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日本の航空事始め7・日本初の航空犠牲者「木村・徳田両中尉像」(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録。
本記事は、もともと別立てでしたが、改題して、「その7」として再編集しました。

「その1」はこちら。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオXIbis飛行機(フランス·1911)

日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に“アンリ·ファルマン機”と共に現地で購入した飛行機。
研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、滞空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こし墜落、搭乗していた木村、徳田両中尉は死亡、日本で初めての航空殉職者となった。

冒険好きの実業家ルイ·ブレリオ
1909(明治42)年7月25日、“ブレリオXI-bis”で英仏海峡初横断に成功したルイ·ブレリオは、当初自動車部品の製造販売を行っていた。彼は事業で得た財産で飛行機を作ることを考え、905年、最初のグライダーの製作をガブリエル·ボアザンに依頼した。その後彼は次々に単葉機を試作、自機で英仏海峡の初横断飛行に成功した。この名声により“ブレリオXI-bis”には100機の注文が寄せられ、航空事業を開始した。その後、彼の会社はドペルデュサン社と合併、第一次大戦の名機スパッドを世に送り出した。

英仏海峡横断機から発達した並列複座の単葉機
“陸軍ブレリオXI-2bis”は、ルイ·ブレリオが英仏海峡初横断に使った“フノリオXI-bis”から発達させ、一回り大きくして複座にした単葉機でーエンジンも高出力になっている。操縦装置はライト機を参考にしたたわみ翼式だが、方向舵と昇降舵が後方にまとめられている形は現代の飛行機に近い。着陸装置もスプリングを用いた緩衝装置を備えるなど、当時としては精巧な作りであった。

ブレリオ機

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

九一式戦闘機二型(所沢航空発祥記念館)

所沢航空公園にある「所沢航空発祥記念館」。
ここに日本の航空史上で貴重な機体が展示されているので脚を運んでみた。

九一式戦闘機(二型)

胴体部分の展示。再塗装や修復などは行わず、当時の材質などがわかるように自然体での展示が行われていた。

重要航空遺産
「九一式戦闘機」は航空の歴史を未来に伝える重要な航空遺産です
2008年3月28日
財団法人 日本航空協会

近代化産業遺産
平成20年度 経済産業省

未来に伝えよう!「航空遺産」
過去の技術の変遷や、それを支えた人々の生きた証を伝える「文化財」として、そのままの姿で展示し、未来に継承していきます。

展示されている機体について
 展示されている機体は「九一式戦闘機(二型)」といい、第2次世界大戦中に宮城県加美郡加美町に住む方が購入したものであり、垂直安定板や主翼支柱にある番号および銘板から「九一式戦闘機(二型)」、製造番号「第237号」、製造年月が「昭和8年1月」組立検査・飛行検査が「昭和8年2月」と判明しています。九一式戦闘機は試作段階にここ所沢でテスト飛行を行うなど、当地とも深いゆかりがあります。
 この胴体は、先の購入者が入手して以来、手を加えられずに現在に至っていることが分かっており、戦前の使用当時の状態を保っているわが国の代表的な航空遺産となります。また、長期間屋内に保管されていたため材質の劣化もあまり進行せず保存状態も良好です。一部腐食している箇所もありますが、展示場所の温湿度環境を常に記録監視すると共に、錆の状態についても定期的に状態を確認し、他の箇所についても板厚を計測するなどして、貴重な航空遺産を将来に遺すための処置を実施しています。

当時の状態をそのままに
 一見すると胴体の塗色も一部剥離し、木製羽布張りの垂直尾翼が破損するなど、なぜきれいに直さないのだろうと疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、あえて美しく直すことはせずに現状を維持したまま展示しています。なぜなら、当時塗られた塗色や書き込まれた製造番号を始め、この機体を制作し使用した人々が関った多くの痕跡がそのまま遺っているからです。技術資料としてだけでなく当時の人々の生きた証を未来に継承する貴重な文化財として、そのままの姿で展示しています。
 1930年代初期の航空機は海外でもオリジナルの状態で残っている例は少なく、特に日本では、戦前の航空機で当時の状態を良く保ったまま保存展示されている例は他にはほとんどありません。

九一式戦闘機とは
 九一式戦闘機は、中島飛行機が設計し1931(昭和6)年に旧日本陸軍に正式採用された最大速力が300km/hを超えるなど日本が欧米先進国の水準に近づいた初の国産戦闘機です。
 わが国の航空技術は、明治後期に諸外国の航空機の模倣から始まり、外国機をライセンス生産しながら生産のノウハウを学ぶと共に生産設備を整え、その後外国から招いた技師の指導のもとで設計・開発を進めることで、自立化を進めました。九一式戦闘機もフランスから招いた技師の指導のもとに設計が始められ、日本人技術者は、原型の設計だけでなく、その後の改良などを通じて、後に純国産機を生む基礎となる設計開発の主砲の多くを学びました。そのような経験を基にして、日本の航空機産業は一式戦闘機「隼」や「零戦」などの世界的水準の戦闘機を世に送り出し、航空に関する一切が禁止されていた戦後は蓄えた技術を自動車や鉄道を始めとする産業全般に広く普及させて、今日の繁栄の基礎を作りました。九一式戦闘機は、日本航空技術が海外の追従殻自立に移る転換期の設計・生産技術の状況を象徴してます。

九一式戦闘機の技術的特徴
 九一式戦闘機は、胴体はアルミニウム合金の金属製応力外皮構造、主翼は高張力鋼薄板の骨格に木製部品、羽布張りという木金混製羽布張り構造で、空力形態はパラソル型の高翼単葉です。
 航空機の構造と形態は、ライト兄弟の「フライヤー」号以来の木製骨格羽布張り構造・複葉形態から、1930年代後半に主流となり現在のジャンボジェット機にまで続くアルミニウム合金を使用した金属製応力外皮構造・低翼単葉形態に進化を遂げてきましたが、本機はその過渡期に試みられた構造・形態のひとつです。
 九一式戦闘機には一型と二型があり、展示機は二型です。一型は300機以上生産される一方で、2型は20機程度の生産に留まったといわれています。一型から二型への主な変更点は、エンジンを外国で設計、日本でライセンス生産したものから、中島飛行機が設計生産を行った国産のエンジンに換装したことです。

反射性の強いガラスのため、撮影は難儀。

垂直尾翼部分やエンジン取付部分などの様子がわかる。

91式戦闘機の脚部

九一式戦闘機模型

陸軍九一式戦闘機
1927(昭和2)年、陸軍は日本の航空機会社に対し国産戦闘機の開発を命じ、中島、三菱、川崎の3社が試作機を制作、翌年6月、所沢飛行場で審査が行われた。結果はいずれの機も不合格に終わったが、中島飛行機のNCパラソル型単葉機は、陸軍の指示によって引き続き研究改良が続けられ、1931(昭和6)年、“陸軍九一式戦闘機”として正式採用された。初めての国産制式戦闘機であるにも関わらず評価が高く、飛行第3連隊の進藤中尉による高度9,000mへの上昇、飛行第5連隊の立川~八丈島長距離洋上往復飛行、所沢飛行学校による日本一周飛行などの好成績を残し、1936(昭和11)年の陸軍大空中分列式には、指揮官の徳川好敏大佐みずから“九一戦”を操縦して先頭に立地、偵察機や爆撃機など一五〇機の大編隊を誘導した。昭和9年に九五式戦闘機が採用されるまで合計四五〇機が生産された。

その他

所沢航空発祥記念館内で旧軍に関係あるものを。

爆撃標準座席(九七式重爆撃機)

