「近代建築」カテゴリーアーカイブ

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)

♪
エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

神戸三宮の戦跡と近代史跡散策

平成29年3月

平成29年3月15日、神戸方面に赴く用事があった。
せっかくなので神戸に点在する戦跡・近代史跡スポットを午前中のスキマ時間で軽く散策。


三ノ宮駅高架橋の機銃掃射痕

JR三ノ宮駅。
この何気ない東西を結ぶ高架線路橋の景観の中に戦争の爪痕が残っている。
手前の遊歩道からJR線高架橋を覗いてみると・・・

神戸大空襲

神戸は昭和20年終戦までに128回の空襲の受けており、この穴は米軍戦闘機による機銃掃射の跡(山側から海側に貫通)とされている。

JR三ノ宮駅の高架線路橋。
橋の名前は「加納町第一架道橋」。
歩道から覗いてみると無数の穴が開いていた。

色が塗り替えされました。以下は2024年3月撮影。


JR「三宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。阪急「神戸三宮駅」 駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

阪急・神戸三宮駅の弾痕

JR「三ノ宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。

阪急「神戸三宮駅」
駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

駅ホームの上に広がる巨大な屋根。
見上げてみると修復の跡などが。

これも「神戸大空襲の傷跡」
B-29焼夷弾の貫通痕。

思った以上に修復の痕跡が残っていました。
なかには衝撃で曲がったままのものも。

駅に残る戦争の痕跡を感慨深く見上げつつ。
三宮駅から南下します。市役所方面へ。


神戸市役所

どうやら日本で最初に設置された「花時計」が、この「神戸の花時計」とのことで。(1957年4月26日稼働開始)
「へー」なスポット。

神戸市役所24階展望ロビーを目指します。
特に深い意味はないけど高いところからの眺望は好きですので。

神戸市役所24階展望ロビーより

「錨」と「神戸市章」「北前船(KOBE)」が見えました。
日没30分後から23時まで点灯される神戸のシンボル。

「錨山」の錨は明治36年の明治天皇行幸観艦式を記念して錨の形に植栽したことに始まり昭和56年に永久電飾となる。

神戸市役所24階展望ロビーより
摩耶の方向。
鵯越の方向。
ポートアイランドの方向。
長田須磨の方向。

神戸の歴史を鑑みると、今の景色も色々感慨深いものがあります。

市役所から海の方に向けて南下する。


神戸税関

2代目庁舎は1927年竣工。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎とのことだけど、今回は時間がなかったので外観をちらりと眺めて次へ。


神戸海軍操練所跡碑

元治元年(1864)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠。
錨のモニュメントは旧戦艦の錨らしいが「旧戦艦の錨…」以下が読めない

神戸海軍操練所跡碑
碑文は「書」をかたどっており個性的な碑。

神戸海軍操練所跡碑
由来
 万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之

勝海舟による海軍の発祥の地。これが明治海軍への礎となるのだ。

実はこの場所は「NTTドコモ神戸ビル」の前。
「神戸海軍操練所跡碑」の隣には「神戸電信発祥の地」の碑。
明治3年に大阪川口電信局と神戸伝信機局の間(40km)に開通。これが関西地方における電信の発祥であるという。

「操練所跡碑」から「居留地通海岸通」を西に。
居留地通りの建物はまたのちほど触れていきます。
メリケン波止場の「港公園」に一対の碑がある。 (跡地とややこしいです)


神戸海軍操練所記念碑

海軍営之碑

「海軍営之碑」
徳川宗家16代当主徳川家達謹書
碑文は勝海舟謹書(軍艦奉行安房守勝物部義邦撰)

なおこの碑はレプリカで本物は六甲山の諏訪山公園にある。


陸奥宗光顕彰碑

「陸奥宗光顕彰碑」
陸奥宗光(1844~1897)は勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬らと共に学び、のちに第4代兵庫県知事となり第二次伊藤博文内閣での外務大臣を務めた人物。(伊藤博文は初代兵庫県知事)

「陸奥宗光顕彰碑」 碑裏面は昭和四八年当時の外務大臣大平正芳による。
「近代日本の揺籃期に内政外交に尽くした功績は不滅である」

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
 昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
 海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生徒も200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
 この浜は新しい日本の発祥の地である。
昭和48年5月吉日

海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人
所長・海軍奉行 勝海舟
塾頭・坂本龍馬(のち海援隊長)
伊藤俊助(のち伊藤博文・兵庫県初代知事・初代内閣総理大臣)
陸奥陽之助(のち陸奥宗光・兵庫県四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)

「みなと公園」をあとにして、旧居留地エリアにまいります。 ちなみに時間軸としては三宮駅9時散策開始で、ここまでで約30分経過しておりました。


神戸郵船ビル

大正7年(1918)に旧日本郵船神戸支店として建設された近代ビル。

「神戸郵船ビル」の反対側には近代ビルが林立しています。
これはワクワクします。

手前から「海岸ビル」「商船三井ビルディング」そして3つ先が「 チャータードビル」となります。
実は近くで見てみるとこれらのビルにも戦争の爪痕が残っているのです。


海岸ビル

旧三井物産神戸支店として1918年に竣工。
阪神淡路大震災で全壊し、高層ビル再建時に低層部(4階まで)旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている。
近代化産業遺産。

「海岸ビル」
外壁には神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。

海岸ビル。低層階内部が美しい・・・


商船三井ビルディング

旧大阪商船神戸支店として1922年(大正11年)に竣工。
近代化産業遺産。アメリカルネサンス様式。
大正期の大規模オフィスビルとして唯一現存。

「商船三井ビルディング」の 外壁にも神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。
今となっては言われなければ気がつかない小さな痕跡。
戦争の爪痕。


神港ビル

1939年(昭和14年)に川崎汽船本社ビルとして竣工。現在もオフィスビルとして利用されている。近代化産業遺産。 アールデコ風の屋上の塔屋が目立つ。


チャータードビル

チャータード銀行(Chartered Bank)神戸支店として1938年に竣工。
近代化産業遺産。

「チャータードビル」 外壁に機銃掃射の痕をみる。


旧居留地エリアの内部へと足を進めます。

神戸市立博物館

この建物はかつての「横浜正金銀行神戸支店」(戦後は東京銀行神戸支店) 1935年(昭和10年)に竣工した新古典主義様式の建物。
国の登録有形文化財指定。

「神戸市立博物館」 旧「横浜正金銀行神戸支店」
入口の脇にちょっとだけ痕跡が残ってました。
機銃掃射の痕。

今回の神戸では「機銃掃射痕」ばかり探す散策をしてしまいまして。 オシャレな神戸の街なかで、観光とは程遠いフィールドワーク…


神戸外国人居留地の下水道(公開施設)

慶応3年(1868)の開港にともない居留地が展開。 居留地の下水道は明治5年(1872)頃に完成したもので、近代下水道としては日本最古のものという。
国登録有形文化財指定。土木学会選奨土木遺産。


旧居留地十五番館
旧アメリカ合衆国領事館

1880年竣工。
旧居留地に唯一現存する居留地時代(1868年~1899年)の建築物。
国重要文化財指定。
1995年の阪神・淡路大震災において全壊するも再建。現在はレストランが営業している。


南京町中華街

居留地エリアから次の目的地(花隈)に向かう途中に南京町中華街があったのでフラフラと寄り道してしまいました。
なんか珍しく観光っぽいことしてますね。


花隈公園(花隈城跡)

永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築城させたと伝承。
荒木村重が信長に反旗を翻したため花隈城は荒木方の有岡城支城となるが天正8年(1580年)に落城。
池田恒興によって兵庫城が築城された為に花隈城は廃城。


「東郷の井碑(東郷井)」( 花隈公園 )

「東郷の井碑」 命名は財部彪、揮毫は小笠原長生。
元々は花隈7-16界隈にあった。
初代戦艦大和(神戸小野浜造船所・1887年起工) 建造監督官として東郷平八郎が就任し花隈に滞在。
大和進水時には初代艦長に就任。

「花隈公園」にならぶ2つの碑
「花隈城跡」 「東郷の井」
荒木村重と池田恒興
東郷平八郎と財部彪と小笠原長生

なかなか強烈です。


花隈公園から北上する。

神戸教会(日本基督教団神戸教会)

1932年に建設されている4代目の会堂で、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える。
教会としては1874年(明治7年)4月に設立された日本最古級のプロテスタント教会という。

太平洋戦争末期には会堂が日本軍に接収され、外壁を黒く塗られたという。
なんとなく往時の黒塗りのあとが残っているような気がしないでもなく…

神戸大空襲時(昭和20年6月5日)に爆弾によって破壊された会堂前市道の溝蓋の敷石。
道路拡張時に教会にて保存。

今回の神戸散策では唯一の「戦争遺跡を明記した案内板」と出会えました。


生田神社

三宮の生田神社境内には、神戸大空襲で被災した楠の大木がある。 昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた御神木。

生田神社
延喜式内名神大社。旧社格は官幣中社。 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり「神戸」地名の語源となっている。
御祭神は稚日女尊 「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも。

神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ神託があったと書紀には記載。
この時に神戸生田の地とともに、大阪住吉・神戸長田・西宮広田も同時に祀られ「四社鎮祭」とされている。

