海自第2術科学校一般公開(横須賀田浦)

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横須賀田浦
海自第2術科学校(2術校) 一般公開・オープンスクール(平成28年9月)


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海自第2術科学校一般公開

9月10日。
この日は海上自衛隊第2術科学校でオープンスクール(一般公開)がございました。 JR田浦駅に到着したのは午前10半すぎ。 観てきたものを簡単にレポしてみましょう。

田浦トンネル

JR田浦駅名物の三連トンネル(横須賀側)
中央トンネル(電車走行中)は、明治22年(1889)横須賀線開通時の最も古いもの。 右のレンガ造トンネルは大正13年(1924)に増設。 左の大きなトンネルは昭和18年(1943)海軍軍需輸送引込線用。

JR田浦駅の東逗子側は2連トンネル。
下り線(右側)は明治22年(1889)建設。 上り線(左側)は大正13年(1924)複線化に伴って建設。

JR田浦駅。
因みにホーム長がいまどきのJRロング編成車両には対応していない為、横須賀側1両目はトンネルに頭を突っ込んで停車。扉は開かず。乗降は2両目以降でお願い致しますな駅です。 駅の両端がトンネルに挟まれている為にどーしようもない。

海上自衛隊第2術科学校

JR田浦駅から歩くこと5分ほど。 海上自衛隊第2術科学校正門に到着です。 敷地の外側はよく歩いていましたが、敷地の中に入るのは初めてですw 敷地を巡っている水堀がなんかもう古そうで、これも海軍時代の名残なのかなどうなのかな、とか。

マップです。 広いです。
盛りだくさんすぎて、迷い箸状態です。 さあ、どこから参りましょうかね?

海上自衛隊第2術科学校庁舎 (ここは非公開でした。まあ、そりゃそうだ)

φ(..)メモ
第1術科学校・江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総 航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴 経理・補給関係術科教育訓練


海自第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/ 

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関


まず最初に何処に行こうか迷って、機関とか電機とかタービンとかエンジンとか英会話教室とか…私の頭では処理しきれない催し物ばかりでパンクしそうだったので、まずは一番得意なところに足が赴きました。

歴史保存エリア

海軍通信教育発祥記念碑

明治34年、この地「海軍水雷術練習所」にて日本で始めての無線電信術の教育が行われた。 明治40年に海軍水雷学校となり、昭和5年に海軍通信学校が分離独立し、昭和14年に海軍通信学校は久里浜に移転し終戦。

海軍水雷学校跡碑

明治26年12月2日に水雷術練習所が設置。明治40年4月20日に海軍水雷学校。昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

明治28年2月4日夜。日清戦争威海衛の戦いにおいて第六号水雷艇(艇長は鈴木貫太郎大尉・のちの総理)は港内に突入し敵艦鎮遠に水雷攻撃をしようとした矢先、発射管が氷に閉ざされ射出が不可能となってしまった。
水雷術を専攻し担当していた上崎上等兵曹は水雷攻撃ができなかった事を責任を感じ、敵降伏後の3月14日に艇内において自刃。36歳であった。 鈴木貫太郎艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建立。昭和43年に「水雷ゆかりの2術校」内に移転。

海上自衛隊発祥乃碑

昭和27年4月26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地にて創設。戦後の海軍の再建を検討していた「Y委員会」において地元と米軍の了解が得られた場所がこの「田浦」の地だったのだ。

すなわち田浦は海自発祥の地!

米内光政(海軍大臣)がその晩年を傾けた「海軍再建」の意志を引き継いだ保科善四郎(軍務局長)、そしてY委員会委員長となった山本義雄(総務局長)、調整に尽力した野村吉三郎…


国旗掲揚旗竿基部

海上自衛隊創設時にこの地に建てられたもの。 海上自衛隊の歴史を残し物語るもの。

タイムカプセル

意外でした。
海自の学校でタイムカプセルって、なんかオチャメ。

伝統と飛躍
海上自衛隊第2術科学校
開校40周年記念
タイムカプセル
 1998.4.1設置
 2018.4.1開封

(2019年に記事編集してますので、もう開封されてますね・・・)

第2術科学校開校20周年記念機関

350馬力蒸気往復機関 海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。

こんな感じで「歴史保存エリア」を満喫満足したら、庁舎をみながら敷地の中心部に向かいます。

時間は11時半頃。 ちょっと早いけど「お昼」にしましょう。 厚生センターの食堂へ向かいます。

田浦厚生センター

海自第2術科学校の食堂でいただくカレー。

「DDGきりしま」カレー(ポーク)を「海自のプレート」で戴きました。 海自で使用されている本物のアルミプレートにカレーとサラダ・玉子焼・福神漬・コロッケ・牛乳がセット。 食堂の隣は売店。

食事を終えたらプラプラとお散歩を。

格納庫のようにみえる建屋は「内燃実習棟」。 この海自第2術科学校内に、旧海軍時代からの建造物がどれだけ残っているかは未調査・未把握でしたので、なんとなく建物の記録もしておきました。

