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3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から80年(令和7年・東京都慰霊堂)

令和7年(2025)3月10日。
あの日から80年目。

昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

今年は、80周年。
いつもよりマスコミが多いような感じ。

いつもより警備も厳重な感じ。

午前9時50分ごろ。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

篠宮家の公用車
「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では歴代最小生産数で、ある意味で幻の乗用車でもある。

10時45分頃、秋篠宮両殿下が退出。

今年は例年よりも式典が長かった様子。

中に入れたのは11時20分頃。

合掌

納骨堂でも合掌を

今回は午後から仕事(午前中を有給)としたために、これにて撤収しました。

※撮影:2025年3月10日


関連

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

先日の博多散策で疎開道路のことを調べていたら、東京にも名残があったので、せっかくなので足を運んでみました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B29-C3-64
1936年6月11日、帝国陸軍撮影の航空写真
昭和11年、まだ戦争前の航空写真。

ファイル:8921-C3-37
1944年11月07日、帝国陸軍撮影の航空写真。
いくつかの道路が拡張されているのがわかる。

拡大。1936年。

拡大。1944年11月7日。
ちょうど1944年11月24日にB29爆撃機が東京を初空襲する、その直前の航空写真。
赤線で挟んだ道路が、疎開道路となる。

現在の様子。


荒川区の疎開道路(消防道路・尾久の原防災通り)

「尾久の原防災通り」は、第二次世界大戦中に、空襲による延焼防止を目的として、建物を疎開させ、敷設・拡幅された疎開跡地。
戦後に、通称「疎開通り」と呼称された。
東尾久6-17先から東尾久1-1先明治通りまでの区道、約1360メートル。
昭和48年に「消防道路」と呼称され、平成24年に荒川区によって再整備後、公式な愛称が「尾久の原防災通り」となっている。

いまでは、普通の、歩道がちょっと広めの生活道路の様相。
戦争ゆかりの疎開道路を物語るものはない。

地味だけど、何もないけど、古地図と、通りの名称から、往時を偲んでみた。

場所:
https://maps.app.goo.gl/8p8bfZRkXjj31tgs9

撮影:2025年1月


杉野中尉殉難遺蹟の碑(荒川区東尾久)

都電荒川線の熊野前停留所のちかくにある「はっぴーもーる熊野前商店街」
商店街の只中に、異色な空間がある。
そそり立つ石碑には「杉野中尉殉難遺蹟」とあった。


杉野中尉殉難遺蹟

熊野前商店街防災スポットにある石碑。
かつては、稲荷社と飛行機オブジェもあったというが、防災スポットとして整備された際に、それらは無くなり現在のようなすっきりした空間となったようだ。
荒川区のサイトの写真は、再整備前のもの。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/ogu001.html

航空界初期の事故
わが国の初飛行は、明治43年(1910)のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70メートルで約3,000メートルの距離を飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。
陸軍工兵中尉杉野治義(27歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500メートルで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久村の水田に墜落したのである。
大正6年(1917)3月25日、午前11時40分のできごとであった。
荒川区教育委員会

杉野治義中尉(陸軍工兵中尉)は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へ、フランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職している。
翌年の大正7年に一周忌に、帝国在郷軍人会尾久村分会によって殉職遺跡碑が建てられた。

航空黎明期の事故であった。

合掌

ちなみに、近くには、「東京初空襲の地」もある。

場所

https://maps.app.goo.gl/6SFF5VkDcpk6d7vo6

撮影:2024年8月


関連

ソメイヨシノの原木候補?「上野公園の小松宮彰仁親王像周辺の桜」

ウソかホントかは不詳ではあるが、上野公園の染井吉野(ソメイヨシノ)が、原木との説がある。


ソメイヨシノの原木候補?

桜は一週間くらいで一斉に咲いて一斉に散るイメージがあるが、これは桜の代表格であるソメイヨシノが、親木から接ぎ木などで増殖したクローンのために、同じように開花するという。
そして、上野公園の小松宮彰仁親王像近くのソメイヨシノが、「第一世代となる親木では?」という発表があり、この場所には4本のソメイヨシノから全国に広まったと考察されている。そして、このうちの1本がソメイヨシノの元祖となる原木に最も近い世代ともされている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220325-2302935/

https://www.tokyo-np.co.jp/article/168025

https://corp.fugetsudo-ueno.co.jp/history/detail/id=1224

https://withnews.jp/article/f0150416003qq000000000000000G0010701qq000011854A

ソメイヨシノの原木?


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王
1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 – 1903年〈明治36年〉2月18日)
日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子。
明治維新では、王政復古とともに議定・征討大将軍となり、のち陸軍大将・近衛師団長・参謀総長を歴任し、元帥の称号を授けられた。
日本赤十字社初代名誉総裁でもある。

小松宮彰仁親王銅像
  台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
 明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。
 銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成八年7月
  台東区教育委員会


コマツオトメ(小松乙女)

コマツオトメ(小松乙女)
 原木は上野恩賜公園内の小松宮彰仁親王銅像の近くにあり、、エドヒガンの雑種で、西田尚道氏がこの木を新品種とすることを提唱しました。
 小松宮銅像から「小松」の名をとり、また可愛らしく美しいことから「小松乙女」と命名されました。
 上野恩賜公園のシンボルの桜として大切に育てられています。
 東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

撮影:2017年4月、2024年4月


上野公園関連

東京大空襲と下町(墨田区北部・押上・東向島)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


東京大空襲被災の鉄骨と焦木片
(多聞寺)

多聞寺に戦争遺産がいくつかあつめられていた。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎり、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。
  隅田山 多聞寺

戦災の証言者
 パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
 東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
 ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
 当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
 戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
 1992年10月18日 戦災の木を保存する会

平和観音(多門寺)

平和観音
観自在菩薩の 手に蓮華を執って
一切衆生の身心の中に 本来清浄の理あることを表す
 弘法大師

貪りと瞋りと愚かしさに毒された私たちは、本来の仏さまのいのちに覚め、内なる心の平和と外なる世界の平和を具現し密厳仏国土建設への無尽の願いと誓いをこめて、ここに平和観音を建立し弘法大師御入定千百五十年御遠忌の報恩謝徳の行といたします
 南無大師遍照金剛
  仏紀二千五百五十年春
   墨田山多門寺山主
         檀信徒一同

東京大空襲の犠牲者と平和祈念の観音様。

多門寺。建立は慶長11年(1606年)。
隅田川七福神。

多聞寺山門は、墨田区に残る最古の建造物。
享保3年(1718年)の焼失後に再建。

場所

https://maps.app.goo.gl/BnFRsTa7SBSj82Jx9


戦災クスノキ(第二寺島小学校の戦災樹木)

東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき(クスノキ)」。
樹齢400年以上ともいわれる。
墨田区の約7割が焼けた昭和20年3月10日の東京大空襲にも耐えた。

