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東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その3(十条編)

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは北部の十条地区を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や南部の「滝野川・王子地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。

東京第一陸軍造兵廠第一製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)の赤レンガ倉庫

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)
赤丸が本記事の対象エリア。


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(北区中央図書館)

大正8年(1919)竣工の赤レンガ倉庫(275号棟)を北区中央図書館として2008年より再活用。


工廠神社跡地

「北区中央図書館」の北側は「いなりプレーパーク」
かつて「東京第一陸軍造兵廠の工廠神社」、「十条の四本木稲荷神社」が鎮座していた場所。

詳細は別記事にて


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(十条駐屯地)

十条駐屯地内の開放された広場に、モニュメントとして残された変圧所の煉瓦が残されておりました。

 この煉瓦は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年この地に建設された東京砲兵工廠銃砲製造所に使用されたものの一部を保存したものです。

十条駐屯地の赤煉瓦造建築物
 現在の十条駐屯地の敷地は、約116,000㎡(約35,000坪)ですが、この地域一帯を明治38年(1905)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃砲製造所を建設した当時は、約330,000㎡(約100,000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第2次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした、当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和34年(1959)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の中小の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成5年(1993)から遂次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物
 このモニュメントは、大正7年(1918)変圧所として建設された「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン軒高が5.85mであり、屋根は4寸5部後輩のスレート葺き(昭和40年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性の高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。


ちんちん山のトンネル跡
(東京陸軍第一造兵廠軍用鉄道)

中央図書館から東に赴いたところにある「北区ちんちん山児童公園」。この公園にモニュメントとして、東京陸軍第一造兵廠の軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)のトンネル跡が残されている。

三つ丸の上に丸が重なったシンボルマークは、「一造」を管轄していた「東京砲兵工廠」のマーク。

産業考古学探索路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。
「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時のこの地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。

ちんちん山のトンネル
 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。
 この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。
 かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。
 このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう一つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

十条駐屯地

現在の十条駐屯地の正門は、「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の裏門跡にあたる。

十条駐屯地内で取り壊した「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の煉瓦倉庫の煉瓦を再利用して正門と壁を作成。

十条駐屯地

陸上自衛隊 補給統制本部
海上自衛隊 補給本部
航空自衛隊 補給本部
航空自衛隊 第二補給処十条支処
北関東防衛局 装備部

北区十条富士見中学校

十条駐屯地と北区十条富士見中学校の壁は「東京第一陸軍造兵廠(一造)」ゆかりの煉瓦を使用した煉瓦壁で整っている。
レンガストリートの様相。

このベンチの壁の仕上げ材の一部には、平成21年度に、旧十条中学校の校舎を解体した時に出土したレンガを使用しています。

レンガ造のモルタル塗り。最近補強されたようだ。

煉瓦(れんが)塀の由来
十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃砲製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行われていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場施設で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。
本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所の西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。

埼京線から見えるコンクリウートの壁。これが実は陸軍時代のレンガ壁だったのだ。

このあとは板橋方面の「東京第二陸軍造兵廠(二造)」に向かったが、それはまた改めて掲載予定。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その2(滝野川・王子編)

※撮影は2016年~2020年

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは南側の「滝野川・王子地区」を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や北部の「十条地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。


東京第一陸軍造兵廠本部(北区中央公園文化センター)

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の陸軍用地標石(陸軍標石)

西巣鴨駅からスタートして十条方面に北上。
滝野川方面を目指す。
少し歩けば、見逃しがちな脚下に標石が3つありました。
陸軍用地標石。(陸軍標石)

公務員第二宿舎のあった場所にそった通り沿い。

公務員第二宿舎は廃止され、現在は「滝野川三丁目公園」として整備されました。

弊サイトの写真を案内看板に提供しました。

半世紀以上も前の戦争時代の境界石が、こうして未だに道端に残っている不思議さ。ここが陸軍の土地であったことを感じさせる歴史遺産。
身近に戦争の歴史を感じるものが、こうして脚下に残っている。

このあたりが、「東京第一陸軍造兵廠滝野川工場」別名を滝野川雷汞所(らいこうじょ)とされたエリア。

https://goo.gl/maps/ao3iM3XWTJ7pBvRv5


四本木稲荷神社

このまま道なりに北上をしていくと「四本木稲荷神社」に到着。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の工廠神社。
別記事にて。


憲兵詰所遺構?

突き当たりを左に向かい石神井川を渡ると、周囲とは異色の古びたコンクリの建物が民家の目の前にドンッと鎮座している。
真偽は不明だが、このコンクリートの建屋は「憲兵詰所」遺構とされている。
ここだけがどうして残っているのかは謎だが、今となっては残ってくれたのはありがたい。

ちょうど、十条の東京第一陸軍造兵廠と、滝野川の分工場を結ぶ道沿いにあたるため、この界隈で憲兵が詰めていてもおかしくない位置関係。

https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d809.4920018137907!2d139.7268281292461!3d35.751591098761104!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x6018939c4274f387%3A0xe65e608c9c169a03!2z5oay5YW144Gu6Kmw5omA!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1599875682650!5m2!1sja!2sjp


東京第一陸軍造兵廠本部
(北区中央公園文化センター)

憲兵詰所の北側には「北区中央公園」
木々の合間から、歴史を感じさせる良い雰囲気の建物が見えてくる。

「北区中央公園」(東京都北区十条台)
現在は「北区中央公園文化センター」
戦前は「東京第一陸軍造兵廠本部」であった建屋は昭和5年( 1930年)の建設。
元は茶色であったが戦後の米軍接収時代に白色に塗装という。

休館日でした。。。

周辺にあった台座。往時のものか?どうか。。。

裏手へ。 中央屋上へあがる階段が、なかなか美しい。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
 明治38年(1905)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
 ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製耐震煙突の銘板で、十条の自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
平成27年3月 東京都北区教育委員会

東京芝浦製作所
明治38年9月竣工

ボイラー展示の隣の半円状の建物内に古墳時代の横穴式石室が空間丸ごと移築保存されているのは、なかなかのカオス。

赤羽台第3号古墳石室

皇后陛下行啓記念

皇后陛下行啓記念
東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄 謹書

杉浦辰雄中将(陸士25期)
昭和12年(1937)に、東京工廠火具製造所長
昭和14年(1939)に、東京工廠長
昭和15年(1940)に、東京第一陸軍造兵廠長 
そのまま終戦を迎える。 

【消失】
東京第一陸軍造兵廠の陸軍用地標石(陸軍標石)

都営王子アパートの道に陸軍用地標石(陸軍標石)がありました。
都営王子アパートがなくなるとともに消失してしまったようです。。。

以下はGoogleストリートビューにて。
2018年5月には「標石」を確認することができます。

そして2019年5月。無くなりました。。。。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その1(四本木稲荷神社)

