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「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(横浜)

2022年11月3日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
横浜の3埠頭で開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

船橋の様子は以下で。


山下埠頭

山下埠頭での一般公開は、護衛艦「あたご」と輸送艦「くにさき」でした。まずはここから。

「ガンダム」と「護衛艦」が並んでいるのは、これはこれでレア。

山下埠頭からは、横浜港大さん橋に停泊している「いずも」や「飛鳥Ⅱ」、そして旧海軍では病院船でもあった海軍の大先輩の「氷川丸」なども一堂に。

そして新鋭の「もがみ」も。「あたご」と並ぶと、「もがみ」のコンパクトさがよくわかります。

米軍横浜ノース・ドックの埠頭にも、多くの護衛艦が停留しているのがわかります。


輸送艦「くにさき」(JS Kunisaki, LST-4003)

おおすみ型輸送艦 (2代)の3番艦。母港は「呉」。
就役は2003年2月26日。基準排水量は8,900トン。

水陸両用車AAV7

ホバークラフトLCAC(エアクッション型揚陸艇)

エレベーターで上甲板(第1甲板)全通飛行甲板へ。

艦首

「あたご」と「もがみ」の艦尾。

くにさき

降ります。


護衛艦「あたご」(JS Atago, DDG-177)

あたご型イージス護衛艦の1番艦。母港は「舞鶴」。
就役は2007年3月15日。基準排水量は7,700トン。

あたご艦尾から、くにさき艦尾を。

もがみと接続しているけども、もがみは今回は非公開。

ステルスな、もがみ。

なんかいた。重巡洋艦「最上」だ。

成功させるぞ!国際観艦式!!


護衛艦「もがみ」(JS Mogami, FFM-1)

もがみ型護衛艦1番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年4月28日。基準排水量は3,900トン。


横浜新港

山下埠頭から横浜新港に移動。11時頃に到着して13時の整理券を獲得。待ち時間の間に、大さん橋の「いずも」の整理券を獲得しに行ってもよかったが、大行列との話も飛んできたので、「いずも」は諦めて、そのまま横浜新港のハンマーヘッドで昼休みとする。

海保の巡視船PL31「いず」(3,500トン型巡視船)


護衛艦「しらぬい」(JS Shiranui, DD-120)

あさひ型護衛艦 (2代)の2番艦。母港は「大湊」。
就役は2019年2月27日。基準排水量は5,100トン。

なんかいた。駆逐艦「不知火」だ。

やばい、かっこいい!


潜水艦「たいげい」(JS Taigei, SS-513)

たいげい型潜水艦1番艦。母港は「横須賀」。
就役は2022年3月9日。基準排水量3,000トン。

潜水艦の操舵のデモは貴重。

アンテナを伸ばすデモも。


横浜港大さん橋

大さん橋には、「いずも」が停泊。一番の目玉ということもあり、整理券配布の大行列などもあり、私が到着した15時ごろにはすでに整理券の配布は終了。まあ、想定内なので、「いずも」は外観のみの見学で。

大さん橋から、山下埠頭を。
「くにさき」「あたご」「もがみ」が停泊。


護衛艦「いずも」(JS Izumo, DDH-183)

ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)。いずも型護衛艦の1番艦。
就役は2015年3月25日。基準排水量は19,500トン。

いずもは乗れなかったので、過去記事など。。。


横浜ノース・ドック埠頭

米軍基地である横浜ノース・ドックの埠頭にも、国際観艦式2022に備えて、複数の護衛艦が停泊していた。

前は、「護衛艦せとぎり(DD-156)」(母港は舞鶴)
奥は、不詳。。。

手前は、「護衛艦くまの(FFM-2)」(母港は横須賀)
奥は、「練習艦しまかぜ(TV-3521)」(母港は呉)

米海軍の軍艦。音響測定艦が3隻も連なっている。
右が、音響測定艦インペッカブル(T-AGOS-23)(同型艦なし)
中が、ヴィクトリアス級音響測定艦ロイヤル(T-AGOS-22)
左が、ヴィクトリアス級音響測定艦ヴィクトリアス(T-AGOS-19)
米海軍は、音響測定艦を5隻保有している。そのうちの3隻が横浜に集まっているということになる。

さらには、スピアヘッド級遠征高速輸送艦プエルト・トリコ(T-EPF-11)も停泊。

こんな感じで、観艦式に向けて賑わっている横浜港でした。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月3日


関連

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

護衛艦「いずも」体験航海(令和元年)

令和元年10月4日

先日、護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋) に参加する機会がありました。

ベイブリッジを通過する「いずも」

「いずも」での体験航海は実は4年ぶり2回目。
前回も今回も、水交会での乗艦でした。

以下、写真メインで。

「いずも」ヴェルニー公園

潜水艦が航行していました。

「いずも」逸見岸壁

「いずも」エレベーター

「いずも」甲板

吉倉桟橋
DD-101 むらさめ 出港

自衛艦旗

「いずも」出港

てるづき乗員の見送り

かわいい

帽振れ

横須賀地方総監部

横須賀港(潜水艦)

横須賀港(吉倉桟橋)

てるづき DD-116 

こんごう DDG-173
いかづち DD-107
はたかぜ DDG-171
はるさめ DD-102

米軍基地

横須賀港 東北防波堤東灯台(赤灯台)

行き違う艦船

あさゆき DD-132

ちょうかい DDG-176

えんしゅう AMS-4305

よこすか (JAMSTEC)

日本郵船 NYK LINE
GRACE BARLERIA グレース バレリア

航行中の自衛艦旗

いずも艦内

いずも艦内神社は別記事にて。

富士山

いずも艦橋

横浜ベイブリッジ通過

日本郵船「氷川丸」

海上保安庁 横浜海上保安部

いず PL-31

奥には先行していた「むらさめ」

あきつしま PLH32

米国陸軍 横浜ノース・ドック

アメリカ海軍音響測定艦エイブル US NAVAL SHIP ABLE

アメリカ海軍高速輸送艦グアム US NAVAL SHIP Guam

横浜・関内

横浜の町並みは海から見ると、より一層美しさを感じる。
中央に神奈川県庁舎。

横浜税関

神奈川県庁

日本郵船歴史博物館

赤レンガ

大さん橋

横須賀水交会部隊研修懇親会

航路

航海時間 3時間
 13時30分 横須賀 海上自衛隊横須賀地方総監部出港
 16時30分 横浜  大さん橋入港
航行距離 約26キロ

写真多めでお送りいたしました。

艦船の神棚(艦内神社・船内神社)

