の後を引き受けた「かしてつバス」に揺られながら、今はなき鹿島鉄道のことに思いを馳せながらも茨城空港に到着です。


茨城空港
百里飛行場

茨城県小美玉市の共用飛行場 防衛省・航空自衛隊が管理する飛行場であったが、2010年に民間共用化され茨城空港としての営業開始。

民間共用時に滑走路が一本増えている。
この茨城空港整備で戦争遺跡(多数の無蓋掩体壕)の消失も多数…しょうがない ですが。

旅客ターミナルから滑走路を2本挟んだ反対側が「航空自衛隊百里基地」となります。
スカイマークのボーイング737の向こう側。

つまり「茨城空港」と「百里基地」はあっちとこっち。だいぶ遠いです。 百里基地には戦闘機部隊が配備されてますがこの日は姿は見えず。

百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。

昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。

昭和17年には予科練の受け入れを開始。

昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。

昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。

同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。

終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


茨城空港から北側に歩みを進める。
「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」(本)を片手に持ちつつ。

ただしこの本は空港ができる前に発刊されているので界隈の事情はだいぶ変わっている。
「試射場跡」とされるものも、もうよくわからない。(写真は場所が違う気がする…)

海軍道路

「海軍道路」と呼称されている道路。
この道路が「百里原海軍航空隊」基地の正門からまっすぐに伸びていた道路という。

百里原海軍航空隊正門跡・旧正門

大谷石の門柱と鉄筋コンクリート製扉。
門柱の向かって右側は従来の場所から移設、本来は前述の海軍道路に面して立っていたと推測。(実は門柱の向きがあべこべに置かれている)

正門跡に建立された石碑 昭和二十年八月十五日記念

真心國柱

建立は昭和五十二年二月。
裏面には建立された八組の夫妻と思われる名が刻まれていた。

刻まれていた「真心国柱」で思い出した歌が江田島健児だったり。

「江田島健児の歌」より
 ああ光栄の国柱
  護らで止まじ身を捨てて
   …
 斃れて後に止まんとは
  我が真心の呼びなれ
   …

よくよくみたら、敷地の壁柱の部分も往時のものかもしれません。
(壁そのものは年代的に新しそうですが)

百里神社

正門跡から東に歩んだ先の森のなかに。

百里原海軍航空隊の守護神として創建。
若き海鷲たちの崇敬をあつめていた神社。
今は忘れ去られたかのように深き森のなかに埋もれていた。

現在は森が開拓されております。
写真のような森はなくなりました。

「百里神社」

拝する。

ここ百里原の空から飛びたてり若き海鷲たちを偲びつつ。
今日の平穏と安寧に感謝する。

ありがとうございます。

「百里神社」

百里原海軍航空隊名残の航空神社

この何とも独特な鳥居が、
この何ともいえない空間の中で
圧倒的な存在感を放つ。

この鳥居の柱、 まるで航空機の脚(車輪カバー)のようでもあり。

「百里神社」
百里原海軍航空隊名残の航空神社

御社殿は、みたことのない様式の建屋。
入口は固く閉ざされている。

屋根の部分が…あぁ…

北に歩いてみる。

バス停に目をやると「百里原」 もっとも運転本数は一日1~2本なので実用的ではないですが。
(バスは茨城空港までピンポイントで利用しましょう)

かつて百里原と呼称されていた森が切り開かれ百里原海軍飛行場が開設、 戦後は原がなくなり大字「百里」へと。

とある森に到着しましたが諦めました。

手元の資料によるとこの場所に「E型無蓋掩体壕」が残っているとありましたが、まあちょっと夏場に無蓋を探すのは難しいですね。
雰囲気だけ堪能しつつ遠目から覗いてみる…

フィールドワーク茨城県の戦争遺跡

http://amzn.asia/5dKqQ7t 

https://www.amazon.co.jp/dp/4894880415/ref=cm_sw_r_cp_ep_dp_5XgGzbG2HGSFF

こちらの本によると百里原には最盛期に72基の掩体壕が建造されたというが出版時の2008年には現存8基と記載がある。
茨城空港の開港前の記録故、今はもっと現存は少ないだろう…

周辺を歩いていると「境界石(境界標石)」を見つけました。

残念ながら「海軍境界石」ではなく…
「防衛省境界石」
「防衛施設局境界石」

茨城空港に戻ってデッキから飛行機を見学。

ちょうど「スカイマーク」は搭乗手続き中。
その隣には「タイガーエア台湾」が。

地上整備スタッフが手を振って見送る中、 スカイマーク「ボーイング737」(11時発の那覇便)は滑走路へと。

見ていてほっこりする好きなシーンです。
主翼の端っこに描かれたサクランボがカワイイです!
スカイマーク機の特徴ですね。

百里原の空

海軍から空自、そして民間共用。

往時の歴史を周辺に僅かに残しつつ、 今も飛行場として生きている空間がここにあった。

今の空を飛ぶ飛行機をみながら、往時の光景を脳裏に描きつつ、往時に思いを馳せつつ、自然と目頭が熱くなる私がいた。

霞ヶ浦海軍航空隊跡散策

平成28年4月

  • 予科練平和記念館
  • 復元された零戦21型
  • 雄翔館(予科練記念館)
  • 阿見町内に点在する海軍の史跡
  • 戦前の霞ヶ浦神社、戦後の慰霊塔へと連なる歴史
  • 阿彌神社
  • 茨城大学農学部に点在する海軍の史跡

予科練の町「阿見町」

茨城県
土浦市の隣の阿見町

予科練の町。
若き海鷲たち、海軍飛行予科練習生が育ちし街。
そんな霞ヶ浦海軍航空隊に纏わる史跡を散策してみる。

位置関係

USA-M626-14
1947年(昭和22年)11月04日に米軍撮影の航空写真
現在の様子
マーキングポイントが今回の関連史跡。
今回の散策のロガー情報
ロガーは実際の徒歩コース
歩いて約4時間13キロの道程

土浦駅

ちょうど阿見方面に向かう関鉄バスがいたので乗車。
そうして「阿見坂下」バス停にて下車。

予科練平和記念館

さっそく、予科練平和記念館へ。

ちょうど桜が咲いているタイミングでした。
予科練の街に咲く桜。
なんかもうこれだけで感無量。
この瞬間に訪れて正解でした。

回天一型実物大模型

上部が白いのは訓練用。

93式酸素魚雷に人が乗って操縦できるように改造した特攻兵器…
予科練から回天に多くの若者が着任しており、40名が戦没なされている…

魚雷に乗り込むという狂気の兵器。その存在は重い。

「これ」を目の前にして静かに背中を正す。
あわせて歴史を具現化する復元にも敬意を表する…

予科練平和記念館


館内は撮影禁止。
詳細は公式サイトにて。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

予科練・海軍航空隊に特化した展示物は一見の価値あるものです。
写真は記念館カタログ。

予科練の酒

予科練平和記念館にて購入。

藤田酒造(石岡)の「富士泉」上撰ワンカップ。
ラベルは七つボタンの第一種軍装(紺)、第二種軍装(白)の2種類
「若鷲の歌」も掲載。

呑んで歌おう的な。

「若鷲の歌」

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

桜に錨の七つボタンのラベルが美しい。
往時を偲ぶよすがの一杯として…

土浦空と霞ヶ浦空

霞ヶ浦海軍航空隊
1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。
航空隊要員の操縦教育を担当。
略称は霞空。
所在は現在の茨城県稲敷郡阿見町。

沿革
大正11年(1922年)11月1日に「霞ヶ浦海軍航空隊」開隊。
昭和13年5月11日に「鹿島空」開隊し水上機基地機能移転。
昭和13年12月15日に「谷田部分遣隊」(のちの「谷田部空」)開隊。
昭和15年11月15日に「土浦空」開隊。

茨城南部の海軍航空隊をちょっと乱暴に分類。

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

神ノ池空(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

土浦海軍航空隊
予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転。
水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
因みに「土浦空」跡地は陸自霞ヶ浦駐屯地及び土浦駐屯地近郊。
その隣が今回巡る「霞空」跡地。
元を正せばほぼ同じ歴史の同じ土地の話。

零式艦上戦闘機二一型

予科練平和記念館開館五周年記念事業にて、復元された零式艦上戦闘機二一型。

予科練の地にて、桜とともに。
往時を偲び、歴史を学ぶきっかけとして。
風化させてはならない貴重な伝承物。

http://www.yokaren-heiwa.jp/news/?detail&id=37

「明灰白色」の初期塗装にて実物大復元。
2015年10月より公開。

予科練平和記念館にて、復元された零式艦上戦闘機二一型。

識別番号「A60-05」は架空のもの。
阿見町60周年に記念館5周年の意味を持たせてある。

因みに実在では「A1」だと一航戦赤城所属の意味。

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14450808369923

原寸大模型とはいえ肉抜きもキチンとしてありレベルが高い。

予科練憧れの的であった零戦。
土浦空の予科練にて学んでいた若き学生たちにとっては、卒業後に零戦で大空を飛ぶことを夢見ており、その強き思いを踏まえて記念館5周年記念事業の復元機として零戦が選定された。

雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

https://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/03_visit/visit.html

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

記念館は予科練習生英霊の遺書、遺品等を保存し、その遺徳を後世に残すため、昭和43年11月24日に開設。

ちなみに建物は航空母艦を模している。
屋上は飛行甲板。階段は艦橋。

雄翔館(予科練記念館)

いまでこそ陸自土浦駐屯地内の施設ではあるが、元々この場所は霞ヶ浦海軍航空隊水上班(のちの鹿島空)や土浦海軍航空隊の地であり、予科練は海軍の教育部隊。陸軍さんはちょっと違うが少年飛行兵制度があり。

複雑な立地・・・

山本五十六像

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与することとなった。

雄翔館(予科練記念館)
陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内に。

元帥海軍大将山本五十六の像が見つめる先は満開の桜に戦車群。

武器学校内の保存戦車群は事前見学予約制。
近寄れないので遠目から眺めるに留める。

しかし、なかなか圧巻である。

https://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/03_visit/mousikomi.html

雄翔館(予科練記念館)
館内はフラッシュ撮影は禁止。あわせて転載も禁止。web上も転載に当たる故、写真は遠慮します。

予科練出身の英霊たちに感謝と哀悼を。
遺言や遺品の数々に目頭が熱くなる…

予科練の碑

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練の碑
碑文
予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和5年6月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和14年3月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に19の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和12年8月14日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
 昭和41年5月27日
  海軍飛行予科練習生出身者一同
  撰文 海軍教授 倉町秋次

記念館から南に。街に。

阿見町の海軍の痕跡探しを。
12時過ぎに散策開始。

まずは予科練記念館から茨城県道34号龍ヶ崎阿見線を南下。

旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。


旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

旧海軍道路桜並木
現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍境界石

旧海軍道路桜並木の反対側。

脚下には「海軍用地」境界標識。

この龍ヶ崎阿見線は基地連絡用の海軍道路として整備され、茨城県下で最初の石灰石で固めた舗装道路であったのだ。

海軍用地第二六

旧海軍道路(現・茨城県道34号)の沿道には二カ所の「海軍用地」境界標識が残っていた。

霞ヶ浦神社と慰霊塔
(霞ヶ浦海軍航空神社)

海軍時代のもともと鎮座地は、現在の茨城大学農学部の構内。 細かい場所は後述。

霞ヶ浦神社

霞ヶ浦海軍航空隊発足当初、戦死者は靖國神社に祀られるのに航空機殉職者が祀られていなかった。 当時の霞空副長兼教頭であった山本五十六大佐はこれを憂慮し霞空のみならず全国の職務による航空殉職者を慰霊する神社を霞ヶ浦海軍航空隊内に作ることを検討したことに始まる。

大正14年(1925)1月、霞ヶ浦神社建設調査委員会が設置され山本五十六大佐が委員長となる。 しかし同年12月に山本は霞空を離れ在米国大使館付武官へ転出。山本の霞ヶ浦海軍航空隊在任は1年3ヶ月であったが、この時の経験がのちに海軍航空本部長として活かされる事となる。

ちなみに教頭として学生からも慕われたおり、米国に渡る山本五十六乗船の船上空を霞空航空隊の部下達が編隊を組んで見送ったという。

山本五十六渡米後も神社建設計画はすすみ、 そうして翌大正15年4月30日に「霞ヶ浦神社」が建立。

大正15年(1926)4月30日に「霞ヶ浦神社」が建立。
当神社には霞空のみならず全国の海軍航空隊殉職者60余名の御霊が祀られた。御社殿は神宮と同じ神明造。(建坪1坪、神苑600余坪。)

そののち終戦までに殉職者5573柱を巻物16巻に収録し御祭神としている。

昭和20年9月11日。GHQ占領軍が霞ヶ浦海軍航空隊に進駐。

霞ヶ浦神社御社殿は地元有志によって、阿彌神社(阿見町中郷)に運ばれ現在も境内に残っている。
また現在の茨城大学農学部敷地内に当時の「霞ヶ浦神社」コンクリート製台座が残っている。

霞ヶ浦神社
茨城大学農学部敷地内。「霞ヶ浦神社」コンクリート製台座跡。 その近くにはオガタマノキがあるのは偶然だろうか?