東京都北区は軍都であった。

赤羽には「工兵隊」(近衛工兵大隊・第1師団第一工兵大隊)、
西が丘には「兵器補給廠」と「射撃場」、
そして南の十条及び滝野川には「造兵廠」(東京第一陸軍造兵廠・東一造)、
があった。

今回は東京第一陸軍造兵廠(東一造)の工廠神社を中心に。
その他の東京第一陸軍造兵廠関連記事はまた別途で。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。東昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)

東京第一陸軍造兵廠の北東に「十条の四本木稲荷神社」が鎮座。
そして南には「滝野川の四本木稲荷神社」が鎮座。

戦後に「北の四本木稲荷神社」は廃止。
鳥居などの建造物が「南の四本木稲荷神社」に移されて、今日に至る。

GoogleMapにて

北の四本木稲荷神社は、稲荷公園と呼ばれていたが、再開発により「北区中央公園」(旧稲荷公園)となっている。

「滝野川の四本木稲荷神社」の場所

「十条の四本木稲荷神社」があった場所
旧稲荷公園、現在は「北区中央公園いなりプレーパーク」


四本木稲荷神社境内地図

当社境内の旧陸軍関連の遺跡
よもとぎ稲荷を守る会

四本木稲荷神社御由緒

神道大教四本木稲荷神社
 当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の」御分霊、並びに「四本木、世基衹(よもとぎ)大神」です。昭和29年6月に宗教法人登記をされており、敷地は国有地です。
 「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当地周辺が明治38年に陸軍の雷汞場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠滝野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
 一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種類の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷神社分社の四本木稲荷(しほんぎいなり)が古くからありました。明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造、後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内神社)となりました。この時、分社の御霊は王子稲荷神社境内に移されたものの、四本木の名称と祠は残されたようです。
 その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により敷地の北東角付近(現・稲荷公園の場所)に移転されました。当社敷地内にある多数の鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」「火具製造所」「信管工場」「圧延工場」「銃砲製造所」「精器工場」等の文字は、その部門名です。毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執ち行われていました。(高木助一郎日記より)
 当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長先導となって十條構内四本木稲荷神社から神霊遷しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條・滝野川)2つの四本木稲荷が有ったことになります。
 戦後、両社は陸軍の管轄を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、十条の四本木稲荷が廃せられることになり、社殿、鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢、狛犬等が梶田譲園氏により当社へ移転されました。滝野川は神道大教を祀る神社となり、四本木の四を世、本を基、木を衹と移し変え、四本木の名称を冠して世基衹大神を祀られていくことになりました。
 平成8年に新たに柵が設けられ、令和元年に当社の包括団体である宗教法人神道大教の本局により運営されることとなりました。
 なお、南東の古びた小祠は、現在の正殿、拝殿が移転される以前より有ったとされ、北東の朱色の小祠は、王子警察署裏の位置にあり廃社されるのをここへ移転されたと言われてます。
 よもとぎ稲荷を守る会


四本木稲荷神社

境内には北に鎮座していた「十条の四本木稲荷神社」から移されたものが多数残されている。陸軍造兵廠(一造)ゆかりの戦跡。

石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和12年4月建立

狛狐(東京第一陸軍造兵廠奉納)

お狐様
昭和10年4月建之 信管工場一同

石灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正6年4月建之 火具製造所一同

石灯籠
昭和10年2月 精器工場関係者一同

手水鉢(東京第一陸軍造兵廠奉納)

手水鉢は境内に2つある。

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

石鳥居

御社殿

鉄製天水桶(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和10年4月吉日 
 圧延工場従業員一同

忠魂碑(東京第一陸軍造兵廠奉納)

忠魂碑
大正6年4月建之
 火具製造所一同

碑は圧磨機圧輪を断裂して本体と台座に転用したものという。

境内社石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正7年3月建之

南東の小祠は、現在の御社殿が鎮座する前からの祠という。

境内社灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正9年12月 精器工場外関係者一同

南の鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正13年2月 陸軍造兵廠火工廠

北東の境内社は、かつては王子警察署の裏手に鎮座していたが、廃社されることとなったために遷座という。


旧稲荷公園(十条の四本木稲荷神社跡)

かつての稲荷公園は「北区中央公園いなりプレーパーク」として再整備。
東京第一陸軍造兵廠275号棟(北区中央図書館)の北側。

公園内には慰霊碑が残されていた。

殉職慰霊碑

殉職慰霊碑
 陸軍造兵廠東京工廠長 杉本春吉 書

陸軍造兵廠東京工廠職員殉職者を祀る。

碑裏面の碑文等が全て消されていた・・・


関連

東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑(目黒区)

目黒不動に隣接する五百羅漢寺。
境内には、疎開巡業中に広島で原爆の被害にあった劇団さくら隊(桜隊)の慰霊碑が建立されている。

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑

移動演劇隊さくら隊 原爆殉難碑
徳川夢声

原爆殉難碑
 昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。
 巡業中だった、新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げました。
 この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。
 碑の文字は徳川夢声、台座には亡くなられた9名の名前が刻まれ、碑の裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。
 原爆のみたまに誓ふ人の世に
  浄土をたてむ みそなはしてよ
              白蓮

桜隊(さくら隊)

1942年「苦楽座」結成。主要メンバーは薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足。1944年に「苦楽座」は解散となり国策演劇団体「日本移動演劇連盟」に強制的に組み込まれ旧苦楽座は「桜隊」として改組。

1945年8月6日、「桜隊」疎開先の広島市中心部に近い堀川町の宿舎兼事務所も被爆し全壊焼失。当時、宿舎にいた9名のうち5名は即死であったという。
 ・森下彰子(23歳) 女優
 ・羽原京子(23歳) 女優
 ・島木つや子(22歳) 女優
 ・笠絅子(41歳) 島木つや子の母、衣裳方
 ・小室喜代(30歳) 桜隊事務長槙村浩吉の妻
   槙村浩吉は、たまたま広島から東京に赴いており広島不在だった。

辛くも脱出し避難した4名も次々と亡くなってしまう。
 ・丸山定夫(44歳) 桜隊隊長
   8月16日。避難先の厳島存光寺で死去。
 ・高山象三(21歳) 桜隊舞台監督、薄田研二の息子
   園井恵子とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月20日死去。
 ・園井恵子(32歳) 女優、宝塚歌劇団出身
   高山象三とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月21日死去。
   「宝塚歌劇の殿堂」殿堂入り。
   殿堂入りしたタカラジェンヌでは最年少物故者で唯一の戦災死者となる。
 ・仲みどり(36歳) 女優
   なんとか東京の実家に戻り東京帝国大学付属病院に入院。
   放射線医学の権威・都築正男教授の治療を受けるも8月24日死去。
   医学的に認定された「原子爆弾症認定患者第一号」となる。
   肺と骨髄の一部が今でも東大病院にてホルマリン保存されている。

