「陸軍」カテゴリーアーカイブ

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「櫛挽工場」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「深谷工場」(原郷工場)

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。

https://senseki-kikou.net/?p=13059


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の南西部に位置する「櫛挽工場」跡地を散策してみる。


櫛挽地区(櫛引地区)へ

立地場所は公共交通機関ではかなりアクセスのしにくい場所。
北東の深谷駅からではなく南を走る秩父鉄道を利用して近くに向かうことにする。

ちなみに櫛挽(櫛引)で、「くしひき」と読む。

「次はオマエダ」
これが見たかった、とも。

秩父鉄道「小前田駅」から歩く。
約6キロの距離を約1時間20分ほどかけて歩く。

二造深谷製造所櫛挽工場跡地散策

「櫛挽ヶ原」と呼ばれていた深谷市櫛挽地区(櫛引地区)は、周辺集落の入会地・秣場的林地として使用されており、野水が停滞する農地には向かない土地であった。
戦後に開拓地として平地林が広がる原野を開墾し、排水の便を整備。赤城おろしの北風が吹き下ろす土地であったため、防風林とする林を残しながらの開拓が行われた。

開拓前の櫛挽地区は平地林が広がっており、そんな中に、「二造深谷製造所櫛挽工場」が展開された。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M105-A-5-106
1946年04月15日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

「櫛挽ヶ原」を拡大。
戦後の開拓が始まっており、「櫛挽工場」の区画も、いまいちはっきりしない。なんとなく平地林であったことはわかるが。

GoogleMap航空写真。
櫛挽ヶ原の名残を防風林に残しつつ、開拓された様子がわかる。
ピンを立てた場所が唯一残る「櫛挽工場」名残の廃屋。

1時間以上歩いて、流石に歩くのに飽きてきた頃、畑の真ん中に唐突にコンクリートの建物が見えてきた。
「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場」の弾薬庫跡とされる建物。

2階建コンクリート。屋根も扉もなく、風雨にさらされている。

農地に忽然と現れたコンクリート建造物。

建物の周辺にもコンクリートの基礎が残っている。

鉄筋。

1階部分。覗いてみましょう。

思ったよりもきれいな空間。

階段があります。2階に登ってみましょう。

踊り場に生えた緑。
コンクリートに根を生やした草木。

二階部分。

一階に通じる穴。

屋根はない。
空が近いような気がする。

踊り場

そびえ立つコンクリート。

ちょっと離れたところにある基礎。
高射砲台座?か。

ちなみに晴天時・乾燥時は心配ないが、雨天後の湿っている時などは、周辺が牛糞系肥料のぬかるみで大変なことになっているそうです。幸い、私が訪れた時は乾燥してましたが、この茶色い土のエリア=肥料のぬかるみ、となるそうです。

場所

https://goo.gl/maps/sCQKogFwFFX3LCxy8

さて、駅に向かいましょう。

行きは秩父鉄道・小前田駅から6キロ80分を歩いてきました。
ちょうど電車の接続がよかったので、帰りは4キロほどを歩いて八高線用土駅まで向かいました。
ちなみに、改めて記載するが、周辺に駅は、無い、、、

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場弾薬庫跡
アクセス方法(駅起点)

  • JR八高線 用土駅 約4キロ
  • 秩父鉄道 永田駅 約5キロ
  • 秩父鉄道 小前田駅 約6キロ
  • JR高崎線 深谷駅 約7キロ

あくまで、公共交通機関を軸にした場合ですが、秩父鉄道も八高線も本数がかなり少ないので接続が悪い場合は、深谷駅から往復アクセスするのが時間的にも無駄がないかもしれません。
深谷駅であればレンタサイクルを活用するという手段もあります。
(私は歩いてしまいましたが・・・)

八高線・用土駅。

八高線。キハ110。

行程記録。
小前田駅から約6キロを約1時間20分。
用土駅へ約4キロを約50分、でした。
まあ、良い運動です。

※202008撮影


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ

関連

深谷の隣町、熊谷

深谷関係

「弾薬庫から女子大へ」大塚弾薬庫跡散策

東京都文京区大塚。
JR大塚駅は本来の「大塚」からは遠い。丸ノ内線の新大塚駅から茗荷谷駅にかけて、そして有楽町線の護国寺駅から東にかけてのエリア。
具体的には「お茶の水女子大学」「跡見学園女子大学」のある周辺を散策してみた。「女子大の周辺を散策」という表現はいささか語弊を招きそうなので、「女子大に昔あった弾薬庫の周辺を散策」と言い直してみる。

2022年3月現在、一部の遺構の消失を確認しました

大塚陸軍弾薬庫

江戸時代は、譜代大名であった磐城平藩安藤家下屋敷。
安藤家10代安藤信正は、老中首座として公武合体を進め、水戸浪士ら尊王攘夷派に襲撃された「坂下門外の変」で知られている。

明治期には安藤家下屋敷はそのまま陸軍用地となっている。

  • 明治13年(1880) 陸軍病馬厩分廠が設置
  • 明治23年(1890) 大塚陸軍弾薬庫が設置
  • 明治41年(1908) 東京陸軍兵器支廠大塚弾薬庫に改称
  • 昭和3年(1928) 大塚弾薬庫が板橋陸軍兵器廠(東京第二陸軍造兵廠)内に移転
  • 昭和7年(1932) 東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 跡見学園が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 東方文化学院東京研究所(東京大学東洋文化研究所)が建設
  • 昭和15年(1940) 東京高等師範学校附属中学校(筑波大附属中高)が当地に移転

明治期は陸軍用地であったが、昭和3年以降この地は文教地区として再開発されそのまま現在に至っている。


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」を参照。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.717689&lng=139.732136&zoom=17&dataset=tokyo50&age=9&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

1/25000「東京西部」
昭和4年二修・昭和6.6.30発行

「大塚兵器庫」の敷地が広がっている。

1/25000「東京西部」
昭和20年部修・昭和22.7.30発行

兵器庫跡地は南北に分断。
北部を「お茶の水女子大学」が使用。兵器庫を東西に横断する道路も新設されている。

現在の様子。
北部をお茶の水女子大学、南東部を跡見女子大学、南西部を筑波大付属高校などが利用。

国土地理院・地理院地図(電子国土Web)

https://maps.gsi.go.jp/#17/35.718116/139.731771/&base=pale&ls=pale%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塚火薬庫のあたり=お茶の水女子大学がちょうど良い大地になっているのがわかる。

googleMapに「大塚火薬庫」の推定位置を描いてみた。
見どころポイントは「北部」と「北西部」。

下記が当日のロガー。
護国寺駅を起点に一周してみましたが、北部と北西部以外は、再開発などで当時の面影を感じることはできませんでした。


大塚弾薬庫跡地(北西部)

現在の「お茶の水女子大学西門」付近。
弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁がほんの僅かに残っている。

訪れたのが年の瀬のタイミング。門松がバリケードを作っているかのようで。

別の季節に。。。(2022年12月)

境界壁

境界石(境界標石)の消失を確認しました(2024年1月)

陸軍境界石もありました。文字は摩耗してもう読めません・・・

こちらも境界石ですね。

消失確認後の写真(2024年1月)

切り取られました。。。

塗り固められました

陸軍時代の境界壁が残る。

お茶の水女子大学新学生宿舎が建築されるそうで。この古い壁はどうなってしまうのかな。。。


大塚弾薬庫跡地(北部)

お茶の水女子大学の北門、のあたりにも古い壁が残っていました。
こちらも弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁、ですね。
亀裂なども発生しており、もしかしたら再開発されるかもしれない雰囲気。

2022年3月 北部の境界壁の消失を確認しました

このあたりの門柱は当時からのものか?