東向島駅の窓から覗くことも可能。

場所

https://maps.app.goo.gl/3op9PZU8J3EXgtjp8


平和地蔵尊戦災者慰霊之碑と戦災殉難者之精霊供養塔(吾嬬西公園)

吾嬬西公園の一角に平和地蔵尊と慰霊碑ある。
この地は、東京大空襲の犠牲者の仮埋葬地でもあった。

戦災殉難者之精霊供養塔

戦災者慰霊之碑
平和地蔵尊
 昭和三九年十月吉日建設 
  世話人一同

場所

吾嬬西公園

https://maps.app.goo.gl/MTipoh6smKvs9m5T6


戦災イチョウ(飛木稲荷神社の戦災樹木)

飛木稲荷神社の境内にひときわに存在感があるイチョウ(公孫樹)も戦災樹木であった。

社名の飛木の由来ともなっている御神木のイチョウは樹齢500~600年といわれ墨田区内随一の大木、区の天然記念物に指定されている。
暴風雨によって飛んできた銀杏の枝がこの地に刺さり、いつしか大樹となったそうで。

”身代り” 飛木の焼けイチョウ
名前の由来
昭和二十年 ( 1945年 ) 三月十日の東京大空襲で、ご神木 ( 神霊が宿っているとされる木 ) は、我が身を焦がし、懸命に災をくい止め、町の延焼を防ぎました。
そして幸いにも多くの人達が助かりました。 
ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。 
きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。
 平成二十二年六月吉日 
  飛木稲荷神社総代一同

黒く焼け焦げた幹の木が、東京大空襲の焼夷弾の火勢を物語っている。

国威宣揚
 昭和八年四月建之

場所

https://maps.app.goo.gl/uUq7abHLwBxmxuwb7


大東亜戦争殉難者之碑(圓通寺)

前述の飛木稲荷神社の隣に鎮座している圓通寺には、慰霊碑がある。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city008/index.html

大東亜戦争殉難者之碑
 昭和二十年三月十日

元吾嬬町西一丁目連合町会長 小野内寿松
               外役員一同
昭和四十三年三月十日建立
              野澤勝治書

境内の仏さまも戦災被害で、焼け焦げてしまった。

場所

https://maps.app.goo.gl/j96Tfk8PAtoQGTVz6


言問小学校

昭和11年(1936)に建てられた現役の近代学校建築。
2023年に校舎と講堂が国の登録文化財に指定された。

https://www.city.sumida.lg.jp/kosodate_kyouiku/tiiki_kyouiku_shien/bunkazai_hogo/bunkazai_itiran/new_shoukai/kototoishou_toushin.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558065

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/524334

場所

https://maps.app.goo.gl/De77pRfDpGhongeX8


安全地蔵(とうきょうスカイツリー駅)

とうきょうスカイツリー駅の近くに「安全地蔵」といわれる地蔵があり、平和祈願の地蔵でもあるというのだが、立体化工事の影響で、どこに祀られているのやらで、所在不明。
駅工事が終わったら、再訪してみましょう。

※撮影:2022年4月及び2024年3月


慰霊碑(牛嶋神社)

牛嶋神社境内に、戦没者を慰霊する碑が建立されている。

慰霊碑
 靖国神社宮司 筑波藤麿 書

建碑ノ言葉
元本所区出身過去戦役事変戦災ニ依リ祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病死ヲ遂ゲラレタル諸英霊ニ対シ聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人の有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル同士ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ
 昭和30年8月15日

場所

https://maps.app.goo.gl/Wi2DqvSWFBaMvE2s5

※撮影:2020年9月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区江東橋と江東区亀戸周辺)

東京大空襲と下町。
錦糸町駅と亀戸駅周辺の社寺にある慰霊碑を巡ってみる。

慰霊巡拝を。


慰霊碑・戦災殉職者慰霊碑
(江東寺・江東観世音)

錦糸町駅の南に。
当初、木塔碑があったが17回忌の昭和36年に町内会有志により「慰霊碑」石碑が建立された。

戦災殉難者慰霊碑建設趣旨
この碑は昭和20年3月9日夜半より10日の暁にかけて米機の大空襲に伴う戦禍により愛国純真の人々が劫火のうちに仆れた誠に哀悼に耐えぬものがあり、よっってここに慰霊碑を再建したものである。
この碑を建立した企図は当時の太平警防団々長長谷川秀吉氏外団員と町会有志各位により当所に木塔碑を建立して其の霊を慰めた。
その後塔の老朽甚だしく為に再建の議が起りたまたま元管内の有志諸氏相より其の実現に当り関係各町発起人及び委員各位に相計った結果17回忌を迎うる日を記念し建立の運びになった。
その後更に各町より150名よりなる建設委員によって建碑会を結成し530数氏の賛助協力によって建碑奉献の実現を見るに至ったものである。
 昭和36年3月建碑に当たりて

五徳山 江東寺 江東観世音
昭和15年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/1cRAHe4qMw23XFig8


戦災殉難者供養之碑
(普門院)

亀戸駅前に建立されていた慰霊碑が、昭和30年の都市開発計画によって、普門院(普門寺)に移転した。
あわせて仮葬されていた遺骨なども普門寺に納骨され、一部が分骨として東京都慰霊堂にも納骨されたという。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
縁山辯匡書

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります
本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります
 昭和五拾貮年参月拾日
  亀戸町会連合会

時も忘却も我が泪を乾すまじ
  この碑は昭和二十年三月十日我国で最初の大量の犠牲者を出した大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑であります
  昭和二十九年晩秋都市區割整理に依て奉賛会は普門院の浄域を擇んで移転し平和の礎となつた貴い人々の冥福を永遠に祈るために奉安しました
 昭和三十年三月十日 誌

場所

https://maps.app.goo.gl/Smsc76eyRDssFyiy9


戦災受難者慰霊地蔵尊・戦災受難者之碑
(光明寺)

普門院と光明寺は隣り合っているが、入り口は真逆となっているので、敷地を周回する道路をぐるりと回り込んで参拝。

戦災受難者慰霊地蔵尊

昭和43年3月建立

城東三業組合
戦災受難者之碑
昭和20年3月10日

昭和36年3月10日建立

場所

https://maps.app.goo.gl/sTquP3bR8wLcHmV59


戦災殉難者慰霊之塔・戦災懐古の碑・戦災精霊五十回忌供養塔
(明源寺)

戦災殉難者慰霊塔は、地元の有志が1965年(昭和40年)3月に建立。

その右にある戦災精霊五十回忌供養塔は、1994年(平成6年)3月10日、五十回忌法要とともに戦災供養会一同によって立てられた。

戦災殉難者慰霊之塔
時に昭和二十年三月十日未明空襲における戦災殉難者及び地區内百二十余命の霊を慰めるものなり
昭和四十年三月建立
 発願人 中田武雄

戰災精霊五十回忌供養塔
爆音鳴響米機來 一意護都遇戰災
君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯
追憶献杯 二十五世 巨宗萬年

暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
來襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街
戦災懐古
 昭和四十二年三月
 まん つくり かく

https://maps.app.goo.gl/2yFG2HTBjSbcGvXJ6


日露戦役祈念百度碑
(亀戸香取神社)

これは、東京大空襲とは関係なく。通りかかった亀戸香取神社にて。

https://maps.app.goo.gl/SPEnzWehD3kLgtQV6

※撮影:2023年6月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から79年(令和6年・東京都慰霊堂と東京大空襲戦災犠牲者追悼碑)

令和6年(2024)3月10日。
あの日から79年目。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

午前9時45分。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

秋篠宮家の公用車は「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
(三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では例題最小生産数で、ある意味で幻の乗用車)

10時25分頃、秋篠宮両殿下が退出。

だいたい11時位に、一般参列が可能になります。

合掌

納骨堂も開扉されていました

三重塔を模した納骨堂

甘酒、ありがとうございます

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


東京水辺ライン(隅田川・水上バス)

「両国リバーセンター」から「浅草二天門」まで水上バスで移動します。
両国12時15分の便が、ちょうどよく。

駒形橋

アサヒビール本社とスカイツリー

東武鉄道

言問橋

水上から言問橋を見るのは、実は、はじめて。

往時を思い起こしながら。

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

東京大空襲犠牲者追悼集会

被災79周年
東京大空襲犠牲者追悼集会
 主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会
 共催 台東区
 後援 台東区教育委員会

実行委員長の挨拶

台東区教育委員の挨拶

日本共産党の小池氏の挨拶

被爆体験者のお話し

毎年のことではあるが、語り継ぐべく、記録を。


東京大空襲関連

2023年

2022年

2021年

そのほか

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

東京大空襲と下町(江東区砂町周辺)

東京大空襲と下町。
江東区砂町地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


戦災殉難者供養之碑(砂村新田六地蔵)
南砂町1丁目・南砂町3丁目

江戸時代のことから、砂村新田六地蔵尊が祀られていたという。昭和20年3月9日夜半からの東京大空襲によって、六地蔵は瓦礫と化し戦災焼失。
昭和27年頃に「戦災殉難者慰霊」を兼ねて再建。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
起縁南砂町1、3丁目

砂町新田六地蔵
(前略)
さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。

場所:

https://goo.gl/maps/QEi531KqViBth1cMA


戦災殉難者供養碑・波除地蔵尊

江東区南砂。
南砂2丁目町会会館に隣接。
大正6年(1917)10月の大津波によって砂村新田で亡くなった方を供養する波除地蔵尊とともに、東京大空襲の殉難者を供養する碑が建立されている。

地蔵尊の左側、お供えの花に埋もれているが、供養碑がある。
左側の石碑は地蔵尊の由来碑。

手前の線路は、貨物専用の越中島支線。

場所

https://goo.gl/maps/yPykKbWJf7sSmdr2A


戦災殉難者供養碑(妙久寺)

江東区北砂。
砂町地区での戦災殉難者を供養する。

寺院境内墓地内には、空襲で破損した墓石や焼けた墓石も多数残っている。

場所

https://goo.gl/maps/ovFeZKhaPobQMPg37


江東馬頭観世音(武州妙安禅寺)

江東区南砂。
当時、界隈では、荷車を引かせる馬=輓馬の業者が集中していた。東京大空襲では、輓馬3,000頭が焼死。また輓馬も軍部によって軍馬としても徴用され、多く戦死している。
昭和28年9月に、愛馬の霊を弔うために、地元の運送業者の手によって馬頭観世音が建立された。

なお、武州妙安禅寺は、東松山市に鎮座する「慈雲山妙安寺」のこと。境内の馬頭観世音は「武州上岡観音」として古くから牛馬と関わる農家から信仰され、関東随一の馬頭観音の霊場とされている。

碑面裏の趣旨書は漢文での記載。

江東馬頭観世音由来之碑
 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 
  江東馬頭観世音講

馬蹄や人参が奉納されている。今でも手厚く崇敬されていることがわかる。

江東馬頭観世音

武州妙安禅寺

となりには「東京トラック同盟協同組合」。
いまも縁がある。

場所

https://goo.gl/maps/xVoRNtDXxWkKXXHP9


殉職者慰霊碑「礎」(小名木川駅跡)

江東区北砂。
旧国鉄小名木川駅跡の「アリオ北砂」
入口にある慰霊碑。


日本国有鉄道総裁
十河信二

時太平洋戦争も䦨(たけなわ)昭和20年3月10日未明米国重爆撃機B29型百数十機の大空襲により江東地帯は壊滅的被害を受け特に当駅は五百数十両の貨車、数千屯の貨物と共に駅施設は烏有に帰す。この日勤務者二十四名中実に十二名が壮烈その職に殉す。
又昭和4年開業以来職に殉せし者四名を数うここに十六名の霊を慰むべく駅員の総意により広く国鉄部内外の協力を得て本碑を建立す。
 昭和37年3月10日

小名木川駅は昭和4年開業の貨物専用駅。
交差点はまだ「小名木川駅前」表示のまま。

場所

https://goo.gl/maps/mBECHTGgdLW1TQ7F6


北砂二丁目公園(小名木川駅跡)

小名木川駅の歴史
 江東地区の工業地帯の輸送需要の増加に対応するため昭和4年3月20日、小名木川河畔14,000平方メートルのドッグを備えた水陸連絡貨物専用駅として、小名木川駅が開業した。
 初め貨物取扱量50万トンの規模であったが、第2次大戦中の昭和18年(1943)には130万トンの貨物取扱量を記録。
(以下略)

小名木川駅は、平成12年(2000)に廃止となっている。
再開発のアリオ北砂は2010年に開業。

場所(北砂二丁目公園)

https://goo.gl/maps/FtFGnd13aLyn53fD6


地蔵尊(羅漢寺)

江東区大島。西大島駅の交差点の北東。
東京大空襲で火の海から逃れた住職が発起人となり、大島町の町会の寄付もあり昭和26年に7回忌として建立。
東京大空襲で焼けた庫裏跡に700名以上の遺体が仮埋葬されており、昭和24年に遺体を火葬し東京都慰霊堂に改葬した際に、分骨した5人遺骨を地蔵下に埋め、開眼供養としたという。

場所

https://goo.gl/maps/vpJ8witZJeaiqFpP7

撮影:2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区菊川・立川、江東区森下周辺)

東京大空襲と下町。
菊川・立川地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


榎稲荷神社

墨田区立川。
稲荷神社の御神木の榎の大木は空襲によって真っ二つに裂かれた被災樹木。

榎稲荷は天和3年(1682)に菊川の土手に建立され、元禄9年(1696)に菊川という河の名を取り「菊川」という町名になり、溝中が作られたという。

被災した榎。

榎稲荷神社由緒書
(前略)
明治11年11月2日本所区菊川1丁目と称し、大正12年9月1日の関東大震災にて焼失、その後区画整理にて現在地に移転し、昭和7年町名変更にて竪川4丁目となる。
昭和20年3月10日第2次世界大戦の際、東京大空襲にて再度焼失したる(攻略)
※カタカナはひらがなに置き換え、句読点を補完

