東京都北区赤羽台
軍都赤羽
赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。
そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。
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位置関係
国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影
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上記を一部加工。クリックで拡大。
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赤羽招魂社
陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社
赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。
「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
営内神社と地域社会 本康宏史
(注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1
社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座
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忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
昭和42年4月29日
赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書
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戦歿英霊合祀
明治十年戦役 27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争 14柱
支那事変 427柱
大東亜戦争 戦没者英霊
赤羽町出身者 戦没者英霊
公務殉職者 11柱
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戦没者神霊
明治十年西南戦役 27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争 1柱
大正七年西伯利亜出兵 13柱
大正・昭和演習殉難者 9柱
満州事変・支那事変 465柱
大東亜戦争 5660柱
赤羽八幡神社氏子 92柱
計6557柱
戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
赤羽招魂社奉賛会
会長 年代 茂
役員一同
平成9年4月29日
関係部隊有志一同
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工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
(以下略
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工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。
赤羽八幡神社
東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。
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赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。
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赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。
日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟
東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識 弟子朝日重光謹書
明治39年 赤羽兵事義会々員建立
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日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為
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赤羽八幡神社にも拝礼。
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高台の神社は鉄道スポットでも有名。
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むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。
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御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。
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高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。
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師団坂
赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。
師団坂
この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。
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師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)
師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。
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師団坂通り
(共用練兵場跡)
星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)
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東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)
現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。
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近衛工兵大隊ゆかりの石碑群
東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。
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(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識
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(表面)
白楊坐記
(漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字
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(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識
澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。
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(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻
ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇
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近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。
陸軍境界石(陸軍境界標石)
東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。
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陸軍用地
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赤羽台さくら並木公園
(射撃訓練場跡)
この細長い公園は当時は射撃場であったという。
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防空壕跡
当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。
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浮間橋
北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。
新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。
当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。
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浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
平成8年3月(平成17年一部改訂)
東京北区教育委員会
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旧浮間橋建設記念碑
浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川
昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書
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旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会
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当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。
赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。
陸軍火薬庫の陸軍境界石
東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。
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師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側
陸軍被服本廠の陸軍境界石
陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。
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陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)
再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。
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北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)
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巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。
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遊歩道は線路をイメージ
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鉄橋ぽいのも。
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赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。
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味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」
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このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。
〆
コメント
はじめまして。
昭和38年浮間生まれの者です。
懐かしく拝見しました。
私が子供の頃は、ナショナルセンターへの軍用鉄道跡には、まだ線路や枕木がありました。センターやサッカー場は、延々と続く赤レンガの塀に囲われていました。
新河岸川にかかる中の橋は、昭和50年代に架け替えられる前は「工兵橋」と呼ばれるボロボロの橋でした。子どもが跳ねると、吊り橋のように揺れました。最近になって、この工兵橋は、陸軍が戦地で架橋するために人力だけで運搬・設置する目的で開発した簡易橋の試作品だったことを知りました。横河橋梁80年誌という本に、記載があります。
コメントありがとうございます。そのころはまだまだ当時の面影が残っていたのですね。
新河岸川の「中の橋」のエピソード、浮間橋のひとつ下流の橋も工兵ゆかりの橋とは知りませんでした。
それも実戦を想定した試験的な簡易橋だったのですね。
横河ブリッジ(横河橋梁)の書籍というのも驚きです。ちょっと調べてみたら、こちらも面白そうな書籍ですね。
あわせて貴重な情報ありがとうございます。
[…] しかも工兵という兵種で、松戸の工兵学校で教育を受けたのです。体格がよく、運動能力もよく(県内の陸上競技での入賞メダルもありました)、工業学校卒ということで、工兵に配属されたのでしょう。大阪高槻から東京赤羽、そして松戸で教育を受けました。 目の前にある江戸川で演習をして、橋を架ける訓練のほか、寒い季節に川に浸かって布を縫う訓練もあったそうです。要領のよい生徒は、事前に針に糸を通しておくのだそうです。手がかじかんで、針の穴に糸を通すどころではないとのことでした。 […]