「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

茨城縣護國神社と水戸歩兵第二聯隊の戦跡散策

平成29年8月

レンタサイクルで水戸市内の戦跡散策を。

茨城県護国神社

茨城縣護國神社は昭和16年11月に創建。
御祭神は幕末から明治維新以後、日清日露の戦役、大東亜戦争に至る支那事変等において国事にたおられ護国の礎となられた茨城県出身の63400余柱の戦没者(軍人・軍属のほか従軍看護婦など女性も含む)の英霊を祀る。

慰霊安鎮

訪れたらちょうど「みたままつり」の季節。
7月10日から8月19日まで実施されているようです。
良き時期の参拝。ありがとうございます。

御朱印。
女性の神職さんが力強い筆使いで書いてくださいまして。 そして一言「全国の護國神社を廻られているんですか?」と。
気がついて戴けました。ありがとうございます。
「靖國神社の御朱印帳に護國神社の御朱印」集印を。地道に少しずつ…

征清記念碑

陸軍大将 小松宮彰仁親王篆額
日清戦争に際して犠牲となった茨城県人を慰霊。

征清記念碑
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆額
 我が神州、建國以来、外征の史に見るる者、蓋し十有餘次なり。遠くは、神后三韓を征し、近くは豊太閤朝鮮を伐つ。其の功烈最も古今に卓絶す。而して輓近、皇師討清の役、實に二役以来の大事たるなり。已に甲数十萬を起して、兵を千里の外に用ひ、陸は堅城を抜き、海は大艦を奪ふ。而して訊馘以て京観を築くべきなり。斥地以て版圖を廣ぐるに足るなり。其の、皇威を震耀し、國光を宣揚するは想ひ如何と為すや。其の功夐に豊太閤に軼りて、其の烈實に、神后より光有り。亦古今の大捷と謂ふべきなり。惟ふに其の役大なる故に、我が喪ふ所の兵士の數、蓋し亦少しと為さず。今や、茨城一縣を以て之を算ふるに、其の戰ひて敵弾に斃れ虜鋒に殞し、及び盡瘁して病没せる者、數百人を下らず。是れ盡く桓桓の将士に非ずんば、則ち赳赳の武夫なり。誰か國家の為に惜しまざらんや。水戸の常磐の地には、素より鎮靈の社有りて、其の嘗て命を國事に致せる者を祀る。今茲志士相謀り、縣内の士にして討清の役に死せる者を合祀し、以て大いに弔祭を修し、而して又特に一大碑を社の側に建て、以て其の忠烈を表彰し、其の靈をして憑る所有り、而して其の名をして傳はる所有らしめんと欲し、余に其の文を撰ばんことを請ふ。余嘗て國乗を讀み、夙に關東の古俗、特に義勇を以て著るるを欽ぶ。嚮に清に事有るに及び、東兵果たして克く恥を重んじ、死を輕んじ、實に古の勇名に負かざるを聞く。乃ち彼の戰勝功取に於て蓋し最も與って力有るを知る。其の勲功は寧ぞ没すべけんや。善きかな此の舉たるや。余適任に在り、毎に管民軍士を歸葬し、郡市を舉げて、輙ち哀を致すを観る。而して今又修祭を為し碑を建つ。嗚呼闔縣協力此の如し。其れ至れるなり。亦能く國家の兵士を待つの恩意を體すると謂ひつべし。之を太閤征韓の役の、陣没する者算ふる無く、其の屍を原野に委ねて俺ず、其の魂は彷徨して之れが憑る所無く、哀れむべきを視るに、豈其れ日を同じくして談ずべけんや。是れ固より昭代の至徳に由るなりと雖も、抑も亦東人の義を好むの致す所を見んのみ。夫れ此の勇也、義也、今併せて以て之を表す。庶幾くは、後人をして風を聞きて、激励奮起する所有らんことを。是に於てか書す。
 明治30年4月
 茨城県知事正五位勲五等江木千之撰 
 茨城県書記官従五位勲五等渡邊秀書
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

征清記念碑
 この碑は明治34年4月即ち日清戦争の直後に水戸常盤地内鎮霊社の傍らに茨城県人で日清戦役に従軍した将士が国のために壮烈に戦い戦死し又は病に斃れた数百柱を合祀した際、その名誉を後の世に人々に伝えようと県を挙げて慰霊祭を執り行い県で建てられたものであります。
 碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、今度の日清戦争はその比ではない大戦果であった。
 戦が大きかっただけに、我軍の損害も多く茨城県だけでも戦死、戦病者が数百人以上ある。誰が国家のため惜しまないものがあろうか。茨城県人は古来から義勇心が強かったが今度の戦役でも勇名を挙げた。
 後世の人もこの話を聞いて奮起することであろう。

北征記功碑

陸軍中将 閑院宮載仁親王篆額
日露戦争に際して犠牲となった茨城県人千数百名を慰霊。

北征記功碑
 この碑は明治39年(1906年)2月即ち日露戦争(明治37年1904年 明治38年1905年)の直後、茨城県内の戦死、戦傷病者千数百名の慰霊祭を行ない碑を建て戦況を叙しその功績を永久に伝えようとして県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274年)では、元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち世界を震撼させた。
 これは上に神のように賢い天皇陛下がおわしまし 下には賛襄の良民がおり 将士の忠勇義烈の心がすぐれていたからである。
 元寇は10万以下の兵力であったがロシヤ軍は100万以上で戦も大きく偉大な功績も挙げ弘安の役の比ではなかった。
 茨城県の従軍軍人は数万人海に陸に勇戦奮闘し茨城男子の面目をあげ皇国軍人の精華を発揮したが戦死、戦病死者千数百人その死にかたは違うが忠義の鬼である。
 この碑を読む人は必ず感奮して我が国の権威と力を大いにあげるだろう。

北征記功碑
陸軍中将大勲位功四級載仁篆額
 我が邦の威武、四表に烜燿たるや尚史し。弘安の役、元寇を一輿に殲す者は、上に軫憂祈神の亀山上皇有り、下に勇断斬使の北条時宗有るを以てなり。三十七八秊の役、我軍を百戦に剿する者は、・に叡聖神武の 英主有り、下に輔弼賛襄の良臣有るを以てなお将士の忠勇義烈に至りては、即ち日を同じくして語るべからざるもの有り、且つ元寇は十萬を出ず、我軍は即ち百萬を過ぐ。故に戰大にして功も亦偉なること、決して弘安の比に非ざるなり。彼は宇内の強大國を以て一母五乳の意図を懐き、満韓を侵蝕し、以て東洋の平和を擾さんと欲す。我安んぞ其の亡状を責めざるを得ん。是に於て 王師海を絶り以て掃蕩を期す。海軍は即ち敵艦を旅順港外に撃破し死士をして船を沈め港口を壅せしむ。又浦塩艦隊を蔚山の洋に摧残し、終に波羅斯艦隊を日本海に邀撃し、之を殲滅す。海上権は全く我に帰す。陸軍は則ち先づ鴨緑江の儉を奪ひ、普蘭店、王家屯の要を扼へ、鳳凰、摩天嶺、南山、得利寺、岫崿、柝木、遼陽、旅順の諸要砦を抜き、遂に奉天を破り、以て敵を北満州に駆逐する有り。海陸大小數百戦、竒勛偉績は天地を震撼し、鹵獲俘虜の夥しきこと勝げて紀すべからず。我が縣の従軍する者、将士合わせて數萬人、海に陸に勇戦奮闘し、以て常総男子の面目を顕揚し、皇国軍・・の精華を発揮す。而して戦死病没する者千九百餘人、其の死は殊にすと雖も忠義の鬼たるは、即ち一なり。今や和成り、事平なり。余郷紳と胥ひ謀り、大に弔祭を脩し、且つ碑を建て戦況を略叙し、以て之を不朽に傅へん。顧みて邦人の談元寇の事に及べば、草野安達等慮艦を斫つの壮烈を稱せざるは無く、以て武夫の龜鑑と為す。後の今を視ること猶今の昔を視るがごとく、即ち其の碑を讀む者、必ず應に感奮する所有り、以て倍我が邦の威武を宣揚すべきなり。
 明治三十九年二月    
 茨城縣知事正四位勲三等寺原長輝撰并書
  (社)日本郷友連盟茨城県支部建之 

大東亜戦争記念碑

天皇陛下御在位60年を奉祝し昭和61年8月15日建立。

碑銘
 過ぐる昭和初期における世界的政治経済大恐慌のさなか、祖國日本の苦難の歴史は、昭和六年九月十八日、満州事変に発し、支那事変(昭和十二年七月七日)、張鼓峰事件(同年七月九日)、ノモンハン事件(同十四年五月十二日)を経て遂に昭和十六年十二月八日には米英両大国に対する大東亜戦の布告となり、その後昭和二十年八月十五日の終戦に至るまで、約十五年にわたる日本民族存亡の命運を賭する肇国以来未曾有の長期大戦争に進展するに至った。
 かくしてその戦域は中国全土及び東南アジア諸域はもとより遥か度洋、豪北、ニューギニア各地、さらには全太平洋海域にまたがる実に全地球の二分の一に渡る広大な範囲に拡大され、四百余万にのぼるわが将兵は、過去数世紀の間西欧先進諸国の隷属化に喘いでいた旧植民地の各地に転戦。終始連合国軍の圧倒的物量攻勢と対決し、陸に海に空に善戦敢闘苛烈な敵攻撃を受けて屍山血河の激戦を展開した。
 その間、わが本土もまた度重なる敵の無差別爆撃や艦砲射撃を受け、なかんずく非人道的極まりない原子爆弾投下により一面の焦土と化し、銃後一般国民の蒙る戦禍も日毎に増大するに立ち至った。しかも一億国民の気概は屈することなく、なお総力を挙げて徹底抗戦の構えは不動なものがあったにもかかわらず、戦局は必ずしも我に利あらず、最後に本土決戦による皇国興亡の関頭に立ち、折しもソ連の機を穿っての不法参戦大挙侵入に遭うなど、諸般の大勢の赴くところ、遂に聖断によってポツダム共同宣言受諾の止むなきに至り、終戦の大勅を拝するに及び、一億国民号泣の涙と共にこの長期にわたる大戦の幕は閉じられた。
 この戦いに全国二百五十万有余の同胞の尊い生命が失われ、茨城健児も精悍無比、この国家危急の秋に当たり終始伝統たる不抜の闘魂を遺憾なく発揮したが、五万三千五百余名の軍人軍属を始め、四千八百余名の内地外地における婦女子を含む被災死亡者を合わせ五万八千四百余名の県民が国難に殉じたのである。これらの人々の鮮血に塗れた最後の姿は今にして想い起こすだに惨烈悲痛の極みである。
 終戦のこのかた四十年、我が国民は「終戦の詔書」の示されるところに従い 敗戦の汚名を甘受し、耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで今日の国家隆盛の姿をみるに至ったのであるが、われわれ県民も同様、筆舌に尽くしがたい数々の屈辱と苦渋を乗り越え、辛苦勉励によりこの経済復興し繁栄とをもたらし得たのである。ここに及んで往時を顧みればこれひとえに今は亡き諸英霊の献身と御加護の賜と衷心からの感謝の誠を捧げたい。さらにまた、長い戦乱の陣痛ののち、かってのアジアを始めとするも全世界の植民地が次々に解放され、新たなる希望に満ち、民族独立の雄叫びが聞かれるとき、この西欧列強と伍し、日本がよく明治開国以来アジアにおいて唯一の栄光ある独立国家とし、その名誉と道統を守り抜いた日清日露の両戦役と同様、この度の戦いは日本民族が自存自衛とアジア植民地解放の宿命的使命を果たした「聖戦」であり、世界人類史上に残した燦然たる足跡は永く後世に伝承せられることを確信する。
 よって時あたかも今上陛下御在位六十年の千載一遇のこの年に当たり、聖寿のいや栄えまさんことと、祖国日本の永遠の伸展並びに世界恒久の平和を祈念しつつこの碑を建立し、以て英霊の功績をとこしえに顕彰するものである。
 昭和六十一年八月十五日 
 茨城県大東亜戦争記念碑建立発起人

大東亜戦争記念碑 大東亜戦争要図

満州事変以降大東亜戦争本県人戦没者
軍人軍属 53,542人
一般県人 4,879人
計 58,421人

平和のねがい

工兵第22連隊戦友会(昭和62年8月9日建立)
昭和十三年六月に水戸工兵隊より編成され第二十二師団工兵第二十二聯隊として創立。
主に中国大陸で展開され、終戦時はビルマ反撃作戦準備の為道路構築中であった。

顕勲の塔

碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

戦没者留魂の處

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

さくら山遺品館

開館時間は午前10時から午後2時まで。
私が参拝したのは午後3時すぎ。
残念です。また来ましょう。

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑

水戸第十四師団隷下、水戸歩兵第二聯隊を鎮魂する。
歩兵第二聯隊長は中川州男大佐。
中川連隊長がペリリュー島守備隊長となり、水戸連隊がペリリュー島の戦いの主役となる…

