日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造上敷免工場」と専用鉄道線跡【渋沢栄一6】

明治政府は急速な近代化整備を行うにあたり良質な煉瓦を必要としており、大量生産可能な煉瓦工場を必要としていた。
煉瓦需要を受けた渋沢栄一らによって煉瓦工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市)に創業した。「上敷免」は渋沢栄一の出身地「血洗島」と同じ榛沢郡であった。

日本で最初の洋式煉瓦工場は「小菅煉瓦製造所」(明治5年)
日本で最初の機械式煉瓦工場が「日本煉瓦製造工場」(明治21年)

日本煉瓦製造工場で生産された煉瓦は、日本の近代化の推進力となった。

  • 東京駅
  • 中央本線の鉄道高架橋(秋葉原の万世橋高架橋など)
  • 司法省(現在の法務省休館)
  • 日本銀行本店本館
  • 迎賓館赤坂離宮
  • 東京大学
日本煉瓦製造工場跡

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R3233-88
1949年10月03日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。

ファイル:USA-R256-No1-146
1947年10月30日、米軍撮影画像を一部加工。

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。


深谷駅

「日本煉瓦製造・上敷免工場」で製造された煉瓦で建築された東京駅を模した深谷駅から散策はスタート。
深谷駅から、「日本煉瓦製造・上敷免工場」までは約4キロ。かつては専用の線路で結ばれていた。民間工場の専用線路というのも、実は日本初であった。現在、廃線跡は「あかね通り」として整備されている。

※この日は、レンタサイクルを利用して深谷市内を散策しました。
※深谷駅に関しては別記事にて

渋沢栄一の出身地「深谷市」。その深谷駅前に渋沢栄一像がある。 渋沢栄一像 青淵澁澤榮一像 青淵広場 ...

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
(日本初の専用鉄道)

深谷駅から廃線跡の遊歩道へ。線路にそって、唐沢川を渡る橋は「つばき橋」と呼称されていた。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社は、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。ここで生産された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧信越本線碓氷第三橋橋など多くの建造物に使用され、日本の近代化を支えました。市内にも数多くの煉瓦建造物が残っています。
 当初は舟により製品などが運搬されましたが、明治28年に、深谷駅から向上までの約4kmに、日本で始めてとなる民間工場のための専用鉄道線が引かれ、昭和40年代まで使用されました。
 現在は、あかね通り(自転車歩行者専用道)として利用されています。

唐沢川橋梁跡

つばき橋。

ボナール型プレート・ガーダー橋。
橋は、移設再構築されたものという。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 唐沢川に架かる長さ約13.4mの鉄橋は、チャールズ・アセトン・W・ボナールというイギリス人技師が設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋です。当初は違う構造でしたが、大正時代以降にこの構造になったようです。ボナールは、明治15年に鉄道院が外国から招いた最後の技師で、ボナール型プレート・ガーダー橋は、明治28年から明治34年までに国内各地に架設されました。この橋桁自体は、以前に製作され使用されていたものを移設、又は再構成したものと思われます。

中山道

しばらく進むと、中山道と交差する。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 専用鉄道線は、明治初頭に建てられた中山道深谷宿東端(稲荷町)に建つ常夜灯のすぐ脇を通っていました。昭和50年に廃線となった後、歩行自転車専用道として整備されていきますが、それまで専用鉄道線は街の景観の一つでした。

中山道深谷宿の東端にたつ常夜灯。

そして国道17号と立体交差。

住宅地の合間を抜ける。

福川橋梁

そして、福川を渡ると「ブリッジパーク」。

ここには、福川橋梁が保存されている。
日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋、という。

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
 福川には、長さ約10.1mの鉄橋と、洪水に備えた長さ約22.0mの避溢橋が架けられました。鉄橋は、イギリス人技師ボーナルが設計した銅板桁(プレート・ガーダー)橋です。河川改修に伴って移設されましたが、ほぼ明治28年に創設された当時のまま残っており、日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋です。また避溢橋は、5連の箱桁(ボックス・ガーダー)橋で、当時は木桁だったものが順次鉄になっていたようです。また、これより北の17号バイパス付近には、十二祖用水橋という長さ約3.3mの小さな鉄橋がありました。

福川鉄橋
深谷市指定文化財
昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたブレ―ト・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ道をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようですポーナル型プレート・ガーダー橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に全国各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 深谷市 深谷市教育委員会

福川鉄橋

五連の福川避溢橋梁

福川

楡山神社

ちなみに福川橋梁の南近くには武蔵国延喜式内社「楡山神社」が鎮座している。
かつて2003年に武蔵国内の延喜式内社(=平安時代から信仰されている古社)を巡っていた頃に一度参拝したことがあり。今回が実に18年ぶりの参拝。

