「海軍」カテゴリーアーカイブ

5月27日「海軍記念日」

日露戦争・日本海海戦を偲びし日。
歴史を刻んだ帝国海軍を偲びし日。


1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定 


日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
 聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押)
昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

皇國興廃在此一戦

「皇國興廃在此一戦」
元海軍大将 長谷川清書 (大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた。

行進曲軍艦碑

行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。
日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。
世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)


三笠

東郷平八郎司令官と幕僚たち

東郷神社 平成28年5月27日

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦

東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にて、バルチック艦隊と海戦

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ

Z 旗が翻る

1905年(明治38年)5月28日。
会戦翌日。

ロシア戦艦・バルチック艦隊旗艦「ニコライ1世」の降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定した。

勝利が確定した5月28日が 東郷神社の例大祭。


靖國神社の大灯籠 三笠レリーフ


「東郷ビール」(東郷平八郎ビール)
「Z旗ビール」
「焼酎・東郷」(薩摩・麦)
「横須賀・海軍ラムネ」(横須賀海軍工廠since1903)

連合艦隊解散之辞

東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策

平成28年6月

横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。

「飛行艇格納庫」

浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。
日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。
ワクワクしますね…

現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。

つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…


位置関係


897-C4-38
1944年10月14日‐陸軍撮影写真を加工
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より

南部市場駅

最寄り駅は横浜シーサイドライン「南部市場駅」


横浜海軍航空隊(浜空)
第三格納庫

横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。
補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。
道路から遠目に見学することをおすすめします。

監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。

GoogleMap航空写真からキャプチャ。


富岡総合公園

次いで富岡総合公園へ。
先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。


横浜海軍航空隊(浜空)隊門跡

富岡総合公園の南西側にあたる。

横浜海軍航空隊隊門跡。

浜空。
標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。

静かに往時の名残を物語っていました。


横浜海軍航空隊

略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。

昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。

海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。

そのよすがをたどる。

海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。

横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。
東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。

昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。

海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅…
(昭和17年10月部隊再建)


浜空の碑
(富岡総合公園・旧横浜海軍航空隊基地)

題濱空
大鵬渡海奏奇功
離島守防意気隆
衆寡難勝嗟惨々
至誠不抜憶濱空

昭和四十六年十月二十一日
ソロモン・ガブツ島ニ於テ
草鹿任一 花押

碑裏面

浜空の碑
この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり
これらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す
 昭和61年4月吉日

富岡総合公園。
旧・横浜海軍航空隊基地跡。

浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。
ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。

実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。
昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。

「最後の飛行艇」日辻常雄
水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。

この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。
2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。


二式大艇(二式飛行艇)

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示

連合国コードネームEmily。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」

飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。

帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…

船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影)

鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。
いつかは行かねばなるまい土地です・・・。

筑波空記念館には二式大艇のプロペラエンジンの遺品もありました・・・。

大艇ちゃん・・・。

さて、脇道にそれ過ぎましたね。

横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。

余談ついでに。
二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。

これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。

話の筋を戻して富岡総合公園に。
この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。

現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。


浜空神社跡

浜空神社由来

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。
その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。
浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。
横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。
隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。
今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。
時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。
昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。
引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。
作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。
中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。
この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

鎮魂
海軍飛行艇隊

石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。

海軍飛行艇部隊の犠牲者に。
慰霊と鎮魂、そして感謝を。

かつてこの地は浜空神社であった。

が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。

濱空神社の碑

此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。
名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。
昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。
毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。
石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。
此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。

平成二十年八月吉日  
遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社
世話人代表 加藤亀雄

浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。
まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。
ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…


浜空神社
(遷座先の横須賀追浜・雷神社境内)

追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。
正確に言うと遷座してきた。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。

維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。

「浜空神社」
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。
遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。

浜空の地では毎年4月に慰霊祭が斎行されております。

水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。
浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。


公園の奥に。

富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。
名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。

海軍・横須賀水道関連施設遺構

道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。

どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw

石段跡を上ると不思議な空間が。
通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。

富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」
通気管のようなものを覗いてみます。
ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。
この下には貯水空間が残っている雰囲気。

この塔状構造物は全くもって何かよくわかりません。
6本ほど林立してました。

封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。
あとはコンクリ基盤が二箇所。

まあ、とにかく藪蚊がすごいです。
やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw

富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。

ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。


富岡総合公園見晴らし台。

風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に(

横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。

富岡総合公園見晴らし台。

第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。

富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。

さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。

日本飛行機

奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」
戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。

シーサイドラインの車窓から「日本飛行機」(日飛/ニッピ)の工場群を眺める。

日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。

日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。
そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…

http://www.nippi.co.jp/history/index.html

http://www.nippi.co.jp/history/history1940.html


場所は変わって根岸に。飛行艇つながり。

根岸飛行場跡
(大日本航空横浜水上飛行場跡)

現在は往時を物語る案内看板のみが残る。
横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。

根岸飛行場跡
 昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。

97式大艇
2式大艇「晴空」型
イラスト・小川利彦

磯子区根岸地区連合町内会
横浜磯子ライオンズクラブ 
磯子区郷土研究ネットワーク

大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。
そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。

位置関係

「根岸飛行場跡」
当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。
今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。

「根岸飛行場跡」
大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定)

橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。

さきほどの橋は「八幡橋」。

八幡様が鎮座している。
八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。

狛犬の表情がとても豊か。
大正8年

こちらの狛犬さんは何かを咥えていますね。
兎のようにもみえますが・・・。

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。

社頭に

敬神 東郷平八郎謹書

横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。
色々垣間見た横浜南部の散歩でした。

大阪護國神社

平成29年(2017)参拝

大阪府に戦没者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったために、昭和15年に内務大臣指定護國神社として創建。

御祭神
明治維新前後の天誅組8柱をはじめ、西南の役、日清日露戦争、大東亜戦争に至る大阪にゆかりのある10万5600余柱の英霊を祀る。

敗戦後は進駐軍の監視のもとで慰霊祭が禁止され、社号も改称せざるを得なく、大阪浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇を祀り「浪速宮」と改称して存続。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結後に「大阪護國神社」に復称。奉安殿に仁徳天皇をまつり、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに祀っている。

御朱印

大鳥居

大阪府最大級の鳥居

昭和15年の社号標

御社殿

10万5600余柱の英霊を祀る

奉安殿

仁徳天皇 東郷元帥を祀る。

ほまれの宮

御英霊と深い絆で結ばれ亡くなられた戦友やご家族の皆様を御英霊のおそばでお祀りするお社。


さざれ石

母に感謝の像

辛い時 悲しい時
 何時も 私達を
力強く抱きしめ
 励まし育ててくれた
母の姿を
 忘れてはならない
お母さん
 ありがとう

財団法人 日本遺族会
 会長 古賀誠 書


あゝ特攻 特攻勇士之像

平成21年10月建立

特攻勇士に捧ぐ
 大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和19年10月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当りする特別攻撃を敢行、遥かな南の空や海に散華されました。
 私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが身命をかけて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその尊い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
 平成21年10月24日
  (財)特攻隊戦歿者慰霊平和祈念協会
   日本人の心を伝える会
   碑文・揮毫 吉田 學
   慰霊碑像デザイン 塚本 哲


慰霊碑

大阪護國神社のサイトを参照

http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/

慰霊碑は東西の区画にわかれている。

大日本帝国海軍
海軍関係戦没者 慰霊碑

碑文
 明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝國海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和20年8月15日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
 この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御楯として散華した。
 大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
 海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以ってその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
  昭和60年5月
   海軍関係戦歿者慰霊碑建立委員会
    委員長 岡山幸男

建立・管理建立委員会委員長 岡山幸雄
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日昭和六十年六月
慰霊祭の主催者水交会
祭神数五四,○○○柱

豫科練 
貴様と俺と翼の碑

碑文
 昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
 予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
 我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。
 嗚呼
昭和57年12月5日
 関西甲飛会 建立

建立・管理関西甲飛会
建立年月日昭和五十七年十二月
慰霊祭の主催者関西甲飛会
祭神数一八,○○○柱

鎮魂 
第三十四師団通信隊

第34師団は昭和14年(1939)に新設。大阪にて編成。中国戦線に派遣される。

建立・管理健通会
建立年月日昭和五十九年三月
慰霊祭の主催者健通会
祭神数八八柱
軍馬・軍鳩之碑

つわもの之碑 
野砲兵第二十六聯隊

建立・管理野砲兵第二十六連隊
揮毫者陸軍少将正四位 吉富徳三
建立年月日昭和五十年四月
慰霊祭の主催者野砲二六会
祭神数四,三七七柱
軍馬之碑

龍山歩兵第七十九聯隊
戦友はここに眠る之碑

建立・管理歩兵第七九戦友会
揮毫者山崎孝三
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者歩七九会
祭神数一八,○○○柱

慰霊
海軍第一期 飛行専修予備生徒慰霊碑

 海軍第1期飛行専修予備生徒は、戦雲急を告げる昭和18年12月10日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戦に参加した。
 主として沖縄特攻、その他数々の戦場に於いて我々は同期165名を失った。
 戦後30年ここにその名を銘記し、今は亡き戦友の御霊を永遠に弔うものである。

建立・管理海軍第一期飛行学生
建立年月日昭和五十一年八月
慰霊祭の主催者一生会
祭神数一六五柱

サイパン島戦没者慰霊碑

明治二十九年、歩兵四十聯隊は大阪歩兵二十聯隊に仮兵舎をおいて聯隊本部を設置したことに始まる。
明治三十年に大阪から鳥取に転営。
大東亜戦争では歩兵第四十聯隊第三大隊がサイパンで玉砕。本体は本土決戦準備のため宮崎へ移動、そこで終戦を迎えた。

建立・管理サイパン奉賛会
揮毫者鳥取四十連隊長 愛甲立身
建立年月日昭和四十五年五月
慰霊祭の主催者サイパン奉賛会
祭神数五○,○○○柱

海軍大尉 粟井俊夫之碑

粟井俊夫命
神風特攻第三筑波隊にその名が確認できる。
飛行科予備学生第14期。 昭和20年4月16日に沖縄方面の機動部隊に対して特別攻撃を敢行。

建立・管理粟井岩吉
建立年月日昭和四十四年五月吉日

慰霊
独立輜重兵 第五十四大隊慰霊碑

昭和16年に大阪にて編成。東北満州の警備に当たる。昭和19年3月に中国戦線に転戦し、終戦。

建立・管理独立輜重兵第五十四大隊
建立年月日昭和五十二年八月
慰霊祭の主催者独立輜重兵第五十四大隊
祭神数六三九柱

歩兵第二百十七聯隊之碑

第34師団隷下。昭和14年に大阪にて編成。

建立・管理歩兵第二百十七連隊
揮毫者内閣総理大臣 田中角栄
建立年月日昭和四十八年三月
慰霊祭の主催者歩二一七会
祭神数二,三○五柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第十四聯隊之慰霊碑

明治8年に小倉で創設。昭和15年以降の徴募区は大阪を主体とする。昭和20年4月、本土決戦部隊として宮崎に進駐、終戦を迎える。

建立・管理大阪勝山会有志
建立年月日昭和六十三年十一月
慰霊祭の主催者大阪勝山会
祭神数七一一柱

騎捜会
鎮魂之碑

建立・管理騎捜鎮魂会
騎兵第四連隊
捜索第四連隊
騎兵第二十八連隊
捜索第二十連隊
ほか
揮毫者大阪府知事 岸 昌
建立年月日昭和六十年十月
慰霊祭の主催者騎捜鎮魂会
祭神数一,四○○柱
愛馬之碑