古来より船霊を祀った神棚が艦船に奉じられてきた。
それは現在の艦船においても変わらぬ姿。
さまざまな艦船の神棚(艦内神社・船内神社)を、以下に記録しておきます。

  • 「三笠」大日本帝国海軍 戦艦/記念艦
  • 「氷川丸」日本郵船/大日本帝国海軍 特設病院船
  • 「いずも」海上自衛隊 ヘリコプター搭載護衛艦
  • 「はるさめ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「さみだれ」海上自衛隊 護衛艦
  • 「ひらど」海上自衛隊 掃海艦
  • 「はちじょう」海上自衛隊 掃海艦(除籍済)
  • 「うらが」海上自衛隊 掃海母艦
  • 「やまゆき」海上自衛隊 護衛艦/練習艦
  • 「しらせ」海上自衛隊 砕氷艦
  • 「YT-95」海上自衛隊 曳船95号
  • 「かとり」海上保安庁 (先代・除籍済)
  • 「宗谷」海上保安庁 保存船
  • 「みやこどり」東京消防庁 大型化学消防艇
  • 「白竜丸 」水産庁 漁業取締船
  • 「東光丸」 水産庁 漁業取締船
  • 「よこすか」海洋研究開発機構(JAMSTEC) 深海潜水調査船支援母船
  • 「海竜」 東京都港湾局 浚渫船
  • 「なとり」 井本商運 球状船首型内航コンテナ船
  • 「羊蹄丸」青函連絡船(解体済)

大日本帝国海軍
戦艦「三笠」(記念艦「三笠」)

2016年6月11日撮影

東郷神社 破魔矢

三笠神社(艦内神社)
日露戦争当時には現在のような艦内神社の姿ではなかったと思います。

三笠神社
 日本の軍艦には伊勢の大麻を受けて天照大神を艦内の神社に奉斎し、艦名を冠して、その艦の武運を念じ、また乗員に修行の糧とする風習がありました。
 三笠神社は、幸運や勝利が長く続くことを祈願して設けられました。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

筥崎宮敵国降伏御守護
 現役中の三笠の艦長室に奉祀されてあった神棚です。1922(大正11)年9月、三笠が第4予備艦に定められ、艤装解除されることになった時、同月付きで第17代三笠艦長(大正11年6月9日-9月10日)から軍令部参謀に補職を命ぜられた八角三笠艦長(岩手県、海兵29、海軍中将、昭和40年・1・20没)が、歴代艦長によって大切に護持されてきた、この由緒あるお守りの行く末を案じられ、手元に安置されていました。記念艦三笠復元後も、変わることなく今日に伝わっている、いわれの深いものです。 

祈願文「敵国降伏」
国土の神聖を護持する神仏が、その不可思議な力-突然雷によって敵軍を撃ちのめすとか、台風で敵船を吹き帰すとか-によって、異敵を「降し伏する」ことを祈願する言葉。(日本の歴史8 黒田俊男著 中央公論社 66頁

 この祈願文は八幡大菩薩筥崎宮(福岡市東区箱崎町に鎮座)に伝わる社宝。国土防衛のシンボルとして知られています。
 現行(文永11(1274)年、弘安4(1281)年)の際、亀山上皇(第90代天皇、1249-1305)が蒙古幸福を祈願して、聖算の数だけ、諸方の神社に奉納された親書で、これはその一書であります。
 対馬方面に来襲した元・高麗の大兵船は大風雨により、壊滅、敗退しましたが、この大風雨は、神威によるものと信じられ、神風と呼ばれました。 

2003年9月4日撮影 筥崎宮
「敵国降伏」篇額

日本郵船
(大日本帝国海軍・特設病院船)
「氷川丸」

2016年8月28日撮影

大宮氷川神社 祈祷神璽

 氷川丸は埼玉縣大宮市高鼻に鎮まります武蔵國一の宮氷川神社の御守護を御願いして名付けられたものです
 二百三十八回の太平洋横断の歴史に長い年月も氷川神社の御守りによって無事努めを果し戦前造られた大きな船で現在残つているのはこの船唯一隻だけであります
今でも此の神棚には氷川神社をお祀りして氷川丸と御来船の皆様の幸福と安全を朝夕御祈り致しております

大宮氷川神社の御神紋「八雲」がインテリアとして氷川丸船内に取り入れられている。

海上自衛隊
護衛艦「いずも」

2019年10月撮影

出雲大社(島根)
神棚も「出雲大社型」
参拝も「出雲式」

食堂近くの通路際に

出雲大社拝礼方法
最初にお賽銭を入れる。
 賽銭箱に落とすように入れる。
  参考(15円  十分ご縁がありますように)
    (45円  始終ご縁がありますように)
    (415円  良いご縁がありますように)
 二拝する。
  腰を90度に曲げて深く礼をします。
 四拍手する。
  手を合わせた後は上下に少しずらして拍手する。
  これは、節合わせ→ふしあわせ→不幸せ を避けるという意味合い。
 神様に祈る。
  日頃の感謝を伝え、最後にお願い事をする。
 一拝する。
  最後にもう一度深く礼をする。

海上自衛隊
護衛艦「はるさめ」

2019年10月撮影

艦橋の後方に
 亀山八幡宮 神札(佐世保)
 宇佐神宮 海上安全守護(大分)
 金刀比羅宮 御供米(香川)
艦橋下の階段脇に
  「はるさめ」艦銘板は宇佐神宮宮司・到津公斎書

海上自衛隊
護衛艦「さみだれ」

2019年10月撮影

艦橋の艦長席上部に
 亀山神社(呉)
 天照皇大神宮
 金比羅宮
艦橋の階段下に
 「さみだれ」艦銘板は神宮権禰宜・熊谷泰揮毫 
 授贈は「戦艦三笠」

海上自衛隊
掃海艦「ひらど」

2019年10月撮影

食堂に神棚(ちゃんと撮影できませんでした・・・)

海上自衛隊
掃海艦「はちじょう」(除籍済)

2016年9月10日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻
春日神社
金比羅宮
鵜戸神宮
筥崎八幡神社
立磐神社

海上自衛隊
掃海母艦「うらが」 MST-463

2018年8月4日撮影

伊勢神宮・天照皇大神宮大々御神楽祈祷大麻

海上自衛隊
「やまゆき」
護衛艦DD-129 →練習艦TV-3519

2014年7年27日撮影

神社名不明
(士官室の上、艦橋の下)

海上自衛隊
砕氷艦「しらせ」AGB-5003

2017年8月20日撮影

富士山本宮浅間大社

海上自衛隊
「YT-95」曳船95号(えい船)

令和元年11月撮影

走水神社

海上保安庁 銚子海上保安部
巡視船「かとり」PL125 (先代・除籍済)

2016年10月15日撮影

銚子川口神社 御神札
銚子川口神社 御潮祭

海上保安庁
巡視船 「宗谷」PL107(保存船)

操舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。
「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。

「戦時中、宗谷が沈まなかったのは艦内にあった宗谷神社のおかげ」と伝承され、戦後に「宗谷神社」が復活。
海上保安庁として、最初に誕生した船内神社。

神棚(宗谷神社)
宗谷は強運の船として崇められています。

東京消防庁
大型化学消防艇「みやこどり」

2017年5月28日撮影

神社名不明
(作戦室)

水産庁
漁業取締船「白竜丸」

2016年7月18日撮影

住吉神社御神札(山口下関か?)