場所

https://goo.gl/maps/nfn6bw8Ap56sid2E7


堅川地蔵尊

墨田区立川。
昭和21年5月、堅川地蔵尊が、東京大空襲の犠牲者の冥福と恒久平和を願って建立。
竪四会館と同居している。

竪川地蔵尊戦災震災殉難者諸霊位供養之塔

地蔵尊の由来
 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 
   立川四丁目町会

戦災者供養

場所

https://goo.gl/maps/DL8oQJBZY2GKC19w6


菊川公園

竪川地蔵尊と榎木稲荷神社の隣。
東京大空襲に際して、避難民で溢れた「菊川国民学校」も火の海に包まれ、学校も路上も遺体で溢れ、隣接する「菊川公園」に4,515名にも及ぶ犠牲者が、菊川公園に仮埋葬された。

場所

https://goo.gl/maps/gRTo6ogmGBZ6Ug5D7


夢違之地蔵尊夢違地蔵尊

墨田区菊川。
約3,000人の犠牲者が菊川橋の周辺であったという。
弥勒寺住職が書かれた縁起には、以下のような惨劇が綴られている。

  まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥
に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。

夢違地蔵尊縁起

夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
                     合掌
  一九八五年三月十日
   弥勒寺第五十七代住職 岩堀真至謹書
    夢違之地蔵尊縁起史碑建立 協賛者一同

夢違之地蔵尊

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city003/index.html

菊川橋の北西にある菊川橋児童遊園 (北側)に地蔵尊はある。

場所

https://goo.gl/maps/EG8bQsf7WcwEwiP66


八百霊地蔵尊(やおだま地蔵尊)

江東区森下5丁目。
この地の戦災犠牲者約800名を慰霊するために、昭和21年に建立。

八百霊地蔵尊
由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた
 昭和四十九年三月十日
  江東区森下五丁目町民有志

猿江橋の北西角地。

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city011/index.html

場所

https://goo.gl/maps/aNk1i3Z5Fn4xjnM26

※2022年1月撮影


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(江東区白河・平野・三好周辺)

東京大空襲と下町。
清澄白河地区も大きな被害を被っている。
慰霊巡拝を。


白河戦災地蔵尊(延命地蔵尊)

江東区白河。
戦前に、朝鮮から来日し白河町で食堂を開いていた李夫妻。東京大空襲後に、無料宿泊所をつくり、洋裁教習所などうをもうけ、女性や子供の自立支援をおこなっていた。昭和33年に、白川2丁目の延命地蔵尊の右端に、白河町で犠牲となった700余名り追悼地蔵尊を建立。

場所

https://goo.gl/maps/Fs8fv9edhT2q8z2J8


平和祈念慰霊碑(東深川橋脇の慰霊碑)

江東区白河。
上記の白河地蔵尊を建立した李氏が帰国に際し、白河2丁目有志が昭和46年に建立した慰霊碑。

昭和二十年三月九日夜の大空襲により首都東京は一瞬にして火の海と化し我白河二丁目もまた灰燼となる
その夜の焼死者実に七百余名の多きに及ぶ 其惨状は筆舌につくし難い同年八月十五日終戦となる
我々町民は全くの無一物焦土の中より起上り復興の為凡ゆる困苦と闘ひ欠乏に耐えて廿六年今日戦前にもました未曾有の繁栄を遂ぐるに至る顧みて幾多の尊き犠牲者の冥福を祈り今後戦争の絶滅を期すると共に我町会の復興を記念して茲に相計り記念碑を建立する
 昭和四十六年八月十五日  町会長 平谷章 記
  在日五十四年帰国記念為建之

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city001/index.html

場所

https://goo.gl/maps/DE719L4aG89GNHLD7


平和地蔵尊・戦災殉難者供養塔(良信院)

江東区三好。
良心院にある平和地蔵尊。

地蔵尊とともに、「戦災殉難者供養塔」もある。
50回忌に建立。

平成6年3月、50回忌供養での建立。

現代的な寺院。

場所

https://goo.gl/maps/TTXtN3RffiMBHYcU6


観音像・戦災殉難有縁無縁各霊供養塔(善徳寺)

江東区三好。
東京大空襲での江東地区の犠牲者を供養する観音像。
昭和32年建立。

昭和20年3月9日夜半より10日未明に至る初の帝都夜間大空襲は全都に多大の被害を与え、江東地帯も一夜にして焼土と化し、多数の犠牲者を出し、私達にとり忘れ得ぬ悲しい出来事となりました。
同年8月15日戦争は終了を告げ爾来十有余年、人々の努力に依り町は以前にもまして復興しましたが、今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を祈念し、この供養塔を建立致しました。
 昭和32年10月13日
 当山19世 俊道 識

戦災殉難
有縁無縁
各霊位供養塔

場所

https://goo.gl/maps/CwmJTEGNDU36mKye7


平和観音像(成等院)

江東区三好1丁目。
成等院にある紀伊国屋文左衛門の墓域に建立されている。
なお、紀伊国屋文左衛門墓域は、東日本大震災の影響で立入禁止。

三好1丁目
平和観音

平和観音由来
昭和20年3月10日戦災により当町内は全焼し百名近くの方が亡くなられました。本年37回忌に当り、又町内で亡くなられた方々のご冥福を永久に祈り、町内各位の御清栄と国の平和を願って平和観音を造立しました。
 昭和56年3月10日
 三好1丁目町会造立

紀伊国屋文左衛門之碑は昭和33年(1958)建立。

敷地外からなので、わかりにくいが、上記碑の左側に墓石がある。

立ち入り禁止。

場所

https://goo.gl/maps/71UjHnKefubq5XYY9


慰霊碑(浄心寺)

江東区平野2丁目。
関東大震災の慰霊碑と並ぶ、戦災慰霊碑。
東京大空襲で掘割で水死した犠牲者をはじめとする万物供養の慰霊碑。
昭和21年に洲崎弁天町町会が建立し、都営住宅建設に伴い、浄心寺に移転。

昭和20年3月10日の空襲に殉難せる町会内緒霊の為、茲に碑を建て永久に其の英魂を弔う 
 昭和21年3月10日
  東京都深川区州崎弁天町会

※旧仮名遣いを現在仮名遣いに改めました

となりのおおきなモニュメントは、関東大震災慰霊碑。

蔵魄塔・関東大震災殃死者慰霊塔(浄心寺)

関東大震災では、浄心寺の境内も臨時の火葬場に当てられ、約3,000の遺体が荼毘に付された。
大正12年10月5日に深川区主催で、浄心寺にて大震災横死者追悼大法要が営まれた。
大正14年8月30日、大震災犠牲者の遺灰を納めた供養塔が建立。
(その後、遺灰は東京都慰霊堂に移されている。)
供養塔の作者は、日名子実三。(朝倉文夫門下塾頭)
蔵魄塔と名付けられ、半球ドーム型の白いコンクリート像の墳墓。悲しみに暮れる女性が抱きしめいている姿をモニュメントしている。