こうして、広島に滞在していた桜組の9名は原爆によって命を奪われてしまった。

五百羅漢寺の碑には9名の隊員の遺骨も少量ずつ納められている、という。

合掌

台座には被爆し亡くなられた9名の御名前が刻まれている。

裏面には柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれている。


五百羅漢寺


目黒区の五百羅漢寺境内に東京の「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。

広島にもおなじく「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」があるが未訪。
いつか訪れたいです・・・


関連

長慶寺稲荷社・池雪国民学校奉安殿(大田区)

大田区東雪ヶ谷鎮座。

長慶寺境内・朝日稲荷社
(池雪国民学校奉安殿)

昭和15年築の旧池雪尋常小学校奉安殿(旧池雪国民学校奉安殿)という。
池雪国民学校は現在の池雪小学校。

稲荷社としての由緒由来は不詳。池雪国民学校奉安殿が当時に移築された由来も不詳。昭和21年頃に長慶寺境内に移築されたという。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿の雰囲気を色濃く残す佇まい。

扉は鉄筋コンクリート。内側が一部崩落気味。

都内に残る数少ない奉安殿の名残。


長慶寺

境内社の朝日稲荷社はご本堂の後方に鎮座している。


関連

清水稲荷神社・鷹番国民学校奉安殿(目黒区)

目黒区に鎮座するお稲荷様は、なんとなく変わった御社殿。

戦前に「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物=鷹番国民学校奉安殿が、戦後にこの清水稲荷神社の御社殿として再活用された、という。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

清水稲荷神社
(旧鷹番国民学校奉安殿)

清水稲荷神社
 目黒本町1-1

 この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったと言われ、その付近に真夏の旱天でも清水が湧き出していました。この湧き水外なりの社名の源となったと思われます。
 大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主のさんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲を志摩市yた。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
 その後、昭和27年(1952)に篠原福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。
 この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒が振る舞われ、盛んな祭りが行なわれます。
 平成5年3月
 目黒区教育委員会

鉄筋の分厚い扉。
壁面も赤く塗られているが、基はコンクリート。
奉安殿の特徴を感じることが出来る。

社殿の欄干や階段部分もすべて奉安殿時代からの流用という。

鳥居は大正13年建立。関東大震災の翌年。御由緒にある土地分譲の再開発時期と合致。


関連

ドーリットル空襲と東京初空襲の地(荒川区)

都電荒川線「熊野前停留場」、日暮里舎人ライナー「熊野前駅」より北側、隅田川の方に向かって5分ほど歩く。
熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っていた。


ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

尾久初空襲(尾久本土初空襲)

ドーリットル隊長自らが機長となった1番機は、米空母ホーネットを8時15分に発艦。「十条の東京第一陸軍造兵廠」をターゲットとしたが、目標を外れてしまい早稲田に焼夷弾を4発投下、早稲田中学の学生が直撃弾で死亡している。

2番機のフーバー機は8時20分に発艦。途中で1番機を追い抜き「赤羽の陸軍造兵廠兵器庫」を目指していたが、目標が確認できず、目についた施設「尾久の旭電化工業尾久工場」を爆撃。爆弾は工場をそれて周辺に落下。

大日本帝国「帝都・東京」への最初の投下となった爆撃は、荒川区尾久町であったため「尾久初空襲」とも呼称。尾久での死者は10名、重軽傷者48名、全半焼38棟といわれている。

なお、3番機は王子や川口を爆撃するとともに、葛飾の水元国民学校に対し機銃掃射なども行っている。


東京初空襲の地

真珠湾から4ヶ月後。
勢いを失わない日本軍に対するアメリカ軍が決行した起死回生の一手「ドーリットル空襲」。
ドーリットル爆撃隊による大日本帝国「帝都・東京」に対する最初の爆弾投下が、ここ荒川区東尾久の地となり、この場所が「東京初空襲の地」「日本本土初空襲の地」となった。

東京初空襲の地
 昭和17年4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4ヶ月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町八、九丁目で、12時20分頃、ドーリットル隊(ドーリットル空襲)の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。
 『荒川区史』所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10メートル、深さ5メートルもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。
 この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。
 荒川区教育委員会

爆弾の着弾地点は3箇所。
荒川区東尾久8丁目の熊野前保育園の近くに2箇所、着弾。
荒川区東尾久7丁目のADEKA前に着弾。

着弾地点は、いまは静かな住宅街。


ドーリットル爆撃隊3番機が爆撃目標としたという旭電化工業尾久工場(ADEKA)の方に向かって歩くと、高架の向こうに既視感のある光景が。

これは、、、

付記:TRICK(トリック)の池田荘

ドラマ「TRICK(トリック)」で山田奈緒子が住んでいた「池田荘」。
(実際には「あおい荘」という)


山田奈緒子の池田荘の先に、一際に大きなビルが見える。

旭電化尾久工場跡

かつてこの地には「旭電化工業株式会社尾久工場」があっった。
旭電化工業(ADEKA)は、古河財閥・古河グループの流れを組む企業。大正4年(1915)に、日本のソーダ工業の創業・電解ソーダ法によるソーダ製品製造を目指して創業された「東京電化工業所」に端を発する。化学品・日本の電解ソーダメーカーとしての先駆者であった。

大正7年(1918)に旭電化尾久工場が竣工。
以来、当地は一大化学工場であった。
昭和40年(1965)に工場転出が決定し、昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収。

株式会社ADEKA

旭電化工業株式会社は、平成18年に「株式会社ADEKA」に社名変更。工場転出後に敷地を縮小して当地には本社機能と研究機関が残っているのみ。

都立尾久の原公園

旭電化工業尾久工場跡地を東京都が買収。
買収地の西側には「東京都立大学荒川キャンパス」「東尾久運動場」「東尾久浄化センター」となり、東側が「都立尾久の原公園」

都立尾久の原公園は平成5年(1993)開園。

なお、東尾久浄化センター敷地内の土壌でダイオキシン類及び重金属等の濃度が環境基準値を超過という発表もあったり。(化学工場跡地ゆえの因果関係は・・・

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a024/kankyou/kougai/5_30.html

尾久の原公園の水辺の案内
尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。(以下略

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M379-No2-26
1947年07月24日-米軍撮影

上記の航空写真を一部加工
赤星が「ドーリットル爆撃隊2番機」が投下した爆弾着弾地点。


以上、「東京初空襲の地」であり「日本本土初空襲の地」でもある場所の散策でした。


関連

ドーリットル空襲をきっかけに帝都防空の飛行場として突貫工事が行われたのが、「成増飛行場」

昭和17年4月のドーリットル隊B-25爆撃機による東京初空襲から2年半後となる昭和19年11月のB-29による東京初空襲の目的地は「中島飛行機武蔵製作所」でした。

そして昭和20年3月

東京大空襲・慰霊

旧岩淵水門(赤水門)