水産庁
漁業取締船「東光丸」

2016年7月18日撮影

筥崎八幡宮 御神札(福岡・筥崎宮)
船魂神社 御朱印 (北海道)
虎ノ門金比羅宮 御朱印 (東京)

海洋研究開発機構(JAMSTEC)
深海潜水調査船支援母船「よこすか」

2016年7月18日撮影

金比羅宮
(操舵室)

東京都港湾局
浚渫船(しゅんせつ船)「海竜」

2017年5月28日撮影

金毘羅宮 御神札
(操舵室)

井本商運
球状船首型内航コンテナ船「なとり」

2016年7月18日撮影

金比羅宮 御神札(香川県)

青函連絡船
「羊蹄丸」(解体済)

2011年9月11日撮影

神社名不明

随時、見かけたら追加していきます

ひとまず〆

「砕氷艦AGB-5003しらせ」と「5002SHIRASE」

平成29年8月撮影

平成29年8月20日
チャレンジングSHIRASE
マリンフェスタinFUNABASHI

船橋港にて6年ぶりに5002と5003の「しらせ」が再会。
実は先代も現役もどちらにも乗艦したことが無かったので、これは良き機会。行って参りました。

砕氷艦AGB5003しらせ

AGB→Auxliary Ice Breaker 砕氷艦

自衛艦「AGB5003しらせ」は我が国唯一の「砕氷艦」。
基準排水量は12650トン。
手強い氷厚に対して最大馬力(軸出力3万馬力)で氷の上に乗上げで艦の自重で氷を砕いて邁進する。

「5003しらせ」艦内一般公開。
思ったより空いており、ノンビリと艦内見学ができました。

しらせ1号

自衛艦旗

ファンネル(煙突)と上部見張所

「5003しらせ」艦橋からは、先代の「5002しらせ(SHIRASE)」の姿が。

Suicaのペンギンっぽい生き物からのお願い

吹っ飛んだり、挟まれたり、大変危険!!

「砕氷艦しらせ艦内神社」

勧請は駿河国一宮「富士山本宮浅間大社」
先代「しらせ」先々代「ふじ」の艦内神社も富士山の浅間様

恐らくは先々代「ふじ」に因んで「富士山本宮浅間大社」が勧請されたものを踏襲していると推測
(「宗谷」の勧請は確証なく不明であるが、やはり浅間大社といわれている。)

艦内床屋
ちゃんと床屋名物の回る看板(サインポール)がクルクルしてましたw

2代目しらせは、舞鶴生まれ。
2009年(平成21年)5月20日にユニバーサル造船舞鶴事業所において竣工式並びに艦旗授与式がおこなわれた。
横須賀地方隊に編入され、母港は横須賀基地。 Ship of the Year 2009 も受賞。

南極探検隊長・白瀬矗(しらせ のぶ)
開南丸で南極探検に向かい明治15年(1912)日本人初の南極上陸に成功した探検家。
その功績を称えるプレートが「しらせ」艦内に掲揚。 砕氷艦しらせの艦名は白瀬中尉の功績を称えて命名された白瀬氷河に由来。

平成28年、豪州観測船「オーロラ・オーストラリス号」座礁における支援活動の表彰など。

ジロを見つけました(タロは見つかりませんでした

二人部屋


艦内見学を終えて下船したら…

あっ。 精鋭無比な第1空挺団がおられました。

千葉地本広報車「業務車2号」 (千葉地方協力本部)

千葉地本のイメージキャラクター「千葉3兄弟」ラッピング痛車…広報車。

さて次は先代「5002しらせ」(SHIRASE)の見学行ってみましょう。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)と「5003しらせ」
このときが6年ぶりの再会とのことです。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)艦橋から「5003しらせ」を。

「5002しらせ」(SHIRASE5002)

再会「SHIRASE」x「しらせ」

砕氷艦AGB-5003しらせ イベント会場では出店も多数。
船橋市政80周年記念イベントも兼ねており、地元ベースの盛り上がりも垣間見れてなかなか楽しい空間でした。

夕呉クルーズ

平成29年(2017)3月

呉艦船めぐりの夕暮れクルージング 、おすすめ。


平成29年3月4日夕方。私は広島県呉市にいた。

夕暮れに軍港巡りが出来るというのを知り、実は昼前に電話予約していました。

この日は1745出港のクルーズ船にて、海自護衛艦の国旗・自衛艦旗の降納と君が代ラッパを観覧。
初めての洋上観覧!

呉艦船めぐり

http://kure-kansen.com/

運行スケジュールは昼5便に、夕暮れの臨時便。
ここは迷いなく夕暮れな「夕呉クルーズ」でしょう。

この日の出港は1745。受付は1715から。
集合は出港5分の1740。

海軍伝統の5分前の精神で。

これは良き夕暮れクルーズが期待できそうです!

1740

出港5分前に乗船開始。
クルーズ船の旅客定員は80人。
数えてないけど参加者もたぶんそれくらいいた感じ。盛況です。(事前予約しといた方が安全です)

出港しました!

建物は「呉中央桟橋ターミナル」。
ここから、江田島や松山・広島方面の船が出る海上交通の要所。
どことなく呉鎮守府庁舎をモチーフにしてそうな感じ。

そして、正面の山!
こうして見ると、呉のシンボル「灰ヶ峰」がよくわかります。

ちなみに呉市の真正面に聳える灰ヶ峰。
一部のみなさんには、お馴染みな山になりました。
(この世界の片隅に)

山頂には気象レーダー観測所があり、また戦時中は防空高射砲陣地も展開されており、元高射砲台基部を使用した展望台がある。
標高は呉市の郵便番号上3ケタと同じ737m。

支援船がいっぱい!

大和ドックの手前。
ドックでは、ちょうど「DD-105 いなづま」が整備中なのです!
2016年7月10日に第25次派遣海賊対処行動水上部隊として護衛艦「すずつき」と共にソマリア沖に向けて呉から出航しており17年1月12日に呉に帰港したばかりなのです!
(撮影は17年3月)

大和ドックを海上から。
ドックの説明は改めて別でも触れると思いますが、現在はドックとしては機能しておらず(埋立済み)、部品組立工場として機能。大和建設当時の「大和ドックを覆っている骨組み建屋」を記念として残してあります。
横では大型貨物船の建造中。

こちらも建造中の大型貨物船。
「NYK」すなわち「日本郵船株式会社」
二隻同時建造。完成はもう間もなくとのことで。
「NYK HAWK」「NYK FALCON」
空荷のために喫水線が浅いですね。

船首は「バルバス・バウ」(球状船首)。大和型と同じです。

「DDH-182 いせ」が整備入りしておりました。 IHIドッグ

松山~呉~広島を結ぶ高速船(瀬戸内海汽船スーパージェット)が横を走っていきました。
こいつは速いw

1753

江田島の稜線に沈む太陽。

護衛艦の旗降納は水平線への日没時間に行われるので、あとすこしだけ時間があります。

呉のヌシ
「LST-4001 おおすみ」
桟橋の一番陸地側にいました。

輸送艦 LST-4003くにさき
補給艦 AOE-422とわだ

輸送艦 LST-4003くにさき
訓練支援艦 ATS-4202くろべ

「くにさき」と「くろべ」
艦尾には「自衛艦旗(十六条旭日旗)」、艦首には「国旗」

海上自衛隊第1潜水隊群
潜水艦の細かい見分け方は・・・わかりません。

φ(..)メモ 舵がX型なのがそうりゅう型、十字型のがおやしお型。

1808

海上自衛隊第1潜水隊群
隊司令旗(甲)が翻っております。

そろそろ、です。

1810

海上自衛隊第1潜水隊群。

10秒前~パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!
日没とともに喇叭譜君が代(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。
自衛艦旗降下。

