目次
松山飛行場
今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。
東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。
その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。
「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。
愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。
余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。
陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)
戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。
昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。
昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。
昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。
戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。
位置関係
昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
(国土地理院より)
今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。
森林公園駅
昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。
東松山工業団地案内板
飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。
森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。
都開拓記念碑
松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。
都開拓記念碑
旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。
滑川村長小久保正男
昭和五十八年四月吉日建之
大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・
刻まれる「唐子飛行場」の名称。
石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。
飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。
この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。
石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。
〆