左から
一式戦闘機「隼」の主輪
九八式直協偵察機の尾輪
九一式戦闘機のプロペラ軸部

左から
モ式六型飛行機のプロペラ
乙式一型偵察機のプロペラ
甲式一型練習機のプロペラ

川崎ハ-40
三式戦闘機「飛燕」のエンジン
展示の都合、実際の取り付けとは上下逆に展示。。

所沢航空公園と所沢航空発祥記念館のそのほかに関しては別記事にて。

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑(目黒区)

目黒不動に隣接する五百羅漢寺。
境内には、疎開巡業中に広島で原爆の被害にあった劇団さくら隊(桜隊)の慰霊碑が建立されている。

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑

移動演劇隊さくら隊 原爆殉難碑
徳川夢声

原爆殉難碑
 昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。
 巡業中だった、新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げました。
 この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。
 碑の文字は徳川夢声、台座には亡くなられた9名の名前が刻まれ、碑の裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。
 原爆のみたまに誓ふ人の世に
  浄土をたてむ みそなはしてよ
              白蓮

桜隊(さくら隊)

1942年「苦楽座」結成。主要メンバーは薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足。1944年に「苦楽座」は解散となり国策演劇団体「日本移動演劇連盟」に強制的に組み込まれ旧苦楽座は「桜隊」として改組。

1945年8月6日、「桜隊」疎開先の広島市中心部に近い堀川町の宿舎兼事務所も被爆し全壊焼失。当時、宿舎にいた9名のうち5名は即死であったという。
 ・森下彰子(23歳) 女優
 ・羽原京子(23歳) 女優
 ・島木つや子(22歳) 女優
 ・笠絅子(41歳) 島木つや子の母、衣裳方
 ・小室喜代(30歳) 桜隊事務長槙村浩吉の妻
   槙村浩吉は、たまたま広島から東京に赴いており広島不在だった。

辛くも脱出し避難した4名も次々と亡くなってしまう。
 ・丸山定夫(44歳) 桜隊隊長
   8月16日。避難先の厳島存光寺で死去。
 ・高山象三(21歳) 桜隊舞台監督、薄田研二の息子
   園井恵子とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月20日死去。
 ・園井恵子(32歳) 女優、宝塚歌劇団出身
   高山象三とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月21日死去。
   「宝塚歌劇の殿堂」殿堂入り。
   殿堂入りしたタカラジェンヌでは最年少物故者で唯一の戦災死者となる。
 ・仲みどり(36歳) 女優
   なんとか東京の実家に戻り東京帝国大学付属病院に入院。
   放射線医学の権威・都築正男教授の治療を受けるも8月24日死去。
   医学的に認定された「原子爆弾症認定患者第一号」となる。
   肺と骨髄の一部が今でも東大病院にてホルマリン保存されている。

こうして、広島に滞在していた桜組の9名は原爆によって命を奪われてしまった。

五百羅漢寺の碑には9名の隊員の遺骨も少量ずつ納められている、という。

合掌

台座には被爆し亡くなられた9名の御名前が刻まれている。

裏面には柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれている。


五百羅漢寺


目黒区の五百羅漢寺境内に東京の「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。

広島にもおなじく「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」があるが未訪。
いつか訪れたいです・・・


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長慶寺稲荷社・池雪国民学校奉安殿(大田区)

大田区東雪ヶ谷鎮座。

長慶寺境内・朝日稲荷社
(池雪国民学校奉安殿)

昭和15年築の旧池雪尋常小学校奉安殿(旧池雪国民学校奉安殿)という。
池雪国民学校は現在の池雪小学校。

稲荷社としての由緒由来は不詳。池雪国民学校奉安殿が当時に移築された由来も不詳。昭和21年頃に長慶寺境内に移築されたという。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿の雰囲気を色濃く残す佇まい。

扉は鉄筋コンクリート。内側が一部崩落気味。

都内に残る数少ない奉安殿の名残。


長慶寺

境内社の朝日稲荷社はご本堂の後方に鎮座している。


関連

75年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

靖國神社・午前10時

本年の放鳩式は神社関係者のみでの開催。
一般参列者は観覧のみ。

靖國神社・山口宮司
「英霊ありがとう」の気持ちとともに放鳩

靖國神社・正午

国歌

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

終結ノ詔書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル

然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽

2016年-国立公文書館特別展示「終戦の詔書」原本

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F0000000000000042961.html

靖國神社・参道


千鳥ヶ淵戦没者墓苑


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靖國神社の御神菓
靖國神社の御神酒

清水稲荷神社・鷹番国民学校奉安殿(目黒区)

目黒区に鎮座するお稲荷様は、なんとなく変わった御社殿。

戦前に「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物=鷹番国民学校奉安殿が、戦後にこの清水稲荷神社の御社殿として再活用された、という。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

清水稲荷神社
(旧鷹番国民学校奉安殿)

清水稲荷神社
 目黒本町1-1

 この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったと言われ、その付近に真夏の旱天でも清水が湧き出していました。この湧き水外なりの社名の源となったと思われます。
 大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主のさんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲を志摩市yた。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
 その後、昭和27年(1952)に篠原福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。
 この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒が振る舞われ、盛んな祭りが行なわれます。
 平成5年3月
 目黒区教育委員会

鉄筋の分厚い扉。
壁面も赤く塗られているが、基はコンクリート。
奉安殿の特徴を感じることが出来る。

社殿の欄干や階段部分もすべて奉安殿時代からの流用という。

鳥居は大正13年建立。関東大震災の翌年。御由緒にある土地分譲の再開発時期と合致。


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B29と平和観音(東村山・秋津)

JR武蔵野線・新秋津駅と西武池袋線・秋津駅が交わる地。
この場所にかつて、米軍B-29爆撃機が墜落し、土地の地主が私財を投じて慰霊の観音様を建立した。

B29(B29機体番号#44-69752、所属:第73爆撃団第21爆撃隊第498爆撃群第873爆撃隊)は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するために向かっている途中であった。

平和観音(秋津)

東村山市秋津町1-4鎮座

平和観音発願由来
東村山々会議員として在職中、偶々極度の苦難に遭遇せし時、計らずも同村西宿在徳蔵寺住職より菩薩の御教を聞き深く発信する処あり。以来ここに日常坐臥観音自在菩薩を守護神として、身に帯し今日迄何等事無きを得、戦時中偶々此地に於て貴き幾多の人命を損す。茲に人類の永久平和を発願し、在天の英霊を慰め 慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。散華の英霊願くば我が意を汲み、安らかに眠り給へ。
 昭和三十五年七月二日  小俣権次郎

平和観音に思う
 1945年(昭和20年)第二次世界大戦の末期、日本の敗色が濃厚となりし同年の4月2日午前3時15分東村山町秋津地区一帯の住民は突然起こった百雷一時に落つるが如き轟音に驚愕した。
 それは米国空軍B-29爆撃機(約50機)による首都東京近郊空襲中の出来事であった。耳朶を震わした轟音の真相は米国空軍B-29爆撃機一機が日本軍対空砲火により被弾自爆せしものであった。悪夢の夜が明けると我が家前は直径40米、深さ20米に及ばんとする大穴が掘られていた。それがB-29爆撃機自爆の痕跡であり機体の破片は数百米に散乱し凄絶鬼気迫るものがあった。
 1945年8月15日、大戦は米国等連合国勝利のうちに終局を見た。その後父権次郎は我が家の庭前に散った米国空軍勇者の慰霊に心を痛め続ける毎日であった。
 そして熱心な観音菩薩信者であった権次郎は11名の勇者の慰霊と世界平和の為に平和観音像の建立っを発願した。

 その銘に曰く
人類の恒久平和を祈願し在天の英霊を慰め慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。
散華の英霊願わくば我が意を汲み安らかに眠り給え。
 1960年(昭和35年)7月2日 小俣権次郎