湾内の護衛艦各艦にて一斉に行われます。

動画のほうが伝わるのですが…スミマセン、写真専の人なもので。
検索してみれば動画もあっちこっちに上がっているかと。

湾内の緊張した空気感で背筋がキッと伸びます。
この気持ちよさが、日本人の誇りでもあり。

日没後、国旗自衛艦旗降下降納が終わると、電灯が点火されます。

クルーズ船は港へと一直線に戻り始めます。

日没後は明るさが失われるのも速く。。。

旧帝国海軍・呉鎮守府庁舎
現在は、海上自衛隊呉地方総監部庁舎

海から見るのは新鮮ですね。
(下に穴というか壕が開いてますねえ・・・)

呉の港へ。

「ここが呉」
「九つの峰に守られているんで、ほいで九嶺(くれ)いうんで」
「ほいで、真ん中のんが、灰ヶ峰…」

18時25分すぎ。予定時間よりも10分ほど伸びたクルージング。

なかなか貴重な体験をさせていただきました。
潜水艦を、まさかの洋上から日没に立ち会えるとは夢のようなひとときでした。

これは呉に行って時間があれば是非とも体験してほしいオススメのクルーズですよ!

こんな感じで夕暮れ呉ツイレポ〆

横浜開港祭「たかなみ」電灯艦飾

平成29年6月3日撮影

平成29年6月3日 の横浜開港祭。
護衛艦「たかなみ」が「横浜港大さん橋」に寄港。夜間には電灯艦飾も行われるということで行ってみました。
結果的には運良く花火とのコラボも楽しめました〜!

「横浜港大さん橋」に到着したのが、18時15分過ぎ。 日没30分前に到着出来たので一安心。 艦首「国旗」と艦尾「自衛艦旗」と迷いますね。

やっぱり艦尾でしょ。
旭日の「自衛艦旗」が美しいです。
「たかなみ」の奥に佇む海軍の大先輩「氷川丸」も美しいです。

18時50分すぎ。
「たかなみ」後甲板に隊員が集まってきました。
そろそろ日没。

たなびく「自衛艦旗(十六条旭日旗)」の誇り。

18時53分。日没。

10秒前~
パンパパ~ン(ラッパ)気をつけ!

日没ととともに国旗・自衛艦旗降下。電灯艦飾点灯。

自衛艦旗に対し挙手敬礼。

喇叭譜「君が代」
(ドソドミソの五音の組み合わせで吹かれるラッパ「君が代」)吹奏

19時。
さあこれより電灯艦飾を楽しむ時間の始まりです。

横浜港大さん橋北側のみなとみらい側は花火見学の人々で賑わい、南側では「たかなみ」ライトアップを見学する人々で賑わっております。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
暗くなりすぎない日没後のわずかな時間帯がベストショット。

「たかなみ」電灯艦飾
艦首側より。(19時20分頃撮影)
後方はベイブリッジと大黒ふ頭。

美しいです。

「たかなみ」電灯艦飾の向こうには「氷川丸」
(輝くタワーは横浜マリンタワー)

氷川丸は日本海軍時代は「特設病院船」として重用され各海域の後方支援で活躍。帝国海軍を知る生き残りの船でもあるのだ。

「たかなみ」電灯艦飾。 艦尾から。
(一気に人が引け撮影がしやすくなりました。19時30分から花火が始まり、南側が空き始めたのだ。)

そうなのです。
艦を撮ってる場合じゃないんです。
花火が始まったんです。
せっかくだから花火を見ないと・・・ と、思いながら艦を撮っていたり。

だって大桟橋の北が「花火」で南が「護衛艦」でしょ。

どうやって撮るのよ。

・・・超広角なら。あっ魚眼持ってた!

(花火撮影は場数を踏んでいないので、ちょっと苦手です)

「たかなみ」電灯艦飾
花火は20時前に終了。だいたい30分間ぐらいの打ち上げでした。

横浜港大さん橋に停泊する鋼鉄の艨艟
海洋立国日本の守り神
これからも日本の海をよろしくお願い致します!
(/”`・ω・´)

賑やかで華やかなほうの横浜。
かすかに海保のPLH-32あきつしまが見える、かも!
今度は明るいうちに観察しましょう。
山下公園の方に向かいます。

「たかなみ」電灯艦飾

まあ夜の山下公園はアウェーなのは知ってます。
花火大会のあとですよ。夜ですよ。横浜の山下公園ですよ。
えぇ、察してます。
気にせず三脚をセットして「たかなみ」を撮影。
かなり風が強くて厳しい。

「氷川丸」電灯船飾(ライトアップ)

電灯船飾と電灯艦飾 日

本郵船「氷川丸」(国重文)の後ろ姿。
1930年竣工

その左奥に護衛艦「たかなみ」の姿も。
2003年竣工

そんな誇らしい2隻を眺めつつ、 静かに横浜の夜をあとにする。
佳き夜でした。 〆

ある日の「DDH-183いずも」

平成29年10月

いずも

海上自衛隊・横須賀地方総監部
13時。この日は参加している「公益財団法人 水交会 横須賀支部(横須賀水交会)」の部隊研修がございまして、それが午後の予定でした。

横須賀基地内に錨とスクリューが保存されている。
由来は不明であるが「昭和13年4tアンカー」
そして1995年11月29日除籍の「護衛艦あまつかぜのスクリュー(右舷プロペラ)」

撮影は岸壁と甲板上だけに制限。このご時世ということもあり、一言でいえば「軍機」(保全重視)ということで。
部隊研修ということで各班ごとに別れ(一班30名前後)、艦内各所で見学とブリーフィングなどを。もちろんここでは書けない話ばかりですのでご了承を。


横須賀地方総監部・逸見岸壁にて。

横須賀地方総監部・逸見岸壁にて。 秋の青空…ですねえ。

艦首の日章旗。
高性能20mm機関砲CIWS
いずも型の艦首は船っぽさがたりないんですよねえ。

今回は艦橋の見学もございました。 (艦橋内部は撮影禁止)
後方は航空管制室。 (航空管制室内部も撮影禁止)

いずも艦尾 自衛艦旗が美しい・・・ しらせも美しい・・・

太陽に照らされる、いずも自衛艦旗

16時。部隊研修終了。
下艦です。
見上げれば、うろこ雲。秋の空。 このあとは懇親会へと・・・

懇親会終了の18時45分頃。
撮影をしながら駅へと向かうひととき。
なかなか濃厚な1日でしたね。
横須賀にはまたちょくちょく来ると思います。
史跡散策したいところが沢山ある海軍の聖地ですから。

本レポは以上で〆 ありがとうございました…

護衛艦「いずも」体験航海

平成27年10月8日

護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋)


御題 
出雲大社に詣でて

国譲り祀られましし
 大神の奇しき御業を
  偲びて止まず

皇后陛下御歌


DDH-183「いずも」 に乗ってきましたレポを以下に。

平成27年の観艦式…もちろん落選しましたよ。

しかし水交会経由で横須賀から横浜に移動する「いずも」に乗ることが出来ると。これはもう申し込みするしかなかった。

水交会。
戦前の水交社の流れをくむ伝統墨守な組織。海軍関係者や海自関係者が多数を占める団体に、縁あって有志として紹介していただきまして、恐縮ながら、です。

そして今回は「いずも」に乗れる!

