伏見宮家別邸(祥雲寺)

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令和の、とある冬の日の参拝。

東京都豊島区。
要町駅のほど近くに鎮座する寺院「祥雲寺」。
境内に珍しい建造物があるというので足を運んでみました。

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祥雲寺と伏見宮家別邸

祥雲寺は小田原北条氏の天文元年(1532)に江戸城内に開山。徳川家康の江戸整備により、江戸城から神田・日暮里・白山と遷座。
大正4年に豊島区の現在地に鎮座。

昭和9年(1934)3月4日の火災で寺院堂塔すべてを消失。

この時の住職(第三十世)は、住職として寺を守るとともに、市ヶ谷の陸軍士官学校で教鞭をとっていた。その時の学生に皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の支援に奔走し、伏見宮家別邸が移築されることとなった。

そうして火災後の伽藍復興に努めていた祥雲寺は伏見宮家別邸を譲り受け昭和10年2月に移築。寺院再建までの仮本堂として伏見宮家別邸を使用された。
譲り受けたのは2つの和館と洋間の3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職宅)として用いた。その後、西御殿は祥雲寺と縁の深い神奈川県伊勢原市の「勝興寺」に移築された。

宮邸移築の経緯
東京大学心理学部を卒業した第三十世和尚は、住職として寺を守る傍ら、市ヶ谷陸軍学校で教鞭をとっていました。その時の学生の中に若い皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の窮状に接して、縁りの方々に呼びかけてくれました。そして昭和10年、祥雲寺に運びこまれたのが、今の中野坂上あたりにあった伏見宮家別邸です。譲り受けたのは、同家の兄弟が使用していた2つの和館と洋間の計3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職の住まい)として用い、戦後の苦しい時代を過ごしました。その後、西御殿は祥雲寺と縁りの深い神奈川県伊勢原「勝興寺」※に移築され、法事等の客間として使われています。
※先代住職の時代から祥雲寺と縁りがあり、現在は、祥雲寺住職の実弟が住職を努める。

祥雲寺>施設ご案内>別邸 https://shounji.com/info/bettei/

伏見宮家別邸

中野区中央一丁目(小淀町)にあった伏見宮家別邸は、もともとは山岡鉄舟の邸宅であったものを明治19年(1886)に伏見宮家に献上されたことにはじまる。
山岡鉄舟邸は、伏見宮家に献納され伏見宮家別邸として使用されてきたが、昭和16年(1941)に民間に払い下げられた。
この地に、山岡鉄舟を開基とした「高歩院」(山岡鉄舟の諱が山岡高歩)が開山。

この移築された建造物が、山岡鉄舟時代からのものかどうかは不詳であるが、趣深いゆかりがあった。

余談だが、境内にはソーラーパネルが巧みに設置されていた。
非常にアグレッシブさを感じさせる寺院でした。

そして祥雲寺の新しい試みが、お寺のカフェ「ぼうず’n coffee」
私が参拝した際はお休み中でしたが、不定期に営業しているらしい。

撮影はしていなかったが、境内墓苑には「首切り浅右衛門(七代目山田浅右衛門)」「松本藩戸田氏」「石ノ森章太郎」の墓などがある。


祥雲寺 公式サイト

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