鎮魂
歩兵第二百十六聯隊鎮魂碑

建立・管理歩兵第二百十六連隊戦友会
建立年月日昭和五十二年九月
慰霊祭の主催者歩二一六会
祭神数二,三六二柱
軍馬・軍犬・軍鳩之碑

歩兵第百八聯隊
つわもの之霊
ここに鎮まる

建立・管理歩兵第百八連隊
揮毫者服部敏夫
建立年月日昭和五十三年十月
慰霊祭の主催者歩百八会
祭神数一,三○○柱

騎兵第四聯隊慰霊碑

建立・管理騎兵第四連隊
揮毫者大槻 章
建立年月日平成六年十一月
慰霊祭の主催者
祭神数三,○○○余柱

歩兵第三十七連隊慰霊碑

建立・管理歩兵第三十七連隊
揮毫者陸上幕僚長 杉田一次
建立年月日平成五年十一月
慰霊祭の主催者歩三七会
祭神数二,○○○余柱

檜 第六十八師団
慰霊碑

建立・管理檜第六十八師団
慰霊碑建立委員会
揮毫者大場軍勝
建立年月日昭和六十二年十一月
慰霊祭の主催者檜会
祭神数一○,六七二柱

平和の礎 歩兵第八連隊之慰霊碑

建立・管理歩兵第八連隊
揮毫者大阪護國神社宮司 柳澤 寮
建立年月日平成元年五月
慰霊祭の主催者歩八会
祭神数二,七○○柱

信太山砲四会之碑
鎮魂

建立・管理信太山砲四会
建立年月日昭和五十七年四月
慰霊祭の主催者信太山砲四会
祭神数七,五○○柱
愛馬の碑

香8114部隊の碑
殉國の英霊 このところに鎮まる

建立・管理独立歩兵第六十七大隊
第四中隊
揮毫者中山二郎
建立年月日昭和五十三年八月
慰霊祭の主催者香親会

塩沢幸一題
皇風洽六合 明徳侔太陽之碑

塩沢幸一海軍大将。海軍兵学校第32期。同期は堀悌吉、山本五十六、吉田善吾、嶋田繁三郎ら。日米開戦時は軍事参議官。山本五十六戦死時に国葬の司祭長を勤めた。昭和18年11月に病死。

建立・管理岡本忍一
揮毫者海軍大将 塩沢幸一
建立年月日昭和十七年八月

参拝は2月下旬。境内には梅が咲きつつある春間近な季節。
御英霊に感謝と哀悼の祈りを捧げつつの参拝。

ありがとうございます。

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html

空母赤城と赤城神社

平成28年(2016)9月撮影

空母赤城に関係する神社を。

大洞赤城神社・旧鎮座地。
社頭向かって左側にある「碑」

大日本帝国
軍艦赤城奉納碑

境内地は立入禁止ゆえ望遠トリミングで。

奉納は昭和10年10月とのことです。

「赤城」の関係者が奉納した歴史を感じつつ、往時を偲ぶよすがとして。

大洞赤城神社・旧鎮座地

昭和45年(1970)現在地に遷座するまでは大洞赤城神社はこの地に鎮座していた。
現在は旧地として空間が残っている。

尚、旧社地は立入禁止。外側から遠巻きに拝見させていただく。 

大洞赤城神社・現鎮座地

大洞赤城神社

群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座。
式内名神大社論社、上野国二宮論社、旧社格は郷社。
正式な社号は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」と呼称。

御祭神
正殿 赤城大明神
大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神

創建年代は不詳。社伝では豊城入彦命(崇神天皇皇子・上毛野君や下毛野君の始祖)が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したと伝承。

平安時代中期編纂の「延喜式神名帳」では名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載あり。
ただし式内論社としては赤城山頂に鎮座する当社「大洞赤城神社」のほか、山腹の「三夜沢赤城神社」、山麓の「二宮赤城神社」もある。

当社は赤城神社の「山宮」とされている。 「里宮」とされる二宮赤城神社に対して、三夜沢赤城神社も「山宮」とされる説もあり、このあたりの三社の関係はややこしい。

明治の近代社格制度では郷社列格。 (なお三夜沢赤城は県社、二宮赤城は郷社)
三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて「国幣中社」にしようとする動きもあったが、終戦により社格制度が廃止され、これは実現はしなかった。

昭和45年(1970)。
社殿が荒廃したために、大沼南端の畔の旧社地(大洞地区)より、現在地の小鳥々島に遷座。
現在の社殿はその時の再建となる。


三夜沢赤城神社
赤城会奉納札

空母赤城会の奉納。 (赤城空母会とも)

三夜沢赤城神社

群馬県前橋市三夜沢町鎮座。
式内社名神大社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 赤城三社のうち(二宮・大洞・三夜沢)で、当社が唯一の県社列格。
御祭神は、赤城神・豊城入彦命・大己貴命

創建は不詳。
崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる。
豊城入彦命は上州の上毛野氏・下毛野氏の祖。

崇神天皇の長男であった豊城入彦命がどうして東国に派遣されたか。
書記曰く。
崇神天皇が皇太子を定める際に豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)を呼び寄せ「皇太子を決めかねている。お前たちの見た夢で占うことにしよう」と仰せられた。

夢を見た翌日の報告
兄の豊城命は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振りました」と申し上げた。
弟の活目尊は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払いました」と申し上げた。

崇神天皇は夢占いをなされて、
「兄は東方に向かって武器を振るっていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と仰せられた。
そこで弟の活目尊を皇太子(のちの垂仁天皇)に立て、兄の豊城命は東国(毛野国=上州)を治められた。

崇神天皇といえば、大和朝廷の権力を周辺に拡げていた時代。

すなわち四道将軍を任命し、大毘古命を北陸に、建沼河別命を東海に、吉備津日子命を山陽(吉備)に、日子坐王を山陰(丹波)に派遣。 出雲臣に圧力をかけ神宝を提出させ、三輪と伊勢の祭祀を整理し…と強権を振るっていた。

大和に従わない東国に対して。
四道将軍として大毘古命(孝元天皇皇子)を北陸道に、建沼河別命(大毘古命の子)を東海道に派遣、この両者が出会った場所が「会津」(福島県)となる。
そして武勇に優れた崇神天皇長男・豊城入彦命を更に東国に派遣し、毛野国から蝦夷ににらみを働かせる。

第10代崇神天皇は東国に皇子・親戚たちを派遣。
次代は四方を見渡し治世に優れていた弟・活目尊(のちの第11代垂仁天皇)が皇位を継ぐ。
兄・豊城入彦命が治める東国はまだまだ平定に時間を要し、こののち第12代景行天皇の皇子・倭建命(日本武尊)の東国派遣へと繋がっていくのだ。

三夜沢赤城神社・御本殿(県指定重要文化財)

社殿は、拝殿・中門・本殿となっており、本殿はより高台に鎮座。
本殿内には由良成繁(新田四天王由良具滋の末裔・新田金山城主)奉納の宮殿が納められている。

神社は好きだけど、本筋から外れるので簡単に〆

観音崎の戦跡散策(横須賀)

令和元年(2019)5月11日撮影・横須賀市

戦没船員の碑

午前中に「馬門山横須賀海軍墓地墓前祭」に参列し、午後はフリータイム。
一緒に行動していた友人から一言「観音崎行ったことある?」

実はわたしはまだ観音崎に行ったことがなく。事前調査で情報量が多すぎて怖気づいていたもので、この方面は「走水」まででした。

良い機会でしたので友人と「まずは斥候の気持ち」で「観音崎」に赴くことに。
結果としては、予想以上の情報量に圧倒されてしまい。

そんなわけで、今回がはじめての観音崎。
いろいろと散策が甘いかと思いますが、そこは諸先輩の後塵を拝しながら、初見のレポを以下に。

位置関係

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日‐米軍撮影

午前11時スタート

駐車場に車を止めて、散策開始。止めた場所は「観音崎自然博物館」の近く。つまり観音崎の南側。あとから思えばこの判断が失敗だったような。

観音崎公園の案内図

れんが構造物のマークもついているのが散策にはありがたいですね。

トーチカ跡?

まずは多々良浜近くの「トーチカ?」とされている海岸のコンクリート構造物を拝見。

南側の駐車場から一気に踏破をして、「戦没船員の碑」を目指します。この場所が実は前々から気になっていた地。駐車場も直線距離で一番近いところが南側だったので南に止めたというのもあったが、どうやらそれが失敗だったようで、直線距離が近い=急勾配。完全にトレッキングでした。

なお、墓前祭に参列したあとでしたので、革靴とワイシャツと・・・という格好。この格好で観音崎はダメですね。しかし動き出してしまったのであとの祭り。

戦没船員の碑

かつて第二次世界大戦や海難事故の犠牲となり海洋で失われた6万余人の船員たちの霊を慰める慰霊碑。

戦没船員の碑建立記

昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、わが国の海運水産界は6万余人に及ぶ尊い船員の生命と2500隻840万総トンを超える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。
それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし昔日にまさる反映をみるに至りましたが、私どもはこれら多くの戦没された船員の労苦を偲びその霊を慰めるとともに世界の海に二度とこのような悲劇をくり返さないように致さねばなりません。
こうした私どもの願いは昭和44年7月財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、多数の人びとの協力を得てここに記念碑を建て、戦没船員の名簿を納めることになりました。
見渡す限りの大海原、変わることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせてこの記念碑が永遠の平和の光となりますよう深い祈りを捧げるものであります。

昭和46年3月25日
財団法人 戦没船員の碑建立会
会長 足立正

殉職船員追悼式の記

昭和46年5月6日この碑前において 皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに全国遺族代表を招いて戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。
近来海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので本年4月財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し本日第一回殉職船員追悼式を執り行ない、以後5月15日を式日と定めて戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたしそのみ霊を慰めるとともに海洋永遠の平和を祈る式典を行うことにいたしました。
この追悼式には、大戦中輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、鎮魂と平和を祈念して奉納されます。
殉職船員追悼式が、わが国民の海洋精神高揚の一助となって海洋立国の認識を深めることを切に念願するものであります。

昭和56年5月15日
財団法人日本殉職船員顕彰会
会長 佐々木周一

戦没船員の碑

 第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。
 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、かつての練習船の錨などを配し、太平洋を望む格好のモニュメントとなっております。

設計/東京藝術大学教授 吉村順三
群像/東京藝術大学教授 菊池一雄

その後の進徳丸

 神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、老朽化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた障害を閉じました。
 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。

進徳丸
1923年に竣工した神戸高等商船学校の帆船練習船。
帆船練習船として21年、汽船練習船として16年、約1万1900名の船員を養成した。
太平洋戦争中は逓信省海務院の管轄。昭和19年に帆船から汽船に改良。石炭輸送従事中の昭和20年7月24日に米軍艦載機の攻撃で着底。昭和21年に引き上げ。その後は引き揚げ輸送や練習船として活躍し、昭和38年に廃船。

戦没船員の碑
 安らかに ねむれ わが友よ
 波静かなれ とこしえに

海に没した船員たちの御霊に合掌。
感謝と哀悼を。

戦没の地、太平洋。船員たちが活躍した舞台が描かれている。

群像

船員と人魚

戦没船員の碑
御製碑
御歌碑

天皇陛下御製 
 戦没船員の碑

戦日(いくさび)に 逝きし船人を
悼む碑の彼方に見ゆる
海平らけし

天皇陛下には、平成4年1月20日
皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされ、お詠みになられました。

皇后陛下御歌
かく濡れて 遺族らと祈る
更にさらにひたぬれて
君ら逝ゆき給ひしか

観音崎戦没船員の碑除幕式
激しき雨の中にとり行はれぬ

皇后陛下御歌 副碑
昭和46年5月6日
皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました
御歌はその時賜ったものです
御心が末永く語り継がれることを念願いたします。

行幸啓お成りの碑

記載以外でも葉山御用邸と併せて、この地に足を運ばれることもある。
直近だと平成31年1月に 天皇皇后両陛下が慰霊のために訪れている。8回目。

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会

http://www.kenshoukai.jp/index.htm

民間徴用船の参考(こちらにも行きたいのです)
「戦没した船と船員の資料館」全日本海員組合

http://www.jsu.or.jp/siryo/


大浦堡塁跡

戦没船員の碑のすぐ近く。
明治期の堡塁跡。「大浦堡塁(ほうるい)」の跡に、戦没船員の碑が建立されている。現在は、面影はほとんど残っておらず、「壁」と「階段」が残るのみ。


めがね橋

めがね橋は、明治時代に軍が資材運搬用の道路として切り開いた道に架けた橋で、初代のものは下図に示す、れんがによるアーチ構造であり、それが名前の由来になったようです。
現在の橋は、昭和40年台に架けた2代目のもので、一般的な鋼材による桁構造となりました。当時のれんがはは次第の一部に残っています。

dav

腰越堡塁(うみの子とりで

明治期の堡塁。現在は子供たちの遊び場「うみの子とりで」
かつての東京湾防御陣地が、アスレチック公園として有効活用。大人も子供も楽しめる場は、ある意味で史跡空間の有効活用かもしれない。

土塁への階段
砲座跡?

