令和元年11月・横須賀・海上自衛隊第2術科学校
ロ号艦本式ボイラー
昭和15年に舞鶴工廠が製造したボイラー。現在は水管がむき出しの状態で残されている。急設網艦「初鷹」型に使用されたボイラーとほぼ同型という。
ロ号艦本式罐(ボイラー)
艦本式罐(ボイラ)とは「(日本)海軍艦政本部が制式化したボイラ」です。初期の「イ号」とこれを改良した「ロ号」、小型化した「ハ号」「ホ号」があります。「ロ号罐」は「3胴水管ボイラ」と呼ばれるタイプです。
2術校の艦本式ボイラでは、水ドラムと蒸気ドラムをつなぐ「水管」(水が熱せられて蒸気になる管)がむき出しになっていますが、本来はケーシングに覆われています。
強化型艦本式缶
ん?
これは回避+10
第2術科学校のロ号艦本式罐(ボイラ)
本校は昭和30年4月に訓練用ボイラとしてロ号艦本式罐を取得しましたが、それは昭和15年舞鶴工廠が製造して、そのまま未使用で終戦を迎え、その後、野外に10年間も放置してあったものであったため、使用できるのは胴体のみで缶管や付属品は新替えが必要な状態でした。
唯一、使用できるとされた胴体(蒸気ドラム・水ドラム)も内部の腐食が多くワイヤブラシで内面を磨き、点食箇所を肉盛溶接してグラインダで仕上げました。
こうして使用可能になったロ号艦本式ボイラは昭和46年9月まで1号ボイラとして学生教育に使用されました。(「海上自衛隊第2術科学校15年のあゆみ」)
その後、この旧1号ボイラがどうなったのか記録には残っていませんが、水管の挿脱法の実習に使用されていた、この艦本式ボイラが旧1号ボイラだと思われます。
それでは、第2術科学校のロ号艦本式ボイラは、どうして昭和15年から未使用のママ放置されていたのでしょうか・・・?
この2術校の艦本式ボイラの蒸気ドラムの直径は約1200mmであり、戦艦長門等に搭載されていたものとほぼ同じです。ところが蒸気ドラムの胴長は約2600mmと、半分程度です。
ロ号艦本式ボイラの大きさは艦の大小には関係なく、駆逐艦でも航空母艦より大型のものを搭載していました。(もちろん数は大きく異なり、航空母艦蒼龍は8缶、戦艦大和は12缶ですが、駆逐艦は3缶程度です。)例えば駆逐艦秋月では図面から蒸気ドラムの胴長は4m以上あることが判ります。
蒸気ドラムの胴長が短い=奥行が小さいということですが、このことは、この艦本式ボイラが「重油専焼缶」でなく、右表の戦艦伊勢の改装前のボイラのように、投炭能力の制約(燃料の石炭を投げ込むのに奥行きが長いと奥まで届かない)から奥行が大きくできない「石炭・重油混焼缶」の可能性が高いと考えられます。
昭和15年頃に建造された鑑定で「艦本式ロ号ボイラ(混焼缶)」のものを調べてみると、「急設網艦 初鷹型」がありました。この艦のボイラの蒸気ドラム胴長を図面から割り出すと約2600mm!ほぼ2術校のロ号艦本式ボイラと一致しました。(言い伝えでは「この艦本式ボイラは駆逐艦のボイラ」という話もありましたが、駆逐艦のロ号缶はもっと大きいことから都市伝説だったようです・・・)
「急設網艦 初鷹型」は昭和14年~16年で「初鷹」「蒼鷹」「若鷹」の3艦が建造され、後にもう1艦を建造する計画(⑤計画)がありましたが、戦局の悪化により建造中止となっています。もしかすると、この艦に搭載予定で製造された混焼缶でしたが、建造が中止となり、他の艦に使用したくても、その頃は大型艦や駆逐艦はロ号缶(重油専焼缶)、海防艦丁型のような小型艦にはホ号缶が使用されていたので、搭載する艦艇もなく、終戦まで未使用だったのでは・・・と推測しましたが、銘板も来歴簿もないので確かめるすべはありません。何か由来についてご存知の方は2術科まで御教示をお願いします。
※この推測だと「ボイラは概ね艦船建造の工廠及び民間造船所で各自建造船用の艦本式ボイラを製造した」という記述(「昭和造船史(第1巻)」日本造船学会編1977年 原書房)に対して、駆逐艦を建造していた舞鶴工廠が、民間造船所が建造していた急設網艦のボイラを製造したことになるところが矛盾するのですが・・・(^^;) 教育1部長 青島1佐
ボイラ管脱装管実習装置
そのほかの第2術科学校の記事は別に記載します。
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〆