Date-SKN のすべての投稿

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)

平成30年11月撮影

山縣有朋邸庭園跡・明治天皇行幸碑

山縣有朋邸庭園跡の一般公開にいってきました。(平成30年11月23日)

三番町共用会議所は明治18年に山縣有朋が建築した邸宅跡。当時の建物は関東大震災で大破し、再建後は昭和20年5月空襲で焼失し現存していないが、当時を偲ぶものが残っているので探訪してみました。
現在は全省庁共用の国の会議所。

三番町共用会議所
(山縣有朋邸庭園跡)
一般公開(無料)

 三番町共用会議所は、明治18年に山縣有朋伯爵(当時)が建築した邸宅跡です。
 当時の建物は、関東大震災(大正12年)で大破し、再建した建物も、昭和20年5月にあった空襲の焼夷弾により焼失したため、現存しておりませんが、庭園跡(昭和55年整備)と明治天皇の行幸を賜ったことを示す記念碑(明治18年山縣有朋公建立)が今も残っており当時を偲ぶことができます。
農林水産省

三番町共用会議所
山縣有朋邸庭園跡

明治18年に山縣有朋公が当地に私邸を建設。同年10月19日には明治天皇が行幸。
山縣は明治19年に内務大臣兼農商務大臣に就任し、国が山縣私邸を農商務大臣官舎として購入。大正12年の関東大震災で大破。昭和18年に改築するも昭和20年に空襲焼失。

昭和27年に旧本館竣工。
昭和29年に別館が竣工。この別館は現存している。設計は大江宏。大江の代表作としては大阪万博日本館、国立能楽堂などが知られる。

三番町共用会議所別館

写真は現存する三番町共用会議所別館 。昭和29年造。

三番町共用会議所別館内部
1階は会議室

昭和38年以降の米価審議会はここで行われていた。
(米流通自由化などもあり平成11年に米価審議会は廃止)

2階は大臣室など

三番町共用会議所本館

現在の本館は昭和48年に竣工
平成11年からは全省庁で利用できる共用の会議所となっている。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所庭園)

昭和55年に庭園を再整備している。

明治天皇行幸記念碑

明治19年10月19日、山縣有朋邸で行われた銃剣術並演刀槍術展覧に、
明治天皇が行幸されたことを記念して山縣有朋が建立。山縣有朋が詠まれた和歌を山縣有朋本人の書体で掘られている。山縣有朋邸の当時を物語る石碑。

天津かせ えたをならさぬ 君がよは 
  こゝろ のとけく 匂ふ梅かゝ
 山縣有朋直筆

 山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇が行幸されたことを記念して、山県有朋が建立したものです。碑文は隷書体で行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山県有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。

明治天皇行幸碑 裏面(概要)
 今年(明治18年)10月19日。
 今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。夜になり、多くの玉燈を点け、煙火を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟、有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。

石灯籠

庭園内の灯籠も山縣有朋邸庭園時代からのものと推定。
土台が六角形の灯籠は江戸後期から明治初期の技法とされている。

石畳
木の根の広がりに年月を感じさせる。

三番町共用会議所・山縣有朋邸庭園跡は、毎年11月12月に数日間に公開されているようです。

給水塔と車庫は取り壊し予定だそうで・・・(昭和20年代の建築という)

山縣有朋邸宅庭園として現存している有名な庭園は以下。
 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 70歳の古希を迎えた晩年の別荘

この三番町共用会議所の庭園は、山縣有朋の時代を石碑などに残すのみではあるが、人知れずの史跡。一般公開もひっそりと行われていたので、私も最近まで存在を知りませんでした。なかなかの良き歴史スポット。


関連

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


関連

動物慰霊碑

上野界隈の散策

立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

第三台場(都立台場公園)

平成29年(2017年)5月撮影

第三台場

ペリー来航に備え東京湾上に作られた品川台場のひとつであった第三台場を利用して昭和3年(1928年)に整備されたのが台場公園。
現在は「お台場海浜公園」と地続きとなっている。

都立台場公園のあらまし
台場公園(第三台場)
 「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船襲来にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永6年(1853年)8月に着工、1年3ヶ月の間に6基が完成しました。
 現在は大正15年(1926)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
 このうち第三台場は、昭和3年東京市(都)によって整備され、台場公園として開放されています。周囲には、海面から5~7メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫などがあります。

陣屋跡

中央の窪地に「陣屋跡」

砲台跡

東京湾の外、南側を向いている。

かまど跡

建屋跡

史跡記念碑

史蹟 品川臺場 参番
天然紀念物保存法ニヨリ
大正5年10月 内務大臣指定
昭和2年8月建設 東京市

桟橋跡(船着場・波止場跡)

弾薬庫跡

第六台場

幕末期に品川沖に11基の台場建設が計画された。
1854年7月に、第一、第二、第三台場が竣工。
1854年12月に、第五、第六、御殿山下台場が竣工、第四、第七は計画縮小により工事中止、第八から第十一台場は未着工。

そのうち第三台場と第六台場が東京湾海上に現存している。
第六台場は、現在は無人島、立入禁止。

レインボーブリッジ

平成5年(1993)開通。
「レインボープロムナード」歩道にて徒歩での通行も可能。
第三台場と第六台場の横を渡る。

位置関係

今昔マップ on the web (http://ktgis.net/kjmapw/index.html)より。

googleマップより

付記:御殿山下台場

品川区台場小学校がかつての「台場跡」が残っている。幕末当時、陸地に接していた台場は「御殿山下台場」。以下は2014年撮影

御殿山下台場(砲台)跡
 嘉永6(1853)年アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
 伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第1から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第8以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3(1870)年日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
 平成18年3月31日
 品川区教育委員会

御殿山下台場跡は、敷地の半分を台場小学校に。

このあたりが海側の先端部分。

東京湾上に残る「砲台場」跡の散策でした。

ナッチャンWorld(防衛省傭船・特設双胴高速輸送船)

平成30年5月、横須賀久里浜港にて撮影。

ナッチャンWorld

ウォータージェット推進機搭載高速フェリー
船型 波浪貫通型双胴高速船(アルミ軽合金製)
総トン数 10,549トン
全長 112.6m
全幅 30.5m
航海速力 約36ノット(満載時)
積載 8mトラック50台及び乗用車110台
定員 508名
最大積載量 1500トン
母港 函館港
コールサイン 7JDA


<旅客船として>
青函航路の高速化を計画していた「東日本海フェリー」が満を持して投入した最高速フェリーであった。

姉妹船は「ナッチャンRera」(竣工2007)となり、本船「ナッチャンWorld」(竣工2008)は妹船。オーストラリアのインキャット社建造。112m級ウェーブ・ピアーサー型2番船。