ちなみに、石灯籠は、仙台伊達藩六代目藩主の伊達宗村(仙台少将藤原宗村)が享保四年(1719)に奉納したもの。

浄心寺。

場所

https://goo.gl/maps/q1pHQeEqKdf8cVtb6

※撮影2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(深川東陽町・千石・千田周辺)

東京大空襲と下町。
深川・東陽地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


扇橋戦災地蔵尊

江東区扇橋。
戦災地蔵尊と関東大震災地蔵尊。

あの日炎の中履き物は熱で溶け裸足で逃げまどった人々のことを思うにつけ二度と再び戦争を起こさせない世界を希求します
恒久平和を願い
この布ゾーリをお供えします

場所:

https://goo.gl/maps/Jyv8S28xxwLJ1TWc8


世薀多観音(光明寺)

江東区千田。
昭和25年、東京大空襲で犠牲となった千田地区の殉難者を慰霊。
戦災殉難霊供養観音。
世薀多(せうんだ)は仏教用語で「地名の千田(せんだ)」にかけて命名されたもの。

世薀多観音

場所:

https://goo.gl/maps/TyDyWVdpCSYXdSeW8


千石地蔵尊(仙台堀川公園)

仙台堀川公園の西端に。
江東区千石。旧石住橋。
戦争中ではあったが、昭和20年5月頃にはすでに供養の地蔵が祀られていたという。

千石地蔵尊の由来
昭和20年3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、掘割や路端、学校などで、尊い生命が数多く奪われ、殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた、杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無惨な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年3月10日
  千石長寿会 会長 山岡英太郎

仙台堀川公園

場所:

https://goo.gl/maps/Uv6Z56wBqk1k4SYg7


母子像「希い」

江東区東陽。江東区役所前に鎮座。
昭和57年3月10日、平和を願う人々の願いを託した「希い」と第された母子像。

希い
 江東区は、昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日にかけての、東京大空襲により、街は壊滅状態となり、多くの尊い人命を失いました。この犠牲者の鎮魂と恒久の平和、安全を念願し、永く忘れないために、この記念像を建立したのであります。
 この母子像は、母が子を慈しみ育て幸せな日々が続き、そしてこの子が成長した時も平和な日々であることを願うものであり、人と人とが愛し合い、国と国とが平和で結ばれていますよう祈るものであります。
 平和の希いは、現在に生きる私達の心であります。
  昭和57年3月10日建之
   江東区長 小松崎軍次

撮影のときは、江東区役所は一部工事中でした。
(2021年1月)

場所:

https://goo.gl/maps/mYEppaM33axPiTG76


東京大空襲戦災殉職者慰霊之碑(深川高校)

江東区東陽。
昭和20年3月10日の東京大空襲にて、深川高校は全焼。避難していた人々の中からも死傷者が出て、校舎内外に約100体の焼死体があったという。
また深川高校の生徒も焼死や行方不明など230名以上にも及び、宿直や先生の中にも殉職された方もいた。
昭和53年、33回忌を迎えるに当たり、慰霊碑を建立。
東京都は「都有地である校内には、いかなる理由であっても宗教的なものは設立許可できない」というスタンスであったともいう。

※学校内のため非公開

この奥に、慰霊碑がある。

場所:

https://goo.gl/maps/AnYWJ8eLnPMLqLN57


深川親子地蔵尊

江東区東陽。東陽町駅近く。
東陽4丁目、東陽5丁目の東京大空襲の犠牲者の方々の霊を供養するため、昭和23年3月の3回忌に町会によって建立。

親子地蔵尊の由来
この親子地蔵尊は第二次大戦も終わりに近い昭和20年3月10日の下町地区の大空襲の砌この地域に於いて殉難死された方々の霊の供養回向の為昭和23年3月10日の3年忌法要を記念し遺族及有志の初願によって建立したものです。
 昭和53年3月10日 親子地蔵保存会

戦災殉難者諸精霊位

戦災殉難者7回忌紀念
親子地蔵尊
昭和26年3月建立

場所:

https://goo.gl/maps/rQCKxEFKMcMTKmXY8

※撮影:2021年1月


関連

東京大空襲

はじめに

東京大空襲と下町(深川富岡と門前仲町周辺)

東京大空襲と下町。
深川・門仲地区も大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


富岡八幡宮・天皇陛下御野立所

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。

詳細は前述の記事にて。

https://goo.gl/maps/TQWchAv3mK1Nw9AP7


富岡八幡宮の被災イチョウ

境内に残るイチョウは、東京大空襲で被災をしたイチョウ。

大鳥居の左手、伊能忠敬銅像の後ろのイチョウは、東京大空襲被災のイチョウ。

富岡八幡宮御社殿

富岡八幡宮本殿後方の神域の二本の御神木イチョウも、東京大空襲の被災イチョウとなる。

天皇陛下御製の碑もある。

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

  元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。 陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会

場所

https://goo.gl/maps/reQ2h2EW5QMwta4QA


平和の鐘(深川不動尊)

江東区富岡。護摩行がちょっとしたエンターテイメントで現代的な魅せる場ともなっている深川不動尊は一見の価値ある。
そんな深川不動尊の仏殿内に設置されているのが「平和の鐘」。平成14年設置。

昭和20年3月10日、東京大空襲により日本の首都は一瞬にして火の海となり、特に江東区(当時の深川区と城東区)は最も被害を受け、「広島」や「長崎」と同じく戦争により余りにも多くの人命が奪われたことは、私達の心に大きな傷跡を残しました。この鐘は、内仏殿建立工事のおり、土中より発掘された爆弾の破片を含ませ鋳造し、戦災で亡くなられた方々の鎮魂ならびに平和を願い、此処に「平和の鐘」と命名し永代に亘りご祈念申し上げます。

場所

https://goo.gl/maps/GXRSeBKcv7UqmajPA


戦災殉難者慰霊碑
門前仲町1丁目

江東区門前仲町一丁目。
門前仲町の交差点、ハンバーガーショップの脇に鎮座。
1990年にビルが新築された際に、建立されていた木造の「戦災殉難者供養塔」にかわって、建立された。台座はビルのオーナーが寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/Bwc3gzFaHjZW114NA


戦災殉難者慰霊之碑(黒船橋)
牡丹町1丁目

江東区牡丹1丁目。
江東区界隈では一番新しい慰霊碑。
2002年10月に牡丹町1丁目町会が建立。

場所

https://goo.gl/maps/2GHnYoEXevnGxG7a8


東京大空襲戦災殉難者慰霊碑(越中島橋)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
「大震火災歿者霊追悼供養塔」のとなりに、「東京大空襲戦災殉難者慰霊碑」がある。
昭和55年建立。