三軒家砲台跡

三軒家砲台跡
この砲台は明治27年12月15日着工、明治29年12月20日完成の27加砲4門12加砲2門の砲台で原形に近い形で残されています。
地下庫、見張所、井戸、便所等もありましたが昭和9年8月20日廃止されました。

三軒家園地 旧砲台跡
見張所へ続く階段
見張所
見張所
門柱
門柱金具
後方掩蔽部の入り口
弾薬庫は地下に。入り口。
後方掩蔽部の掘割通路
二十七センチ加農砲座の空間
二十七センチ加農砲座の空間
見張所へとつながると思われる階段
便所跡
井戸跡
イタチの通り道・・・ではなく伝声管を通す穴

完全に油断していました。比較的お手軽に見学できる遺構が残っていると聞いて言いましたが、これほどの規模が残っていて、見学できることに興奮気味。
もっと早くこの地に足を運んでおくべきでした。


三軒家砲台跡からいったん下に降りまして。
パークセンター方面に移動する途中、門柱の片側のみ残っていました。


観音崎砲台火薬庫
(パークセンター)

構造について
パークセンターの建物は、日清戦争の後、明治31年に旧日本陸軍が東京湾要塞の観音崎砲台の火薬庫として整備したものです。
構造は「木骨れんが造」の平屋建てであり、屋根部分は「キングポストトラス」と呼ばれる木造の洋小屋組、基礎部分は地盤面に通気性の良いれんがアーチが連続しており、火薬を保管するため、防湿性などの工夫が凝らされています。

改修工事について
平成23年までは。建設当時のれんが壁面にモルタルを塗り、白壁に改修され、観音崎青少年の村の集会室などととして利用されてきました。
パークセンターとして利用するにあたり、歴史的建造物の価値を最大限に活かし、白壁をはがし、れんが壁を再現・補修するとともに、現在の耐震基準を満たすように柱・梁の補強や新たにスロープを設置するなどの改修を行い、平成28年1月にオープンしてます。


観音崎

砂浜にある構造物。もともとは何だったのでしょうか?
戦前からあるのは間違いないです。
現在は桟橋は途中から消失してますね。

USA-M46-A-7-2-120
1946年02月15日の米軍写真を加工
GoogleMap航空写真

海岸散策

洞窟

日本武尊と弟橘媛命伝説と行基伝説。

観音崎灯台

これは二代目・観音崎灯台の残骸。
関東大震災で被災し撤去廃棄された
現在の観音崎砲台は三代目
観音崎燈臺所轄地の境界石
古さを感じさせる灯台への道

水中聴測所跡

昭和12年6月に完成した水中聴測所 跡(潜水艦を監視するソナーを設置)という。この周辺地域は現在は海上自衛隊の管理敷地のため、近づくことは不可。

この海上自衛隊観音崎警備所のある丘の場所は「北門第四砲台跡」ともいう。

この海上自衛隊観音崎警備所の敷地内には「ある慰霊碑」がひっそりと建立されていた。
第一富士丸遭難者の慰霊碑。
すなわち、なだしお事件・・・ 合掌

海岸から灯台に登る道の片隅に。

防二〇三
燈台所轄地 境界石
何かの小屋の跡

北門第一砲台跡

日本で最初に建築された近代砲台。モルタルがところどころ剥がれて下地のレンガが露出しはじめている。


北門第二砲台跡

北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが現在は4砲座と弾薬庫が残っています。

弾薬庫
一ノ一 一ノニと番号が振ってある。

隧道は通行禁止。弾薬庫への入口があった。

防衛施設庁と運輸省の境界石


東京湾海上交通センター

海上保安庁の所轄。


レンガトンネルの向こうにあるのが「北門第三砲台跡」

北門第三砲台跡


北門第三砲台跡、「海の見らし台」
見晴らしていたら、米軍艦が航行。


南門砲台

観音崎自然博物館のあるあたりもかつての砲台跡。

観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13~28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台は築かれました。これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したもので関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されています。この場所は南門砲台跡で当時をしのぶ姿はまったくありません。

15時ゴール

約4時間の散策、17000歩。iPhoneの「登った階段数」は65階と記録されておりました。

昼ごはん休憩を挟んだとはいえ、アップダウンの繰り返しで、久しぶりのハードウォーキングをした気持ち。
予想以上に見どころ豊富で、初見の下見としては大成功。またそのうち散策に期待ですね。季節が変われば見えてくるものも違ってきそうですし。

今回はこれでいったん〆

ソレイユの丘(横須賀第二飛行場跡)

平成30年8月訪問

横須賀第二飛行場(横須賀長井飛行場)跡

横須賀の「ソレイユの丘」と「航空自衛隊レーダー基地」のあたりに。
かつて飛行場があった。
が、本格稼働する前に終戦。
今は特になにもなく。
なんとなくそんな感じが残っている空間が広がっている。

横須賀第二飛行場(横須賀長井飛行場)跡

1955年(昭30)01月25日米軍撮影(USA-M76-59)
GoogleMap
1948年(昭23)04月10日米軍撮影(USA-M898-78)

空間に空港の名残を感じる場所。

大竹の海軍戦跡散策

平成29年(2017年)3月撮影

岩国方面でスキマ時間が出来た際に寄り道を。

天気は芳しくない中でも、隙間時間の過ごし方を悩む。
岩国観光をするか否か…。
悩んで結局はあるあるな岩国観光を止めて、敢えて大竹に足を運んでみました。


位置関係

USA-R507-3-155
1947年09月23日-米軍撮影写真を加工
現在の様子

大竹

昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」が設置。
昭和19年1月4日「大竹海兵団」改称。
戦後は大竹港港湾施設に転用。

大竹港には復員港となり昭和22年1月末までに、実に41万783人の在外の軍人や民間人が大竹港から復員している。

大竹駅到着は0930頃。
天気は不安定でしたが、ひとまず歩みを進めてみる。

大竹駅前。
長州方と幕府方の古戦場。

駅から歩くこと15分ほど。
工場エリアが目的地。

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内になります。
関係者以外立ち入り禁止…ですが臆せずに。
守衛所で「海兵団の碑を見に来ました」で立入許可を得られました。

香川隆昭様 より:2020年7月24日 11:08 午後
地元の資料を探していて、つい立ち寄りました。
三井 デュポン・ポリケミカルの写真3枚目、正門の奥にある平屋の大きな建物が海兵団当時の烹炊所です。

コメント欄より

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
海兵団当時の烹炊所ですが21年10月より取り壊して立て替えることになりました。内部は相当傷んで耐震は保証できないですからね。床などは石畳でできており歴史を感じます。

コメント欄より

こちらが「海兵団当時の烹炊所」という。
当時は何気なく撮影しておりましたが、往時の建物とは気がついておりませんでした。コメントありがとうございました。

改めて位置関係を確認。

国土地理院ファイル:USA-R507-3-155
1947年09月23日米軍撮影(一部加工)
GooleMap 一部加工

拡大


大竹海兵団跡之碑

三井 デュポン・ポリケミカル敷地内に鎮座。
碑の創建は新しく平成3年(1991年)。
工場の駐車場に鎮座。
現在、大竹海兵団の跡地は工場エリアとなっている。

碑文は出雲大社の千家達彦書

大竹海兵団跡之碑

碑文
 大竹海兵団は大東亜戦争を前にした昭和十五年十二月呉鎮守府管下の呉海兵団大竹分団として開団され、翌昭和十六年十一月二十日大竹海兵団として独立した海兵団は明治健軍以来海軍精神即ち、海軍魂を鍛えた伝統ある場所であった。
 曾ってこの地において大日本帝国海軍の基礎教育と訓練をうけるため各地より青少年が志願及び徴兵等によって入団し、尽忠報国の念に燃え愛する祖国のために血と汗と涙を流した人数は実に十五万数千人に達したと言われている。
 又基礎教育訓練終了後前線に配属され青春の尊い命を散華した英霊は数えつきない。
 茲に大竹海兵団創設五十周年にあたり同団関係者各位等のご協力により記念の跡之碑を建立して平和の尊さを永く後世に伝えるものである。

 平成三年十一月二十日建立
 大竹海兵団跡地記念碑建設委員会

大竹海兵団跡之碑
建立協力戦友会等名

軍艦伊勢、駆逐艦浜風、駆逐艦桜 どうしても艦に目がいってしまいます。

台座の敷石は、大竹海兵団の烹炊所の敷石が使われていたもの、と。
僅かに残る往時の名残。

この場所で、ふと「この世界の片隅に」での主人公、周作さんのセリフを思い出す。

昭和20年10月6日。
周作「わしらは大竹に移る。海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」
作中では描かれていない大竹での職務を夢想する。

※昭和20年12月1日。
海軍省は廃止され、かわって復員業務を主体とした「第二復員省」(第一は旧陸軍省)が設立。
周作「海軍も11月いっぱいでのうなった。お役御免じゃ」

昭和21年1月に広島草津の森田家に妹のすみちゃんの見舞いに帰っていたヒロインすずさんと広島での周作との再会に繋がるやりとり。

大竹海兵団跡之碑
海軍の足跡を辿り、往時を偲ぶよすがを。


さて、次の目的地へ。
潜水学校の名残を残す史跡が臨海部の公園に残っていると。

次の場所までは海兵団の碑からは20分ほど歩くことになりました。

大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった

末元雅也様 より:2021年10月1日 2:36 PM
大竹海兵団は塀の右側の工場エリアにあった・・・この右手の建物は当時からある飛行機の格納庫です。
3棟今でも倉庫として使っております。表からはスライド式の横開きのドアがまだ残っており床にもレールの跡が残っております。