2008年(平成20年)2月19日進水、4月8日竣工、5月2日に青函航路に就航。しかしこの年の夏に原油高にともなう燃料高騰を理由に減便となり、東日本海フェリーは国内フェリー事業から撤退。2隻の高速フェリーも11月1日より運行休止。

その後、東日本海フェリーから青函航路を継承した津軽海峡フェリーによって、2009年から2012まで夏季期間限定で運用。その後は同航路では運航されていない。また、姉妹船の「ナッチャンRera」は2012年に台湾企業に売却。

<輸送船として>
2011年(平成23年)の東北地方太平洋沖地震の発生に際して、自衛隊の要請を受けて被災地への緊急災害援助部隊派遣輸送に協力し臨時運行。
同年秋の陸上自衛隊訓練において、北海道から大分まで90式戦車4台・89式装甲戦闘車10台等を輸送。そのまま九州各地で陸上自衛隊部隊の輸送訓練に携わる。

2011年の陸上自衛隊輸送実績などもあり、2012年夏以降、旅客運航をしていなかった「ナッチャンWorld」を防衛省は2014年に大災害などに備える名目で借り上げを決定。防衛省傭船となる。

2016年、新設された「高速マリン・トランスポート社」が防衛省傭船契約を結んだ「ナッチャンWorld」「はくおう」を保有し、同社と防衛省との間で契約が結ばれた。
平時は高速マリン・トランスポート社が本船を運行し、民間収益事業と自衛隊部隊訓練の協力や災害派遣に使用。有事の際は防衛省が高速マリン・トランスポート社より本船の提供を受け輸送船として活用する。島嶼防衛などの有事に際して、本船の高速輸送能力が期待されているという。船員は予備自衛官なども活用。緊急事態発生時に防衛省が本船を使用する場合は72時間以内に対応できる体制を整えている。


久里浜港にて。

ちょうど東京湾フェリーの「しらはま丸」が出港するところでした。

しらはま丸
1989年6月竣工、12月就航
3,351総トン、全長79.1m、全幅18.0m、航海速力13,5ノット


公式サイト

https://natchan-world.com/index.html

参考

https://www.sankei.com/premium/news/170201/prm1702010002-n1.html


久里浜の散策などはこちらにて。

「陸軍登戸研究所」跡地散策(明治大学生田キャンパス)

令和元年9月散策

神奈川県川崎市多摩区生田の丘の上に。
現在の明治大学生田キャンパスはかつて大日本帝国陸軍の研究所であった。


登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

昭和14年(1939)、陸軍中野学校を創設し「謀略の岩畔」と異名を残す陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐によって、秘密戦研究部門として、通称「登戸研究所」が陸軍科学研究所の下に設立された。
前身は、大正8年(1919)に陸軍火薬研究所が改編して発足した「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。

昭和19年(1944)の「陸軍登戸研究所」組織
陸軍第9研究所(登戸研究所)
 所長 篠田鐐 中将 (工学博士)
第一科 科長 草場秀喜 少将
 第一班 風船爆弾・宣伝用自動車
 第二班 特殊無線機・ラジオゾンデ
 第三班 怪力電波・殺人光線
 第四班 人工雷
第二科 科長 山田桜 大佐(工学博士)
 第一班 科学的秘密通信法・防諜器材・謀略兵器
 第二班 毒物合成・え号剤
 第三班 毒物謀略兵器・耐水耐風マッチ
 第四班 対動物謀略兵器
 第五班 特務機関用カメラ・超縮写法・複写装置
 第六班 対植物謀略兵器
 第七班 対動物謀略兵器
第三科 科長 山本憲蔵 大佐
 北方班 用紙製造
 中央班 分析・鑑識・印刷インキ
 南方班 整版・印刷
第四科 科長 畑尾正央 大佐
 第一科・第二科研究品の製造、補給、指導


明治大学・生田キャンパス内を散策してみましょう。

登戸研究所跡碑

明治大学生田キャンパスの「弥心神社」境内に往時を物語る石碑が建立されていた。

登戸研究所跡

すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う
 昭和63年10月建之
 旧陸軍登戸研究所 有志


弥心神社(現・生田神社)

小田急線生田駅から明治大学生田キャンパスに赴く通学路、坂道を登りきった先に鎮座している。
今は学生の通学路、当時は研究員の通勤路であった。(小田急線生田駅を利用する場合は、神社のある裏門を通る。南武線登戸駅を利用する場合は、ここではなく正門を通る。)

弥心神社は昭和18年建立。陸軍技術有功賞を受賞したときの金一封で、後述する「動物慰霊碑」と同時期に建立。
登戸研究所の前身であった新宿戸山の陸軍科学研究所から分祀した「発明の神・八意思兼神」を祀り、同時に研究所殉職者を慰霊のために祀ったという。

弥心神社(現 生田神社)
 現在は生田神社といいますが、もとは登戸研究所が1943(昭和18)年に建立した神社で、研究(知恵)の神様である「八意思兼神」を祀る「弥心神社」と呼ばれていました。
 境内向かって右手、1988(昭和63)年に元所員有志により建てられた「登戸研究所跡碑」裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれています。これには、一度胸の奥にしまい込んだ研究所時代の記憶を、戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、という万感の思いが込められています。


位置関係

ファイル:USA-M1121-A-20
1948年07月26日に米軍が撮影した航空写真(国土地理院より)

抜粋の上、拡大

上の赤丸が「弥心神社」
右の赤丸が「動物慰霊碑」
下の赤丸が「登戸研究所資料館」

道の雰囲気が、さほどに変わっていないこともわかる。


消火栓

生田キャンパス内に2つ残されている。陸軍の五芒星を残す消火栓。

1つ目は「学生会館」の前に。地中に半分埋まっていた。

もうひとつは「図書館」の前に。

消火栓
 登戸研究所時代に設置された消火栓です。明治大学生田キャンパスとなった今も当時と同じ場所に残る貴重なものです。すでに消火栓として機能しませんが、旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が確認できます。現在は埋もれている学食棟前に残る消火栓もこの消火栓同様、以前は左の写真の姿をしていました。


動物慰霊碑

生田キャンパス正門の守衛所裏手に鎮座。動物慰霊碑としては国内最大級。

(表)
動物慰霊碑
篠田鐐書

(裏)
昭和十八年三月
陸軍登戸研究所建之

揮毫の 篠田鐐 は登戸研究所所長。

動物慰霊碑
 1943(昭和18)年、研究で用いられた実験動物の霊を慰めるために登戸研究所が建立しました。台座を含め、高さ約3m、幅約95cm、奥行約15cmの大きさは動物慰霊碑としては国内最大級です。
 敗戦後、軍により証拠隠滅を図られた登戸研究所ですが、この裏面に刻まれた「陸軍登戸研究所」の文字は、戦時中より登戸研究所がここに存在した事実を如実に語ります。


登戸研究所本館跡(ヒマラヤ杉)

