帝国海軍最後の生き残り「宗谷」

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平成30年6月10日が宗谷竣工80周年でした

昭和13年(1938)6月10日竣工
平成30年(2018)6月10日に「生誕80周年」を迎えた宗谷

南極観測船として有名な「宗谷」
実は、戦前は横須賀鎮守府所属の特務艦として活躍。

現在、帝国海軍に所属した経歴を持つ艦船としては
「戦艦三笠」「特務艦宗谷」「病院船氷川丸」の3隻のみが現存している。

そんな宗谷の戦歴を、簡単にたどってみようと想う。


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宗谷

勇名を残した「宗谷」には、さまざまな愛称が残っている。

 「帝国海軍最後の生き残り」
 「奇跡の船」
 「不可能を可能にする船」

そして、海保時代 には
 「福音の使者」
 「海のサンタクロース」
 「燈台の白姫」
 「北洋の守り神」
という愛称も残している。


◆製造◆
川南工業香焼島造船所(現在の三菱重工業長崎造船所香焼工場)

◆運用者◆
川南工業→日清汽船→栗林商船→辰南商船→ 大日本帝国海軍→大蔵省→船舶運営会→ 海上保安庁

◆種別◆
商船→海軍・特務艦→海軍・特別輸送艦→引揚船→灯台補給船→巡視船

◆艦級◆
天領丸型2番船→海軍・宗谷型雑用運送艦→灯台補給船→巡視船

◆母港◆
横須賀鎮守府(特務艦)
東京港竹芝桟橋(灯台補給船)
函館港(巡視船)
東京港船の科学館(保存船)


起工  1936年10月31日
進水  1938年2月16日
竣工  1938年6月10日
退役  1978年10月2日
保存  1979年5月1日~(記念船)

帝国海軍「特務艦」時代
1940~1945
基準排水量:3.800t
速力:12.1ノット
機関:川南式3連式往復動蒸気機関1基1軸
ボイラー:2缶
出力:1,597馬力

1956~1962年(南極観測船)
満載排水量:4.614t(第6次)
全長:83.7 m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:12.3 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力

1963~1978年(巡視船)
満載排水量:3.853t
全長:83.7m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:13.5 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力


帝国海軍特務艦「宗谷」の歴史

昭和11年、長崎の川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より砕氷型貨物船3隻の発注を受けた。

昭和13年(1938)にソ連船 「ボロチャエベツ」(砕氷型貨物船) として進水するも第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされずに国内船に転用される。

第一次大戦を取り巻く世界情勢を鑑み、結果としてソ連に引き渡しをせず、商船「地領丸」として竣工し、昭和13年7月に民間にチャーター。

砕氷耐氷能力と共に最新鋭英国製音響測探儀も備えており、日本海軍も本船に興味を持つがソ連との契約がこじれたために民間船として就航したという。

約1年後、結局は商船「地領丸」を昭和14年11月に海軍が買入。
昭和15年2月20日「宗谷」と命名し特務艦に編入。
雑用運送艦(砕氷型)に類別。
これが開戦前に海軍が民間から購入した唯一の特務艦となる。

なお、結局は海軍が買い入れしたことで、こののちソ連政府と揉めて裁判に発展したりもしている。

海軍特務艦「宗谷」

艦首に8cm単装高角砲1門を備える。
開戦前は海洋測量艦として活躍。

昭和16年12月8日、開戦時は横須賀停泊。
昭和17年1月、夏島トラック泊地入港し第四艦隊(司令官は井上成美)に編入。 同年3月、ラバウルに進出し港湾調査に活躍。

昭和17年8月、ラバウルの第八艦隊に所属。
三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生。宗谷は輸送船団に参加。しかし陸戦隊輸送船団が後退することによりツラギ奪還任務は失敗に終わる。