コメント欄より

道すがら。
道路の下に瓦礫があった。おそらく往時からのものと推測。

正面の山は「宮島」
右手が「大竹海兵団跡」
古そうな橋。大竹港に向かう。

大竹港

大竹港に着きました。

大竹港(あこがれみなと)
引き揚げ港として、望郷の想いから来ているかどうかは知りません。
港についたら、ちょうど雨風が酷いことになりました…宮島も霞んでます。

大竹港を北に歩いていくと、「東栄地区港湾緑地」にたどり着きます。
ここが次の目的地。


海軍潜水学校探知講堂跡

「東栄地区港湾緑地」に保存されている不思議なモニュメント。
海軍潜水学校探知講堂の一部。

昭和17年。海軍潜水学校が呉から大竹に移設。
潜水学校探知講堂は、柱によって海上に建てられた施設。
ここで潜水艦のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われた。

旧日本海軍潜水学校探知講堂
 昭和15年12月、旧日本海軍の呉海兵団大竹分団が大竹に開設され、昭和16年11月に大竹海兵団として独立しました。さらに、昭和17年11月には海軍潜水学校が呉から大竹へ移転し、潜水艦の乗組員を養成するための訓練が行なわれました。
 地方港湾大竹港港湾整備事業により、現在緑地となっているこの場所は、以前は海で、昭和17年に建築された探知講堂(正式名称:電測水測講堂)がありました。探知講堂は15本のコンクリート製の柱で支えられて海上に立つ特異な構造で、潜水艦の乗組員が艦船のスクリュー音を聞き分ける訓練が行われていたと伝えられています。
 海軍潜水学校が大竹にあったことをしのぶため、探知講堂の一部を切り取り、モニュメントして整備しました。

海軍潜水学校探知講堂の一部。

近年まで海上に残されていたが大竹港・大竹工業団地の埋め立て事業により、平成20年(2008年)に現在の形に切り取られて保存された、と。

何もないよりかはマシだけど、陸上でも建物として完全体で保存して欲しかった。 空間に余裕のあることだし・・・もう遅いけど。


この時が雨のピークで、臨海部で酷い目に遭いました。
しばらく雨宿りしていたら、雨も落ち着いてきてお天気雨に。
宮島も姿を見せてくれました。

このあたりの構造物も、もしかしたら往時と関係あるかも。

大竹駅にもどりました。

大竹の海軍史跡散策は90分くらいを要しましたね。
ほとんど歩いてました。

大竹海兵団の碑見学に際しての工場敷地立入に感謝して、三井デュポンポリケミカルさんの製品を眺めたり。(すごくお馴染みの製品でした。)

大竹駅、良き雰囲気です。古レールが多用されてますね。

馬門山横須賀海軍墓地墓前祭

令和元年(2019)5月11日

第64回馬門山横須賀海軍墓地墓前祭が、令和元年5月11日、午前9時30分から約1時間にわたり、まるで夏のような日差しが降り注ぐ新緑の墓苑にて開催されました。今回はじめて参列してまいりました。

馬門山久海軍墓地合祀者霊位

祖国のために散華された御英霊を追悼
感謝と哀悼の誠を捧げる


令和元年度(第64回)
馬門山横須賀海軍墓地墓前祭次第

日時 令和元年5月11日(土) 9時30分から10時30分
場所 馬門山横須賀海軍墓地

1開会の言葉
2国歌斉唱
3追悼のことば
4黙とう
5儀仗隊拝礼
6弔銃発射
7献花
8閉会のことば

主催
 大津地区社会福祉協議会
 大津地区連合町内会
 横須賀水交会
 隊友会横須賀支部
 大津観光協会
協力
 海上自衛隊横須賀教育隊
 湘南学院高等学校

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馬門山墓地(旧海軍墓地)

 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」

 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

墓前祭

来賓 海上自衛隊や県市議会議員や行政関係者など

中央席の最前列は遺族・遺族関係者席
中央2列目以降は町内会や一般参列者など
海上自衛隊の音楽隊
横須賀市長 追悼のことば

国歌斉唱


黙とう
追悼の譜 「国の鎮め」演奏

儀仗隊
儀仗隊

捧げ銃

儀仗隊 捧げ銃

弔銃発射

「命を捨てて」
弔銃のときは、譜の8小節を速度早く、毎発射後直ちに奏する。

弔銃発射

墓前祭、終了は10時20分頃でした。


馬門山海軍墓地の慰霊碑参拝と写真はまた後日。
この日は会場の邪魔にならないように墓前祭の参列のみで。

良き天気の下、馬門山横須賀海軍墓地墓前祭は滞りなく執り行われました。

厳粛な空間の中での、ひととき。
御英霊に感謝と哀悼を捧げることが出来ました。
ありがとうございました。

御供物

横須賀水交会も協力となっております

横須賀水交会

http://y-suikoukai.sakura.ne.jp/index.html

横須賀市

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2488/kankou/20190511mamonzan.html

「第六潜水艇」の戦跡散策

平成29年3月 山口県岩国市及び広島県呉市

和木駅から岩国駅方面に南下。
歩くこと20分程ほどで目的地「第六潜水艇記念碑」に到着。


第六潜水艇受難者記念碑
(第六潜水艇記念碑)

第六潜水艇受難者記念碑
元海軍大将 高橋三吉 謹書

第六潜水艇。
佐久間艇長ら乗組員が殉じられた海は、この岩国の沖合いだった…。

第六潜水艇受難者記念碑

碑文
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました
引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました
潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました
殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました
偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ました
かくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました
茲に後世のためにこの次第を記します

昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会

第六潜水艇受難者記念碑

第六潜水艇。 潜水技術黎明期の不慮の事故は、佐久間艇長らをはじめとする乗組員のまさに命を懸けた対処を踏まえ。こののちに発展をしていくこととなる。

碑には、佐久間艇長(佐久間勉 海軍大尉)ら14名の受難者名が刻まれていました。

第六潜水艇受難者記念碑

佐久間艇長遺書
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ  中略

公遺言
謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」

原文ノママ

乗組員の使命感、佐久間艇長の沈着剛勇精神は多くの日本人に感銘を与えた、という・・・

第六潜水艇の沈没場所。
現在地より東方約2000米。

明治43年4月15日午前10時頃。

その沈んだとされる岩国の海を望む。 向こうにくっきり見えるは阿多田島。

海の方に向き、静かにこうべを垂れ、手を合わせる。
合掌


第六潜水艇受難者記念碑と同じ空間には明治百年記念碑が。
こちらは、岩国の新湊商工連盟。

第六潜水艇受難者記念碑のある高台は、潜水艇が沈んだ海を見渡すことが出来る。
実は線路の上でもあった。


附記【第六潜水艇受難之碑】

岩国の沈没現場を訪れたのちに、呉の「受難顕彰の碑」がある地にも行かねばなるまい。そう思っておりました。 実は何度か参拝したことはあるけれども、ことさらに意識をして足を運んでみました。

呉西部に鎮座する「鯛乃宮神社」 岩国の沈没現場を見渡す地に次いで、この呉の地も海軍として第六潜水艇ゆかりの場所なのだ。

鯛乃宮神社

まずは参拝を。

主祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命
創立年代は不詳。
文亀年間(1501-4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。 その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも元文5年(1740)に社殿を再興。

鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から、当社を鯛乃宮と呼称。

現在は呉総鎮守・亀山神社の兼務社。
(なお亀山神社神職さんに確認しましたが、当社の御朱印はありません。)

狛犬さん。 なかなか特徴的なポージング。


第六潜水艇受難之碑

「鯛乃宮神社」境内にそびえ立つ塔のようなもの。
これが呉の「第六潜水艇受難之碑」。

第六潜水艇受難之碑
「鯛乃宮神社」境内

案内看板

第六潜水艇は、明治39年、わが国で初めて建造された排水量僅か57トン、水中最大速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢の訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から6号艇も訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。
しかるに不幸にも明治43年4月15日、呉港を出港した第6号潜水艇は山口県岩国市新港沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」
佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れず修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。この事跡は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から挙出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。 その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。
  第六号潜水艇顕彰保存会 謹記

佐久間勉 wikipedia より

碑には四枚のプレートが埋め込まれています。
佐久間勉艇長の遺言や受難者氏名など。

保管庫には「プロペラ」と「バルブ」が鎮祭。

これは昭和26年にGHQの解体命令により呉潜水学校にて六号艇神社として保存してあった潜水艇を、解体に際し一部別途保管されたもの。
殉難50周年にあたる昭和34年4月15日に保管庫設置。

佐久間勉艇長と13人の乗組員たち。
事故に際して取り乱さず我先と逃げ出すようなこともせず、最後まで修繕しようと試みた沈着冷静な心意気。

「沈勇」(沈着剛勇)の精神。

誇りある日本人として敬意を。 そして感謝と哀悼を。

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) その一角に第六潜水艇のコーナーがある。

佐久間勉艇長の遺書や遺品なども展示。

佐久間艇長出生地の福井県若狭町、中学時代を過ごした小浜市、そしてこの呉市では4月15日、岩国では4月14日に慰霊祭が斎行されています。

若狭町

http://www.wakasa-mikatagoko.jp/search/entry/tourism-087.html

もう一つの真珠湾「九軍人」岩佐直治を偲ぶ

もう一つの真珠湾。
九軍神と讃えられた勇士の一人、岩佐直治を偲ぶ


昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾

大東亜戦争の口火が切られた日。
文字通りに水面下の戦いがあった。

特殊潜航艇(甲標的)

のちに九軍神と讃えられた勇士たちの戦い

先日、特殊潜航艇の主任搭乗員であった 岩佐直治 大尉(死後に二階級特進・海軍中佐)の墓前に手を合わせてくる機会がありました。


岩佐直治

群馬県前橋市天川原出身
大正4年(1915)5月6日 – 昭和16年(1941)12月8日(26歳没)

特殊潜航艇「甲標的」による真珠湾攻撃の考案者の一人であり、自ら搭乗して真珠湾攻撃での決死的攻撃により戦死なされた。九軍神の一人。

御墓は松竹院(前橋市本町3-17-12)にある。


大戦の
 思い出つまる
  松竹院

岩佐直治之墓

故海軍中佐
正六位
勲四等
功三級

岩佐直治之墓

眞珠院殿護國純忠大居士

艦隊司令長官 海軍中将 清水光美 書


清水光美は第六艦隊司令長官。

開戦時は清水中将指揮下に潜水艦隊(特殊潜航艇)があった。

のちに清水中将は「陸奥」爆沈事故の責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免、予備役編入されている…


甲標的の初陣

甲標的の最先任搭乗員である岩佐直治が開戦劈頭に敵の港湾にひそかに侵入して攻撃する実行案を立案。

母艦「千代田」艦長の原田覚と協力し具体案を軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀 有泉龍之助 中佐に相談して同意を得え、更に数度と改善案を練り直すことによりついに採用となった。

昭和16年11月
甲標的部隊は「特別攻撃隊」と第六艦隊司令長官 清水光美中将によって命名される。
清水中将は訓練母艦「千代田」原田覚艦長と、10名の特別攻撃隊隊員、母潜となる5名の潜水艦艦長、佐々木半九特別攻撃隊指揮官らを集め、真珠湾攻撃命令のコピーを異例ながら自ら隊員に手渡したという。

昭和16年(1941)11月18日午後8時から19日午前2時過ぎにかけて、大型巡洋艦丙型の5隻の伊号潜水艦は、それぞれに「特殊潜航艇」を搭載し、広島倉橋島から一路ハワイ真珠湾に向けて出航。

特殊潜航艇
特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
伊16搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
伊18搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
伊20搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
伊24搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)