「第二校舎A館」と「ヒマラヤ杉」、「図書館」の間にかつて「登戸研究所本館」があったという。
往時からの名残としては、「ヒマラヤ杉」とアスファルトを敷いた車寄せへのアプローチ部分が路面上に残る。

旧登戸研究所本館前一帯
 登戸研究所の本館は、ちょうどこのヒマラヤ杉並木と現在の図書館との間に建っていました。
 1944(昭和19年)に撮影された写真でも当時の杉並木の様子が確認できます。また、写真背景足元に映る円形に囲われた車寄せへのアプローチも、そのままに近い形で植え込みとして残っており、この一帯は登戸研究所時代の名残をもっともよく残す場所となっています。


防火水槽

キャンパス内にいくつか点在して残っている。火薬も扱っていた登戸研究所ゆえに防火水槽の数も多かったという。

中央校舎の脇に。

防火水槽
 登戸研究所時代からある防火水槽です。火災に備え、敷地内の各建物付近に設置されました。現在は花壇として使用されていますが、当時は中に水をためておき、その水を火災の消火に使用しました。この他に資料館エントランス横、農学部南田圃などキャンパス内各所に現存しています。

資料館の入口に。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

資料館の裏手に。
登戸研究所で製造された「特殊携行兵器」などが収納されていたとされる倉庫。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。
 外観は台形ですが、内部は奥行約3.2m、間口約2.7mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。壁面にはスイッチやコンセント跡が見られます。
 第一校舎1号館裏手にも同様の倉庫跡が残っています。


倉庫跡(通称 弾薬庫)

第一校舎1号館の裏手に。
草に覆われた建物。「花卉園芸同好会」と表記が残る。

倉庫跡(通称 弾薬庫)
 登戸研究所時代に設置された建築物で、通称「弾薬庫」と呼ばれていますが詳細な用途は不明です。明治大学となってからは、一時、花卉園芸部が部室として使用していたこともありました。
 外観は台形ですが、内部は奥行約5.7m、間口約4.0mの長方形をしており、天井までの高さは約3m。資料館裏手の倉庫跡より内部は広く、入り口すぐの前室と奥の広い部屋の二間に分かれています。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館

鉄筋コンクリート造りの生物兵器研究棟。この建物は、かつて細菌・ウイルスなど生物・化学兵器の研究開発をしていた登戸研究所第二科の研究棟。
2009年までは明治大学農学部の研究棟として使用され、2010年から明治大学平和教育登戸研究所資料館として開館。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
設立趣旨

登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡である。登戸研究所は、戦争には必ず付随する「秘密戦」(防諜・謀報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえる。私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要がある。

私たちは、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関のおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することをめざして地道な活動を続けてきた地域住民・教育者の方々との連携の場としていきたいと考えている。
 2010年3月29日


陸軍境界石

資料館の前に。どこからの移築かと思われる。


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 建屋外観


登戸研究所第二科研究棟(36号棟)
明治大学平和教育登戸研究所資料館
 内部

当時からの設備、流し台などもそのままで残っている。


風船爆弾(ふ号作戦)

登戸研究所第一科を中心に風船爆弾の研究が行われた。

気球紙は、和紙と蒟蒻糊の貼り合わせ、

風船爆弾放球の地

大津

勿来

一宮


偽札

登戸研究所第三科では主に中国大陸向けの紙幣を偽造していた。通貨謀略戦の要。


解体された26号棟の保存資料

26号棟に第三科が展開されていた。偽札研究の拠点。


時計式時限装置一号

「缶詰爆弾」と「時計」を接続させると「時限式爆弾」となった。
登戸研究所は諜報活動向けに最適な小型兵器の開発が多い。


秘密戦

「秘密戦関係」書籍は防諜教育に用いられた憲兵学校のテキスト。


陸軍技術有功章の賞状

昭和18年4月14日、総理大臣兼任陸軍大臣の東条英機の名で授与された賞状。「秘密戦兵器」は「特殊理化学資材」として記されている。


クランク式暗室

36号棟の当所から作られていた暗室。
写真の現像や細菌戦の研究に使用されていたという。


石井式濾水機 濾過筒

「軍事秘密」として扱われていた濾過筒。
濾過筒には防疫給水に役立つほか、細菌戦実施時にも飲料水を確保できるという側面もある。


登戸研究所本館将校食堂に飾られていた日本画

この絵画が飾られていた理由は不明。
「漁を待つ人々」佐藤耕寛 作


陸軍 電波兵器練習部隊

「登戸研究所」の電波部門が独立して「陸軍多摩研究所(多摩陸軍技術研究所)」となり、その直属部隊となったのが「東部第九二部隊( 東部第92部隊 )」。一橋大学に展開していた。

気がつけば3時間くらい、大学構内を散策していたようです。

明治大学平和教育登戸研究所資料館、なかなか見応えがありました。よい展示。

また来ましょう。


明治大学平和教育登戸研究所資料館サイト

https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html

靖國神社御創立百五十年記念大祭(令和元年)

令和元年10月20日参列

靖國神社は明治2年(1869年)6月29日、
明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社にはじまる。

そして令和元年(2019)年、靖國神社は御創立150年を迎える。

例年は、「秋季例大祭」が斎行される秋に、今年はあわせて「御創立百五十年記念大祭」が斎行。

清祓 10月17日午後3時
霊璽奉安祭  10月17日午後7時
秋季例大祭当日祭  10月18日午前10時
御創立百五十年記念大祭第一日ノ儀 10月19日午前10時
御創立百五十年記念大祭第二日ノ儀 10月19日午前10時
直会  10月19日午後6時

御創立百五十年記念大祭案内状

拝啓 初秋の候益々御清祥の段御慶び申し上げます。
さて、下記の通り靖國神社御創立百五十年記念大祭を斎行致しますので、御参列下さいますよう御案内申し上げます。 敬具
令和元年9月吉日
 靖國神社 宮司 山口健史

御創立百五十年記念大祭 第二日ノ儀
 10月20日(日) 午前10:00

令和元年
靖國神社御創立百五十年記念大祭 式次第

御創立百五十年記念事業報告

御朱印
奉拝
靖國神社
令和元年十月二十日

靖國神社御創立百五十年記念大祭
第二日ノ儀

式次第

御創立百五十年記念大祭
時刻   参列諸員拝殿所定ノ座ニ著ク
午前十時 宮司以下本殿所定ノ座ニ著ク
先ツ   国歌ヲ斉唱ス
次    宮司内陣ノ御扉ヲ開ク
次    権宮司以下神饌ヲ供シ初献ノ神酒ヲ奠ス
次    宮司祝詞ヲ奏ス
次    権宮司二献ノ神酒ヲ奠ス
次    「国護の舞」ヲ奉奏ス
次     権宮司三献ノ神酒ヲ奠ス
次    宮司玉串ヲ奉リテ拝禮
次    特別参列者本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次    崇敬者総代本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次    参列諸員次第ニ本殿ニ進ミ玉串ヲ奉リテ拝禮
次     (拝禮終了凡ソ十一時頃)
(續イテ  一般遺族崇敬者昇殿参拝
午後三時 権宮司以下神饌ヲ撤ス
次    宮司内陣ノ御扉ヲ閉ツ
次    各退下