茨城大学農学部敷地内。

霞ヶ浦神社跡地には崩れたままの石灯籠も散在していた。 先の震災で崩れたものと想像。昔の写真では組まれた灯籠を確認できているので。

GHQによる破壊を恐れ、霞ヶ浦神社御社殿は地元有志の手によって、同じ町内の阿彌神社(阿見町中郷)に運ばれている。
青い屋根は最近葺き直したようです。以前より綺麗になってました。

阿彌神社 に移築された「霞ヶ浦神社御社殿」

御社殿は阿彌神社に移築され、御社殿に収められていた5573柱16巻の「霊名録」(御祭神名簿)はしばらくは阿見町内の民家に分置されて保管。
その後は阿見町に開隊された陸上自衛隊武器補給処にも一時保管されるも、終戦の生活の厳しさもあり慰霊活動の余裕もなかった、と…。

海軍航空殉職者慰霊塔

昭和30年4月に「海軍航空殉職者慰霊塔建設期成会」が組織される。
発起人は豊田貞次郎・及川古志郎・寺岡勤平・土浦市長ほか。

同年12月「海軍航空殉職者慰霊塔」設立。この地にて5573柱の御霊が祀られる事となる。

慰霊塔前面題字「彰往察来」は及川古志郎氏(元海軍大臣)が易経より撰し、安東昌喬氏(元霞空司令、山本五十六が霞空副長当時の司令)が揮毫。

霞ヶ浦神社に収められていた「霊名録(御祭神名簿)」五千五百七十三柱の巻物は、改めて慰霊塔の基底に収納安置されて慰霊されている。

塔裏面の由来は寺岡勤平氏(海軍中将・航空総隊司令官)の謹書。

海軍航空殉職者慰霊塔碑文
由来記


当処は曾て海軍航空の中枢たりし霞浦海軍航空隊の在りし由緒深き地である 大正十五年隊内に霞浦神社を造営し全海軍の航空殉職者の霊を祀り爾来毎年春秋例祭を奉仕してその冥福を祈る
海軍航空が支那事変以来赫々たる武威を輝かしたるか実に之等祭神が平時死生を越えて猛訓練に精進した賜物である
大東亜戦争に敗れ軍は解消せるも社殿並に五千五百余柱に上る霊名録は幸に今日迄之を保存することを得た
今や社殿漸く衰朽し将来の神事亦容易ならず 茲に同士相謀り廣く浄財を求めて新に塔を建設し霊名録をその基底に収納安置し以て永遠に慰霊顕彰せんとするものである
昭和三十年十二月 海軍航空殉職者慰霊塔建設期成会

以来、この地にて毎年四月に海軍航空隊殉職者慰霊塔奉賛会により慰霊祭が行われていたが関係者の減少と老齢化によって平成22年に奉賛会は解散。現在は阿見町が管理をしている・・・

敷地内には旧鎮座地より「霞ヶ浦神社」社号標が移築されている。

昭和十二年四月三十日 片桐英吉謹書

「霞ヶ浦神社」の旧地には台座が残り、
「霞ヶ浦神社」 御社殿は阿彌神社に移築、
「霞ヶ浦神社」 社号標と霊名録は慰霊塔に。

慰霊塔脇には山本五十六歌碑がある。

大君の美たてとただにおもふみの
名をもいのちも惜しまざらなむ
 昭和十七年十月廿日 山本五十六書

これは霞ヶ浦神社境内にあったものが移設されたものかと推測。

霞ヶ浦神社の「霊名録」五千五百七十三柱の巻物は、慰霊塔の基底に収納安置されていますが、実はその控えとして寺岡勤平氏(元海軍中将)が写録したものが、現在「東郷神社・海の宮」に祀られております。

これは、慰霊塔建設時に寺岡氏が「霊名録」の保全を考慮し、それを複製をして保管。昭和47年6月に東郷神社境内に「海の宮」が建立された際に保存が確実な東郷神社に祀るのが最良と判断されたものと推測されている。

また、寺岡氏は旧海軍関係者が集う水交会会員であった事からも 水交会集会所隣の東郷神社に依頼することが出来たとも推測。

なぜ、寺岡勤平氏が多大な労力をさいて写録されたかは不明ではあるが・・・

寺岡勤平海軍中将は第3航空艦隊司令長官として特攻作戦を指揮。海軍兵学校40期同期の宇垣纏は特攻し大西瀧治郎が自決したのに対し「私も後から行く」と述べながら生き残った寺岡は海軍航空殉職者に対しての後ろめたさもあったかもしれず。謎ではあるが…

東郷神社境内の「海の宮」
ここに寺岡勤平氏(元海軍中将)が写録した霞ヶ浦神社霊名録(五千五百七十三柱)が祀られている。
写真は2015年5月27日(海軍記念日に)撮影

以上は霞ヶ浦神社関連の由来略歴等参考文献
「海軍航空隊ものがたり~予科練平和記念館四周年記念特集~」
平成26年2月2日発刊
阿見町歴史調査委員 阿見町予科練平和記念館 編纂


阿彌神社(阿弥神社)

祭神:豊城入彦命・経津主命

崇神天皇18年に豊城入彦命が東国に臨みこの地にて建御雷経津主二大武神の功を思いこの地に祀った事に始まるという。

当神社が「霞空」とは直接の関係はないが、境内に鎮座する御社殿が、元の「霞ヶ浦神社(霞ヶ浦海軍航空神社)」。戦後にGHQの接収を逃れるために御社殿が当地に移築された。

阿彌神社(阿弥神社) なかなか面白い注連縄。 かなり垂れてます。

鳥居の前後で参道の雰囲気も大きくかわります。 玉のような垣根から鋭いとの針葉樹へと変わる参道。

「式内社調査報告」によると。

持統天皇5年夏、霞ヶ浦沖に夜々光が出るので漁師が沖に出て網を下ろすと、大風が吹いて雨が降り、波の上に一人の異人が現れたという。

異人曰く「この海原に大毒魚がいて悪光をなす。この為に漁なし。吾は海の神少童の神である。彼の悪魚を退治しないと国家の愁となす」といって光と共に波底に沈まれた。 すると雲が晴れ風が静まった。そこで漁師は海神の神徳を尊み村内の浄地に社殿を造営して祀り海神社と称した、と。

ウミとアミが通じるところから海(ウミ)が網(アミ)となり、阿彌(アミ)神社。のちにアミの音から鎮座地は阿見と表記されるようになる。

第46代孝謙天皇勝宝2年(750)に神託によって、豊城入彦命を合祀。
延喜式神明帳の信太郡の阿彌神社の論社。
明治6年8月に郷社に列格。

赤い屋根が阿彌神社御社殿。
青い屋根が移築された旧霞ヶ浦神社御社殿。
霞ヶ浦海軍航空隊名残の建築物。

「予科練記念館」から「阿彌神社」までのログ

霞ヶ浦海軍航空隊有蓋掩体壕

阿見町指定文化財
霞ヶ浦海軍航空隊有蓋掩体壕

霞空周辺には21基の有蓋掩体壕があったとされるが、こちらが唯一の現存掩体壕。払い下げで居宅として使用されていたために残すことが出来た。他の壕は戦後の鉄不足の影響で、鉄筋取りにあい、全て壊されてしまったという。

個人宅ゆえ外観のみで。
一応、場所も明示を控えます。 (看板に記載有…)

霞ヶ浦海軍航空隊落下傘倉庫

協和発酵バイオ株式会社(旧・協和発酵工業)土浦工場にて使用されているこちらの建物。
もとは霞ヶ浦海軍航空隊落下傘倉庫であったとされています。

https://www.google.com/maps/place/36%C2%B002’02.8%22N+140%C2%B012’36.8%22E/@36.034121,140.2080243,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d36.034121!4d140.210213?hl=ja-JP

霞ヶ浦海軍航空隊の貯水池跡

この不自然な半円は霞空の貯水池跡とされる。
昔は円形で残っていたが道路新設時にこのような形に。
海軍航空隊殉職者慰霊塔エリアの斜め前。

海軍航空殉職者慰霊塔
霞ヶ浦神社社号標
山本五十六歌碑

詳細は前述

https://www.google.com/maps?q=36.034996,140.212733&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

阿見町戦没者合祀之地
忠魂碑

霞空とともにあった阿見町は空襲もあり、多くの町民も犠牲になっておりました…。

https://www.google.com/maps/place/36%C2%B002’00.3%22N+140%C2%B012’50.8%22E/@36.033408,140.2119313,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d36.033408!4d140.21412?hl=ja-JP

昔、この場所の先に貯水槽や貯水塔、レンガ造平屋などがあったというが最近取り壊されたようで…。
茨城大学の西側、東京医科大学の裏側。
何もないので場所はいいかな。 これは、なくなったという確認でした…。

霞ヶ浦海軍航空隊隊門(移築)

阿見町立阿見小学校西門。
この門は、かつての霞ヶ浦海軍航空隊隊門が移築されたものという。

https://www.google.com/maps?q=36.030857,140.217826&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

霞ヶ浦海軍航空隊誘導路跡

わかりにくいですが、この道路がかつての誘導路だという。
当時は幅18メートル。
誘導路の東側に飛行機組立工場(第一軍需工廠)があり西側が霞ヶ浦海軍航空隊。

霞ヶ浦海軍航空隊 戦闘指揮所跡

戦闘指揮所跡。
現在の井関農機茨城センター敷地内に残っており、道路側からも建物を垣間見る事が出来る。

https://www.google.com/maps?q=36.029673,140.203985&hl=ja-JP&gl=jp&shorturl=1

戦闘指揮所の奥の方にある格納庫は飛行場中央格納庫。
井関農機茨城センター敷地内で今も活用されている。
敷地外から遠望。なんとなく雰囲気を垣間見る。

さて、茨城大学構内に向かいましょう。

このあたりは見事な桜でした。 茨城大学を中心に桜並木のオンパレード。
茨城大学敷地内に。霞ヶ浦海軍航空隊跡関連の史跡集中地帯です。

茨城大学農学部

かつて霞ヶ浦海軍航空隊の本部。

霞ヶ浦海軍航空隊
宿舎の隊門門柱

さて、いよいよ茨城大学農学部界隈へ。
西側グランドに入り口が三カ所あり、それぞれに霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱が残っている。

南の隊門門柱
( 士官宿舎の門柱 )

茨城大学農学部西側グランド入口。
霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱。

中央の隊門門柱跡
(特務士官宿舎の門柱)

入口としてちょうど良いから使っているという感じで、格別に大事でもなく保存しようというでもなくで自然に任せて徐々に朽ちていっていくかのようで…

茨城大学農学部西側グランド。
霞ヶ浦海軍航空隊宿舎の隊門門柱。

北側入口の隊門門柱跡
(准士官宿舎の門柱)

北側、崩れてかけている門柱。

霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡

さて、茨城大学農学部へ。
こちらは霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡。

こちらの門柱は往時のものか後世のものかは不詳。(霞空時代ではない?)正門跡は、前述の一番北側の宿舎隊門の向かいに。

霞ヶ浦海軍航空隊
方位盤

茨城大学農学部構内、正門より入って左側の空間。

霞ヶ浦海軍航空隊の方位盤
霞空を中心に360度を刻み有名地点が記載された方位盤。
海軍航空隊の操縦教育を知ることの出来る貴重な戦跡。

霞ヶ浦海軍航空隊
第一士官宿舎階段親柱

茨城大学農学部構内。

霞光荘内に残っている第一士官宿舎階段親柱。

建物自体は平成7年に取り壊されたが、階段親柱一対は霞光荘に移築保存されている。 霞光荘の外から窓ガラス越しに見学。

霞ヶ浦海軍航空隊
地下防空壕跡

茨城大学農学部構内。
霞光荘の後方にこんもりとした空間がある。

地下防空壕跡
入口は塞がれており、今ではただの土盛りではあるが、この場所に防空壕があった、と。

霞ヶ浦海軍航空隊
霞ヶ浦神社 (霞ヶ浦海軍航空神社)礎台跡

茨城大学農学部構内。
霞ヶ浦神社・礎台跡。
前述。

霞ヶ浦海軍航空隊50メートルプール跡

茨城大学農学部構内・南部の未開発地区へ。

そこに残るは…
霞ヶ浦海軍航空隊50メートルプール跡

奇蹟のように無為に放置された空間が残る。
桜の花びらがプール跡に舞う姿が綺麗すぎた…。
若き海鷲たちが水練を積んだ場所。

転がる鉄さびた残骸は、かつての飛び込み台か?
(飛び込み台は数年前に撤去)

皇太子殿下御手植の松
(昭和天皇)

茨城大学農学部構内の南部。
プール跡のすぐ南側。

皇太子殿下御手植の松。
(昭和天皇)

碑文には「大正十一年六月廿八日」「霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」とあり、航空隊開隊直前のお手植え。航空隊の開隊は同年11月1日。