「いずも」のシンボルマーク。
出雲神話由来のヤマタノオロチと天叢雲剣。
カッコイイ!

10月8日。横須賀。
横浜に移動する前の「いずも」
いやはや、デカイ!

午前8時、既に受付が始まってますね。岸壁の人々との対比でその大きさがわかります。

横鎮こと横須賀鎮守府…、横須賀地方総監部へ。
この日10月8日は横須賀水交会、湘南水交会、自衛隊父兄会・ご家族、防衛協会、防衛関連企業な方々が乗艦。
民間人?のいずも体験航海は初な模様。(平成27年当時)

横須賀総監部は星3つの海将旗。
そして「いずも」には星2つの海将補旗が掲揚。

いずも艦橋

係留岸壁から「いずも」

さて、乗艦。
エレベーターで飛行甲板へ。

「いずも」飛行甲板。エレベーターを上から。

「いずも」飛行甲板。エレベーター。

「いずも」飛行甲板。エレベーター。
中から見上げてみた(魚眼)

「いずも」格納庫からみたエレベーター。

SeaRAM 近接防空システム & 高性能20mm機関砲 ファランクス(Phalanx)

護衛艦いずも。甲板上。
圧倒的に晴天。

護衛艦いずも。
甲板上。
艦首及び艦尾。
美しい……です。

護衛艦いずも。甲板から。

手前から
あたご、むらさめ、きりしま、てるづき、あすか

距離を置いて
いかづち、おおなみ、くらま

はしだて(ASY-91)は、迎賓艇(特務艇)
えんしゅう(AMS-4305)は、多用途支援艦

いずも艦載機。
MCH-101輸送・救難ヘリコプター。

タグボート登場。
離岸は1030
ラッパの音は高らかに。

ちなみに、約250メートル全長という長さのため、横須賀港内は後進。ある程度広いところまで来てから旋回となりました。

離岸。
通常の護衛艦よりも、真下が見えない為、気がついたら離岸っていうタイミングでした。

さあ、いずも離岸後の忙しさ。

「いずも」と岸壁を緩衝していた護岸緩衝材を回収する船や、曳船が駆け回っていますよ。

護岸緩衝材回収中。
なんか、カワイイ

大発……もとい、交通船もいました。
ちょうど、乗船中。

護衛艦艦尾に林立する旭日旗(自衛艦旗)。
美しい姿は伝統墨守。

「きりしま」(DDG-174)艦橋で隊員が見送る中、「いずも」は出航。
手前は、「あたご」(DDG-177)、イージス艦に挟まれているのは「むらさめ」(DD-101)

「きりしま」の向かいの桟橋にいるのは「てるづき」(DD-116)、試験艦「あすか」(ASE-6102)。

並びのちょっと離れた桟橋に係留されていたのは、
DD-107いかづち
DD-111おおなみ
DDH-144くらま

護衛艦がいっぱいで、鼻血でそうなくらい興奮w

DD-107いかづちが、曳船によって、どうやら移動の様子。

さて、米軍基地の方に目線を向けてみましょう。
米空母「ロナルド・レーガン」 いました!
「いずも」の姉妹艦です。(米海軍と海自が交流を行う意での姉妹艦)

お見送り〜

何度見ても美しい。
旭日の下、青空に彩られる自衛艦旗。
いずも艦尾。

いずも艦上より望む富士山。
10月8日は、まだ冠雪前でした。

タグボート切り離しは、1130頃。
横須賀湾を出港するのに約1時間、タグボートのお世話になったようです。

洋上。青空の中で見上げる艦橋。広々とした甲板。 気持ち良すぎるだろ、これ。
あっ、そういえばほとんど日陰がない。いずもに乗る場合はw熱射病に要注意ですよ。

こんなところにもdocomo

いずもに続航していました。 ATS-4202くろべ(訓練支援艦)

艦内公開されていた食堂にて。
「指導方針」が掲揚。
「精神」「即応」

艦長の「魅たれ!」が素敵。

搭乗員待機室。
おっ、これも良いデザイン。 八雲たつ出雲にオオクニヌシ

1245〜1315横浜港沖。
ベイブリッジを通過する貨物船の出航遅れのため30分程沖合いで待機。
いずもに続航し同じく横浜港を目標としていた、ASR-403ちはや、ATS-4202くろべ、も待機。

横浜港沖1315 航行再開。

いずも、ちはや、くろべ、ましゅうの順で単縦。
横浜ベイブリッジ通過します。 いよいよ今回の航行のハイライト。

横浜ベイブリッジが近づいてきました。

護衛艦いずも、横浜ベイブリッジを通過します……って、艦橋高さギリギリ?

護衛艦いずも、横浜ベイブリッジを通過! けっこう、はらはらするものですね。間違いなく問題ないのはわかってますがw

ちなみに、のちに水交会の偉い方が説明してくれました。
「いずもに限らず護衛艦は、全国の主要な橋の高さを確認の上で設計されてますので、満潮でも問題ないんですよ」
「外国の大型客船は、満潮になると横浜ベイブリッジを通過出来ないらしいですけど、ね」云々

ベイブリッジを通過したら、待ってましたとばかりにわらわらとタグボートが。
曳艦よろしくお願いします。

いずもに続航する護衛艦群は、ちはや、くろべ、ましゅう。
いずもは大桟橋。ちはや以下は横浜新港へ。

横浜ベイブリッジを通過する後続の護衛艦での対比でも、いずもの大きさを改めて実感。

いずもに続航するは、ASR-403ちはや(潜水艦救難艦)。
ちはやは横浜新港へ。いずもは大桟橋へ。
そろそろ豪華な護衛艦クルージングも終わりが近づいてきました……