国護の舞(くにもりのまい)
 靖國神社は明治二年に招魂社として御創建され、明治十二年には別格官弊社「靖國神社」と改称されて現在に至っており、本年は御創立百五十年を迎えました。
 この舞は、御創立百五十年を記念して作られた神楽舞で、御祭神を慰霊し、また御祭神の御心を次に伝えていくための、令和の新時代に捧げていく神楽舞であります。
 本日の御創立百五十年記念大祭を舞始めとして奉奏いたしましが、祭典終了後に能楽堂におきましても舞を披露いたしますので、ご覧いただけますよう御案内申し上げます。

能楽堂での披露予定時間 十九日午後0時30分より
            二十日午後0時より

【歌詞】
上皇后陛下 御歌
 終戦記念日 平成八年(一九九六)

海陸のいづへを知らず姿なき
あまたの御霊国護るらむ
(うみくがの いづへを しらず すがたなき
 あまたの みたま くにまもるらむ)

海も山も何処も、姿なき数多の御霊によって護られております、この日本の国は・・・。

【作曲・作舞】
 作曲・作舞は元宮内庁式部職楽部首席楽長の豊英秋先生にお願い致しました。
 曲調は、前半が英霊に対し鎮魂の誠心を捧げる静かな曲で、舞は英霊を慰める優しい振りとなっています。
 また、後半は我が国が英霊に護られて、明るい未来に向かう局長で、英霊に神楽舞を楽しんでいただく力強い舞振りとなっています。

靖國神社御創立百五十年記念大祭
第二日ノ儀

午前8時20分頃、受付の開始。
「祭式次第」と「御創立150年記念事業報告書」をいただきました。御朱印もいただきました。

午前9時20分ごろに参集殿の奥から参列者の御案内開始となります。受付が早いと拝殿では前の方に着席できます。

令和元年十月二十日 
午前10時前
【参列諸員拝殿所定ノ座ニ著ク】
祭典開始前の合図の太鼓が鳴り響く。

修祓

【宮司以下本殿所定ノ座ニ著ク】
宮司以下の祭員が斎館から参進し御本殿へ。
カツカツカツと木靴の音が鳴り響く。

【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭
【参考】写真は平成27年(2015年)の秋季例大祭

祭式開始の太鼓が鳴り響く。
ドーンッドーンッとゆっくり9回。

【国歌ヲ斉唱ス】
國學院大學吹奏楽部による奏楽。

一同起立し国歌斉唱。
二度斉唱。

靖國神社御創立150年の節目で斉唱する国歌「君が代」。
凛とした空間に参列者一同の声が響き渡る。
この尊い空間に震える。
ありがとうございます。

【宮司内陣ノ御扉ヲ開ク】
國學院大學吹奏楽部により奏でられる拝神の曲。
「国の鎮め」

宮司によって御本殿内陣の御扉が開扉される。
「オー」「おおおおぉぉぉぉー」
警蹕(けいひつ)が木霊し境内を祓い清める。

【権宮司以下神饌ヲ供シ初献ノ神酒ヲ奠ス】
國學院大學吹奏楽部による奉奏。
「山の幸」
神饌を供し神酒を奠し奉じる。

【宮司祝詞ヲ奏ス】
【権宮司二献ノ神酒ヲ奠ス】

【「国護の舞」ヲ奉奏ス】
靖國神社御創立百五十年記念を記念して作られた神楽舞。
御祭神を慰霊し、また御祭神の御心を次に伝えていくための、令和の新時代に捧げていく神楽舞

上皇后陛下 御歌
 終戦記念日 平成八年(一九九六)
海陸の いづへを知らず 姿なき
 あまたの御霊 国護るらむ

以下は能楽堂で奉納された舞。
御創立百五十年記念神楽舞「国護の舞」(くにもりのまい)

能楽堂で奉納された舞。
御創立百五十年記念神楽舞「国護の舞」(くにもりのまい)

約10分にわたる神楽舞。
御祭神を慰霊し、御祭神の御心を次世代に繋げていく神楽舞。
前半は静かな舞、後半は賑やかで力強い舞。

拝神曲「国の鎮め」奉奏

山口健史宮司の挨拶
・霊璽奉安祭では今年新たに7柱が相殿から本殿正床に御奉還申し上げた。
・ 畏くも勅使参向による奏上と御幣物玉串料の御礼
・19日には、 三笠宮容子内親王 が参拝なされた。
・御創建150年
・新しき神楽「国護の舞」 

【参列諸員次第二本殿ニ進ミ拝礼畢リテ退出ス】

御本殿昇殿参拝。
内陣の御扉が開扉されている、畏れ多い空間。
246万6000余柱の御英霊に対して、感謝と哀悼の誠を捧げるとともに御霊安らかなれと祈念する。

御本殿に掲げられた御宸筆の扁額にも拝する。

明治天皇 御製
我國の 為をつくせる 人々の
 名もむさし野に とむる玉かき

明治天皇が明治7年(1874)1月27日、初めて招魂社に御親拝の折に詠まれた御製。
明治天皇の命名により、明治12年(1879)6月4日に社号が「東京招魂社」から「靖國神社」に改称となる。
『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠とする。

おさがり(撤饌)

「おさがり」を頂戴いたしました。
御神酒
祝餅
食パン・菓子パン(銀座・木村屋總本店)
「遊就館特別展‐靖國神社御創立百五十年展‐」展示録

祝餅

靖國神社御創立百五十年
祝餅
奉納 明治神宮 靖國神社 献饌講

明治神宮 靖國神社 献饌講は、明治天皇の御聖徳と護國英霊への報謝のため、昭和17年に茨城県那珂郡(現ひたちなか市)の黒澤忠次(初代講元)と篤志家が相計り、鏡餅・鯛・野菜などのお供えものを明治神宮、靖國神社に奉納したことから始まります。
戦前・戦後の困難な時代を経て今日に至る約80年間に亘り、両神社に対し、日々朝夕の神饌米奉納を始め、例大祭・正月の鏡餅調製など、絶えることの無い真心の御奉仕を戴いて参りました。
此の度献饌講には、靖國神社御創立百五十年を迎えるにあたり奉祝のため、講員一人ひとりの丹精篭る献饌米を用いて餅搗奉仕を戴き、この紅白祝餅の御奉納と相成りましたので、御参拝の皆様にお頒ち致します。
 令和元年十月吉日 靖國神社