大正13年(1924)竣工の水門。現在は近代化産業遺産として保存されている。

位置関係

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:USA-M380-30
1947年07月24日-米軍撮影

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT794-C4A-27
1979年11月14日-国土地理院撮影

青水門の建設途中。青水門は1982年(昭和57年)竣工。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT843-C4-28
1984年10月22日-国土地理院撮影

青水門の運用開始後。昭和59年。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT921-C1-33
1992年11月02日-国土地理院撮影

赤水門のところが島に。

GoogleMAPを一部加工。
現在の様子。

かつて荒川放水路と呼ばれた人工河川が「荒川」に。
かつての荒川が「隅田川」に。
岩淵水門は、荒川と新河岸川・隅田川の分岐点に当たる。

旧岩淵水門(赤水門)

東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門

 所在地 東京都北区市も5丁目地先
 設計者 青山 士
 建設年 大正13年(1924)

 旧岩淵水門は明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。
 水門はローラーゲート構造で、幅約9mの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103mの大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同13(1924)に竣工した。
 昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
 その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300m下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

 東京都

旧岩淵水門

旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口まで約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分れる地点に、大正5年から13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に作られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、地域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩渕水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。

 国土交通省荒川下流河川事務所

岩渕水門改造工事
 竣工 昭和35年3月
 施工 大同機工株式会社

表記が「岩渕」になっていますね。


草刈の碑

赤水門の先の島に、大きな石碑が建立されていた。
全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑。

草刈の碑
農民魂は 先ず草刈から

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰


赤水門の脇に。

攝政宮殿下御野立之跡

大正13年10月25日に荒川放水路通水後の様子を、 
攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。

攝政宮殿下御野立之跡
大正13年10月25日


青水門

旧岩淵水門に代わり、新しく建設された水門。洪水時には扉を閉め、荒川から隅田川への水の流入を防ぐ。これより下流が隅田川となる。
昭和57年(1982)完成。


荒川放水路完成記念碑

荒川知水資料館の前に。

此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 
神武天皇紀元二千五百八十年 
荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ

荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修工事事務所主任技師(現 工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。

銘板に咲く桜草(サクラソウ)模様。

日本の近代化とともに、荒川を抑え込み首都圏の防水をつかさどってきた「岩淵水門」でした。

「陸軍兵器補給廠跡・稲付射場跡」北区西が丘の戦跡散策

赤羽と十条の界隈。
当時の北区は軍事施設の集中地帯であった。

今回は十条の北西側に位置する「北区西が丘エリア」の戦跡散策。
「陸軍兵器補給廠跡」と「稲付射場跡」がこのエリアにはあった。

稲付射場跡

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M470-10
1947年09月16日-米軍撮影

加工

拡大

現在の様子。オレンジ色が今回の散策ポイント。

十条駅

十条駅から散策をスタート。
上条駅から南に赴けば、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」関連の戦跡が多数ではあるが、今回は南ではなく北西に。

赤羽火薬庫道

真っ直ぐな道は「陸軍火薬製造所」(のちの陸軍兵器廠東京第二陸軍造兵廠)と「赤羽火薬庫」を結んでいた道。

陸軍境界石(東京第二陸軍造兵廠)

「帝京大学板橋キャンパス」の通りに「陸軍境界石」が横たわっていた。
南は「東京家政大学」、かつては「東京第二陸軍造兵廠」があった。

戦跡密度豊富な南の記録はまたそのうち。今日は、ここより北上します。

折れて横たわったまま固定された「陸軍境界石」(境界標石)

帝京大学板橋キャンパス

そのまま道なりに歩みを進めていく。
稲荷台の交差点を過ぎ、「稲荷台レジデンス」という建屋の前にも、ありました。

陸軍境界石(陸軍兵器補給廠)

北側には、「陸軍兵器補給廠」がある。
この境界石は道に対して背中を向けて「陸軍」文字が刻まれていた。

陸軍境界石(陸軍境界標石)

出入り口脇の標石。なんとなく落ち着かない。

そのまま姥ヶ橋の交差点をさらに北上。

東京陸軍兵器支廠
(陸軍兵器補給廠)

明治19年に設けられた「東京鎮台武器庫」が前身。
のちに「陸軍省板橋兵器庫」となり、昭和3年に「東京陸軍兵器支廠」と改称。
戦後は米軍の兵器補給廠となり、変換後に西が丘町が成立。
現在は跡地に、味の素フィールド西が丘や味の素ナショナルトレーニングセンター、国立スポーツ科学センター、東洋大学総合スポーツセンター、東京都立赤羽商業高等学校、警視庁第十方面本部、西が丘住宅(公務員宿舎)などが展開されている。

東京陸軍兵器支廠跡
(陸軍兵器補給廠跡)

西が丘住宅(公務員宿舎)の手前にちょっとした空間があった。
陸軍兵器補給廠のレンガ(煉瓦)を再利用した広場。

この場所より北側の西が丘エリアに、当時「陸軍兵器補給廠」があった。北端は、「味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)」にあたる。

陸軍兵器補給廠跡のレンガ広場の東側に「稲付射場」があった。


稲付射場(稲付射撃場)

明治38年に「陸軍火工廠稲付射場」設置。
所属は板橋火薬製造所(陸軍砲兵工廠・東京第二陸軍造兵廠)。
火薬火器の爆破や発射の実験訓練場として活用されていた。
戦後は、梅木小ほかに転換。


稲付射場境界塀

唐突に現れる古めかしいコンクリート壁。
稲付射場の境界塀。ところどころ剥がれかかっていた。

一部が民家の勝手口扉になっていた。

鉄筋が見える。

反対側は個人宅。きれいな真っ白塗装。
こちらからは、この壁が戦前からの境界壁には見えない。

稲付射場境界壁は梅木小学校の方まで伸びている。

梅木小学校が「稲付射場」の中心。

学校の境界壁は、往時の「稲付射場境界壁」そのもの。
小学校なので外からチラ見。


陸軍境界石(稲付射場

「陸軍用地」の標石。左部分が欠けていた。現在は小学校の境界であれ、当時は「稲付射場」の境界。

陸軍兵器補給廠跡と稲付射場跡の散策は以上。

このエリアは、見どころ多し。
北部は赤羽エリア、南部は板橋エリアと十条エリアと、当時は軍事施設の集中地帯。


参考

北区平和マップ

https://www.city.kita.tokyo.jp/somu/bunka/gakushu/bunka/documents/attachment.pdf


関連

赤羽台の戦跡散策

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

旧大井町変電所

品川区

JR品川駅とJR大井町駅の間に。京浜東北線に乗っていると車窓から見えるレンガ造りの建物が目に付き、気になったので脚を運んでみました。

旧大井町変電所(JR東日本)

竣工は大正3年(1914)という。
大正3年(1914)12月20日に東海道本線の起点として東京駅が開業。
東京駅-高島町駅間で電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始に際して変電所設置。