ペリリュー島守備部隊鎮魂碑
碑文
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され聯隊長中川州男大佐は、一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつつ持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。
守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告され、 世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。 ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。
 平成五年十一月二十四日
 歩二会・ペリリュー島慰霊推進会

ペリリュー島の戦い

昭和19年9月15日~11月25日
水戸歩兵第二連隊を中心とした日本軍が要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法により組織的な抵抗戦術で米軍を苦しめた戦い。
この戦い方法が、のちに硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

日本軍戦死者10,695名・捕虜202名・最後まで戦った生存者34名
アメリカ軍戦死者 2,336名・戦傷者 8,450名
一般人(島民など)死者・負傷者ともに0名  
 ※ 戦闘開始前に日本軍は島民を強制退避させている

鎮魂 岩上大隊の英霊ここに眠る

国のため散りし御魂の名をぞ記さん

岩上大隊とは独立混成歩兵第1連隊第2大隊の通称。
アドミラルティ諸島の戦い
部隊はアドミラルティ諸島ロスネグロス島に展開するも昭和19年3月3日の夜襲総攻撃にて壊滅玉砕。生存者の一部はマヌス島転進。

昭和十八年十一月茨城健児八百有余名は動員下令により応召、宇都宮歩兵第六十六連隊に集合、独立混成歩兵第一連隊(剛四八一九部隊)第二大隊(岩上隊)を編成同年一二月横須賀港より戦艦大和に便乗、トラック島に寄港し巡洋艦大淀、能代にて一九年一月一日、ニューアイルランド島カビエンに上陸せるも、同年一月二十五日アドミラルテイ諸島ロスネグロス島に増派を命ぜられ守備につく。同年二月二十九日、米豪連合軍は艦砲射撃と機銃掃射による絨毯攻撃を繰り返しながら、同日未明ハイン湾に上陸し来る。
 依って我が方は連日連夜反撃を加え、夜襲を決行撃退を図りしが効を奏せず、三月三日夜襲による総攻撃を敢行せるも、如何せん十数倍の兵力と物量戦には敵し難く部隊長以下多数の戦死者を出し、壊滅的打撃を受け玉砕を遂げたり。
 かろうじて生存せる者、マヌス本島に転進せるが食糧全く尽き、木の実、草の芽、その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを食しながら遂にマラリヤ、アメーバ赤痢等病魔に侵され全滅せり、時に昭和十九年五月三十一日なり。
 されどその後になり十六名の九死に一生を得た者判明しその方々と相謀り昭和五十六年五月マヌス遺族会を結成し昭和五十七年十月現地ヌマス島に赴き懇ろな慰霊祭を行った。その時抱き返りし現地の霊砂と、個人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、永遠に今は亡き戦没者のご冥福をお祈りし、併せて二度と戦争を繰返すまじきことを誓うものである。
 願わくば在天の諸霊安らかに眠られんことを。合掌
 平成元年五月吉日(西暦一九八九年)
 岩上大隊遺族マヌス会 

蟹石

自然石に「蟹」
日本画家・木村武山のゆかりの石。

「壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ描キテ寄進ス 藤沢校長」
藤沢校長とは藤沢繁三陸軍中将、陸軍航空通信学校長。 のちにフィリピン担当の第14方面軍第2航空通信司令官となる。

境内社 桜ノ宮


茨城県護国神社の境内入口に2つの石碑が林立している。

鎮魂
(歩兵第二百十三聯隊碑)

昭和五十二年十一月吉日建立
第三十三師団歩兵第二百十三聯隊(弓六八二二部隊)戦友会

歩兵第213聯隊は茨城県出身者にて編成。
第33師団隷下としてインパール作戦に参戦。
聯隊の犠牲者のほとんどはインパール作戦であったという。

 昭和十二年支那事変勃発し、次いで昭和十六年大東亜戦争に突入するや八紘一宇の聖戦のみ旗のもと、支那大陸並びに南方戦線に遠征し、史上最も惨烈を極めたるインパール作戦を始め、各作戦に於て、軍の主兵として連日連夜克く苦難に堪えて善戦敢闘せり。此の間祖国の平和の礎となりて異國の山野に散華戦没されし戦友や将又幾許ぞ、あゝ山行かば草蒸す屍とすべてを祖国に捧げける崇高なる戦友の魂塊は、今や髣髴として甦り、春は桜に匂い秋は紅葉に色染めて、世々是れ照覧し給ふ。あゝ尊き哉、靖國の神々、戦後三十有余年堅き戦友愛に結ばれし戦友会は、み魂鎮めの碑を建立して赫々たる武勲を顕彰し、以て不滅の祖国愛の久遠の光を万古不変に輝かすべく、その梗概を録して永く後世に伝ふると共に日本の永久の平和と繁栄を庶幾はんとするものなり。
 昭和五十二年十一月吉日
 第三十三師団歩兵第二百十三聯隊
 (弓六八二二部隊)戦友会一同

あゝ戦友の碑
(茨城県東部ニューギニア戦友会)

茨城県東部ニューギニア戦友会
昭和四十七年二月吉日建立

国を想い
 南溟の果てに
  散り行きし
戦友の亡きがら抱き涙す

碑文
 とこしえの平和を願って
 過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の将兵は第四十一、五十一師団、第四十四兵站等の主力として昭和十八年十一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの地に優勢なる米豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い命を失うに至りました。
 これら戦友の諸子はその戦いの場において命終わる人とするとき、何を願い何を祈ったことでありましょうか
 終戦後二十七年、我が国は奇跡的とも云うべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら8千有余の同胞のご加護によるものと信じるのであります。昭和四十四年秋県民各層のご支援のもとニューギニアの生存帰還者は収骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され念願久しかった現地での慰霊を行うとともに御遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顕勲の塔納骨大祭を催すことを得ました。
 しかるに、この二十有余星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をととしる英霊の鬼気は陰々として膚に寒くその慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
 ひるがえって、日本の現状に想いを致すとき、世をあげて安寧豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく若人はまたその理想を失い堕弱享楽の幣風吹きて止まざるものがあります。人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪条件のもと三年有余にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の意志を偲び祖國の前途を思うものまことに寒心に堪えざるものを覚えます。
 よって、ここに記念碑を建立し亡き戦友諸子の冥福を祈るとともに、そのいさおしを後世に伝えもって祖國恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
 昭和四十七年二月吉日
 茨城県東部ニューギニア戦友会 

御英霊に感謝と哀悼を。

こうしてだいたい1時間ほど境内を巡らせていただきまして茨城県護国神社をあとします。
しばし千波公園・沢渡川のあたりをふらふら。ちらりと好文亭も見えました。

次はちょっと北上し茨城大学方面に。


レンタサイクルにて茨城大学、茨城県営球場方面に。

水戸歩兵部隊の跡碑

水戸歩兵第2聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。
茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡に建立。歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

大東亜戦争の終結既に遠く 水戸歩兵部隊跡は一変して いま僅かに尼港記念碑を残すに過ぎない
滄桑の変誠に感慨無量である
ここに終戰二十周年を期し 有志相図り 我々の郷土部隊が残した歴史を後々まで伝えたい念願から 大方の協賛を得て この碑を建てるに至った
歩兵第二聯隊は 明治七年明治天皇から軍旗を授かり千葉県佐倉に創設され 爾来西南の役 日清日露両大戦に出征し 明治四十二年水戸に移駐後は シベリア派兵 満洲 支那各事変に参加し 勇名を轟かした
大東亜戦争の戦勢傾くや 満洲から太平洋の要衝ペリリュー島に馳せ 中川大佐以下五千 敵の猛攻に堪えること七旬 昭和十九年十一月遂に玉砕し 七十年の歴史を閉じた
また歩兵第百二聯隊は ニューギニアに転戦敢闘し これに劣らない偉勲をたてた
東部第三十七部隊外留守機関は 困難な後方業務を完遂し 両聯隊をはじめ幾多郷土部隊善戦の基盤をなした
顧みて水戸歩兵部隊の武勲は 祖國の歴史とともに朽ちることなく 永遠に輝くであろう
この碑が つわものどもの夢の跡を偲ぶよすがとなり 後世に資することができるならば幸である
 昭和四十一年四月
 水戸歩兵聯隊遺跡保存会

尼港殉難者記念碑

陸軍大臣山梨半造書
水戸歩兵部隊の跡碑の隣にひときわ大きな石碑
大正11年(1922年)3月建立

尼港事件の犠牲者を慰霊する碑
大正9年(1920)シベリア出兵に際して勃発した尼港事件
派遣された守備隊、水戸歩兵第2聯隊第3大隊は在留邦人を保護し防戦をするがパルチザン軍との戦いで玉砕…

尼港殉難者記念碑
 この碑は、大正九年(一九二〇)シベリア出兵の際、尼港事件に遭い殉難された方々に対する慰霊の為在郷軍人会が建立したものである 尼港事件とは、ロシア革命後の混乱期に、東部シベリア治安維持等のため、英・仏・米等の要請を受け共同出兵(シベリヤ出兵)の際、ニコライエフスク(尼港)守備隊及び邦人が共産革命軍の残虐行為により全滅した事件である。
尼港は、沿海地方北部アムール川河口の政治経済の中心地で、僻遠の港町であった。
 大正8年4月第十四師団は東部シベリヤに派遣され、これに伴い水戸歩兵第ニ聯隊第三大隊(長陸軍少佐・石川正雅)は、ハバロスクの聯隊と別れて尼港に到り、守備隊となって在留邦人の保護等にあたった。
九月海軍と漁業関係者等が引き揚げ後の越冬者は、守備隊320名・海軍43名と石田領事ほか約350人の邦人であった。
この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍(パ軍)で、情勢の悪化を憂い中央では増援部隊の派遣を図ったが、結氷積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。
ニ月五日海軍電信所はパ軍の砲撃を受けて破壊され、守備隊は約4千のパ軍と反日的市民の中に孤立した。
以来両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、武装解除を要求してきた。
石川守備隊長は海軍及び領事等と協議の結果事態打開のため三月十二日未明一斉に攻撃を開始した。
緒戦は有利に進展したが逐次死傷者続出し、石田領事は家族と共に自決した。
その後軍民協力して防戦を続けたが、パ軍の謀略による改ざん電報により停戦し、十九日武装を解除されて全員投獄され悲惨な獄中生活を送った。
五月下旬我が救援部隊の接近を察知したパ軍は、獄内外の日本人全員を惨殺し全市を焼き払って遁走した。
獄舎内の生々しい血痕や「五月二十四日を忘れるな」と無念の恨みを込めた文字、辞世の数々が、最後を物語り、六月三日到着した救援部隊員は、なすすべもなく悲憤の涙を流すばかりであったという。
 平成八年五月二十四日
 水戸歩兵第二聯隊会
 (社)日本郷友連盟茨城県支部建立
 (撰 加藤保男)

https://goo.gl/maps/TY5mFANjA6AZ3tVW7

尼港事件

ロシア革命の内戦に際し1920年(大正9年)3月から5月に勃発した赤軍パルチザンによる大規模虐殺事件。
赤軍は尼港(ニコラエフスク)住民を虐殺。その中には日本人居留民・日本領事一家・駐留日本軍守備隊(石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊)などが犠牲に。

あぁ 在留邦人を護るために戦い玉砕した水戸歩兵第2連隊第3大隊
焼け落ちる領事館で自決した領事一家や在留邦人
投獄された日本人全員の虐殺

事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名…

尼港事件犠牲者の遺書 「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
Wikipedia「尼港事件」より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b0%bc%e6%b8%af%e4%ba%8b%e4%bb%b6

尼港陣歿将士銘碑

聳え立つ記念碑の隣に「尼港陣歿将士銘碑」
水戸歩兵第2連隊第3大隊の犠牲者の名が刻まれていた。
隊長石川正雅(陸軍少佐)以下、軍属の馬丁に至るまでの305名という。

龍車閲軍之跡
賜閲駐輦之跡

尼港殉難者記念碑の隣にひっそりと2つの碑がありました。

「龍車閲軍之跡」陸軍大将井上幾太郎書
「賜閲駐輦之跡」

「龍車」「輦」は天皇の乗物を示しており「閲」は閲兵。
昭和4年(1929)に茨城県で行われた「陸軍特別大演習」関連の記念碑
昭和5年建立

石碑がある公園は人影も少く静まり返っている。

道路を挟んだ向かい側には「茨城県営球場」や「茨城県武道館」などの運動公園が広がっており賑わっている。 石碑のある公園の裏側は「茨城交通茨大前営業所」がありバスが連なっていた。
そんなところに「第二聯隊」を偲びし碑が静かにあった。