こちらは、欠けておりますが陸軍境界石、ですね。

ここにもお茶の水女子大学新学生宿舎建築のお知らせが貼ってありました。

北側の角で、壁は強引に分断されて新しい柵が取り付けられていました。

2022年3月、壁が改修されました。遺構消失、です。


大塚弾薬庫跡地(東部)

北側から春日通り側を、Googleストリートビューにて。
新しい建物の脇の細い道を進んでいくと、陸軍時代の壁を見ることができます。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7202333,139.732885,3a,75y,206.79h,103.39t/data=!3m6!1e1!3m4!1sOt0aOy0ezgPq78yxW4utpA!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

春日通り側は新しい柵と新しい建物、ですね。春日通り側の再開発は一段落したようです。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7197044,139.7336597,3a,75y,244.25h,90.59t/data=!3m6!1e1!3m4!1s6Ovz9bAhLxdhhYXwroLj5Q!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

お茶の水女子大学の正門


大塚弾薬庫跡地(南東部)

そのまま南下しますと「新大塚公園」に到着。
この公園は当時の弾薬庫の敷地内。東側にある「跡見女子大学」も西側にある「筑波大付属中学・高校」も弾薬庫の敷地内。


新大塚公園の南側にある建物。

東方文化学院東京研究所
(拓殖大学国際教育会館)

1933年(昭和8年)竣工。内田祥三設計。
大塚陸軍弾薬庫が移転後の建設。内田祥三は東大の安田講堂をはじめとした東大構内を再建し「内田ゴシック」で著名。
鉄筋コンクリート造の和風表現。
義和団の乱の賠償金により東方文化学院東京研究所(現:東京大学東洋文化研究所)として建設された建物。
第二次世界大戦後は外務省の外務省研修所も入居、東京大学と外務省が共同で管理運営。1967年に東京大学東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスに移転。その後、外務省研修所として使用されていたが、外務省研修所も1995年に移転となったために、近隣にキャンパスがあった拓殖大学が建物保存を条件に払い下げを受けた。


大塚弾薬庫跡地(南西部)

弾薬庫の南西部。現在、「鼠坂」と呼ばれている坂道というか石段。
弾薬庫時代の地図でも、この場所は変わらずに道が掲載されている。


大塚弾薬庫跡地(西部)

弾薬庫を東西に横断する道は、弾薬庫移転後に造られた道。
高台にあった弾薬庫跡地を削って道路を新設したことがわかりますね。

弾薬庫のあった台地を削って新設された道路。

こちらは弾薬庫の西側。結構な段差が今も残っている。この高台の上に弾薬庫があった。


「大塚弾薬庫」の西側、音羽通りに古い建物が残っている。
散策ついでに、あわせて掲載。

講談社本館(大日本雄辯會講談社)

1933年(昭和8年)竣工。前述の「東方文化学院東京研究所」と同じ時期の建設。
設計は曽禰中條建築事務所。曽禰達蔵と中條精一郎の共同設計。


一昔前は、もうすこし見どころがあったらしいが、徐々に当時の面影が失われているようで。今も残る北部と北西部の弾薬庫時代の境界壁もいつまで残るものか。。。
特に2019年に発生した「お茶の水女子大学附属中学校への不審者侵入事件」以来、いろいろと変わりつつあるようです。


近くには、池袋や護國寺がある。

越谷陸軍飛行場跡地の戦跡散策

埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれているシラコバト。埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても近年では馴染みが深い。
そんなシラコバトの名前を冠した施設「しらこばと水上公園」。当時、この地域は陸軍の飛行場であった。
そんな「しらこばと水上公園」周辺を散策してみようと思う。


越谷飛行場

埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた飛行場。

通称「越谷陸軍飛行場」。地元では「新和飛行場」「荻島飛行場」「論田飛行場」とも呼称。
昭和19年7月、建設開始。急造での工事が行われ、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦。

戦後、連合軍が進駐。この地域に生息していたシラコバトの多くが乱獲され絶滅にひんした、ともいわれている。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R393-167
昭和22年(1947年)10月23日に米軍撮影。越谷飛行場空撮。

上記を一部拡大。
滑走路・誘導路・排水路区画などがわかる。

現在の様子をgoogle航空写真にて。
今でも、当時の区画を辿ることが可能。


滑走路跡コンクリート
(滑走路で作った記念碑)

越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の地に、東岩槻駅近くの稲荷神社に越谷飛行場で使用された滑走路のコンクリートが転用されていた。

戦後、貴重であったコンクリート。不要となった飛行場で使用されていたコンクリートをはるばる6キロ以上先の地まで運搬。そこには、農地を開拓して見事に完成した証の記念碑を作りたいという熱意が感じられる。

稲荷神社
鎮座:さいたま市岩槻区南平野1-33-5

昭和22年に農地開拓事業完成の記念碑建立のために「新和飛行場」より碑石を運搬して作成した旨が記録されている。

碑文・裏
岡崎大沢両氏ハ昭和二十二年村民一同ニ推シ代表ニ就任スルヤ部落厚生福祉ノタメ本事業ニ着眼シ工事ノ設計工築ヲ担当シ自己ヲ忘レ一意専心事業完成ニ努力ヲセラレ其目的ヲ達成セリ
茲ニ記念碑建設ニ当リ碑石ハ新和飛行場ヨリ運搬使用セル一片ヲ残シ両氏ノ設計耕作ニヨリ碑ノ完成ヲ見タリ
洵ニ両氏ノ業績大ナリ其偉徳ヲ感激シ謝恩ノ一端ヲ抜瀝センガタメ碑ニ刻シ後年ニ傳ヘ讃ヘントス村民一同

https://goo.gl/maps/HbcrzAcYjYatfER99


しらこばと水上公園

埼玉県営都市公園。昭和54年(1979)開園。海無し県埼玉にとっては貴重な海。

https://goo.gl/maps/S7w5nQv2FjjarffF7

以下、散策してみましょう。

しらこばと水上公園まっすぐ南に伸びる道路は、当時の滑走路跡となっている。交通量は多く、近隣には工事業者も多く大型車の往来も多い。


滑走路跡


第一排水路

滑走路跡の道路から、ひとつ西となりの農道に移動。
建物のあるあたりが、当時の滑走路。

そして「第一排水路」。

そこからさらに農地を西に進む。


第二排水路・暗渠排水路(西)

水田の間にある排水路。
多孔型の蓋がされている暗渠となっている。
これは、滑走路に向かう飛行機が排水溝を渡れるように蓋をし、雨水を排水溝に落とすための工夫。
現在も排水路として機能している。

建物の場所が滑走路方面。

ときどき、大きな穴が空いていて要注意。かなり深いらしい。

砂利が多く混じっている。

ぼーっと歩いていると落ちる。落ちたら危険。

コメントを戴きました。

暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM


建物基礎跡

格納庫のあったエリア。なんらかの施設の基礎と推定。赤丸の建物。青丸は橋。

飛行場の境目の用水は今も昔も変わらず。

https://goo.gl/maps/XD8H3BZAjc2zPsfKA

水田に囲まれている。

階段もある。

格納庫はあっても飛行機はなかったようで。。。

コメントを戴きました。

飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

石橋

石橋も古さを感じる。ただ主要な出入り口ではない農地エリアから飛行場エリアに、安易に橋を架けるのは飛行場側としては警備上のデメリットしかうまれないため、この橋は戦後の農地開拓時に架橋された可能性も高い。掲載している昭和22年の航空写真ではすでに橋が確認できるため、遅くともその頃には架橋されたものと判断できる。

コメントを戴きました。

格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用したらしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

コメントを戴いた、ひろゆき様のお祖父様は石橋の近くに住んでいたとのことで。
飛行場の外側にあった民家にも兵隊さんが訪ねてきたそうです。

食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

また、ひろゆき様のお父様から聞いたエピソードも頂戴しました。

ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

鉄塔基礎跡(1つ目)

前述のなんらかの建物基礎は、もしかしたら変電系の施設だったかもしれない。建物基礎跡を挟んで前後には鉄塔基礎跡と思われるものが一直線に並んでいた。下図の左上は現在の東京電力の施設。公共系の施設は今も昔も同様の使われ方をしているので、当時でも左上の建物は電力系と判断することができる。