昭和16年12月7日
伊号第22潜水艦に乗艦した岩佐大尉は真珠湾湾口に至り、いよいよ総員戦闘配置に就いたところで伝声室を通じて、よどみない最後の挨拶を述べて特殊潜航艇に移乗されたという。

岩佐直治の挨拶

本艦に来艦してから約一ヶ月、呉出港してから三週間、一同の○勢なる協力と絶大なる努力に依りまして、只今真珠湾港外二〇浬の地点に達することが出来ました。此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し私の最後の任務達成に向て出発致します。終りに臨み伊22潜の武運長久を祈ります サヨーナラ

ハワイ時間・1941年12月7日午前0時42分
(日本時間・昭和16年12月7日20時12分)

特殊潜航艇は順次で真珠湾に向かって出撃をした。
横山艇は午前0時42分
岩佐艇は午前1時16分
古野艇は午前2時15分
広尾艇は午前2時57分
酒巻艇は午前3時33分

ハワイ時間12月7日午前3時42分
真珠湾入口を掃海していた掃海艇コンドルが海面に1隻の潜望鏡を発見、哨戒中の駆逐艦ウォード(USS Ward)に連絡。
ウォードが捜索するも何も発見できず、誤報が続いていたことから格別な報告もあげなかった。
この時に辛くも逃げ切った特殊潜航艇は横山艇といわれている。

ハワイ時間12月7日午前6時33分
横山艇を見逃した米軍であったが、哨戒帰路のPBY偵察機が引き続き国籍不明の小型潜水艇を発見。
再び駆逐艦ウォードは現場に急行する。

ハワイ時間12月7日午前6時45分
駆逐艦ウォードは不審な潜水艇に対し発砲を開始し重ねて爆雷攻撃を行い撃沈させた。
この特殊潜航艇は広尾艇か古野艇とされている。

午前7時55分に開始された日本海軍機による真珠湾空襲より1時間早く、水面下の戦いは始まっており、そして日米の最初の犠牲は特殊潜航艇であった…

ハワイ時間12月7日午前8時35分
米海軍応急出動艦モナハン(USS Monaghan)は、水上機母艦カーティス(USS Curtiss)の「敵潜水艦発見」の報告を受けた。
すでに日本海軍機の真珠湾攻撃は始まっており、カーティスは急降下爆撃機による攻撃が直撃し炎上、消火活動中であった。

ハワイ時間12月7日午前8時37分
カーティスが発見した特殊潜航艇はカーティスへ向け魚雷1本を発射(カーティスから外れドックに命中)、報告を受けたモナハンは艦首右舷1100mの距離で潜望鏡と司令塔の一部を発見、フルスピードで特殊潜航艇に向け突進、体当たりを敢行する。

この特殊潜航艇は向かってきたモナハンに向けても魚雷を発射(外れてフォード島に命中)、モナハンは全速力で特殊潜航艇に乗り上げ突進し、艇を海底に叩きつけ爆雷攻撃を開始。

激闘の末に駆逐艦モナハン(USS Monaghan)によって轟沈させられた特殊潜航艇が、岩佐直治艇であったという…

昭和22年3月
ハワイの米海軍軍当局は特殊潜航艇の遺品として真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還。
特別攻撃隊の隊員のうち大尉は岩佐直治隊長のみ。
岩佐直治の遺族に送られ、昭和39年12月8日、開戦そして岩佐直治戦死から23年目に遺族から靖國神社に奉納され遊就館に展示されている。


軍神 岩佐中佐

軍神 岩佐中佐
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
仰ぐ赤城の山は映え
大利根めぐる厩城下
こゝに建武の血をうけて
郷土群馬に男子あり
姓は岩佐ぞ名は直治

2.
君のみために死する時
孝を遂げしと思召せ
かをる勲の絶筆を
手にせる父はほゝゑみて
あゝ軍神の母泣かず

3.
敵がたのみの真珠湾
防塞くぐる新兵器
断乎撃滅大和魂
血の訓練の甲斐ありて
「われ襲撃に成功す」

4.
見よや類なき大戦果
輝く特別攻撃隊
率ゐて散りし武士の華
軍神岩佐中佐こそ
その名燦たりとこしへに

昭和17年4月11日 文部省検定済
昭和58年3月彼岸 岩佐直衛建之


特別攻撃隊

特別攻撃隊
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
撃ちてしやまむ ますらをに
なんの機雷ぞ 防潜網
あゝこの八日 待ちわびて
鍛へぬきたる晴れの技
示すは今ぞ 真珠湾

2.
神なり すでに九つの
生死越えたる 荒御魂
いざ皇國の 興廃と
史上例なき 肉薄に
必殺ちかふ 海の底

3.
轟沈 撃破 ときの間に
屠る戦艦 巡洋艦
みよ友軍の 爆撃に
あがる火柱 水柱
天誅くだる 米主力

4.
襲撃まさに 成功と
月の出潮に 打つ無電
おゝその無電 打ち終へて
遂に還らず 艇五隻
還らず遂に 九勇士

5.
一億あふげ 盡忠の
天地つらぬく その誠
げに大東亜 聖戦の
基かためし 軍神
燦たり 特別攻撃隊

昭和17年4月11日 文部省検定済
平成12年12月8日 岩佐直衛 建之


岩佐中佐 遺書ノ碑

岩佐中佐 遺書ノ碑

昭和の鴻業、未だ半ばにして前途益々多端今一歩を誤らんか。
三千年の光輝ある歴史は一朝にして破砕され、延びゆく大和民族の壮図は中道に挫折す。
此の秋、此の世に生を承け、この難関突破の使命を負ふを得たる。
まして軍人として國民の第一線に立ち、大和歴史の擁護者として、現下の時局に対処し得たる、此直治、最大の栄誉なり。
ましてや選ばれて、単身敵港湾に突入、以て直撃一挙に敵意図を打破し、大和正義を認識せしめ、民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや。
今、勇躍壮図に就くに際し、思いを述ぶれば、皇國の安危比岐るる時、命を承け此の大任に就く。
武人の本懐これに過ぐる無し。
御稜威の下、必ずや、大任を果たし得るを確信するものなり。
然れども又此の業、容易のものに非ず、再会を期し難し。
願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜暑きにつけ寒きにつけ、御心の程をなやまし、子としての務まだ務めざりし、御許し被下度。 此行果し得ば、後果つるとも御讃め被下度、又行半ばにして果つるとも、直治の魂の赴く所を得さしめられ度。

(岩佐直治 辞世)
櫻花 散るべき時に 散りてこそ
 大和の花と 賞らるるらん
身はたとえ異境の海に はつるとも
 護らでやまじ 大和皇國を
              直治
父上様 母上様


有泉龍之助

岩佐直治の提案に共感をした有泉龍之助 (最終階級は海軍大佐) は、当時は軍令部第1部第2課部員の要職にあり潜水艦作戦の主務者であった。
岩佐とともに作戦を練り上げ、真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を使用することを上層部に主張し実現させた人物。

昭和20年1月、有泉海軍大佐は第1潜水隊司令に就任。
7月23日、ウルシー環礁襲撃の命を受け「伊号第四百一潜水艦」(伊401)に座乗し出撃するも作戦中に終戦。降伏のため本土帰還途上の8月29日、米海軍により伊401は海上接収される。
その時、有泉司令は司令室で自決。
机には真珠湾攻撃の九軍神の写真があったという…


九軍神

真珠湾攻撃において、甲標的に乗組み、未帰還となった岩佐直治ら以下の9名。

岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:9_Gunshin.jpg


岩佐直治は8人兄姉の末っ子であった。
尋常小学校時代を偲ぶ碑もある。
卒業生総代として成績優秀であった直治は旧制前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)を経て海軍兵学校(海兵65期)を卒業している。

岩佐家の家紋とは別に、潜望鏡と菊を連想させる紋もあった。

未曾有の国難に殉じた英霊に 哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

参考書籍 「九軍神は語らず―真珠湾特攻の虚実」(牛島 秀彦 著)

平成30年参拝

帝国海軍最後の生き残り「宗谷」

平成30年6月10日が宗谷竣工80周年でした

昭和13年(1938)6月10日竣工
平成30年(2018)6月10日に「生誕80周年」を迎えた宗谷

南極観測船として有名な「宗谷」
実は、戦前は横須賀鎮守府所属の特務艦として活躍。

現在、帝国海軍に所属した経歴を持つ艦船としては
「戦艦三笠」「特務艦宗谷」「病院船氷川丸」の3隻のみが現存している。

そんな宗谷の戦歴を、簡単にたどってみようと想う。


宗谷

勇名を残した「宗谷」には、さまざまな愛称が残っている。

 「帝国海軍最後の生き残り」
 「奇跡の船」
 「不可能を可能にする船」

そして、海保時代 には
 「福音の使者」
 「海のサンタクロース」
 「燈台の白姫」
 「北洋の守り神」
という愛称も残している。


◆製造◆
川南工業香焼島造船所(現在の三菱重工業長崎造船所香焼工場)

◆運用者◆
川南工業→日清汽船→栗林商船→辰南商船→ 大日本帝国海軍→大蔵省→船舶運営会→ 海上保安庁

◆種別◆
商船→海軍・特務艦→海軍・特別輸送艦→引揚船→灯台補給船→巡視船

◆艦級◆
天領丸型2番船→海軍・宗谷型雑用運送艦→灯台補給船→巡視船

◆母港◆
横須賀鎮守府(特務艦)
東京港竹芝桟橋(灯台補給船)
函館港(巡視船)
東京港船の科学館(保存船)


起工  1936年10月31日
進水  1938年2月16日
竣工  1938年6月10日
退役  1978年10月2日
保存  1979年5月1日~(記念船)

帝国海軍「特務艦」時代
1940~1945
基準排水量:3.800t
速力:12.1ノット
機関:川南式3連式往復動蒸気機関1基1軸
ボイラー:2缶
出力:1,597馬力

1956~1962年(南極観測船)
満載排水量:4.614t(第6次)
全長:83.7 m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:12.3 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力

1963~1978年(巡視船)
満載排水量:3.853t
全長:83.7m
全幅:15.8 m(バルジ含む)17m(ヘリ甲板含む)
速度:13.5 kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力


帝国海軍特務艦「宗谷」の歴史

昭和11年、長崎の川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より砕氷型貨物船3隻の発注を受けた。

昭和13年(1938)にソ連船 「ボロチャエベツ」(砕氷型貨物船) として進水するも第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされずに国内船に転用される。

第一次大戦を取り巻く世界情勢を鑑み、結果としてソ連に引き渡しをせず、商船「地領丸」として竣工し、昭和13年7月に民間にチャーター。

砕氷耐氷能力と共に最新鋭英国製音響測探儀も備えており、日本海軍も本船に興味を持つがソ連との契約がこじれたために民間船として就航したという。

約1年後、結局は商船「地領丸」を昭和14年11月に海軍が買入。
昭和15年2月20日「宗谷」と命名し特務艦に編入。
雑用運送艦(砕氷型)に類別。
これが開戦前に海軍が民間から購入した唯一の特務艦となる。

なお、結局は海軍が買い入れしたことで、こののちソ連政府と揉めて裁判に発展したりもしている。

海軍特務艦「宗谷」

艦首に8cm単装高角砲1門を備える。
開戦前は海洋測量艦として活躍。

昭和16年12月8日、開戦時は横須賀停泊。
昭和17年1月、夏島トラック泊地入港し第四艦隊(司令官は井上成美)に編入。 同年3月、ラバウルに進出し港湾調査に活躍。

昭和17年8月、ラバウルの第八艦隊に所属。
三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生。宗谷は輸送船団に参加。しかし陸戦隊輸送船団が後退することによりツラギ奪還任務は失敗に終わる。