以下に2003年の参拝記録があるが、実にひどいもので、当時は「日本煉瓦製造の廃線跡」にさほどの興味も抱いていなかったようで。この記録の18年後に「廃線跡」を巡る記録を書いているのが実に皮肉めいている。

武蔵国埼玉を中心に各地の神社を紀行するサイト

福川橋梁のある原郷は、深谷駅から2.5キロ。
あと1.5キロを進めば、煉瓦工場にたどり着く。

備前渠鉄橋

国指定重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の一部

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
工場の南には、江戸時代に開削された備前渠が流れ、イギリス人技師ボナールが設計した専用鉄道線最長(長さ15.7m)の鋼板桁(プレート・ガーター)橋、備前渠鉄橋が架けられました。
 また用水路には煉瓦アーチ橋が架けられています。これらは、旧煉瓦製造施設の一つとして、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室とともに国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
備前渠鉄橋
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 煉瓦輸送専用に架設された鉄橋である。
 操業当初からの輸送手段であった利根川船運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが本専用線であり、明治二十八年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には四箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道員技師、イギリス人チャールズ・アセトン・ボナールが基本定規を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボナール型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は十五・七メートル(約五十フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路に架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約二メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
 文化庁
 埼玉県教育委員会
 深谷市教育委員会

用水路に架かる煉瓦アーチ橋

備前渠に架かるボナール型プレート・ガーダー橋

備前渠用水路は埼玉県内最古の農業用水路。
慶長9年(1609)関東代官頭の伊奈備前守忠次によって計画されたことから「備前渠」と呼ばれている。「世界かんがい施設遺産」に登録。


日本煉瓦製造株式会社上敷免工場

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一が中心となって明治20年(1887年)に設立した、日本初の機械による煉瓦の大量生産が可能な工場。上敷免(じょうしきめん)に建設された。
のちに太平洋セメントの子会社となり、2006年に廃業。残されていた工場諸施設は深谷市に移譲され、専用鉄道跡とともに整備及び保存されている。
「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」が国指定重要文化財。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一翁が中心となって明治20年に設立された日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場では、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。約10万m2の広大な敷地をもち、明治40年ごろの最盛期には、6基の煉瓦窯が稼働しました。原料となる粘土(原土)は、周辺の畑地から採掘されてトロッコで工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低くなって水田になりました。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所明戸工場

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

埼玉県深谷市。かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場...
埼玉県深谷市。かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場...

造形が美しい。

国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館

ホフマン輪窯は保存修理工事中のため、公開休止。2024年頃に再開予定。

門扉には日本煉瓦製造株式会社のシンボルマーク

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
 日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

正面に掲げられた日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークが美しい。

裏には記念碑がふたつ置かれていた。
レールはかつての専用線のものだろうか。

創立70周年記念
昭和32年10月25日
日本煉瓦製造株式会社

昭和32年10月25日創立70周年記念日に当り我社70年に渉る歴史と伝統とを回顧し又我社の今日を築いた先覚者の精神と業蹟とを想起すると共に今後益々社業の発展を期するものである。仍って茲に記念の為この記念碑を建立する。
 昭和33年4月20日
  日本煉瓦製造株式会社
   専務取締役 諸井貫一

創立100周年記念

我社は昭和62年10月25日創業百周年を迎えた。創業以来幾多の変遷と苦難を超えて一世紀に亘る歴史を築き上げた二世紀への節目に当り先人の偉業を偲び新たな歴史に挑戦する決意をもってここに記念碑を建立する。
 昭和63年10月25日
 日本煉瓦製造株式会社
 取締役社長 松尾芳樹

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 明治三十九年頃の建造と言われている。室内には変電設備が設置されていた。
 日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
 明治三十九年八月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される一年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
 その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の姿をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館(旧事務所内)

何気なく積まれているのは、かつての線路のレール・・・?

旧事務所から旧変電室を望む。

渋沢青淵先生像(渋沢栄一胸像)

煉瓦に刻まれる製造工場の刻印は、時代とともに異なっていた。
明治期「上敷免」
大正期「日煉」
昭和期「日本」

写真は、場所は変わって「誠之堂」で販売されていた「煉瓦ペンダント」

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯

保存修理工事中。見学再開は2024年予定。
ホフマン輪窯6号窯は明治40年(1907)の建造。この窯で焼かれた煉瓦が東京駅の建設にも用いられた。
ちなみに東京駅を設計した辰野金吾は、日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の建設にも関わっていた。

深谷の散策は、まだまだ続きますが本編は一旦ここで〆


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