今次大東亜戦争末期、昭和二十年三月十日の大空襲により、当町内及び周辺地区はほとんど原形をとどめぬまでの戦災を被り三百有余名の殉難者を出しました。
これ等の方々の霊を慰め再び平和な世界を祈り之を建立する。
 昭和五十五年七月一日

場所

https://goo.gl/maps/MJCHmkvGr4Z8z4x19


戦災殉難者慰霊碑(万徳院)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
東京大空襲で被災した人々が、隅田川などに水を求めて殺到。隅田川に近い、万徳院の周辺でも多くの人命が失われた。
昭和36年9月に、永代2丁目町内会によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/BPKtPLw9g8VWRgwN6


戦災殉難殃死者供養塔(冬木弁財天)
深川1丁目・深川2丁目・冬木町

江東区冬木。冬木弁財天境内。
殃死は、横死とも表記。
冬木町会と深川1丁目、2丁目町会によって、昭和26年3月10日に建立。
永代2丁目の万徳院住職と町会によって、毎年3月10日に慰霊供養が実施されている。

冬木弁財天は、深川七福神の一つ。

冬木弁財天

場所

https://goo.gl/maps/wrSMASp9Mb4vEzqJ7


十日地蔵尊(法乗院えんま堂)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目町会・南北町

江東区深川。
東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって地蔵尊が建立された。
当初は、平久橋脇にあったが、現在は法乗院に遷座している。3つの地蔵尊の左側が、十日地蔵尊。
平久橋には、供養塔が建立されている。

閻魔大王

場所

https://goo.gl/maps/8MhXdT6P6Vn9Roax9


観音像・戦死戦歿者戦災被歿者供養塔(永代寺)

江東区富岡。
昭和33年3月10日に木場筏組合によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/irQ3ZGaRu9fwwo2H6


戦災地蔵尊

江東区富岡。ビルの角に鎮座。


 この地蔵尊は一九四五年(昭和二十年)三月十日の東京大空襲で炎に追われて亡くなられた方々の来世と焦土と化した深川の復興を願って故 堀㐂代 がこの地に建立したものです
 この地蔵尊が人々を見守り故 堀㐂代 の願いが永遠に成就されることを願ってここに記します
 (連絡先は略)

場所

https://goo.gl/maps/jTqz5fFbJ1YSaAfy6


戦災殉難者供養塔(平久橋)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目・南北町

江東区牡丹。
前述のとおり、平久橋脇に、東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって「十日地蔵尊」が建立された。地蔵尊は、のちに法乗院えんま堂に遷座。

戦災殉難者供養塔は、昭和36年三月10日に建立。

供養塔の左隣には、「旧平久橋の石橋」が一部保存されている。

右隣には「波除碑」。寛永3年(1791)の高潮被害のにちに、徳川幕府が建立。

場所

https://goo.gl/maps/j39Abax6MzpE8H2SA


戦災殉難者供養塔(西州崎橋)
木場6丁目

江東区木場。
昭和23年頃、平木橋の角に木製の供養塔が建立された。その後、高速道路の建設に伴い、西州崎橋の脇にあった地蔵尊の隣に移転。
現在の供養塔は、平成5年3月10日に、木場ラジオ体操会によって石造の供養塔が昆建立された。

場所

https://goo.gl/maps/GtB9VWkAA8fYNyvH7

※撮影は、2021年11月、2022年1月


関連(東京大空襲)

はじめに

関連(深川・門前仲町)

旧松永橋モニュメントに残る弾痕

大島川西支川の東西、江東区福住と江東区佐賀を結んでいる松永橋。

なにやら不思議なモニュメントがある。


旧松永橋モニュメント

旧松永橋の鋼材が戦跡として保存されている。

 平成8年まであった旧松永橋には、戦争の傷跡である弾痕が残っていました。このモニュメントは、橋の鋼材の一部を使ったものです。
 古い橋の鋼材を使って過去を表し、新しい鋼材によって現在と未来への情熱と希望を想像したものです。

弾痕は2箇所残っている。

松永橋は1996年に架替られた。

場所

https://goo.gl/maps/LRTAMXKGAqdg1BfQ8

※撮影:2021年11月


関連

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から78年(令和5年・東京都慰霊堂と言問橋)

令和5年(2023年)3月10日。

あの日から78年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

詳しくは下記にて。

東京大空襲・慰霊

昨年の様子

今年は、例年より、警備が厳重。
話を聞くと、 秋篠宮殿下が参列されるとのことで、なるほどなっとくの警備体制。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

献花と線香を。

合掌


東京都慰霊堂「春季慰霊大法要」

10時の法要にあわせて、
秋篠宮両殿下がご参列されました。

コロナ禍のやめ、参列者数に制限あり。

10時に法要が斎行。
10時30分に、 秋篠宮両殿下が退出されました。

秋篠宮殿下

退出後に、限界警備体制が解除となり、参拝が可能となりました。

春季慰霊大法要終了後の、11時から、堂内で一般の焼香が可能となる。

あっ、2023年は関東大震災100年、でした。

晴天の東京都慰霊堂。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


言問橋

言問橋に移動しました。

言問橋は関東大震災後の復興事業として架橋。内務省外局の復興局が建設した。
1928年(昭和3年)2月10日竣工。

東京大空襲の焼け跡が残る言問橋

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


言問橋と東京大空襲

浅草よりの親柱のところに、おじいさんがいました。
私が親柱を撮影しようと近寄ったのと、ちょうど同じタイミング。
同じタイミングで写真を取ろうと親柱に近寄った二人。おじいさんとお話をしました。


「子供の頃に、昭和20年3月10日、今日、言問橋の近くの天蓋の防空壕(素掘りの防空壕)で一命をとりとめた。言問橋の北側には、陸軍の陣地(防空陣地)があって北にはいけなかったので、言問橋にみんなが殺到してしまった」
「近くに住んでいるのに、【言問橋】の表示をまだ写真に撮っていなかったことに気がついたので、今日は写真を撮りに来た」
「今年が3月10日は、最後になるかもしれない、体が良くないので。」

たまたま出会ったおじいさんから聞く、戦争体験談。応じの惨劇の生き証人。貴重なお話、ありがとうござます。しばらくの間、言問橋でお話をさせていただき、おじいさんは最後に「引き止めて悪かったね」と言いながら、歩いていかれまして。
いえいえ、引き止めていただき、ありがとうござました。お陰で、貴重なお話をお伺いできました。

そうして、写真を撮り終えて立ち去っていった、おじいさん。
ありがとうござました!


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

合掌

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

東京大空襲犠牲者追悼集会

多くの犠牲者を出した言問橋の袂にある慰霊碑では「東京大空襲犠牲者追悼集会」が斎行。
3月10日13時から。

私が訪れたのが12時。
13時からの集会に参加する都合がつきませんでしたが、慰霊碑に手を合わせてきました。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html

言問橋の先。いまは東京スカイツリーの絶好のビューポイント。


関連

はじめに

東京大空襲の焼夷弾痕?を残す「永代橋」

隅田川にかかる永代橋は、関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋されたシンボルブリッジであり、「帝都の門」とも称せられていた。

そんな永代橋に東京大空襲の痕跡が残っていると聞いたので、改めて足を運んでみた。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。


永代橋に残る弾痕?