コメントを戴きました。

飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

赤丸は鉄塔基礎跡。青丸は現在の鉄塔。
星印は前述の建物基礎跡。

まずは格納庫エリアより南東に残る鉄塔の基礎跡。滑走路に一番近い鉄塔基礎跡。

そんなに大きなものではない。

下部は水田に張られた水で徐々に削られているようだ。


鉄塔基礎跡(2つ目)

こちらは格納庫エリアの北西にある鉄塔基礎跡。水田の中にきれいに残っている。

後ろには現在の鉄塔の姿も見える。


誘導路跡

滑走路に戻る。このあたりが、滑走路の南端。

この南端からは曲線を描いたターニングサークル・誘導路跡の道路が今も残っている。


第二排水路・暗渠排水路(西)

暗渠となった排水路は東側にも一部残っている。

当時の排水路と新しい排水路が合流。新しい排水路は暗渠化されておらず開渠型。

東の排水路は、あたしい排水路と交差する箇所も多く、改良も多いようです。

また西側は水田主体でしたが、東側は畑が多いようです。

畑が多いと土砂も多いため、暗渠の摩耗も進んでしまうような雰囲気。

南側は排水路そのものが、飛行場当時のものを改め新しい開渠型に更新されておりました。

このあたりは排水路・用水路が多い。水っぽい土地。

コメントを戴きました。

この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

兵舎跡

飛行場の南東には兵舎があった。

区画は当時も今も変わらない。

さらに拡大してみる。

まわりの住宅とまったく異なる方向を向いている建物。飛行場時代の兵舎と同じ場所で同じ向きに建っている建物。

そこには、時代に取り残された空間が残っていました。

このまま北越谷駅まで歩いていきました。

しらこばと水上公園バス停から北越谷駅まで約8キロの散策でした。


関連

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

磯部浅一墓(二・二六事件)

南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。

磯部浅一

明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。

昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。

昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)

二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。

昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。

辞世の句
 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ

磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。

磯部浅一墓

磯部浅一 之墓
妻登美子 

浅一  昭和十二年八月十九日歿
    行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
    行年二十八歳

歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌

以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。

豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)

小塚原刑場

観臓記念碑

解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。

境内には歴史上の著名人の墓も多い。

橋本左内墓(橋本景岳墓)

吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)

頼三樹三郎墓(鴨崖墓)

鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓

意外なところでは、

カール・ゴッチ墓

プロレスの神様

Never lie , never cheat , never quit. 
技術と精神は常に一緒だ 
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな

ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。


関連

陸軍航空本廠寄居出張所の跡地散策

かつて東武東上線男衾駅から、軍用線が西に伸びていた。
東武線から分岐した軍用線の先にあったのが「陸軍航空本廠寄居出張所」であった。


陸軍航空本廠寄居出張所
(鉢形航空廠・鉢形兵器廠)

埼玉県大里郡寄居町大字三ケ山にある「三ケ山緑地公園」を中心とした三ケ山地区に「陸軍航空本廠寄居出張所」があった。
昭和16年に「航空本廠寄居出張所」として開設。
昭和17年に「立川陸軍航空廠寄居出張所」、昭和19年に「東京陸軍航空補給廠寄居出張所」と改称。

ふじみ野市にあった「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」で製造された航空機用弾薬は上福岡駅から東武東上線の貨物輸送を通じて、当地に運ばれた。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R465-No1-26
昭和22年(1947年)11月03日-米軍撮影

拡大して一部加工。

男衾駅と「陸軍航空本廠寄居出張所」の位置関係。
「三ケ山」と言われるだけあって、山に囲まれた立地。
弾薬を保管するに適した場所でもあった。

更に拡大。

遺構としては、「軍用線コンクリート橋」と「工員宿舎」「倉庫」が残されている。


男衾駅

男衾は「おぶすま」と読む。中世鎌倉期の男衾三郎絵詞でも著名。
東武東上線の男衾駅は大正14年開業。
平成28年(2016)に駅舎を改築。残っていた軍用線ホーム跡は消失した。

左側に軍用線の専用線路があった。

砂利道が軍用線の名残。

全然関係ないけど、古い自販機を発見。


軍用線専用コンクリート橋梁

山口製作所と民家の間を流れる塩沢川支流にかかるコンクリート橋。工場と民家に挟まれているために近づくことは不可能。
陸軍航空本廠寄居出張所専用線として残る数少ない遺構。

男衾駅からは徒歩30分ぐらいの場所。

https://goo.gl/maps/kpva6MYSgxYQGyAM6


正門跡

前述のコンクリート橋梁と平行する道路橋。この先のあった陸軍航空本廠寄居出張所の正門はこのあたりにあったという。

陸軍航空本廠寄居出張所から鉢形男衾方面を見る。


陸軍航空本廠寄居出張所の工員宿舎?

2024年2月、解体を確認しました

工員宿舎と見られる木造家屋。現役で使用されている。
正門からすぐ東のエリアには工員宿舎があったという。

※解体を確認


陸軍航空本廠寄居出張所の特殊弾倉庫1

三ヶ山会館、三ヶ山神社の奥にある廃倉庫。
2024年に再訪。

内部


陸軍航空本廠寄居出張所の防火水槽

特殊弾倉庫の周辺には、弾薬庫の万が一に備え、防火水槽が配置されており、いくつかが残っている。

防火水槽1

防火水槽2

防火水槽3

防火水槽4

ちなみに時代が下った戦後の建屋の基礎跡もある。ちょっと紛らわしい。


陸軍航空本廠寄居出張所の特殊弾倉庫2

2024年2月現在、立入禁止となっております

三ヶ山会館の奥の竹林の中に残されたコンクリート倉庫の廃墟。
特殊弾倉庫1よりさらに西に道なりにすすんだ私有地となっており、2024年現在は、ロープが張られて立ち入りができないようになっている。

下記の写真を左に行くと倉庫1、真っ直ぐ行った竹林の左手に倉庫2となっている。

私が以前(2020年)に訪れた時は特に立入禁止には、なっていなかった。
しかし、2024年に再訪した時は、立ち入り禁止になっていました。

竹林に残る倉庫跡

陸軍航空本廠寄居出張所跡

現在は、埼玉県環境整備センター、三ケ山緑地公園、三ケ山体育館などが整備されており、往時を偲ぶべきものは残っていない雰囲気。

三ケ山


鉢形駅

「陸軍航空本廠寄居出張所」は通称「鉢形航空廠(鉢形兵器廠)」とも呼称されている。
貨物線は男衾駅から分岐されていたが、直線距離では実は鉢形駅のほうが近い。ゆえに帰りは楽をして鉢形駅へ。ちなみに寄居駅は鉢形駅の先、荒川を渡らないといけない。

ちなみに、男衾駅からコンクリート橋までは徒歩30分ぐらい。コンクリート橋から鉢形駅までは徒歩20分くらい。

ちょうど東武8000系の昭和40年代リバイバルカラーと遭遇したので、寄居駅にて撮影してみたり。

※2020年8月及び2024年2月


関連

東京第一陸軍造兵廠川越製造所跡地散策(上福岡)

埼玉県ふじみ野市。最寄り駅は東武東上線上福岡駅。
上福岡駅から東の方向に、当時は陸軍の工場(軍需工場)があった。
「陸軍造兵廠福岡工場」、のちの「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の名残を探してみる。

上福岡駅前で、レンタサイクル(シェアサイクル)を借りる。自転車が使えるとだいぶ行動範囲が広がるから、有益に活用を。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門

東京第一陸軍造兵廠川越製造所
(東一造川越)

東京第一陸軍造兵廠は、軍需工場として陸軍が展開した陸軍造兵廠のひとつ。略称は「一造」(東一造とも)