 観音の慈悲に生きた人 父権次郎は不幸にも1960年(昭和35年)7月13日幽明界を異にする人となった。然しその意志は固く受け継がれ同年11月27日、在日空軍司令官、東村山市長、市当局の協力を得て平和観音の開眼法要が曹洞宗安松山長源寺住職、松永全隆導師により盛大且厳粛裡に執り行われた。
 時は流れ、平和観音像は小俣家庭前に変わらぬ永遠の微笑みを浮かべ立つ。
 それはこの地に散った11名の勇者を慈悲の衣で優しく包んだほほえみである。 合掌

平和観音像建立賛同者
(個人名略)

B-29 乗組員リスト
ミズーリ州セントルイス、兵士記録部室によると当該B-29機体番号44-69752は第21爆撃隊第498爆撃大隊内873爆撃中隊に所属し、乗組員は次の通りです。
(個人名略)

以下略
右部英文略

秋津の平和観音が建立されているこの場所は、小俣家の庭先だった。
小俣家が私財を投じてB29乗組員の冥福を祈った観音様は、慈悲の微笑みで犠牲者の冥福を祈っている。


東村山ふるさと歴史館

東村山ふるさと歴史館には、秋津に墜落したB29の残骸一部が保存されている。

B29の墜落と南秋津の平和観音
 昭和20年(1945)4月2日の夜間空襲の際、B29が高射砲により撃墜され、南秋津の茶畑に墜落した。付近の空襲被害と墜落の巻き添えにより、被害民家23戸、消失家屋1戸、死者3名、B29搭乗員11名は全員死亡した。米軍の遺体は花見堂墓地周囲の小高いところに埋葬され、終戦直後に「無名戦士の墓」と題した墓標が建てられた。遺体・遺品は返還された。墜落地点の畑の地主である小俣権次郎氏は亡くなった米兵と平和を祈念するために「平和観音」の建立を発願した。昭和35年12月に、ジョンソン基地司令官等大勢の来賓を迎えて開眼法要が行なわれた。

秋津の墜落したB29の機体部品
昭和20年(1945)4月2日に墜落したB29の機体部品、モーター部分と考えられる。

秋津町に墜落したB29の爆弾破片・薬きょう・機体部品(ジュラルミン製)

B29の爆弾破片

薬莢

乗組員指名


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傷痍軍人東京療養所・外気舎(清瀬)

東京都清瀬市
現:独立行政法人国立病院機構東京病院・外気舎記念館


結核治療のメッカとなった清瀬。いまでも多くの病院が集まる病院街。
そんな清瀬の森に戦前からの結核治療を物語る歴史が残されていた。

現在の「独立行政法人 国立病院機構 東京病院」は、戦前は「傷痍軍人東京療養所」として、軍人結核治療の中心地であった。

特効薬がなかった時代でもあり、ここでは自然療法での治療が行われ、そしておそらく多くの結核患者がなくなったであろう場所であった。
合掌。

傷痍軍人東京療養所・外気舎
外気舎記念館

外気舎記念館
傷痍軍人東京療養所は昭和14年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな武蔵自然林内に別図のごとく診察室及及び食堂を中心として外気舎72棟が扇形に建設されました。そこでは一棟に二人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は72棟の外気舎も満員で130名から140名ほど入舎しておりましたが、昭和41年4月に作業患者が18病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。
 国立療養所 東京病院

市指定有形文化財
外気舎記念館
 所在地 清瀬市竹丘3丁目
     (独立行政法人国立病院機構東京病院内)
 指定日 平成26年月14日

 清瀬における結核治療の歴史は、昭和6年(1931)に「東京府立清瀬病院」が開院したことに始まります。昭和8年(1933)には「べトレヘムの園病院」、昭和14年(1939)には「傷痍軍人東京療養所」が開所し、以後続々と病院がつくられ、今の病院街が形作られていきました。
 当時、結核は不治の病として恐れられ、死亡原因の上位に位置しました。抗結核薬であるストレプトマイシンの発見以前は、きれいな空気の中で、栄養を取りながら安静に療養生活を送ることが治療の方法だったのです。
 ここに残る「外気舎記念缶館」は、傷痍軍人東京療養所の付帯施設として、回復期にある患者を二人一組にして大気療法や軽作業を行い体力の回復を図るために使用した病棟(外気舎)です。こうした病棟は72棟が建てられましたが、現存するのはこの「外気舎記念館」のみになります。室内は狭く、木製のベットが2台置かれており、大きな窓が作られています。療養の為空気の循環を良くするために、この窓は冬の夜でも開け放たれていたと伝えられています。
 国民疾患であった結核の治療の歴史を今に伝える施設として大切なものです。
  平成28年月31日
   清瀬市教育委員会

とても小さく素朴な病棟

前後には、上下に開く扉が備え付けられている。半蔀(はじとみ)

内部には2つの簡易的なベットと小さな洗面台。
左右と前後の扉。すべてを開け放てば極めて開放的な空間。
まさに文字通りの「外気舎」。外の空気を取り入れることに特化した病棟。

軒先には鐘が吊り下げられていた。
非常時に打ち鳴らすのだろうか・・・。

清瀬の森の中に残された結核治療病棟「外気舎」

再起奉公
 東京府知事 岡田周造 

昭和15年5月
恩賜財団 軍人援護會東京府支部寄贈
慰安施設
1.釣堀池
2.休憩舎
3.温室
4.大弓場
5.テニスコート
6.バレーボールコート
7.果樹園
8.広場
9.庭園
10.野外卓
11.腰掛
12.其他

この紀念碑は昭和62年11月まで社会事業大学敷地(旧東京病院敷地)に残されていたがこのたび当院敷地内に移設したものである。
第二次大戦中当院に入院していた傷痍軍人が「再起奉公」を願い又国民がこれを支えた碑があります。この碑が所在していたあたりには右側にある外気舎72灯に140名ほど入舎していたと云う。
 昭和62年11月吉日
  国立療養所東京病院
 (当表札は平成14年10月吉日に復元)

桜の園
 この地は東京病院の前身である傷痍軍人療養所に隣接して当時は松の大木等が生い茂り昔の武蔵のそのままの状態であったのですが昭和17年に当療養所で1万坪を購入し農場と運動場とを作りました。運動場の回りには桜(桜園の回りに特に大きい桜)を植え、グランドには庭球コートを設け患者職員の運動会を催したものであります。戦争が激しくなるにしたがって職員の食糧自給の必要が生じ運動場を職員各自に地割をして畑にし食糧増産の場となりました。終戦後食料も次第に入手できる様になると畑を作る人もなくなったので、昭和31年埼玉県安行から桜の木(ソメイヨシノ)を購入し、樹高約4m、幹の太さ直径5-6cmの木を患者の作業療法として植付けたものです。桜爛漫の春となると患者のための憩いの場となっております。
 国立療養所東京病院

ここに寿康館ありき
ここに寿康館があった。
傷痍軍人東京療養所が昭和14年に開設された際、恩師財団軍人援護会からの寄贈にかかる。傷痍軍人療養所時代には国家的祝日がここで祝はれたし「精神講話」も行はれたし、はなやかな慰問演芸が拍手をもつて迎へられた。患者と職員が直立して終戦の放送を聞いたのもここであったが、終戦後は患者会、職員組合の熱っぽい集会にも利用された。患者の文化祭も行はれ、劇「父帰る」出演者のうち少なからぬ人達が再悪化をしたと云ふ記録も残っている。日本間には全国国立療養所の組合の本部がたむろしたこともあったが、ここで歌会や句会が行はれたから多くの風流人の思い出の場所でもある。ところが終戦以来殆ど手入がなされないまま放置されたため屋根は傾き屋台骨は腐り果て、風、火、地震の危険にさらされるに至ったので昭和53年春ついに取りはらわれ残された礎石がわづかに昔を語っている。こうして国立結核療養所の歴史の1こまが終わったのである。
 昭和53年8月
  国立療養所東京病院長
  砂原茂一

独立行政法人国立病院機構東京病院

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M68-A-6-2-151
1946年02月09日-米軍撮影