ちょうど真ん中あたり。アーチになっている橋梁の一部に凹みがある。
この凹みは、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼夷弾が直撃した跡ではないかとされている。

たしかに凹んでいますね。

角度を変えて。

ぱっと見だとわからないですね、よく見ないと。

拡大。

梁の反対側にも、衝撃がわずかに残っている。

ワシントン軍縮会議で廃艦となった戦艦用の高級鋼材を用いたという永代橋。
焼夷弾が着弾しても耐え、先の東日本大震災でも影響がなかったほどの頑丈度を誇る。

いわれなければ気が付かない、焼夷弾弾痕の跡。

※撮影:2023年3月


参照

https://www.tokyo-np.co.jp/article/147492

https://minamisuna1.com/161/


東京大空襲関連

はじめに

英国輸入の鉄道院403号蒸気機関車(明19・西武鉄道4号・芝浦工大付属中学高校)

豊洲にある芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として、西武鉄道から寄贈を受けた「旧鉄道院403号蒸気機関車」が、2022年11月に復元保存公開されましたので、足を運んでみました。


鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車

2022年11月12日。
芝浦工業大学が西武鉄道から寄贈を受けた元鉄道院403号蒸気機関車を、芝浦工業大学附属中学高等学校の新豊洲校地にて保存一般公開を開始。
2022年に100周年を迎えた芝浦工大附属中高は、1922年に鉄道省設立の「東京鐡道中学」を前身としている。この縁にちなんで、今回、西武鉄道から寄贈があった。
403号蒸気機関車の車両展示とあわせて、港区教育委員会とJR東日本から寄贈を受けた「高輪築堤」の海側の築石を土台として活用。
さらに、博物館明治村の協力のもと、汽笛及び走行音を動態保存されている蒸気機関車9号から採音して定刻に鳴らすようにもなっている。

鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車
403号の概要
 1886年(明治19年)にイギリスのナスミス・ウィルソン社で製造された400形の1両です。
 同一設計車として500形・600形・700形(鉄道作業局A8形)など存在しており、いずれもイギリスから輸入されました。後に国産の860形(A9形)、230形(A10形)などの礎となりました。すなわち、本車は我が国の鉄道の歴史を現在に伝える貴重な存在となります。
 特徴としては機構が簡便なジョイント式弁装置の採用が挙げられます。また、先輪と従輪はウェップ式ラジアル軸箱となっており、円弧上に移動することで、動揺が抑制される機構となっています。
 保存展示にあたっては、徹底した補修整備を実施しました。
 また、失われていた製造銘板とナンバープレートを復元して取り付けました。

略歴
1886年 鉄道局No.73として、ナスミス・ウィルソン社(製造No.302)にて製造 
    日本鉄道が借り入れ、番号不変
1892年 鉄道局から日本鉄道に譲渡
1894年 No.20に改番
    逓信省鉄道局(鉄道作業局】に返却、Jクラスとなる
1899年 房総鉄道に譲渡、No6となる
1907年 房総鉄道国有化、帝国鉄道庁No6となる
1909年 No.403となる
1914年 東部局にて廃車
1914年 川越鉄道に譲渡、のちにNo5となる
1914年 川越鉄道が武蔵水電に吸収合併、番号不変
1922年 武蔵水電の鉄道部門を(旧)西武鉄道として独立、番号不変
    No4に改称
1945年 武蔵野鉄道と)(旧)西武鉄道が合併、西武農業鉄道となる
1946年 (新)西武鉄道に改称
1961年 上武鉄道が借り入れ
1965年 上武鉄道から返却、廃車、所沢市のユネスコ村にて保存
    その後、西武鉄道横瀬車両管理所に移送され保管
2022年 芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として保存

製造者 ナスミス・ウィルソン社(イギリス)
製造年 1886年(明治19年)
寄贈者 西武鉄道株式会社殿

竣工    2022年11月
事業者   学校法人芝浦工業大学
SL寄贈者  西武鉄道株式会社
積石寄贈者 東日本旅客鉄道株式会社
施工会社  西武建設株式会社

芝浦工業大学付属中学高等学校の公開敷地に展示。
豊洲六丁目第二公園に隣接。

運転台にも入れる。

NASMYTH,WILSON&Co
LIMITED
No302
1886
MANCHESTER

403
TYPE400


高輪築堤オブジェ

高輪築堤の石が土台に活用されている。

高輪築堤オブジェ
高輪築堤とは
 高輪築堤は日本初の鉄道として造られた新橋~横浜間の約29kmのうち、現在の田町駅の北(芝浦周辺)から品川駅の南までの海上に気づかれた鉄道用の約2.7kmの堤のことです。構想から3年、着工からわずか2年という期間で完成しました。
403号蒸気機関車と高輪築堤の関係
 明治19(1886)年に製造された403号蒸気機関車は年代的にも高輪築堤と同じ時代に国内で走っていました。明治期の姿に修復した403号蒸気機関車と高輪築堤の海側築石を使用しオブジェとして設置した土台は親和性も高く、当時の姿に想いを馳せることができます。
 今回、港区教育委員会と東日本旅客鉄道株式会社のご厚意により高輪築堤築石をご寄贈いただきました。
汽笛について
 定時に鳴らす汽笛の音源は、博物館明治村にご協力いただき403号蒸気官舎と同じく明治期に製造され動態保存されている蒸気機関車9号の汽笛及び走行音を採音加工し使用しています。

高輪築堤築石モニュメント
 展示してある築石は、鉄道が開業した明治5年(1872)に造られた海側の高輪築堤の一部(発掘現場4街区海側)です。石は安山岩で相州真鶴をはじめとする全国から集められ、お台場や東海道沿いの護岸石垣も再利用されました。品川車両基地の再編や高輪ゲートウェイ駅の新駅を伴った大規模開発の中で令和2年に発掘されました。この築石は403号蒸気機関車展示土台にも使われています。
 高輪築堤は、明治9年(1876)の複線化、明治32年(1899)の3線化のために陸側に拡張されています。海側の石垣は、最大で15段確認しています。石垣の土台は角材として加工した「胴木(土台木)」で石を受け、その上部は約30度の傾斜で、石段を1段ずつ並べる「布積み」を用いて積み上げています。一方、山側では石を斜めに使って積み上げる「谷積み」を用いて積み上げており、明治32年(1899)の3線化に伴い拡張された際のものであると考えられます。

豊洲六丁目第二公園

※撮影:2022年12月

場所

https://goo.gl/maps/h22aNzVsxZdZBQAQ8


関連(鉄道開業)

関連(蒸気機関車)

芝浦工大付属中学高等学校の前身にあたる東京鐡道中学は池袋にあった。

トーハクで近代建築散策(東京国立博物館)