霞ヶ浦海軍航空隊
軍艦旗掲揚塔

茨城大学農学部構内北側。
ちょっと離れていたので構内で迷子になりつつ捜索。
本部庁舎前にあった軍艦旗掲揚塔。

以下は参考までに茨城大学のスポット。迷子になりやすいので。

霞ヶ浦の湖畔、阿見町。
予科練の町。

いろいろな思いが交錯し、感慨深くなる町。
また訪れなくてはいけない場所だと感じております。

本記事はいったん〆

銚子の戦跡散策

千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

銚子市の末広町広場に昭和57年建立の碑がある。

戦災復興記念碑

銚子はその立地条件も影響し、三度の空襲を受けている。
昭和20年3月9日、7月19日、8月3日。被災建物は5142戸、死傷者は1200人

戦災復興記念碑
 千葉県知事 沼田武

 銚子市は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年3月9日、7月19日及び8月3日と三度にわたる空襲に見舞われ、市街地の中心約126ヘクタールが焦土と化した。
 その被害は、建物5,142戸、死傷者1,200人を数え、誠に悲惨な状況であった。同年8月15日、終戦となるや、政府は全国120余の戦災都市を対象に「戦災地復興計画基本方針」を定め、平和な文化都市の建設をめざした。
(略)
 ここに、銚子市の平和と発展をねがい、市民及び関係機関が協力して完成させた事業の成果を永く後世に伝えるため、この地に記念碑を建立するものである。
 昭和57年11月

戦災復興記念碑より更に歩みを進めると、小川があり小さな、そのくせに重厚な橋が見えてくる。


復興橋

昭和31年竣工。
銚子市公正市民館のとなり。 文字通りに復興の象徴。


旧・公正会館 (臨時病院)

銚子空襲時の臨時病院
現在は銚子市公正市民館

銚子空襲時にあたりの木造家屋が焼失するなかで、鉄筋コンクリートの当建物は焼け残り、臨時病院として機能した。
1924年(大正13年)建築。

1924年(大正13年)建築。
醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主濱口儀兵衛(10代目儀兵衛・醤油王・ヤマサ醤油の祖)の手による建築物。

外壁も当時の物か? 年代を感じさせる。
ちなみに正面には図書館と記載がありますが、現在は後方の別建物が図書館となっている。


飯沼山円福寺

坂東三十三観音霊場の第27番札所。飯沼観音とも。
銚子電鉄観音駅最寄り。

大仏様にある点々とした修復の跡。
これは銚子空襲時の機銃掃射の弾痕跡を修復したもの。

なお、仏像の台座の穴は、銃撃痕ではなく、機銃掃射痕は「膝のところにある数か所」のみとのことです。混同してましたので、次回の銚子訪問時に写真取り直したいと思います。。。。

この台座は関係なかった。。。


銚港神社

飯沼山円福寺(飯沼観音)の隣には鎮座している銚港神社。 御神木のケヤキも銚子空襲時に機銃掃射を浴びているものの、いまではその悲劇を感じさせることもなく深緑を魅せてくれている。


震洋秘匿基地

場所はなんとなく清水町と弥生町のあたり。具体的な明記は避けておきます。私有地にあたるので。
銚子電鉄の本銚子駅が最寄り。

昔の本銚子駅(リニューアル前)。
リニューアル後も、なんども足を運んでいますが、なんとなく以前の写真で。

銚子はその土地柄、海軍の秘匿基地が展開されていた。

震洋

モーターボートに炸薬を搭載した特攻艇。

銚子外川 第58震洋隊
銚子飯沼 第139震洋隊


銚子には、この二部隊が展開されていた。
銚子外川に展開されていた第58震洋隊を物語るものはなく飯沼の第139震洋隊に関しても多くはないが… 某水産加工会社敷地内に震洋格納庫が残っている、と。

確かに壕が見えますね。機会があれば見学を相談してみよう・・・

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇
各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という

原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

銚子飯沼の震洋格納庫跡近くに。
なにやらレンガ積みの小屋?がありました。
用途不明。関連性も不明。
この周辺には標石もあるらしいが時間的余裕なくて今回は捜索断念。また着ましょう。


陸軍銚子飛行場

市立銚子高校の裏手。地名は千葉県銚子市春日台町。わかりやすい台地の上に、かつて飛行場があった。

位置関係

USA-R1069-63
1948年( 昭23 )03月02日撮影

翔天の碑

陸軍銚子飛行場の跡。
正式表現は「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」。

1936年(昭和11年)銚子に下志津陸軍飛行学校分飛行場が建設され、下志津陸軍飛行学校銚子分教場が設置される。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

碑文
かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。 
同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。
この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した
平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

現在は、丸池・平和公園として、整備されている。

以上は、平成28年(2016)5月撮影


銚子市忠霊塔

銚子市青少年文化会館や銚子体育館、銚子野球場などがある一画、前宿公園に、忠霊碑が建立されている。

左から忠魂碑、忠霊塔、嗚呼戦災死者之碑
忠霊碑のみ戦前(大正4年)に建立。その他は戦後の建立。

銚子市が紀元2600年記念事業として、当地に忠魂碑を建立予定であったが、整地のみで終戦。戦後に忠霊塔が建立された。

忠魂碑

 この忠魂碑は過去幾多の戦役に散華された英霊の遺徳を顕彰するため大正4年御前鬼山に建立されてあったが、昭和20年占領軍により解体撤去を余儀なくされた。爾来再建の日が待たれていたが終戦33回忌にあたりかつての戦友や関係者の協力を得てこの地に再建し永くその遺徳を後世に伝えんとするものである
 昭和52年10月
  銚子遺族会

元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎書

大正4年帝國在郷軍人會 銚子町分會・本銚子町分會 建之

忠霊塔

昭和30年建立。明治10年の西南の役以降に犠牲になられた多くの戦没者と戦災死者を合祀。

戦没者英霊菩提

石灯籠は平成9年建立

嗚呼戦災死者之碑

第二次世界大戦の末期昭和20年3月9日及び7月20日8月1日の3回に亘り銚子市は敵機の空襲を受けました。其の際我等が同胞337名は悲惨にも萬感の思ひをこめて戦災死致しました。
嗚呼実に痛恨の限りであります。時あたかも本年は戦災死後33回忌に当り鎮魂の願ひをこめてここに慰霊碑を建立し以て諸霊の御冥福を心より祈り上げます。
 戦災死者慰霊碑建設委員会
  代表見呂津太兵衛書
    長塚由松
    他有志一同
 昭和52年8月15日
  題字 銚子市長嶋田隆書

以上は2020年12月撮影


銚子にはほかにも戦跡スポットはありますが、ひとまず〆


関連

宇垣纏を偲ぶ

宇垣纏
 海軍中将・第五航空艦隊長官

宇垣家之墓

宇垣家之墓

従三位
勲一等旭日大綬章
昭和四十四年十二月二十四日

海軍中将
正四位
勲一等
功三級

宇垣纏命

昭和二十年八月十五日戦死 享年五十六
部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻

東京・多磨霊園「宇垣家の墓」

8月15日

「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。」

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将
宇垣日記として名高い「戦藻録」最後の記述。

一七〇〇
最後の訓示を終え、最後の特攻として、 宇垣長官は「彗星」に乗り込んだ。
その指揮官機を操縦する中津留達雄大尉は大分県津久見の出身だった。

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将らが飛び立った地が大分基地であった。


突然ですが嫁の実家は宇垣さんゆかりの大分なのです。
ちょっとだけ大分の話をしてみようと思います。

2015年の秋に嫁が帰郷した際に、大分空港ゆかりの場所を撮影しておりました。
この記事の大分の写真は全て嫁の撮影となります。

神風特別攻撃隊発進之地

碑文
昭和二十年八月十五日午後四時三十分
太平洋戦争最後の特別攻撃隊は
この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し

氏名    年齢 出身地
宇垣纏   五五 岡山
中津留達雄 二三 大分
遠藤秋章  二二 愛媛
伊東幸彦  二〇 宮城
大木正夫  二一 福島
山川代夫  二一 山形
北見武雄  二〇 新潟
池田武徳  二二 福岡
山田勇夫  二〇 千葉
渡辺操   二二 千葉
内海進   二一 岩手
後藤高男  二四 福岡
磯村堅   二二 山口
松永茂男  二〇 福岡
中島英雄  一九 愛知
藤崎孝良  一九 鹿児島
吉田利   二〇 滋賀
日高保   二〇 鹿児島

旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

昭和23年に米軍が撮影した旧大分海軍航空隊の様子を見ることが出来る。
(国土交通省国土地理院サイトより)

こちらは現在の様子
おおざっぱに
赤→飛行場
青→大分海軍航空隊
緑→第十二海軍航空廠
黄→第5航空艦隊司令部

大分空港跡地


現在の大分市青葉町にある「大洲総合運動公園」が、かつての「大分基地跡地」にして「大分空港跡地」の地。

大洲総合運動公園
この公園敷地は旧大分空港跡地、その前身は「旧大分海軍航空基地」

戦後運輸省が第二種空港として整備し、その後大分空港が国東半島海岸に移転(1971年)したのを機会に公園用地として大洲総合運動公園が整備。
写真はかつての滑走路界隈。

七〇一空会記念植樹 豊後梅

七〇一空は昭和20年2月に第五航空艦隊附属に転籍となり、最前線にて終戦まで沖縄・九州方面の哨戒、対機動部隊攻撃、特攻攻撃に従事・・・

ここでは、論評は致しません…

ただ静かに感謝と哀悼の意を…


今回の大分写真は嫁撮影となります。
まだ私はこの地に訪れていないため、次に赴く機会がある際に改めて往時を偲んで参ろうと思っております…

神戸三宮の戦跡と近代史跡散策

平成29年3月

平成29年3月15日、神戸方面に赴く用事があった。
せっかくなので神戸に点在する戦跡・近代史跡スポットを午前中のスキマ時間で軽く散策。


三ノ宮駅高架橋の機銃掃射痕

JR三ノ宮駅。
この何気ない東西を結ぶ高架線路橋の景観の中に戦争の爪痕が残っている。
手前の遊歩道からJR線高架橋を覗いてみると・・・

神戸大空襲

神戸は昭和20年終戦までに128回の空襲の受けており、この穴は米軍戦闘機による機銃掃射の跡(山側から海側に貫通)とされている。

JR三ノ宮駅の高架線路橋。
橋の名前は「加納町第一架道橋」。
歩道から覗いてみると無数の穴が開いていた。

色が塗り替えされました。以下は2024年3月撮影。


JR「三宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。阪急「神戸三宮駅」 駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

阪急・神戸三宮駅の弾痕

JR「三ノ宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。

阪急「神戸三宮駅」
駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

駅ホームの上に広がる巨大な屋根。
見上げてみると修復の跡などが。

これも「神戸大空襲の傷跡」
B-29焼夷弾の貫通痕。

思った以上に修復の痕跡が残っていました。
なかには衝撃で曲がったままのものも。

駅に残る戦争の痕跡を感慨深く見上げつつ。
三宮駅から南下します。市役所方面へ。


神戸市役所

どうやら日本で最初に設置された「花時計」が、この「神戸の花時計」とのことで。(1957年4月26日稼働開始)
「へー」なスポット。

神戸市役所24階展望ロビーを目指します。
特に深い意味はないけど高いところからの眺望は好きですので。

神戸市役所24階展望ロビーより

「錨」と「神戸市章」「北前船(KOBE)」が見えました。
日没30分後から23時まで点灯される神戸のシンボル。

「錨山」の錨は明治36年の明治天皇行幸観艦式を記念して錨の形に植栽したことに始まり昭和56年に永久電飾となる。

神戸市役所24階展望ロビーより
摩耶の方向。
鵯越の方向。
ポートアイランドの方向。
長田須磨の方向。

神戸の歴史を鑑みると、今の景色も色々感慨深いものがあります。

市役所から海の方に向けて南下する。


神戸税関

2代目庁舎は1927年竣工。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎とのことだけど、今回は時間がなかったので外観をちらりと眺めて次へ。


神戸海軍操練所跡碑

元治元年(1864)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠。
錨のモニュメントは旧戦艦の錨らしいが「旧戦艦の錨…」以下が読めない

神戸海軍操練所跡碑
碑文は「書」をかたどっており個性的な碑。

神戸海軍操練所跡碑
由来
 万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之

勝海舟による海軍の発祥の地。これが明治海軍への礎となるのだ。

実はこの場所は「NTTドコモ神戸ビル」の前。
「神戸海軍操練所跡碑」の隣には「神戸電信発祥の地」の碑。
明治3年に大阪川口電信局と神戸伝信機局の間(40km)に開通。これが関西地方における電信の発祥であるという。

「操練所跡碑」から「居留地通海岸通」を西に。
居留地通りの建物はまたのちほど触れていきます。
メリケン波止場の「港公園」に一対の碑がある。 (跡地とややこしいです)


神戸海軍操練所記念碑

海軍営之碑

「海軍営之碑」
徳川宗家16代当主徳川家達謹書
碑文は勝海舟謹書(軍艦奉行安房守勝物部義邦撰)