行進展示

プラプラしていたらちょうど、グランドでは学生たちによる「行進展示」がおこなわれておりました。 もちろんここは海自の学校ですので、左側は陸自ではなく海自隊員の陸上迷彩服ってことです。

PS07あしたか
AGS-5106海洋観測艦しょうなん
MST-463掃海母艦うらが

内燃機関実習場

さきほどの格納庫みたいな建屋。 ・・・文系人間には。どうにも難しい展示なので内燃機関の見物よりも建物の観察がメインでした・・・。 うーむ。

第二ガスタービン実習場

V6V機関室。
うっ、うむ。

電機・応急工作実習場

四角い建物。 ここも・・・はい、難しいです・・・。 隊員の人が展示物に関していろいろ教えてくれるんですが、、、馬耳東風・・・。 うーむ。

電機・応急工作実習場

パソコンでクイズに挑戦。 これなら、私でもなんとかなりそうですw 難問!!海上自衛隊クイズ!海上自衛隊創設問題
やってみました

・・
・・・
合格! 歴史系だったので面目保てて助かりました(1問、間違えた)

掃海艦を見に行きましょう!

掃海艦はちじょう ※除籍

やえやま型掃海艦3番艦
磁気反応型機雷を避けるために木造艦。世界最大級の木造船舶。
排水量基準1,000トン / 満載1,200トン
全長67.0m/全幅11.8m

因みに、やえやま型掃海艦
1番艦「やえやま」は2016年(平成28年)6月28日除籍
2番艦「つしま」は2016年(平成28年)7月1日除籍
3番艦「はちじょう」のみが現役。(補足→平成29年に除籍されました)
姉妹引退艦は「はちじょう」の近くに佇んでおりました・・・

掃海隊群第1掃海隊
MSO-303掃海艦はちじょう
海自としての再出発。
その根源は「掃海部隊」にあり。
海軍の伝統を受け継ぎ、国際貢献の主役として今も掃海部隊は活躍をしている。

機雷処分用として、前甲板にJM-61-M20mm多銃身機銃1基を備える。

艦橋

掃海艦はちじょう艦内神棚

近くにいた隊員に質問をしてみたところ、艦にゆかりのある八丈島の神社もお祀りしているとのことです。(その隊員さんはどこの神社かまでは詳しくはわからないけど、とのことでしたが。)

掃海艦はちじょう艦上から、田浦倉庫群を望む。

B倉庫・C倉庫・D倉庫
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

K倉庫・F倉庫・G倉庫

海自横須賀造修補給所比与宇油脂庫地区

B・C・D・K・E・F・G・H倉庫

帝國海軍軍需部長浦倉庫の名残を海側から。
※平成30年7月22日にB倉庫C倉庫が焼失してしまいました。

参考情報 →倉庫略番写真地図

一部に熱烈なファンがいるらしい?
海自リアカー(折りたたみ式) 「はちじょう」のものではなく・・・
掃海艇「はつしま甲板」とラベル有り

掃海艦「はちじょう」スタンプ色々

旧帝国海軍横須賀海軍軍需部倉庫。

こちらは2術校と隣接する海自横須賀造修補給所N-4倉庫。
この旧帝國海軍名残の倉庫が、海自敷地内から間近に見ることが出来たのが地味に嬉しく。 (敷地外からも見ることは出来ますが・・・)

隊舎

隊舎では学生居室の公開も。
バームクーヘン・・・といえばベッドメイキングw
このピシーっとした毎朝のベットメイキングも海軍の伝統。
皺があろうがなかろうが上官が(以下自主規制)なのは旧海軍ですが海自もアレコレ伝統墨守してるのかな…

スタンプラリー

(資料室系の難しい話は後回し 集めると「ペーパークラフト」が貰えました。(まだ作ってません)

因みにペーパークラフト一番難易度は「きりしま」とのことでしたが、私は「ひゅうが」を。
航空戦艦の時代ですか?日向師匠!

さて、いよいよこちらに参ります。

第2術科学校

「海軍機関術参考資料室」

「海上自衛隊創設史料室」

実はここを一番の楽しみにしていたのですが、結果として時間切れをおこしてしまい、次回はここをメインにしようと改めて決意をした、など。

歴史講座「掃海がつないだ海軍のこころ」
帝国海軍から海自まで脈々と受け継がれてきた伝統。
「サイレントネイビー」

軍人は政治に関与せず、ひたすらに任務を果たせ、と。 縁の下で掃海部隊が黙々と営々と繋いできた「海軍のこころ」を。

海自の創設物語。

そして日本近海・朝鮮戦争・ペルシャ湾掃海作戦など。 まさにサイレントネイビーゆえに、あまり物語られることのない掃海部隊の活躍を学ぶことが出来ました。

まずは「海軍機関術参考資料室」へ。

ここには海軍機関学校関係の貴重な史料、また海軍の歴史的な史料が集まっております。
幾つかは公式Webにも掲載がございますね。

2術校では、機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を行っています。

豊田副武書 「丹心答聖明」 たんしんせいめいにこたう

元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作。
「真心をもって、天子の聖徳に答える」の意。
豊田副武は、最後となる第19代軍令部総長。海軍大将。