花隈駅から阪急神戸三宮駅に戻る。朝9時から散策を開始して所要3時間でした。

で、仕事先に向かうためにポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)に乗り込んだわけです。 神戸遠景が美しい…

〆

豊橋の戦跡散策

平成30年6月撮影

  • 愛知県豊橋市内に点在する戦争史跡関連の散策
  • 主に豊橋公園と愛知大学豊橋キャンパスを中心に

平成30年6月下旬。愛知県豊橋市に足を運ぶ機会がありまして。軍都豊橋と呼ばれた街。
「豊橋公園」は歩兵第18聯隊
「愛知大学豊橋キャンパス」は第15師団
今回はこの2つを軸にして散策を展開していきます。

位置関係

「国土地理院」地図・空中写真閲覧サービス
1946年(昭21)07月16日の米軍撮影(ファイル:USA-M197-A-3No1-10)写真及びgoogle航空写真を加工

今回は豊橋陸軍墓地、工兵第15大隊、豊橋海軍航空隊方面には行けませんでした。18聯隊と15師団をメインに散策。

豊橋公園

かつての吉田城跡(三河吉田藩/豊橋城・豊橋藩)
明治維新後の版籍奉還により明治政府管轄。明治4年(1871)兵部省管轄。吉田城址に兵舎建設が進められ明治18年から大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が移駐。

歩兵第18聯隊の正門と哨舎(豊橋公園)

明治31年に新設された営門。当初は木製であったが昭和10年台にコンクリート製に変更。

公園の入口にいまも残る哨舎が味わい深くて素晴らしい。
ついつい歩哨のように中に入って立ってみたくなったり。

歩兵第18聯隊・弾薬庫跡 (豊橋公園)

コンクリート製。床下は換気のために開けてあり、屋根は万が一の爆発時には爆風が抜けるように簡素な作りとなっている。

歩兵第18聯隊・馬頭観世音(豊橋公園)

紀元二千六百年建之
中部第六十二部隊長松本信吉書
昭和16年の紀元2600年に際して建立。軍馬守護神として馬頭観世音を祀る。

豊橋公園
公園内の片隅に寄せられていたこれはなんだろう。
庭園の残骸なのかな。
獅子だったり灯籠だったり。
気配的にはコンクリの雰囲気は新しそうなので、求めている史跡とは関係ないと思われるが。

歩兵第18聯隊・記念樹(豊橋公園)

表に「記念樹」、裏に「昭和5年兵」と刻まれている。
オガタマノキ(招霊木)

「歩兵第十八聯隊之阯」(豊橋公園)

昭和39年建立
副碑・平成9年建立
歩十八会(戦友会)
志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである…

歩兵第十八聯隊之阯 裏面
我歩兵第十八聨隊ハ明治十七年夏名古屋鎮台下ニ創設 
八月十五日軍旗奉戴 
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
(略)
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ十九年二月南方ニ赴援シ防守に努ム 
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ…
(略)
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ
昭和三十九年八月 元歩兵第十八聨隊々員有志建

歩兵第十八聯隊
明治17年(1884)名古屋にて設置され明治19年までに豊橋に移駐。
大東亜戦争では昭和19年3月にテニアン島進駐途中で輸送船が雷撃され聯隊は大損害を受けつつサイパン島に上陸。5月にグアム島に移駐。7月に米軍がグアム島に上陸し激戦を繰り広げ7月25日に軍旗奉焼し歩兵第18聯隊は玉砕。

彌健神社跡
奮藩祖豊城神社旧鎮座地(豊橋公園)

歩兵第18聯隊の営内神社跡。
鳥居は昭和8年4月3日建立(献納/三遠國防義會)
現在、社殿があった場所には「神武天皇銅像」が移設されている。
神武天皇像は、かつて歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するために建立された軍人記念碑が遷座したもの。

神武天皇像(豊橋公園)

装いは故実に基づいた古代武人を模したもの。御尊顔はよりどころがないために、かしこくも 明治大帝をお写し申し上げた銅像。
かつては歩兵第18聯隊練兵場にて戦病死者を追悼する軍人記念碑として設置され敗戦後に当地に遷座。

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4348

旗杭は昭和12年4月、國防婦人會田原町分會の献納。

此処に歩兵第百十八聯隊ありき
歩兵第118聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
軍靴の跡
 我が歩兵第百十八連隊(中部第六十二部隊)は昭和十六年四月一日国家の要請に応えこの地において編成され同年五月二十一日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
 昭和十八年七月六日第四十三師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐 或る者は他部隊に転属さる 
 越えて昭和十九年五月三十日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
 一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和十九年七月七日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
 ここに生存者将兵相計り記念碑を建立 尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和五十五年十一月二日
 元歩兵第百十八連隊関係者有志建之

歩兵第二百二十九聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
 歩兵第二百二十九聯隊は、昭和14年8月7日この地に於て陸軍大佐吉武秀人を初代聯隊長として編成完了。
 9月13日軍旗を授かり、10月13日豊橋を出発、征途についた。
 以後、泥濘の良口会戦をはじめとする南支那における幾多の戦闘の後、第二代聯隊長陸軍大佐田中良三郎率下の香港攻略作戦に始まり、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦いを含むニューギニア作戦、更に陸軍大佐平田源次郎を第三代聯隊長とするムンダ、ズンゲン、ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦から第五次ビスマルク戦に至るまで、大東亜戦争における最も画期的な作戦に参加した。
 かくて戦局不利とはいえ志気未だ軒昴たるうちに終戦を迎え、昭和20年8月18日ニューブリテン島のラバウルにおいて聯隊長以下慟哭裡に光輝ある歴戦の軍旗を奉焼、一塊の灰と化せしめた。
 聯隊生存者一同は、この灰をいま聯隊発祥の地に埋め、英霊の安らかんこと、足跡のとこしえならんことを祈念するものである。

昭和45年9月15日
 元歩兵第二百二十九聯隊戦友会(福々会)之を建立す

歩兵第十八聯隊
将校集会所通用門門柱跡 (豊橋公園)

将校集会所通用門の門柱跡。コンクリート製。上部に黄色のタイルで装飾が施されている。

歩兵第十八聯隊 聯隊記念碑跡 (豊橋公園)

かつてここには聯隊記念碑があった。もともとは上に砲弾型の碑が乗っていたというが現在は台座だけが残る。
戦後に台座の文字を埋めたようで、セメントの下に碑銘や碑文が埋もれていた。

表「聯隊記念碑」
裏「一北満派…」「一済南事変」と一部露出している。

歩兵第十八聯隊 貯水槽跡 (豊橋公園)

防火貯槽跡とされる部位。コンクリートの平面部が残る。

歩兵第十八聯隊 灰捨場跡 (豊橋公園)

煉瓦造り。
現在は塞がれているが上部の穴が開いており、裏側へ灰を掻き出して堀に落ちるようになっている。

戦災復興碑 (豊橋公園)

昭和33年10月建立

碑文
太平洋戦争の戦局非にして国内各都市が敵機の来襲におびやかされつつあつた昭和二十年六月十九日夜半ついに我が豊橋市も敵機B29の集中攻撃を受け市民必死の防禦もその甲斐なく瞬時にして市街地の大半を壊滅せしめらるに至つた
被災坪数128万6千、焼失戸数1万6千886、罹災者7万1502、死者624、重軽傷者344の犠牲を出し、惨憺たる焼土の混乱と窮乏とは人をして再び起つ日あるやを疑わしめたしかるに市民愛郷の熱誠と復興の意欲とは打つて一丸となり全燼なおふすぶる荒廃の中にこの日から雄々しくもたくましき建設が始められた
爾来十有三年全市民の刻苦たゆまぬ復興の努力は着々として功を奏し全国戦災都市にさきがけ産業経済文化の要衝として旧に倍する大豊橋市の盛容を見るに至つた今や再建復興の業成るに及びいたましくも尊き当時の犠牲者の冥福を祈り幾多の窮乏と苦難を排してこの大業に参加した市民不滅の業績をたたえ本市悠久の前途を祝福してここに戦災復興記念の碑を建立し大豊橋市の象徴とする
昭和33年10月

吉田城鉄櫓(豊橋公園)

内部は無料公開もしているけど、この日は外部のみで。

歩兵第18聯隊・西門門柱

豊橋公園の西側、豊橋市役所に面した国道1号線の脇に保存されている。
煉瓦造りの門柱で笠石は花崗岩。
明治18年の聯隊創設時は営門として使用されていたという。
国道1号線工事のために昭和34年に現在地に移築。
現在は門柱部と木製扉部をわずかに残している。

豊橋市公会堂

豊橋公園・市役所の手前にある「豊橋市公会堂」
昭和6年(1931)8月24日竣工。国の登録有形文化財。太平洋戦争末期の昭和20年6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際には豊橋市役所の機能がこの建物に一時移転している。


愛知大学豊橋キャンパス

かつての第15師団

歩兵第60聯隊正門跡
( 愛知大学豊橋キャンパス副門 )

現在は愛知大学豊橋キャンパスの副門
愛知大学前駅のすぐ隣に大学の門がある。
今風にリニューアルはされているが

当時の門柱の面影も残しつつ。(当時の門柱ではないと思われますが。)
まずはここからキャンパス散策と参りましょう。

第15師団
豊橋陸軍教導学校
豊橋陸軍予備士官学校

日露戦争で日本は従来師団の総てを動員してしまった為に本土駐留師団がなくなる事態に陥ってしまった。そこで「第15師団」を含む4個師団が新設され第15師団は明治38年(1905)4月1日に愛知県豊橋市で編成。