上記を一部加工

現在の様子


関連

ランドセル地蔵(八王子)

相即寺・延命閣地蔵堂(東京都八王子市泉町)

西八王子駅よりバスに揺られて約15分ほどで「花川バス停」に到着。すぐ隣の寺院が目的地の「相即寺」

相即寺には、戦争ゆかりのお地蔵様、通称「ランドセル地蔵」というお地蔵様が鎮座しているというので足を運んでみた。


ランドセル地蔵

昭和20年6月、米軍による空襲が激化した都市部では、子どもたちの強制疎開がはじまっていた。
なかでも、八王子は、東京都心部からの手近な疎開先として約1200名の子どもたちが疎開をしてきたという。

品川区立原国民学校(旧品川区立原小学校・現在品川区立小中一貫校伊藤学園)4年生であった神尾明治くんも、八王子に疎開していた。
八王子に疎開中の子供たちに対し、昭和20年7月8日に飛来した米軍戦闘機P51は機銃掃射を実施。
神尾明治くんの体を、機銃弾は貫き、そして「痛いよー」と悲痛な叫びを残して、神尾明治くんは絶命した。

悲報を聞いた母親は、形見となってしまった遺品のランドセルを、我が子の面影に一番良く似た堂内のお地蔵様に背負わせたという。
そのお地蔵様が「ランドセル地蔵」として、そうしていまも往時のランドセルを背負われ、悲劇を伝承し続けている。

ランドセル地蔵の鎮座する「相即寺延命閣地蔵堂」は、毎年、6月23日・7月8日・8月8日の3日間のみ御開帳。

合掌

八王子城戦死者供養150体地蔵・ランドセル地蔵尊
相即寺延命閣地蔵堂

相即寺延命閣地蔵堂
御本尊-延命地蔵尊
建立年月日-明和8年12月8日

堂内百五十体地蔵尊
天正18年6月23日、八王子城落城の時、283人の相即寺縁の戦死者供養の為、造立されたもの。

ランドセル地蔵尊
昭和20年7月8日、東京品川の原国民学校四年生神尾明治君が、疎開先の元八王子隣保館保育園で米軍飛行機P51の銃弾を受けて死亡し明治君のお母様が、明治君が使用していたランドセルを、明治君に一番似ている堂内一地蔵にかけて東京に帰り、お母様も昭和21年2月28日死亡した。
児童文学作家古世古先生が「家出ねこのナゾ」を書かれて後、初めて真相が判明した。

ご開帳の月日
毎年6月23日。7月8日。8月8日。
午前8時より午後6時まで。

神尾明治くんのランドセル


相即寺延命閣地蔵堂

「ランドセルをしょったじぞうさん」
古世古和子/作北島新平/絵

 ケンジは、肩ひものちぎれたランドセルの修理をお母さんにたのんだまま、とつぜん疎開先のお寺をおそった空襲で死んでしまった。お母さんはわが子に似たじぞうさんにランドセルを背負わせます。じぞうさんは、現在もじっとたっています。

新日本出版社
https://www.shinnihon-net.co.jp/child/detail/code/978-4-406-00691-0

相即寺延命閣地蔵堂・延命地蔵尊

八王子城での戦死者供養の地蔵尊


相即寺山門

山門の扉には機銃掃射の銃弾痕が残っている。


相即寺

浄土宗寺院。八王子城の鬼門除けの寺。

同じ日。昭和20年7月8日に、高尾駅も機銃掃射を受けていた。。。


位置関係

国土地理院航空写真:94C7-C14-211
1944年12月21日-帝国陸軍撮影

上記を一部加工。


関連

東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)

八王子市長房町地区。
多摩御陵の東側にかつて陸軍の学校があった。

「東京陸軍幼年学校」
学校の近くにある「東照寺」には、当時を偲ぶものがあるというので、脚を運んでみた。


東京陸軍幼年学校

陸軍のエリート養成学校。
前身は明治29年(1896)に設置された「東京陸軍地方幼年学校」。
東京陸軍地方幼年学校では13歳から16歳までの少年が入学し3年間の教育を受け卒業後は「中央幼年学校」に進学しさらに2年間の教育を受け士官候補生となった。

東京陸軍幼年学校
大正9年(1920)に陸軍幼年学校令が制定され、陸軍中央幼年学校本科を「陸軍士官学校予科」に、陸軍中央幼年学校予科を「東京陸軍幼年学校」に改称。
入校年齢は13歳から15歳までで3年間の教育を受けた。昭和12年以降の卒業生は「陸軍予科士官学校」に無試験で進学できた。
昭和19年に早稲田戸山から八王子長房町の「建武台」に移転。終戦に伴い廃止解散。
終戦時には第47期(180名)・第48期(333名)・第49期(362名)の生徒が在学していた。


位置関係

国土地理院航空写真:USA-R556-No1-174より。
1947年11月14日-米軍撮影。

一部加工。
終戦後の写真のため、東京陸軍幼年学校は空襲焼失後。

昭和20年8月2日の八王子空襲によって、東京陸軍幼年学校や多摩御陵前駅が空襲により消失している。

八王子空襲前の航空写真も掲載。
東京陸軍幼年学校の校舎の様子などがわかる。

国土地理院航空写真:94C7-C15-248を一部加工。
昭和19年(1944)12月21日-帝国陸軍撮影。


東幼観音

八王子市長房町に鎮座している「東照寺」。
東照寺の墓地の一角に「東幼観音」が鎮座していた。

東照寺の東側に、現在は長房団地が造成されているが、当時は「東京陸軍幼年学校(東幼校)」が展開されていた。

白玉の東幼観音
八王子空襲で散華した東京陸軍幼年学校の職員3名と生徒7名の計10名を慰霊する。

東幼観音

 この東照寺の東の台地にはかつて東京陸軍幼年学校があったが、昭和二十年八月二日の米軍空襲により大量三万発もの焼夷弾攻撃を受けて全焼した。同校は陸軍の禎榦となるべき将校を養成するために明治三十年東京市谷台に開校、戸山台時代を経て昭和十九年春八王子市西郊に移転していた。
 当時の在校生徒は約八百七十名で、消火に挺身して勇敢に任務を遂行、散華した職員と生徒が芳名碑の方々である。春秋に富み、大きな可能性を秘めた十名であった。この痛恨事を伝え、歳若くして戦死した御霊を末永く供養するため、当寺と地元関係者の御理解を得て、白玉の東幼観音を東方に向けて建立し、謹んで慰霊の誠を捧げる。
 昭和六十二年八月二日
 東京陸軍幼年学校旧職員生徒有志建立委員会
  松本筑放峯書


建武台之碑

東京陸軍幼年学校は市ヶ谷台から戸山台を経て昭和19年に当地「建武台」へと移動してきた。
昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により「建武台」と命名。
この碑はもともとは横山橋の南に建立されていたが、橋と道路の拡張に伴い東照寺に移転されてきたという。
この碑の台座には、東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と
「校門標札」が埋められているという。

碑文
 この碑の北方約五百メートルの台地に、かつて東京陸軍幼年學校があった。昭和二十年八月二日未明の空襲で職員生徒十名が戦死、校舎は全焼。八月十五日の戦争終結により、五十年の校史を閉じた。
 本校は日清戰争後日本陸軍の中核となる將校を養成するため、明治三十年に東京市牛込区本村町の市ヶ谷台に誕生。大正十年からの戸山台時代を経て、昭和十九年春、南多摩横山村のこの地に移った。約十万坪のこの台上に學んだ生徒は、第四十六期から第四十九期生まで千二十三名。四十六期生卒業式の昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により、建武台と命名された。
 多摩丘陵から健児の雄叫が絶えて三十有六年。國敗れて山河ありとはいいながら、台上は全く変貌した。ここに戰死者の靈を悼み、我々の足跡をとどめるため、柴田孝夫教官のご好意によって碑を建てるものである。
 昭和五十六年八月二日
 東京陸軍幼年学校職員生徒有志
 題字は石橋犀水教官筆