なおこの碑はレプリカで本物は六甲山の諏訪山公園にある。


陸奥宗光顕彰碑

「陸奥宗光顕彰碑」
陸奥宗光(1844~1897)は勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬らと共に学び、のちに第4代兵庫県知事となり第二次伊藤博文内閣での外務大臣を務めた人物。(伊藤博文は初代兵庫県知事)

「陸奥宗光顕彰碑」 碑裏面は昭和四八年当時の外務大臣大平正芳による。
「近代日本の揺籃期に内政外交に尽くした功績は不滅である」

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
 昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
 海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生徒も200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
 この浜は新しい日本の発祥の地である。
昭和48年5月吉日

海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人
所長・海軍奉行 勝海舟
塾頭・坂本龍馬(のち海援隊長)
伊藤俊助(のち伊藤博文・兵庫県初代知事・初代内閣総理大臣)
陸奥陽之助(のち陸奥宗光・兵庫県四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)

「みなと公園」をあとにして、旧居留地エリアにまいります。 ちなみに時間軸としては三宮駅9時散策開始で、ここまでで約30分経過しておりました。


神戸郵船ビル

大正7年(1918)に旧日本郵船神戸支店として建設された近代ビル。

「神戸郵船ビル」の反対側には近代ビルが林立しています。
これはワクワクします。

手前から「海岸ビル」「商船三井ビルディング」そして3つ先が「 チャータードビル」となります。
実は近くで見てみるとこれらのビルにも戦争の爪痕が残っているのです。


海岸ビル

旧三井物産神戸支店として1918年に竣工。
阪神淡路大震災で全壊し、高層ビル再建時に低層部(4階まで)旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている。
近代化産業遺産。

「海岸ビル」
外壁には神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。

海岸ビル。低層階内部が美しい・・・


商船三井ビルディング

旧大阪商船神戸支店として1922年(大正11年)に竣工。
近代化産業遺産。アメリカルネサンス様式。
大正期の大規模オフィスビルとして唯一現存。

「商船三井ビルディング」の 外壁にも神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。
今となっては言われなければ気がつかない小さな痕跡。
戦争の爪痕。


神港ビル

1939年(昭和14年)に川崎汽船本社ビルとして竣工。現在もオフィスビルとして利用されている。近代化産業遺産。 アールデコ風の屋上の塔屋が目立つ。


チャータードビル

チャータード銀行(Chartered Bank)神戸支店として1938年に竣工。
近代化産業遺産。

「チャータードビル」 外壁に機銃掃射の痕をみる。


旧居留地エリアの内部へと足を進めます。

神戸市立博物館

この建物はかつての「横浜正金銀行神戸支店」(戦後は東京銀行神戸支店) 1935年(昭和10年)に竣工した新古典主義様式の建物。
国の登録有形文化財指定。

「神戸市立博物館」 旧「横浜正金銀行神戸支店」
入口の脇にちょっとだけ痕跡が残ってました。
機銃掃射の痕。

今回の神戸では「機銃掃射痕」ばかり探す散策をしてしまいまして。 オシャレな神戸の街なかで、観光とは程遠いフィールドワーク…


神戸外国人居留地の下水道(公開施設)

慶応3年(1868)の開港にともない居留地が展開。 居留地の下水道は明治5年(1872)頃に完成したもので、近代下水道としては日本最古のものという。
国登録有形文化財指定。土木学会選奨土木遺産。


旧居留地十五番館
旧アメリカ合衆国領事館

1880年竣工。
旧居留地に唯一現存する居留地時代(1868年~1899年)の建築物。
国重要文化財指定。
1995年の阪神・淡路大震災において全壊するも再建。現在はレストランが営業している。


南京町中華街

居留地エリアから次の目的地(花隈)に向かう途中に南京町中華街があったのでフラフラと寄り道してしまいました。
なんか珍しく観光っぽいことしてますね。


花隈公園(花隈城跡)

永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築城させたと伝承。
荒木村重が信長に反旗を翻したため花隈城は荒木方の有岡城支城となるが天正8年(1580年)に落城。
池田恒興によって兵庫城が築城された為に花隈城は廃城。


「東郷の井碑(東郷井)」( 花隈公園 )

「東郷の井碑」 命名は財部彪、揮毫は小笠原長生。
元々は花隈7-16界隈にあった。
初代戦艦大和(神戸小野浜造船所・1887年起工) 建造監督官として東郷平八郎が就任し花隈に滞在。
大和進水時には初代艦長に就任。

「花隈公園」にならぶ2つの碑
「花隈城跡」 「東郷の井」
荒木村重と池田恒興
東郷平八郎と財部彪と小笠原長生

なかなか強烈です。


花隈公園から北上する。

神戸教会(日本基督教団神戸教会)

1932年に建設されている4代目の会堂で、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える。
教会としては1874年(明治7年)4月に設立された日本最古級のプロテスタント教会という。

太平洋戦争末期には会堂が日本軍に接収され、外壁を黒く塗られたという。
なんとなく往時の黒塗りのあとが残っているような気がしないでもなく…

神戸大空襲時(昭和20年6月5日)に爆弾によって破壊された会堂前市道の溝蓋の敷石。
道路拡張時に教会にて保存。

今回の神戸散策では唯一の「戦争遺跡を明記した案内板」と出会えました。


生田神社

三宮の生田神社境内には、神戸大空襲で被災した楠の大木がある。 昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた御神木。

生田神社
延喜式内名神大社。旧社格は官幣中社。 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり「神戸」地名の語源となっている。
御祭神は稚日女尊 「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも。

神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ神託があったと書紀には記載。
この時に神戸生田の地とともに、大阪住吉・神戸長田・西宮広田も同時に祀られ「四社鎮祭」とされている。

花隈駅から阪急神戸三宮駅に戻る。朝9時から散策を開始して所要3時間でした。

で、仕事先に向かうためにポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)に乗り込んだわけです。 神戸遠景が美しい…

東郷平八郎ゆかりの神社仏閣など

(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)

東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
  東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)

東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など


東郷神社御朱印帳

表装の和歌

おろかなる 
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ 
天つちの神

(意味)
  愚かな私ではございますが
  誠の心で尽くしますので
  なにとぞ天地の神々よ
  私を見守っていて下さい 

1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
 東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
 東宮学問所 = 皇太子の御教育機関

御朱印

東郷神社
  御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
  東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
  「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
  府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
  東郷元帥農園別墅跡

東郷寺

(府中市清水が丘3-40-10)

元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

聖将山 東郷寺 山号標

揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。

東郷寺 山門

設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。

段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。

東郷寺山門建立由来

題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立

「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。

「聖将山 東郷寺」 東郷元帥と日蓮宗

東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。

大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。

昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)

昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。

現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…

こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。

東郷寺 しだれ桜

桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)

朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。

彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・

東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。

山門側から

東郷寺墓苑

東郷寺境内
境内地を散策(地図
ポイントを地図に記載してみました。

境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…

東郷元帥墓(供養墓)

境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。

小笠原長生墓(供養墓)

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

「枢軸国必勝祈念塔」

昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。

正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。

日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫

奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。

ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている

「豊田副武墓」

海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。

「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。

更にここには意外な人物が祀られている

「河本大作墓」

元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。

東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…

大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立

妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が

戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・

合掌

東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・

鬼瓦

東郷寺御朱印

妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺

※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。

二七山不動院

さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)

二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興

東郷元帥と二七不動(九段)

東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。

明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという

大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。

大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。

二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。

インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」

写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。

東郷元帥記念公園

平成30年1月撮影

「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。

かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。

東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。

東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている

公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。

平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。

東郷神社

平成30年1月、久しぶりの参拝。

第一駆逐隊(駆逐艦 神風・野風・波風・沼風) 奉納灯籠

東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。

東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯

東郷神社御朱印

平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。

おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神

東郷神社例大祭

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。

5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。

東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。

おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!

海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。

千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい

東郷神社御神酒

東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)

トップ水雷

鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ

お酒つながりで掲載。

伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ

東郷焼酎
東郷ビールとZ旗ビール
海軍ラムネ

いずれも横須賀にて


以下は徒然に

秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。

郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。


溝口神社

川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書


神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。


軍艦三笠艦内神社 三笠神社

三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…


三笠神棚

日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

軍艦「三笠」

今回は外側を眺める程度で。


連合艦隊解散之辞
東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

「東郷平八郎銅像」(三笠公園)

日本海海戦後言志
日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
  聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)

「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)

「謎の軍艦甲板の一部」

横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。


呉・ 東郷家住宅離れ

入船山記念館(入船山公園)

旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。

舞鶴・ 東郷邸

舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。

舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。

https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html

佐世保

佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。

佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)


東郷氏祖先発祥の地

東郷氏祖先発祥地

ひとまずは以上で〆

そのほか随時で登録していきます

海軍香取航空基地跡散策

平成28年1月撮影・千葉県匝瑳市及び旭市

海軍香取航空基地跡散策レポ。(平成28年1月10日)
千葉県旭市鎌数工業団地がその跡地。
航空写真で見れば滑走路跡も歴然。
総武本線干潟駅スタートで散策行程は約10キロ3時間。

  • 建設が決定されたのは1938年(昭和13年)完成は1942年(昭和17年)頃。
  • 名称:海軍香取航空基地。通称は香取飛行場。
  • 滑走路は1500mと1400mの2本で互いの中央部が十字状に交差。
米軍撮影 1948/03/02(昭23)
USA-R1069-107

まずは1500メートル滑走路南西部エンド。
金属加工工場がはいってます。
航空写真を見ての通り、不自然に斜めってますね。
滑走路の上に工場が展開。

1500メートル滑走路と1400メートル滑走路のクロスポイント。
南西側の1500メートル滑走路跡からなんとなく当時の舗装を垣間見ることができました。

北西ー南東に伸びる1400メートル滑走路跡は、日清紡ブレーキの旭テストコースとして活用されてます。
航空写真でサーキット場に見えるわけです。ただしテストコースは樹木に覆われており、中を伺うことは叶わず。

航空写真を。
テストコース中央部に滑走路跡の舗装が残っているのがわかります。日清紡ブレーキ社の都合があえば事前申し込みで見学も出来るらしいです。
私は時間なかったので航空写真で満足しておきますが。


滑走路跡からちょっとはなれた場所に、飛行機と慰霊碑があります。 順に見ていきましょう。
(千葉県旭市鎌数5146−32付近)

黄色な零戦?

「米国からのMAP供与品」を海自から旭市が借り受け……って又貸し?
米軍練習機SNJ/T-6テキサン。

飛行機所縁の地にせめてレシプロ機を展示したいという意気込みが伝わってきました。

テキサン

香取航空基地に馴染みある旧帝国海軍航空機を展示するのは無理な相談。
そうであれば、せめて似たような雰囲気のレシプロ機を展示して、この場所で往時記憶を留めるという展示者の意欲が伝わってきました。

展示飛行機テキサンの向かいには慰霊碑があります。

海軍香取航空基地跡 慰霊碑

「慰霊」

黙祷。
この地より飛び立ち若き海鷲たちに感謝の意と哀悼の誠を捧げつつ。

「慰霊」題字は源田實氏。
海軍軍人としての最終階級は大佐。戦後は空自、政治家へと。

海軍香取航空基地跡慰霊碑
この地は昭和十八年、太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地跡なり
慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり
彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は「御霊よ永遠に安かれ」と祈り、又「将来の平和の礎たれ」 と念じ互いに力を合わせこの碑を建立し、謹みて碑内に霊璽簿を納む

昭和51年11月23日 慰霊碑建設期成会
慰霊題字 源田實

巨大な慰霊碑の片隅に、隠れるようにひっそりと小さな碑もありました。
はっ とその存在に気がつき、慌てて手を合わせる。

「香取基地戦没者之墓」
昭和30年12月建立の墓碑。建立は慰霊碑に先立つ事21年前。

慰霊の場所から北上。
北西に伸びる1400メートル滑走路のエンドは日清紡ブレーキ社のテストコース。
ここより更に北上へと歩いて行きます。

素晴らしき快晴の中を歩く。気持ちの良い天候でした。暫し歩くと土盛りのようなものが見えてきて。
これが次の目的地の掩体壕。
掩体壕は水田の中と聞いていたので農閑期に訪問。作業の邪魔をしてはいけないので。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(匝瑳市)

掩体壕。
鉄筋コンクリートアーチ型。
開口19.5メートル、奥行10.6メートル。高さ6メートル、コンクリート厚0.3メートル。
匝瑳市椿海地区には隣接して2基現存している。

匝瑳市椿海地区の掩体壕2基。
ご覧のとおりに水田の中に。農作業の邪魔をしてはいけないので農閑期に訪れたわけです。
地元の調布飛行場の界隈にも掩体壕は残っておりますが、こちらはより大型な掩体壕。