木村屋總本店のパン

明治2年、木村安兵衛が日本人で初めてパン業を開業。
奇しくも靖國神社と同じく150年を迎える。

靖國神社御創立百五十周年記念大祭の「おさがり」は、銀座木村屋の150周年記念限定食パン。

兵隊さんとパン
 「食事の時間」それは兵隊さんにとって、何よりも楽しみな時間であったのではないでしょうか?
 近代日本における「パン」の歴史は、幕末の兵学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍が天保13年(1842)、「兵糧パン」を試作した事に始まります。
 明治維新以降、単に携行しやすいだけでなく栄養面に優れている点が注目され、陸海軍共にパン食を採用しました。
 特に日清・日露の戦いでは、当時国民病といわれた「脚気」に罹る兵が多く、パンに脚気予防の有効な成分があるとわかり、パン食普及の決め手となりました。陸軍ではパン焼き車が、海軍では給糧艦にパン製造室が装備されるなど、更に身近な食料となり、甘味品のパン菓子などは兵隊さんにとても喜ばれたそうです。
 一方、民間では本年創業150年を迎えた木村屋總本店の初代木村安兵衛が、明治2年(1869)、東京芝に日本人で最初のパン店を開業、その後、明治天皇へ「桜あんぱん」を献上するなど、多くの国民に愛されるパンを作り続けてきました。また軍用の乾パン・ビスケットの開発、研究にも力を尽くされました。
 靖國神社御創立百五十年にあたり、御祭神とも縁のある木村屋總本店より奉慰顕彰の篤志をもって、この記念品を調製致しました。
 ひたすら祖国の安寧を願い、戦陣に斃れた神霊の御心を偲びつつ、どうぞお召し上がり下さい。
 靖國神社

150周年記念 限定食パン

あずきの煮汁を入れて焼き上げた、しっとり柔らかい食パンです

「あんぱんの木村屋」にちなんだあずきの煮汁と、明治時代から受け継ぐ自家製酵母「酒種」を使用した、プレミアムな限定食パンです。

靖國神社150年シンボルマークの焼印いりの食パン

銀座木村屋
酒種あんぱん
桜餡・小倉餡・けし餡・うぐいす餡・白餡

明治天皇に献上された、伝統の酒種あんぱん

御神酒

靖國神社の御神酒

靖國神社御創立百五十年記念大祭

ありがとうございました

幕末以来、明治・大正・昭和・平成…
そして、令和の新時代に捧げていく靖國の祈り
御英霊の御心に
感謝と哀悼の誠を


付記
スマホで「国護の舞」を撮影しました。
手ブレがひどすぎるので、参考程度に・・・
(左手でスマホ、右手で一眼カメラだったもので)

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

令和元年10月。

靖國神社御創立150年の節目の年の再整備。
令和元年10月10日に「靖國神社外苑休憩所」に新たにオープンした食堂が「靖國八千代食堂」

名物は「鳥濱トメさんの玉子丼」・・・
いただいてきました。

ほんのりと甘みを感じる、トメさんのやさしさに包まれた味わい。
玉子と玉ねぎ、往時を偲ぶシンプルな、しかし奥深い味。
一口二口と口に運んでいくとともに、なにやら目頭が熱くなってきてしまいました。
心から、ありがたさを感じつつ。美味しさを味わいつつ。

鳥濱トメさんの玉子丼

鹿児島知覧で「富屋食堂」を営んでいた鳥濱トメさん。
「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、多くの特攻隊隊員が食堂の面倒を見たことから「特攻の母」と呼ばれた。
特攻隊員が食した「トメさんの玉子丼」が、再現され、靖國八千代食堂でいただくことができるようになりました。

 名物は、鹿児島県知覧の富屋食堂で「特攻の母」と慕われた鳥濱トメさんの玉子丼。お孫さんの鳥濱明久氏の総監修を経て、当時の味をそのままに再現致しました。鳥濱トメさんの味を受け継ぐ鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと、明久氏が想いを込めて作った知覧直送の割り下をそのまま使用し、沖縄救出のために「靖國で会おう」と散華された英霊を送り出したトメさんの想いをそのままに再現致しております。

https://www.yasukuni.or.jp/news_detail.html?id=195

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの玉子丼

旧知覧特攻基地の軍指定食堂であった富屋食堂で「特攻の母」と愛された鳥濱トメさんが特攻隊員のみなさんに振舞った玉子丼には一体どれほどの想いが込められていたことでしょう。

当店の玉子丼は、トメさんの味を現代に受け継ぐ富屋食堂「ホタル館」館長、そしてトメさんのお孫さんである鳥濱明久氏が想いを込めて作った割り下を、鹿児島知覧から靖國へ直送いただき、そのまま使用しています。

当時、富屋食堂で使用されていた「お重」なども店内に展示しています。またこの玉子丼の収益の一部は、特攻資料館 富屋食堂「ホタル館」の整備維持などに寄付しています。

鳥濱明久氏(鹿児島知覧 富屋食堂「ホタル館」館長:鳥濱トメ孫)並びに 知覧特攻の母 鳥濱トメ顕彰会の全面協力のもと再現した、玉子丼。

鳥濱トメ プロフィール
明治35年6月、鹿児島県坊津町(現南さつま市)生まれ。大正15年5月、24歳の時に長女の美阿子(鳥濱明久氏母)が誕生。昭和4年、27歳でそれまでの貯えを元手に「富屋食堂」を開業し、翌年次女礼子も誕生します。
昭和17年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となり、昭和20年3月、知覧からも特攻隊の出撃が始まると、富屋に多くの特攻隊員が出入りするようになりました。たくさんの隊員たちからお母さんと慕われ、トメはその出撃を見送り続け、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになりました。戦後、知覧の観音堂建立に尽力し、建立後は欠かさず毎日参拝に通い、平成4年に89歳で大往生を遂げるまで続けた、愛情あふれる形でした。

知覧より直送する本物の味
特攻の母
鳥濱トメの
玉子丼

富屋食堂の三段重
この三段重は
鹿児島知覧にて特攻の母と
呼ばれた「鳥濱トメ」の
経営した富屋食堂で
実際使われていた、お重です。
特攻隊員が食べてたいと言った、
卵丼のお重として使われ、
戦後はうな重等に
昭和50年迄使われました。
 孫 鳥濱トメ

八千代食堂の卵丼
 令和元年10月1日

特攻隊の母と呼ばれた
鳥濱トメが経営した
富屋食堂の再興のご馳走が
卵丼でした
出撃する直前
特攻隊員の食べた卵丼は
孫の私が受け継ぎ現在も
知覧にて、提供している
だし汁を八千代食堂に
送ったものです
 孫 鳥濱明久