水戸工兵隊記念碑

国立茨城大学教育学部附属中学校の隣、道路の片隅の標石。
「水戸工兵隊記念碑」
水戸工兵隊の一部は水戸歩兵第二聯隊とともにペリリュー島の戦いに参加。ペリリューの要塞構築にも尽力したことであろう。

https://goo.gl/maps/VqkdWMxM3yyABNJf6

水戸工兵隊跡碑

安井栄三郎書
「水戸工兵隊記念碑」のあった道路をすすみ団地を抜けると「跡碑」があった。 安井栄三郎は工兵出身で陸軍少将。津軽要塞司令官を勤めた人物。
碑は昭和四二年建立。 水戸工兵隊の兵営があった地。

https://goo.gl/maps/zHXnL6dnBs6KvNPAA

茨城県護国神社と陸軍関連の石碑などを探索でした。
ほかにも探せば何かしらが残っている可能性もありますが本編はひとまずは以上。
水戸ではレンタサイクルで約14キロ約2時間30分所要でした。

栃木縣護國神社

平成29年参拝

平成29年8月26日。
この日は、栃木県宇都宮市に鎮座している「栃木縣護國神社」を参拝。

宇都宮駅西口からバスで作新学園前下車。
すぐ隣が護国の社叢。

栃木縣護國神社

祖国と郷土の為に身命を捧げられた栃木県関係の英霊55,361柱を祀る、かつての内務大臣指定護国神社。

「宇都宮招魂社」として明治5年(1872)戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主戸田忠恕公及びその臣下等97柱の英霊を祀ったことにはじまる。(旧地は二荒山神社隣)

明治8年、官祭招魂社。
昭和14年、栃木縣護國神社と改称。
現在地には昭和15年4月29日遷座。

終戦後GHQ占領下の昭和22年11月14日に彰徳神社と改称。
昭和28年4月2日には栃木県護国神社と旧称に復称。

平成8年7月25日には、
天皇・皇后両陛下が御親拝をされており
天皇・皇后両陛下が唯一公式に御親拝された護国神社とされている。

感謝と哀悼を捧げる
参拝を

社務所で女性の神職様から御朱印を頂戴いたしました。
(靖國神社の桜の御朱印帳に戴いております)
ありがとうございます。

西側の鳥居。
社号標は昭和15年3月建立。
樞密顧問官・陸軍大将 奈良武次謹書。
奈良武次は栃木県鹿沼市の出身。陸軍大将。開戦前の昭和14年(1939年)3月に退役している。

名木「宝の木」(猿の手柏)

推定樹齢300年
明治6年の土地改良があった際に、この珍木にちなみ界隈は「宝木村」と呼称。
明治39年に宇都宮第十四師団司令部(現在の国立病院の地)が設置された際に寄進。昭和57年に社頭に献木という。

役立たずの御柱

「役立たず」と思う物を「役立ち」に変えてくれる御柱。
厄だけは「やくたたず」で結構。
なかなか面白い趣向です。

御製

今上陛下御製  

広芝をうむる人群旗持ちて
   振る音聞ゆ今日のよき日を

なんじゃもんじゃの木

ヒトツバタゴ
東日本で樹齢100年余りの「なんじゃもんじゃ」の巨木が3本も見られるのは珍しい、とのことです。


社頭のむかって左側には各部隊の「慰霊碑」が集められた「慰霊碑区画」があります。栃木の先人たちをお慰めしている慰霊碑へと。 ゆっくりと参ります。


忠霊塔

元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などを栃木縣護國神社境内の忠霊塔へと改葬したという。

栃木県東部ニューギニア会慰霊碑

この慰霊碑は昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石。

大東亜戦争中 原始未開の東部ニューギニア北岸一帯は陸軍は第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)の各師団及び第四航空軍(洋)船舶団(暁)など 海軍は第二十七特別根拠地隊を主とした部隊が南太平洋防衛第一線の中央拠点として懸軍長躯孤立無援の作戦環境であったにもかかわらず 純正無比 ひたすら祖国の安泰と平和を念じて食料彈薬の欠乏を意とせず 悪疫瘴癘の地に敢闘すること実に三年有余 この間その犠牲は優に十二万人に達し しかもその大半は宇都宮師団管区に属し これら忠勇なる郷土将兵の遺骨の大部分は戦後二十有余年彼の僻遠の山野に埋れておりましたことはその遺族 戦友会は勿論 県民の一大痛恨事でありました。
万死に一生を得て生還したわれわれ戦友は栃木県東部ニューギニア会を結成し予てよりの収骨慰霊の悲願を達成するため昭和四十四年秋 厚生省が遺骨収集団を派遣する機会にこれが協力団を派遣することを企図し その趣旨の徹底とこれが費用の募金を全県下に呼びかけましたところが期せずして県民総ぐるみの一大運動として共感を喚び 予期以上の浄財を得て 昭和四十四年十月三日より十一月四日に至る約一ヶ月間収骨団は幾多の悪條件を克服し 亡き戦友に無言の対面を遂げ弔慰の辞を捧げ収骨の悲願を達成いたしました。
碑上の巌石こそは団員がかっての戦場より持帰ったもので亡き戦友の凄絶なる死闘を物語る無言の戦史であり 戦友の面影に接する感一入のものがあります。
茲に永久に英霊の偉勲を讃え その冥福を祈ってこの慰霊碑を建てるものであります。      
 昭和四十五年三月二十二日
 栃木県東部ニューギニア会 建之
 会長 澤田芳見

戦友よ安らかに眠れ
第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔

吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国「バンコック」へ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝「ラングーン」そして「エナンジヨン」の油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。 
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦転換を余儀なくされた方面軍は「インパール作戦」を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。 
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。 
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
 昭和四十六年九月廿日
 元支那、元ビルマ 遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊 生存者一同

鎮魂

昭和六十年十一月二十三日建之   
 北支派遣陣第二九九三部隊    
 独立歩兵第七十八大隊高陽一九会 

鎮魂

明治天皇御製
 身をすてて いさををたてし 人の名は
  くにのほまれと ともにのこさむ

鎮魂
第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑

山砲兵第三十三聯隊は弓第三十三師團の師團砲兵として昭和十四年仙台及び高田において東北各県新潟県茨城県栃木県群馬県長野県の出身者をもって編成され中国江西省に出征
その後北関東及び長野県出身者を主とするよう変更され揚子江南及び黄河北方の大小の作戦に参加
昭和十六年暮から終戦までタイ国上陸後ビルマ進攻作戦インパール作戦イラワジ会戦等苛烈な作戦に参加輝かしい弓師團の戦斗に貢献しました
この間には一八九六名の戦友が尊い生命を捧げた事は痛恨の極みであります
ここに故友の遺烈を後世に傳える為この碑を建立します
 平成三年三月十日
 弓六八二五部隊山砲兵第三十三聯隊戦友会

軍馬慰霊 山砲兵第三十三聯隊

軍馬は、かけがえのない、我々の戦友であった。召されて故国を出て、中国大陸の南に北に、ついでタイ、ビルマ、インドと多くの作戦に参加し、重い火砲や弾丸を負い、暑さ寒さひもじさに堪えて働いてくれた。この間弾丸に倒れ或は糧食の欠乏と豪雨とにより、多くが戦陣に死し、戦い敗れて一頭も故国に帰ることなく、悉くが南方の土に帰した。ここに万斛の涙とともに聯隊千三百頭の無言の戦友の霊を弔う。
 平成九年三月十日
 山砲兵第三十三聯隊戦友会

慰霊 宝木会

宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設、英霊の顕彰と遺族の慰霊及び会員相互の親睦をはかり、毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集、我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦争終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年四月吉日   
 宝木会

慰霊
宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑

第十四師団砲兵として編成されるも島嶼防衛の為に部隊改編。
水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊、高崎第十五連隊等に転属。
パラオ本島に歩十五連隊、そして歩二はペリリュー島、歩五十九はアンガウル島に展開。
昭和19年7月20日、歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
9月6日、米機動部隊来襲ペリリュー・アンガウル両島を猛爆艦砲射撃。
9月23日、歩十五連隊飯田大隊はペ島に逆上陸を敢行し玉砕…

野砲兵第20連隊が配属されたペ島・ア島。
ペリリュー島は11月24日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
アンガウル島には9 月17日に米軍来襲。
残留の後藤守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し10月19日玉砕と推察

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。

遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。
 平成十九年十月 建之

英霊顕彰碑
山砲第三十三聯隊第四中隊

戦没勇士196柱 
永遠に讃え祀らむ平和の礎

戦友の霊に
国破れて山河あり 
先の大戦が終結し五十年の星霜は緑の大地は蘇らせることはできたが異境に眠る御英霊への思いは愈々つのるばかりである 
時の流れと共に戦争の悪夢は次第に風化されたとは言え、戦争体験者にとっては脳裏に焼き付いた心の痛みは永遠に消えることはない
懐古すれば、長い歴史と伝統を誇る我が国は、千古の昔から瑞穂の国を標榜する住みよい国である
然るに昭和の時代に至るや俄に世界の風雲急を告げ、世界諸国連合は我が国に経済封鎖の包囲網を繞らし強圧したるも大和民族は断じてこれに屈せず国家の存亡を賭けて総決起し、万止むなく大東亜戦争開戦の悲運となる 
この時代に生を享けた我等青年は、青春の全てを捧げ国難に立ち向かうべく、従容として戦地に赴き、幾多の戦線に従軍する 
かくして緒戦を飾ることはできたが、凄惨苛烈な死闘に国力の差を乗り越え幾百万の同朋は尊くも犠牲という人類最悪の悲劇を蒙り終戦を迎える結果となる。
思えば、今なを戦友の多くは、中国の広野に万里異境のビルマの地で、そして白骨街道のインパール(印度領)の果てに無念の涙を流し、当地の守護神と化して山野に眠っている。
九死に一生を得た私共は、祖国再建と平和国家実現に最善を尽すことが亡き戦友への供養であろうと確信し、その道を歩み続ける。
今や日本は苦難の道を乗り越え、戦争を放棄し、自由と平等の下教育文化は言うに及ばず経済大国として世界に誇示する迄に至る。
これぞ、まさしく悠久の大義に殉じられ、平和の礎となられた御英霊の賜である。
この時に及んで中隊戦没勇士の御尊名を深く刻み、ここに顕彰の碑を建立し、その偉業を声を大にして子子孫孫に伝えんことを我等一同お誓いするものである。
 平成八年(一九九六)五月十六日  
 復員五十周年記念日建立
 弓山砲山四会生存者一同 

忠魂碑
栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
昭和9年1月、栃木県立宇都宮商業学校同窓会
昭和30年4月、 栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会

満洲事変戦死者及び支那事変戦死者・大東亜戦争戦死者の名が刻まれている。

白鹿丸遭難之碑

昭和十九年十月十八日
コレヒドール沖合

兄小田尚命は、さきの第二次大戦において陸軍少年飛行兵を志願し 
昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学 
昭和十八年3月同校卒業同年四月陸軍航空通信学校(水戸)に入学 
翌住区年七月同校卒業 
第三航空軍に配属されその任地に赴くにあたり瑞穂丸に乗船 
同年九月二十一日比島周辺で沈没、護衛駆逐艦に救助された 
その後白鹿丸に乗船、少年飛行兵第十四規生(甲)二十一名を含む軍人約二千名と軍需品を積載 
船団を編成してマニラから、シンガポールに向かい航行中十月十八日午前七時五十分ごろ東経一一九度五一分、北緯十四度〇四分地点で敵の潜水艦により撃沈され 名誉ある戦死をとげた
正に弱冠十九才   
ここに兄の戦績を偲び文碑を建立した
 平成十六年十二月八日  
 小田信明(博)「九百九十九日の青春」に基づいて編集
 第十四期生甲 大曽根 敬雄  小田 清子

慰霊碑区画の反対側。
御社殿の向かって右側にも幾つかの碑が集まっておりましたので、そちらにも参りましょう。

境内社

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑

栃の木かげに還る

この碑は日華事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社栃木県支部所属救護員として応召し黄塵と酷寒の大陸や、灼熱の南方地域に派遣されあるいは浪荒き海を海上輸送の任務について戦傷者の救護に献身し、若く尊い命を捧げた殉職救護員二十六名の清く凛々しい姿をしのびみたまを慰めるとともに、永遠の安らぎと世界平和の深い祈りをこめて建立し、その遺徳を後世に伝え師表と仰ぐ資とするものであります
 昭和五十三年十一月八日
 日本赤十字社看護婦同方会栃木県支部

特攻勇士の像

私たちは決して忘れない 
かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて、敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを 。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を 多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。 特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠 に語り継がれることを願うものである。
 平成二十二年八月十五日  
 栃木県特攻慰霊顕彰の会

満洲開拓青年義勇隊慰霊碑

我等は若き義勇軍  祖国の為ぞ鍬とりて  萬里涯なき野に立たん
今開拓の意気高し  今開拓の意気高し

満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったのである
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われたもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。  
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。

鎮魂賦
少年雄叫ぶ満洲の原  
戦い敗れ辛酸言うに耐えず
八百の青雲興国の志
故郷の山は英魂を鎮めんと欲す

 昭和四十七年十一月十二日  
 元満洲開拓青年義勇隊  
 慰霊碑建設協議会建之

防人の歌 (万葉歌碑)