 建武台之碑はかつて長房団地入口の南浅川に架かっている横山橋(御楯橋)の南側に建立されていた。
 その後、道路と橋の拡幅に際し移転の必要が生じたため、東幼校の西側に所在している長房山 東照寺にお願いしたところ、ご好意を頂き此処に移築された。
 この移築により碑文中の「この碑の北方」は「この碑の東方」ということになる。
 東方の大地とは眼下に広がる長房団地一帯のことである。
 なお、この碑の台座に東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と「校門標札」が納められている。
  平成十六年四月 
  東京陸軍幼年学校職員生徒有志


放鯉記念碑

東京陸軍幼年学校は当地(八王子)に移転する前は戸山台にあった。その戸山台時代の石碑も縁あって当地に移転。

放鯉記
夫レ鯉ハ三十六鱗ヲ有シ龍門ノ水ヲ遡リテ龍ニ化スト云フ
今ヤ母校ヲ去ルニ臨ミ胥謀リテ曰ク我等カ三十六期ニ因ミ彼ノ溌剌タル姿ニ青雲ノ意氣ヲ留メハヤト乃チ鯉魚
三十六尾ヲ日夕我等カ親シメル此ノ琵琶湖ニ放ツ
此ノ學ニ遊フ者樹影ヲ碎キテ游躍シ波紋ヲ眙シテ跳盪スル健鯉ニ我等カ越え聲氣ヲ偲ヘカシ
 昭和十年春三月

放鯉記念碑   
 放鯉記念碑は都内新宿区戸山町にかつて所在した東京陸軍幼年学校を昭和10年3月に卆業した第36期生(陸軍士官学校第51期生)が東幼を卆業するに当り、校庭内の池塘(琵琶湖)に記念として36匹の鯉を放魚
したことを記念した碑である。
 戦後戸山町の東幼校旧地は都営住宅用地となった。琵琶湖はそのまま公園とされたが碑は旧軍の施設ということで撤去を求められたため、此処長房山東照寺のご好意によって移築したものである。
 平成16年4月
 東京陸軍幼年学校第36期生

実は東照寺を訪問した際、東幼観音がどこに有るか分からず墓苑をぐるぐると回ってしまった。性質上、区画から隔離されているかと思ったためでしたが、結果としては普通に墓苑に馴染むように鎮座しておりました。
東幼観音の扉は幸いにして施錠されていなかったため、開扉してご尊顔を仰ぐことができました。拝し終えた後は、もとのように閉扉を。

長房山東照寺(曹洞宗)


十二社神社

東京陸軍幼年学校のあった長房町より南の地に。
八王子市東浅川町の三田公園に鎮座している「十二社神社」という神社が鎮座している。

八王子空襲により東浅川町の十二社神社は全焼、同じ空襲で東京陸軍幼年学校も焼失するも奇跡的に焼失を免れた「東京陸軍幼年学校の神社=雄健神社」の社殿を戦後に奉遷鎮座させて奥殿とした。幼年学校の建造物として唯一のもの。
この奥殿を直接拝むことができるのは5月3日の十二社祭礼「十二社御燈明祭」のときに限られるという。

次回は祭礼の際に「東京陸軍幼年学校時代からの御本殿」を拝みたいものです。

関連

市ヶ谷台

戸山台

振武台

南浅川橋と東浅川駅跡

ドーリットル空襲と東京初空襲の地(荒川区)

都電荒川線「熊野前停留場」、日暮里舎人ライナー「熊野前駅」より北側、隅田川の方に向かって5分ほど歩く。
熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っていた。


ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

尾久初空襲(尾久本土初空襲)

ドーリットル隊長自らが機長となった1番機は、米空母ホーネットを8時15分に発艦。「十条の東京第一陸軍造兵廠」をターゲットとしたが、目標を外れてしまい早稲田に焼夷弾を4発投下、早稲田中学の学生が直撃弾で死亡している。

2番機のフーバー機は8時20分に発艦。途中で1番機を追い抜き「赤羽の陸軍造兵廠兵器庫」を目指していたが、目標が確認できず、目についた施設「尾久の旭電化工業尾久工場」を爆撃。爆弾は工場をそれて周辺に落下。

大日本帝国「帝都・東京」への最初の投下となった爆撃は、荒川区尾久町であったため「尾久初空襲」とも呼称。尾久での死者は10名、重軽傷者48名、全半焼38棟といわれている。

なお、3番機は王子や川口を爆撃するとともに、葛飾の水元国民学校に対し機銃掃射なども行っている。


東京初空襲の地

真珠湾から4ヶ月後。
勢いを失わない日本軍に対するアメリカ軍が決行した起死回生の一手「ドーリットル空襲」。
ドーリットル爆撃隊による大日本帝国「帝都・東京」に対する最初の爆弾投下が、ここ荒川区東尾久の地となり、この場所が「東京初空襲の地」「日本本土初空襲の地」となった。

東京初空襲の地
 昭和17年4月18日正午過ぎ、日本の本土が初めてアメリカ軍による空襲を受けた。昭和16年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃から約4ヶ月後のことである。中でも、最初に被害があったのが、この付近の尾久町八、九丁目で、12時20分頃、ドーリットル隊(ドーリットル空襲)の2番機が爆弾3個と焼夷弾1個を投下した。
 『荒川区史』所収の警視庁警備係の調査によれば、尾久では、死亡10人、重傷34人、軽傷14人、全焼43戸、全壊9戸、半焼1戸、半壊13戸の被害があったという。落下地点では、直径10メートル、深さ5メートルもの穴があき、家屋が倒壊し、上下水道やガス管も破壊された。また、焼夷弾による火災で全焼した家屋もあった。当時、干潮時で、消火に隅田川の水を利用することはできなかったが、地域の人々の尽力により、13時50分に鎮火した。
 この空襲を契機に翌5月には、熊野土地区画整理組合が設立され、電化通りから北側の現尾久橋通りが整備された。
 荒川区教育委員会

爆弾の着弾地点は3箇所。
荒川区東尾久8丁目の熊野前保育園の近くに2箇所、着弾。
荒川区東尾久7丁目のADEKA前に着弾。

着弾地点は、いまは静かな住宅街。


ドーリットル爆撃隊3番機が爆撃目標としたという旭電化工業尾久工場(ADEKA)の方に向かって歩くと、高架の向こうに既視感のある光景が。

これは、、、

付記:TRICK(トリック)の池田荘

ドラマ「TRICK(トリック)」で山田奈緒子が住んでいた「池田荘」。
(実際には「あおい荘」という)


山田奈緒子の池田荘の先に、一際に大きなビルが見える。

旭電化尾久工場跡

かつてこの地には「旭電化工業株式会社尾久工場」があっった。
旭電化工業(ADEKA)は、古河財閥・古河グループの流れを組む企業。大正4年(1915)に、日本のソーダ工業の創業・電解ソーダ法によるソーダ製品製造を目指して創業された「東京電化工業所」に端を発する。化学品・日本の電解ソーダメーカーとしての先駆者であった。

大正7年(1918)に旭電化尾久工場が竣工。
以来、当地は一大化学工場であった。
昭和40年(1965)に工場転出が決定し、昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収。

株式会社ADEKA

旭電化工業株式会社は、平成18年に「株式会社ADEKA」に社名変更。工場転出後に敷地を縮小して当地には本社機能と研究機関が残っているのみ。

都立尾久の原公園

旭電化工業尾久工場跡地を東京都が買収。
買収地の西側には「東京都立大学荒川キャンパス」「東尾久運動場」「東尾久浄化センター」となり、東側が「都立尾久の原公園」

都立尾久の原公園は平成5年(1993)開園。

なお、東尾久浄化センター敷地内の土壌でダイオキシン類及び重金属等の濃度が環境基準値を超過という発表もあったり。(化学工場跡地ゆえの因果関係は・・・

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a024/kankyou/kougai/5_30.html