昭和4年に、福岡村の武蔵野台地を「火工廠用地」にすることを決定。この地は明治年代(明治8~9年頃)に「陸軍火薬庫」が設置される予定で買収された土地があった(実際には設置されずに明治40年に払い下げ)という実績と、新河岸川の水運、十条の陸軍造兵廠東京工廠本部から車で1時間、鉄道(東武東上線)の地殻ということも選定理由であったという。
用地買収がすすみ、昭和11年に建設工事が開始され、昭和12年12月25日に開場式が行われた。
当初は東京第一陸軍造兵廠第三製造所の所管であったが、敷地面積は開業時の2倍と拡大し、昭和17年には第三製造所から独立し「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」となった。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所での生産
第一工場:起爆剤・雷管製造
第二工場:信管・筒尾
第三工場:機関砲弾丸・信号弾・焼夷弾・曳光弾・曳煙弾
また、風船爆弾に用いられた電気雷管・導火索・爆缶・信管なども川越製作所で作られたという。

川越製作所で作られた完成品はトラックや鉄道によって造兵廠本部の十条や滝野川、赤羽の東京陸軍補給廠(東補)などに運ばれたという。また航空弾薬に関しては寄居にあった「陸軍航空本廠寄居出張所」まで東上線貨車を利用して直接輸送された。

昭和19年11月21日には第二工場580号家の航空機用20ミリ機関砲・弾薬筒・焼夷剤(火薬)填実作業室で爆発が起き9名死亡(うち1人は川越中学校生徒)という大事故が発生している。

年代ともに改称されている名称を記載。
 昭和11年09月 陸軍造兵廠東京工廠福岡派出所
 昭和12年11月 陸軍造兵廠東京工廠火具製造所福岡工場
 昭和15年04月 東京第一陸軍造兵廠第三製造所福岡工場
 昭和17年08月 東京第一陸軍造兵廠川越製造所

本来は「造兵廠」であるが、地元では「火工廠」とも呼称。
また、「火具製造所」「第三製造所」「川越製造所」とも。年代ごとの呼称で別れており、本記事でも同じ場所の話をしていても呼称が散らかってしまうかもしれないことを明記しておきます。

以下は余談。
明治38年の「砲兵工廠東京砲兵工廠」が大正12年に「陸軍造兵廠火工廠」となり、昭和11年に「陸軍造兵廠東京工廠(十条)」と「火工廠(板橋)」に別れ、昭和15年に「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R524-No1-14
1947年11月08日-米軍撮影

上記航空写真を一部加工。

現在の様子をGoogle航空写真。
当時の区画が綺麗にわかる。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M636-A-No1-64
1947年11月08日-米軍撮影
一部加工

「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の北東には「浅野カーリット埼玉工場」があった。浅野カーリット埼玉工場では「陶器型手榴弾」を製造していた。

浅野カーリット埼玉工場の記事は下記を参照で。


現在の状況

東京第一陸軍造兵廠川越製造所(東一造川越)の跡地の様子。
福岡中央公園、ふじみ野市役所、ふじみ野市上福岡浄水場、ふじみ野市立福岡中学校、ふじみ野市立上福岡図書館、ふじみ野市立上野台小学校、イオンタウンふじみ野、新日本無線川越製作所、日本無線川越事業所、大日本印刷上福岡工場、コンフォール上野台(上野台団地)など、となっている。

福岡中央公園

ふじみ野市役所

イオンタウンふじみ野

新日本無線株式会社川越製作所

新日本無線株式会社川越製作所

日本無線株式会社川越事業所

日本無線硝子株式会社

大日本印刷株式会社上福岡工場

上福岡浄水場


軍用道路

国鉄川越線が昭和15年に開通したことにより、東京第一陸軍造兵廠本部の「十条」と鉄道貨物の輸送が可能になったということもあり、南古谷駅から東京第一陸軍造兵廠川越製造所乾門にかけての約2キロを昭和16年4月に直線道路を軍用道路として整備。
これにより、東上線上福岡駅から東京第一陸軍造兵廠川越製造所を経て国鉄南古谷駅までの直線的な軍用道路が完成した。

南古谷駅に通じる軍用道路の名残。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の乾門付近(現在の大日本印刷川越株式会社上福岡工場正門付近)


東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門跡

東京第一陸軍造兵廠川越製造所の官舎通用門(官舎門)は、工場敷地の北東に位置している。

官舎は、造兵廠の敷地内(北東)と敷地外(南)の2ヶ所にあり、工場構内は、甲号官設官舎2棟であったという。この工場構内の官舎には、工場長と医務室軍医が入居していたという。

現在、門の向こうは大日本印刷株式会社上福岡工場の敷地となっている。

https://goo.gl/maps/4eL4bL8frpMmjuFF9


東京第一陸軍造兵廠川越製造所の境界壁

敷地の北部を中心に工廠時代の境界壁が現役で使用されている。

このあたりに「東門」があったという。壁の向かいの緑フェンスの先は新河岸川。東門跡は壁の雰囲気が変わっているあたりかもしれない。
新河岸川には荷揚門と排水口があったという。


造兵廠川越製造所引込線用地の陸軍標石

造兵廠の南門付近から東武鉄道に向けて敷設予定であった引込線は完成せず。境界石のみが残る。

https://goo.gl/maps/kxDzFJrGDHdwZuPj9

陸軍用地
四七


造兵廠川越製造所南端の陸軍標石

「東一造川越」の南に残っている境界石。現在は「桜通り」という道路。向かいは、福岡中央公園の東端にあたる。

電信柱と民家の間で少々窮屈。

https://goo.gl/maps/44PrjdDkfFWCy4Cx6

(表)陸軍用地
(裏)四六九

昭和17年に工場規模が拡大された後の境界を示している。


造兵廠川越製造所正門の陸軍標石

現在の上福岡公民館の敷地内に残されている境界石。

(表)陸軍用地
(裏)六

(表)
紀元二千六百年記念
植桜樹 貳百本
(裏)
帝國在郷軍人會
東京第一陸軍造兵廠福岡分會
昭和十五年十二月建之


ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館

ここには、「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」に関連する展示や貴重な資料があるので、是非とも足を運ぶことをおすすめ。

「石灯籠」も東京第一陸軍造兵廠川越製造所に関連するものという。

造兵廠川越製造所の陸軍標石
(上福岡歴史民俗資料館所蔵)

(表)陸軍用地
(裏)三四

「承役地標石」と「防火水槽の口縁部分」と「陸軍標石」
いずれも「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」に関連する展示物。

(表)陸軍用地
(裏)一三

造兵廠川越製造所の承役地境界石
(上福岡歴史民俗資料館所蔵)

実は「承役地」境界石というものを、初めてみました。
敷地外で、陸軍が地役権を設定していた土地があったのですね。

承役地(しょうえきち)
 「承役地」の標石は、もとの所在場所については不明ですが、陸軍造兵廠の用地に関連する貴重な資料の一つです。
 「承役地」とは、地役権(自分の土地を使いやすくするため、他人の土地を利用できる権利)が設定されている場合、利用される側の土地をいいます。
 昭和12年2月に地元の農家と造兵廠との間で、敷地の外にあった農家の土地を、造兵廠が利用できる「承役地」として地役権を設定したという記録があります。残念ながら目的や範囲など、詳しいことはわかりませんが、承役地にも、工場の拡大とともに敷地の一部になっていきました。

ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館資料

陸軍造兵廠川越製造所
(通称「火工廠」)