昭和15年1月10日、栃木縣教育會建立

火長今奉部與曽布の歌
今日よりは顧みなくて大君の
 志このみたてと出で立つ我は
樞密顧問官陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書


西側の「鳥居の外側」になにかいました。

「夢福神」
栃木県内では「夢福神・九難除け至福神社めぐり」というものが有るんですね。

栃木県護国神社の散策は以上にて。

栃木県護国神社サイト

http://www.gokoku.gr.jp/index.html

栃木県護国神社・慰霊碑のご案内

http://www.gokoku.gr.jp/sanctuary_9.html

あぁ、見逃しがあるのが判明しました・・・再訪ですね。
・平和の門( 基第二八〇二部隊(歩兵第六十六聯隊) )
・憲兵之碑

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。

広島護國神社と戦跡散策

平成29年(2017年)

廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

山梨縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

甲府
・山梨縣護國神社
・陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)
・陸軍歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは山梨編。

14時すぎ。松本から甲府に移動して甲府駅からバス。
「護国神社入口」バス停で下車。
北に向かえば武田神社、東に向かえば護國神社。
約10分ほど歩けば護國神社に到着。地図を見ていると武田家臣団の屋敷跡が点在していてそれはそれでワクワクする…。

山梨縣護國神社

狛犬台座には韮崎市軍恩連盟の碑銘。(平成4年建立)

慰霊のことば
私達は嘗て共に戦い祖国のためにその命を捧げ平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ安らかに神鎮りますことを祈願いたします
平成4年5月吉日 韮崎市軍恩連盟

社号標は松本三良謹書(甲州市勝沼ぶどう園「宮光園」)

実はワインと戦争の関係は深い。ワインに含まれる酒石酸を元にしたロッシェル塩がソナー(対潜音波探信儀)の材料となっていたのだ。
「ブドウは兵器だ」のスローガンを元に、戦うためのワイン造りを強いられた時代…

以下は参考として

戦時中のワイン造りの奨励 国税庁

https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1212/index.htm

器造るための醸造 産経ニュース

https://www.sankei.com/region/news/150812/rgn1508120025-n1.html

戦争とワイン 宮光園 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%ae%ae%e5%85%89%e5%9c%92#.E6.88.A6.E4.BA.89.E3.81.A8.E3.83.AF.E3.82.A4.E3.83.B3

山梨縣護國神社

西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人軍属の戦死者を祀る。
西南戦争 50柱
日清戦争 568柱
日露戦争 449柱
台湾討伐 55柱
満州上海事変 73柱
支那満洲事変 1784柱
大東亜戦争 22071柱
御祭神計25,050柱(平成28年10月5日現在)

明治12年(1879)招魂社として太田町(現・遊亀公園)に建立
昭和17年(1942)に現在地に遷座
昭和19年(1944)山梨縣護國神社に改称
戦後の一時期は、山梨宮に改称していた
(現在は境内社の社号・後述)

感謝の念と哀悼の誠と。
参拝をする。

「御朱印」と「御守」を頂戴いたしました。

「海軍軍艦旗」と海軍シンボル「桜に錨」が刺繍された御守。
これは前々から頂戴したかったのです。
他にも陸軍迷彩カラーの御守や、陸軍四式戦闘機「疾風」が富士山と桜を背景に飛翔する絵馬など、意匠的な授与品が多数。

山梨縣護國神社 招魂斎庭

山梨縣護國神社では、山梨県出身の西南戦争から大東亜戦争に至るまでの殉国の御霊25050柱を祀るとともに摂社山梨宮において殉職された山梨県出身の自衛官の御霊(11柱)を奉祀している。

参拝の道標

ここは平和の杜です。
このお社は護國神社と言います。
明治十二年十二月招魂社として甲府市太田町に創建され昭和十九年山梨県民の総意により護國神社と改称しこの地に御遷座されました。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で尊い生命を捧げられた山梨県出身の約二万五千人余りの方々を、神様としてお祀りしてあります。
私たちが平和で豊かな生活を送ることが出来るのはこの人達の尊い生命の犠牲のお陰です。
 「ありがとうございます」
と感謝の心をもってお参りしましょう。
これからも平和であるとともにご参拝により常識や道徳心を高め勤勉努力して、健康と強い心を養い自らを護り家族を護ることをお祈りしましょう。
山梨縣護國神社

戦没者(英霊)とは、”地球よりも重い”といわれる、一つしかない生命を、祖国日本と国民のために捧げた方々なのです。
英霊にこたえる会山梨県本部

今日の日本の平和と繁栄は、これを願って犠牲となられた多くの戦没者(英霊)のお陰であることを、忘れてはなりません。
英霊にこたえる会山梨県本部

山梨縣護國神社 
摂社 山梨宮

昭和二十一年社名を山梨宮と改称した時に合祀した 一世の亀鑑、師表と仰がれた民間人八柱が合祀。昭和二十七年境内に摂社山梨宮を創建。
 加賀美光章命(国学)
 志村天目命(心学)
 長田円右衛門命(御岳新道開削者)
 徳島兵右衛門命(徳島堰開削者)
 関戸左近命(義民大総代)
 金子重右衛門命(太桝事件主唱者)
 三沢重右衛門命(太桝事件主唱者)
 くり女命(節婦)

摂社「山梨宮」

殉職自衛隊員顕彰之碑
国防忠魂

自衛隊殉職者の霊に捧ぐ
平成14年建立

戦没者納骨堂

昭和20年、岩窪に陸軍墓地の建設が始まるも完成を見ないまま終戦。
陸海軍も解体され納骨堂は当時の大蔵省に移管。
昭和38年に甲府市に払い下げられ県の管理となる。
昭和51年に現在地に移築。
戦没者分骨5325柱、霊璽簿24915柱を奉安。

岩窪の地に陸軍墓地が予定されており、一部は納骨されていた。
山梨縣護國神社内に納骨堂が移設された際に改葬という。

現在は甲府市つつじが崎霊園となっている。
霊園内には甲府空襲慰霊碑や将校個人墓3基あるという。
(時間の都合で入口のみ写真撮影。霊園内は未調査)

慰戦没戦友之霊

昭和33年建立・四九会有志
甲府歩兵第49連隊(通称「甲府連隊」)
昭和17年に一部部隊をグアム島に展開。
昭和19年にフィリピンのレイテ島・セブ島に主力を展開。レイテ島守備部隊はその大部分が壊滅している。

愛の燈

日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部・1973年建立

第二次世界大戦に際し赤十字の旗の下に勇躍応召し、大陸の荒野にて傷病者の救護活動に献身し、愛と奉仕の使命に殉ぜられた日本赤十字社山梨県支部救護看護婦の方々の遺徳をしのび、そのみたまのとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました
平和のいしずえとして尊い命をささげられた私どもの同僚がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛のともしびの偉大さをしのび、これを後世に永く伝えんとするものであります
1973年12月1日
日本赤十字社看護婦同友会山梨県支部

傷病軍人之碑

昭和五十六年建立・山梨県傷痍軍人会

我等は祖国の危急に際し、わが身を顧みることなく国難に赴き、苛烈を極めた戦火の中に多くの戦友を失い、自らは傷痍の身となって終戦を迎えた。
昭和二十七年同志相諮り、山梨県傷痍軍人会を結成、更に昭和三十五年妻の会の結成をみ、相寄り相扶け、傷痍を克服し、平和の願いをこめて、祖国の再建興隆につとめてきた。傷痍の身を顧み、あれを思い、これを思うとき、傷痍軍人の事跡をとどめるものは何ひとつないばかりか、永久の国の平安を希求する我等の心情を、後世に伝えるよすがとてもないことに思い至り、昭和五十四年八月十五日傷痍軍人の碑建立の議を起こし、心をひとつにする会員の善意を結集し、妻の会の協力のもと、戦没英霊の祀られるこの地に、平和の礎として完成をみるに至った。
 昭和五十六年四月十三日
  山梨県傷痍軍人会

豫科練の碑

平成7年建立

昭和五年六月一日、横須賀海軍航空隊へ第一期飛行豫科練習生七十九名が入隊した。以来昭和二十年八月十五日太平洋戦争終結まで、実に十五万人に及ぶ青少年が、国の防衛ならんと大空を目指して巣立って征った。山梨県からも多くの若人が、横須賀・土浦・三重・人吉・岡崎・奈良海軍航空隊をはじめ、全国十三の豫科練航空隊へ入隊し、自ら求めて日夜を分たぬ鉄石の猛訓練に耐え、心身を鍛え抜いたのである。
昭和十二年七月七日、日支日支事変が勃発するや、渡洋爆撃をはじめ各戦線に於て豫科練の初陣を飾った。やがて昭和十六年一二月八日、太平洋戦争開戦時には海軍航空隊の中堅搭乗員として、北は千島の果てより、南はソロモン諸島、西は印度洋へと、国家民族の為一命を捧げて国防の任に当たったのである。
昭和一九年十月には一機一艦を撃沈するの、特攻出撃は空のみならず、海では人間魚雷「回天」「震洋」「伏竜」隊員として豫科練の同窓生は、全作戦に参加し若い命を桜花の散るごとく、護國の神となって散華した。
生還した吾々は、昭和三十九年一月二十六日、県内在住の同窓有志に呼びかけ、豫科練雄飛会山梨県人会を結成以来、亡き友の慰霊を護國神社に於て続けてきた。
太平洋戦争終結五十周年に当たり、会員及び有志の浄財におり、ここ護國神社境内に「豫科練の碑」を建立し、県出身戦没同窓生の慰霊をその偉勲を永く後世に伝えるとともに、我国の安泰と世界の恒久平和を祈念し、この碑を建立するものである。
 平成七年八月十五日
    豫科練雄飛会山梨県人会

永久に語り継がなむ
 豫科練の
昭和の御代の
 武勲のあと

  平成七年八月十五日
   北巨摩郡大泉村 吟詠 十八期 小池 嘉昭

衣第三〇四一部隊 慰霊の碑

昭和63年10月建立
昭和17年4月に甲府東部六三部隊に於て編成。北支那方面派遣。終戦時にソ連軍の捕虜となり将兵全員がシベリア抑留。犠牲は330余名。
慰霊碑の全面には「シベリアの土」が奉納。

衣三〇四一部隊は、大東亜戦争勃発後の昭和十七年四月 甲府東部六三部隊に於て編成され北支那方面の治安維持、民生安定の警備に当たるために派遣されて、数多くの作戦に参加した。
この間、戦死・戦傷病死者多数の犠牲者を出した。
昭和二十年七月、北朝鮮咸與地区に移駐直後終戦となり、同時にソ連軍の捕虜となって、将兵全員がシベリア抑留の身となった。
抑留将兵は体力の限界に耐え、零下四十度余の酷寒と、飢えと、重労働のなか、さらに悪疫の流行によって悲しくも斃れた戦友の数は、全将兵一千名中、実に三三〇余名の多きに達した。
これら戦友の鎮魂と永久の平和を平和を祈念し、現存する元衣三〇四一部隊戦友一同の名においてこの慰霊碑を建立す。
 昭和六十三年十月六日

満蒙開拓青少年義勇隊之碑

昭和50年8月15日建立

拓友(とも)よ 安らかに 
眠れ 友よ帰らぬ友よ
君の大陸に残した足跡は深く大きくしるされている
われらはその足あとをしっかり踏みしめて前進する
友よ逝きて帰らぬわが友よ
静かに安らかにここにねむれ

満蒙同胞殉難慰霊碑

昭和36年3月建立

朔北の 満蒙の地に 逝きて帰らぬ 同胞を憶う

昭和二十年八月祖国の運命に殉じた満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇隊・満州報告濃勤労奉仕隊・満蒙在留同胞の霊一九三六柱を此の處に祀る

ソビエト不法侵攻の尊き犠牲…

故満鐵本家義勇隊之慰霊碑

昭和50年4月8日建立
第七次満蒙開拓青少年義勇軍満鉄李家訓練所

あぁ、ソビエト…

二井義勇隊の碑

平成5年8月15日建立

昭和18年6月、満蒙開拓青少年義勇軍として山梨中隊を編成。 旧満州国北安省除海村二井屯の満鉄二井訓練所に入所。
終戦時に隊員は四散し、四十余名が大陸の土と化した…

硫黄島戦没者慰霊碑

碑面は「硫黄島」を型どっておりました。
昭和20年2月19日 ~ 3月26日 硫黄島の戦い

硫黄島戦没者慰霊碑
鎮魂の詩碑(平成7年建立)
詩碑は元横須賀海軍鎮守府昭和十一年会所属の篠原勤氏によるもの。

軍神若林東一顕彰碑

平成19年建立

若林東一中尉は第38師団歩兵第228聯隊第10中隊長。
若林中隊はガダルカナル島で戦いにて補給途絶えつつも陣地死守を敢行する。
「後ニ続ク者ヲ信ズ」の一言を残して昭和18年1月14日戦死。
ガ島52日分の日記を残す。