尾久の原公園の水辺の案内
尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。(以下略

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M379-No2-26
1947年07月24日-米軍撮影

上記の航空写真を一部加工
赤星が「ドーリットル爆撃隊2番機」が投下した爆弾着弾地点。


以上、「東京初空襲の地」であり「日本本土初空襲の地」でもある場所の散策でした。


関連

ドーリットル空襲をきっかけに帝都防空の飛行場として突貫工事が行われたのが、「成増飛行場」

昭和17年4月のドーリットル隊B-25爆撃機による東京初空襲から2年半後となる昭和19年11月のB-29による東京初空襲の目的地は「中島飛行機武蔵製作所」でした。

そして昭和20年3月

東京大空襲・慰霊

閘門橋(弐郷半領猿又閘門)

閘門橋というレンガ造りのアーチ橋があるときいて、ちょっと脚を伸ばしてみました。
訪れてみたら、予想以上に素晴らしい橋で、これはちょっと興奮物。


閘門橋

葛飾区登録文化財

1909(明治42)年に完成した閘門橋は、上流と下流の水量を調整して、洪水を防ぐための当時最先端の水門であった。
都内に現存する貴重なレンガ造りのアーチ橋。
レンガは金町でつくられたものを使っている。

閘門橋(明治42年完成)
 閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。
 橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
 江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
 現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
 その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
 この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
 閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
  平成2年3月
  東京都

弐郷半領(にごうはん)とは、現在の埼玉県吉川市、三郷市付近のことをいう。橋は東京都ではあるが、建設したのは「弐郷半領用悪水路普通水利組合」。これは埼玉県の水利組合。用悪水路とは用水路と排水路という意味。

土木学会選奨土木遺産
閘門橋 (旧二郷半領猿又閘門)

名称
 閘門橋
所在地
 東京都葛飾区
竣工年
 1909(明治42)年
選奨年
 2013年 平成25年度
選奨理由
 閘門橋は、明治時代に建造された都内に現存する数少ないレンガアーチ橋であり、上流側と下流側でアーチの門数が異なる非常に珍しい構造の橋梁だけでなく、樋門としても貴重な土木遺産であります。

土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/765

南側の葛飾側より。

「こうもんばし」

「閘門橋」

閘門橋と並走するのは「葛三橋」(かつみばし)
道路は「岩槻街道」。(「日光御成道」の別名。)
大場川にかかる。

シンボルマークは何をあらわしているのだろうか。

モニュメント。

閘門橋の下流側の橋脚部堰柱には「ブロンズ像」が二体設置されてる。
荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿を表現。
なお、ブロンズ像は後世に追加されたもの。

こちらは閘門橋の上流部分。
下流側と比べると静かな水面。

バルコニー(張り出し)部分は後年の増築という。

銘板には「明治42年4月竣工」と記載あり。

北側から。(三郷側)

これは一見の価値あり、です!

場所

こちらとセットで散策でした。

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

旧岩淵水門(赤水門)

大正13年(1924)竣工の水門。現在は近代化産業遺産として保存されている。

位置関係

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:USA-M380-30
1947年07月24日-米軍撮影

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT794-C4A-27
1979年11月14日-国土地理院撮影

青水門の建設途中。青水門は1982年(昭和57年)竣工。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT843-C4-28
1984年10月22日-国土地理院撮影

青水門の運用開始後。昭和59年。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT921-C1-33
1992年11月02日-国土地理院撮影

赤水門のところが島に。

GoogleMAPを一部加工。
現在の様子。

かつて荒川放水路と呼ばれた人工河川が「荒川」に。
かつての荒川が「隅田川」に。
岩淵水門は、荒川と新河岸川・隅田川の分岐点に当たる。

旧岩淵水門(赤水門)

東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門

 所在地 東京都北区市も5丁目地先
 設計者 青山 士
 建設年 大正13年(1924)

 旧岩淵水門は明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。
 水門はローラーゲート構造で、幅約9mの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103mの大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同13(1924)に竣工した。
 昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
 その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300m下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

 東京都

旧岩淵水門

旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口まで約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分れる地点に、大正5年から13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に作られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、地域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩渕水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。

 国土交通省荒川下流河川事務所

岩渕水門改造工事
 竣工 昭和35年3月
 施工 大同機工株式会社

表記が「岩渕」になっていますね。


草刈の碑

赤水門の先の島に、大きな石碑が建立されていた。
全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑。

草刈の碑
農民魂は 先ず草刈から

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰


赤水門の脇に。

攝政宮殿下御野立之跡

大正13年10月25日に荒川放水路通水後の様子を、 
攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。

攝政宮殿下御野立之跡
大正13年10月25日


青水門

旧岩淵水門に代わり、新しく建設された水門。洪水時には扉を閉め、荒川から隅田川への水の流入を防ぐ。これより下流が隅田川となる。
昭和57年(1982)完成。


荒川放水路完成記念碑

荒川知水資料館の前に。

此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 
神武天皇紀元二千五百八十年 
荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ

荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修工事事務所主任技師(現 工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。

銘板に咲く桜草(サクラソウ)模様。

日本の近代化とともに、荒川を抑え込み首都圏の防水をつかさどってきた「岩淵水門」でした。

「陸軍兵器補給廠跡・稲付射場跡」北区西が丘の戦跡散策

赤羽と十条の界隈。
当時の北区は軍事施設の集中地帯であった。

今回は十条の北西側に位置する「北区西が丘エリア」の戦跡散策。
「陸軍兵器補給廠跡」と「稲付射場跡」がこのエリアにはあった。

稲付射場跡

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M470-10
1947年09月16日-米軍撮影

加工

拡大

現在の様子。オレンジ色が今回の散策ポイント。

十条駅

十条駅から散策をスタート。
上条駅から南に赴けば、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」関連の戦跡が多数ではあるが、今回は南ではなく北西に。

赤羽火薬庫道

真っ直ぐな道は「陸軍火薬製造所」(のちの陸軍兵器廠東京第二陸軍造兵廠)と「赤羽火薬庫」を結んでいた道。

陸軍境界石(東京第二陸軍造兵廠)

「帝京大学板橋キャンパス」の通りに「陸軍境界石」が横たわっていた。
南は「東京家政大学」、かつては「東京第二陸軍造兵廠」があった。

戦跡密度豊富な南の記録はまたそのうち。今日は、ここより北上します。

折れて横たわったまま固定された「陸軍境界石」(境界標石)

帝京大学板橋キャンパス

そのまま道なりに歩みを進めていく。
稲荷台の交差点を過ぎ、「稲荷台レジデンス」という建屋の前にも、ありました。

陸軍境界石(陸軍兵器補給廠)

北側には、「陸軍兵器補給廠」がある。
この境界石は道に対して背中を向けて「陸軍」文字が刻まれていた。

陸軍境界石(陸軍境界標石)

出入り口脇の標石。なんとなく落ち着かない。

そのまま姥ヶ橋の交差点をさらに北上。

東京陸軍兵器支廠
(陸軍兵器補給廠)

明治19年に設けられた「東京鎮台武器庫」が前身。
のちに「陸軍省板橋兵器庫」となり、昭和3年に「東京陸軍兵器支廠」と改称。
戦後は米軍の兵器補給廠となり、変換後に西が丘町が成立。
現在は跡地に、味の素フィールド西が丘や味の素ナショナルトレーニングセンター、国立スポーツ科学センター、東洋大学総合スポーツセンター、東京都立赤羽商業高等学校、警視庁第十方面本部、西が丘住宅(公務員宿舎)などが展開されている。