例大祭で賑わう境内。ちょうどお昼時、行列ができるほどに盛況でした。
是非に靖國神社御参拝の帰りに味わってほしい、往時の味わいです。

公式サイト
英霊への想い 靖國の未来をつなぐ
靖國八千代食堂

https://yasukuni-yachiyo.com/

公式サイト
特定非営利活動法人
知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

http://www.torihamatome.jp

特攻観音(世田谷)

かつての靖國神社外苑休憩所


追記(令和3年8月15日)

富屋食堂の知覧茶

富屋食堂の知覧茶
この知覧茶は、靖國神社外苑休憩所の靖國八千代食堂と知覧富屋食堂との共同企画商品です。
特攻の母と言われた鳥濱トメさんのご遺徳と、
先の大戦で散華された特攻隊員の方々の想いを偲び、
特攻の地、知覧の茶葉を100%使用致しました。


「若宮八幡宮と川崎大師」周辺の戦跡散策

令和元年10月

川崎でちょっとだけ時間が出来たので、京急大師線で川崎大師駅まで足を伸ばしてみました。

若宮八幡宮御本殿
(旧川中島国民学校奉安殿)

若宮八幡宮本殿
旧川中島国民学校奉安殿

昭和12年4月
川崎市立大師尋常小学校より分立独立して「川崎市立川中島尋常小学校」として創立。
昭和16年4月「川崎市立川中島国民学校」と名称変更。(現在の川崎市立川中島小学校)
「奉安殿」の創建年代は不詳。1935年(昭和10年)頃に全国各地の小学校にて奉安殿建設が活発化してきたという。

若宮八幡宮が戦災で焼失してしまい、戦後に「川中島国民小学校」から奉安殿を移設し、若宮八幡宮の本殿として再活用。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

若宮八幡宮(川崎)

旧大師河原総鎮守
境内には「かなまら祭」で有名な金山神社がある。
室町期1500年代の創建。
創建以来、川崎大師平間寺の鎮守社。明治の神仏分離で平間寺から独立。

境内社の金山神社

若宮八幡宮から川崎大師へ移動。

祈りと平和の像
(川崎大師 平間寺)

川崎大師境内に、弘法大師1150年遠忌を記念して昭和59年(1984)建立。制作者は円鍔勝三。
中央には富士山の上に降臨した観音をモチーフとした女神が「祈り」、周囲には鹿野苑で楽器を奏でる天女たちが「平和」を表している。

一心祈念 恒久平和
     大本山川崎大師 平間寺
一盌からピースフルネスを
     茶道裏千家淡交会川崎支部
修練 奉仕 友情
     社団法人川崎青年会議所

「祈りと平和」の像に寄す
 茶道裏千家家元勤仕による当山ご供茶式と茶道裏千家淡交会川崎支部、川崎青年会議所、川崎大師平間寺共催の大茶会は、三者の協調に献身的な努力のもとに、大いに地域社会の文化向上に寄与し、ここに、心新たに意義ある20周年を迎えた。
 本年、宗祖弘法大師壱千百五十年御遂忌並びに、当山吉例十年目ごと大開帳奉修の法縁にあたり、大師の鴻恩に報謝の誠を捧げ三者の目的達成、発展を期するとともに、更に祈りに徹してやすらぎに住し、永遠の平和を願う真心を伝承せんがために、ここにこの像を建立する。
 作者は、霊峰冨士の頂上に来迎された観世音菩薩(女神)の天にひろがる大慈悲心と釈尊の初転法輪の聖地・鹿野苑にみなぎる世界永遠の平和の祈りを象徴されている。
 因みに、彫刻家である、文化功労者・日本芸術院会員・圓鍔勝三先生にこの制作を依頼した。
 昭和59年10月7日 
  大本山平間寺貫首
   第四十四世 
   中興第一世 
    大僧正 隆天

「祈りと平和」像賛歌
   貫主 高橋隆元
いまここに
  仰がん祈りの像
いまここに
  讃えん平和の像  
みほとけは
  女神とともに
  神鹿のあそぶ苑に
 平和を奏でて
  人びとを見まもり
 慈悲の
  まなざしを示し給う 
祈りの声は 
 宇宙に広がる 
  朋友よ 幸せに 
  朋友よ 豊かに
平和のハトは
 蒼天に翔ぶ 
  朋友よ 明るく 
  朋友よ 健やかに
   
昭和60年10月7日
 「祈りと平和」の像建立1周年に寄せて

霊木「奇跡の銀杏」
(川崎大師 平間寺)

霊木「奇跡の銀杏」
 この銀杏は、第二次世界大戦の大空襲により幹の大半を焼失。今でも痕跡を樹木の根元に見ることができます。戦後、川崎大師はご信徒の信授により大本堂をはじめ七堂伽藍を復興。
同様にこの銀杏も奇跡的に蘇生、灰燼に帰した川崎大師の歴史を今に伝える古木であります。
「奇跡の銀杏」の樹勢にあやかり、健康長寿、心願成就を祈念ください。 
 平間寺

忠魂碑
(川崎大師 平間寺)

乃木希典書
明治三十七八年戦役(日露戦争)にて戦没した大師河原村出征軍人を祀る。
明治四十二一月建立。

川崎大師 平間寺

平間寺(へいけんじ)は真言宗智山派の大本山。
大治3年(1128)建立。本尊は弘法大師。

川崎大師駅へ。

発祥之地
京浜急行電鉄株式会社

京急「発祥之地」碑

 京浜急行電鉄株式会社は、明治31年2月25日 大師電気鉄道株式会社 として設立され、翌明治32年1月21日、川崎六郷橋~川崎大師間の営業を開始した。
 開業時の資本金は 9万8千円、営業路線は 単線2粁、車輌数は5両で 開業当時の営業報告書には、次の通りに記されている。
 
 全般ノ機械運転上成績好結果ニシテ一日モ運転ヲ中止セシ事ナク即チ 五月丗一日ニ至ル本期間ノ営業日数ハ一百三十一日ナリシ而シテ乗客ハ相応ニ多ク 毎月廿一日ノ如キハ非常ノ雑踏ヲ極メシモ線路ノ単線ナリシト車輌ノ不足ナリシ為メ 充分ニ乗客ヲ運ビ能ハザリシノ感アリ本期間平均一日一哩ノ乗車賃ハ 五拾円九拾銭二厘ニ相当セリ。元来本社ハ関東ニ於ケル電気鉄道ノ嚆矢ニシテ 成績ノ如何ハ将来電気鉄道事業ノ発達ニ重大ナル関係ヲ有セシモノナリ 幸ニシテ今ヤ営業初期ニ於テ相応ナル純益配当ノ報告をナスヲ得 又運転開始以来一人ノ負傷者ヲ生ズルナク毎月廿一日ノ如キ数万ノ老幼群集シ 往来叢ルガ如キ場所ニ於テ乗客ヲ満載シ乍ラ一日弐百五六十回余ノ運転ヲナシテ 過チナカリシハ実ニ本社ノ幸福ニシテ亦以テ電気鉄道ノ市街交通機関ニ適シ 更ニ危害ノ虞レナキヲ表示スルヲ得タルモノナリ