山梨県海軍戦没者 慰霊碑

山形県海交会は太平洋戦争終結五十周年にあたり祖国の繁栄と不滅を念じて祖国の英霊となられた、県内海軍戦没者四千七百二名の純真な気持ちを永久に顕彰するため、山梨県護国神社の聖域に慰霊碑を建立し、後世までの遺徳を偲び、感謝を誠を捧げるものである
 平成七年十一月三日
  山梨県海交会会長 塩川 光男

鎮魂 鵄三〇六三部隊戦没者鎮魂之碑

平成8年建立。鵄三〇六三部隊の慰霊碑。
昭和十八年四月に甲府にて編成。
おもに中国大陸の南京・上海に展開。
(第61師団歩兵149聯隊鵄3063部隊)

父の像

平成7年4月5日建立

殉国の戦士の遺児は、亡き父への思慕と誇りとを胸に 母と共に強くたくましく生きてきた 戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えたいとの願いを込め 終戦50周年を機に、ここに父の像を建立する

気がつけば1時間半近くを境内で過ごしていたようで。
慰霊碑が多いとおのずと滞在時間も増えます。
佳き参拝が出来ました。護國神社をあとにします。

「山梨縣護國神社」の隣にあるのは「山梨県神社庁」


余事ながら
「山梨縣護國神社」の鎮座地 は、戦国時代は「甘利備前守虎泰の屋敷跡」
甘利虎泰は武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人。

江戸時代は「龍華山永慶寺跡」(柳沢吉保の菩提寺)という。
なお寺院は柳沢家の所領替え(甲府から大和郡山)に際して移築。

余事ながら
山梨縣護國神社の近くには「武田信玄公御墓所」(武田信玄火葬塚)もあります。
せっかくなので脚を伸ばしてみました。
周辺は「護国神社風致地区」として整備されているようです。

余事ながら
「武田信玄公御墓所」の向かいに「川尻塚」もありました。
甲斐国で武田遺臣に討たれた川尻秀隆の首塚ですから、扱いも、まあお察しです…
武田関連はキリがないのでこのぐらいで。次は甲府聯隊関連を。

陸軍歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)

まずは甲府連隊跡関連の地図を。
地図の記載場所は罠でした。
これのお陰で現地で「迷子」になりましたので、正しい場所と補足を画像で添付。

現在の「山梨県福祉プラザ」の駐車場。
その片隅に跡碑が残っている。

旧歩兵第四十九聯隊 営門跡

甲府聯隊の営門跡。昭和60年7月建立

歩兵第四十九聯隊跡碑

昭和44年4月20日建立

明治38年に習志野にて編成。
明治42年に甲府の現在地に新兵舎移転。
昭和19年12月20日、レイテ島に於いて聯隊の主力が玉砕。
昭和20年8月、聯隊残部隊はセブ島にて終戦解隊。

歩兵第四十九聯隊跡碑
堀内一雄・筆

堀内氏は帝国陸軍歩兵少佐、満州国陸軍少将。山梨県出身。 戦後は富士山麓電気鉄道(富士急)社長を経て衆議院議員などを歴任。 子息は堀内光雄氏。

聯隊歌七節
 新に兵営なりしかば こゝに衛戍の命受けて  
  移りし年は翌春の 弥生半を過ぐる頃   
   峡中の地に武夫の 清き花をば植えにけり
明治百年記念 四九會

歩兵第四十九聯隊跡碑は市営団地(市営むつみ荘)に面した道路側に鎮座。

その場所から山梨大学小学校・中学校方面を覗いてみれば。建屋の向こうに赤レンガが見えます。そちらに行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡
(山梨大学赤レンガ館)

山梨大学教育学部附属中学校の入口が開放してあり、赤レンガを間近で見学することができます。 行ってみましょう。

歩兵第四十九聯隊糧秣庫跡(山梨大学赤レンガ館)

建設は明治41年頃。明治42年(1904)に歩兵第四十九聯隊(甲府聯隊)の糧秣庫(食料庫)として使用開始。 オランダ積み構造で甲府煉瓦製造の赤煉瓦を使用。 山梨県最大規模の煉瓦造建築物。

聯隊解隊後に跡地は山梨大学附属小学校・中学校用地となり中学校校舎として使用。
平成10年に大雪で破損したのを機に保存のための耐震工事などが行われ平成14年に改修完了。
文化庁・登録有形文化財

夕日に照らされる赤煉瓦を眺めつつ散策は終わり。
時間は17時。あとはのんびりと甲府駅に戻るだけに。

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html

航空神社(新橋・羽田)

平成29年撮影

新橋の航空会館(東京都港区新橋1-18-1) 屋上には「財団法人日本航空協会」(旧「帝国飛行協会」)が管理する航空神社が鎮座。
航空功労者や航空殉職者を祀る。
昭和6年8月1日創建。 現社殿は昭和58年8月25日竣工。

航空会館鎮座の航空神社の参拝可能日時は、月~土曜日の9:00~17 : 00が原則。9階から屋上フロアとなります。

9階には「御守」の頒布スペースもあります。
なお貸会議室が使用されている際は、ちょっと落ち着かない参拝環境になるかもしれません。
(貸会議室901室から屋上の航空神社がよく見えます・・・)

航空神社抄史
1.昭和6年8月1日、帝国飛行協会理事会にて航空神社創設を決議。
2.明治神宮造営残木を拝受。同年9月初起工、11月初竣工、11月7日、帝国飛行協会飛行館屋上に於いて新総裁梨本宮守正王殿下ご参列のもと靖国神社賀茂宮司斎主となり、盛大な鎮座祭執行。
合祀祭神 航空殉難者325柱、霊璽簿作成。
3.昭和19年~昭和27年 神社祭中断。
4.財団法人 日本航空協会発足により昭和28年 航空神社祭復活。
5.昭和38年度崇敬者総代会発足、航空功労者を合祀することとなる。
6.昭和38年7月、 羽田航空神社創建に伴う祭神分霊祭を挙行。
7.昭和49年9月20日 航空神社神霊を靖国神社境内「鎮霊社」に仮奉安のための遷座祭を執行後、仮奉安先の鎮霊社社前で合祀祭および恒例祭挙行。爾後57年まで8年間、鎮霊社社前で例祭挙行。
8.合祀祭神 航空殉難者、航空功労者を含め、霊璽簿総数6367柱。
9.昭和56年9月 靖国神社鎮霊社に於いて航空神社鎮座50年祭挙行。
10.昭和57年以降、航空神社に関する祭事はすべて航空神社奉賛会に移る。航空神社の祭祀を従来の祭神慰霊の神社から航空平安祈願祭の神社へと転換。
11.航空神社奉賛会が主導する募金活動ににより、昭和58年8月航空会館屋上に航空神社新社殿落成。同年8月25日、竣工祭並びに遷座祭挙行。
12.昭和59年度より毎月第一火曜日を月次祭の日(1月の新年祭は仕事始めの日)と定め、従来の9月20日を例大祭の日とし、毎回靖國神社神職の出張奉仕により、毎月航空平安祈願祭を行う、新たな航空神社奉斎方式を定める。
13.平成14年度より、月次祭を1月の新年祭と9月20日例大祭の奉仕とする。

昭和6年
チャールズ.A.リンドバーグ来日に際して帝国飛行協会(日本航空協会の前身)・飛行館に招待し白色有功章を授与。

昭和4年竣工の「旧・飛行館」建物基礎。

旧「飛行館」建物基礎木材
昭和4年6月竣工の旧「飛行館」建物基礎は長さ25m位、年輪50年程の米松の杭を先端にして地中に打ち込み埋設した。その間隔は半径50cm~80cmに1本と云ういわゆるベタ基礎で建物を支えていた。
航空会館建設に伴い、引き抜きを行ったが、数多く埋設されてあったため、除去には予想外の工期を要してしまった。除去した本数は800本。現建物の基礎工事に差し障りのない部分はそのままとなっているので、全体の数はいまだ不明のままである。
近隣の建物では東電旧館(現・東新ビル)、物産館(現・日比谷セントラルビル)の基礎も木柱であったが、いずれも旧「飛行館」よりは小ぶりであった。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
イタリア首相ムッソリーニより贈られた記念品。

昭和14年 日伊親善飛行記念品
戦前のわが国航空技術水準の象徴として、軍官民の技術力を集結し開発した長距離機「三菱双発輸送機」”大和号”は、性能試験を兼ね昭和14年12月、東京‐ローマ両首都間往復29611粁を飛翔し日伊親善飛行に成功、その目的を果たした。
この彫刻は、当時のイタリア・ムッソリーニ首相から、大日本航空株式会社に贈られた記念品である。同社の終戦解散により、今日まで国際航業株式会社に保存されて来たが、歴史的記念品として当協会において保管することとなったものである。
昭和59年7月
 財団法人 日本航空協会

羽田航空神社

新橋「航空神社」の御分霊。
昭和38年(1963)7月11日に奉斎。 羽田空港第一ターミナルのJAL到着ロビーに鎮座している。 例大祭は5月20日。

ここ東京国際空港は昭和6年東京飛行場として発足以来紆余曲折を経て今日我国空の表玄関として運輸交通の発展のため重要な使命を果しております。
予てより我国航空界に携る人々の間において航空に最も縁の深いこの羽田の地に航空界発展の礎となられた諸々の御霊をお祀し今後の航空界の躍進と航空安全輸送の御加護を祈念したいとの気運があり、この度東京国際空港ターミナルビル増改築工事を機縁として空港全域を見守るに最も相応しいこの場所を神域と定め昭和38年7月11日財団法人日本航空協会の航空神社より御分霊を勧請し奉斎申し上げて羽田航空神社を建立致した次第であります
なお毎年5月20日を例大祭日と定め祭事を執り行います 
敬白

新橋と羽田の航空神社

http://www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html

飛行神社(京都府八幡市)

平成15年(2003年)撮影

2024年に再訪し、下記で記事を刷新しました


飛行神社

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記

鎮座 大正4年(1915)3月10日

主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社

 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社         

零式艦上戦闘機の機首部

昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。

15年以上前の参拝記録でした。再訪したいですね。

相模原界隈の戦跡散策

平成30年9月及び10月

平成30年9月。相模原界隈を散策してみました。
横浜線矢部駅から淵野辺駅までの散策と京王相模原線多摩境駅からの散策を。
軍都・相模原のほんの一部ですが、散策した様子を以下に。

位置関係

国土地理院・空中写真閲覧サービスより

昭和19年10月15日に陸軍が撮影した相模原界隈の空中写真
Google航空写真

当時は相模原駅と淵野辺駅間の矢部駅はまだ開業しておらず相模陸軍造兵廠への引き込み線があるレベル。

1948年(昭和23年)4月12日に米軍が撮影した航空写真を加工
1948年(昭和23年)4月12日に米軍撮影

相模原駅から北側にはどどーんと在日米軍相模総合補給廠が展開。
旧陸軍の相模陸軍造兵廠跡は今もそのまま在日米軍。
ゆえに相模原駅からは車窓以外は見るべきものがあまりなく。

基地内にある相模神社は相模陸軍造兵廠時代に建立されたもの。
また敷地内に残された建屋の多くも陸軍造兵廠時代のものという。

相模陸軍造兵廠跡と相模神社

この一節だけ別日に訪れました。たまたま基地内の公開がありましたので。

SHRINE PARK (神社公園)

SHRINE PARK HISTORY (神社公園の歴史)

この公園は1936年(昭和11年)に建設され、神道における武道の神、鹿島と香取を祭った神社を持つ。神社は早稲田大学教授の田辺泰博士により設計されたが、公園自体はコーネル大学卒業生のトーノ教授によって設計された。
本公園は1942年(昭和17年)に奉納され開園した。園内には、当時ここで働いていた日本人従業員の出身地から集められた様々な草花、低木、岩石や樹木が配置されている。

献燈

Sagami Fountain(相模の泉)
御手洗

凄い勢いで水が溢れ出しておりました。 アメリカンナイズな御手水。

Sagami Fountain(相模の泉)

これは御手洗(みたらし)と呼ばれ、通常は神社の本殿に通じる参道脇に置かれている。
参拝者は神社の神にお参りする前にここで手を洗い、口をすすいで身を清める。

Taiko Bridge (太鼓橋)

太鼓橋は、その高く丸い弧と水面に映る姿が作り出す円形が太鼓を彷彿させることからその名がついた。。 円形が満月のように見えることから、英語ではMoon Bridge とも呼ばれる。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠
Sagami Shrine「相模神社」

Sagami Shrine (相模神社)

相模神社は、昭和17年に当時の相模陸軍造兵廠で働いていた日本人従業員の献金によって建造された。
日本神話において天皇の祖先とされる神道武人の神、鹿島と香取を祭っている。
造兵廠の従業員達は、製造した兵器が両神の加護を受け、戦線において神威を発揮することを願った。

千木が残念な状態でした。
神紋は「左三つ巴」と「五七桐」。 鹿島神と香取神の御神紋。

Sagami Shrine「相模神社」
神社公園内の樹木は、相模陸軍造兵廠で働く工員と同じく全国から集められたものという。
そんな歴史を刻みし場も不思議なもので、いまでは米軍基地の中・・・
逆に米軍基地内だからこそ残った空間でもあり。

かつての境内地は、今では「BBQ」な場所。
アメリカンナイズな空間。

SHRINE PARK (神社公園)
旧・相模陸軍造兵廠

公園の隣はヘリポート。
さらにその向こうには鳥居が見えます。
ゲートとしてのカッコよさも神道文化の習合。

旧・相模陸軍造兵廠
敷地内の建物のほとんどは相模陸軍造兵廠時代の名残らしく。
私はこのときは「神社公園」に多くの時間を費やしてしまったために、建造物の追跡までやりきれませんでしたのでそのあたりは課題。

何気ない階段、ぜったいお前ら当時からのものだろ?

