埼玉県坂戸市及び日高市
東武越生線・一本松駅及び西大家駅
JR川越線・武蔵高萩駅
目次
陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)
高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。
陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。
陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。
今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。
位置関係
飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)
東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。
飛行第一戦隊納翼の地
本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
平成12年8月15日
飛行第一戦隊戦友会
戦隊長
四至本広之烝 大阪
整備隊長
壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
高萩の 空に舞いたる 銀翼に
想いもあらたに 平和噛みしむ
大栄寺 小住 志村巧人
(略)
中島 キ84 四式戦闘機「疾風」
元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片
清水山大榮寺
大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。
西光寺
JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。
そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。
国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。
国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。
東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。
西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。
大東亜戦争戦没者慰霊碑
千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」
大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書
陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。
高萩飛行場方面に。
陸軍高萩飛行場跡地(北西端)
「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。
高萩飛行場の中心部へ。
高萩飛行場跡の碑
「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。
高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑
高畑飛行場跡
日高市長 大沢幸夫書
高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む
昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立
開拓碑
碑文
昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる
昭和五十三年十二月一日
飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。
陸軍高萩飛行場跡地(東端)
ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。
ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。
高萩飛行場の東端。
高萩飛行場跡(高萩北公民館)
高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。
高萩飛行場跡
所在地 日高市大字旭ヶ丘全域
高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
平成八年一月
日高市教育委員会
陸軍高萩飛行場跡地(南東端)
「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。
この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。
付記
武蔵高萩駅
以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。
駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。
昭和天皇行幸記念碑
旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。
関連
〆