激動の時代を物語るよすがを。
今はただ静かに。

望遠してみた。

なんか不思議な感じがします。
知らない人にはどういう風に見えているのかな。
水田の中にあらわれた人工物。

歴史を体感するキッカケとして、後世に大切に伝えて欲しいです。

橋を渡り対岸から掩体壕を望む。

長閑な風景はどこか牧歌的ですらあり、皮肉なものである。

ここより飛び立てり若き海鷲たちに感謝の意を。哀悼の誠を。
今はただ、静かに掩体壕という器だけが残る大地の中で。

匝瑳市椿海地区の掩体壕から、南東に歩く。
次の目的地は鎌数伊勢大神宮。
この神社の隣にも掩体壕が残っているのだ。
滑走路跡に沿って歩いてみる。

海軍香取航空基地跡の掩体壕(旭市)

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。
こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。旭市に残る唯一のもの。 近くに寄ってみます。 こちらも農業倉庫として使われているため、やはり邪魔にならないように、農閑期に訪れるのが良いかと。

旭市鎌数の掩体壕。
鎌数伊勢大神宮側から後ろを見学する事も出来ました。

鎌数伊勢大神宮

鎌数の掩体壕の隣に鎮座しております 鎌数伊勢大神宮さんへ。 こちらもほんのちょっとだけ香取航空基地に絡んできます。 写真は脇参道。掩体壕のある側から。

旧社格は郷社。
御祭神は天照大神。

もともと界隈は寛文11年(1671)までは「椿の湖」という周囲42キロメートル(東西12キロメートル・南北6キロメートル)の湖であった。

寛文年間。
江戸の白井治郎衛門、伊勢桑名の辻内刑部右衛門両名が湖の干拓事業を開始。 当初は農民や漁民より強い反対があり工事が中断されるも両名は工事再開のために神助を得ようと考え伊勢神宮内宮神主であった梅谷左近大夫長重に工事遂行の祈願を依頼。

両名は御神木と御神札を持ち帰り、この湖に浮かべたところ、流れ着いたのが現在の大神宮のある東方の岸であったという。これは神意に違いないと工事を再開したところ、不思議なことに今度は反対活動も起きずに工事が進んだ。

寛文11年12月28日に〆切の式を行い水を九十九里に流し、翌寛文12年に待望の大干潟が生まれ18の村が成立。 これを干潟八万石と呼称。 寛文12年5月に内宮神主の梅谷左近大夫長重(現宮司家の12代前)により現在地に伊勢皇大神宮より御分霊を移し干潟総鎮守産土神として祭祀。

昭和15年に海軍香取航空基地が建設され、当境内は滑走路の東南となった。 幸いにして神社境内は買収されなかったが背の高い樹木は飛行妨害を懸念され伐採。

往時より70余年を経て、今日に至る。

境内遠望

航空基地跡とは逸脱しますがさらりと境内を散策してみましょう。

「落花生の碑」
碑題字は山岡鉄太郎(山岡鉄舟)
千葉の落花生は1845年に千葉県旭市鎌数の役人金谷総蔵氏の尽力より始まったのだ。

椿の湖を物語る石。
寛文年間に干拓された当地は干潟八万石と称された。 昭和年間に海軍香取航空基地建設のための工事の最中に発掘されたこの石は実は「塩の化石」だとか。

御神木 夫婦杉。
樹齢約320余年とのことで、ほぼ創建年代まで遡れますね。 高さは夫杉は4メートル、婦杉は3メートル。

境内には地元の方々の参拝がちらほら。

千葉県旭市は実は神社が豊富。
郷社クラスでも飯岡の玉崎神社(下総国二ノ宮)、見広の雷神社(式年銚子大神幸祭の1社)、熊野神社(家康公朱印地)、そして鎌数様と名社が多い。

8時44分に干潟駅着。
香取航空基地跡を周回し鎌数さんを詣でて11時41分に干潟駅離脱。
ちょっと慌ただしく約3時間約10キロといったところでした。

海軍香取航空基地の格納庫を転用したとされている銚子駅舎の記事は以下に。残念がらすでに解体済みです。

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

愛知航空機工場スリップ跡散策

平成29年1月撮影

愛知航空機永徳機体工場スリップ跡。 (稲永スリップ跡)

平成29年1月28日午後。
名古屋駅から「あおなみ線」に乗り南下を。
観光地的ではない場所。目的地は「野跡駅」より徒歩10分ほどだった。

通称、「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」。
「稲永スリップ跡」ともいわれる場所へ。

現在は「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
戦前は「愛知航空機永徳工場」。
この愛知航空機(愛知時計電機から分社)は主に海軍機を製造していた軍需工場。
その南西にある跡地…

稲永スリップ跡

スリップとは?
つまり「滑る」わけであり「スロープ」「水上機用傾斜面」のことをいう。

水上機は車輪の変わりに下駄(フロート)をつけており、地上から斜面を滑り着水するのだ。

愛知航空機

戦前日本では屈指の航空機メーカー。
日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造してきた会社。

代表作
「九九式艦上爆撃機」
「流星」
「流星改」
「零式水上偵察機」
「瑞雲」
「晴嵐」
「九八式水上偵察機(夜偵)」…
水冷式発動機「アツタ」
など。

このスリップから水面へ滑り出し飛び立っていった水上機たちに想いを馳せる…

零式水上偵察機(零式水偵)
戦艦・巡洋艦・潜水艦などの艦載機として、また水上基地からも運用できる長距離偵察機として昭和15年12月採用。
愛知航空機での生産数133機。

瑞雲
水上偵察機と水上爆撃機(急降下爆撃も含め)の統合を目指し、開発は難航するも昭和18年8月制式採用。
日本海軍が誇る傑作水上機のひとつ。

第634航空隊として、第四航空戦隊・航空戦艦「伊勢・日向」に搭載予定だったが…(師匠…
総生産数は約220機。

晴嵐
水上攻撃機・特殊攻撃機
伊400型・伊13型潜水艦に搭載。急降下爆撃も可能な潜水艦搭載用水上攻撃機。
昭和18年11月に初号機完成。
愛知航空機が産んだ最後の傑作水上機。

「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」
(稲永スリップ跡)

ちょうど私が訪れた時、15時ごろは干潮から満潮へとシフトしている最中でした。
赤い屋根は稲永スポーツセンター。
この先にかつての愛知航空機がありました、

この凸部は係留用の杭でしょうか?
コンクリートの粗さがたまらなく、歴史を感じさせてくれます。

石段が残っていました。

スロープになっているのがわかります。

しばし、往時を偲び佇むとき。

このスリップを滑りつつ、水面から大空へと飛び立てし水上機たちに想いを馳せる。

堤防の上より。
気がつけば、界隈で1時間近くを過ごしてしまいました。

感無量の空間。ここには案内看板もなにもないけれども、往時の激動の時代を伝承し歴史を刻みし空間が残っているのだ。

このスリップ跡界隈は、現在はラムサール条約湿地「藤前干潟」でもある。

現在の「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
(戦前は「愛知航空機永徳工場」。昭和20年8月の終戦により軍需工場から民需転換)

脇を歩きながら、駅にもどりましょう。
現在の愛知機械工業株式会社は、日産の子会社。

あおなみ線「野跡駅」(のせき・えき)に戻ってきました。
名古屋駅から電車一本20分で行ける戦争史跡。往時の感じることが出来る貴重な空間。良き場所でした。

軍艦「陸奥」を偲ぶ

軍艦「陸奥」

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
帝國海軍のシンボルとして長門ともども日本国民から親しまれたものの、昭和18年(1943)6月8日、主砲火薬庫から爆発を起こして沈没。

陸奥主砲(船の科学館)

長門型戦艦の二番艦「陸奥」
写真の主砲は船の科学館にて展示時代のもの(2016/6/26撮影)

2016年6月。
船の科学館も不幸だし陸奥も不幸だし… まあ、船の科学館の話は寂しくなるのでまた機会にして… 「陸奥」41cm主砲身(四番砲身)を「船の科学館」で見納めしてきました。

「二式大艇」もいなくなって、館内も閉鎖され、そうして「陸奥主砲身」もいなくなって。 「船の科学館」が訪れるたびに寂しくなってしまいます…。

2016年9月。
9月12日に「戦艦陸奥移設工事」が実施されるときいたので直前の見学を。

帝国海軍を過ごした艦「陸奥」と「宗谷」のラストショット

船の科学館本館と陸奥の大きさ比較の看板も見納めですね…
船の科学館 にて42年間の展示、ありがとうございました!

陸奥主砲(ヴェルニー公園)

陸奥主砲の受け入れ準備

2016年9月12日に「船の科学館」から旅立つ戦艦陸奥主砲。
横須賀では受け入れ準備がすすんでいました。
9月13日にヴェルニー公園にて主砲移設工事が実施。

陸奥主砲の移設後

「船の科学館」で帝国海軍最後の生き残りである「宗谷」とともに有る姿を見納めして。
そして今は戦艦陸奥生まれ故郷の横須賀で、海軍のDNAを伝統墨守する海自主力艦「いずも」とともに有る姿と新たに出会えました。感無量です…

戦艦陸奥。
大正9年に横須賀海軍工廠で進水。大正10年(1921)竣工。
昭和18年(1943)瀬戸内海柱島沖で爆発沈没。
昭和45年主砲引揚げ。
昭和49年より平成28年まで船の科学館にて展示。
平成28年秋に横須賀に移設。

横須賀へお帰り言うたってくれ…

「ベルニー公園」に展示中の陸奥砲身が「上下逆さま」で、なおかつ傾いて据付されているとの報告がA様よりご連絡がありました。(実はベルニー公園に来る前の船の科学館時代から逆さまだった)
陸奥砲身の後部の「尾栓開閉機構」の歯車が砲尾の右斜め下にあるが、これは砲身が上下逆さまに設置されたので、歯車が下側になっていることが、逆さまに設置されている証拠です。

A様よりメールにてご連絡あり、ありがとうございます

陸奥の遺品

大和ミュージアム

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
大和ミュージアムの館外に戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。 その様子を簡単に。

戦後、1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導による本格的なサルベージが行われ、全国各地に陸奥の遺品(引揚げ品)が展示されている。

「陸奥の艦尾旗竿」

「陸奥の主錨」

「陸奥の艦尾フェアリーダー(右舷用)」

陸奥41センチ主砲身(4番主砲塔左)
呉海軍工廠で開発されたもの。陸奥建艦当時は世界最大の艦載砲。
展示品は大正10年に完成し昭和11年に陸奥に搭載されたもの。

陸奥スクリュープロペラ

陸奥主舵

大和ミュージアム展示品の部位


靖國神社「遊就館」大型展示室

九段の靖國神社遊就館。 ここにも戦艦「陸奥」の遺品が展示してあります。

戦艦陸奥「14cm副砲」

五十口径三年式十四糎砲
陸奥副砲は昭和48年に遺骨とともに引揚げられ、艦と共に殉職した乗組員千百二十二柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために爆沈より38年後の昭和56年6月8日に靖國神社に奉納。

陸奥小錨
左前艦側舷窓
艦長室御真影奉安所上部菊花雲型、そのほか遺品
舷窓内径は約35センチ。爆沈の際はこの窓から脱出した人もいたという。

軍艦陸奥装備副砲奉納銘碑

碑文
軍艦陸奥は連合艦隊司令長官古賀峯一の直率の下に瀬戸内海柱島水道に警戒碇泊中、昭和十八年六月八日不慮の爆沈により艦長海軍少将三好輝彦外一千百二十一名の将兵が悲運にも艦と運命を共にし永久の大義に殉ぜられた。
軍艦陸奥引揚促進期成会は軍艦陸奥の引揚の大部を了せる此機を選び、引揚たる副砲と共に其の銘碑に殉職者の英名を刻み、之を靖国神社に奉献し其英霊を永へに顕彰することにした。
軍艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約下最後の軍艦であり、其戦力発揮の為全海軍の叡智と心血とを注いで完成した稀少値の芸術品であって、其乗員も亦誇りを以って二十余年に亘り祖国の護りに精魂を傾けて献身し、名実共に天下第一艦として戦争抑止の実を発揮した栄光の軍艦である 。
昭和50年6月8日
 軍艦陸奥引揚促進期成会会長
 元軍艦陸奥艦長  
    保科善四郎謹書


陸奥主砲抑気具記念碑

大阪の難波八阪神社境内には「陸奥」にゆかりあるものが奉納されておりました。

四十五口径三年式四十一糎砲
補用抑氣具格納筐
抑気具ヲ砲身ヨリ取外シタル時ハ必ズ函中ニ格納シ置クベシ

主砲抑気具とは、つまり砲口蓋「主砲の砲口の蓋」です。

主砲抑気具記念碑・碑文
この抑気具(砲口蓋)は沈没し海底から引揚げられた 戦艦陸奥の主砲八門の内の一個で、艦と 運命を共に した艦長三好輝久大佐以下千百二十一名の将兵の魂を慰霊し永遠の平和を祈るものである

海ゆかば
 水漬く屍
山ゆかば
 草むすかばね
大君の
 辺にこそ死なめ かえりみはせじ


「陸奥爆沈」

昭和18年6月8日午後12時10分ごろ、戦艦「陸奥」は広島湾沖柱島泊地にて謎の爆沈を起こした。 陸奥の爆沈原因はいまだに謎とされている。 吉村昭氏の「陸奥爆沈」は一読の価値ある名著ですので参考までに。