最近は米軍基地内も厳しくなっているようで、一般公開時でも上記のような散策は難しいかもしれません。そのときのルールに従って見学を。昔は開放されていた場所でも、次回は開放されていないかもしれませんし。

それでは、基地の外へ。

矢部駅

この日は矢部駅から散策スタート。
「在日米軍相模総合補給廠」方面を望む。かつての「相模陸軍造兵廠」
このあたりに引き込み線が広がっていた。

矢部駅は戦後に進駐した在日米軍が相模総合補給廠へ赴く際に臨時停車して乗降が始まったために昭和25年に相模仮乗降場開業。昭和32年に矢部駅へと昇格という。

矢部駅から「在日米軍相模総合補給廠」方面に歩いてみる。
すぐにゲートで行き止まり。
あまり長居するものでもないので駅前に戻る。

矢部駅前の公園(上矢部公園)の北側に記念碑がある。
子どもたちが元気よく遊ぶ空間。そんな公園の片隅に。

相模陸軍造兵廠跡

第三代廠長 原乙未生 書 (原乙未生 陸軍中将)

碑面裏には沿革が記載されていた。

昭和12年3月  陸軍東京工廠相模兵器製造所設立
昭和13年6月  戦車・牽引車・砲弾の生産を開始
昭和15年6月  相模陸軍造兵廠に昇格
昭和16年4月  横浜線相模原駅開設
昭和20年8月  終戦により閉鎖  
第四代土岐鉾治廠長、従業員約3万人

そのまま北上。
在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)の脇を。
廃線跡。

廃線跡
草に埋もれし鉄路の先は米軍のフェンス。

相模陸軍造兵廠・陸軍用地境界石

これはちょっと可愛い。
フェンスが標石を避けるように張られています。
保存する意思が明白に感じられる空間。

このあたりは防衛省の宿舎もあるエリア。
防衛庁時代の標石もありました。
こちらもフェンスが調整されてますね。

在日米軍相模総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠跡)

なんか一部に廃墟のような倉庫建屋が広がってますが・・・ 端の方の倉庫は既に積極的には使っていないのかもしれません。
そういえば以前に火事もありました・・・


陸軍兵器学校の弾薬庫

相模陸軍造兵廠跡を離れて東に。
こちらには「陸軍兵器学校」が展開。 その北端、現在の民間工場の敷地内に「陸軍兵器学校の弾薬庫」とされるものが残っているという。敷地外より見学。

陸軍兵器学校跡地を歩く。
現在の「防衛省 防衛装備庁 陸上装備研究所」

相模原市立大野北中や大野北小、そして麻布大学も「陸軍兵器学校」の跡地。

麻布大学の南側、かつて「陸軍兵器学校」の正門があった場所。
この陸軍兵器学校正門があった場所近くに「記念碑」が残っている。

相模原市立博物館にて掲示の写真
陸軍兵器学校正面(昭和10年代撮影)

陸軍工科学校・陸軍兵器学校跡碑

第四十一代校長 永野叢人書 昭和52年12月吉日 工華会建之

本校は明治5年諸工傳習所の名で小石川後楽園の地に創設、その後幾変遷を経て陸軍砲兵工科學校 陸軍工科學校となり昭和14年その18、19期生の時生徒数の増加に伴い小石川本校及び板橋分校より當地新校舎に移轉21期に及んだ。
昭和15年陸軍兵器學校と改称、生徒は1期となり學生 幹部候補生 練習諸隊も併設され、83萬5千平方米の敷地に7千人以上の人員を収容したが昭和20年8月67期生の卒業を待たずに兵器技術教育73年に亘る歴史の幕を閉じた。

そういえば小石川でも記念碑を拝見してました。
「陸軍砲兵工科学校・工科学校跡・諸工伝習所跡記念碑」
昭和13年(1938)、小石川から相模原に陸軍兵器学校が移転してました。

淵野辺の陸軍兵器学校跡(麻布大学)の地から次の目的地に移動をする。
淵野辺駅の南東、青山大学相模原キャンパスの横浜線を挟んだ南側にとある神社が鎮座している。

「新田稲荷神社」(しんでん稲荷神社)
文政元年(1818)創建の淵野辺新田地域の鎮守様
今回は境内社に注目。

新田稲荷神社・境内社
「細戈神社」(くわしほこ神社)

陸軍兵器学校内に鎮座していた神社。
昭和20年終戦後に陸軍兵器学校から新田稲荷神社境内に遷座。
社号の「細戈」は日本書紀巻三・神武紀に書かれた「細戈千足国」(くわしほこちたるくに)=立派な武器が多くある国の意。
社号標は昭和16年7月13日建立

細戈神社由来
細戈神社は天照大神・武甕槌命・経津主命を祭神とし、社名は伊弉諾尊が日本を細戈千足国と讃えられし語に拠る。
もと陸軍兵器学校々庭にあり、その精神的支柱として仰がれていたが、昭和20年新田稲荷神社氏子の好意によってこの地に遷り生産向上の神として鎮座してきた。
しかるに社殿は長年の風雪に損われ現状のまま存置することは不可能となった。
依て稲荷神社氏子並びに旧工科学校及兵器学校同窓会工華会は協力してその改修に当った。
工成るに及び工華会は記念の建碑を企て撰文を需めた。
ここに由来を記した所以である。
今や産業計画拡充に伴って科学技術の振興を一層重すべき直面している。
願わくは細戈の神霊益々神徳の 顕著ならんことを

昭和50年4月6日 工華会建立
 工華会=陸軍工科学校及び陸軍兵器学校同窓会

新田稲荷神社
境内社・今熊神社
境内の丘は「呼ばわり山」と呼称され、迷子や行方不明者が出た際に鐘や太鼓を叩いて呼ばわると必ず現れると信仰された。
最近では、小惑星探査機「はやぶさ」リーダーを務めていた川口淳一郎JAXA教授が「発見祈願」に毎夜訪れて、そしてはやぶさが見つかった逸話も。

そんなJAXA相模原キャンパス(宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究所)は新田稲荷神社の南西、淵野辺公園の近くにある。
JAXAや相模原市立博物館、淵野辺公園のある一帯は、かつての「陸軍機甲整備学校」の跡地。

「陸軍機甲整備学校」(陸軍自動車学校)は、もともとは世田谷(東京農業大学近く)にあったが、昭和18年に相模原の当地に移転。
移転前の世田谷にあった陸軍機甲整備学校(東農大) は下記に。

世田谷の方にはいろいろ残っていましたが、相模原の方は・・・見つける体力的余裕があまりありませんでした(疲労が溜まっていた)

淵野辺公園を眺めながら、休憩がてらに相模原市立博物館に行ってみることに。

相模原市立博物館
(陸軍機甲整備学校跡)

近代史関連の展示を。

常設展示・軍都計画と相模原

http://sagamiharacitymuseum.jp/tenji_shisetsu/josetsu/josetsu5/

「陸軍用地境界杭」
こちらは前述の陸軍兵器学校・敷地境界用杭として使用されたもの。 ところで私は「境界石」とか呼んでましたがコレの正式名称ってなんだろうな…。

相模原の軍関連施設の分布
今回は相模原駅~淵野辺駅界隈でしたが、このエリアには相武台の陸軍士官学校(キャンプ座間・座間駐屯地)なども宿題なんですよね。
あと陸軍通信学校(相模女子大学)

相模陸軍造兵廠開庁記念湯呑
相模兵器製造所が昭和15年に相模陸軍造兵廠に昇格したことを記念

榴散弾弾薬箱(陸軍兵器学校で使用)

大型空気入れ(相模陸軍造兵廠で使用)

乗馬用鞍(陸軍士官学校で使用)

常設コーナーは一区画だけですがご興味ございましたら是非に。


相模原市立博物館をあとにして、淵野辺駅へ。
淵野辺駅から橋本駅経由で多摩境駅に移動します。
この日の最終目的地へ。

京王多摩境駅から徒歩5分ほど歩くと、「都立小山内裏公園」に到着。
この公園から東に伸びる尾根緑道は通称「戦車道路」と呼称されている。

「戦車道路」(尾根緑道)

戦車道・・・ かつて、相模陸軍造兵廠で製造された戦車の走行テスト用道路であった。 (全長約8キロメートル)
それゆえの「戦車道路」 この道を完成したばかりのチハ車(九七式中型戦車)などが試験走行したという。

靖國神社遊就館のチハ

かつて戦車が走った道は今では尾根を望む散策路として、往時の伝承を残しつつ、往事を知る人知らない人それぞれありつつ憩いの空間として活用。
見晴台からかつて相模陸軍造兵廠があった方向を遠望しつつ。

横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

群馬縣護國神社

平成29年9月参拝


群馬縣護國神社

支那事変に至るまでの3573柱を合祀し昭和16年に現在地に鎮座。
そののち大東亜戦争の御祭神を合せ、群馬県関係者47000余柱を祀る。
戦後一時期は「誠霊廟」「上野神社」とも称していた。

緑のトンネル参道を登っていく、高台に鎮座。佳き空間美。

維新前夜から大東亜戦争までの群馬県関係戦死者47000余柱を祀る。

感謝と哀悼を。
拝する。

御社殿の脇。
石柱と石灯籠がある空間。

特に何かの説明もない空間だけど、この場所に脚を踏み入れるのを躊躇わされる何かがあった。
きっとここは招魂斎庭かもしれない。
特別な空間であることを感じ取り、石柱の外から頭を垂れる。


御朱印

靖國神社の「靖國桜の御朱印帳」で 各地の護國神社を巡らせていただいております。


群馬県海外引揚物故者慰霊塔

昭和36年建立

昭和二十年八月十五日 大東亜戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖国日本の発展を願って懸命の奮闘を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦の結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸にも九死に一生を得て引揚げたもの貧困と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである
昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会


御製

御製
みそとせを へにける今も のこされし 
 うからの幸を ただいのるなり

昭和52年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典にて 昭和天皇より賜った御製。
碑は昭和53年に群馬県遺族の会により建立。


あゝ特攻 特攻勇士の像 

平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、命に代えて何を守ろうとしたか、この像に問い続けて欲しい。


鵬翼之塔

昭和40年5月5日建立

明治天皇御製
世とともに 語りつたへよ 国のため
命をすてし 人のいさおを

大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に、祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を想う、雲こそわが墓標なりと肉弾となって、大陸に、北辺の空に、南溟の涯に、雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も、戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく、天翔ける護国の神と化した者が少なくなかった。
諸士の壮烈な殉国は、永く日本の歴史ともに語り伝えられることであろう。
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたが、ことある毎に日支事変・大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられ、その崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるため、ここに鵬翼之塔を建てる。
願わくば諸霊よ安らかに瞑し、折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ。
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建立委員会


平和の礎

日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに想いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び糎への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から45年、平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思い、ここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今、戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
平成2年10月30日建立

ちょうど晴れ着を纏った新婚さんがこの碑前で記念撮影をしておりました。
護国の「平和の礎」の前で、記念撮影をする若きカップル。
その碑の真意を知っているかいないかはいざ知らずですが、幸せのお裾分けをいただきました。平和に感謝です。


群馬縣護國神社 遺品館

御祭神の遺品を収蔵した建物は年に3日間の公開。
8月24日(みたま祭)
10月16日‐17日(例大祭)


群馬縣護國神社 祖霊殿(納骨殿)

平成10年建立

「祖霊殿」の高台からみた護國神社の鳥居。


高崎市連合郷友会 記念句碑

奉仕終へ 
流るる汗も 
清々し 
 金井勝太郎氏

高崎市連合郷友会
昭和30年に6000余名で発足。
会員の老齢化により各支部相ついで解散し平成21年に遂に会長一人となり、記念の句碑を建立。


嗚呼隆西丸遭難者之碑

隆西丸
昭和19年2月25日小スンダ列島バリ島沖に敵潜水艦の魚雷にて沈没。
隆西丸の乗船者6668名の内4968名、船員31名戦死。

戦没した船と海員の資料館 より 隆西丸 の記録を以下に。

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/tairyou.html

http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/tango_ryusei.pdf


フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑

防衛庁長官 中曽根康弘謹書(昭和46年建立)
郷土出身陸海軍所属各部隊従軍比島方面戦没者将兵等6429柱

この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。
昭和十八年、同十九年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、 海軍部隊諸基地や遠く朝鮮満州支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パサイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ、ルソン島等米軍との水際戦斗のその日から、 各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮斗むなしく戦傷やマラリヤ赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言の中に終了しました。
二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過た今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉国の犠牲、鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。
昭和四十六年三月二十一日
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会