昭和18年1月28日、ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。

昭和19年2月17日、トラック島空襲に巻き込まれ回避行動中に座礁。
翌18日に総員退艦命令。

しかし2月19日、潮が満ちて宗谷は自然離礁し漂流。
総員退艦命令にて離れていた乗員が、様子を見に来た際に離礁しているのを発見し、仰天した乗組員たちは再び艦に乗り込んだという。
こうして宗谷は奇跡的にトラック脱出に成功。

トラック空襲の危機を脱した宗谷は昭和19年4月に横須賀に帰港。
測量艦から輸送艦に改装され、輸送任務に従事。

昭和20年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受け、翌日に横須賀より避退し女川へ。

戦艦「長門」
病院船「氷川丸」

昭和20年
8月6日、女川から室蘭への輸送任務に従事。(宗谷出港後に女川空襲あり)
8月8日、室蘭入港し、そのまま室蘭で終戦。

8月29日、横須賀に帰港し軍艦旗を降ろす。
8月30日、引き渡しを終了し退艦。
9月5日、海軍籍から除籍。

※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」
※「宗谷」のあゆみ展「宗谷の軍艦旗」

特務艦「宗谷」

船の科学館別館にて特務艦時代の「宗谷」模型(1/700)が展示されておりました。

同スケールの戦艦群に囲まれて、ちょっと窮屈な感じです。

余談ですが、同一スケール(1/700)で海軍艦艇の大きさ比較がビジュアル感覚的に出来る展示は貴重ですね。

宗谷の戦後は引揚船、
そして海上保安庁灯台補給船へと。

南極観測船時代の話は、有名ですので、ここでは割愛致します。
せっかくなので、戦前の海軍時代の話を軸にしたかったのです。


船内(及び艦内)で立派な階段があれば、だいたいそれは船長(艦長)専用の階段となります。
宗谷のこの階段も(特に説明看板は無かったのですが)、上に艦長室につながっておりましたので、そういうことだと思います。

船長室

宗谷と陸奥

写真は平成28年9月3日。リニューアル前。

陸奥主砲(横須賀に移設されました)と、宗谷の帝国海軍を知る時代のコンビはこの時が見納めでした。


宗谷神社

舵室の後方の海図室に神棚(船内神社)がある。

「宗谷神社」
富士山本宮浅間大社の浅間大神を勧請?という。
「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことから海保時代に「宗谷神社」が復活。 これが海上保安庁始まって以来、最初に誕生した船内神社のはじまりであったという。


宗谷の写真

以下、写真を投下。

入館は無料。
受付には募金箱があり、お気持ちとして「宗谷保存募金」ができます。

海上保安庁のファンネルマークが美しい。 ブルーの帯とコンパスマーク。

宗谷の写真(リニューアル前後の比較)

平成29年にリニューアルしてピカピカになっております。
どのくらい変わったか、というと。

平成29年4月撮影と、平成28年6月撮影。見違えりました。


リニューアル前

リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)
リニューアル前の写真(平成28年撮影)

平成28年9月係留場所変更

37年ぶりの出港。
70メートル離れた対岸に移動。
この僅かな移動で係留地は「品川区」から「江東区」となった。

まだ機関が生きていて自走できたんですね・・・

企画展「宗谷のあゆみ」パネルより

平成28年12月


「帝国海軍最後の生き残り」であれど、そんな時代のことはあまり覚えていなさそうな彼女。

南極観測の栄光を伝承し続ける彼女は、今も静かに変わりゆく環境の中に身を委ねつつ、佇んでおりました。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30732820Z10C18A5CC0000/

http://funenokagakukan.or.jp/soya/history/birth#ancho-point


愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。

お手水。献水像。

鎮魂

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建

太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。

戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。

パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・

海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


新潟縣護國神社

平成30年12月参拝

明治元年10月29日、新潟市常盤岡(現在の新潟大学医学部)に「招魂社」を建立。
明治8年に新潟招魂社と改称し昭和14年に「新潟縣護國神社」と改称。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者79700余柱を祀る。

参拝を

御由緒と御写真と

亡き戦友の顔
 陸軍少尉 田沢清作命
  昭和19年9月30日
  テニアン島にて戦死
  新潟県中蒲原郡村松町出身 31歳

笑つてゐるこの写真!
やるだけ俺はゆつたんだと
笑つてゐる 写真
あこがれの桜花と散つたよと
笑つてゐる写真
これで俺の一生は意義があつたんだと
笑つてゐる写真
あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑つてゐる写真
靖國神社で待つてゐるぞと
笑つてゐる写真
神様になつた戦友の
この写真!

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

近代日本における対外戦争50年余の間、
明治大学関係者は多数の戦没者を出した。
その数は分かっていない。
太平洋戦争敗戦の際、混乱のなかで奉納の
戦没者名簿が紛失したといわれるが、その数は
学徒出陣を中心に、2000名余とも3700名余とも云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として「忠霊殿」を建立した。
これは駿河台旧図書館(現研究棟前)内に
置かれ、毎年7月10日に慰霊祭を行ってきた。
太平洋戦争の戦没者も合祀され、
1950年、関係者の尽力により
新潟縣護國神社に移され、
明治大学校友会新潟支部(現新潟地域支部)が
主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護國神社の御厚意により、
同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が新たに
建立されたのを機に、 この間の経緯を記し、
世界平和を願い永遠の追悼を誓うことになった。

2007年6月 明治大学

御朱印を頂戴いたしました。
「不易流行」「温故知新」「敬神崇祖」の三文字から添言葉を選んで下さいということで、迷いなく敬神崇祖を。

建屋写真は「斎館」「社務所」「迎賓館TOKIWA」

新潟縣護國神社
平和の礎

昭和43年建立 中央に「護國の塔」
頭の前の大理石で「平和」を表し、右の女性は「祈り」、左の男性は「誓い」を表している。
この碑は過ぎる大戦において祖国の平和と郷土の繁栄を念じつつ散華された新潟県関係者の軍人軍属在外邦人及び内地戦災者のみたまを慰めている。

平和の礎

…われわれは、この尊い礎に対し感謝の誠を捧げるとともに平和への思いを新たにし明るい豊かな郷土の建築に邁進することを誓うものであります。 願わくば秋風薫るこの丘を、みたまのこよなき憩の場とされて安らかに静まりますよう祈念いたします。(略)

新潟護國神社の慰霊碑群は石垣で一段高くなった参道の脇に林立している。
ゆえに碑の裏面に回り込むことが出来ず、でした。

軍馬の霊を慰む
新潟県軍馬慰霊碑保存会

鎮魂

第十三師団歩兵第百十六連隊第七中隊 戦友会
平成元年五月吉日

歩兵第116聯隊は新発田にて編成。
主に中国大陸に展開し徐州会戦・武漢作戦・襄東作戦などに参戦。そのまま中国大陸で終戦を迎えている。

戦没犬慰霊碑

大陸に
 訓え育てし
  愛犬の
英姿しのばん
 霊よ
  安かれ

平成二年四月
元関東軍軍犬育成所 所員一同 建立

献燈
元関東軍軍犬育成所所員一同 戦没犬慰霊碑保存会員一同

近衛歩兵第二聯隊軍旗拝受百周年記念碑

第三十代近衛師団長 飯田貞固書
昭和四十九年八月 近歩二会新潟県支部 建立

近衛歩兵第2聯隊は明治7年(1874年)軍旗拝受、昭和49年(1974)が100周年。
飯田貞固は最終階級が陸軍中将。新潟県出身。昭和16年予備役。

陸軍少年飛行兵新潟出身戦没者
慰霊の碑

内閣総理大臣 中曽根康弘 書
昭和60年11月建立

戦いが終わつて此処に40年
死んで行った友の霊を弔う
生き残りの戦友たちの
悲しくて強い
平和への願いが何時までも
消える事の無い様に
悲願の碑となった
戦友並びに御参加皆様方の
御芳名を刻んで以て
後世にその志を残さんと
欲したのであるが許されず
心残りである

野戦重砲兵第十五聯隊之碑

詳細は不明。副碑として記念碑建立募金者名もある。

新潟縣護國神社
予科練鎮魂之碑

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

新潟県出身の海軍飛行予科練習生戦没者鎮魂碑
予科練鎮魂之碑保存会・昭和63年建立

鎮魂慰霊之碑

平成7年終戦50周年記念
新潟県海交会

新潟出身で戦没なされた海軍軍人軍属などの慰霊碑

※海交会、海友会、水交会はそれぞれ別組織であるが、海軍関連団体として合同で活動することも多い。水交会は全国11支部しかない為、地区によっては海交会が地域密着で中心団体となることが多い。

流雲碧空

白鴎遺族会新潟県支部・海軍飛行予備学生生徒有志
平成9年建立

…祖国日本の平和と愛する人々の幸せを祈り学窓から敢然と大空の決戦に挑み勇戦散華された本県出身の海軍飛行予備士官及び当支部の発展に寄与された物故戦友の慰霊と顕彰の為生存同期生有志が建てたものである

元歩兵第116聯隊
第2中隊の樹 植樹記念碑

平成3年4月15日建立

三つの祈
一 先の大戦で散華された戦友の御霊安らかに
二 祖国の復興に尽くし病没された戦友の冥福を祈る
三 風雪に耐え幾山河越え来りし戦友の健康長寿を祈る

元歩兵第百十六聯隊
第三中隊慰霊碑

平成五年八月十五日 歩兵第百十六聯隊は新発田にて編成。第十三師団所属。

慰霊塔 近衛歩兵第三聯隊 新潟

近衛歩兵第三聯隊は明治18年(1885)に編成。兵営は赤坂。

慰霊之碑

ソ連抑留本県出身者166人の慰霊碑
財団法人全国強制抑留者協会新潟県支部慰霊碑設立委員会
平成5年建立

第2次大戦は日本のポツダム宣言受諾により終戦となったが連合軍の一員であるソ連軍のみは宣言を守らず60余万人の奨兵を強制抑留し極寒のシベリアで数年間に及び苛酷な重労働を強制し、飢えと寒さのなか遂に力尽き祖国生還の希いも空しく本県出身者1600余名は無念の死を遂げた 辛うじて生還し得た私達はシベリア抑留死没者の冥福を祈り 再び戦争のない世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する

解散記念碑 

新潟県傷痍軍人会 新潟県傷痍軍人妻の会 平成25年建立


戊辰役殉難者墓苑(戊辰霊園)

戊辰戦争での新潟での犠牲者を祀る墓苑。
薩長の主力は明治元年4月に柏崎・小千谷を占領し、7月に長岡藩を攻略。新潟は戦場とかし西軍(薩長)と東軍(米沢・会津・庄内藩)双方に多くの犠牲者を出した。 この墓苑では東西両軍の区別なく祀っている。

戊辰役東軍慰霊碑
戊辰薩藩戦死者墓(松方正義書)
御親兵十津川隊 戊辰役戦歿者招魂碑
大洲藩船殉難者慰霊

慰霊碑

昭和60年に新潟大学医学部(元招魂場跡地)から発掘された戊辰の役戦死者遺骨92柱を埋葬。

「戊辰役殉難者墓苑」(戊辰霊園)

満州開拓殉難者の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

昭和34年8月15日建立

国策の名のもと国家の勧奨に基づき民族協和と新しい村作りに挺身してきた満州開拓青少年義勇隊報国農場員等が昭和20年8月9日戦局の急変に遭い爾来銃弾に病魔に飢餓に酷寒に続続と斃れ遂に異境の土と化した者実に5千まことに痛恨極まりないところである ここにこれ等殉難の霊を慰め永遠の平和を祈願してこれを建てる
 昭和34年8月15日
  新潟県開拓民自興会