吉村昭著「陸奥爆沈」

陸奥は戦後に艦体の一部や主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示されている。

参考:ウィキペディア
陸奥 (戦艦)→引き揚げ展示品と展示場所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E5.BC.95.E3.81.8D.E6.8F.9A.E3.81.92.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.93.81.E3.81.A8.E5.B1.95.E7.A4.BA.E5.A0.B4.E6.89.80

「陸奥の遺品」に関しては、訪れましたら写真を追記していきます。

姉妹艦「長門」に関してはこちら

軍艦「長門」を偲ぶ

軍艦「長門」

「軍艦長門の碑」
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする

撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)


昭和21年(1946)7月28日深夜から29日未明にかけて。
1隻の艦が人知れずに太平洋の海へと姿を隠していった。

帝国海軍
戦艦「長門」

そんな彼女を偲ぶよすがに…

※写真はウィキペディアより

「陸奥と長門は日本の誇り」

昭和5年の少年倶楽部「いろはかるた」にあるとおりに、正にこの長門型こそが日本の誇りであった。
戦前戦中は長門と陸奥こそが「大日本帝国海軍」を代表する戦艦であり、国民から愛され慕われた戦艦。
あれっ?と思った人も居るかもしれない…

帝国海軍の戦艦を往時の少年たちは当たり前のように諳んじていた。
「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」
この10隻が開戦時の戦艦・巡洋戦艦。

「大和武蔵」は?
戦中は大和型の存在そのものが極秘であり多くの国民はその艦を知る良しもなかったのです…。

開戦時の連合艦隊旗艦「長門」。
昭和16年12月2日の「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電は、この長門から打電。(大和の竣工は昭和16年12月16日、開戦直後)

※写真はウィキペディアより

建造当初から煙突排煙処理が問題となり大正13年(1924)に屈曲煙突に大改装。この姿が国民に親しまれ一番印象に残る姿とも。
私も一番好きな姿です。 (この屈曲煙突は昭和の大改装で廃止)

※写真はウィキペディアより

太平洋戦争時は、大和武蔵ともども主力艦として温存。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦の座を大和に譲っている。

艦に心あり

捷一号作戦では西村艦隊旗艦の予定であったが、宇垣纏第一戦隊司令官の反対で主力に編入。西村艦隊としてスリガオ海峡に突入することはなかった。

宇垣纏『戦藻録』
昭和19年3月6日、宇垣纏第一戦隊司令官は駆逐艦谷風より第一戦隊旗艦長門に乗艦した際に
「長門に着任、中将旗を掲げ死所とす。長門も縁ありてここに四度目の乗艦なり。艦に心あり余の乗艦を喜べば、余は彼女の健在と今日迄の奮闘を謝するものなり」と記している。宇垣は度々「長門」に乗艦しており、この一文からも長門を愛していたことが感じ取れる。
さらには、宇垣は捷一号作戦 にて武蔵が沈んだ際にも(『戦藻録』 昭和19年10月24日)
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり
思えば限りなきことなるも無理な戦なれば致し方がなし。明日大和にして同一の運命とならば麾下なお長門の存するあらんも、もはや隊を為さず、司令官として存在の意義なし。・・・」
と麾下の「長門」の存在を意識をしていた。

昭和20年7月18日。
横須賀空襲において艦橋が破壊され、そのまま修復されること無く中破で終戦。唯一残った戦艦であった。

8月30日に米軍に接収。
昭和21年3月18日にクロスロード作戦(米軍核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁に向け日本を出港。

その最後の姿を物語る絵画と写真。 昭和21年米軍接収の写真。

※写真はウィキペディアより
※画像はウィキペディアより

昭和21年7月1日の第一実験では爆心地から約1.5 kmの距離でほとんど無傷。長門とともに標的艦とされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂は爆心地近くの為に大破炎上、翌日沈没。

そして7月25日の第二実験。爆心地から900-1000m。 実験直後は傾斜を生じるも長門は海上に浮かんでいた。

その4日後の7月29日の朝。 実験関係者が「長門」の浮かんでいた海面を見れば、その姿は海上にはなく、静かに沈んでいた・・・。

阿川弘之著「軍艦長門の生涯」

激動の大正・昭和 日本の運命を背負った一隻の軍艦
… …
遠くビキニの海に沈む… 軍艦長門の生涯には あの時代の 日本と日本人がある!

軍艦長門碑

ありし日の
聯合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
政一書

揮毫は海軍中将新見政一
撰文は阿川弘之

長門の母港横須賀ヴェルニー公園にて

軍艦長門碑のモニュメントも 「屈曲煙突」時代をかたどっておりました。
多くの国民が耳目してきた帝国海軍のシンボルたる 「連合艦隊旗艦長門」の姿を。

軍艦「長門の副錨」

(平成30年6月撮影)

先日、中京方面に赴く用事があったので立ち寄ってきました。
岡崎市の東公園。
東岡崎駅から市民病院方面のバスに乗り東公園口にて下車。
東公園の中央に堂々とした記念碑がある。

「海の記念碑」
ここに軍艦「長門の副錨」が記念碑として保存されていた。

「海の記念碑」

碑文
時まさに岡崎市制六十周年
ここに岡崎市海友会は、創立六十五周年を記念し、戦艦「長門」の副錨をもって「海の記念碑」を建立する。
これは海国日本の永遠の平和を祈念する心の発露である。
昭和五十二年三月 岡崎市 海友会

シンボルになっている錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくビキニ環礁でアメリカ合衆国の原爆実験の標的にされたときの唯一の遺品です。 この碑により、人々に広く戦争の悲惨さを知らしめ我国の恒久平和を願う象徴として設置されました。
※一説には昭和9年改装時に取り外した副錨とも

岡崎市の東公園。
長門の副錨の後方には恐竜のモニュメント。
こうして恐竜と対比してみれば長門の副錨の大きさがわか・・・?

長門の忘れ形見・・・

しばしのとき
長門を思い起こし、感慨にふける空間・・・

岡崎市 東公園
「三景艦主砲砲弾」
昭和57年4月29日 岡崎市海友会 創立70周年記念建立。
日清戦争の際に清国北洋艦隊「定遠」「鎮遠」に対抗するために整備した「松島」「厳島」「橋立」を三景艦と呼称。その32センチ主砲弾も記念碑に。

付記
岡崎市 東公園
公園には邸宅もありました。
「本多忠次邸」
こちらの本多さんは忠勝系の本多の末裔。昭和7年に世田谷に建てた住宅の移築保存だそうで。 このときは、すでに夕刻で閉門していたので外観のみの見学。

姉妹艦「陸奥」はこちらにて

谷田部海軍航空隊跡地散策

平成29年5月

谷田部へ

平成29年5月5日。
良い天気に誘われて前々から気になっていた場所にふらりと訪れてみることにしました。
茨城県内に点在した海軍航空基地跡でまだ未訪問だった場所。
「谷田部」
現在の行政的には茨城県つくば市谷田部

メモ程度に茨城南部の海軍航空隊を簡単に分類。

霞ヶ浦海軍航空隊(霞空・教育部隊・予科練)
 ↓
鹿島空(水上機隊)→北浦空
谷田部空(霞空補助)
土浦空・百里原空(予科練)

筑波海軍航空隊(戦闘機)
 ↓
神ノ池空(桜花隊)
谷田部空(戦闘機)

公共交通機関での谷田部へのアクセス方法はいくつかあるけど一番楽なのは「取手から谷田部車庫までのバス」かと思います。バス路線は土浦・牛久・水海道などあるようですが運転本数は取手が一番多いような気がします。

取手~谷田部車庫
所要時間60分910円

バスに揺られて1時間。
久しぶりに長距離路線バスに乗った感じです。

関東鉄道バス 終点
「谷田部車庫」

位置関係

全体の地図を貼っておきます。
地図上部の緑印が今回の散策ポイント。
谷田部車庫は筑波学園病院の北隣。
南部の緑枠は「滑走路跡」、現在の研究団地。
ここに芝張りの滑走路が広がっており、当時は93式中間練習機「赤トンボ」が舞っていたという。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
 USA撮影
 コース番号 R2232
 写真番号 51
 撮影年月日 1948/12/04(昭23)

正門跡

谷田部車庫からいったん北上してT字路に到達。
この場所が「谷田部海軍航空隊」の入口であった。
ここより南に進むと「正門跡」(筑波学園病院前交差点)という。

この入口の角にあるスーパーがポイントです。

入口T字路の角に立つスーパー。
実は、戦後に元隊員が開業したスーパーだという。
(今は営業していない雰囲気でした)

店先に「桜と錨」帝国海軍徽章(シンボルマーク)が掲げられておりました。 これは胸熱…

消失した、とのことです。

そのまま南下。
関東鉄道バス谷田部車庫の南隣に「筑波学園病院」が見えてきます。

このあたりがかつての「正門」があった場所。
ここから南側がかつての基地跡。

谷田部海軍航空隊記念碑

「筑波学園病院」の駐車場の脇に記念碑が建立されておりました。

谷田部海軍航空隊記念碑
平成25年3月吉日 財団法人筑波麓仁会理事長

(補足→筑波学園病院のことです)

記念碑上部の戦闘機の石造造形が美しすぎて感無量でした。
目頭があつくなるほどに・・・

谷田部海軍航空隊記念碑
碑文

谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。
 平成二十五年三月吉日 
 財団法人筑波麓仁会

建立時の除幕式がニュースでありました。 以下にリンクを貼っておきます。

https://www.gakuen-hospital.or.jp/wp/?p=175

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=13689590371307

零戦モニュメントが上部に設置された記念碑は神風特別攻撃隊「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置という。

桜の季節に詣りたい場所…

病院のご尽力にも感謝。ありがとうございました。

谷田部海軍航空基地外壁跡

記念碑から西の方に。 正門にそって基地の境界を道なりに進むと古いコンクリ塀が見えてくる。 これは当時の谷田部海軍航空基地の外壁が流用されたものという。

さらに道なりに歩み、交差点を南に折れる。
空地にトラックが駐車。
なんとなく目をやると…
あぁこれは仕組まれたかのような偶然です。

「若鷲の歌」
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

常磐高速道路を眼下に。

常磐道を挟んで
左手(北)が基地の主要部、
右手(南)が芝張りの滑走路敷地。

前述の航空写真を見ると、主要部と滑走路部の間に橋がかかっているのがわかります。当時は用水路のように基地を囲むように窪みがあったようです。

飛行場橋

常磐道をまたぐ橋。 飛行場は既に残っていないけども、橋の名前に往時を偲ぶことができる。 航空隊本部と芝張り飛行場を結ぶ橋。 今はこの「飛行場橋」の向こうには「研究団地」が展開されている。

往時、この空間に芝張りの飛行場が展開していたという。

歴史だけが残った空間。

芝張りの飛行場は93式中間練習機「赤トンボ」用。
そして現在の常磐道の側道あたりに戦闘機用の滑走路が展開されていたという。

谷田部神社(谷田部海軍航空隊神社)

谷田部海軍航空隊神社(航空隊内の航空神社)を戦後に移築したもの。もともと基地内に鎮座していた神社を戦後の焼却を恐れて谷田部八坂神社境内に遷宮。旧基地エリアの再開発が落ち着いたのちに現在地に地区の守護神として鎮座した。

往時の名残を残す神社。
かつての海軍航空隊の守護神は、現在は谷田部集落の守護神となっていた。

心静かに拝する。
感謝と哀悼の念とともに。

防火水槽

また、谷田部神社の近くに航空基地なごりの防火水槽が残っていた。

谷田部海軍航空隊散策はざっと1時間半、2.5キロほどの所要でした。 残されたものは少なかったけど、なかなかに意義のある散策ができたかな、と。


続いて、谷田部海軍航空隊跡より三キロほど北西の(赤星印)に鎮座する鹿島神社に向かいます。

水田に水が張られ始め稲作の始まりを感じるなかに鎮守様が鎮座しておりました。
そこはなんの変哲もない神社のようですが…

土浦海軍航空隊神社の大鳥居(移設)
(つくば市小白硲鎮座の鹿島神社)

常総リビング記事

http://www.joyoliving.co.jp/sp/htg/data00021.htm

>旧海軍の土浦海軍航空隊内(阿見町青宿)にあった土浦航空隊神社の大鳥居が、つくば市小白硲の鹿島神社の鳥居として利用されている。

とのことで参拝しに参りました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社

阿見から谷田部近くまで戦後のドサクサに紛れて誰がどうしてここに運んだかはわからないというが、この神社の大鳥居は「土浦海軍航空隊神社」のものであったという。
鳥居には昭和17年7月建立の銘あり。

神社としても個性的で興味深いお社でした。
御社殿脇のご神木の根本には大日如来が佇んでおり、境内地には神仏習合なんのそので石碑が立ち並んでおり。
地域鎮守として佳き気配に溢れておりました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社。
社頭には「つくばの水田」が拡がる。
「あぁ、あそこに鎮座しているな」と遠くからでもわかる鎮守の杜。
清々しい気持ちの中で筑波の台地をノンビリと散策する贅沢なひととき。
海軍関連史跡と神社と。 まさにフィールドワークの醍醐味でもあった。