 上福岡の中央にあたる地域、上野台団地から上野台小学校、福岡中学校や大日本印刷までの敷地には、昭和12(1937)年から太平洋戦争の終戦の昭和20年まで陸軍造兵廠川越製造所と呼ばれた陸軍の弾薬工場がありました。
 当初は「火工廠」と呼ばれ、東京十条にあった陸軍工廠本部の施設拡張のために移転先として福岡村が選ばれ、昭和4年から5年にかけて用地買収が進められました。そのときの面積は約7万6千坪(約25万1千平方メートル)でした。
 建設工事は昭和11年11月に開始され、翌年12月に開場式を迎えました。操業開始後も規模は拡大され、終戦時までには約16万5千坪(約55万平方メートル)になりました。建物の総数は大小合わせて最大で600棟以上、働いていた人たちも含めて最大で数千人にも及んだと言われています。
操業開始によって、多くの人々が福岡村に徒歩・自転車、そしてえ東武東上線で通勤していました。また「官舎」「営団」「徴用工舎」と呼ばれる従業員専用の住宅・宿舎も周辺に建てられ、昭和初期には2千人だった福岡村の人口は終戦時には7千人を超えていました。

造兵廠の施設
造兵廠は、下の4つの区域に分かれていました。
第1工場
一番北側にあたる区域で、火薬や雷管を製造していた雷汞爆粉乾燥室・雷管填実室・黄燐填実室・窒化鉛製造室など。爆発事故が起こる危険性が高い施設が集中しています。
そのために事故発生時に外の建物への延焼/誘爆を避けるためにこれらの建物の周囲には高いコンクリート製の堀や土塁が設けられました。
第2工場
造兵廠中央部で、最も広い面積を占めています。この区域には高さ27mの給水塔の他に、高いコンクリート堀で囲まれた多くの弾薬填実室(火薬を手動プレス機で詰める作業を行う建物)や土塁に囲まれた倉庫があり、第1工場同様に爆発事故の危険性が高かった区域です。
第3工場
一番南の区域で、コンクリート塀で囲まれた各種組立工場、倉庫が建てられていました。20ミリ機関砲弾・12.7ミリ機関銃弾・照明弾・信号弾などの組立工程を行っていたので、危険度は第1・第2工場に比べて低く、従業員も最も多かったとされています。
工場内管理・厚生施設
造兵廠の事務・管理を担当していた部署の施設で、道路に面した正門・乾門付近に建てられていた庶公務事務所、会計事務所、消防夫事務所、会食所(食堂)、共栄会売店、医務室、青年訓練所などがありました。

東京第一陸軍造兵廠川越製造所
 昭和12(1937)年から昭和20(1945)年まで、大日本印刷・市役所・上野台小学校・上野台団地・福岡中学校のあたりには、戦争でつかう鉄砲の弾や爆弾の部品などをつくる「造兵廠(火工廠)」という工場がありました。
 工場の面積は55万平方メートル(東京ドームの約12個分)と広く、多い時で8000人ほど働いていました。戦争がひどくなると、中学生・高校生ぐらいの子ども達も工場で働きました。

前述した「浅野カーリット埼玉工場」とも連動する陶製手榴弾

陶製手榴弾(瀬戸産)

陶製地雷

号家札(262号家:分配室)
日本無線株式会社内にて収集

比例コンパス
ピンセット(火薬をあつかう)


造兵廠官舎の陸軍用地標石(陸軍標石)
官舎公園

造兵廠の南側に建設された宿舎。
「官舎」と呼称されていたが、正式名称は「福岡第一宿舎」。
昭和17年に、2軒長屋(平屋)が60軒ほど建設されていたという。
当時、官舎があった場所は、現在は「官舎公園」と呼ばれ、ひっそりと「陸軍用地」陸軍標石が残されていた。

https://goo.gl/maps/zKzn7DnRsXNTBnzx5

(表)陸軍用地
(裏)七


本記事の参考文献

3点とも「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」にて入手。非常に有益な資料。

旧陸軍の施設
-特に造兵廠の福岡工場(川越製造所)を中心に-
 上福岡市歴史民俗資料館(平成4年)

市史調査報告書第15集
旧陸軍造兵廠 福岡工場(川越製造所)
 上福岡市教育委員会(平成10年)

第22回特別展
東京第一陸軍造兵廠の軌跡
 ~埼玉と東京を中心に~
 ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館(平成19年)

https://www.city.fujimino.saitama.jp/soshikiichiran/kamifukuokarekishiminzokushiryokan/gakugeikakari/2550.html

https://www.city.fujimino.saitama.jp/soshikiichiran/kamifukuokarekishiminzokushiryokan/gakugeikakari/1172.html

旧陸軍造兵廠展示解説リーフレット ふじみ野市教育委員会
陸軍造兵廠川越製造所(通称「火工廠」)

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyo4-1.pdf

造兵廠の施設

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyou3.pdf

造兵廠で製造されていたもの

https://www.city.fujimino.saitama.jp/material/files/group/46/kakousyoA4-2.pdf


東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その3(十条編)

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは北部の十条地区を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や南部の「滝野川・王子地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。

東京第一陸軍造兵廠第一製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)の赤レンガ倉庫

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)
赤丸が本記事の対象エリア。


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(北区中央図書館)

大正8年(1919)竣工の赤レンガ倉庫(275号棟)を北区中央図書館として2008年より再活用。


工廠神社跡地

「北区中央図書館」の北側は「いなりプレーパーク」
かつて「東京第一陸軍造兵廠の工廠神社」、「十条の四本木稲荷神社」が鎮座していた場所。

詳細は別記事にて


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(十条駐屯地)

十条駐屯地内の開放された広場に、モニュメントとして残された変圧所の煉瓦が残されておりました。

 この煉瓦は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年この地に建設された東京砲兵工廠銃砲製造所に使用されたものの一部を保存したものです。

十条駐屯地の赤煉瓦造建築物
 現在の十条駐屯地の敷地は、約116,000㎡(約35,000坪)ですが、この地域一帯を明治38年(1905)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃砲製造所を建設した当時は、約330,000㎡(約100,000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第2次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした、当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和34年(1959)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の中小の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成5年(1993)から遂次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物
 このモニュメントは、大正7年(1918)変圧所として建設された「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン軒高が5.85mであり、屋根は4寸5部後輩のスレート葺き(昭和40年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性の高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。


ちんちん山のトンネル跡
(東京陸軍第一造兵廠軍用鉄道)

中央図書館から東に赴いたところにある「北区ちんちん山児童公園」。この公園にモニュメントとして、東京陸軍第一造兵廠の軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)のトンネル跡が残されている。

三つ丸の上に丸が重なったシンボルマークは、「一造」を管轄していた「東京砲兵工廠」のマーク。

産業考古学探索路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。
「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時のこの地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。

ちんちん山のトンネル
 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。
 この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。
 かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。
 このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう一つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

十条駐屯地

現在の十条駐屯地の正門は、「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の裏門跡にあたる。

十条駐屯地内で取り壊した「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の煉瓦倉庫の煉瓦を再利用して正門と壁を作成。

十条駐屯地

陸上自衛隊 補給統制本部
海上自衛隊 補給本部
航空自衛隊 補給本部
航空自衛隊 第二補給処十条支処
北関東防衛局 装備部

北区十条富士見中学校

十条駐屯地と北区十条富士見中学校の壁は「東京第一陸軍造兵廠(一造)」ゆかりの煉瓦を使用した煉瓦壁で整っている。
レンガストリートの様相。

このベンチの壁の仕上げ材の一部には、平成21年度に、旧十条中学校の校舎を解体した時に出土したレンガを使用しています。

レンガ造のモルタル塗り。最近補強されたようだ。

煉瓦(れんが)塀の由来
十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃砲製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行われていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場施設で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。
本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所の西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。

埼京線から見えるコンクリウートの壁。これが実は陸軍時代のレンガ壁だったのだ。

このあとは板橋方面の「東京第二陸軍造兵廠(二造)」に向かったが、それはまた改めて掲載予定。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その2(滝野川・王子編)

※撮影は2016年~2020年

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは南側の「滝野川・王子地区」を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や北部の「十条地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。


東京第一陸軍造兵廠本部(北区中央公園文化センター)

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の陸軍用地標石(陸軍標石)

西巣鴨駅からスタートして十条方面に北上。
滝野川方面を目指す。
少し歩けば、見逃しがちな脚下に標石が3つありました。
陸軍用地標石。(陸軍標石)

公務員第二宿舎のあった場所にそった通り沿い。

公務員第二宿舎は廃止され、現在は「滝野川三丁目公園」として整備されました。

弊サイトの写真を案内看板に提供しました。

半世紀以上も前の戦争時代の境界石が、こうして未だに道端に残っている不思議さ。ここが陸軍の土地であったことを感じさせる歴史遺産。
身近に戦争の歴史を感じるものが、こうして脚下に残っている。

このあたりが、「東京第一陸軍造兵廠滝野川工場」別名を滝野川雷汞所(らいこうじょ)とされたエリア。

https://goo.gl/maps/ao3iM3XWTJ7pBvRv5


四本木稲荷神社

このまま道なりに北上をしていくと「四本木稲荷神社」に到着。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の工廠神社。
別記事にて。


憲兵詰所遺構?