義勇軍之碑

昭和42年5月建立
群馬県出身元満州開拓青少年義勇軍生存者一同 亡き拓友の霊を護国神社の丘に祀る。


軍馬忠魂碑

この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亜戦争後同兵営の解放と共に荒廃 久しく顧みられざるにより…当神社境内に移設。
群馬県戦没軍馬三千有余頭の霊を此処に鎮め永く其の忠魂を讃えんとする。
(昭和27年)


傷痍軍人之碑

昭和57年建立

嘗ての大戦で戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した軍人たち。 国家のために戦い民族を守るために受けた傷病であるという鉾持。
戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに戦傷病者の悲願を永く伝えるべく建立された碑。


高崎公園

高崎城址の南に展開されている公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。
公園入口の石柱は大正4年の銘がある。


英霊殿跡
(群馬縣護國神社創建前の招魂社・高崎公園内)

明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。
昭和55年4月吉日
群馬縣護國神社
群馬縣護國神社奉賛会
英霊にこたえる会群馬県本部
歩十五会

今は長閑な公園であれど、かつては祭祀の場であったと思うと感慨も深く。

大阪護國神社

2017年参拝、2026年再訪記事追記


大阪護國神社

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。


御朱印

2017年の御朱印

2026年、再訪しました。
「全國護國神社會の御朱印帳」に御朱印をいただきました。
「大和魂」が掲げられた「御朱印」 。
そして、誇り高く尊い気品を纏った「御守り」
ありがとうございます。


大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標


御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

2026年7月


浪速宮 (旧称:奉安殿)

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。
以前は「奉安殿」とあったが、2026年に再訪した際には「浪速宮」と改称されていた。

2026年

浪速宮(旧奉安殿)
 御祭神 第十六代天皇 仁徳天皇
     東郷平八郎元帥閣下
 御祭神は、世界最大の墳墓で有名な仁徳天皇と、世界の海戦史に奇蹟と讃えられる日本海海戦を完全勝利に導いた東郷元帥の二柱の神様をお祀りしています。
 大東亜戦争敗戦後、日本を占領した米国により、全國の護國神社では英霊の祭祀が禁じられました。神社の消滅を避けるため、大阪護國神社では仁徳天皇を御祭神とした「浪速宮」と改称しました。昭和二十七年に元の「大阪護國神社」に復称しましたが、この時に御祭神仁徳天皇を奉安殿(現浪速宮)にお祀りしました。
 もう一柱の御祭神である東郷元帥は、昭和二十三年に元帥の御遺髪が関係者より奉納され、奉安殿に安置された事から、御祭神としてお祀りされる事となりました。御遺髪は現在も御神体として御殿にお鎮まりになっています。
 仁徳天皇は、貧しさのために民衆の竈から煙が上がらない様を見て、自身の窮乏を顧みずに三年間の租税を免除した「民の竈の煙」という逸話が示すとおり、仁政で知られる天皇です。さらに、その後に行った灌溉工事などからは、浪速興隆の基礎を築いた天皇としても知られています。
 一方の東郷元帥は日露戦争において、当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を日本海で迎え撃ち、一方的な勝利を収めるという海戦史に類を見ない偉業を成し遂げた偉大な司令官です。
 例祭日 仁徳天皇祭 2月8日
     東郷祭   5月30日


憲政受難之碑

2025年7月6日、凶弾に倒れた安倍晋三元首相の功績を後世に伝えるために建立。安倍昭恵氏による「憲政殉難之碑」の揮毫。
「板垣死すとも自由は死せず」安倍晋三元首相の書と、安倍氏の陶板写真が掲げられた碑。
安倍晋三元首相は、2022年7月8日に67歳没。

憲政受難之碑
 安倍昭恵書
板垣死すとも自由は死せず
 自由民主党総裁
  安倍晋三

日本国の行く末を憂い
平和と繁栄の体現に生涯を捧げられた
安倍晋三元内閣総理大臣を偲び
その不屈の信念と
援るぎなき指導力を讃えます

志半ばにして非業の死を遂げられたこと、
その無念は計り知れず、深い哀悼の意を表し
偉大なる遺徳と足蹟を
今を生きる私たちは受け継いでまいります

ここに深甚なる敬意と感謝を込め
御魂安らかならん事を祈ります
     二〇二五年七月建立 寺内俊太郎


昭和天皇ゆかりの桜

昭和天皇ゆかりの桜
この桜は、昭和天皇が皇太子の御時、大正十二年に台湾台北の植物園にお手植えあそばされた桜の後継木になります。
長き歳月を経て「日合国際桜交流会」より日台友好の証として日本に里帰りし各都道府県に植樹されています。当社には国内十四本目として奉納植樹されました。
この桜は、皇室との深きご縁を今に伝えるとともに、護国の英霊を追慕し、恒久の平和を祈る象徴としてここに根を下ろすものてあります。
春の開花の折には、その花の姿ととも、悠久の歴史と崇高なる祈りを感じていただけることでしょう。
  令和六年十月二十七日
    大阪護國神社


ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石


母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。
各慰霊碑をみていきます。


大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

千葉縣護國神社(旧鎮座地)

平成29年8月20日参拝

ちょっとした時間が出来たので、脚を伸ばして千葉駅から護國神社へ参拝を。

令和4年に千葉縣護國神社は御遷座しました。

新境内地の記録は以下より

千葉県護國神社

凛とした空間のなかで、千葉縣護國神社の参道を歩む。

「千葉公園/案内マップ」的には千葉公園の西門の西外れに護國神社が鎮座している。 感覚としては「大宮公園の西外れに鎮座している埼玉縣護國神社」と似たような位置関係だなあとボンヤリと感じてしまう。

明治11年(1878)「千葉縣招魂社」として創建。
昭和14年(1939年)「千葉縣護國神社」と改称。

戦後「頌徳神社」と一時的に改称するも主権回復後の昭和27年(1952)に千葉縣護國神社に復称。
祖国に殉じられた千葉県出身者五万七千余柱を祀る。
昭和42年に現在地に遷座。

御朱印を頂戴いたしました。 靖國神社の靖國桜が舞う御朱印帳に少しずつ。

回廊では記録写真展が行われおりました。

「海外戦歿者慰霊祭写真展」
ゆっくりとしずしずと回廊の写真を観覧させていただく…
パプアニューギニア
インドネシア
フィリピン
ビルマ
サイパン
各激戦地を御遺族の方々と訪れ、そして執り行われた慰霊祭の記録写真。

天皇陛下
皇后陛下
御参拝記念

昭和四十八年の第二十八回国民体育大会への御臨場を機に10月13日に千葉県護國神社に御参拝されました。

御創立115年記念碑
御遷座碑
御創立100年記念碑

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(碑裏面)
陸軍・海軍それぞれの 「特別攻撃隊千葉県出身戦歿者命名」が刻まれていました…

ありがとうございます。
感謝と哀悼を捧げし参拝を。



千葉県護國神社の南隣には「忠霊塔」や「慰霊碑」などが集まった区画がある。

千葉縣護國神社の隣にある大きな塔。

千葉県忠霊塔

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理)

千葉県庁サイト

https://www.pref.chiba.lg.jp/kenshidou/engo/tsuitou/chuureitou/goannai.html

「千葉県忠霊塔」の左右両脇には「千葉陸軍合同碑」「海軍の碑」もありました。
しかし敷地内には入れないので遠望。

「千葉陸軍合同碑」の銘は近衛師団長陸軍中将香月清司謹書。
「海軍の碑」は詳細不明。(敷地に入れないので)

この周辺にはいくつかの記念碑・鎮魂碑がある。

「日中戦士鎮魂碑」

楓4256部隊(歩兵212聯隊)鎮魂碑。
昭和14年、佐倉51聯隊に於いて第32師団管下の部隊として編成。
日中国交正常化を機に永久不戦を誓い両国犠牲者「日中戦士鎮魂碑」を昭和52年4月建立。

千葉県出身 陸軍少年飛行兵慰霊之碑

平和の翼(由来)
 戦火絶えて二十七年。いま、私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散っていった君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は、君達の尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れないために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に守り給え。
 昭和47年8月
  元陸軍少年飛行兵
  千葉県出身 生存者一同

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

碑誌
 この聯隊は、北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ、昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体として東京埼玉山梨その他各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は、…略…南昌南方地区において終戦を迎えた。
 この間将兵は、炎熱に耐え酷寒を忍び峻険に挑み困難欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2千3百余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の日本の礎石であったことを銘肝しここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月 支駐歩三会戦友一同

戦友この土に眠る

慰霊碑 支那駐屯歩兵第三聯隊

愛馬慰霊碑

昭和63年10月30日建立

鎮魂
シベリア抑留死没者千葉県慰霊碑

悲惨を極めた第二次大戦は、日本がポツダム宣言を受諾して、終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒の地シベリアなどに抑留され長期にわたり労役に就かされた。 戦友の多くは、厳しい環境の中で病と闘いながら望郷の願いも空しく凍土の中に永遠の眠りについている。亡き同胞の昔日を偲び、世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日 財団法人 全国強制抑留者協会千葉県支部連合会

陸軍鉄道連隊 忠魂碑
 鉄道隊創立80周年記念忠魂碑

昭和50年11月竣工。
この碑だけ千葉県忠魂塔の隣にひっそりと鎮座。
鉄道連隊のエンブレムが碑上に誇らしげに掲げられている。

鉄道隊創立八拾周年記念忠魂碑改築由来

 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。
爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。
此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2に拡張され、更に満州事変後満州に鉄3・鉄4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄1は中支に、鉄5は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄5・鉄9は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄5はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄9と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。
此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立  (以下略

陸軍鉄道連隊「忠魂碑」の脇にあるレリーフ

荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額

千葉公園内の荒木山にあった荒木大尉銅像(荒木克業)も戦中に金属供出されており、其の際に台座のレリーフのみが辛うじてこうして保存されたという。

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について

 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
  全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記

忠霊塔のあるエリアの片隅に何の説明もない謎の構造物。
これはなんだろう? 何かの掲揚台(のようなもの)と祠がございました。

隣接する「千葉公園」内にも戦跡が多く残っているが、それは別立てにて。

ちなみに
 千葉公園    →千葉市管轄
 千葉県忠霊塔  →千葉県管轄
 千葉縣護國神社 →宗教法人
となっております。

埼玉縣護國神社(埼玉県護国神社)

平成29年3月26日参拝

平成29年3月26日。雨降る夕方に。
武蔵一宮氷川神社から足を伸ばして参拝してきました。
護國神社巡礼。


埼玉縣護國神社(埼玉県護国神社)

旧内務省内務大臣指定護國神社。
鳥羽・伏見の戦い以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱を祀る。

昭和9年、埼玉縣招魂社として設立。14年に埼玉縣護國神社に改称。 戦後の昭和23年に埼霊神社(さいたま神社)と改称。
昭和27年に旧社号に復した。

由緒略記

大宮公園内に鳥居が立っており、道路を挟んだ先に御社殿が鎮座している。

桜の咲き始めの護國神社。
感慨も深く。

護國神社は戊辰戦争から大東亜戦争まで国のために
犠牲となられた埼玉県関係の英霊をお祀りしています

英霊に感謝しましょう
 埼玉県英霊にこたえる会

手水舎

深く拝す

護国の桜。
ひときわの感謝とともに。

咲き誇る日が楽しみな瞬間。

御朱印を頂戴致しました。 (靖國神社の御朱印帳に)


奉納「艦砲弾」

 天皇陛下のもと、国家安寧を願い見事玉と砕けたご英霊等鎮魂の一助になればと思い謹んで捧げ奉ります。
 この砲弾は古い型の砲弾であります。東郷元帥が聯合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその出撃致した戦艦を始め各艦の砲弾を御奉納されたとの説があります。譲り受けた老爺(故人)に伝え聞いたところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社にご奉納され境内のいずれかにあったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出しておりました。艦砲の砲撃手は俗に自らを鉄砲屋と呼び一弾一弾を我が子のように慈しみ、(見事命中してくれよ)と祈りを籠めて懸命に磨き上げたと聞いております。この砲弾もそうであったに違いないと思います。
 この砲弾を使用した艦名は判明致しておりません。ご存知の御方がおられましたら、是非御教示、ご指導頂けますれば幸甚に存じます。
   平成25年6月吉日 大宮住 加藤芳夫