寄り道しつつ、つくばエキスプレス「みどりの駅」に到着。
行程はこんな感じでした。

谷田部車庫スタート~みどりの駅ゴール

距離、約8キロ 所要時間 約3時間  徒歩

走水水源地と覚栄寺裏山貯水池

平成31年3月

桜の季節に開放される「横須賀走水水源地」
タイミングが合わせられましたので行ってきました。

覚栄寺裏山の明治28年築造の旧海軍貯水池

横須賀水道

横須賀における水道施設は海軍とともにあった。
横須賀海軍工廠が発展するにつれて水不足となったために造船所首長ヴェルニーの手によって明治7年(1876)から9年にかけて最初の水道「走水水道」が完成。

海軍専用の水道として軍事拡張とともに水道も拡張。
大正7年(1918)に中津川を水源とした「半原水道」が通水。
「走水水道」は海軍から横須賀市に無償関与され横須賀市上下水道の水源となった。


走水水源地煉瓦造貯水池

横須賀軍港水道走水水源地の第一期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。登録有形民俗文化財。明治35年(1902年)造。内部空間を構成する扁平ヴォールトが,入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ,屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵,堀池好之助らが担当。

登録有形民俗文化財 走水水源地
明治三十五年一月竣工

走水水源地

走水一帯は昔から地下水の豊富なところとして知られていた。
横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)の建設に貢献したフランス人技師ヴェルニーが明治7年に、この走水水源地から横須賀造船所までの7キロの水道工事に着手。明治9年12月に完成。明治34年から35年にかけて水道を拡張し(上記の煉瓦造貯水池はそこの拡張時のもの)。

横須賀水道発祥の地
桜の季節に走水水源地が開放されます。

横須賀市水道局の「走水水源地」が桜の季節に敷地開放されますので、行ってみました。

境界石

1Z東京湾要塞第壹地帯標
陸軍省
桜の季節だけ拝見できる境界石。
左端の柱が前述の「境界石」

ポンプ室がいつからのものかは不詳。


走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池

走水水源地の第2期拡張工事で建設された上屋付き浄水池。
内部は鉄筋コンクリート造の5連馬蹄形ヴォールトで構成され,外壁には石で縁取りされた丸窓を一列に配す。
設計は海軍技師伊藤誠吉とされる。日本最初期の鉄筋コンクリート建造物のひとつ。
1908年(明治41年)築造


 横須賀軍港水道 浄水池
明治41年9月竣工

ヴェルニーの水

走水の湧き水を利用した水。


走水水源地の煉瓦造貯水池の近くに。

明治以来の当時のものかどうかは不詳。


東に歩いていく。
破崎緑地の展望デッキから、走水水源地を遠望。桜のピンクがやんわりと広がる空間。


本水山覚栄寺(浄土宗)

永正10年の開山。裏山の湧き水は水源地になっていますので行ってきましょう。


覚栄寺裏山貯水池(帝国海軍)

明治28年築造。覚栄寺の墓地を登っていくと、帝國海軍が築造した「かまぼこ型の貯水池」が残されている。

隙間から覗いてみました。
今も水が流れ込み貯水されておりました。
海軍用地。海軍の貯水池。
寛栄寺の裏山

覚栄寺裏山貯水池(横須賀市営水道)

明治28年につくられた海軍の貯水池の近くに横須賀市が明治41年(1908)に築造した貯水池。

表は煉瓦造の貯水池
隙間から内部を覗いてみました。
こちらも今でも水が流れ込んでおり、水音が聞こえます。
明治四十一年六月竣成
後ろは半円のレンガ&コンクリートが2つ。

裏山を降りて下から、さきほどの貯水池を眺めてみました。

寛栄寺の「滝井戸」

本堂の裏手に。こんこんと湧き出る井戸。

裏山はいまでも湧き水が豊富だと実感できる空間。

文化財に指定されていない2つの貯水池。できることなら保全をきちんと進めてほしいものではございますが・・・。

世田谷に眠る海軍軍人(永野修身・小澤治三郎・堀悌吉)

平成30年5月撮影

世田谷の寺院に眠る海軍軍人の墓詣でをしていることに気がついたので、以下に記録しておきたいと思います。

  • 浄真寺 永野修身 元帥海軍大将
  • 豪徳寺 堀悌吉 海軍中将
  • 大吉寺 小澤治三郎 海軍中将

永野修身 墓

浄真寺・永野家之墓

永野修身 元帥海軍大将

海兵28期次席。
連合艦隊司令長官・海軍大臣・軍令部総長の海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。
昭和22年1月5日、A級戦犯容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。享年66。 墓は浄真寺と高知筆山墓地。昭和53年に法務死として靖國神社に合祀。

九品仏浄真寺

東京都世田谷区奥沢
浄土宗
もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城の地。 小田原征伐後に同城は廃城。 延宝6年(1678)同地に浄真寺が開山。 3つの阿弥陀堂に九品の仏(九体阿弥陀・九品往生・九品仏)が安置されている。


堀悌吉 墓

豪徳寺・堀家之墓

堀悌吉 海軍中将

海兵32期主席。山本五十六の同期。
昭和5年ロンドン海軍軍縮会議で調印に尽力(条約派)。条約反対派(艦隊派)による大角人事で予備役。その後は日本飛行機や浦賀船渠の社長などを歴任。
昭和34年5月12日死去、享年76。(碑は77)
墓所は豪徳寺と郷里大分杵築。

豪徳寺

東京都世田谷区豪徳寺
曹洞宗 一説には招き猫発祥の地ともされる。
中世の武蔵吉良氏が居館とした一帯。境内は小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったという。文明12年(1480)創建。
寛永10年(1633)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍藍を創建し整備。


小澤治三郎 墓

大吉寺・小澤治三郎墓

小澤治三郎 海軍中将

海兵37期。同期は井上成美。
最後の連合艦隊司令長官。開戦時は南遣艦隊司令長官(英東洋艦隊と対峙) 次いで第三艦隊司令長官(マリアナ沖海戦/レイテ沖海戦)軍令部次長を歴任。
昭和41年11月9日病死。享年80。
墓所は世田谷大吉寺と郷里宮崎にある。

大吉寺

世田谷区世田谷 浄土宗 創建年代は不詳。世田谷吉良氏の祈願所であったという。 小田原北条氏と共に世田谷吉良氏も滅亡し寺勢は衰退。

四月十八日に山本五十六を偲ぶ

平成31年4月18日

山本五十六の墓を。 四月十八日は山本五十六の命日 。。。

【海軍甲事件】

1943年(昭和18年)4月18日。 前線視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がブーゲンビル島上空にて米軍戦闘機に撃墜。 山本五十六が戦死した事件。


【山本五十六】

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …

現在の水交社本部ビルの地は 「東京メソニックビル」

余談ですが、水交社とは明治9年に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体。終戦とともに水交社は解散し水交社本部ビルはフリーメイソンによって占拠される。昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

山本五十六は郷里長岡にも分骨されています。

写真は長岡の生誕の地。復元された生家。


平成14年7月撮影。

平成11年8年に長岡市長興寺の墓前に詣でておりましたが、写真はどこかのHDDにいってしまいました。 添付写真は私の旧サイトから転載。(かなり荒い) 山本家の墓なので「山本帯刀」もこちらに眠る。

長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) ※訪問が昔過ぎて写真は無し…

霞ヶ浦空・予科練の地にも、山本五十六はゆかりがあります。

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与するとなった


写真は土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。
平成28年4月撮影。

本棚から。

阿川弘之著「山本五十六」「山本元帥!阿川大尉が参りました」

戦後の日本人として、はじめて山本五十六搭乗機に接した阿川弘之氏。
(昭和41年にブーゲンビル訪島)

「山本五十六長官搭乗の一式陸上攻撃機にもし心あらば、今、二十三年七ヵ月ぶりに日本人に見(まみ)えたはずであった」
(山本元帥!阿川大尉が参りました-私のソロモン紀行-) 

元帥山本五十六海軍大将の伝記を残された阿川先生…阿川弘之海軍大尉による渾身の鎮魂紀行…
4月18日、節目の日に。

旧海軍の内火艇?

月島橋近くに桟橋状態で係留されている船がある。

どうもこの船が「旧帝国海軍の内火艇」と、まことしやかに伝承されている。真偽の程は不明であれど、ちょっと撮影してみました。

ネットに転がる噂話によると、月島橋の係留船は「比叡に搭載されていた内火艇」ともいわれている。


内火艇

内火艇」とは内燃機関を搭載したモーターボート。日本海軍の小型艇。
「艦首が反り上がらずに真っ直ぐ」になっていて、「甲板後方が下がっている」のが「内火艇」の特徴という。


旧海軍の内火艇?(月島橋)

見てみましょう。

後甲板に対するなだらかな勾配が内火艇の特徴という。

艦首は反り上がらずに真っ直ぐしているのも内火艇の特徴という。
確かに特徴通り。

※平成31年4月撮影


参考:長官艇(15メートル内火艇)

大和ミュージアムにて奇跡的に撮影していたので比較用に掲載しておきます。
(我ながら、よく撮っていたものです)

確かに艦首はまっすぐで、後甲板は低いです。
月島橋の船も同じ形してますね。似てます。

二・二六事件と海軍

平成29年2月投稿

突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います。
知っての通り、二・二六事件といえば陸軍の青年将校が起こした事件であり陸軍の話はいくらでもあり、わざわざ海軍に着目する理由は… 私は海軍好きというだけの話です。(いちおう水交会会員ですし、、、

きちんと本筋立ててガチガチには内容をまとめてないので、ちょっと話が散らかりますがお付き合いくださいませ。

たぶん察しの良い方はわかると思いますが「横鎮」メインになりそうです、、、

二・二六事件発生時の海軍

海軍省
大臣 大角岑生大将
次官 長谷川清中将
軍務局長 豊田副武中将

軍令部
総長 伏見宮博恭王
次長 嶋田繁太郎中将
第一部長 近藤信竹少将

横須賀鎮守府
長官 米内光政中将
参謀長 井上成美少将

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
 高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕 」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官

横須賀警備戦隊
「木曽」艦長 岡新大佐
第三駆逐隊(汐風・島風・灘風・夕風)
横須賀陸戦隊 指揮官 佐藤正太郎大佐


昭和4年(1929年)10月

ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は各国に波及し混乱を極めた。
日本においては、昭和6年満州事変、昭和7年第一次上海事変以来、日本の大陸進出とともに海外情勢も悪化。

昭和7年(1932年)5月

五・一五事件が発生。(海軍青年将校が内閣総理大臣犬養毅を殺害)
これは昭和5年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」を起因とした海軍青年将校の暴発。

ロンドン海軍軍縮条約

いわゆる対米6割に抑えられた軍縮条約。
海軍内部で条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と条約に反対する「艦隊派」(軍令部側)という対立構造が発生。後に統帥権干犯問題に波及。
さらには昭和8年の「大角人事」を招く。

大角人事

大角岑生海軍大臣による条約派追放人事。
艦隊派の加藤寛治軍令部部長がロンドン海軍軍縮条約の締結に憤り昭和5年に軍令部長を辞表。谷口尚真(条約派)をへて艦隊派の伏見宮博恭王が軍令部長に就任したことから海軍省と軍令部の歯車が狂い始める。
もともと伏見宮博恭王が軍令部長に就任したのは昭和6年末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任した事から、バランスを取るための人事でもあったが、のちに人事を担当する海軍省及び大角海軍大臣の首を締めることにもなり。軍令部を辞表した加藤寛治は伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物として昭和8年頃から大角大臣へ条約派に対する人事圧力を断行。山梨勝之進大将・谷口尚真大将・左近司政三中将・堀悌吉中将などのロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍省要人が相次いで予備役に。

φ(..)メモ
予備役っていうのは一言で言えば「首」です。退役軍人ですね。

海軍省と軍令部の違い。
海軍省は内閣に従属。軍政・人事を担当。 軍令部は天皇に直属。天皇の統帥を輔翼し海軍全体の作戦指揮を統括担当。 軍令部は政治と人事には口出ししては駄(

とにもかくにも伏見宮博恭王は軍令部の権限を強化。
軍令部総長となり海軍省を圧倒。
海軍の対立縮図も多少は二・二六事件にも影響かな。

みんな大好き対立図式
陸軍 皇道派(二・二六事件) vs 統制派
海軍 艦隊派(五・一五事件) vs 条約派

ちなみに二・二六事件の際に陸軍皇道派に襲われた総理大臣・岡田啓介海軍大将は条約派。
というか、海軍の穏健派はロンドン条約締結賛成派。
で、前述の大角人事で艦隊派(強硬派)に左遷させられたわけで。 大角自身は事なかれ主義な人物。