古賀峯一書 「竭誠盡敬」 まことをつくしてけいをつくす

「真心を尽くして尊敬の念を持つ」の意。
古賀峯一は山本五十六の後任として第28代連合艦隊司令長官となるも海軍乙事件にて殉職。最終階級は元帥海軍大将。

永野修身書
「庶昭忠誠」「憑高跳遠」

第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。開戦時の軍令部総長。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

山本五十六書
「常在戦場」

長岡藩の藩風・藩訓「常在戦場」。 河井継之助とともにあった長岡藩家老・山本帯刀家を継いだ高野五十六は、その長岡の精神を常に座右の銘としていた。

幾つか目に止まったものをつらつらと掲載していきます。
史料は無数にあり、見逃したものも多いため再訪したいですね。

山本五十六の書

古賀峯一の元帥刀

旧海軍用燃料(塊炭)
明治末頃まで艦艇の燃料として使われていた炭

ちなみに展示品がのっている、この机は「海軍水雷学校記念材」だったり。

旧海軍水雷学校鐘鈴

昭和16年12月8日当時の「海軍士官夏服外套肩章」

進水式斧金槌
右から 駆逐艦・暁(進水式)
航空母艦・飛龍(起工式使用金槌)
特務艦・高崎(進水式使用斧)

井上成美の懇談録音テープ

米内光政・山本五十六とともに海軍三羽烏(左派トリオ)と称された井上成美。米内海軍大臣の次官としてその片腕を担った人物。
声は聞こえぬ展示物であれ、背筋がすっと伸びてしまいました。

軍艦「長門」水圧管水管系図の銘板

終戦後に英国進駐軍が軍艦「長門」機関室から外して英国に持ち帰っていたものが昭和61年に英国から海自に寄贈。 ビキニ前に取り外されたからこそ残った長門の銘板。感無量です…。

あぁ、これは貴重な本棚だ・・・。

こんな感じで上から下まで貴重な史料のオンパレードでレポはほんの一部。圧倒的に時間たりませんでした。これは、また見学に来たいです。

「海上自衛隊創設史料室」
続いては向かいの部屋に。
戦後、海軍解体後に、海上自衛隊が創設するまでを物語る史料室。知らなかったことも多く大変勉強になりました。

Y委員会

1945年(昭和20年)12月1日。

旧海軍組織・海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。 第二復員省資料整理部では米海軍が関与する中で海軍再建の研究がなされた。

最期の海軍大臣・米内光政。

米内は小磯・鈴木貫太郎・東久邇宮・幣原内閣と戦中戦後の海軍大臣を歴任し、その帝國海軍の最期(1945/12/1海軍省廃止)を見守った人物。 米内が軍務局長・保科善四郎に託す想い…

戦後、米内は保科善四郎軍務局長に「海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」と指示したという。

保科善四郎が戦後に政界に入ったのはこの「米内の遺言」を一つでも達成しようとしたためと述べており、Y委員会(海軍再建検討のための組織)を通して、現在の海上自衛隊創設の際に「米内の遺志」を反映されていると言われている。

保科善四郎(海軍中将)は、開戦時の駐米大使で海軍大将であった野村吉三郎とともに海軍再建の検討を開始。 野村は復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入り、のち政府・米海軍とも調整を進め1952年(昭和27年)にはその道筋が構築された。

Y委員会。 昭和26年10月。吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。同委員会が日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった。

Y委員会。
Yの由来には諸説ある。
ひとつは、
「A」は陸軍、「B」は海軍という海軍隠語。しかしBでは「海軍」のことを指しているのがストレートすぎるので逆順にしてZに次いだ「Y」とした説。

Y委員会由来もう一つの説は、
旧海軍側の中心人物であった山本善雄(元少将)、吉田英三(元大佐)両氏の苗字の「Y」、さらに海保側の中心人物であった海上保安庁長官の柳沢米吉の「Y」。 また、海軍再建を願った米内光政の「Y」をも含む・・・とも。

戦後。
帝国海軍解体後に、如実に日本の沿岸・港湾警備に問題が生じたために、1948年(昭和23年)に連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として海上保安庁が設立。

そして1950年(昭和25年)、朝鮮戦争において対機雷戦戦力が不足してた米軍より指令が下り、海上保安庁より掃海部隊が派遣。朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施。(日本特別掃海隊)

これにより米軍側からも日本の海軍戦力の再建が必要との認識が沸き起こる。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった。

こんな感じで海自の創設を学びつつ。(概要はかなり端折りました・・・) 勉強になりました。

昭和33年ごろの第二術科学校。

服務の宣誓  
 保安庁職員  
 自衛隊員

16時ちょっと前。
史料室でズッポリと沼にハマってしまい。
これで時間切れ。
まだまだ見たりなかった気がします。
これはまた来年のオープンスクールにお伺いしないと、ですね。

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