※初代横浜駅 → 現在の桜木町駅
 2代目横浜駅 → 高島町駅 →廃駅(現在の高島町駅付近)
 3代目横浜駅 → 現在の横浜駅

現在は、株式会社JR東日本運輸サービス山手事業所として現役で使用されている。

以下はGoogle航空写真

大正3年以来、100年以上に渡り現役で使用されている建屋。

平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

大森捕虜収容所跡地に建立された平和観音

平和島は、昭和14年(1939年)1月31日に京浜第2区埋立地として免許取得。東京都が事業主体として埋め立てを開始。

しかし、埋め立ては第二次世界大戦により一時中止。

戦時中は、埋め立てが進んでいた一部(現在の平和島一丁目付近)にアメリカ合衆国などの連合国側の捕虜を収容する場所(東京捕虜収容所)が設けられた。そのまま戦後は、東條英機ら戦犯の一時収容所にもなっていた。

そのような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼称されるようになり、昭和42年(1967年)7月18日に埋立人工島「平和島」が竣工。同年9月に東京都大田区に編入され10月に町名が「平和島」に確定する。

東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)

東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)
昭和16年(1942)9月25日開設。
当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。
昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。
終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に移送されるまでの間この収容所に収容。
横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)

参考:POW研究会
ttp://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/index.html

位置関係

国土地理院航空写真「USA-M58-A-6-135」(1946年2月28日-米軍撮影)より。
埋め立ては陸地側の一部分のみで、そこに大森捕虜収容所が設けられていることがわかる。

その後、平和島は埋め立てが進み、昭和57年(1982)の「平和の森公園」の開園でもって、陸続きとなった。


平和観音

大森捕虜収容所 跡地に建立された「平和観音」
平和島劇場の前、ボートレース平和島の隣に鎮座している。
このあたりが、かつての大森捕虜収容所跡地。

平和観音由来記
 昭和三十五年七月十九日 建立 
  長沼孝三 作

人類最高の希いは「平和」であります。そして平和を祈り念ずる心が宇宙の慈悲をもとめます。地上永遠の平和を祈り続ける為に平和観音の建立を思いたったゆえんが此處にあります。
観音さまは人類の誠のねがいをきいて、いちばんよい方法でおすくい下さる佛さまであります。佛さまとは宇宙不変の理をあがめたお姿であり、その理をさとって大きな力を得た方の呼び名であります。
佛さまのなかで観音さまは災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示してすくいの手だてをとって下さる菩薩であります。
平和観音像が建立された平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった處、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った請わば「戦争と平和」の因縁の地であります。
大慈悲の御姿を建立して、地上変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころからの祈願をみのらせ給え。

平和観音の隣では、猫さんがお休みをされておりました。

ボートレース平和島
かつて、この界隈に大森捕虜収容所があった。


いわゆるA級戦犯と呼称された昭和受難者の方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所・巣鴨プリズンへ移送される。

東条英機邸跡

「明治の工業の父」近代硝子工業発祥之地と西村勝三墓

品川の東海寺大山墓地の入口にある史跡。
「史蹟 官営品川硝子製作所跡」「近代硝子工業発祥之地」

日本の近代ガラス工業は、この品川からはじまったのだ。

史蹟 官営品川硝子製作所跡

近代硝子工業発祥之地

明治維新後の文明開化に伴い、莫大な輸入超過に陥っていた明治政府は、西洋技術を取り入れて産業の国産化を目指していた。

明治6年(1873)太政大臣三条実美は、家令丹羽正庸の提案により、東海寺境内に日本初の板ガラス製造工場「興業社」を設立するも失敗。

明治9年(1876)、工部省」は興業社を買収し、官営「品川硝子製作所」として再生。産業育成と技術者養成を目的とし、赤字覚悟の出資をすすめ、ガラス製造や洋食器の製造を推進。

明治17年(1884)、大量の在庫をかかえ、板ガラス製造に失敗し経営不振が続いていた明治政府は、「品川硝子製作所」を西村勝三に貸し下げ、翌年には払い下げを行い、民営工場となる。

明治21年(1888)に、「品川硝子製造所」は業務拡張に伴い「品川硝子」として新たに発足。麒麟麦酒の発売に伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を手掛ける。
しかし世界恐慌と板ガラス製造失敗の影響により、明治25年(1892)11月に解散。
品川硝子のガラス工場としての命運は20年でしかなかったが、この工場が日本のガラス産業に与えた影響は大きく、のちに日本初のステンドグラスを製造した岩城硝子(iwaki/AGCテクノグラス)の岩城滝次郎や、品川硝子では完成できなかった日本初の板ガラスの商品化を明治35年に完成させた島田硝子(東洋ガラス)の島田孫市も、この品川硝子の出身者であった。
当時の品川硝子のレンガ造りの建物は愛知県の明治村に移築されている。

近代硝子工業發祥之地
 此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ
 其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ
 吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル
 昭和四十年十二月

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
  所在 北品川四丁目十一番五号 三共株式会社
  指定 昭和五十三年十一月二十二日 (第八号)
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。
 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
 平成六年三月三十一日
  品川区教育委員会

珪石 ガラス原料

西村勝三

「明治の工業の父」「製靴業の祖」とも称される西村勝三(1837-1907)

  • 明治3年、日本初の西洋靴を制作(伊勢勝造靴場)
  • 明治4年、日本初のニット工業機械編み(靴下)の製造開始
  • 明治5年、日本初の近代クラブを開設(ナショナル・クラブ)
  • 明治8年、耐火煉瓦の製造開始(品川白煉瓦)
  • 明治21年、日本初のビール瓶大量生産(品川硝子/麒麟麦酒向け)

西村勝三は、天保7年12月9日(1837年1月15日)佐倉藩支藩の佐野藩付家老の子として生まれる。兄はのちに貴族院議員となる西村茂樹。
佐野藩で砲術助教を勤め、幕府の海軍伝習所へ応募するも不合格となり脱藩。幕末の動乱のなかで銃砲弾薬商として銃器の売買を行うなかで実業家へと目覚めていく。
慶応元年(1865)、日本橋に鉄砲店を開業。屋号を「伊勢屋」とし伊勢屋勝三と改名。幕府側・幕臣にしか銃を売らないことが大村益次郎の目にとまり、大村益次郎の信頼を得る。

明治3年(1870)、かねてより懇意であった大村益次郎に軍政改革の一環として日本人向けの西洋靴の開発相談を受けていた勝三は、日本人の脚にあう西洋靴の開発に成功し、東京築地に近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を開業。この開業日3月15日は「靴の記念日」となっている。また靴工場とあわせて「伊勢勝製革所」も開設。