突き当たりを左に向かい石神井川を渡ると、周囲とは異色の古びたコンクリの建物が民家の目の前にドンッと鎮座している。
真偽は不明だが、このコンクリートの建屋は「憲兵詰所」遺構とされている。
ここだけがどうして残っているのかは謎だが、今となっては残ってくれたのはありがたい。

ちょうど、十条の東京第一陸軍造兵廠と、滝野川の分工場を結ぶ道沿いにあたるため、この界隈で憲兵が詰めていてもおかしくない位置関係。

https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d809.4920018137907!2d139.7268281292461!3d35.751591098761104!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x6018939c4274f387%3A0xe65e608c9c169a03!2z5oay5YW144Gu6Kmw5omA!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1599875682650!5m2!1sja!2sjp


東京第一陸軍造兵廠本部
(北区中央公園文化センター)

憲兵詰所の北側には「北区中央公園」
木々の合間から、歴史を感じさせる良い雰囲気の建物が見えてくる。

「北区中央公園」(東京都北区十条台)
現在は「北区中央公園文化センター」
戦前は「東京第一陸軍造兵廠本部」であった建屋は昭和5年( 1930年)の建設。
元は茶色であったが戦後の米軍接収時代に白色に塗装という。

休館日でした。。。

周辺にあった台座。往時のものか?どうか。。。

裏手へ。 中央屋上へあがる階段が、なかなか美しい。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
 明治38年(1905)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
 ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製耐震煙突の銘板で、十条の自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
平成27年3月 東京都北区教育委員会

東京芝浦製作所
明治38年9月竣工

ボイラー展示の隣の半円状の建物内に古墳時代の横穴式石室が空間丸ごと移築保存されているのは、なかなかのカオス。

赤羽台第3号古墳石室

皇后陛下行啓記念

皇后陛下行啓記念
東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄 謹書

杉浦辰雄中将(陸士25期)
昭和12年(1937)に、東京工廠火具製造所長
昭和14年(1939)に、東京工廠長
昭和15年(1940)に、東京第一陸軍造兵廠長 
そのまま終戦を迎える。 

【消失】
東京第一陸軍造兵廠の陸軍用地標石(陸軍標石)

都営王子アパートの道に陸軍用地標石(陸軍標石)がありました。
都営王子アパートがなくなるとともに消失してしまったようです。。。

以下はGoogleストリートビューにて。
2018年5月には「標石」を確認することができます。

そして2019年5月。無くなりました。。。。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その1(四本木稲荷神社)

東京都北区は軍都であった。

赤羽には「工兵隊」(近衛工兵大隊・第1師団第一工兵大隊)、
西が丘には「兵器補給廠」と「射撃場」、
そして南の十条及び滝野川には「造兵廠」(東京第一陸軍造兵廠・東一造)、
があった。

今回は東京第一陸軍造兵廠(東一造)の工廠神社を中心に。
その他の東京第一陸軍造兵廠関連記事はまた別途で。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。東昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)

東京第一陸軍造兵廠の北東に「十条の四本木稲荷神社」が鎮座。
そして南には「滝野川の四本木稲荷神社」が鎮座。

戦後に「北の四本木稲荷神社」は廃止。
鳥居などの建造物が「南の四本木稲荷神社」に移されて、今日に至る。

GoogleMapにて

北の四本木稲荷神社は、稲荷公園と呼ばれていたが、再開発により「北区中央公園」(旧稲荷公園)となっている。

「滝野川の四本木稲荷神社」の場所

「十条の四本木稲荷神社」があった場所
旧稲荷公園、現在は「北区中央公園いなりプレーパーク」


四本木稲荷神社境内地図

当社境内の旧陸軍関連の遺跡
よもとぎ稲荷を守る会

四本木稲荷神社御由緒

神道大教四本木稲荷神社
 当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の」御分霊、並びに「四本木、世基衹(よもとぎ)大神」です。昭和29年6月に宗教法人登記をされており、敷地は国有地です。
 「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当地周辺が明治38年に陸軍の雷汞場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠滝野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
 一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種類の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷神社分社の四本木稲荷(しほんぎいなり)が古くからありました。明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造、後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内神社)となりました。この時、分社の御霊は王子稲荷神社境内に移されたものの、四本木の名称と祠は残されたようです。
 その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により敷地の北東角付近(現・稲荷公園の場所)に移転されました。当社敷地内にある多数の鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」「火具製造所」「信管工場」「圧延工場」「銃砲製造所」「精器工場」等の文字は、その部門名です。毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執ち行われていました。(高木助一郎日記より)
 当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長先導となって十條構内四本木稲荷神社から神霊遷しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條・滝野川)2つの四本木稲荷が有ったことになります。
 戦後、両社は陸軍の管轄を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、十条の四本木稲荷が廃せられることになり、社殿、鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢、狛犬等が梶田譲園氏により当社へ移転されました。滝野川は神道大教を祀る神社となり、四本木の四を世、本を基、木を衹と移し変え、四本木の名称を冠して世基衹大神を祀られていくことになりました。
 平成8年に新たに柵が設けられ、令和元年に当社の包括団体である宗教法人神道大教の本局により運営されることとなりました。
 なお、南東の古びた小祠は、現在の正殿、拝殿が移転される以前より有ったとされ、北東の朱色の小祠は、王子警察署裏の位置にあり廃社されるのをここへ移転されたと言われてます。
 よもとぎ稲荷を守る会


四本木稲荷神社

境内には北に鎮座していた「十条の四本木稲荷神社」から移されたものが多数残されている。陸軍造兵廠(一造)ゆかりの戦跡。

石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和12年4月建立

狛狐(東京第一陸軍造兵廠奉納)

お狐様
昭和10年4月建之 信管工場一同

石灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正6年4月建之 火具製造所一同

石灯籠
昭和10年2月 精器工場関係者一同

手水鉢(東京第一陸軍造兵廠奉納)

手水鉢は境内に2つある。

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

石鳥居

御社殿

鉄製天水桶(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和10年4月吉日 
 圧延工場従業員一同

忠魂碑(東京第一陸軍造兵廠奉納)

忠魂碑
大正6年4月建之
 火具製造所一同

碑は圧磨機圧輪を断裂して本体と台座に転用したものという。

境内社石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正7年3月建之

南東の小祠は、現在の御社殿が鎮座する前からの祠という。

境内社灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正9年12月 精器工場外関係者一同

南の鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正13年2月 陸軍造兵廠火工廠

北東の境内社は、かつては王子警察署の裏手に鎮座していたが、廃社されることとなったために遷座という。


旧稲荷公園(十条の四本木稲荷神社跡)

かつての稲荷公園は「北区中央公園いなりプレーパーク」として再整備。
東京第一陸軍造兵廠275号棟(北区中央図書館)の北側。

公園内には慰霊碑が残されていた。

殉職慰霊碑

殉職慰霊碑
 陸軍造兵廠東京工廠長 杉本春吉 書

陸軍造兵廠東京工廠職員殉職者を祀る。

碑裏面の碑文等が全て消されていた・・・


関連

東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能して終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事