大正14年(1925)のいわゆる宇垣軍縮にて第15師団は第13・第17・第18師団と共に廃止される。宇垣軍縮で廃止された第15師団の残された施設を利用して、昭和2年に下士官候補者教育のため「豊橋陸軍教導学校」が開設され、昭和14年には甲種幹部候補生教育の「豊橋陸軍予備士官学校」が開設。 ゆえに本記事では同じ敷地内で「第15師団」だったり「陸軍教導学校」だったりが交じります 。

第15師団そのものは、日中戦争に際して大正14年に廃止された師団番号を利用し復活している。第二次編成としての第15師団は昭和13年に編成。この第二次編成は豊橋とは関係せず。

豊橋第15師団の地は、宇垣軍縮後は騎兵第4旅団司令部を経て陸軍教導学校、陸軍予備士官学校が置かれ、戦後は愛知大学へと推移していく。

豊橋陸軍教導学校・予備士官学校の神社跡
(愛知大学豊橋キャンパス副門広場)

歩兵六十聯隊正門から敷地内に入ったすぐの場所にこんもりとした円形造園がある。この場所にかつて陸軍学校時代は神社が鎮座していたという。
今は格別な何かは残っておらず空間だけが物語っているような雰囲気。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山
(愛知大学豊橋キャンパス学生会館裏)

昭和2年の昭和天皇行幸を記念して昭和6年に陸軍教導学校の生徒によって築かれた小山で吹雪山と命名された。
山頂には記念碑が建てられている。陸軍第15師団司令部開庁から豊橋陸軍教導学校開校、豊橋陸軍予備士官学校、そして閉校まで物語る記念碑。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山記念碑
豊橋陸軍教導学校時代の構内図が描かれている。
愛知大学豊橋キャンパス内で現存している建物は後述しますが「大講堂」「将校集会所」「養生舎」「機銃廠」「学校本部=第15師団司令部庁舎」

歩兵第60聯隊・将校集会所門柱

コンクリート製門柱 (愛知大学豊橋キャンパス内哲学の森)

歩兵第60聯隊・将校集会所
(愛知大学豊橋キャンパス・旧研究所)

よくぞ残ってくれましたといった感じです。
陸軍のシンボル五芒星もありますね。

豊橋陸軍教導学校大講堂
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館)

陸軍教導学校の大講堂として昭和2年に建立。鉄筋造。

天皇陛下行幸記念松
豊橋陸軍教導学校大講堂前
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館前)

昭和2年開校の陸軍教導学校に昭和天皇が行幸されたことを記念して植樹された松。当時の橋陸軍教導学校大講堂前に植樹された。

豊橋陸軍教導学校火薬庫(火薬倉)土塁跡
(愛知大学豊橋キャンパス・プール周辺)

プールの周辺に残る土塁は火薬庫の名残。 火薬庫は当時は土塁で覆われており、今でも土塁の一部が大学構内に残っている。

皇太子嘉仁親王殿下御手植松
(愛知大学豊橋キャンパス短大門付近)

大正天皇が皇太子時代の明治43年11月20日に豊橋偕行社(後述)に御駐泊された際にお手植えされた松と記念碑。 記念碑は昭和3年11月の御即位式に建立されている。

豊橋偕行社跡
(愛知大学短期大学本館跡地)

豊橋偕行社を戦後は愛知大学短期大学本館として利用されていたが老朽化により平成23年(2011)に取り壊し。
偕行社は各師団に置かれていた陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)を兼ねた一種の迎賓館施設。

在りし日の姿~Wikipediaより参考

第十五師団機銃廠
豊橋陸軍教導学校二機銃廠
(愛知大学中部地方産業研究所所属産業館)

明治41年に建造された機銃整備のための建屋。 基礎は煉瓦、壁は下見板張。
屋根瓦に陸軍のシンボル五芒星アリ

皇太子裕仁親王殿下御手植松
碑は大正14年に第15師団廃止の際に建立。

久邇宮邦彦親王殿下お手植松
大正7年、第15師団長として演習台覧の際の御手植松。

御大典記念幟立
昭和天皇即位礼がおこなわれた昭和3年11月10日建立。

豊橋陸軍教導学校・養正舎

昭和2年建立。 建屋の裏の塀は豊橋陸軍教導学校時代に設けられたコンクリート製の塀。 豊橋鉄道との境目。

豊橋陸軍教導学校・塀

昭和2年の豊橋陸軍教導学校時代に設けられたというコンクリート製の塀。 豊橋鉄道の線路との境界線をになっている。 現在も愛知大学の境界線。

第十五師団司令部址

明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。この地には師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60聯隊などが置かれた。しかし師団は大正14年(1925)に廃止となり、その後は陸軍予備士官学校などに利用された。

陸軍第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館)

国登録文化財 陸軍第15師団司令部庁舎として明治41年(1908)建立。 建物は木造2階建、寄棟造の桟瓦葺で、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持つ。外壁は板貼りで装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造り。木造の現存司令部としては貴重。

第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館・愛知大学記念館)
正面

裏側はコの字。

第15師団司令部庁舎 (愛知大学旧本館・愛知大学記念館) 館内内部公開もしてますので入ってみましょう。
公開は月~土曜(日月祝は休館) 開館時間は10:00から16:00まで。 日曜と祝日は入れないのでご注意を。

http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/about.html

正面入り口

正面階段

入り口の階段をあがった2階の正面
陸軍第15師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室として使われた部屋

2階廊下

2階から外を

脇階段
けっこうな軋み音を感じた

1階

この日は見学者は私以外には居ない空間。
贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。

第15師団司令部・正門
(愛知大学豊橋キャンパス正門)

石造りの門柱が残る。 この正門の奥に第15師団司令部庁舎がある。 このあとは愛知大学を離れて、周辺の関連史跡を見て廻りましょう。

第3師団兵器部豊橋出張所・正門と哨舎
(南部中学校)

愛知大学豊橋キャンパス(第15師団)の南方には第3師団兵器部が展開されておりました。
豊橋鉄道の線路越しに当時の哨舎と正門が保存されている。
南部中学校には、これ以外にも当時の門があるようだけれども校内は未見。

門柱・騎兵第26連隊跡?
(合同宿舎王ケ崎住宅敷地内)

詳細はわかりませんが、不自然極まりなく門柱が残ってました。
所在地には騎兵第26聯隊の場所。
道路を挟んだ向こう側は騎兵第25聯隊。
コンクリで煉瓦を隠すように覆っていますが、コンクリの上から扉金具も見えますね。

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎・記念碑
(王ヶ崎東公園)

哨舎があるとついつい中に入って歩哨をしてしまいます・・・

騎兵第26聯隊跡

騎兵第26聯隊跡碑
松井麻之助書 松井麻之助は終戦時の騎兵第26聯隊長(陸軍中佐)。
西竹一らと共に、1936年のベルリンオリンピックに馬術競技日本代表として出場した経歴を持つ。戦後は調教師調教師として活躍。

騎兵第4旅団
 騎兵第26聯隊
明治42年4月1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊

戦歴
昭和7年10月~昭和13年7月 満洲事変
昭和13年8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年8月 大東亜戦争

昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之

騎兵第26聯隊
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42.4~昭7.9 約7000名
満洲事変参加 昭7.10~昭14.7 約3000名
支那事変参加 昭14.8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加  昭16.12~昭20.8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回

騎兵第26聯隊
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年7月 襄東会戦 感状授与
昭和16年6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年9月 武号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
(以下略

騎兵第26聯隊
軍旗遺品合祠記念碑
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが昭和20年8月25日北支河南省郾城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

愛馬の鬣等埋没記念碑
我が聯隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した960余頭は戦後異国にありて1頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたのでそれを集め茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎、記念碑が残る公園。(王ヶ崎東公園)

輜重兵第15大隊門柱
(愛知県立豊橋工業高等学校)

高校の敷地内に門柱が残されている。
文教地区はかつては軍事関連の場合が多い。
 愛知県立豊橋工業高校は輜重兵第15大隊
 愛知県立時習館高校は野砲兵第21聯隊
 豊橋市立福岡小学校は騎兵第19聯隊

時間都合でこのエリアはこのぐらいにしまして次の目的地に移動します…

愛知大学界隈から15分ほど北東に歩いていくと愛知大学が管理している飛地がある。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 

豊橋市指定有形文化財 明治45年(1912)建立。
第15師団長官舎→豊橋陸軍教導学校長官舎→豊橋陸軍予備士官学校長官舎。
昭和21年に愛知大学開設に伴い愛知大学学長公館などに使用。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 
豊橋市指定有形文化財
明治45年(1912)造。
洋館と和館が併設された平屋。洋館は公室、和館は私室として利用。 和漢洋館とも木造寄棟造桟瓦葺。
ほぼ完全の状態で残る師団長官舎としては全国でも稀な例であり、明治末期の和館洋館併設の木造住宅としても貴重。

洋館部分

和館部分

和館部分
1986年のカレンダー
30年以上、時を止めた空間がここにはあった

いつの日か、公開することはあるのだろうか・・・

「第15師団長官舎」(愛知大学公館) 
第15師団長官舎の地から豊橋鉄道小池駅に向かう途中、見つけました。

陸軍省所轄地 陸軍境界標石

9時半に愛知大学到着して散策開始、散策終了させたのが12時半。 ざっと3時間で愛知大学とその周辺の戦跡散策をしたかたちとなりました。
豊橋編はこれにて〆

今回、行ききれなかったところ(宿題)

時間の都合で今回の散策であきらめたところも多数。豊橋市内にはほかにも戦争当時を物語る遺跡が点在しております。
また次に往訪するときまでの宿題として。

豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の戦争遺跡・資料

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=3315

東京駅にのこる近代史跡

先日、東京駅に用事があったので立ち寄ってみました。


伊号潜水艦の潜望鏡?