綏芬河の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

我等は国策により、新潟県郷土中隊として、昭和十八年六月、山崎喜三治隊長以下三九九名が綏芬河義勇隊訓練所に入所。
昭和二十年八月七日、ソ連軍が侵攻し、九日に無防備無抵抗の隊員を銃撃、四十数名の若い生命が奪われた生き残った隊員も逃避行中に飢と寒さで、満州の荒野で数多く他界した。
平成元年、二年と、亡き拓友の終焉の地、八道橋を訪ねて供養を行った。
平成二年十月、綏芬河会総会で有志相図り、亡き友の鎮魂と、若き日の友情を刻み、この地に綏芬河の碑を建立する。
 平成三年七月七日 綏芬河訓練所有志

冬の新潟、本格的に雪降る前の12月上旬の参拝でした。
参拝は16時ごろであり、日没を気にしながらしょうしょう駆け足の参拝。 次回はもうすこし気持ちもゆっくりとさせて参拝したいと思いつつ。

ありがとうございました。

石川護國神社

平成30年12月参拝

兼六園の南に鎮座。
戊辰ノ役で戦死した加賀藩出身戦没者のみたまを明治3年(1870)に祀った招魂社に始まる。
以来、西南ノ役、日清日露戦役、支那事変、大東亜戦争までの英霊4万4800余柱を祀る。
うち第9師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀出身者1万4000余柱の英霊も含まれる。

参拝を

御朱印を頂戴いたしました。
靖國神社の靖國桜御朱印帳に集印をはじめて、ようやく14社目。

石川護國神社 社号標

昭和14年4月建立 陸軍大将林銑十郎書

こちらの社号標は昭和17年9月建立。

神馬 
 北支派遣独立混成第一旅団(島兵団)

奉納・昭和55年

昭和12年、支那事変勃発に伴い特設師団として第109師団が編成。
昭和21年5月に復員完了。

「往時を偲び神鎮まります亡き戦友の霊安かれと念じ茲に神馬一基を奉納 永くその記念とするものである」

父子の像 

石川県遺族連合会婦人部一同・平成2年奉納

日華事変・大東亜戦争に祖国の為夫を失った妻の痛みは永久に我が子にも伝えることは出来ません。
今にして憶う今日まで生きて来た力は何だろう、子供は育ったか、育てたか、家族と共にその日、その日の生活に必死でした。
戦後45年、妻の生涯をかけ、真心こめた「父子の像」をここ石川護國神社の一隅に建立させていただきました。
日本の国の平和を願い、婦人部員一同の幸せを末長くお護り下さい。

願掛けの五葉松

高さ約13m、幹周り約2,85m、枝張り約8m、樹齢約600年
姿、形の良さは日本一とも。
枯れる寸前で、病原のコブを取り除き樹勢を取り戻し甦った松。
「甦りの五葉松」

天津神楽之舞歌碑

慰霊平和祈念碑

昭和41年建立

至誠通神の碑

旧・歩兵第七聯隊の営庭跡(現、金沢城・金沢大学構内)一隅に鎮座されていた、歩七忠魂社の前に建てられていたのを、昭和48年6月、歩七戦友会によって現在地に移築されたものである。

愛馬之碑

歩兵第七聯隊兵営に祀られていたものを、昭和62年9月21日に石川護國神社境内に移し復元。

日露戦役凱旋記念月桂樹と記念碑

明治39年11月に日露戦争の大勝を祝い、凱旋記念として当時「兵隊婆さん」と愛されていた宮のさ子さんが、歩兵第七聯隊の営庭に鎮座してた歩七忠魂社の神域に献木した月桂樹と記念碑。
昭和48年に歩七戦友会によってこの地に移植移築。

石川護國神社
官祭招魂社 旧社号標

旧社号標が境内の片隅にひっそりと。
昭和10年1月建立 陸軍大臣林銑十郎謹書 林銑十郎は石川金沢出身。
陸軍大将、陸軍大臣、内閣総理大臣。

清水澄博士顕彰碑

金沢市出身。1868年9月27日(慶応4年8月12日) -1947年(昭和22)9月25日。法学者。大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講。
昭和21年、最後の枢密院議長。日本国憲法施行後、大日本帝国憲法に殉じ国体の危機を憂い熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺。墓所は青山墓地。

大東亜聖戦大碑

平成12年(2000)境内参道に大東亜聖戦大碑が建立。
平成22年(2010)「輝く天命戦の真実を知れ」と題する副碑建立。

国旗掲揚台

昭和46年11月奉献

戦傷病者霊碑
傷痍軍人慰霊の碑

昭和60年建立。 石川県在住の者等3075名の霊を慰め永くその功労をたたえる。

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

趣意書
 陸軍少年飛行兵の名に負いて南溟の涯北辺の空に散華した石川県出身
70余柱の遺勲を永く後世に伝える為にこの碑を建立する

 抑々少年飛行兵の制度は第一次世界大戦護つかの間の世界平和桃源の夢空しく破れ、暗雲世界を覆い極東に於いても戦局将に動く秋、わが陸軍航空戦力の画期的な担い手養成の為に創設され、昭和9年2月に15歳前後の少年が、所沢陸軍飛行学校に第1期生徒として入校したのを嚆矢とする。
爾来昭和20年入校の第20期生まで数度の学生の変革を経たが、この間操縦・整備・通信の各分科に分れ、技能を学びし者318名を数えるに至った。
学び舎を巣立ち、即戦力として日支事変、大東亜戦争に従軍し、純一無雑、尽忠報國の至誠に燃え任務必遂に邁進した。
日を遂うて苦難凄絶を加え、殊に、航空機の帰還が全戦勢を左右する情勢下に於て少年飛行兵出身者の赫々たる武勲が世に喧伝せられ、海軍の予科練と共に、わが国航空戦力の双璧として、時代の寵児、救国の若き戦士として全国民敬愛の的となった。

 少年飛行兵の歴史は僅か12年、然りと雖も日本陸軍80年の歴史に於て、その1頁を飾る金字塔として特記に値するものであろう。
特攻隊をはじめとし、或いは空・地に於て戦死し、或いは瘴癘の地に戦病歿した友々。
我が国の悠久不滅と永遠の平和と繁栄を信じ、荒爾として己を滅していった英霊こそ、現日本の礎をなすものである。
この事実について将来如何に時代世相の変遷があろうとも、無限の感謝の念を捧げ続けられることを願うものである。

  昭和59年4月8日
    陸軍少年飛行兵生存者の集い
     石川県陸軍少飛会 

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

皇后陛下御歌

やすらかに
ねむれとそおもふ
君のため
いのちささけし
ますらをの とも

兜岩

兼六園造園のとき(1825)に 豪商島崎屋徳兵衛が藩主前田斉泰公に献上したもの。

乃木希典将軍所縁
水師営の棗の木(分根)

昭和4年「初雪」に乗り組み中であった岩下石松氏が旅順入港時に水師営に於いて「棗の分根」を戦死研究のために持ち帰った。
その後80年、移植育成され、数年後に石川護国神社境内に鎮座する県海軍将兵慰霊の碑敷地内に記念植樹した。

水師営の会見

旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本 棗の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋に
今ぞ相見る 二将軍

石川県海軍将校戦没者之碑

祖国の安泰と繁栄を念じて護国の英霊となられた石川県の海軍将兵は西南の役1柱、日清戦役6柱、日露戦役98柱、大正3年から9年までの日独戦役8柱、済南事変1柱、満州・上海事変11社、日華事変83柱、大東戦争7千4柱、総霊7千212柱であります。
過ぐる大東亜戦争に奇しくも生還することを得たわれら海軍将兵一同激戦苦闘の中に散華された尊い英霊に対しての偉功を讃え尊敬と感謝の念を捧げるとともに遺徳を長く後世に語りつぎ世界永遠の平和の道しるべとしたい念願し英霊を奉祀するここ石川護国神社に謹んでこの碑を建立するものであります。

昭和63年10月吉辰
石川県海軍生存者一同建之 建設委員  
 海友会 海軍三校会 甲飛会 雄飛会 櫻心会

騎兵第九聯隊 軍馬之碑

平成六年五月吉日 騎星会 建立
石川護國神社 宮司 鏑木芳樹 書

ミレー島戦士の碑

ミレー島、中部太平洋に浮かぶマーシャル群島の小さな島である。
昭和十八年九月二日第五十二師団の動員により、郷土部隊が編成され同年十二月一日より昭和二十年八月十三日まで、この島において喰うに食えなく射つに弾丸なく、猛銃爆撃の下、激しく悲惨な闘いを続け大半の戦士は帰らぬ人となった。ここに終戦三十三周年を迎え、遺族及び生存者相集い悲憤に散った勇士の御霊、安らかならんことを願うとともに、祖国の平和を永久に守りたまえと、このささやかな碑に祈りをこめるものである。 昭和五十二年七月

竜の松 大山元帥 御手植

明治11年10月2日
聖上陛下 行啓記念
大山巌公手植松

明治天皇が明治11年に当地に行幸せられた際に、お供をした大山巌公が記念に松を植えられたという。

歩兵第八十三聯隊之碑

碑下には歩兵第八十三聯隊聯隊旗の一部と戦没者七百五柱の鎮魂護符が納められている。昭和54年4月建立。

碑文
昭和13年4月4日
 軍令陸甲第二十一号により第9師団管区に於て編成
昭和13年9月3日から
 北支那に於て作戦警備
昭和17年1月20日から
 仏領印度支那に於て治安維持
昭和21年5月4日、終戦により復員部隊解散
金沢に誕生した我が聯隊を生涯心に銘じ異郷で散華した戦友の霊を慰め祖国の繁栄を祈って建立したものである。
八三会一同

シベリア抑留者慰霊之碑

過ぐる大東亜戦争の末期、我国の敗戦が必至とみられた昭和二十年八月九日 ソ連は突如日ソ中立条約を破棄し、満鮮・樺太・千島列島に侵攻した。
終戦後も、無道・不法を続け我国将兵をシベリア始めソ連各地に強制連行した。
その後長い者は十年余、精神的強迫のもと過酷な重労働を強いられ、六万余名が望郷の思いに身を焦がしすつ屈辱の恨みを呑んで異国の土となった。
わが石川県下の犠牲者も六百余名に及ぶ。
しかも遺体は祀られることもなく、荒野にさらされ、墓地の大半は不明の放置されている。
この民族的悲劇は、我国史上前例がなく、非道の犠牲は永く後世に伝えられなければならない。
それとともに我等は、貴下らの万哭の一念が凝ってソ連崩壊に繋がったことを信じてやまない。  
貴下らが、我国の尊い礎であったことを銘記し、ここに鎮魂の碑を建て、心から冥福を祈るものである。

異国の丘に
 眠れる友よ
故国の礎と
 鎮まり給え

一九九四年十月二日
永遠の平和を祈りこの地に慰霊碑を建立する

財団法人全国強制抑留者協会
石川県慰霊碑建立実行委員会

愛馬の碑

昭和12年、支那事変前後に第九師団留守師団長の安藤紀三郎中将が戦地などで死んだ馬の霊を慰めるために揮毫し、歩兵第七聯隊営庭に建立。 終戦直後に行方不明となり、県中央公園で発見され、昭和62年に当地に移築。