日本の航空事始め7・日本初の航空犠牲者「木村・徳田両中尉像」(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録。
本記事は、もともと別立てでしたが、改題して、「その7」として再編集しました。

「その1」はこちら。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオXIbis飛行機(フランス·1911)

日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に“アンリ·ファルマン機”と共に現地で購入した飛行機。
研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、滞空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こし墜落、搭乗していた木村、徳田両中尉は死亡、日本で初めての航空殉職者となった。

冒険好きの実業家ルイ·ブレリオ
1909(明治42)年7月25日、“ブレリオXI-bis”で英仏海峡初横断に成功したルイ·ブレリオは、当初自動車部品の製造販売を行っていた。彼は事業で得た財産で飛行機を作ることを考え、905年、最初のグライダーの製作をガブリエル·ボアザンに依頼した。その後彼は次々に単葉機を試作、自機で英仏海峡の初横断飛行に成功した。この名声により“ブレリオXI-bis”には100機の注文が寄せられ、航空事業を開始した。その後、彼の会社はドペルデュサン社と合併、第一次大戦の名機スパッドを世に送り出した。

英仏海峡横断機から発達した並列複座の単葉機
“陸軍ブレリオXI-2bis”は、ルイ·ブレリオが英仏海峡初横断に使った“フノリオXI-bis”から発達させ、一回り大きくして複座にした単葉機でーエンジンも高出力になっている。操縦装置はライト機を参考にしたたわみ翼式だが、方向舵と昇降舵が後方にまとめられている形は現代の飛行機に近い。着陸装置もスプリングを用いた緩衝装置を備えるなど、当時としては精巧な作りであった。

ブレリオ機

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・その1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

九一式戦闘機二型(所沢航空発祥記念館)

所沢航空公園にある「所沢航空発祥記念館」。
ここに日本の航空史上で貴重な機体が展示されているので脚を運んでみた。

九一式戦闘機(二型)

胴体部分の展示。再塗装や修復などは行わず、当時の材質などがわかるように自然体での展示が行われていた。

重要航空遺産
「九一式戦闘機」は航空の歴史を未来に伝える重要な航空遺産です
2008年3月28日
財団法人 日本航空協会

近代化産業遺産
平成20年度 経済産業省

未来に伝えよう!「航空遺産」
過去の技術の変遷や、それを支えた人々の生きた証を伝える「文化財」として、そのままの姿で展示し、未来に継承していきます。

展示されている機体について
 展示されている機体は「九一式戦闘機(二型)」といい、第2次世界大戦中に宮城県加美郡加美町に住む方が購入したものであり、垂直安定板や主翼支柱にある番号および銘板から「九一式戦闘機(二型)」、製造番号「第237号」、製造年月が「昭和8年1月」組立検査・飛行検査が「昭和8年2月」と判明しています。九一式戦闘機は試作段階にここ所沢でテスト飛行を行うなど、当地とも深いゆかりがあります。
 この胴体は、先の購入者が入手して以来、手を加えられずに現在に至っていることが分かっており、戦前の使用当時の状態を保っているわが国の代表的な航空遺産となります。また、長期間屋内に保管されていたため材質の劣化もあまり進行せず保存状態も良好です。一部腐食している箇所もありますが、展示場所の温湿度環境を常に記録監視すると共に、錆の状態についても定期的に状態を確認し、他の箇所についても板厚を計測するなどして、貴重な航空遺産を将来に遺すための処置を実施しています。

当時の状態をそのままに
 一見すると胴体の塗色も一部剥離し、木製羽布張りの垂直尾翼が破損するなど、なぜきれいに直さないのだろうと疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、あえて美しく直すことはせずに現状を維持したまま展示しています。なぜなら、当時塗られた塗色や書き込まれた製造番号を始め、この機体を制作し使用した人々が関った多くの痕跡がそのまま遺っているからです。技術資料としてだけでなく当時の人々の生きた証を未来に継承する貴重な文化財として、そのままの姿で展示しています。
 1930年代初期の航空機は海外でもオリジナルの状態で残っている例は少なく、特に日本では、戦前の航空機で当時の状態を良く保ったまま保存展示されている例は他にはほとんどありません。

九一式戦闘機とは
 九一式戦闘機は、中島飛行機が設計し1931(昭和6)年に旧日本陸軍に正式採用された最大速力が300km/hを超えるなど日本が欧米先進国の水準に近づいた初の国産戦闘機です。
 わが国の航空技術は、明治後期に諸外国の航空機の模倣から始まり、外国機をライセンス生産しながら生産のノウハウを学ぶと共に生産設備を整え、その後外国から招いた技師の指導のもとで設計・開発を進めることで、自立化を進めました。九一式戦闘機もフランスから招いた技師の指導のもとに設計が始められ、日本人技術者は、原型の設計だけでなく、その後の改良などを通じて、後に純国産機を生む基礎となる設計開発の主砲の多くを学びました。そのような経験を基にして、日本の航空機産業は一式戦闘機「隼」や「零戦」などの世界的水準の戦闘機を世に送り出し、航空に関する一切が禁止されていた戦後は蓄えた技術を自動車や鉄道を始めとする産業全般に広く普及させて、今日の繁栄の基礎を作りました。九一式戦闘機は、日本航空技術が海外の追従殻自立に移る転換期の設計・生産技術の状況を象徴してます。

九一式戦闘機の技術的特徴
 九一式戦闘機は、胴体はアルミニウム合金の金属製応力外皮構造、主翼は高張力鋼薄板の骨格に木製部品、羽布張りという木金混製羽布張り構造で、空力形態はパラソル型の高翼単葉です。
 航空機の構造と形態は、ライト兄弟の「フライヤー」号以来の木製骨格羽布張り構造・複葉形態から、1930年代後半に主流となり現在のジャンボジェット機にまで続くアルミニウム合金を使用した金属製応力外皮構造・低翼単葉形態に進化を遂げてきましたが、本機はその過渡期に試みられた構造・形態のひとつです。
 九一式戦闘機には一型と二型があり、展示機は二型です。一型は300機以上生産される一方で、2型は20機程度の生産に留まったといわれています。一型から二型への主な変更点は、エンジンを外国で設計、日本でライセンス生産したものから、中島飛行機が設計生産を行った国産のエンジンに換装したことです。

反射性の強いガラスのため、撮影は難儀。

垂直尾翼部分やエンジン取付部分などの様子がわかる。

91式戦闘機の脚部

九一式戦闘機模型

陸軍九一式戦闘機
1927(昭和2)年、陸軍は日本の航空機会社に対し国産戦闘機の開発を命じ、中島、三菱、川崎の3社が試作機を制作、翌年6月、所沢飛行場で審査が行われた。結果はいずれの機も不合格に終わったが、中島飛行機のNCパラソル型単葉機は、陸軍の指示によって引き続き研究改良が続けられ、1931(昭和6)年、“陸軍九一式戦闘機”として正式採用された。初めての国産制式戦闘機であるにも関わらず評価が高く、飛行第3連隊の進藤中尉による高度9,000mへの上昇、飛行第5連隊の立川~八丈島長距離洋上往復飛行、所沢飛行学校による日本一周飛行などの好成績を残し、1936(昭和11)年の陸軍大空中分列式には、指揮官の徳川好敏大佐みずから“九一戦”を操縦して先頭に立地、偵察機や爆撃機など一五〇機の大編隊を誘導した。昭和9年に九五式戦闘機が採用されるまで合計四五〇機が生産された。

その他

所沢航空発祥記念館内で旧軍に関係あるものを。

爆撃標準座席(九七式重爆撃機)

左から
一式戦闘機「隼」の主輪
九八式直協偵察機の尾輪
九一式戦闘機のプロペラ軸部

左から
モ式六型飛行機のプロペラ
乙式一型偵察機のプロペラ
甲式一型練習機のプロペラ

川崎ハ-40
三式戦闘機「飛燕」のエンジン
展示の都合、実際の取り付けとは上下逆に展示。。

所沢航空公園と所沢航空発祥記念館のそのほかに関しては別記事にて。

東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)