もともとは東京ステーションホテルを支えていた柱。
当時は「日本海軍(帝国海軍)の伊号潜水艦の潜水鏡」流用とされていたが、近年の研究ではその可能性は薄いという。 とはいっても戦災復旧以降、支えてきた歴史ある柱。 (平成30年5月撮影)


原敬首相遭難現場(東京駅)

東京駅丸の内南口改札外に。
「原敬首相遭難現場」
大正10(1921)年11月4日 この場所で原敬首相が暗殺されました。
この丸い印が暗殺現場。
よく見ないと見落としてしまいます。 (平成27年7月撮影)


浜口首相遭難現場(東京駅)

東京駅の新幹線中央乗り換え口近く。
この場所も人の往来が多く見逃しやすいです。
原敬よりかは目立つタイルですが。
「浜口雄幸首相遭難現場」
昭和5(1930)年11月14日。
浜口雄幸首相が狙撃され重傷となった現場。 (平成27年7月撮影)


東京駅開業時からの柱

1914年(大正3年)の東京駅開業時からホームに残っていた鋳鉄製の柱2本が展示されている。
山手線と京浜東北線の5・6番線ホーム南端の事務室前。
上部がレリーフで装飾、下部には製造年とみられる「明治四十一年」(1908)の文字あり。
(平成27年10月撮影)


東京駅

東京駅ドーム屋根・祝賀ライトアップ

(平成27年11月撮影)

東京ステーションホテル開業100周年記念の祝賀赤色ライトアップ

中島飛行機半田製作所飛行場跡と半田散策

平成29年1月撮影

中島飛行機半田製作所

知多半田地区には、戦前に中島飛行機の工場があった。

中島飛行機といえば陸軍の戦闘機「隼」「鍾馗」「疾風」などが有名であるが、この半田製作所では海軍機を製造。

1943年1月末に主要建物が完成し半田製作所開設。
中島飛行機半田製作所では、主に海軍機2種類を製造。

艦上攻撃機「天山」
半田第1号機は1943年12月8日に完成。
終戦までに月産最大90機、平均月産49機、総生産機数は977機。

艦上偵察機「彩雲」
偵察機として抜群の性能を誇り、海軍最速機として追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名。
半田第1号機は1944年6月に完成。半田製作所での制作機は427機。

北東の駅がJR武豊線「亀崎駅」(後述)。
西が「乙川駅」。
その南側の工場が中島飛行機半田製作所が転換された「輸送機工業株式会社」(富士重工の子会社)。
往時の滑走路跡を書いてみました。

中島飛行機半田製作所 滑走路跡

滑走路は長さ924mの1本。
南東側が堤防に当たるため、生産機である天山や彩雲を離陸できても着陸はできない離陸専用滑走路だったという。
ここより離陸した天山や彩雲は鈴鹿航空隊などに空輸されて再整備のうえで海軍へ納入された、と。

中島飛行機半田製作所の工場は滑走路の西に展開。
中島飛行機半田製作所は、戦後は輸送機工業株式会社に。(富士重工の子会社)。隣接する半田ソーラー発電所も当時の工場跡。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。

もうね、この滑走路末端部の「ターニングポイント」がこんな風に残って、往時の歴史を物語っているって興奮しますよね。

こりゃ、せっかく半田界隈にいるのであれば現地に行ってみないと。

戦後に米軍が撮影した航空写真

USA-R728-25
1947年12月26日撮影(昭22)
ターニングパッドと滑走路がはっきりと見える。無数の穴痕も・・・。
USA-R1493-154
1948年06月07日(昭23)
東の滑走路と、中央の工場部分がよく分かる。

中島飛行機半田製作所滑走路末端部
「ターニングパッド」跡


コンクリが見事に曲線を描いており、滑走路わきの排水路を構築しておりました。 円の中心部は住宅地となっておりますので、そちらは余り写さないように…。

円の反対側。
こちらは枯草に覆われ気味でしたが、排水路はキチンと残ってます。

この砂利が混じったコンクリート具合がステキです。

円形のターニングパッドから、真っ直ぐな に伸びる滑走路方向へと歩いてみました。

現地には案内看板のようなものは一切ないけど、間違いなくこの場所から戦地へと海軍機「天山」「彩雲」が飛び立っていった歴史があるのだ。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。
知らない人が見れば、ただの側溝。この側溝が戦前からここにあって、こうして今の世でもここにある奇跡に感謝する。歴史遺産として、静かに軍需工場の名残を伝えている空間は積極的な保存ではなく…ここにいつまでこうして残っていることか…と。

中島飛行機半田製作所跡

滑走路跡から西に歩むと「輸送機工業株式会社」がみえてくる。中島飛行機半田製作所の地に戦後に設立された会社。
2004年に富士重工業の完全子会社となっている。

建屋には大きく「SUBARU」 中島飛行機のDNAを継ぐ会社でもある。

JR武豊線「乙川駅」

この駅もまた中島飛行機半田製作所と縁が深い駅なのだ。工場への貨物側線を引くために高低差をなくす嵩上げ工事(盛土)を行い、その工事費用を中島飛行機が全額負担したという。
今も乙川駅の入口付近は嵩上げ名残の急坂が残っている。

中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫

そのまま歩いて辿り着いたのは「半田赤レンガ建物」

今でこそオシャレな建物ではあるが、このレンガ建物も紆余曲折あり、当初はビール工場、そして戦中は「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」となっていたのだ。

明治31年(1898年)にカブトビール製造工場として誕生。
昭和19年(1944年)に中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として活用され、戦後は民間のコーンスターチ製造工場となり、平成8年3月が半田市が所有。
登録有形文化財・近代化産業遺産

昭和20年(1945)7月15日。
「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」に米軍P-51戦闘機が超低空で飛来し急降下による機銃掃射を受け、その傷跡がレンガ壁面に残っている。この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ている、と。

半田赤レンガ建物、今回は時間が無かったので外側を眺めただけで退散。
残念なことに赤レンガ建物の復刻ビールにありつけなかったのだ。半田ってビールもあれば、酒蔵もある(国盛)良い街ですね。これは今度ゆっくりもう一度来たい街になりました。


付記

JR武豊線「亀崎駅」
(JR最古の現役駅舎)

駅全体を損ねないカラーリングではあれど一際に大きいエレベーター跨線橋は2014年に新設されたもの。 今回の注目点はこれではなく駅舎そのもの。

この亀崎駅の駅舎。
なんと、1886年(明治19年)の開業当時から残るものとして「日本最古の現役駅舎」とされている。
(異説ありますが、現役駅舎として最古級なのは間違いなし)
この佇まい。
佳き雰囲気を醸し出しています。
とても綺麗です。

建物資産標
M19年1月

日本最古の現役駅舎。
当駅は、JR東海が2013年10月1日より導入した「集中旅客サービスシステム」により、大府駅管理の無人駅となっている。

駅舎後方。
まるで住居のようでもあり、面白いですね。(いまは無人駅だけど)
駅自体はこじんまりと綺麗に良くまとまっていました。
佳き駅舎。
もっとも、あっという間に鑑賞が終わってしまったので…さて、次に参りましょう…

JR武豊線「半田駅」
(JR最古の現役跨線橋)

日本最古の現役駅舎「亀崎駅」に次いで鉄道ネタとして訪れたのが同じくJR武豊線「半田駅」。
(亀崎駅から歩いてきて)到着は11時ごろでした。

※半田駅の跨線橋は2021年6月で現役運用終了。高架化工事に伴い2022年に撤去された。(駅前整備完了時に移設保存の計画あり)

半田駅の跨線橋は、建築当時から変わらずに利用されている現役の跨線橋としては日本最古。
コチラも古く1910年(明治43年)11月完成という。
まずは駅の外側から見学してみましょう。

奇しくも武豊線には明治の鉄道建築物が集中して残っていることになります。
今回、たまたま半田に用事があったので、こうして見学できることになり運がよいです。これは。
跨線橋に萌えてきました。これもまた良い建造物です。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
良き味わい。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
跨線橋の脇には「ランプ小屋」(油庫)も。 こちらも良き味わい。

せっかくなので入場券を買って中も見てみましょう。

開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成 JRでは最古の駅です。

階段部分の斜めのガラス窓が美しい。

そして通路の天井。

跨線橋の根本。
ホーム上でずっと興奮しまくってます、わたしw

鉄柱には「明四十三 鐡道新橋」と書いてあるのかな。

こんな感じに跨線橋にだいぶ萌えてしまった私がいました。
まさか武豊線に歴史的な価値のある鉄道建造物があるとは思いもよらずで。

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
(豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合)

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」。
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

〆

JR銚子駅舎建替前の記録(海軍香取航空基地の格納庫転用の駅舎?)