大村益次郎は日本の近代靴が大量生産される前に、明治2年11月5日に不慮の死を迎えてしまう。大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴全廃へと繋がり、「伊勢勝造靴場」は一躍発展をしていくことになる。
「伊勢勝造靴場」は、明治17年に西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称。
明治35年に「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「株式会社リーガルコーポレーション」へ。
明治40年に「伊勢勝製革所」は「日本皮革株式会社」となり、現在の「株式会社ニッピ」へ。
いずれも西村勝三が創業したニッピとリーガルコーポレーションは、今も相互がそれぞれの筆頭株主の関係。

明治4年(1871)、西村勝三が数台の編機を輸入して、メリヤス(靴下)を製造したのが、日本におけるニット工業機械編みの始まりでもあった。

明治5年(1872)、西村勝三はヨーロッパのクラブを模範とし、築地に開設した「ナショナルクラブ」が日本におけるクラブの最初という。

明治8年(1875)、いくつかので成功をしていた西村勝三は、文明開化の象徴であった「瓦斯燈(ガス灯)」のためのガス発生炉用耐火煉瓦を国産品で賄うために、東京芝浦に「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。
明治17年「官営品川硝子製作所」の払い下げを受け、明治20年に品川硝子製作所に「品川白煉瓦」を移転設立。(白煉瓦とは耐火煉瓦のこと。建築用煉瓦は赤煉瓦と呼称。)
品川白煉瓦は、耐火煉瓦の国産化をすすめるとともに、建築用の装飾煉瓦も製造し、東京駅の赤レンガ外壁部を品川白煉瓦が納入している。(構造部の煉瓦は日本煉瓦製造株式会社・深谷市。平成24年の再建時のレンガはLIXILが納入。)
品川白煉瓦株式会社は、現在の「品川リフラクトリーズ株式会社」

明治9年、東京瓦斯局副事務長に西村勝三が就任。事務長は渋沢栄一。ガス事業は東京府から明治18年に民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へ。

明治40年、盲腸炎がもとで逝去。享年72歳。明治の近代化経済を支えた男は、東海寺大山墓地に墓所がある。
また、出身の佐倉市の佐倉市民体育館前に銅像もある(未訪問)

西村勝三墓

墓はガラス工場とゆかりのある品川東海寺大山墓地にある。

 

西村勝三に関しては、以下のサイトが良くまとまっている。

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-01-31-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-03-19-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-05-09-001/


靴業発祥の地

明治3年(1870)3月15日に、西村勝三が日本初の近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を創建したのが、この地であった。現在の地下鉄有楽町線の新富町駅・7番出入口の隣。

靴業発祥の地
 明治三年(一八七〇)三月十五日、西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋沢栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す
  昭和六十年(一九八五)三月十五日
   日本靴連盟
    題字 堀田正久 書


銅像堀公園

かつて、西村勝三の像が隅田川の近くの公園にあったという。
明治40年に、功績を讃えて銅像が建立されたというが、戦時供出で撤去され戦後に石像が再建されるも昭和40年に撤去され、今は銅像があった名前だけが残っている。

https://goo.gl/maps/WrmnXTUsZmK9JSVx5


東海寺大山墓地

なお、東海寺大山墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあるので、簡単に写真だけご紹介。

沢庵和尚 沢庵墓


賀茂真淵墓

荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人のひとり。


東海寺大山墓地にある井上勝墓は別記事にて。

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

旧・醸造試験所第一工場

国指定重要文化財(建造物)

王子駅から飛鳥山・音無橋の方へ歩いていくと、赤レンガの建物がみえてくる。

旧醸造試験所第一工場
(通称・赤煉瓦酒造工場)

国重要文化財(建造物)
明治35年(1902年竣工)
明治37年5月に創設された大蔵省醸造試験所の清酒醸造試験工場として設立。
設計は、明治三大建築家のひとり、妻木頼黄。
大蔵大臣所管としてはじまった国立醸造研究所は平成13年(2001)に、独立行政法人酒類総合研究所へ移行。2015年に東京事務所を本部(東広島市)に統合。

醸造試験所跡地公園は、醸造研究所が広島県に移転したことに伴い、その跡地に設けられた公園。
跡地公園からも外観を見ることはできるが、秋の東京都文化財ウェークや不定期に開催されるイベントの際には内部に入ることも可能。

国指定重要文化財(建造物)
旧醸造試験所第一工場
 北区滝野川2-6

 醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させることなどを目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治37年(1904年)5月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。
 醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大鳳製造徐が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(今の王子駅)も近いことなどから「まことに得難き好適地」として選定されました。
 第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米、製麴(せいきく)、仕込み、発酵、貯蔵などの作業が行われていました。建物の設計および監督は、、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧レンガ小口積みとし、外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。躯体のレンガ壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備えるなど、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を大様した設計がなされています。製麴室の白色施釉(せゆう)煉瓦積みの壁や、鉄骨梁に半円形状にレンガを積んだ耐火床など、屋内にも特徴的な煉瓦造りの部分を見ることができます。
 昭和20年(1945年)に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。
 平成29年3月 東京都北区教育委員会 

醸造試験所跡地公園より

3階建ての建屋には地下室もある。
試験室や貯蔵室、発酵室や倉庫などが設けられている。

こちらは南側の平屋の建屋。蒸米冷却室などはこちら。


旧醸造試験所第一工場(内部)

廊下

赤煉瓦酒造工場の旧麹室
白色施釉煉瓦を使用。

旧麹室はライティングイベント会場となっておりました。

松尾大社の神符

イギリス積みとドイツ積みと。

妻木頼黄の代表作。
「横浜正金銀行」と「横浜赤レンガ倉庫」


矢部博士寿像(矢部規矩治博士胸像)

清酒酵母の発見者
矢部規矩治(やべ・きくじ)

醸造試験所構内に、矢部規矩治博士の功績を称えるために制作されていた寿像の除幕式が11月20日に予定されていたが、その直前の昭和11年10月2日に急性心臓発作にて永眠。享年69歳。

矢部博士寿像

碑文
正三位勲二等農学博士矢部規矩治氏
明治元年前橋市二出生シタリ
明治二十七年東京帝国大学農科大学ヲ卒業シ明治二十九年大蔵省二奉職スルヤ或ハ大蔵省鑑定官トシテ又ハ関税訴願審査委員特許局審査官トシテ我国鑑定事務ニ関シテ多大ノ功績アリ
更ニ明治三十六年醇造試験所設立準備委員ヲ命ジラルルヤ幾多ノ研究ヲ遂ゲテ同所ノ設立ニ参劃シ翌年其ノ設立成ルヤ事業課長トシテ醸造ノ学術技術二関スル研究ヲ計画指導シ大ニ斯界ノ発達ニ貢献スル処アリ
昭和六年十二月退官スルマデ実ニ三十有四年一意専心税務並ニ醸造界ノタメ尽痒シ其ノ間門下ヨリ数多ノ学者技術ヲ輩出セリ
尚同氏ハ大正四年九月社団法人日本醸友会ヲ設立シ自カラ選バレテ会長トナリ
醸造技術ノ研讃ヲ唱導シ或ハ醸造試験所商議員トシテ又ハ全国酒造組合中央會顧問トシテ酒造界ノ発達ニ尽スコト大ナリ
実ニ氏ノ如キハ我国醸造界ノ先覚者タルト共ニ人格高潔ノ士トシテ後人ノ模範トスベキモノト謂フベシ
昭和十一年門下生一同資ヲ蒐メテ同氏ノ寿像ヲ建設センコトヲ図リ居リシ際同年十月二日突如薨去セラレタリ
時ニ享年六十九歳
 昭和十一年十一月二十日
 矢部博士寿像建設會発起人