東京陸軍兵器支廠跡
(陸軍兵器補給廠跡)

西が丘住宅(公務員宿舎)の手前にちょっとした空間があった。
陸軍兵器補給廠のレンガ(煉瓦)を再利用した広場。

この場所より北側の西が丘エリアに、当時「陸軍兵器補給廠」があった。北端は、「味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)」にあたる。

陸軍兵器補給廠跡のレンガ広場の東側に「稲付射場」があった。


稲付射場(稲付射撃場)

明治38年に「陸軍火工廠稲付射場」設置。
所属は板橋火薬製造所(陸軍砲兵工廠・東京第二陸軍造兵廠)。
火薬火器の爆破や発射の実験訓練場として活用されていた。
戦後は、梅木小ほかに転換。


稲付射場境界塀

唐突に現れる古めかしいコンクリート壁。
稲付射場の境界塀。ところどころ剥がれかかっていた。

一部が民家の勝手口扉になっていた。

鉄筋が見える。

反対側は個人宅。きれいな真っ白塗装。
こちらからは、この壁が戦前からの境界壁には見えない。

稲付射場境界壁は梅木小学校の方まで伸びている。

梅木小学校が「稲付射場」の中心。

学校の境界壁は、往時の「稲付射場境界壁」そのもの。
小学校なので外からチラ見。


陸軍境界石(稲付射場

「陸軍用地」の標石。左部分が欠けていた。現在は小学校の境界であれ、当時は「稲付射場」の境界。

陸軍兵器補給廠跡と稲付射場跡の散策は以上。

このエリアは、見どころ多し。
北部は赤羽エリア、南部は板橋エリアと十条エリアと、当時は軍事施設の集中地帯。


参考

北区平和マップ

https://www.city.kita.tokyo.jp/somu/bunka/gakushu/bunka/documents/attachment.pdf


関連

赤羽台の戦跡散策

赤羽台の戦跡散策

東京都北区赤羽台

軍都赤羽

赤羽台。
現在の赤羽八幡神社の裏手や星美学園、東京北医療センター界隈には2つの工兵大隊が駐留をしていた。
「第一師団工兵第一大隊」と「近衛工兵大隊」、2つの部隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼んだという。

そんな赤羽台と赤羽工兵隊ゆかりの史跡を探して散策をしてみたいと思う。

赤羽招魂社(赤羽八幡神社境内社)

位置関係

国土交通省国土地理院航空写真 ファイル:893-C1-191
1944年9月27日に陸軍撮影

上記を一部加工。クリックで拡大。


赤羽招魂社
 陸軍第一師団工兵第一大隊営内神社

赤羽駅から線路沿いに北上する。
ちょうど線路がYの字に分岐する狭間に鎮座するのが赤羽八幡神社。
その赤羽八幡神社の境内に鎮座しているのが「赤羽招魂社」。このお社は、陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社の流れをくんでいる工兵隊ゆかりの神社。

「営内神社」は、東京の赤羽神社を嚆矢とする。明治三十一年(1898)、東京赤羽工兵隊第一大隊構内に天照大神、歴代皇霊、天地地砥を祀った社祠を設け、将校以下兵士までに拝礼させることにした。これが軍隊内に神を祀った最初とされ、以後全国に広まったものという。(注65)
 (注65)『工兵第一大(連)隊史』赤羽招魂社奉賛会編刊、一九八四年。

営内神社と地域社会 本康宏史
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1654&file_id=22&file_no=1

社号標
正面 赤羽招魂社
右面 營内神社
左面 工兵第一大隊
裏面 明治三十一年四月鎮座

忠魂
工兵第一大隊は皇軍の創設と共に発祥し、明治廿年桜田門より赤羽台上に転営し後聯隊となり、昭和十一年留守部隊に後を託して北満孫呉に移駐。軈て大東亜戦争に際会して遠く南方に転進し、昭和廿年比島にて玉砕して諸兵悉く国難に殉す。この間凡そ六十年赤羽工兵の声価は広く、人口に膾炙し、特に地元に親愛せらる。即ち幾多の当隊編成部隊と共に累次の戦役、事変に出陣し、各地に勇戦奮斗毎に赫々たる偉勲を樹て燦然たる光彩を発揮し又内地に在りては、関東大震災を始め、数次の災害に出動し、警備援護の任を全うし、克く公衆の信倚に応えたり。この間護国の華と散りし、幾百先輩の英霊を祀る営内神社は明治三十一年以来敬仰団結の核心として鎮座し、終戦と共に八幡神社の神域に奉遷、更に赤羽町戦没英霊を合祀して赤羽招魂社と崇め、毎年桜花四月の交慰霊祭を奉仕して今日に至る。然るに兵営の跡既に変貌して旧記念碑亦散逸して往時を偲ぶ由なきを憂い、茲に生存戦友遺族及び地元有志相図りて本碑を社頭に建立し、以て聯隊の功績と先輩の偉勲を顕彰し、永く之を後世に伝えんとするもの也。
 昭和42年4月29日
 赤羽招魂社奉賛会長 大河原 鉄之助 謹書

戦歿英霊合祀
明治十年戦役    27柱
明治二十七八年戦役 52柱
明治三十七八年戦役 238柱
日独戦争      14柱
支那事変      427柱
大東亜戦争     戦没者英霊
赤羽町出身者    戦没者英霊 
公務殉職者     11柱

戦没者神霊
明治十年西南戦役    27柱
明治二七・八年日清戦争 52柱
明治三七・八年日露戦争 238柱
大正三年日独戦争    1柱
大正七年西伯利亜出兵  13柱
大正・昭和演習殉難者  9柱
満州事変・支那事変   465柱
大東亜戦争       5660柱
赤羽八幡神社氏子    92柱
           計6557柱   

戦後50年奉賛会記念事業として玉垣を造成奉納する
 赤羽招魂社奉賛会
   会長 年代 茂
      役員一同
平成9年4月29日
   関係部隊有志一同

工兵第一大隊動員編成野戦部隊
工兵第一大隊
工兵第一連隊
 (以下略

工兵第一大隊の営内神社であった当社は、戦後に赤羽八幡神社に遷座し、地元赤羽の戦没者も合祀し、赤羽招魂社となった。営内神社の歴史から連なる貴重なお社。戦没者の御霊に深く拝する。


赤羽八幡神社

東京都北区赤羽台に鎮座。旧赤羽村の総鎮守。
延暦3年(784)に、坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱を勧請したことにより創建。

赤羽台の当地の下、正確には赤羽八幡神社社務所の下を東北新幹線が通過している。

赤羽八幡神社の入り口近くに日露戦争の紀念碑が2つ鎮座していた。

日露戦役紀念碑
明治三十七年二月乃十日刀云布日尓天皇乃大詔以上露西亜国止戦乎開幾給比志興里軍人等諸波皇我大命平畏美上海行加波水清久屍山行加婆草生須骸刀御国乃為大君乃御為刀一向尓大和心平振比起之上海外陸尓進美戦比志功波弦久二年尓満多奴尓海陸乃戦波光輝介留終乎曽告介留敵後乃世乃人等乃紀念ホ湿久此郷乃人等乃此御軍尓加波里上忠心平蓋志々大伎功清伎名平萬世末上尓伝辺牟止上哀尓如名平彫刻牟尓南牟