すでに解体済みです。平成30年に新駅舎となりました。

1945年(昭和20年)7月19日
空襲で銚子駅舎は焼失しており、終戦直後に海軍香取航空基地の格納庫を転用し駅本屋に改築したものとされている。
訪れてみればわかるが空間が広く格納庫転用の名残を感じる。

海軍香取航空基地跡の記録はこちら

内田百閒 「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅。夏目漱石の弟子である作家・内田百閒は昭和28年に「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」の中で銚子駅に関してこう記していた。

「…間もなく銚子駅の構内に這入った。終着の大きな駅ではあるが、本屋全体の感じが倉庫か格納庫の様で、少し薄暗く、よその駅とは丸で工合が違う」

さすがの内田百閒先生。
陸軍士官学校や海軍機関学校のドイツ語教官、法政大学ドイツ語教授時代に法政大学航空研究会会長に就任していただけあって、知ってか知らずか「格納庫の様だ」とご名答されていました。

内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」
内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅 平成28年10月18日撮影

既に一部では工事も開始されておりました。

駅構内では待合室とニューデイズは既に封鎖・・・。
柱が少ない内部空間が、僅かに格納庫の名残を残しているのかもしれない。

外側から駅舎を見てみれば、この長い建物が「格納庫らしい」とも。

建て替え前に。 いろいろと見て歩く。

跨線橋から、つい銚子電鉄ホームを見てしまいました。

地元駅から始発に乗って、電車に揺られて銚子駅にたどり着いたら、一休みしつつ待合室のTVで「小さな旅」を見たのも思い出の一つになりました・・・。

銚子駅  平成28年12月11日撮影

建替工事中のJR銚子駅。
平成28年12月11日の記録。

ホーム側から撮影。
この時はまだ違和感に気がつきませんでした。

跨線橋から撮影。
ん?…ない?あれ? 駅舎ブツ切りされてる……

正面。
あぁ…真ん中が…ない!
真ん中が完全に撤去…

覚悟はしてましたし、しょうがないこととはいえ、海軍香取航空基地格納庫転用とされた銚子駅駅舎の半身不随の姿。

銚子の青空と太陽は絵になる。 それは皮肉なことに、半身不随の姿で横たわるJR銚子駅の半壊な姿ですら…

バッサリと切り捨てられた姿が痛々しい。

覗きこんでみました。
これもまた、消えゆくものへの供養の記録。

海軍香取航空基地格納庫の気配を夢想しつつ、いち歴史ファン・海軍フリークとして、その姿を脳裏に刻む…

銚子駅舎さん!お疲れさまでした…

走水水源地と覚栄寺裏山貯水池

平成31年3月

桜の季節に開放される「横須賀走水水源地」
タイミングが合わせられましたので行ってきました。

覚栄寺裏山の明治28年築造の旧海軍貯水池

横須賀水道

横須賀における水道施設は海軍とともにあった。
横須賀海軍工廠が発展するにつれて水不足となったために造船所首長ヴェルニーの手によって明治7年(1876)から9年にかけて最初の水道「走水水道」が完成。

海軍専用の水道として軍事拡張とともに水道も拡張。
大正7年(1918)に中津川を水源とした「半原水道」が通水。
「走水水道」は海軍から横須賀市に無償関与され横須賀市上下水道の水源となった。


走水水源地煉瓦造貯水池

横須賀軍港水道走水水源地の第一期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。登録有形民俗文化財。明治35年(1902年)造。内部空間を構成する扁平ヴォールトが,入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ,屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵,堀池好之助らが担当。

登録有形民俗文化財 走水水源地
明治三十五年一月竣工

走水水源地

走水一帯は昔から地下水の豊富なところとして知られていた。
横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)の建設に貢献したフランス人技師ヴェルニーが明治7年に、この走水水源地から横須賀造船所までの7キロの水道工事に着手。明治9年12月に完成。明治34年から35年にかけて水道を拡張し(上記の煉瓦造貯水池はそこの拡張時のもの)。

横須賀水道発祥の地
桜の季節に走水水源地が開放されます。

横須賀市水道局の「走水水源地」が桜の季節に敷地開放されますので、行ってみました。

境界石

1Z東京湾要塞第壹地帯標
陸軍省
桜の季節だけ拝見できる境界石。
左端の柱が前述の「境界石」

ポンプ室がいつからのものかは不詳。


走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池

走水水源地の第2期拡張工事で建設された上屋付き浄水池。
内部は鉄筋コンクリート造の5連馬蹄形ヴォールトで構成され,外壁には石で縁取りされた丸窓を一列に配す。
設計は海軍技師伊藤誠吉とされる。日本最初期の鉄筋コンクリート建造物のひとつ。
1908年(明治41年)築造


 横須賀軍港水道 浄水池
明治41年9月竣工

ヴェルニーの水

走水の湧き水を利用した水。


走水水源地の煉瓦造貯水池の近くに。

明治以来の当時のものかどうかは不詳。


東に歩いていく。
破崎緑地の展望デッキから、走水水源地を遠望。桜のピンクがやんわりと広がる空間。


本水山覚栄寺(浄土宗)

永正10年の開山。裏山の湧き水は水源地になっていますので行ってきましょう。


覚栄寺裏山貯水池(帝国海軍)

明治28年築造。覚栄寺の墓地を登っていくと、帝國海軍が築造した「かまぼこ型の貯水池」が残されている。

隙間から覗いてみました。
今も水が流れ込み貯水されておりました。
海軍用地。海軍の貯水池。
寛栄寺の裏山

覚栄寺裏山貯水池(横須賀市営水道)

明治28年につくられた海軍の貯水池の近くに横須賀市が明治41年(1908)に築造した貯水池。

表は煉瓦造の貯水池
隙間から内部を覗いてみました。
こちらも今でも水が流れ込んでおり、水音が聞こえます。
明治四十一年六月竣成
後ろは半円のレンガ&コンクリートが2つ。

裏山を降りて下から、さきほどの貯水池を眺めてみました。

寛栄寺の「滝井戸」

本堂の裏手に。こんこんと湧き出る井戸。

裏山はいまでも湧き水が豊富だと実感できる空間。

文化財に指定されていない2つの貯水池。できることなら保全をきちんと進めてほしいものではございますが・・・。

九段会館(軍人会館)解体前の記録

九段会館、戦前の軍人会館。

東日本大震災の影響で2011年(平成23年)4月に廃業し、平成31年現在は解体中。
2022年に帝冠様式の外壁を残した状態で高層ビルに生まれ変わる予定。

平成30年4月撮影~最後の桜

「軍人会館」(九段会館)

着工は昭和7年(1932)2月。竣工は昭和9年(1934)3月。
鉄骨鉄筋コンクリート構造・ 日本趣味建築「帝冠様式」

歴史的には昭和11年2月26日の二・二六事件に対する戒厳令発令に伴い、軍人会館に戒厳司令部が置かれたことが有名。

戦後はGHQに接収され「アーミーホール」、進駐軍撤退後の昭和32年(1957)に「九段会館」として再開業。

平成23年(2011)3月11日 、東日本大震災でホール天井が崩落し2人死亡。
閉館。


「九段会館」思い出の写真

平成28年2月26日撮影

平成28年4月

平成28年6月

平成29年4月

平成30年3月25日
工事直前の撮影、軍人会館と桜の撮影。

「九段会館」解体工事のお知らせ
工期 平成30年5月7日~平成32年7月31日
九段会館屋上の「護國神社」
九段会館屋上の「護國神社」
工事の足音が。

「明治10年の忠魂碑」西南戦争の頃の忠魂碑。


九段会館屋上の護國神社(取壊済)

「九段会館」、戦前は「軍人会館」
もともと当地は「靖國神社」の境内地でもあり、万が一に「靖國神社 」に被害が生じた場合、即座に遷座が可能なように「仮殿」が設けられていた。

昭和9年(1934)年、帝冠建築とも呼称される独創的な建築によって軍人会館が竣工すると、靖国神社仮殿は「護国神社」として「軍人会館」の屋上に移された。
戦後は建物は「九段会館」と名称変えるも、かわらず屋上には「護國神社」が祀られていた。

平成31年4月。再開発事業により屋上は解体。
軍人会館以来の歴史を有していた護國神社も姿を消した。


九段会館の屋上に行く機会があったので、以下に当時の記録を記載しておく。
平成21年夏の記録。

以前に嫁が会社の人たちと「屋上ビアガーデン」にいってきたという。
そう聞かされたら羨ましくてしょうがない。
実は、私は「九段会館の屋上」にいったことがなく、靖国仮殿の噂のみをきいていた。
そうしたら猛烈に行きたくなった私の気持ちを汲んでくれたようで、今年も嫁が嫁会社関係の人たちとビアガーデンにいくという。
折角の機会なのでその席に便乗してみる。かなり感謝なのだ。そうして若干遅刻しつつ、ビアガーデン会場=九段会館屋上=軍人会館屋上に到着。

ビアガーデンもそこそこに、一目散に神社の写真を撮りに行く。ビールよりもそれが目的。
参拝をすませ写真をとったら、そうしたらあとはゆっくりとビールをたしなもう。
「英霊ありがとう」
靖国の英霊の御霊に感謝祈念しながら、しずかに喉を潤すひととき。
ひさしぶりにビールがおいしい夜であった。