(読みやすいように適宜改行しました)

矢部規矩治博士
Dr. Kikuji Yabe
1865-1936

 矢部規矩治博士は、明治27年(1894年)東京帝国大学農家大学を卒業、明治28年(1895年)世界で初めて清酒酵母を分離した。明治29年(1896年)大蔵省に入省、明治37年(1904年)の醸造試験所設立に尽力し、醸造技術の発達、また、わが国の関税制度の確立に多大な功績を残した。昭和6年(1931年)退官までの34年間、税務並びに醸造界のために尽力し、門下より数多くの学者技術者を輩出した。
 設計・塑像 大野明山


錐台銘

錐台銘
 元治元年(1864年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ)を置いた。
 明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治35年(1902年)10月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。
 昭和48年1月

 平成7年7月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。
  平成7年7月

今回はイベント公開での見学だったため、建屋内をゆっくり拝見することができませんでしたが、秋の文化財ウィークの際は比較的ゆっくりと見学できるそうなので、そのときにまた再訪したいですね。

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。

和田堀給水所(世田谷・代田橋)

令和のとある冬に。

京王線代田橋駅のすぐ近くに古風で壮大な建物が残っていた。
聞くところによると、近々で建て替えになるとのことで、いま残っている歴史的建造物を慌てて記録してきました。

和田堀給水所-昭和9年(1934年)竣工

位置関係

上から見ると、特徴的な建造物の様子を知ることができる。
円形が、一号配水池
方形が、二号配水池

1947年11月28日-米軍撮影航空写真(国土地理院-USA-M676-211)

1947年

2009年4月27日-国土地理院航空写真(国土地理院-CKT20092-C67-20)

2009年

そして2020年の航空写真。
すでに方形の二号配水池は解体済み。円形の一号配水池を残すのみ。

Google航空写真(2020)

2020年

和田堀給水所一号配水池

大正元年(1912)9月に東京市の水道拡張事業が認可され、翌年より着工。
和田堀給水所は2つの配水池が設けられていた。
 一号配水池 昭和9年(1934年)竣工
 二号配水池 大正13年(1924年)竣工
現在、和田堀給水所は、二号配水池が解体され建て替え工事中。
給水を止めることができないため、新しい二号配水池が完成するまでの間は、一号配水池は引き続き稼働。
二号配水池完成後に、この歴史的な建造物=一号配水池も解体され新たな配水池が建造予定。

細部のデザインにこだわりを感じる。

八角形の排気塔

付随する建造物

階段のデザインも美しい

東京都水道局 和田堀給水所

建築計画
完了予定は平成34年3月31日=令和4年=2022年

建造から80年以上が過ぎ、老朽化と耐震性、給水量の問題などがあり、解体の上でリニューアルとなる、歴史的建造物。
しかし、歴史的建造物であるまえに、現役の給水設備建造物。
現役の給水設備建造物であるがゆえに建て替えを余儀なくされている。

惜しむらくは、すでに二号給水池が解体された後に、興味を持ち始めたこと。
知るのが、少し遅かったのが悔やまれます。もう少し早ければもっとちゃんとした記録が残せたのですが。。。
それでも、まだ一号給水池が解体前に接することができたのが、せめてもの救いでした。


陸軍成増飛行場の戦跡散策

令和2年(2020年)2月撮影

かつて東京都練馬区にあった陸軍飛行場。


陸軍成増飛行場

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空の飛行場として急遽建設が計画され突貫工事が行われ、昭和18年(1943)12月に陸軍成増飛行場が完成。

陸軍成増飛行場完成と同時に第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が展開。
昭和19年3月、飛行第47部隊は、第10飛行師団隷下となり、11月には特攻隊(B29に対する空対空の特別攻撃隊)「震天制空隊」が編成される。

戦後は連合国に接収され、グラントハイツ(アメリカ空軍の宿舎)となる。1973年に日本に返還。「光が丘」として再開発された。

住居に再活用された掩体壕

位置関係

現在の都立光が丘公園を中心とした一帯が「成増陸軍飛行場」であった。

国土地理院
C36(8913)-C2-399
陸軍撮影、1944年10月24日
GoogleMapに、おおよその位置関係を追記
国土地理院
USA-R585-No2-1
米軍撮影、1949年03月02日
グラントハイツ

陸軍成増飛行場の掩体壕跡

赤塚新町の住宅地の中に、掩体壕が残っている。

残っている・・・というよりも住居として、掩体壕の上下の空間が巧みに活用されていた。

だいたいの住所は、「板橋区赤塚新町3-29」地区内。
住宅地なので見学は状況をわきまえつつで。

前述の グラントハイツ 周辺を撮影した航空写真、国土地理院USA-R585-No2-1・米軍撮影(1949年03月02日)から位置関係を確認してみる。

都立光が丘公園へ。


都立光が丘公園

陸軍成増飛行場は、戦後グラントハイム(米空軍宿舎)を経て返還後に光ヶ丘団地に隣接する公園となった。

光が丘公園 のあらまし
 都市近郊の農村地帯 であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年 記念事業として、東京府の「東京大緑地計画 」のひとつにあげられました。
 しかし、大平洋戦争 が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場 として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還 までの間、米軍の住宅地(グラントハイツとして使用されました。
 昭和47年(グランドハイツ〕 跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三 分の一に当たる 60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。
 昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。

◎ 開園年月日 昭和56年(1981年)・12月26日
◎ 公園の規模607,675.05m (平成7年6月1日現在) ..
◎所在地 練馬区光が丘四丁目、同二丁目、旭町二丁目 板橋区赤塚新町三丁目
◎主な施設 スポーツ施設のほか、芝生広場、バードサンクチュアリ 、ゲートボール 場、噴水、流れ、光りのアーチ、売店、駐車場など。


屋敷森跡地

昭和18年に成増飛行場が造営されるにあたり、周辺住民は立ち退きを命じられるも、この屋敷森の家は境界の都合で1軒だけ残ることが出来た。
戦後、グラントハイツとなり飛行場の周りの土地も接収されるも、この屋敷森の住宅は宅地であったためにそのまま残ることが出来たという。
光が丘公園として再開発時に、当主が無くなり「屋敷森のまま」保全されることにあったという。

