礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。
以前にも掲載していたが、独立したページとして改めて掲載。
目次
東京都戦没者霊苑
さきの大戦における16万余にのぼる東京都関係戦没者の慰霊と都民の平和への願いをこめて、昭和35年6月に建立。
敷地は、小石川台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部でした。その後、陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地となり、戦後は、財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設として管理し、昭和28年に戦没者慰霊施設用地として、東京都に寄付されたもの。
現在の戦没者霊苑は、全面改修が施され、昭和63年3月に竣工したもの。
合掌
東京都戦没者霊苑
この霊苑は、先の大戦において尊い犠牲となられた東京都関係の戦没者をお慰めするとともに、平和を願う都民の強い決意を表すため、建立されたものです。
東京都戦没者鎮魂の碑
広場正面に池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36メートルの人工滝がある。滝を背景に、その中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59メートルの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の「東京都戦没者鎮魂の碑」があり、鈴木俊一都知事(当時)の書による「鎮魂」の文字が刻まれている。
東京都戦没者霊苑
鎮魂
山本健吉氏撰書による平和への願いを記した文章がある。
山本健吉は、文芸評論家。
碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
山本健吉
由来文
東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
戦没者の御霊にお願い申し上げる。
お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
角田房子
角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家。
御製(日本遺族会創立30周年記念式典)
侍従長入江相政謹書。
昭和55年11月17日の日本遺族会創立30周年記念式典での御製。
みそとせを
へにける今も
のこされし
うからの幸を
ただいのるなり
太平洋戦争における地域別戦没者数一覧
東京都遺族連合会
1989年8月15日
御製(民生委員・児童委員顕彰碑)
同じく、侍従長入江相政謹書。
前面の碑に刻まれた御製は、民生委員制度創設50周年を記念する全国社会福祉大会に出席された天皇・皇后両陛下から民生委員に対し多年の労をねぎらう励ましのお言葉を賜ったもの
いそとせも
へにけるものか
このうえも
さちうすき人を
たすけよといのる
民生委員制度創設50周年を記念して、過去50年にわたり、社会福祉の増進のため活躍した民生委員・児童委員の遺徳をしのび、その業績を顕彰する目的で、昭和42年11月東京都民生委員連合会にとって建設。
東京都戦没者霊苑展示室
訪れたときは休館中でした。
※令和5年3月再開予定
東京都戦没者霊苑
場所
陸軍砲兵工科学校・工科学校跡
諸工伝習所跡記念碑
隣接地にて以前にも掲載したので詳細は割愛。
礫川公園
東京砲兵工廠跡の公園。
同じく以前にも掲載したので詳細は割愛。
射撃場跡
※撮影:2022年12月