 かくて好調裡に営業を開始した大師電鉄は 同年4月 京浜電気鉄道と改称 昭和23年6月 京浜急行電鉄 となり 逐次事業の拡張を図って今日の隆昌をみるに至った。
 ここに創立70周年に当り
会社設立発起人代表 立川勇次郎 はじめ先人の遺徳を偲び 大師電鉄発祥のこの地 に本記念碑を建立する。
 昭和43年12月21日
  京浜急行電鉄株式会社

以上、川崎大師と若宮八幡宮を近代史・戦跡目線での参拝散策でした。

靖國神社・霊璽奉安祭(令和元年)

令和元年10月17日

靖國神社御創立150周年の節目の祭礼。

霊璽奉安祭

令和元年10月17日19時斎行

年の一度、この霊璽奉安祭にて、お名前が新たに明らかになった御英霊が靖國神社に祀られる。

お名前を書き記した名簿=霊璽簿は 御霊(みたま)の依代であり、この霊璽簿に御霊をお招きし、相殿から御本殿の正床に御奉還申し上げる祭典が霊璽奉安祭。

この霊璽奉安祭でもって、御英霊の御霊は霊璽簿(神霊名簿)から御本殿にお遷りなされ、そののちに、霊璽簿は御本殿後方の霊璽簿奉安殿へと鎮まることになる。

靖國神社の祭礼の中でも最も重き祭礼。

今年(令和元年)は7柱の御英霊がお祀り申し上げられたという。

この日、靖國神社の社頭に到着したのは18時45分でした。

雨上がりの社頭。

斎館では、祭主・祭員の神職の方々に修祓を。

19時
斎館より御社殿へと参進。

19時
御社殿では厳かに霊璽奉安祭が斎行。

國學院大學吹奏楽部とともに斎行される靖國神社の祭礼。

拝神の曲「国の鎮め」奉奏。

「オー」「オオォォォ」 神職による「警蹕」(けいひつ)が境内を木霊する。

國學院大學吹奏楽部による 「山の幸」が奉奏され、そして献饌。

宮司により祝詞が奏上される。

そして、御社殿の明かりが消え・・・

令和元年10月17日19時20分。

闇夜に包まれた聖域の中、
霊璽簿(神霊名簿)から御神体へと御御霊が御遷座なされる。
毎年、この秋の霊璽奉安祭にて明らかになった御英霊が新たに御本殿に祀られる。

長き年月を経て、ようやくに御祭神名が明らかになり、
こうして、新たに靖國の宮に祀られていく
御英霊に、
感謝と、
哀悼を、

246万6千余柱の御英霊に

明かりが戻る・・・

20時20分
祭主・祭員が退出

そして閉門へ。

ありがとうございます

上野公園の戦跡・近代史跡散策

令和元年10月

上野恩賜公園、通称は「上野公園」
「戦争に纏わる史跡」「近代史跡」としての公園散策をしてみた。

時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)

  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

海老名香葉子さんのもう一つの慰霊碑
「哀しみの東京大空襲」

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city005/index.html


上野大仏(上野大佛)

もともとは 明暦万治(1655~1660)頃に建立された像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れたが、明治6年に大仏殿が解体され、そして大正12年(1923)の関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴体部以下が上野寛永寺に保管され再建を目指すも資金難により頓挫。
昭和15年(1940)に顔面部を除く頭部及び胴体部は、戦時中の金属供出で失われ、現在は顔面部のみがレリーフとして、昭和47年に旧跡の地に安置された。これ以上落ちない合格大仏として現在では信仰を集めている


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成8年7月
 台東区教育委員会


グラント将軍植樹碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント
南北戦争時の北軍の将軍
アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領として第18代アメリカ大統領(1869‐1877)に就任。
1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団と会見。
大統領職後の1879年7月から9月まで国賓として日本に滞在、アメリカ大統領経験者では初めて日本にきた人物でもある。

「Let us have peace」
将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む植樹碑。

グラント将軍植樹碑
上野公園八番
 明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
 平成4年11月
 台東区教育委員会


明治天皇日本美術協會行幸所阯

上野の森美術館

史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和16年8月文部大臣指定

昭和18年3月建設


西郷隆盛銅像

西郷像は高村光雲作、犬(ツン)は後藤貞行作
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が説かれたのをきっかけに建設計画が始まり、明治31年(1898)12月18日に西郷隆盛銅像除幕式が行われた。
銅像の高さは370.1cm。頭部が大きく見えるのは足下からの遠近法を考慮したデザインという。

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

近くには、かなりの年代を経たと思われる燈籠が残されていた。


西郷像の右手に。

摂政宮関東大震災視察碑

大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日 天皇陛下此に臨御あらせられ親しく街衢の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす。

西郷像の奥に。

彰義隊の墓

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年3月
 台東区教育委員会


そのほか

楠木正成像(皇居外苑)

令和元年9月撮影

楠木正成像

「東京三大銅像」のひとつ。(残りは上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像)
本体の高さは約4メートル、花崗岩の台座を含めると8メートルに及ぶ。

別子銅山開坑200周年事業として住友財閥から宮内庁に献納されたもの。

高村光雲と後藤貞行らの制作による、我が国で初めての分解鋳造法による銅像。
明治29年(1896年)9月、銅像が完成。
明治33年(1900年)台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工。

像は台座正面から見ると背を向けているが、これは皇居に背を向けない配慮という。

住友グループ広報委員会>住友の歴史>楠木正成像

 この楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されものだ。明治22年(1889年)末、当時の住友総理人の広瀬宰平(初代総理事)は、翌年に別子銅山開坑200周年を控え、住友家13代当主住友友忠と相談し、別子銅を用いて銅像を製作し献納することを決めた。
 製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。

https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/kusunoki/

環境省>皇居外苑>楠木正成像
皇居外苑の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた騎馬姿の武者像が楠木正成の銅像です。この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治33年7月に完成し献納されたものです。

https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html

 楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年‐1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
 この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。

自臣祖先友信開伊
予別子山銅坑子
孫継業二百季亡
兄友忠深感国恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
家允未果臣継其志
菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識

台座の銘文には、住友家第15代・住友友純(住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟)の銘で、「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

護衛艦「いずも」体験航海(令和元年)

令和元年10月4日

先日、護衛艦いずも体験航海(横須賀港~横浜港大さん橋) に参加する機会がありました。

ベイブリッジを通過する「いずも」

「いずも」での体験航海は実は4年ぶり2回目。
前回も今回も、水交会での乗艦でした。

以下、写真メインで。

「いずも」ヴェルニー公園

潜水艦が航行していました。

「いずも」逸見岸壁

「いずも」エレベーター

「いずも」甲板

吉倉桟橋
DD-101 むらさめ 出港

自衛艦旗

「いずも」出港

てるづき乗員の見送り

かわいい

帽振れ

横須賀地方総監部

横須賀港(潜水艦)