昭和18年1月28日、ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。

昭和19年2月17日、トラック島空襲に巻き込まれ回避行動中に座礁。
翌18日に総員退艦命令。

しかし2月19日、潮が満ちて宗谷は自然離礁し漂流。
総員退艦命令にて離れていた乗員が、様子を見に来た際に離礁しているのを発見し、仰天した乗組員たちは再び艦に乗り込んだという。
こうして宗谷は奇跡的にトラック脱出に成功。

トラック空襲の危機を脱した宗谷は昭和19年4月に横須賀に帰港。
測量艦から輸送艦に改装され、輸送任務に従事。

昭和20年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受け、翌日に横須賀より避退し女川へ。

戦艦「長門」
病院船「氷川丸」

昭和20年
8月6日、女川から室蘭への輸送任務に従事。(宗谷出港後に女川空襲あり)
8月8日、室蘭入港し、そのまま室蘭で終戦。

8月29日、横須賀に帰港し軍艦旗を降ろす。
8月30日、引き渡しを終了し退艦。
9月5日、海軍籍から除籍。

※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」
※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」

特務艦「宗谷」

船の科学館別館にて特務艦時代の「宗谷」模型(1/700)が展示されておりました。

同スケールの戦艦群に囲まれて、ちょっと窮屈な感じです。

余談ですが、同一スケール(1/700)で海軍艦艇の大きさ比較がビジュアル感覚的に出来る展示は貴重ですね。

宗谷の戦後は引揚船、
そして海上保安庁灯台補給船へと。

南極観測船時代の話は、有名ですので、ここでは割愛致します。
せっかくなので、戦前の海軍時代の話を軸にしたかったのです。


船内(及び艦内)で立派な階段があれば、だいたいそれは船長(艦長)専用の階段となります。
宗谷のこの階段も(特に説明看板は無かったのですが)、上に艦長室につながっておりましたので、そういうことだと思います。

船長室

宗谷と陸奥

写真は平成28年9月3日。リニューアル前。

陸奥主砲(横須賀に移設されました)と、宗谷の帝国海軍を知る時代のコンビはこの時が見納めでした。

軍艦「陸奥」 長門型戦艦の二番艦「陸奥」帝國海軍のシンボルとして長門ともども日本国民から親しまれたものの、昭和18年(1943)6月...

宗谷神社

舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。

「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。
「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことから海保時代に「宗谷神社」が復活。 これが海上保安庁始まって以来、最初に誕生した船内神社のはじまりであったという。


宗谷の写真

以下、写真を投下。

入館は無料。
受付には募金箱があり、お気持ちとして「宗谷保存募金」ができます。

海上保安庁のファンネルマークが美しい。 ブルーの帯とコンパスマーク。

宗谷の写真(リニューアル前後の比較)

平成29年にリニューアルしてピカピカになっております。
どのくらい変わったか、というと。

平成29年4月撮影と、平成28年6月撮影。見違えりました。


リニューアル前

リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)

平成28年9月係留場所変更

37年ぶりの出港。
70メートル離れた対岸に移動。
この僅かな移動で係留地は「品川区」から「江東区」となった。

まだ機関が生きていて自走できたんですね・・・

企画展「宗谷のあゆみ」パネルより

平成28年12月


「帝国海軍最後の生き残り」であれど、そんな時代のことはあまり覚えていなさそうな彼女。

南極観測の栄光を伝承し続ける彼女は、今も静かに変わりゆく環境の中に身を委ねつつ、佇んでおりました。

東京・お台場地区の桟橋にひっそりと係留されている南極観測船「宗谷」。この船が太平洋戦争時に海軍の特務艦として働いたことを知る人はもう多くないだろう。船の科学館(品川区)の学芸員、飯沼一雄さんは「宗谷ほど波瀾(はらん)万丈な生涯を持つ船はないと思います」。進水は今から80年前の1938年。海軍では新たに占領した地域の測量...
「宗谷」の活躍は実は「南極観測船」だけじゃないって知ってました? ここでは「南極観測船」として活躍した時期を中…


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