<「神のやしろを想う」より>

平成21年7月撮影 社号標「護國神社」は昭和9年3月竣工時のもの。
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影
平成21年7月撮影

「九段会館」解体直前の姿

平成30年4月1日撮影
遂に工事用の白い壁が・・・


平成30年7月28日撮影


平成30年8月15日撮影


平成30年9月2日撮影


平成31年3月29日撮影

このときに屋上の鳥居を確認したのが最後でした・・・

「九段会館」解体中の写真

平成31年4月14日撮影

令和元年8月4日撮影

昭和の建築物が、またひとつ消失していく瞬間。
これは「保存」といえるのだろうか・・・


再開発中

令和3年(2021)3月撮影

令和3年(2021)12月撮影
だいぶ、ビルができてきました。。。

令和4年(2022)4月撮影
ほぼ、ビルが出来上がってきました。

2022年10月、新しく九段会館テラスとして再稼働。。。
別記事にて。


海軍工作学校と海軍通信学校(久里浜)

平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影

海軍通信学校庁舎(昭和14年)

「海軍工作神社」

久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。

「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。


「海軍工作学校跡」碑

海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園

海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。

海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
 此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
 今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/

当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・


久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。

久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

昭和22年1月 
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…

同じく、久里浜の長安寺にある「祠」


「通校神社(海軍通信学校神社)」

海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

久里浜駐屯地 歴史館にて

「海軍通信学校」跡

現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。

碑は志摩清英(通信学校長・海軍中将) 謹書

平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。

立入禁止エリアが多くて・・・

海軍通信学校庁舎(現在の本館)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。


海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。

海軍通信学校以来の建物は「1」「2」「3」と棟番号が振られている。

海軍通信学校・海軍栓

陸上自衛隊久里浜駐屯地内

歴史館前に
歴史館前に
第一、第二兵舎の間に
第一、第二兵舎の間に

海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


久里浜駐屯地内の記念碑

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立
保安隊記念碑 昭和29年
保安隊駐屯記念碑 昭和28年
保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立

久里浜駐屯地「歴史館」

海軍甲種飛行予科練習生の電信術錬成之碑建立記念
帝国海軍 精神注入棒
海軍通信学校時代の軍艦旗掲揚に使用された竿
海軍通信学校校歌
山下奉文ゆかりの書

山下奉文閣下から陸軍少年通信学校長に就任された高木正実大佐に宛てて書かれたもの。

観桜

もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。

非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。

ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・

「忠魂祠堂」と「軍艦比叡鎮魂碑」

平成30年8月撮影・横須賀・光心寺

「忠魂祠堂」

明治33年10月28日に創建。
昭和12年2月6日に再建。
建立は横須賀鎮守府。


明治二十七八年戦役(日清戦争)、明治三十七八年戦役(日露戦争)、満洲・支那事変、大東亜戦争戦死病没者を祀る御堂。

「忠魂祠堂」光政謹書
扁額は米内光政によるもの
再建時(昭和12年)の海軍大臣

横須賀・光心寺
忠魂祠堂の手前に

「軍艦比叡鎮魂碑」


昭和57年5月吉日、比叡会及び遺族外有志一同建立
軍艦比叡戦死者188柱を祀る

「軍艦比叡戦没者供養塔」五輪塔
昭和61年4月19日 軍艦比叡会建立

軍艦比叡艦歴  
 比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀海軍工廠で完成し横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
 昭和五年軍縮会議の結果練習戦艦となりその兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたがその間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり大元帥陛下の御召艦としての栄に浴した。 
 昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ同十五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
 昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
 昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」、印度洋「ミッドウエー」等の海戦に参加し大いに武威を輝かした。 昭和十七年後半南東方面の戦局が急を告げるや 同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃の任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻、駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受けその一発が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反復攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたがなお沈まず、最後に駆逐艦雪風の雷撃で止めの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。
( 「軍艦比叡鎮魂碑」碑裏面の引用は以上 )

軍艦比叡戦没者供養塔趣旨
軍艦比叡は昭和十六年十二月(一九四一年)今次大東亜戦争開戦と同時に第一航空艦隊支援艦隊としてハワイ 印度洋 南太平洋及びミッドウエー海戦等に参加し輝かしい武勲を樹てた。昭和十七年後半戦局は極度の急を告げ南太平洋海戦特に第三次ソロモン海戦に参加
「ガダルカナル島」の敵飛行場の撃破粉砕の任を帯び特別挺身攻撃隊の旗艦として同泊地に突入したが期せずして十一月十二日敵重巡部隊と遭遇暗夜の混戦となり比叡の主砲及び各砲は一斉に敵艦船に対し火蓋を切り精錬された砲員の的確で痛烈な斉射は敵重巡部隊を撃滅した。比叡もまた敵の好目標となり昭和十七年十一月十二日夜から十三日に亘る敵の激しい砲雷爆撃により露天甲板以上の戦闘員多数は肉を裂かれ骨を砕かれこの鮮血に埋もれた伏屍が累々と激戦の惨状を呈した。この海戦で実に一八八柱に及ぶ犠牲者は比叡と共に同十三日夕刻南海の果てにその姿を没した。
戦死された尊い犠牲者の魂は戦後日本の復興と悠久の平和世界に誇る経済の発展に繋がる原動力となっていることは正に戦没者の遺産で日本人の心の奥に今も脈々と生き続けており軍艦比叡会はこの栄光の軍艦比叡と英霊の遺徳を後世に残すべくさきに軍艦比叡鎮魂碑を建立したが更に茲に有志相集い永代の供養を捧げる赤心を結集して軍艦比叡戦没者供養塔を建立して英霊の安らぎを念願するものである。 (「軍艦比叡戦没者供養塔」塔側面 趣旨引用は以上)

横須賀・光心寺
「忠魂祠堂」の裏山には防空壕跡もありました。
今回は友人車で参拝させていただきましたが、最寄り駅はJR衣笠駅より徒歩5分ほどの地に鎮座。 清廉な寺院空間となりますので失礼のないように参拝を。

〆

旧・横須賀鎮守府司令長官官舎

平成28年4月撮影

現在の海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎。
桜の季節に一般公開。
友人に連れられてサクッといって参りました。

基本情報(公式サイト内案内ページ) http://www.mod.go.jp/msdf/yokosuka/event/tadodai/tadodai.html …

到着したのは9時過ぎ。

公開開始時間も9時からなので絶妙なタイミング。

桜に錨は海軍のシンボルマーク。

自衛艦旗も美しく。 伝統墨守の海上自衛隊。

横鎮長官官舎は大正2年(1913)に建設。

建設時の横鎮長官は瓜生外吉海軍中将。企画設計は桜井小太郎。桜井氏はロンドン大学で学んだ日本人初の英国公認建築士で帰国後に海軍技師。呉時代に呉鎮司令長官官舎を設計。こちらは現在の入船山記念館(国重文)。

米国でステンドグラスの製作技法を学び、日本のステンドグラス草創期に業績を残した小川三知氏の作品。 館内には往時のステンドグラスが残る。

洋風館と和風館の接続建築。

洋風館部分は木造平屋建て、亜鉛葺切妻屋根、イギリス伝統のハーフティンバー(柱はそのままで間の壁を漆喰で埋める)の建物。

なお、もとは木造平屋建てですが、ぱっと見でレンガ造りぽくみえるのは、のちに煉瓦タイル張りに変更されたもので、もともとは木造板張りとのことで。 _φ(・_・

洋風館部分で特に美しいのが庭園側に張り出した切妻屋根に三連チューダーアーチを挟んだ位置にあるトンガリ屋根。 アーチ上には流造のような屋根と小窓、三角屋根の小窓も屋根裏のワンポイント。

和風館部分は二階建て。こちらは洋風館部分に対して簡素にして質素。 洋風館部分と和風館部分がくっついてひとつの建物として成立しているのが面白い。 呉鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)もそうですが。

さて、館内を見学していきましょう。

建築当初は応接室として使われた一室。 現在は記念室として司令長官室的執務室的に展示されおります。

記念室展示。

おや、野村吉三郎さん。駐米大使で余りにも有名ですが海軍出身なのです。 軍令部次長ー呉鎮長官ー横鎮長官ー上海事変の第三艦隊司令長官ー阿部信行内閣外相ー開戦時の駐米大使ー戦後も色々…

記念室。展示。

本棚に収められた書籍が魅惑的すぎるっぽい。 施錠してあったけどw

歴代横須賀鎮守府長官

田戸台鎮守府長官官舎(横須賀鎮守府長官官舎)の歴代居住者。

建築当初は客室だった部屋。 室内にあるピアノは大正14年1925にドイツ・ハンブルクにて制作されたスタインウェイC型のグランドピアノ。 現在も演奏会で使用されている。