横須賀港(吉倉桟橋)

てるづき DD-116 

こんごう DDG-173
いかづち DD-107
はたかぜ DDG-171
はるさめ DD-102

米軍基地

横須賀港 東北防波堤東灯台(赤灯台)

行き違う艦船

あさゆき DD-132

ちょうかい DDG-176

えんしゅう AMS-4305

よこすか (JAMSTEC)

日本郵船 NYK LINE
GRACE BARLERIA グレース バレリア

航行中の自衛艦旗

いずも艦内

いずも艦内神社は別記事にて。

富士山

いずも艦橋

横浜ベイブリッジ通過

日本郵船「氷川丸」

海上保安庁 横浜海上保安部

いず PL-31

奥には先行していた「むらさめ」

あきつしま PLH32

米国陸軍 横浜ノース・ドック

アメリカ海軍音響測定艦エイブル US NAVAL SHIP ABLE

アメリカ海軍高速輸送艦グアム US NAVAL SHIP Guam

横浜・関内

横浜の町並みは海から見ると、より一層美しさを感じる。
中央に神奈川県庁舎。

横浜税関

神奈川県庁

日本郵船歴史博物館

赤レンガ

大さん橋

横須賀水交会部隊研修懇親会

航路

航海時間 3時間
 13時30分 横須賀 海上自衛隊横須賀地方総監部出港
 16時30分 横浜  大さん橋入港
航行距離 約26キロ

写真多めでお送りいたしました。

阿波丸事件殉難者之碑(増上寺)

令和元年9月参拝

阿波丸事件殉難者之碑

芝の増上寺境内に建立。

日本郵船が所有していた貨客船「阿波丸」は、三池丸級貨客船3番船として建造され、もともとは豪州航路向けであったが、開戦後の1943年3月5日竣工となり、海外航路に就役することもなく陸軍徴傭船となる。

阿波丸
 総トン数 11,249トン
 全長 154.97メートル
 最大速力 20.8 ノット

昭和20年、残存する輸送船のなかで程度がよく優秀だった阿波丸は「緑十字船」となる。
日米間の協定で「赤十字船」(病院船)に準じた保護が約束され「緑十字」の識別マークが描かれ、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊に通知し、攻撃しない約束がされていたはずの船であった。

阿波丸事件
昭和20年4月1日、シンガポールから日本に向けて航行中であった貨客船「阿波丸」がアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュに雷撃により撃沈。
2000人以上の乗客のほとんどが死亡した事件。
阿波丸事件(wikipedia)

合掌

緑十字船「阿波丸」
File:Awa Maru 11249gt.JPG
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Awa_Maru_11249gt.JPG より

碑文
 阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に当っていた。国際法でその安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有余名、世界史上最大の海難事故となった。
 加害者に対する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが国は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の真相を究明せず、米国に対する賠償請求権を国会の決議として放棄した。いまや平和の時代となり、経済は復興したが戦争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、帰らぬ人のことを思ひ続け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船体の引揚げ遺骨の拾集も実行に移されないままである。
 三十三回忌に当り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。
 昭和52年4月1日 
 阿波丸事件犠牲者 遺族一同

納骨
 犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。遺骨の拾集は遺族の三十五年の永きに渉る悲願であり、これが実現に尽力された中国の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。
 昭和54年 7月5日 納骨
 昭和55年 4月1日 納骨
 昭和56年5月29日 納骨
  阿波丸遺族会


昭和52年10月1日
青木一男著

この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩知人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ完成したものである。

芝の増上寺

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)

令和元年9月撮影

港区芝大門の日本赤十字社本社前庭に。

慰霊碑には明治27年の日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の合計1326人の名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められている。

合掌

殉職救護員慰霊碑
 この慰霊碑及び救護看護婦立像は、日本赤十字社創立以来、戦地或いは災害の現場において救護活動に従事し、このため殉職された救護員の方々の御霊の安らかならんことを願い、創立百周年行事の一環として昭和52年に建立されたものです。
 立像は、元東京芸術大学教授 菊池一雄氏 の彫塑によるものです。
  日本赤十字社

http://www.jrc.or.jp/activity/international/news/140815_002057.html

日本水準原点標庫(参謀本部陸地測量部跡)

令和元年9月撮影

かつて陸軍参謀本部があった地。
この場所に残されている「大日本帝国」を物語る遺構。


日本水準原点標庫

「日本水準原点標庫」は、日本水準原点を保護するための建物。
明治24年5月に、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。
東京都指定有形文化財(建造物)

「日本水準原点をご存じですか?」

(東京都千代田区永田町1-1-2 国会前庭北地区憲政記念館構内)

 この石造りの建物の中には、国内の高さの基準となる日本水準原点が設置されています。
 土地の高さ(標高)は平均海面を0mとして、そこからの高さで表しますが、実用的には地上のどこかに標高の基準となる点を表示しておく必要 があります。
 このため、1891年(明治24年)に陸地測量部では、この地に標高の基準となる点(水準原点)を造りました。当時、隅田川河口の霊岸島で行われていた潮位観測(6年間の平均値)と、霊岸島からこの地までの高さの観測(水準測量)結果を用いて、建物内部の水晶板目盛りの0表示の高さを、東京湾平均海面上24.500mとしました。
 その後、1923年(大正12年)の関東大震災により地殻変動が生じたため、地震による影響のなかった地域からの水準測量データや油壺の験潮データを用い、原点が86mm沈下したことを確認し、原点数値を1928年 (昭和3年)3月に24.4140mと改定しました。
 さらに、2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震による地殻変動で24mm沈下したため、2011年(平成23年)10月に原点数値を 24.3900mに改定しました。

https://www.gsi.go.jp/common/000198165.pdf

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる店である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

「大日本帝國」銘

菊の御紋ととにも「大日本帝国」と刻まれている。

大日本帝国

菊の御紋

大日本

帝国

「水準原点」

扉の中に「日本水準原点」がある。
年に一度、 測量の日(6月3日)近くに一般公開(開扉)されている。


日本国の原点標高は神奈川県三浦市の国土地理院油壷験潮場の験潮(検潮)と、定期的に行われる原点水準測量によって点検されている。

潮位を測る「油壺験潮場」はこちら


「日本経緯度原点」は麻布台にある。


電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


周辺には「一等水準点」が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊

「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。


場所

東京都千代田区永田町1丁目1番2
国会前庭洋式庭園内(国会前庭北地区、憲政記念館構内)。
北緯 35度40分37.9899秒、東経 139度44分52.2492秒

今昔マップにて位置関係を参照。

https://goo.gl/maps/Y71sUphehx7hGimW8