八王子市長房町地区。
多摩御陵の東側にかつて陸軍の学校があった。

「東京陸軍幼年学校」
学校の近くにある「東照寺」には、当時を偲ぶものがあるというので、脚を運んでみた。


東京陸軍幼年学校

陸軍のエリート養成学校。
前身は明治29年(1896)に設置された「東京陸軍地方幼年学校」。
東京陸軍地方幼年学校では13歳から16歳までの少年が入学し3年間の教育を受け卒業後は「中央幼年学校」に進学しさらに2年間の教育を受け士官候補生となった。

東京陸軍幼年学校
大正9年(1920)に陸軍幼年学校令が制定され、陸軍中央幼年学校本科を「陸軍士官学校予科」に、陸軍中央幼年学校予科を「東京陸軍幼年学校」に改称。
入校年齢は13歳から15歳までで3年間の教育を受けた。昭和12年以降の卒業生は「陸軍予科士官学校」に無試験で進学できた。
昭和19年に早稲田戸山から八王子長房町の「建武台」に移転。終戦に伴い廃止解散。
終戦時には第47期(180名)・第48期(333名)・第49期(362名)の生徒が在学していた。


位置関係

国土地理院航空写真:USA-R556-No1-174より。
1947年11月14日-米軍撮影。

一部加工。
終戦後の写真のため、東京陸軍幼年学校は空襲焼失後。

昭和20年8月2日の八王子空襲によって、東京陸軍幼年学校や多摩御陵前駅が空襲により消失している。

八王子空襲前の航空写真も掲載。
東京陸軍幼年学校の校舎の様子などがわかる。

国土地理院航空写真:94C7-C15-248を一部加工。
昭和19年(1944)12月21日-帝国陸軍撮影。


東幼観音

八王子市長房町に鎮座している「東照寺」。
東照寺の墓地の一角に「東幼観音」が鎮座していた。

東照寺の東側に、現在は長房団地が造成されているが、当時は「東京陸軍幼年学校(東幼校)」が展開されていた。

白玉の東幼観音
八王子空襲で散華した東京陸軍幼年学校の職員3名と生徒7名の計10名を慰霊する。

東幼観音

 この東照寺の東の台地にはかつて東京陸軍幼年学校があったが、昭和二十年八月二日の米軍空襲により大量三万発もの焼夷弾攻撃を受けて全焼した。同校は陸軍の禎榦となるべき将校を養成するために明治三十年東京市谷台に開校、戸山台時代を経て昭和十九年春八王子市西郊に移転していた。
 当時の在校生徒は約八百七十名で、消火に挺身して勇敢に任務を遂行、散華した職員と生徒が芳名碑の方々である。春秋に富み、大きな可能性を秘めた十名であった。この痛恨事を伝え、歳若くして戦死した御霊を末永く供養するため、当寺と地元関係者の御理解を得て、白玉の東幼観音を東方に向けて建立し、謹んで慰霊の誠を捧げる。
 昭和六十二年八月二日
 東京陸軍幼年学校旧職員生徒有志建立委員会
  松本筑放峯書


建武台之碑

東京陸軍幼年学校は市ヶ谷台から戸山台を経て昭和19年に当地「建武台」へと移動してきた。
昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により「建武台」と命名。
この碑はもともとは横山橋の南に建立されていたが、橋と道路の拡張に伴い東照寺に移転されてきたという。
この碑の台座には、東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と
「校門標札」が埋められているという。

碑文
 この碑の北方約五百メートルの台地に、かつて東京陸軍幼年學校があった。昭和二十年八月二日未明の空襲で職員生徒十名が戦死、校舎は全焼。八月十五日の戦争終結により、五十年の校史を閉じた。
 本校は日清戰争後日本陸軍の中核となる將校を養成するため、明治三十年に東京市牛込区本村町の市ヶ谷台に誕生。大正十年からの戸山台時代を経て、昭和十九年春、南多摩横山村のこの地に移った。約十万坪のこの台上に學んだ生徒は、第四十六期から第四十九期生まで千二十三名。四十六期生卒業式の昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により、建武台と命名された。
 多摩丘陵から健児の雄叫が絶えて三十有六年。國敗れて山河ありとはいいながら、台上は全く変貌した。ここに戰死者の靈を悼み、我々の足跡をとどめるため、柴田孝夫教官のご好意によって碑を建てるものである。
 昭和五十六年八月二日
 東京陸軍幼年学校職員生徒有志
 題字は石橋犀水教官筆

 建武台之碑はかつて長房団地入口の南浅川に架かっている横山橋(御楯橋)の南側に建立されていた。
 その後、道路と橋の拡幅に際し移転の必要が生じたため、東幼校の西側に所在している長房山 東照寺にお願いしたところ、ご好意を頂き此処に移築された。
 この移築により碑文中の「この碑の北方」は「この碑の東方」ということになる。
 東方の大地とは眼下に広がる長房団地一帯のことである。
 なお、この碑の台座に東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と「校門標札」が納められている。
  平成十六年四月 
  東京陸軍幼年学校職員生徒有志


放鯉記念碑

東京陸軍幼年学校は当地(八王子)に移転する前は戸山台にあった。その戸山台時代の石碑も縁あって当地に移転。

放鯉記
夫レ鯉ハ三十六鱗ヲ有シ龍門ノ水ヲ遡リテ龍ニ化スト云フ
今ヤ母校ヲ去ルニ臨ミ胥謀リテ曰ク我等カ三十六期ニ因ミ彼ノ溌剌タル姿ニ青雲ノ意氣ヲ留メハヤト乃チ鯉魚
三十六尾ヲ日夕我等カ親シメル此ノ琵琶湖ニ放ツ
此ノ學ニ遊フ者樹影ヲ碎キテ游躍シ波紋ヲ眙シテ跳盪スル健鯉ニ我等カ越え聲氣ヲ偲ヘカシ
 昭和十年春三月

放鯉記念碑   
 放鯉記念碑は都内新宿区戸山町にかつて所在した東京陸軍幼年学校を昭和10年3月に卆業した第36期生(陸軍士官学校第51期生)が東幼を卆業するに当り、校庭内の池塘(琵琶湖)に記念として36匹の鯉を放魚
したことを記念した碑である。
 戦後戸山町の東幼校旧地は都営住宅用地となった。琵琶湖はそのまま公園とされたが碑は旧軍の施設ということで撤去を求められたため、此処長房山東照寺のご好意によって移築したものである。
 平成16年4月
 東京陸軍幼年学校第36期生

実は東照寺を訪問した際、東幼観音がどこに有るか分からず墓苑をぐるぐると回ってしまった。性質上、区画から隔離されているかと思ったためでしたが、結果としては普通に墓苑に馴染むように鎮座しておりました。
東幼観音の扉は幸いにして施錠されていなかったため、開扉してご尊顔を仰ぐことができました。拝し終えた後は、もとのように閉扉を。

長房山東照寺(曹洞宗)


十二社神社

東京陸軍幼年学校のあった長房町より南の地に。
八王子市東浅川町の三田公園に鎮座している「十二社神社」という神社が鎮座している。

八王子空襲により東浅川町の十二社神社は全焼、同じ空襲で東京陸軍幼年学校も焼失するも奇跡的に焼失を免れた「東京陸軍幼年学校の神社=雄健神社」の社殿を戦後に奉遷鎮座させて奥殿とした。幼年学校の建造物として唯一のもの。
この奥殿を直接拝むことができるのは5月3日の十二社祭礼「十二社御燈明祭」のときに限られるという。

次回は祭礼の際に「東京陸軍幼年学校時代からの御本殿」を拝みたいものです。

関連

市ヶ谷台

戸山台

振武台

南浅川橋と東浅川駅跡