1400過ぎ。
海保PLH31「しきしま」と、日本郵船「氷川丸」(元帝國海軍特設病院船)に挟まれた横浜港大桟橋へ、海自護衛艦「いずも」が入港。

日本郵船「氷川丸」
かつての帝國海軍を知る船。
戦時中は海軍徴用として海軍特設病院船として活躍。

着岸作業中。

いずも艦首より、横浜中心地を望む。
なるほど。
港町横浜は海から観る街だ。 建物が皆、海に向けて建っています。

いずも甲板。艦橋。
1430頃、着岸完了。
乗客は徐々に格納庫へと移動を開始。
名残惜しいがそろそろ離艦の準備をば。

さて、エレベーターで格納庫へと降ります……

掃除お疲れ様です( ´ ▽ ` )ノ
白馬さん、掃除サボりはいけませんね〜

1450、いずも離艦。
貴重な体験に感無量。ありがとうございました〜
まさか初めての横浜大さん橋の利用が「いずも」になるとは予想してませんでしたよ。

さて、体験航海は終わりましたが、蛇足的。 このあと某ホテルで横須賀水交会懇親会。

懇親会を終えて、夕方。
大桟橋に戻ってみました。

1700過ぎ。
おっ、これは良いタイミング。
日没の降納に立ち会えますよ。

いずも艦首。
日没に合わせて国旗降納のスタンバイ中。

いずも艦尾。
こちらも日没に合わせて、自衛艦旗降納のスタンバイ中。

1712日没。 凛とした空間の下で自衛艦旗降納。

10月8日の夕方。
僅かに残る日差しで余韻を楽しむ。

新港には「ましゅう」と「おおすみ」が停泊してました。
おおすみを初めて見た時は、やっぱり興奮したことを思い出しつつ。

10月8日の横浜大さん橋。
いずも、やっぱり長いですね。

10月8日の横浜大さん橋より、新港を望む。
1730頃。
夕焼け、みなとみらい。

10月8日の横浜大さん橋より、赤レンガと富士山を望む。

いずも艦橋

1745過ぎ。 オフになった隊員が私服で横浜の夜へと繰り出していかれました。 半舷上陸ですね。

艦尾夜景。

いずも夜景。

氷川丸。

「水交会」あれこれ

戦前の水交社。戦後の水交会。


水交社・水交会

明治9年に海軍省外郭団体として創設した「水交社」は戦後に海軍省と共に消滅したが、昭和27年(1952)に、財団法人「水交会」として復興。
水交会」は、帝国海軍戦没者及び海上自衛隊殉職隊員等の慰霊顕彰・海軍の良き伝統精神の継承・海上自衛隊に対する支援協力を目的としている。

由来は、「莊子」 (山木篇) の「君子之交淡若水 」から。
「君子之交淡若水」「小人之交甘若醴」に由来。
「君子の交わりは淡きこと水のごとし」「小人の交わりは甘きこと醴(れい:甘酒)のごとし」


公益財団法人「水交会」

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/

水交社 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E7%A4%BE

水交会 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BA%A4%E4%BC%9A

東郷神社のとなり、東郷記念館に水交会本部がありました。

東郷記念館が改修工事中の為、水交会の事務所は、原宿ピーターハウスに移転。

横須賀水交会
毎年5月27日 海軍記念日の日。
横須賀「海軍の碑」にて。
横須賀水交会にて「海軍の碑記念行事」が行われている。

水交社本部跡

終戦とともに当時の水交社は解散し「水交社本部」はフリーメイソンによって占拠される。
昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

かつて水交会本部のあった地
現在の「東京メソニックビル」

水交神社鳥居

東郷神社の庭園に移築保存されている。かつては水交会本部にあった。

水交神社鳥居の由来
この鳥居は、もと築地・海軍用地(現在の東京中央卸売市場)の水交社敷地内にあった水交神社の二代目の鳥居です。 水交神社は、日清戦争に際し、海軍の戦勝を祈願し全国から寄せられた神符・護符を奉安し、また同戦役以後の戦没社員の霊を合祀するため創建された神社で、その初代の鳥居は戦利品の魚雷で作った異形のものであったため、明治四十四年に神明鳥居に建替えられました。 水交神社とその鳥居は、関東大震災の災禍をまぬがれ、昭和三年に水交社が芝区栄町(現在の東京タワー北西隣)に移転した際、同地に遷座されました。その后社殿は昭和二十年三月の東京大空襲で焼失しましたが、この鳥居だけは毀損をまぬかれました。しかし戦後、東京水交社の建物と共に進駐軍に接収され、その後曲折を経て昭和五十六年、同地に新しくビルが建てられることになったので、鳥居は(財)水交会に返還され、同年六月十五日、由縁深い東郷神社へ奉納されたものであります。 この鳥居は、半世紀もの間、変転する日本海軍を見つめつづけ、二度の大災禍にも堪えてきたものであります。そして皇族方や海軍大臣以下多くの武官文官、また水交神社で結婚式を挙げた方など、この鳥居をくぐった人々は数えきれません。
  以上

水交社

明治四十四年十月建之


偕行社/陸修会/陸修偕行社

海の「水交会」に対して、陸は「偕行社」であった。

元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は陸軍出身者に限られていたが会員の高齢化が進み、1992年(平成4年)に18,715人を数えた会員も物故による退会者が毎年500名を数える状況になり、2001年(平成13年)の評議会において規則が改定され、主として陸自元幹部自衛官の正会員資格が認められるようになった

2011年(平成23年)2月1日に偕行社が公益財団法人に認定されたことに伴い、「英霊に敬意を。日本に誇りを。」を組織の理念とした。偕行社の果たす役割として、戦没者・自衛隊殉職者等の慰霊・顕彰、日本の安全保障問題に関する提言、自衛隊に対する協力を挙げた。

2022年4月27日、偕行社からの将来的な移行組織として陸上自衛隊元幹部によるOB組織「陸修会」が結成された。当初より陸修会は偕行社の事業を段階的に承継することとされていたが、最終的には2団体の合併の方針となり、2024年4月1日、偕行社を存続団体として陸修会と合併、新たに「公益財団法人陸修偕行社」として発足した。
海の「水交会」は、一般有志会員枠もあるが、陸の「陸修偕行社」では一般有志会員の枠は用意なく、そもそも陸上自衛隊の幹部退職者のみの団体となっている。

https://rikushukaikosha.or.jp/about.html


つばさ会

大日本帝国陸軍元将校の親睦組織である「偕行社」、大日本帝国海軍の親睦団体である「水交会」は、戦後それぞれ陸上自衛隊元幹部退職者、海上自衛隊の親睦組織として継承されたが、独立空軍がないため戦後に発足した航空自衛隊において、幹部退職者団体として会員相互の親睦と航空防衛力の発展に寄与することを目的として、1965年(昭和40年)に設立された。その後、会員資格者の拡大が行われ航空自衛隊の在隊者だけでなく、航空自衛隊勤務歴のある事務官(文官)も対象となっている。

陸修偕行社・水交会と異なり、「つばさ会」は公益財団法人ではない。


水交会会員

水交会は帝国海軍及び海自関係者が大半ではあるが、一般有志の会員もいる。(私も一般有志会員です)

水交会会員です
横須賀水交会(横須賀支部)所属

入会手続きについて
入会資格
本会の趣旨に賛同し、理事長が入会を承認した方はどなたでも会員になれます。

https://suikoukai-jp.com/suikoukai/admission-guide/procedure

ただし、一般有志会員の場合は、「紹介者氏名(必須)」なのが、ちょっとだけ敷居が高いかも、です。

海自第2術科学校一般公開(横須賀田浦)

横須賀田浦
海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月)


海自第2術科学校一般公開

9月10日。
この日は海上自衛隊第2術科学校でオープンスクール(一般公開)がございました。 JR田浦駅に到着したのは午前10半すぎ。 観てきたものを簡単にレポしてみましょう。