トーハクの近代建築散策。写真中心で。


150周年

1872年(明治5年)3月10日。
日本で最初の「博覧会」(文部省博物館)として湯島聖堂博覧会が、東京・湯島の湯島聖堂大成殿で開催された。これが日本の「博物館」の始まりであり、東京国立博物館はこの年を創設の年としている。


東京国立博物館本館
旧東京帝室博物館本館)

初代は、1881(明治14)年竣工であったが関東大震災で被災し、現在の本館は、2代目。
現在の本館は「日本趣味を基調とする東洋式」という様式規定による設計案が1929(昭和4)年12月に公募され、渡辺仁による案が選定。
1932年(昭和7年)着工、1937年(昭和12年)に竣工、1938(昭和13)年に開館。
和洋折衷の「帝冠様式(洋風建築(コンクリート建築)に東洋風の屋根)」の代表的建築。
2001(平成13)年に重要文化財に指定されている。

無料観覧日でした。


本館の内部

中の様子も。トーハクは一部を除いて、内部も撮影できるのが良いです。

エントランス。いろいろなドラマでも登場する場所。

便殿(旧貴賓室)
現在の本館が昭和13年に東京帝室博物館の本館として開館したときに貴賓室として造られ、天皇はじめ皇族方がお出でになられたときのご休憩所として使われました。
帝室博物館から国立博物館となった今日では、皇族方だけではなく、国賓や公賓など国の大事なお客様の休憩室として利用されることもありますという。


庭園から本館を

庭園にもいくつか興味深いものがありますので見てみましょう。

詰所、これも趣がある。。。


第二回内国勧業博覧会の碑

庭園内に。

内国勧業博覧会碑

第二回内国勧業博覧会の碑
明治政府は勧業政策の一環として内国勧業博覧会を開催、その第一回から第三回の会場が上野公園だった。明治14年(1881)に開催された第二回内国勧業博覧会では、新築間もないコンド設計の博物館本館(旧本館)が美術館として使われた。


町田石谷君碑

庭園内に。

初代帝国博物館館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられた。

町田久成の碑
初代博物局長(博物館長)町田久成の顕彰碑。町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれ、慶応元年(1865)にイギリスへ渡った。大英博物館などを訪れた町田は、日本での博物館創設を志し、帰国後日本の博物館の基礎を築いた。


町田久成館長像

庭園を離れ、平成館の近くに、胸像もある。

初代 町田久成館長像

題字の揮毫は、第97代内閣総理大臣であった安倍晋三。平成28年11月建立。

初代館長 町田久成
薩摩藩の名族に生まれ、幕末に藩命を受けて欧州に留学。維新後は文化行政を担い、博物館の初代館長として上野博物館の建設や博覧会開催に尽力した。辞官後、出家して園城寺子院の住職となり、「岩谷」と号した。当館庭園にその事跡を偲んだ「町田岩谷君碑」がある。

 町田久成は、天保9年(1838)薩摩国日置郡石谷領主の町田久長の長男として鹿児島城下に生まれ、町田家29代当主となる。19歳で江戸の昌平黌に学び、文久3年(1863)26歳で大目付にとなった。同年に藩の開成所が創設されると学頭となり、慶応元年(1865)薩摩藩英国留学生を率いて渡英した。帰国後は新政府で外国官判事や外務大丞として外国事務に携わったが、明治3年(1870)に大学大丞に転じて文化財行政に専念した。明治5年、旧湯島聖堂の大成殿で開催した博覧会を機に「文部省博物館」が発足すると、初代館長に就任し、ただちに文化財を恒常的に保管・展示するための本格的な博物館建設の必要性を太政官に建言し、明治15年、上野寛永寺跡地の新たな博物館開館に至るまでその運営に尽力した。その後明治18年に元老院議官となったが、4年後には職を辞し、岡倉天心やフェノロサなどと共に、園城寺法明院住職の桜井敬徳和尚に帰依し、園城寺光浄院の住職として文化財の保護に努めた。
 明治30年9月13日上野の明王院にて逝去。享年60歳。
   平成28年11月吉日
    建立 町田家32代当主 町田忠夫
    題字揮毫 第97代内閣総理大臣 安倍晋三
    政策 文化勲章受賞・日本芸術院会員 中村晋也

安倍さんの揮毫。


森鴎外総長室跡

平成館の前。池から浮き出る森鴎外総長。。。

森鴎外総長室跡
平成館及び前庭の一帯は、明治15年(1882)に博物館が上野に移転してから、展示棟に付属する事務棟の建物が多く建てられました。この付近には底質博物館を統括する総長の居室があり、森林太郎(鴎外)は大正6年(1917)から大正11年に死去するまで、総長としてここで執務しました。
 2012年10月 鴎外誕生150年にあたり
帝室博物館総長森林太郎(鴎外)大正6年12月~大正11年7月


表慶館

1900(明治33)年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、1909(明治42)年に開館。
東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)などで知られる宮廷建築家の片山東熊による設計。明治末期の洋風建築を代表する建物として1978(昭和53)年、国の重要文化財に指定。

こんな感じで、トーハクの近代建築散策。

トーハクは、一日過ごしても、すべてを見きれない感じで、毎回、退出時には後ろ髪を引かれています。。。またこよう。

※撮影:2022年7月


上野関連

「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(東京)

2022年11月12日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
東京国際クルーズターミナルで開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

※横浜での一般公開は以下にて。

※船橋での一般公開は以下にて。


護衛艦「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

もがみ型護衛艦2番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年3月22日。基準排水量は3,900トン。
2番艦である「くまの」は、1番艦の「もがみ」に先立つ進水であった。

クリスマス仕様

砲塔に角が生えていた。

クリスマス仕様。

案内人が持っている棒の先に「くまの」のぬいぐるみ。かわいい。

なんかいた。重巡洋艦「熊野」だ。


護衛艦「もがみ」(JS Mogami, FFM-1)

もがみ型護衛艦1番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年4月28日。基準排水量は3,900トン。

ダイキンの砲弾

なんかいた。重巡洋艦「最上」だ。


護衛艦「かわたき」「いしかわ」

館山航空基地の第21整備補給隊所属の護衛艦「かわたき」と「いしかわ」

自走式の護衛艦模型、です。


「東京国際クルーズターミナル」送迎デッキ

送迎デッキから2艦を。


そのほか

撮影場所は、前甲板と後甲板のみ。もがみ型護衛艦は、通常よりも天井が低く、通路も露天ではなくなったために、艦内は狭い。安全を考慮しての撮影禁止かとは思いますが。

また、乗艦券が配られておりましたので、乗艦人数も調整をしていた模様。


宗谷(海軍の大先輩)

船の博物館が管理をしている「宗谷」。帝国海軍特務艦としても活躍していた「宗谷」と、最新鋭の護衛艦とが、おなじ東京港に停泊していたので、2ショットを。

「宗谷」に関しては、下記を参照に。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月