東京帝國大學史科大學講師 佐々木信綱識  弟子朝日重光謹書

 明治39年 赤羽兵事義会々員建立

日露戦役紀念碑
後備陸軍歩兵軍曹沼野佐吉君以明治三十七年六月十四日召集干第一師団司令部命第二兵姑司令部附仝二十日出発東京七月十一日上陸清国盛京省南尖入第四軍戦斗序列爾来或参加千戦斗或従事千兵姑開設十月十日任陸軍歩兵曹長、三十八年十二月十日任陸軍歩兵特務曹長命第四師団第二補助輪卒隊附翌三十九年二月二十六日凱旋第四師団之本営二月三日召集解除為
豫備陸軍砲兵伍長丸峰萬五郎君以明治廿七年二月八日召集干近衛野砲兵聯隊第五中隊二月十一日発東京向戦地二月丗日初鳴緑江九里島之戦而爾来転戦干各處六月一日任陸軍砲兵軍曹七月二十一日苦戦於様子嶺八月廿一日砲撃孟家房之際―戦傷送還千本国既而癒命臨時軍用鉄道監部附復赴清匡廿九年二月廿匹日凱掟於東京召集隼除為

赤羽八幡神社にも拝礼。

高台の神社は鉄道スポットでも有名。

むかし、御朱印と御朱印帳を頂いておりました。
「下元八運」の「8」が、関ジャニ∞ファンにも好評だとか。

御朱印は平成27年ですね。
実はこのころは、ここが陸軍工兵隊ゆかりの神社とは全く知らず、でした。
3年後ぐらいに戦跡としての赤羽八幡神社を知って、そして再訪したというわけです。興味の方向性がどこにあるかで感じることは全く違いますね。

高架線路に挟まれた赤羽八幡神社。


師団坂

赤羽八幡の脇の坂道、赤羽台に登っていく坂を「師団坂」という。文字通り、この坂を登っていくと、坂の上には「近衛師団」と「第一師団」に所属した「二つの師団の工兵大隊」が展開されていた。

師団坂
 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。
 この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。


師団坂通りバス停と星美学園
(陸軍第一師団工兵第一大隊兵営跡)

師団坂を登りきったところに「師団坂通りバス停」があり、そこには「星美学園」がある。
この星美学園の場所に、当時は「陸軍第一師団工兵第一大隊」の兵営があった。

師団坂通り
(共用練兵場跡)

星美学園と東京北医療センターの間の住宅地は、両工兵隊共用で使用していた練兵場であった。突き当りが近衛工兵大隊(現在の東京北医療センター)


東京北医療センター
(近衛工兵大隊兵営跡)

現在の東京北医療センターはかつては近衛工兵大隊の地であった。

近衛工兵大隊ゆかりの石碑群

東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園との境目あたりに、木々に埋もれるようにして、4つの石碑が集められていた。

(表面)
御幸松
(裏面)
大正4年乙卯夏6月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹識

(表面)
白楊坐記
 (漢文略)
大正9年4月7日
(裏面)
近衛工兵大隊第三中隊大正6年兵
満期除隊者植白楊樹三百株
并36名各刻碑面文字

(表面)
澄宮
御手植松
(裏面)
昭和2年5月2日
近衛工兵大隊長?原允長謹識

澄宮とは 三笠宮崇仁親王のこと。

(表面)
皇太子殿下
御手植松
(裏面)
大正4年5月18日
近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武建之
 陸軍工兵二等卒重田昌司謹刻

ここでいう皇太子殿下とは、のちの 昭和天皇

近衛工兵大隊時代の石碑がこの一箇所にあつめられていた。それぞれ御手植碑だったり植樹碑だったりするが、その肝心の木々はどこにあるのだろうか。


陸軍境界石(陸軍境界標石)

東京北医療センターの東南、赤羽台さくら並木公園の北東
ごみ集積場の陰に隠れるように石柱が残っていた。
近衛工兵大隊の境界石。

陸軍用地


赤羽台さくら並木公園
 (射撃訓練場跡)

この細長い公園は当時は射撃場であったという。

防空壕跡

当時は射撃場があった赤羽台さくら並木公園の中に、ひっそりと残されていた防空壕。


浮間橋

北赤羽駅ちかくの浮間橋まで移動。

新河岸川にかかる浮間橋の脇に、近衛工兵大隊にちなむ石碑が残されている。

当時の浮間地域は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得ない場所でした。
そこで浮間地域の人々が、建設費用として6,000円を用意し橋の建設を「近衛工兵大隊(近衛師団工兵隊)」に相談。そうして昭和3年(1928)5月に木造の橋が完成したことを記録する石碑。
当時の6,000円は1000万円ぐらいか。

浮間橋の碑
北区浮間1-1(左岸)
 荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年(1910)8月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。
 改修では、洪水時の4分の3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。
 しかしその結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年(1928)5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
 橋は昭和9年(1934)に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年(1940)には鉄橋に架け替えられました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和60年(1985)9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
 地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝えています。
 平成8年3月(平成17年一部改訂)  
  東京北区教育委員会

旧浮間橋建設記念碑

浮間橋
郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

昭和三年四月二十六日
建於岩淵町大字浮間
小柳通義撰文併書

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの結果、新幹線工事完了の暁、新浮間
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が完了したことを記念した碑を立てる。
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

当時の浮間地域の人々の架橋の思いと近衛工兵隊への感謝が込められた石碑は橋は変われど、今も浮間橋の脇で大切にされておりました。

赤羽から北赤羽へ工兵隊を廻る散策から、ちょっと南の方に足を伸ばしてみます。


陸軍火薬庫の陸軍境界石

東京都北区桐ケ丘。都営桐ケ丘アパート界隈。
「近衛工兵隊」の南、前述の位置関係では「作業場」の南西に「陸軍火薬庫」があった。
その陸軍火薬庫のあった場所に残る「陸軍」と銘のある境界石は電信柱の後ろに隠れるように残っていた。


師団坂・軍用鉄道のあったエリアの南側

陸軍被服本廠の陸軍境界石 

陸軍被服本廠は大正8年(1919)に本所から赤羽台に移転してきた。本所の跡地は関東大震災で大惨事となりのちに東京都慰霊堂が建立された。
赤羽台の陸軍被服本廠は、戦後は米軍東京兵器補給廠所属地となり米軍住宅赤羽ハイツが建設。変換後は赤羽台団地が造成。また小中学校も建設された。そのときに建設された赤羽台中学校も廃校となり、跡地には「東洋大学赤羽台キャンパス」が開設。東洋大学赤羽台キャンパス北側の墓地ちかくに「陸軍用地の境界石」が残されていた。

東京大空襲・慰霊

陸軍兵器補給廠線跡(軍用線路跡)

再び赤羽八幡神社に。
この赤羽八幡神社の参道からナショナルトレーニングセンターまで、かつて軍用鉄道が走っていた。

北区赤羽緑道公園
(陸軍兵器補給廠線跡)

巨大な構造物。なんとなく鉄道があったことをイメージさせる。

遊歩道は線路をイメージ

鉄橋ぽいのも。

赤羽緑道公園から赤羽自然観察公園を抜け、住宅地の先に、赤羽リハビリテーション。その先には国立西が丘サッカー場。

味の素フィールド西が丘(国立西が丘サッカー場)や味の素ナショナルトレーニングセンターのある界隈が、かつての「陸軍兵器補給廠」

このさきには、「東京陸軍兵器補給廠」があり「陸軍稲付射場」もある。そして、「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」という大きな見どころがあるが、それはまた別の記事にて。

関連

旧大井町変電所

品川区

JR品川駅とJR大井町駅の間に。京浜東北線に乗っていると車窓から見えるレンガ造りの建物が目に付き、気になったので脚を運んでみました。

旧大井町変電所(JR東日本)

竣工は大正3年(1914)という。
大正3年(1914)12月20日に東海道本線の起点として東京駅が開業。
東京駅-高島町駅間で電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始に際して変電所設置。

※初代横浜駅 → 現在の桜木町駅
 2代目横浜駅 → 高島町駅 →廃駅(現在の高島町駅付近)
 3代目横浜駅 → 現在の横浜駅

現在は、株式会社JR東日本運輸サービス山手事業所として現役で使用されている。

以下はGoogle航空写真

大正3年以来、100年以上に渡り現役で使用されている建屋。