平成29年9月参拝
目次
群馬縣護國神社
支那事変に至るまでの3573柱を合祀し昭和16年に現在地に鎮座。
(旧鎮座地は高崎城近く、後述)
そののち大東亜戦争の御祭神を合せ、群馬県関係者47000余柱を祀る。
戦後一時期は「誠霊廟」「上野神社」とも称していた。
緑のトンネル参道を登っていく、高台に鎮座。佳き空間美
維新前夜から大東亜戦争までの群馬県関係戦死者47000余柱を祀る。
感謝と哀悼を。
拝する。
御社殿の脇。
石柱と石灯籠がある空間。
特に何かの説明もない空間だけど、この場所に脚を踏み入れるのを躊躇わされる何かがあった。
きっとここは招魂斎庭かもしれない。
特別な空間であることを感じ取り、石柱の外から頭を垂れる。
御朱印
靖國神社の「靖國桜の御朱印帳」で 各地の護國神社を巡らせていただいております。
群馬県海外引揚物故者慰霊塔
昭和36年建立
昭和二十年八月十五日 大東亜戦争は吾々に敗戦の悲しみを残して終結した
祖国日本の発展を願って懸命の奮闘を続けた在外七百万の同胞は全く放棄されたのであった
海外に於ける辛苦の結晶は総て奪われ尊き人命は彼等の暴力と飢餓とによって失われてしまった
幸にも九死に一生を得て引揚げたもの貧困と病魔とが襲いかかったのである
吾々は地下に眠る県下三千四百有余の声なき犠牲者の霊を慰めんため推進委員会を設け広く引揚同志の協力を仰ぎ茲に慰霊塔を建設し謹んで物故同胞の霊に捧げるものである
昭和三十五年十二月八日
群馬県引揚者連合会
仝引揚物故者慰霊塔建設委員会
御製
御製
みそとせを へにける今も のこされし
うからの幸を ただいのるなり
昭和52年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典にて 昭和天皇より賜った御製。
碑は昭和53年に群馬県遺族の会により建立。
あゝ特攻 特攻勇士の像
平成21年3月建立
日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、命に代えて何を守ろうとしたか、この像に問い続けて欲しい。
鵬翼之塔
昭和40年5月5日建立
明治天皇御製
世とともに 語りつたへよ 国のため
命をすてし 人のいさおを
大東亜戦争の火が消えてすでに二十年
蒼空を仰ぐ度に、祖国の勝利を信じつつ散華した航空部隊の将兵各位を想う、雲こそわが墓標なりと肉弾となって、大陸に、北辺の空に、南溟の涯に、雄々しく羽ばたいた群馬県出身の諸士も、戦運利あらず遂に再び家郷に見えることなく、天翔ける護国の神と化した者が少なくなかった。
諸士の壮烈な殉国は、永く日本の歴史ともに語り伝えられることであろう。
幸い祖国は諸霊の加護により再び平和と繁栄を招いたが、ことある毎に日支事変・大東亜戦争において戦死された群馬県出身航空関係将兵の慰霊と顕彰が議せられ、その崇高な諸士の偉勲と忠誠を千載の世に伝えるため、ここに鵬翼之塔を建てる。
願わくば諸霊よ安らかに瞑し、折あらば空ゆく雲に座して後に続く者を照覧あれ。
群馬県航空関係戦没者顕彰碑建立委員会
平和の礎
日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に身命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽くしたのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに想いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び糎への慰問品発送など献身的に尽くされた方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から45年、平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽くされた人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思い、ここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今、戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
平成2年10月30日建立
ちょうど晴れ着を纏った新婚さんがこの碑前で記念撮影をしておりました。
護国の「平和の礎」の前で、記念撮影をする若きカップル。
その碑の真意を知っているかいないかはいざ知らずですが、幸せのお裾分けをいただきました。平和に感謝です。
群馬縣護國神社 遺品館
御祭神の遺品を収蔵した建物は年に3日間の公開。
8月24日(みたま祭)
10月16日‐17日(例大祭)