屋敷森の樹木は、成増陸軍飛行場のころから変わらずにそこにあったのだろうか。特攻隊の飛び行く姿を見守っていたのだろうか。


平和祈念碑

平和祈念碑
 この地には 1943年(昭和18年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第18代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は1983年(昭和58年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
 1995年(平成7年)8月15日
 練馬区

平和への祈り
練馬区長 岩波三郎書

平和祈念碑.彫刻
デザイン.制作
彫刻家 田中昭

健やかに
田中昭

都立光が丘公園には、成増陸軍飛行場の面影は残っていない。なんとなくここに滑走があったのか・・・と感慨にふけるのみ。

総務省
練馬区における戦災の状況(東京都)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html


2023年9月追記

成増陸軍飛行場開設80周年・写真展

郷土史家の山下徹さんの展示と秘話公開がありました(2023年9月)
「成増陸軍飛行場秘蔵写真&今だから語る秘話公開」

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9876ce.html

https://itabashi.keizai.biz/headline/667/

そこで知った2つの史跡を以下に追記。


飛行場建設で移転した観音立像

丸彫聖観音立像廻国供養塔
練馬区登録有形民俗文化財

成増陸軍飛行場の建設に伴い、飛行場予定地の住民たちは移住を余儀なくされたが、そんな住民の一人(Kさん)は、道端で打ち捨てられそうになっていた観音様を保護し、近隣の神社に預けたという。

江戸時代(享保13年・1728)に66ヶ国巡りを達成した記念碑です。元は光が丘の地域に建てられました。成増(高松)陸軍飛行場建設のため、土支田八幡宮、さらに旭町2丁目にあった稲荷神社に移設されました。その後、保護のため、現在地に移設しました。
 平成27年10月 練馬区教育委員会

上練馬公園にて


吉澤平吉中尉(震天制空隊)の勇魂碑

震天制空隊(震天隊)は空対空の特攻隊。B29に対して体当たり特攻を実施防空した。成増陸軍飛行場にも震天隊が編成され、首都防空の一翼を担っていた。

昭和20年2月10日、B29に対して体当たり散華した吉澤中尉。
震天隊として成増陸軍飛行場にもゆかりがあった。

東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊、震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
吉澤平吉中尉(陸軍航空士官学校第56期)
実は吉澤中尉は特攻隊員ではなかった。しかし部隊から多くの体当たりでの特攻隊員を出した先任将校として、自らもと覚悟を決めていたのかもしれなかった。

吉澤中尉(特進で少佐)の体当たり散華から38年後の昭和58年2月10日の、吉祥寺(武蔵野市)の大法禅寺境内に、勇魂碑が、吉澤中尉の姉達によって建立された。

勇魂 
従六位功四級勲六等 
故陸軍少佐吉澤平吉之碑

感状
 陸軍中尉 吉澤平吉

右者マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ数次ニ亙ル帝都来襲ニ際シ其ノ都度勇戦以テB29撃墜ニ機撃破4機ノ赫々タル戦果ヲ収メアリシカ昭和20年2月10日敵B29約90機ノ太田付近空襲ニ方リ勇躍之ヲ下館上空ニ邀撃シ忽チ其ノ1機ヲ撃破セリ敵機攻撃ニ方リ自機亦被弾損傷シタルモ吉澤中尉ハ毫モ之ニ屈スルコトナク勇戦奮闘遂ニ後続敵編隊ノ左外側機ニ對シ敢然躰當リヲ決行之ヲ確実ニ撃墜スルト共ニ自ラ亦壮烈ナル戦死ヲ遂ク
吉澤中尉ハ真摯者実而モ内ニ烈々タル気魄ヲ蔵シ戦技亦卓抜ナリ敵機要地ニ侵襲スルヤ憤然挺身ヲ勇猛果敢毎戦武勲ヲ重ネ遂ニ玉砕以テ要地援護ノ大任ヲ完遂セルモノニシテ其ノ行動真ニ軍人ノ亀鑑ト謂フヘク武功亦抜群ナリ
依テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
  昭和20年2月23日
   防空総司令官 稔彦王

防空総司令官 東久邇宮稔彦王殿下の感状が掲げられている。

辞世
君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

戦歴
防衛総司令官東久邇宮稔彦王殿下命名の震天制空隊にて昭和十九年来帝都護持の任務を遂行中 「マリアナ」基地より発進する米空軍の数次に亙る帝都襲来に際し其の都度勇戦B29二機を撃墜四機を撃破せしが 昭和二十年二月十日B29約九十機関東地方襲来に際し下館上空に於て其の一機を撃破せしも 自機又被弾損傷せるも毫も之に屈せず更に勇戦奮闘遂に後続編隊の左外側機に敢然体当りを決行 之を確実に撃墜すると共に梅花に魁けて萬朶の櫻となり雲染む屍は大空に潔散壮烈なる戦死を遂く 昭和二十年二月二十三日東久邇宮稔彦王殿下より上記感状を授与せられ二階級特進畏くも陛下のお耳に達し 同じく仏印の空に散華し兄陸軍大尉吉澤正夫と共に金鵄勲章並に勲六等単光旭日章を賜ふ

略歴
大正11年 9月19日 本籍埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上64番地
(略)
昭和14年12月   陸軍士官学校予科 入学
昭和16年 3月   同校卒業 士官候補生隊付勤務
         飛行第二十九戦隊
昭和16年 6月   陸軍航空士官学校 入校
昭和16年 7月   第二十九独立飛行隊に転属
昭和18年 5月   陸軍航空士官学校を卒業(五十六期)
         任 陸軍少尉 叙正八位
昭和18年 6月   明野陸軍飛行学校 入校
昭和18年11月   同校退校 調布飛行部隊 部隊所沢へ移動
昭和19年     東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊
         震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
昭和19年 8月  陸軍中尉 従七位  
昭和20年 2月10日 群馬県に於て空中戦闘中戦死 2階級特進
         陸軍少佐従六位功四級勲六等を賜う 
         享年二十四才

碑文
このたび 昭和十六年来 府中市多磨霊園に埋骨されておりました父母兄弟の遺骨を当大法寺の永代納骨堂に奉移して未来永劫にわたり御供養をいただくことになりました 私達の弟二人は純粋に忠君愛国の念に燃え殉じましたが 志ならずして敗戦となり数多くのあらゆる面に罹災されました皆様の筆舌に尽くせぬ御辛苦に思いを馳せ さぞかし無念の涙に咽んだことと思います
然し身は大空に散華いたしましても霊魂は今なお天空に留まって日本国と国民の皆様の御安泰を祈り永遠なる平和への礎となっていることと思います 戦後三十八年を経た今日 新に戦死した弟達が蘇って参りました思いを切実に感じあらためて永遠の平和をひたすらに祈るものでございます
合掌
 昭和五十八年二月十日建立 吉澤富子 吉澤満子

合掌

吉祥寺の大法禅寺