海軍の艦隊派と皇道派は通じるものがあったようで。
ちょっと話題を先走ります。
それこそ二・二六事件に際しては、事件発生の朝に海軍の伏見宮軍令部総長と加藤寛治海軍大将、そして陸軍の真崎甚三郎大将が打ち合わせを行ってます。このメンツが濃すぎるんです。
陸軍の真崎甚三郎といえば皇道派の首領。事件の青年将校たちに「お前たちの気持ちはよく分かる」云々発言で有名。
で、伏見宮と加藤と真崎の三人で朝方に協議を行った後で宮中へ参内。伏見宮は昭和天皇に拝謁したが、天皇はご立腹で伏見宮は不興を買う、と。

横須賀鎮守府

話は横須賀へ。

昭和10年8月1日。
比叡艦長であった井上成美に横須賀鎮守府付(参謀長内定)人事が発令。
この時の横須賀鎮守府長官は末次信正大将。
その三ヶ月半後、昭和10年11月15日に井上成美は少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任する。

その後、末次は12月1日付で軍事参議官に転出。

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。 のちのちまで語られる「米内・井上コンビ」のはじまりの時であった。

井上が横鎮参謀長として赴任した同じ月(昭和10年8月12日)に陸軍皇道派と統制派の対立は激化。 皇道派の相沢三郎中佐中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を刺殺する事件(相沢事件・永田事件)が勃発。

永田鉄山 諏訪護国神社

海軍に五・一五事件で遅れを取ったと感じる陸軍過激派の暴発を苦慮した井上参謀長は緊迫する状況を鑑み、横須賀鎮守府での即応戦力準備に取り掛かる。

まずは特別陸戦隊一個大隊を編成。そして警備艦「那珂」艦長に「昼夜雨雪関わらずに芝浦へ急航する為の研究」を命令。

※補足
当初は、「那珂」艦長に芝浦急航の研究を命じていたが、二・二六事件が発生した際は予定していた軽巡「那珂」は九州方面で活動をしていたため、実際に横須賀から芝浦に出動したのは軽巡「木曽」。

昭和11年2月26日

早朝。横須賀では珍しく積雪となった朝。
井上参謀長へ副官より第一報が到来。
「陸軍は大変なことをやりました。」
「一部は総理官邸を襲って…」
実は海軍は東京に兵力を持っておらず、横鎮の責任において在京守備をするしかない状況…

かねてより陸軍の暴発を危惧していた井上参謀長は横須賀鎮守府より矢継ぎ早に用意の手を打つ。

・砲術参謀を東京へ自動車で急派
・横須賀砲術学校より即応体制の掌砲兵20人を海軍省急派
・緊急呼集
・特別陸戦隊用意
・軽巡木曽急速出港準備
・麾下各部自衛警戒

どうやら、 総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、 大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕が襲われ殺害された、と情報が入り始める。
(実際は岡田総理と牧野伸顕は助かり、鈴木貫太郎は重傷で一命をとりとめる)

襲われた六人の重臣のうち3名が海軍出身の重鎮(岡田・斎藤・鈴木)であったことから海軍将兵の憤りは尋常ではなく、命令下り次第陸軍と一戦を交える気構えに、いやがおうにも包まれていく。

午前9時ごろ。
長官官舎にいた米内光政長官より井上参謀長に電話入電。
「おれもそろそろ出て行った方がいいか?」
※横須賀へは朝帰り説もありますが、まあ米内提督は強運の持ち主だったということで。

※写真は2004年撮影(盛岡八幡宮境内・米内光政銅像

いかにも米内光政長官といった堂々たる(のんびりした)態度に感じ入りながらも井上成美参謀長は返答。
「差し当たっての打つ手は皆打ってありますが、国の大事ですから、やはり鎮守府に来ておられた方がよろしいでしょう」
こうして間もなく米内長官も鎮守府へ出勤。

混乱した各方面の首脳は永田町一帯を占拠した部隊をなんと呼称するかで迷っている様子もみられ。「蹶起部隊」という呼称も出てくる中で
井上は「海軍はあくまで逆賊として対処する」と。
米内も「あれは叛乱軍だよ」と参謀長と同意見。

米内は井上に言う。
「陸軍が宮城を占領したらどうしようか」
井上は即座に返答。
「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(御召艦)においで願いましょう。そのあと、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを行っても海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく軍艦に乗っていただければ、もうしめたものだ。」
米内
「そうか、貴様、そう考えているのか。ようし、俺も腹が決まった」
横鎮では米内長官、井上参謀長以下各員は鎮守府に籠城・厳戒体制。

同じ2月26日午前9時ごろ。
すでに準備を終え特別陸戦隊を乗せた軽巡「木曽」がまさに出港しようとしていたときに、軍令部から「待った」の声がかかる。
「警備派兵は手続きがいる。横鎮が勝手に軍艦を出すのはいかん。手続きがすむまで待て」

万全の体制で準備をしてきた横鎮に対しての軍令部の横槍に井上は憤る。
「横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのに、何を軍令部が文句を言うのか」と。
(この横槍は軍令部次長嶋田繁太郎中将あたりから出てきたものかどうか…。)

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

事件当日の海軍中央部の動きは、陸軍に気を使ってのことか芳しくない。

大角海軍大臣は事なかれ主義。
伏見宮軍令部総長は皇道派の真崎大将と打ち合わせをしていたり、陛下に叱責されたり。

で、軍令部は肝心の軍隊を動かす「手続」にことのほか手間どっていた。

2月26日の海軍主力。
ちょうどこのとき連合艦隊は土佐沖で演習中であった。

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
  高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官(加藤友三郎元帥の養子)

軍令部としての手続き。
軍令部総長が天皇の允裁を受けて統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならなかった。そのため陸戦隊が海軍省に到達できたのは26日午後遅くとなってしまい、兼ねてより準備を進めていた井上参謀長としては不本意な結果となってしまった。

26日午後。
土佐宿毛湾沖で演習中の連合艦隊第一艦隊(旗艦長門)を東京湾へ派遣。 第二艦隊(旗艦愛宕)を大阪湾へ。
横須賀警備戦隊の木曽・第三駆逐隊・特別陸戦隊を東京に派遣。
午後になって、ようやく方針が固まった。

井上によって編成され軍令部指示で増強された派兵部隊。
軽巡木曽と第三駆逐隊(峯風型駆逐艦の島風・灘風・夕風)に乗って芝浦に急行した横須賀鎮守府特別陸戦隊四個大隊(約2000名)は井上と同期の佐藤正四郎大佐(砲術学校教官)によって率いられ芝浦から東京へ。

海軍艦艇主力の動向。
26日12時30分。
連合艦隊は演習しつつ宿毛湾に入港。

26日15時頃。
「両舷直整列」「急速出港準備ヲナセ」

26日17時。
長門以下連合艦隊は宿毛湾を出港。
長門以下第一艦隊は東京湾へ。
愛宕以下第二艦隊は大阪湾へ。

襲われた岡田啓介と鈴木貫太郎は、かつて連合艦隊旗艦「長門」艦上で連合艦隊司令長官として艦隊の指揮をとった海軍の重鎮。
(岡田は第15代司令長官、鈴木は第16代司令長官)

海軍としては断固たる決意で陸軍の蹶起に反対する意気込みが連合艦隊内にみちていた。

27日16時。
急航した連合艦隊旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻が芝浦沖に集結。第一艦隊では艦隊での陸戦隊を編成し上陸展開。陸戦隊で鎮定できないときは国会議事堂を艦砲射撃で破壊する案まで展開され反乱軍にいつでも砲撃できる体制を整えた。

一方で、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊は大阪湾へ。 第二艦隊は艦隊の多数を大阪の沖合に留め、旗艦「愛宕」のみを大阪港内に進入させて警戒に務めた。 これは(特に東京の叛乱軍と連動していない)大阪の陸軍(第四師団)を刺激しない配慮もあったようだ。

中央の様子

さて、中央の様子をちょっとだけ。

殺害されたとの噂も流れていた岡田啓介首相。
実は岡田首相は難を逃れ官邸の女中部屋に潜んでいた。
官邸に残った秘書官の福田耕秘書官は救出の策を練り、こっそり逃げ出した秘書官の迫水久常は宮中に岡田生存の報告へ。

秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
「陸戦隊を出して欲しい」
しかし、大角は(事なかれ主義の大角としては当たり前だが)
「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」
と反対。

大角海軍大臣はとにかく「事なかれ主義」。


二・二六事件対応では横鎮井上参謀がとにかく強硬派。
面白いことに海軍内では、いわゆる強硬派(艦隊派)が今回の事件に関しては対陸軍慎重派が多く、逆に普段は慎重派(条約派)な面々が対陸軍では強硬派だったり。

迫水大角対談。
迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と不甲斐なく…。

海軍大臣の協力を得られなかった迫水は最終的には東京憲兵隊の小坂慶助曹長らの尽力を得て岡田首相の救出に成功する。(憲兵さんの良きエピソードですが詳細割愛)
官邸では首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が岡田首相の身代わり(勘違い?)となり殺害されていた。

初動で海軍も部隊を展開したらあとは叛乱軍と陸軍中枢との折衝が中心となり、海軍の出番はもう終わりだったり。
鈴木貫太郎のお話とかもここでは省略します。
陸軍中枢の動きと迷走や石原莞爾とかもここでは深く触れないことにする。


後日談

こうしていろいろあって(はしょりすぎ)


昭和11年3月9日。
二・二六事件により岡田啓介内閣は総辞職。広田弘毅内閣が成立。
広田内閣の一番の失策は「軍部大臣現役武官制」を復活させたこと。 これにより、この先々は陸軍の横暴に苦しめられることになる…

岡田啓介

岡田は政界の表舞台からは身をひき裏方へ。そして8年後の昭和19年。もう一度殺される覚悟でもって東条内閣打倒に尽力。終戦に向けての最後の舞台へと米内を押し出す原動力ともなる。こうして岡田の尽力で既に現役を引退していた米内は現役に復し最後の海軍大臣へ、と

大角岑生

大角岑生海軍大臣の後任は永野修身。(永野は海軍大臣ののちに連合艦隊長官。) 海軍大臣退官後の大角は軍事参議官。現役大将序列は伏見宮に次ぐ立場であったが、ぱっとせず。伏見宮軍令部総長の後任に、大角と永野の名が挙がるも、昭和16年2月に大角は飛行機事故で死去。

井上成美

昭和11年11月。 井上成美は二・二六事件ののちに横鎮参謀長から軍令部出仕兼海軍省出仕へ。 翌昭和12年10月に海軍省軍務局長に。 その時の海軍大臣は米内光政。海軍次官は山本五十六。 ここに「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」が誕生した。

米内光政

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)

しかし米内光政は連合艦隊司令長官としての職を果たす間もなく着任わずか2ヶ月後の昭和12年2月に林内閣海軍大臣として中央に戻されることとなる。 連合艦隊司令長官の米内後任は永野修身(海軍大臣)。永野事情による海軍大臣と聯合艦隊長官の入れ替えだった、とか。

海に出た米内であったが僅か2ヶ月で中央に戻され、海軍大臣、さらには首相として本人は不本意な政治を行い、それが日本の要になるとは皮肉なものであった。そんな海軍省には次官として山本五十六がいた。(山本五十六は事件当時は海軍航空本部長で口出しする立場に無し)

いずれにせよ二・二六事件以降の動きは、また別の機会に。(あるのか?) 米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長のいわゆる「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」は、次の「日独伊三国軍事同盟」に向けての政局混乱に動き出すわけです。

鈴木貫太郎

参考文献

参考文献は手の届く間近の本棚から慌てて取り出した本を中心に。 (そこまでガッツリ書こうと思っていなかったので資料にかたよりアリ。本箱に埋もれて今回活用できなかった本も多数、残念)

「井上成美」伝記刊行会の題字は、本人の直筆筆跡。


関連

「千島」と「畝傍」(青山霊園)

平成30年8月撮影 青山霊園・畝傍の森

水雷砲艦「千島」慰霊碑

この地に水雷砲艦「千島」の砲身と砲弾が慰霊碑として祀られている。
「千島艦事件」
明治25年4月にフランスにて竣工し11月に長崎に到着。瀬戸内海を航行中の11月30日に愛媛県沖で英国商船ラベンナ号と衝突し沈没。乗員90人のうち救助されたのは日本人士官2官下士官13人と仏人1人だけであったという。

水雷砲艦「千島」慰霊碑
その隣には区画の由来となった「畝傍」慰霊碑もある。

青山霊園「畝傍の森」

巡洋艦「畝傍」慰霊碑

(明治21年12月に水交会にて建立)

巡洋艦畝傍は明治19年10月にフランスにて竣工 回航担当として日本人7人と75人のフランス人によって日本に向けて航行。
シンガポールを12月3日に出港するも、そこで消息を絶ち行方不明となった。

畝傍は仏国に建造を依頼した最初の日本海軍軍艦であったが回航途中の明治19年に消息不明。
その畝傍に次いで仏国にて建造された水雷砲艦千島も回航中の明治25年に瀬戸内海で英国商船と衝突し沈没してしまう。

そんな仏国出身の軍艦2艦を慰霊する区画が青山霊園に残っていた。