群馬縣護國神社 祖霊殿(納骨殿)
平成10年建立
「祖霊殿」の高台からみた護國神社の鳥居。
高崎市連合郷友会 記念句碑
奉仕終へ
流るる汗も
清々し
金井勝太郎氏
高崎市連合郷友会
昭和30年に6000余名で発足。
会員の老齢化により各支部相ついで解散し平成21年に遂に会長一人となり、記念の句碑を建立。
嗚呼隆西丸遭難者之碑
隆西丸
昭和19年2月25日小スンダ列島バリ島沖に敵潜水艦の魚雷にて沈没。
隆西丸の乗船者6668名の内4968名、船員31名戦死。
戦没した船と海員の資料館 より 隆西丸 の記録を以下に。
http://www.jsu.or.jp/siryo/sunk/pdf/tango_ryusei.pdf
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑
防衛庁長官 中曽根康弘謹書(昭和46年建立)
郷土出身陸海軍所属各部隊従軍比島方面戦没者将兵等6429柱
この碑は太平洋戦争に於てフィリッピン方面で散華した同胞四十七万六千余柱のうち、群馬県関係者六千四百二十九柱の英霊を顕彰する慰霊の碑であります。
大東亜戦争の天王山といわれた比島では、南方諸地域中、日本国でも、また群馬県でも最高数の戦没者を出した一大決戦場でありました。
顧みれば昭和十六年十二月十日、日本軍がルソン島リンガエン湾に上陸して以後、戦況が次第に苛烈となった。
昭和十八年、同十九年頃に内地より臨時召集や現役兵編入等で郷土部隊の母体(軍旗)と共に派遣されずに数百名が一単位となり、高崎連隊から或いは宇都宮・水戸・千葉その他の各連隊を始め、 海軍部隊諸基地や遠く朝鮮満州支那等の各現地部隊と共に続々と緊急南下され、途中台湾沖やバシー海峡等で敵潜水艦や空襲のため数千人が乗船したまま輸送船もろとも海中に消えた多くの将兵・軍属・従軍看護婦等を始め、昭和十九年十月レイテ島に米軍を迎撃して以来、遂に南方面の制海権と制空権を手中に納めた米軍は、総てに圧倒的優勢を誇る新鋭兵器・航空機・艦船等の絶対的物量を以て、ルソン島を始めミンダナオ島、ネグロス、セブ、ミンドロ、サマール、パラワン、パサイ、コレヒドール等の各島々に於て日本軍と対決しました。
特にレイテ、ルソン島等米軍との水際戦斗のその日から、 各兵団諸部隊は肉弾斬込み戦を繰返し山岳戦に至るまで悪戦苦闘し、全諸島に渡り将兵等は、ひたすら祖国日本を直接戦場にしてはならぬと胸に堅く誓い、悪条件の下爆弾を抱いて特別攻撃機となり、又は人間魚雷となって全機全員敵艦に体当りし、或いは人間爆弾となり、むらがる敵戦車に飛び込み、深山幽谷の地に或は南海の孤島に空に海に一塊の肉片も残さず散華、爆弾食料の補給全く途絶し、道なき熱帯のジャングルに分け入り、困難辛苦、飢餓と風雪にさらされ、勇戦奮斗むなしく戦傷やマラリヤ赤痢等の悪疫に尊くも斃れ、或は自決、血を血で洗う鬼哭啾々たる戦場で激斗の末、最後の突撃を敢行して全員玉砕するなど全滅的運命となり遂に護国の神となられたが、戦争の結末は敗戦という烙印を押され総ては無言の中に終了しました。
二度とこのような戦争を繰り返してはなりませんが、戦後二十有余年を過た今日に到ってもこの戦没英霊を讃る事は充分でなくすごして参りました。
然し平和を完全に取り戻した現今、この尊い殉国の犠牲、鬼神も泣く無言の戦没諸兄の武勲を顕彰し、御霊の御冥福を祈り、その勲功を永久に讃え奉るものであります。
昭和四十六年三月二十一日
フィリピン方面戦没者慰霊顕彰碑建立委員会
義勇軍之碑
昭和42年5月建立
群馬県出身元満州開拓青少年義勇軍生存者一同 亡き拓友の霊を護国神社の丘に祀る。
軍馬忠魂碑
この碑は元高崎部隊営庭に建立されしが大東亜戦争後同兵営の解放と共に荒廃 久しく顧みられざるにより…当神社境内に移設。
群馬県戦没軍馬三千有余頭の霊を此処に鎮め永く其の忠魂を讃えんとする。
(昭和27年)
傷痍軍人之碑
昭和57年建立
嘗ての大戦で戦線に立ち傷痍の身となって生死の境を彷徨した軍人たち。 国家のために戦い民族を守るために受けた傷病であるという鉾持。
戦没された英霊を慰霊顕彰するとともに戦傷病者の悲願を永く伝えるべく建立された碑。
高崎公園
高崎城址の南に展開されている公園は意外と歴史が古く、明治9年(1876)に造園されたという。
公園入口の石柱は大正4年の銘がある。
英霊殿跡
(群馬縣護國神社旧地・高崎公園内)
明治42年、このところに英霊殿が建立され、昭和16年群馬縣護國神社創立に至るまで、毎年官民合同の群馬県招魂会によって盛大な招魂祭が営まれた。
昭和55年4月吉日
群馬縣護國神社
群馬縣護國神社奉賛会
英霊にこたえる会群馬県本部
歩十五会
今は長閑な公園であれど、かつては護國神社の旧地、祭祀の場であったと思うと感慨も深く。
〆