出征兵士之像

平成27年建立

建立の趣旨
 昭和16年12月に開戦し、20年8月に終戦を迎えてから今年は70年目を迎えます。国を護り、家族を守るため多くの若い人が故郷を後にして兵士として出陣し、異国の地で戦陣に斃れ病魔に冒され、尊い命を国に捧げられました。遺族として残された者も、今では戦没者の父母は殆ど亡くなり、妻も大半の者が他界し、終戦時、幼児や少年であった私達も高齢化を迎えた此の頃、想い出すのは、若い人が当時赤紙と俗称された召集令状により、親兄弟、親族、近所の人に見送られ軍隊に入隊する姿です。
送れられる者、送る者が
「行ってまいります。後を頼みます。」
「皆さんが留守の間は、私達がしっかりと銃後と家族を守ります。」
という短い言葉で別れを告げ、お互いに見つめ合うだけの事でした。多くの若い人が再び故郷へ帰れませんでした。
 戦後70年、私達遺族は兵士として出征した家族を思い出す縁としてこの像を建立しました。残念ながら、歳月の経過とともに先の大戦の風化が一段と進んでいます。この像をご覧になられた方は、現在の平和な時代のかげには、このような辛い別れをして戦没された人々が居たということを思っていただけれな幸いです。

 平成27年11月30日
  一般社団法人 埼玉県遺族連合会


大東亜戦争戦没地域図

埼玉県出身者の地域別戦没者数(昭和55年現在)
支那事変以降 総数 48453人


埼玉県特攻勇士之像 

埼玉県特攻勇士顕彰碑
 あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。 生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若者の精神の糧となることを願うものであります。
 ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之像を建立し謹んで奉納いたします。
 平成25年10月吉日
 埼玉県特攻勇士之像建設委員会


埼玉県傷痍軍人の塔

昭和53年建立
第58代 厚生大臣 渡辺美智雄書

 我等は戦火に傷つき或いは戦野に病を得て生死の境を彷徨した者達である。その思い出は耐え難いものがあり、戦争の残酷さは筆舌に尽くし難い。
 戦後、閲すること三〇年、昭和五十年七月議を起こし、戦禍の洗礼を受けた立場から、二度と犠牲者を出す間敷き事を語り合った。而して、平和を希求する会員の微意を表明せんと名を印し、此の埼玉県傷痍軍人の塔を建立する決議をした。
 良く議し想を練り、会員一人一人の善意を結集して、今完成に至った。唯、同慶の一語につきる。
 尚、惟みるに吾が埼玉県傷痍軍人の夫妻が財団法人日本傷痍軍人会 同妻の会の旗下にあってそれぞれの綱領具現に、その責を果し、両会の中核県たる名聲を保持する努力をはじめ、或いは郷にあって、傷痍にめげず率先垂範、豊かなる人間愛と限りない創造性を以って変轉極りない新時代に処し、地域社会に光明を齋しつつ、今日に至った証としても 意義あるものと思考する。
 又この庭が、隣人を愛する思想を高揚し廣く、世界は一家の大理想実現に裨益する聖場と成ることも願いつつ、時の流れに禍いされることなく、吾等の誠魂が不滅であることを信じ、塔建立の詞とする。
 昭和五十三年十月十九日 
    埼玉県傷痍軍人の塔建設委員会
     吉川敏雄 謹書


献花 特攻花

知覧より移植されたものという。

社務所の一角には「遺品展示館」があったが、既に夕方ということもあり、時間が遅めでしたので今回は見学を遠慮しました。

埼玉ならまた来れますし慌てなくても時間がゆっくりあるときに改めて。


2026年1月訪問

写真を追加。

神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)

平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪 

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している)

もちろん、神奈川県にも護国神社建立の予定はあった。

現在の三ツ沢総合グランド (神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1)。
この地に「神奈川縣護國神社」(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が建つはずであった。


神奈川縣護國神社
(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)

神奈川縣護國神社
昭和14年末に神社創建に着手。
昭和15年11月に鎮座地が確定。
昭和16年11月に鍬入式が執行。
昭和17年7月27日、内務大臣より「神奈川縣護國神社」の創立が許可。
昭和17年12月23日、起工式が執行。
昭和18年12月25日、棟上式が執行。
当初の竣工は昭和19年10月を予定していたが、戦争により工事遅延。
完成目前の昭和20年5月29日横浜大空襲によって社殿焼失。

そして終戦後、 神奈川縣護國神社は建立されることはなかった。
昭和28年に跡地に横浜市によって「慰霊塔」が建立。


昭和19年11月陸軍撮影の航空写真

空襲前の航空写真。
参道の様子と建造途中の社殿の雰囲気がわかる。

「神奈川縣護國神社」 は「本殿」「祝詞殿」「幣殿」「拝殿」「 翼舎」「渡廊」「祭器庫」「透堀」「手水舎」「鳥居」「石玉垣」「狛犬」などで構成予定だった。

8926-C5-90
1944年(昭19)11月14日‐陸軍撮影写真を加工

昭和21年2月米軍撮影の航空写真

昭和20年5月29日横浜大空襲後で、焼失した「神奈川縣護國神社跡」 の姿を確認できる。昭和19年の陸軍写真では御社殿に立体感があったが、空襲で御社殿を焼失し、昭和21年の写真では御社殿部分は焼失し立体感がないことがわかる。

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1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工
USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工

現在の航空写真


三ツ沢公園


横浜市慰霊塔

昭和28年3月建立。
神奈川県が昭和14年に計画し、当地に昭和20年の竣工が予定されていた神奈川縣護國神社は、昭和20年5月29日の横浜大空襲で炎上焼失。
再びその威容を見ることが出来なくなった。

その名残の地には、横浜市によって慰霊塔が建立されている。
慰霊塔の前の広場は駐車場と化していた。

昭和二十年の文字が浮き出た慰霊塔。
以前の写真よりも白いので塗り直したようです。

平成26年(2014) 撮影
平成26年(2014) 撮影

納骨堂

横浜市慰霊塔の後方の建屋は納骨堂。

平和記念塔

神奈川縣護國神社参道跡

今は駐車場となっている広場に向けて伸びる歩道が、予定されていた参道跡地。

慰霊塔ご案内

慰霊塔ご案内
 この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔であります。
 慰霊塔は、二基の塔と、安置堂その他からなり昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。
 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。
 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。
  横浜市

恒久平和を願って

恒久平和を願って
 戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。
 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は先の大戦で払った大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は新生日本が将来に向かって発展する姿を表しています。
 市民の皆様と共に諸霊のご冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。
 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
  平成7年11月1日
     横浜市長

わが町 かながわ 50選

横浜市戦没者慰霊塔
 昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった、多くの犠牲者の冥福と平和への祈りを込めて、昭和28年に建立されました。
 広い広場から慰霊塔を見つめていると、心が静まります。

駐車場となってしまっている広場に若干の空虚さを感じつつも。

護國神社として機能出来なかった、この慰霊の空間。
どことなく虚しく、そして尊厳がなく。
もやもやしながらも、根底の気持ちは変わらずに
静かに慰霊鎮魂と感謝のこうべをたれる…


令和元年11月17日の夕方。
慰霊塔を撮影をしていたら、老夫婦が私に声をかけてきました。
お爺さん「ここは昔は畑だったんだよ、そこに立派なお社が出来てね、でもね、昭和20年5月29日の空襲で燃えてしまって、わたしはそのとき10歳だったよ、ほんとりっぱなお社だった・・・」
わたし「えぇ、神奈川県護国神社の跡・・・」
お爺さん「知っているんだ、若いのに、この場所がなんだったか、ここを知っていてくれて嬉しいねえ」
お爺さんとしばし歓談

ありがとうございます。


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川縣護國神社の跡地は「横浜市の慰霊塔」
ここは、県ではなく市の施設となっている。
神奈川県の慰霊施設は当地ではなく、別の場所にある。

神奈川県戦没者慰霊堂

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

実は訪れたのですが、臨時閉苑でした・・・再訪しなくては。

「神奈川県戦没者慰霊堂」再訪しました


参考文献
 神奈川県忠魂碑等建立調査集 靖國神社社務所発行 平成8年
 神奈川新聞 昭和18年12月5日掲載記事

愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…


愛知縣護國神社(愛知県護国神社)

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。


鎮魂

お手水。献水像。

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建


太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます


御朱印

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

※2026年2月に「全國護國神社會の御朱印帳」にも拝受いたしました。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。


境内散策


宮城遥拝所

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。


戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。


パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・


海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


兵庫縣神戸護國神社

平成30年11月参拝 兵庫県神戸市灘区鎮座

「兵庫縣神戸護國神社」は兵庫県東部ゆかりの戦没者53,257柱を祀る。

ちなみに兵庫県内は、護國神社が2社あり、西部は「兵庫縣姫路護國神社」として西部地区出身の戦没者56,988柱を祀っている。
いずれも内務大臣指定護国神社。


兵庫縣神戸護國神社

戦没者慰霊祭祀は当所、神戸市兵庫区会下山(楠公の湊川の戦いで有名)で招魂斎庭・祭壇を設け、毎年官民合同で斎行されていた。
昭和16年6月に灘区王子町に社殿を造営。
昭和20年6月5日の神戸大空襲により壊滅。

社号標は昭和16年6月。創建時からのもの。鳥居は平成25年再建。

戦後は「兵庫御霊神社」と一時改称し、昭和27年に社号を「兵庫縣神戸護國神社」と復称、昭和34年に現在地にて新社殿を再建。
阪神大震災でも社務所半壊などの被害を受けるも復興。

境内社には末廣稲荷社が鎮座している。

狛犬は「大東亜戦争大捷祈願」として、昭和17年3月吉日に奉じられたもの。

手水鉢は、社殿再建時の昭和34年10月吉日に「兵庫縣神戸護國婦人会」より奉献されたもの。
中央には護国の英霊ゆかりの戦地を正面に仰ぐように地球儀が添えられている。


響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

昭和13年春半ば
内蒙古派遣独立混成第二旅団独立歩兵第二大隊が始めて中国大陸の首都北京に於て編成されて以来、支那事変並びに大東亜戦争に参加中国全土及び南方方面に転戦、戦没された御霊の冥福を祈る為、当時の戦友相寄り浄財を募り茲に、この地を選び建立す。
昭和四十五年四月吉日


大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

 過ぐる大戦に於て無数の白系ロシア人、ギリヤーク人、オロッコ人が中野の子等と共に理想に参画し、非情なる最後を遂げ、帰るに安住の祖国さえなき事実を知らざる者、今日余りにも多い。
 永久凍土(ツンドラ)を吹きすさぶ風に、或いは北大洋の怒涛音にこれら北方異民族の亡き同志の声を聴くものは日に日に少なくなってきている。この碑はこれら残り少ない生き証人にかわって死の意味を問い続ける昭和の語部(かたりべ)となろう。
 そしてこの碑の祈念するところは、余りにも報われることのない故北方異民族同志への鎮魂であり、盤石深く刻み込まれたものは祖国の永遠の安泰であり、平和の二文字である。
 昭和50年5月19日
 全国壱万参千五百有余名 
  建立同志会代表 扇 貞雄(元陸軍少佐・元樺太敦香陸軍特務機関長)


陸軍少年飛行兵顕彰碑 建立の記

陸軍少年飛行兵顕彰碑
建立の記

 日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。
 その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。
 若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。
 戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした兵庫県下在住の生存者ならびに有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を祈念してこの碑を建立する。
 昭和56年4月5日
  陸軍少年飛行兵出身者の集い
  兵庫県少飛会

陸軍少年飛行兵顕彰碑脇に
「献木 同期の桜」
昭和54年5月10日建立


歩兵第百七十連隊 慰霊之碑

歩兵第百七十連隊 慰霊之碑
昭和58年11月13日 歩兵第170連隊慰霊碑建立委員会

歩兵第170連隊は兵庫篠山編成。開戦時は印度支那派遣軍として南部仏印駐留。昭和17年、乗船中の輸送船が撃沈され軍旗喪失、乗船将兵の多くが戦死。その後の南方戦線にて消耗し昭和18年6月解隊。


雄魂
第十四飛行団司令部
飛行第六十八戦隊
飛行第七十八戦隊
戦歿者慰霊碑

昭和52年5月 ニューギニア飛燕会

昭和18年3月、第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の「飛燕」部隊として編成。ニューギニア戦線にて寡勢の中で奮戦。昭和19年7月25日に力尽き解散…


御朱印

「兵庫縣神戸護國神社」
御朱印を頂戴いたしました。
桜柄の「靖國神社御朱印帳」に。

この御朱印帳では、「靖國」「愛知」「大阪」「広島」「埼玉」「茨城」「千葉」「栃木」「群馬」「長野」「山梨」と護國神社を巡っており、今回の「兵庫神戸」で12社目となります。ゆっくりとですが巡拝を。

「兵庫縣神戸護國神社」

護國神社は桜の季節も良いですが、紅葉の季節も感慨深いものがあり。
紅葉の向こうに鎮まる慰霊碑に静かに接するひとときを。


関連

はじめに