横鎮長官をはじめとする提督たちが揃いし空間を夢想させる長テーブル。

海気集 東郷平八郎書。
部屋には東郷平八郎の書が掲げられ、小さな像も棚にそなえられておりました。

洋風館の隣は和風館。
八畳間が二部屋。

窮理以致其知 東郷平八郎書。
儒学・朱子の一節。

廊下には海自艦のイラストが掲示されてました。
「しらせ」に「かとり」。 これはチョイスが渋い。

南極の石が寄贈されておりました。

桜を愛でる。

庭園からの眺望。
遠くに走水・観音崎を望む風光明媚の地。
この高台は「長官山」とも呼称されているのだ。

ちなみに立ち入り禁止でしたが、壕がありました。

こんな感じで約1時間。
横鎮長官官舎を見学させていただきました。

桜の季節のみの一般公開。
ゆっくりと歴史の重みを感じさせる趣を堪能させていただきました。 ありがとうございます。

となりは横須賀地方総監宿舎。
ちなみに撮ってはいませんが総監個人名の表札もぶらさがってました。 敷地内に掩体壕みたいなものが見えますね。

官舎から下り道を。こうしてみると高台(通称は長官山)にあるということが良くわかりますね。

近代海軍発祥之地跡散策(築地)

平成29年5月撮影 ※現在は築地再開発により現地状況変わっております。

近代海軍発祥の地「築地」散策。 そのほか魚河岸水神社・波除神社・本願寺・聖路加病院などの散策。

築地

江戸時代に「地を埋め立てて築いた」ことから築地と呼称されたという土地。いまでこそ「築地市場」のイメージしか湧かない場所柄ですが、戦前は海軍用地として展開。 そんな海軍ゆかりの地を散策してみました。

「築地」の歴史をざっくりと。

江戸時代。 1657年(明暦3)明暦大火の際に焼失した浅草御門南の「西本願寺」の代替地として佃島の住人によってこの土地が埋め立てられ造成。 現在の「築地本願寺」を中心した寺町が形成される。 ※現在の本堂は1934年竣工(後述)

江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設置。 これが海軍部門の軍艦教授所(安政4年/1857)となり、のちに「軍艦操練所」(築地軍艦操練所)に改称され勝海舟らが教授として赴任している。(勝はのちに神戸海軍操練所を設立する)

明治維新の後、築地界隈の大名屋敷や築地軍艦操練所跡は明治政府に接収。
明治2年(1869)「海軍操練所」が創立。
明治3年「海軍兵学寮」に改称。
明治9年「海軍兵学校」と改称。
「海軍兵学校」は明治20年に広島・江田島に移転。

旗山碑

明治5年(1872)築地の元尾張別邸に「海軍省」(前身)が創立。 大名屋敷庭園の築山に「海軍卿の旗」(海軍大臣の前身が海軍卿)が掲げられた為「旗山」(きざん)と呼称。 のちにこの地が「海軍発祥の地」として記念碑が建立された。

旗山碑

この旗山碑はもともとは今の市場の中心地にあったというが、戦後の市場再整理に伴い移動。
同じく「築地の水神社(後述)」も移動して、それぞれが現在の場所に鎮まったとされます。
今後の築地再開発(?)で、どうなるかは知りませんが。

築地の海軍省は明治15年に築地より移転。(兵学校は明治21年移転ですのでそれよりも早く移動)
海軍省と兵学校が移転後の築地には海軍軍医学校や経理学校(後述)などが展開されていきます。

築地は明治期の海軍一大拠点だったのです。

旗山碑 銘文

此処ハ往昔徳川幕府ノ時、松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス。
明治二年海軍庁衙ヲ此地ニ置ク、五年本省設立後、海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ、世人呼ンテ旗山ト称ス。此地ヤ実ニ海軍経営ノ根基ヲ為セリ。
蓋シ其発祥ノ地ト謂ツヘシ。
爾來、春風秋雨幾星霜、省庁転移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ留ムルノミ、地形漸ク変リ、旧時ノ状景亦尋ヌルニ由ナカラントス。
乃チ旗山ノ地点ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日  海軍大臣 永野修身

永野修身海軍大将の謹書

余談。
築地「海軍発祥之地」は永野修身海軍大臣。
で、私はこれを「近代海軍発祥之地」と表現しました。

ややこしいことに昭和15年に皇紀2600年として宮崎県に神武東征ゆかりの「日本海軍発祥之地碑」(米内光政 首相 海軍大将)が建立されてまして。(未訪

築地魚市場

大正12年(1923)関東大震災発生。 日本橋魚市場が壊滅的な打撃を受け市民生活復旧の為に水運・陸運に恵まれていた築地の「海軍用地」を一時的に借り受けて魚市場を再開。
気がつけばそのまま昭和10年、東京市中央卸売市場が開設。

築地の水神社

魚河岸水神社遥拝所
日本橋魚市場が関東大震災で被災し、この築地の「海軍用地」に移転してきた際に「魚市場の守護神」として当神社の築地に新たに祀られた。

天正18年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」が起源という。

神田神社の境内に「魚河岸水神社」が建立。 日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立され「水神さま」として市場関係者の崇敬が篤い。

※写真は神田明神境内の「魚河岸水神社」の本社。(平成29年5月撮影)

築地の水神社(魚河岸水神社遥拝所)
御祭神 弥都波能売命

築地市場の護り神
「海軍の築地」から「魚市場の築地」へ 気がつけば、近代海軍発祥之地碑「旗山碑」も魚市場を守護する神社境内の片隅に。

鳥居は昭和10年(1935)建立。関東大震災ののちに築地海軍用地に臨時の東京市設魚市場が設置され、正式に現在地に東京市中央卸売市場が開設された年が昭和10年。
旗掲揚台は昭和17年造でした。

今は使われていない水盤は舟形でした。 狛犬の台座には昭和11年の銘あり。

ところで魚河岸水神社遥拝所は遷座の歴史を繰り返してきたわけで。

日本橋魚市場→築地魚市場。

この先は豊洲魚市場となった場合は、魚河岸水神社遥拝所も豊洲に遷座する可能性があるわけで。
今は神社と同居している近代海軍発祥の地「旗山の碑」は、どうなるんだろうね。近隣移動するのかな…
水神社前。大盛況。 観光客から市場関係者まで往来がひっきりなし。 これは築地ならではの活気ある光景ですね。

せっかく築地にいるのだから。 水神社の横にある「水神様通り」に。

吉野家です。噂に聞く「吉野家・築地一号店」 築地といえば海鮮物も迷いどころですがどこも並んでおりまして、ここはサクッと吉野家ですよw

ターレットトラック(ターレ)で乗り付ける市場関係者で大盛況。

吉野家・築地一号店

日本橋魚市場に鎮座していた「魚河岸水神社」は関東大震災後に市場とともに築地に遷座。関係する商店も移動。 日本橋魚市場で開業した「吉野家」もまた築地に移動しており、ここが「吉野家一号店」

「近代海軍発祥の地」は「吉野家発祥の地」でもあり…

吉野家・築地一号店
威勢良いおばちゃんが「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう!」と声をあげる。この雰囲気は良いです。朝から麦酒が呑みたくなります(仕事あるので自粛したけど)
いつもの「吉野家の牛丼」が、…いつも以上に美味しく感じられますw

市場場内域をでるとすぐそこに鎮座している神社

波除神社

江戸時代の万治2年(1659) 「築地」埋立時に海面を漂う光り物(稲荷大神の御神体)を祀ったところ、波風がおさまり埋立工事が無事に完了したという説話が残っている築地の鎮守様。魚市場関係者の崇敬が篤い。

境内には漁業及び市場関係者の奉納碑が多い。 ここでは個別掲載はしないので、公式サイト参照で。 →http://www.namiyoke.or.jp/jinjyanogosyoukai.html …

ん?この碑は昔に参拝した時には無かったぞ。 去年奉納されたようで知りませんでした。
「奉納 吉野家 碑」
銘文によると、築地市場の豊洲への移転に伴い「築地一号店」も移転することになった、と記されてました。 移転問題は引き続き推移を見守りましょう…

さて築地エリア・波除神社から道をまっすぐに北西方向に。
「国立がんセンター」が次の目的地。
場所→https://goo.gl/maps/pQMrusHNDwH2 …
東京都中央区築地4丁目15の北側。 料金所の近くにひっそりと、海軍関係の2つの碑があります。

海軍兵学寮跡
海軍軍医学校跡

国立がん研究センター築地キャンパス構内に鎮座する2つの碑。

「海軍兵学寮跡碑」
明治2年1869、前身の海軍操練所が築地に開設。 翌3年「海軍兵学寮」、明9年に「海軍兵学校」と改称。 明21年1888に海軍兵学校は江田島に移転。 齋藤實海軍大将の揮毫。昭和9年5月建立。

「海軍軍医学校跡」
明治6年1873、海軍病院付属学舎が設立するものち廃校。 紆余曲折があり明22年に芝に「海軍軍医学校」開設。 明治41年1908、築地移転し昭和20年11月1日閉校。 碑は最後の軍医学校校長であった神林美治海軍医中将揮毫。

「海軍兵学寮跡」 「海軍軍医学校跡」 この2つの碑がある場所の横の意味ありげな柵が気になりました。 なんの説明もないけども、なんか年代物です。 きっと歴史的な何かなんでしょう(わからないけど

日本国海図及び海洋調査発祥の地

東京国税局の前庭に。

水路記念碑
日本国海図及び海洋調査発祥の地
明治4年、ときの政府は、海運や国防のために船舶が安全に航海するため海の深
さや目標物を記した海図の整備が急務であると考え、兵部省海軍部水路局を現在の東京都中央区築地に創設し、外国人に頼らず独力で海洋調査を行って日本国として初めての海図を作製しました。これらの業務は海上保安庁海洋情報部に引き継がれ、現在も続けられています。
平成23年、海洋情報部の庁舎を江東区青海に移転することとなり、140年に亘る
長い歴史を刻んだ築地の地を発祥の地として後世に伝えることとしました。
 平成23年9月12日
 海洋情報部関係者一同