田浦トンネル

JR田浦駅名物の三連トンネル(横須賀側)
中央トンネル(電車走行中)は、明治22年(1889)横須賀線開通時の最も古いもの。 右のレンガ造トンネルは大正13年(1924)に増設。 左の大きなトンネルは昭和18年(1943)海軍軍需輸送引込線用。

JR田浦駅の東逗子側は2連トンネル。
下り線(右側)は明治22年(1889)建設。 上り線(左側)は大正13年(1924)複線化に伴って建設。

JR田浦駅。
因みにホーム長がいまどきのJRロング編成車両には対応していない為、横須賀側1両目はトンネルに頭を突っ込んで停車。扉は開かず。乗降は2両目以降でお願い致しますな駅です。 駅の両端がトンネルに挟まれている為にどーしようもない。

海上自衛隊第2術科学校

JR田浦駅から歩くこと5分ほど。 海上自衛隊第2術科学校正門に到着です。 敷地の外側はよく歩いていましたが、敷地の中に入るのは初めてですw 敷地を巡っている水堀がなんかもう古そうで、これも海軍時代の名残なのかなどうなのかな、とか。

マップです。 広いです。
盛りだくさんすぎて、迷い箸状態です。 さあ、どこから参りましょうかね?

海上自衛隊第2術科学校庁舎 (ここは非公開でした。まあ、そりゃそうだ)

φ(..)メモ
第1術科学校・江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総 航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴 経理・補給関係術科教育訓練


海自第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/ 

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関


まず最初に何処に行こうか迷って、機関とか電機とかタービンとかエンジンとか英会話教室とか…私の頭では処理しきれない催し物ばかりでパンクしそうだったので、まずは一番得意なところに足が赴きました。

歴史保存エリア

海軍通信教育発祥記念碑

明治34年、この地「海軍水雷術練習所」にて日本で始めての無線電信術の教育が行われた。 明治40年に海軍水雷学校となり、昭和5年に海軍通信学校が分離独立し、昭和14年に海軍通信学校は久里浜に移転し終戦。

海軍水雷学校跡碑

明治26年12月2日に水雷術練習所が設置。明治40年4月20日に海軍水雷学校。昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

明治28年2月4日夜。日清戦争威海衛の戦いにおいて第六号水雷艇(艇長は鈴木貫太郎大尉・のちの総理)は港内に突入し敵艦鎮遠に水雷攻撃をしようとした矢先、発射管が氷に閉ざされ射出が不可能となってしまった。
水雷術を専攻し担当していた上崎上等兵曹は水雷攻撃ができなかった事を責任を感じ、敵降伏後の3月14日に艇内において自刃。36歳であった。 鈴木貫太郎艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建立。昭和43年に「水雷ゆかりの2術校」内に移転。

海上自衛隊発祥乃碑

昭和27年4月26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地にて創設。戦後の海軍の再建を検討していた「Y委員会」において地元と米軍の了解が得られた場所がこの「田浦」の地だったのだ。

すなわち田浦は海自発祥の地!

米内光政(海軍大臣)がその晩年を傾けた「海軍再建」の意志を引き継いだ保科善四郎(軍務局長)、そしてY委員会委員長となった山本義雄(総務局長)、調整に尽力した野村吉三郎…


国旗掲揚旗竿基部

海上自衛隊創設時にこの地に建てられたもの。 海上自衛隊の歴史を残し物語るもの。

タイムカプセル

意外でした。
海自の学校でタイムカプセルって、なんかオチャメ。

伝統と飛躍
海上自衛隊第2術科学校
開校40周年記念
タイムカプセル
 1998.4.1設置
 2018.4.1開封

(2019年に記事編集してますので、もう開封されてますね・・・)

第2術科学校開校20周年記念機関

350馬力蒸気往復機関 海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。

こんな感じで「歴史保存エリア」を満喫満足したら、庁舎をみながら敷地の中心部に向かいます。

時間は11時半頃。 ちょっと早いけど「お昼」にしましょう。 厚生センターの食堂へ向かいます。

田浦厚生センター

海自第2術科学校の食堂でいただくカレー。

「DDGきりしま」カレー(ポーク)を「海自のプレート」で戴きました。 海自で使用されている本物のアルミプレートにカレーとサラダ・玉子焼・福神漬・コロッケ・牛乳がセット。 食堂の隣は売店。

食事を終えたらプラプラとお散歩を。

格納庫のようにみえる建屋は「内燃実習棟」。 この海自第2術科学校内に、旧海軍時代からの建造物がどれだけ残っているかは未調査・未把握でしたので、なんとなく建物の記録もしておきました。

行進展示

プラプラしていたらちょうど、グランドでは学生たちによる「行進展示」がおこなわれておりました。 もちろんここは海自の学校ですので、左側は陸自ではなく海自隊員の陸上迷彩服ってことです。

PS07あしたか
AGS-5106海洋観測艦しょうなん
MST-463掃海母艦うらが

内燃機関実習場

さきほどの格納庫みたいな建屋。 ・・・文系人間には。どうにも難しい展示なので内燃機関の見物よりも建物の観察がメインでした・・・。 うーむ。

第二ガスタービン実習場

V6V機関室。
うっ、うむ。

電機・応急工作実習場

四角い建物。 ここも・・・はい、難しいです・・・。 隊員の人が展示物に関していろいろ教えてくれるんですが、、、馬耳東風・・・。 うーむ。

電機・応急工作実習場

パソコンでクイズに挑戦。 これなら、私でもなんとかなりそうですw 難問!!海上自衛隊クイズ!海上自衛隊創設問題
やってみました

・・
・・・
合格! 歴史系だったので面目保てて助かりました(1問、間違えた)

掃海艦を見に行きましょう!

掃海艦はちじょう ※除籍

やえやま型掃海艦3番艦
磁気反応型機雷を避けるために木造艦。世界最大級の木造船舶。
排水量基準1,000トン / 満載1,200トン
全長67.0m/全幅11.8m

因みに、やえやま型掃海艦
1番艦「やえやま」は2016年(平成28年)6月28日除籍
2番艦「つしま」は2016年(平成28年)7月1日除籍
3番艦「はちじょう」のみが現役。(補足→平成29年に除籍されました)
姉妹引退艦は「はちじょう」の近くに佇んでおりました・・・

掃海隊群第1掃海隊
MSO-303掃海艦はちじょう
海自としての再出発。
その根源は「掃海部隊」にあり。
海軍の伝統を受け継ぎ、国際貢献の主役として今も掃海部隊は活躍をしている。

機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃1基を備える。

艦橋

掃海艦はちじょう艦内神棚

近くにいた隊員に質問をしてみたところ、艦にゆかりのある八丈島の神社もお祀りしているとのことです。(その隊員さんはどこの神社かまでは詳しくはわからないけど、とのことでしたが。)

掃海艦はちじょう艦上から、田浦倉庫群を望む。

B倉庫・C倉庫・D倉庫
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

K倉庫・F倉庫・G倉庫

海自横須賀造修補給所比与宇油脂庫地区

B・C・D・K・E・F・G・H倉庫

帝國海軍軍需部長浦倉庫の名残を海側から。
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

参考情報 →倉庫略番写真地図

一部に熱烈なファンがいるらしい?
海自リアカー(折りたたみ式) 「はちじょう」のものではなく・・・
掃海艇「はつしま甲板」とラベル有り

掃海艦「はちじょう」スタンプ色々

旧帝国海軍横須賀海軍軍需部倉庫。

こちらは2術校と隣接する海自横須賀造修補給所N-4倉庫。
この旧帝國海軍名残の倉庫が、海自敷地内から間近に見ることが出来たのが地味に嬉しく。 (敷地外からも見ることは出来ますが・・・)

隊舎

隊舎では学生居室の公開も。
バームクーヘン・・・といえばベッドメイキングw
このピシーっとした毎朝のベットメイキングも海軍の伝統。
皺があろうがなかろうが上官が(以下自主規制)なのは旧海軍ですが海自もアレコレ伝統墨守してるのかな…

スタンプラリー

(資料室系の難しい話は後回し 集めると「ペーパークラフト」が貰えました。(まだ作ってません)

因みにペーパークラフト一番難易度は「きりしま」とのことでしたが、私は「ひゅうが」を。
航空戦艦の時代ですか?日向師匠!