軍艦操練所跡

晴海通りを隅田川方面に移動。皇居桜田門・凱旋濠界隈から勝鬨橋方向に伸びる晴海通りにシレッとある看板は「軍艦操練所跡」案内。 案内看板はありますが、特に碑はありません‥ これもまた、近世から近代へと移り変わるさなかの海軍発祥の布石でもあり。

八紘一宇の碑(国旗掲揚台)

近くには八紘一宇の碑もありました。
紀元2600年(昭和15年・1900)記念、築地門跡青年団 の建立

勝鬨橋

昭和15年竣工。国重要文化財指定。 隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。 1970年11月29日を最後に開閉が停止、1980年には電力供給も停止。 勝鬨橋にも興味は深々ですが今回は軽く触れるに留めておきます。

勝鬨橋之記
勝鬨橋竣工の昭和15年建立された碑 碑文 明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
 昭和十五年十二月
 東京市長  大久保留次郎 撰併書

勝鬨橋の由来が記されし碑文。時代の名残が現在の名称に残る。
「かちどきの渡し」 明治38年、日露戦争の旅順要塞陥落を契機として有志が築地月島間に渡船場を設置し「勝鬨の渡し」と命名。 昭和15年に新たに橋が開通すると「勝鬨橋」とその名残の名称が受け継がれ「勝鬨の渡船」は廃止。

海軍経理学校之碑

海軍経理学校は、海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校のひとつ。 明治7年1874、海軍会計学舎が芝に開校。 明治21年1888、築地へ移転。 明治40年1907、海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称。

海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたがのち幾変遷を経て明治40年にそれが海軍経理学校となった。その間明治21年校舎は築地に移されたがその敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度か移改築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月、同校は約70年の歴史を閉じた 。その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑をたてる。
昭和51年4月

ちなみに、 中曽根康弘氏は海軍経理学校の短期現役士官出身。

海軍経理学校之碑 裏面

裏面に掲げられし門標は昭和18年に開校した海軍経理学校品川校のもの。 学生の増加と戦局の悪化による疎開を兼ね、築地と品川のほかに浜松・垂水・橿原に分校が置かれた。

海軍経理学校校歌 (作詞・片岡覚太郎)

ゆるぎなき 御代のすがたのうつすてふ 東京湾頭
 波よする 築地の岸に聳えたつわれ等が母校
星うつり 人はかはれど古し庭 昔をかたり
 五十年 光栄ある歴史とこしえに我等をてらす
ああなつかしき われ等が母校
 母校の光栄はわれ等が誇り
この誇りすてず進みゆくこそ
 われ等が担う 永遠の使命ぞ

築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が、松平定信邸の浴恩園の跡に当たり、かって生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。  昭和51年4月 浴恩会

附記) 今回は脇道にばかり逸れてしまってますが、せっかくなのでこの機会に触れておきます。

「海軍経理学校」ゆかりのものが都内の神社に残っています。

東郷神社御水舎の前の敷石
海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年5月
※平成28年5月撮影

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの史跡。

海軍経理学校正門敷石

浴恩会・昭和55年4月
「靖國神社」社殿裏梅園ちかくに。
こちらは東郷神社の敷石とは違い金属片が残っています。

附記) 「海軍経理学校」ゆかりの遺産。

海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品

「靖國神社」遊就館大展示室。
海軍経理学校揚艇柱(ダビット)部の部品が奉納されています。
(海軍経理学校品川校)
滑車・網巻・吊金具
(浴恩会・昭和60年5月) ※平成29年3月撮影


さて話を築地に戻さないと。 とは言っても実はこの先は海軍ネタはもうオシマイ。 近代建築を観て歩くことにしました。
その前にいったん休憩。 例の焼きたての「玉子焼」

築地といえば

築地本願寺

国重要文化財指定建造物。 昭和9年(1934)に竣工。 設計は伊東忠太。インド石窟寺院風の独特なデザイン。

昭和9年(1934)竣工。国重要文化財。伊東忠太設計。

細部も観ていて楽しい。

築地本願寺(浄土真宗本願寺派)
本願寺派や大谷派の寺院は朱印はございません、って。
西本願寺
(本願寺派 →http://www.hongwanji.or.jp/faq/#q000522 
東本願寺
(大谷派 →http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/leaflet/02.html …
神社専門なので深入りはしません…

現在進行形で境内整備中。平成29年10月までは工事が行われる模様です。

で、実は私がここに訪れた理由がもう一つありました。

築地本願寺境内西側にあるという記念碑
「日清戦争・近衛師団碑」  野津道貫 近衛師団長陸軍大将謹書
「日露戦争・後備第一師団記念碑」 川村景明 鴨緑江軍司令官陸軍大将謹書

これが…境内をどこを探しても「ない」んです。

ん?
途方に暮れて、工事警備員の方にスマホで検索して出てきた個人サイトのweb画像を見せつつ聞いてみます。

私
「こんな記念碑、見たことあります?」
工事警備員の方
「みたことないあ。ちょっとわからないなあ」
え? (けっこう大きいのに見たこと無い…だと?

警備の人が見た事ないというので、本堂事務所の受付の方に同じように聞いてみました。

私
「記念碑を探しているんです?」
寺務所の人
「境内の碑は全てあのエリア(写真の場所)に集めてあります。そこにない場合、重要度が高くないと判断して区画整理の際に処分してます。」

えっ? ええええ

動揺しました。
そりゃあ寺院側からすれば日清日露のなんやかんやは「重要度が高くない」と判断したかもしれませんが、記念碑にはそれを建立した人々の願いがこめられているんですよ。

私
「どこかに保存とかしてないんですか?」
寺務所の人
「担当ではないのでわかりませんが保存とは聞いていません」

あぁ…
頭が真っ白です。 建造物は安全性耐震性等で無くなることはありますが、記念碑が無くなる事態は想定してませんでした。

在りし日の参考
http://www.paper-band.jp/ppBlog/index.php?UID=1393635829 …

http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/sansakutenbyou/beautifulspot/Tsukiji-Teppouzu-Tsukudajima_SansakuH260916/Sub1_Tsukiji-Jougai_Ichiba-Tsukiji_Honganji-Sei_Roka_Kokusai_Byouin/newpage06-S.html …

http://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13co-tsukiji-honganji.htm …

なくなってしまったものはしょうがないです。
記念碑が何処かにあるかもしれないって、まだかすかな希望を抱いていますが参考Webの写真群と私の撮った最新写真と背景位置やアングルが被るため、そこにないことか確定なんですよね。

とぼとぼと歩いてだどり着いたのが「聖路加国際大学」
へー、芥川龍之介生誕の地…でしたか。
明治16年で、このあたりに牧場があったのも驚きです。

聖路加国際大学の裏手。このあたりが築地の居留地だったそうです。 明治の居留地時代のレンガ塀遺構。イギリス積。 あわせて明治末期のガス灯と大正15年に建築された明石小学校旧校舎の石剤がベンチに再活用されてました。 明治大正の不思議な保存空間。

聖路加国際病院旧病院棟・旧館

一部保存棟
昭和8年(1933)竣工 昭和18年(1943)には 戦時体制下で「大東亜中央病院」と呼称。 戦時中は当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れたともされている。

聖路加国際病院旧病院棟 基礎石
神の栄光と人類の奉祀のため 
聖路加国際医道院 徳川家達書(徳川宗家16代当主)

上下の穴は大戦中に憲兵命令で遮蔽強制された名残。
(敵性語とか敵性文化とか面倒くさいやつですね。。。

「聖路加国際病院トイスラー記念館」
昭和8年、聖路加国際病院の宣教師館として竣工。(旧館と同じ時期の竣工ですね) 昭和初期の住居としては珍しい鉄筋コンクリート造一部木造建造物

ルドルフ・ボリング・トイスラー
(Rudolf Bolling Teusler、1876年2月25日 – 1934年8月10日)
米国聖公会の宣教医師、聖路加国際大学の創立者。日本初の近代型医療施設の聖路加病院 開設者で初代院長。

「アメリカ公使館跡石標」
明治8年に築地の外国人居留区に米公使館が新築。 明治23年に赤坂の現在地に移転し残された8個の石標のうち3個は赤坂のアメリカ大使館、2個は聖路加ガーデンに、残り3個が聖路加国際病院に設置。 白頭鷲(米国国鳥)・星条旗・星の彫刻。

朝7時過ぎに大江戸線築地市場駅に到着して、築地市場から「近代海軍発祥の地巡り」を本来の目的としつつ築地鎮守の神社と寺院(波除と本願寺)を巡り、聖路加(キリスト教)まで巡るという見事な神仏習合を発揮してしまい、だいたいの所要2時間半。 今回はなかなか有意義で楽しい散策でした

|-`).。oO(若干、かなり、ショッキングなこともございましたが。それもふくめて「フィールドワーク」の成果が得られたと思います。巡ってみなければわからないことです。 (とはいえ、まさか記念碑がなくなるなんて・・・ですが・・・

〆