さて、いよいよこちらに参ります。

第2術科学校

「海軍機関術参考資料室」

「海上自衛隊創設史料室」

実はここを一番の楽しみにしていたのですが、結果として時間切れをおこしてしまい、次回はここをメインにしようと改めて決意をした、など。

歴史講座「掃海がつないだ海軍のこころ」
帝国海軍から海自まで脈々と受け継がれてきた伝統。
「サイレントネイビー」

軍人は政治に関与せず、ひたすらに任務を果たせ、と。 縁の下で掃海部隊が黙々と営々と繋いできた「海軍のこころ」を。

海自の創設物語。

そして日本近海・朝鮮戦争・ペルシャ湾掃海作戦など。 まさにサイレントネイビーゆえに、あまり物語られることのない掃海部隊の活躍を学ぶことが出来ました。

まずは「海軍機関術参考資料室」へ。

ここには海軍機関学校関係の貴重な史料、また海軍の歴史的な史料が集まっております。
幾つかは公式Webにも掲載がございますね。

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/dentou/rekisieria/rekisieria_index.html

豊田副武書 「丹心答聖明」 たんしんせいめいにこたう

元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作。
「真心をもって、天子の聖徳に答える」の意。
豊田副武は、最後となる第19代軍令部総長。海軍大将。

古賀峯一書 「竭誠盡敬」 まことをつくしてけいをつくす

「真心を尽くして尊敬の念を持つ」の意。
古賀峯一は山本五十六の後任として第28代連合艦隊司令長官となるも海軍乙事件にて殉職。最終階級は元帥海軍大将。

永野修身書
「庶昭忠誠」「憑高跳遠」

第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。開戦時の軍令部総長。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

山本五十六書
「常在戦場」

長岡藩の藩風・藩訓「常在戦場」。 河井継之助とともにあった長岡藩家老・山本帯刀家を継いだ高野五十六は、その長岡の精神を常に座右の銘としていた。

幾つか目に止まったものをつらつらと掲載していきます。
史料は無数にあり、見逃したものも多いため再訪したいですね。

山本五十六の書

古賀峯一の元帥刀

旧海軍用燃料(塊炭)
明治末頃まで艦艇の燃料として使われていた炭

ちなみに展示品がのっている、この机は「海軍水雷学校記念材」だったり。

旧海軍水雷学校鐘鈴

昭和16年12月8日当時の「海軍士官夏服外套肩章」

進水式斧金槌
右から 駆逐艦・暁(進水式)
航空母艦・飛龍(起工式使用金槌)
特務艦・高崎(進水式使用斧)

井上成美の懇談録音テープ

米内光政・山本五十六とともに海軍三羽烏(左派トリオ)と称された井上成美。米内海軍大臣の次官としてその片腕を担った人物。
声は聞こえぬ展示物であれ、背筋がすっと伸びてしまいました。

軍艦「長門」水圧管水管系図の銘板

終戦後に英国進駐軍が軍艦「長門」機関室から外して英国に持ち帰っていたものが昭和61年に英国から海自に寄贈。 ビキニ前に取り外されたからこそ残った長門の銘板。感無量です…。

あぁ、これは貴重な本棚だ・・・。

こんな感じで上から下まで貴重な史料のオンパレードでレポはほんの一部。圧倒的に時間たりませんでした。これは、また見学に来たいです。

「海上自衛隊創設史料室」
続いては向かいの部屋に。
戦後、海軍解体後に、海上自衛隊が創設するまでを物語る史料室。知らなかったことも多く大変勉強になりました。

Y委員会

1945年(昭和20年)12月1日。

旧海軍組織・海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。 第二復員省資料整理部では米海軍が関与する中で海軍再建の研究がなされた。

最期の海軍大臣・米内光政。

米内は小磯・鈴木貫太郎・東久邇宮・幣原内閣と戦中戦後の海軍大臣を歴任し、その帝國海軍の最期(1945/12/1海軍省廃止)を見守った人物。 米内が軍務局長・保科善四郎に託す想い…

戦後、米内は保科善四郎軍務局長に「海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」と指示したという。

保科善四郎が戦後に政界に入ったのはこの「米内の遺言」を一つでも達成しようとしたためと述べており、Y委員会(海軍再建検討のための組織)を通して、現在の海上自衛隊創設の際に「米内の遺志」を反映されていると言われている。

保科善四郎(海軍中将)は、開戦時の駐米大使で海軍大将であった野村吉三郎とともに海軍再建の検討を開始。 野村は復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入り、のち政府・米海軍とも調整を進め1952年(昭和27年)にはその道筋が構築された。

Y委員会。 昭和26年10月。吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。同委員会が日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。

Y委員会。
Yの由来には諸説ある。
ひとつは、
「A」は陸軍、「B」は海軍という海軍隠語。しかしBでは「海軍」のことを指しているのがストレートすぎるので逆順にしてZに次いだ「Y」とした説。

Y委員会由来もう一つの説は、
旧海軍側の中心人物であった山本善雄(元少将)、吉田英三(元大佐)両氏の苗字の「Y」、さらに海保側の中心人物であった海上保安庁長官の柳沢米吉の「Y」。 また、海軍再建を願った米内光政の「Y」をも含む・・・とも。

戦後。
帝国海軍解体後に、如実に日本の沿岸・港湾警備に問題が生じたために、1948年(昭和23年)に連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として海上保安庁が設立。

そして1950年(昭和25年)、朝鮮戦争において対機雷戦戦力が不足してた米軍より指令が下り、海上保安庁より掃海部隊が派遣。朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施。(日本特別掃海隊)

これにより米軍側からも日本の海軍戦力の再建が必要との認識が沸き起こる。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった。

こんな感じで海自の創設を学びつつ。(概要はかなり端折りました・・・) 勉強になりました。

昭和33年ごろの第二術科学校。

服務の宣誓  
 保安庁職員  
 自衛隊員

16時ちょっと前。
史料室でズッポリと沼にハマってしまい。
これで時間切れ。
まだまだ見たりなかった気がします。
これはまた来年のオープンスクールにお伺いしないと、ですね。

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