献木碑など

日中受難者 慰霊祭記念樹
野砲兵第一二三聯隊 歩兵第二六九聯隊 慰霊祭記念樹
デンマーク丸海没戦友慰霊祭記念樹
北陸地区戦没 陸軍少年通信兵 慰霊祭記念

満洲第五一四部隊 野砲兵第一二三聯隊 慰霊祭記念樹
石川県近衛会
烈兵団歩兵第一三八聯隊石州ビルマ戦友会
中支三機会 歩兵第七聯隊 第三機関銃中隊

この日は、ミゾレのような白いものが降る中での参拝でした。

時間に余裕があれば遺品展示室なども見学したいところでしたが、余裕なくまたの機会に。

感謝と哀悼の意を込めて、真摯に参拝をし、慰霊碑と向き合うひとときを費やす。

日本経緯度原点(海軍水路寮観象台跡)

平成30年11月撮影 東京都港区麻布台2-18-1

日本経緯度原点

この地が日本の測地座標系の原点。

明治7年、海軍水路寮が当地に観象台を設置。明治21年に帝国大学付属東京天文台が置かれ明治25年に陸軍参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として設定。関東大震災で子午環が崩壊したために金属標を設置し今日に至る。

わが国における緯度と経度を測定する基準となる点。

平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の地殻変動により原点数値を改定。

経度:東経139度44分28秒8869
緯度:北緯35度39分29秒1572
原点方位角:32度20分46秒209

現在は国土交通省国土地理院関東地方測量部の管轄となっている。

港区指定文化財
史跡 日本経緯度原点
 ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されています。この原点の経度・緯度の数値は、大正7年(1918)に文部省告示によって確定した「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」でしたが、平成13年の測量法の改正により、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められました。
 この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれました。原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にあたります。その後東京天文台は大正12年に三鷹に移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地理測量の原点として利用されています。
 日本経緯度原点は、日本の測地座標系の原点であるだけでなく、わが国の天文測量が始まったところとして、科学技術史及び文化史上意義深い場所です。
 平成8年10月22日指定
 港区教育委員会

日本経緯度原点
 日本経緯度原点は、わが国における経度と緯度を測定する基準となる点である。明治25年(1892年)に東京天文台の子午環(特殊な望遠鏡)の中心を日本経緯度原点と定め、その緯度、経度および方位角を原点数値として決定した。
 大正12年(1923年)の関東地震では子午環が崩壊したため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置した 。
 平成13年(2001年)の測量法改正により、測量の基準として世界測地系を採用した。この改正に伴い、新たな原点数値を世界測地系に基づき決定した。
 その後、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い、日本経緯度原点が東に27センチメートル移動したため、原点数値を以下の値に改正した。
       原点数値
     経 度  東経 139° 44′28.8869″
     緯 度  北緯  35° 39′29.1572″
     方位角       32° 20′46.209″
    (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)
 平成23年10月21日
 国土地理院


資料


関連

日本水準原点

霊岸島水位観測所

油壷潮位観測場

「日本経緯度原点」の隣にはかつて「中央官庁合同会議所」がありましたが現在は「アフガニスタン大使館」があります。

ここに赴くには「Tokyo American Club」や「ロシア連邦大使館」の脇を歩いていくことになりますので、ちょっと不思議な気分で緊張します。

写真はアフガニスタン大使館


国土地理院の資料

http://www.gsi.go.jp/common/000198164.pdf

筑波海軍航空隊跡散策

平成28年3月6日撮影

筑波海軍航空隊記念館が中心。

  • 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎)
  • かえり雲(流政之さん)
  • 号令台
  • 慰霊碑
  • 滑走路跡
  • 筑波神社跡(筑波海軍航空隊神社跡)
  • 地下戦闘指揮所跡
  • 地下病院跡(地下応急治療室跡)
  • 二所神社
  • 海軍道路
  • 笠間市立歴史民俗資料館
  • 正門跡
  • 供養塔

ずっと訪れたかった地。
「永遠の0」を観る前から。
観た後は更に… 尊い歴史を伝承する空間。
後世にこの歴史を受け継がねばならぬ、と。

散華されし若き海鷲達に感謝と哀悼を…

筑波海軍航空隊記念館サイト

https://p-ibaraki.com/

レポート当時(平成28年)と現在は展示状況が異なります。
あくまで参考でお願いいたします。

友部駅南口に到着。
記念館はここから南約2.5キロ。 到着の時間は朝8時。記念館の開館は9時。
ノンビリ歩いていきましょう。

南口より歩く。わかりやすい大通りをてくてくと。
大きな看板がみえてきましたね。
もう少し歩いていきます。

あえて現在の正門ではない方へ。開館時間まで余裕があるので散歩。

位置関係

USA-R1062-105
1948年(昭和23)03月02日、米軍撮影に補足

筑波海軍航空隊裏門
(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門)

筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として昭和9年に開隊。

その分隊時代は現在の裏門が正門。
門柱が戦前か戦後かは?だが、場所は大体同じようです…

現在は裏口。
徒歩は問題ないけど車はこちらからは入れません。
裏口を案内しちゃうナビも多々あるご様子。

私は徒歩なのでこのまま構内にはいります。

筑波海軍航空隊記念館
 筑波海軍航空隊司令部庁舎

裏口から入ってしまったので、記念館も裏から……
まずは正面に向かいましょう

かえり雲

正面では号令台と「かえり雲」彫刻が出迎えてくれました。

かえり雲の作者は流政之さん。
元筑波海軍航空隊隊員(海軍飛行科予備学生)出身。
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のために」寄附されこの地に設置。

号令台

正面には往時のままの姿を残す「号令台」
号令台の前には多くの若者たちが整列し、訓練に励み、そして飛び立っていき…

この場所に集いし桜はさぞかし美しかったことだろうと、想いを馳せると胸が熱くなる…

筑波海軍航空隊司令部庁舎

さて。館内へ。
この司令部として使われていた建物。
戦後は茨城県立友部病院管理棟としてそのまま転用。
平成23年10月に友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し新病棟に移設。

司令部であったこの建物は、解体予定のところを記念館として復活。

展示してあるものは一部を除いて撮影可能。
とても全部を語るのは難しいので印象深いものをランダムで。

こちらは英国アブロ504K練習機。海軍ではアブロ式練習機として中島が主に製造。黎明期の海軍練習機。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

往時のプロペラは合板なんですよ。
断面を見れば一目瞭然。わかりやすいですね。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

下二段のプロペラ。
同じ九三式中韓練習機(赤とんぼ)ですが違いが分かります?

回転方向が違うんです。
どうやら工場によって右だったり左だったり…

流石に戦争中には、これでは効率もなにもあったものではないので規格統一がすすんでいったようですが、同じ飛行機でもエンジンの回転軸方向が違うのが驚き。
故障時にパーツのニコイチも出来たものではないし…これはアカン


関口富坂海軍大尉
開戦前は金剛の射撃手として乗艦。
開戦時には一航戦赤城乗組員として真珠湾・ミッドウェイに従軍。
次いで翔鶴乗組員として第二次ソロモン・南太平洋に。
乗艦が沈没するも無事に生還される。

「軍艦金剛」
銘入マグカップ
前述の関口富坂海軍大尉遺族の手によって発見され記念館にて展示。

昭和七年度
射撃幹部員競技
軍艦金剛

小笠原諸島にて収集された遺品など。

陸上爆撃機・銀河のエンジン
艦上攻撃機・天山の第四風防(偵察員席)

小笠原諸島にて収集された遺品など。

艦上攻撃機・天山のエンジン
陸上爆撃機・銀河のエンジン

ひときわ大きな遺品。

二式大艇のプロペラエンジン。

筑波空記念館にて鎮座する遺品たちには御神酒が添えられてた。
自ずと手を合わせ頭を垂れる。
感謝の念と哀悼の誠を捧げ、ひとり静かに黙祷する…

零式艦上戦闘機21型。ゼロ戦。
後部胴体。

もともとはソロモン諸島でニュージランド空軍が回収した機体。
ラバウル航空隊所属機と推定。
払い下げ品を大阪の個人が購入し、この地にて展示。

十九試局地戦闘機「秋水」
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。
秋水の燃料タンクが陶器製とは知りませんでした。
ちなみに秋水は(末期ゆえに)陸海軍共同で研究された稀有な機体。

記念館の二階へ。
さらに時代を感じる気配がします。

しばらく、雰囲気を堪能します。
中央階段。二階廊下。

記念館二階中央。
司令室。

記念館2階。
副官室。

記念館2階の窓から

広場に眼をやれば桜並木が。
これもまた往時の姿を残すよすがかな…

記念館2階。

こちらは「永遠の0」撮影に使用された部屋。
陽の差し込み具合がやんわりとしていて良い雰囲気です。

記念館2階。

「永遠の0」撮影に使用された部屋にて。
雰囲気重視。

廊下を往来しておりますと、さっきから気になる部屋があるんですよね。
ん?
提督ONLY

扉をそーっと… 押して参ります!
あっ 確かに提督Only部屋っぽい。

さて改めてまして。
模型の展示室があります。ちょっと見てみます。


先任旗…港湾停泊時に司令官不在時に先任の艦長が乗艦している艦艇に掲揚。
代将棋…将官不在時に大佐等の艦長が司令官を務める際に掲揚。

大和格納庫(零式水上観測機)や赤城カットモデルなども展示してありました。

カットモデルはなかなか見る機会がないので新鮮。精密さにしばし見入ってしまいました。

武蔵
模型のこの部分がシブヤン海での映像ではコレと照会してくれているのは、わかりやすく。

こうやって様々な艦船が揃っていると戦艦空母と駆逐などのスケールの違いが視覚化されてよいですよね。
1/700

横山保さんの遺品など。
ゼロ戦が実験機(十二試艦上戦闘機)だったころから部隊を編成し機体の問題解決に尽力しゼロ戦の初陣を指揮。
筑波空飛行長も務め、戦後は空自にて司令などを歴任。

風防ガラスのペンダント

筑波空予備士官金井正夫少尉と女学生。 一度も会うことなく文通がとりかわされ、そして金井少尉は神風特別攻撃隊筑波隊として散華…

神風特別攻撃隊
神雷部隊(桜花)と筑波隊。

この筑波空が「まさにカミカゼの生まれた地」。
この歴史を風化させてはいけない。

筑波山神社で記念写真を撮る筑波空の隊員達の姿がひときわに美しく……

桜花。神雷部隊。桜花を搭載した一式陸攻。

先日、鑑賞させていただいた映画「サクラ花 桜花最期の特攻」が頭によぎる。
ボタンの掛け違い…こんな時代になるなんて…の想いがよぎる。
万感…

参考写真 映画ポスター
参考写真 映画のパンフレット

こちらは桜花の主翼の一部。

もともとこの建物は、司令部の役目を終えたあとは、病院として使用されたもの。病院の役目が終わり筑波空記念館として改めて活用されています。

展示部屋の中には病院の名残ぽい水道などもあり…

紹介しきれなかった展示も多数あります。私は9時過ぎから2時間ほどいましたが、まだまだ離れがたくもっと時間が欲しいと。
とはいってもスケジュールがあれなので、野外展示にスライドしましょう。


筑波海軍航空隊正門門柱

海軍道路の基地側には門柱が残っている。
筑波海軍航空隊正門

正門の脇にあるコンクリート壁も往時の名残り。

もともとこの記念館は県立友部病院。病院が平成23年4月「県立こころの医療センター」として隣接地にリニューアルし、元の建物は廃院。 ちょっとした廃墟感。 そんな中を抜けて建物の先にある供養塔へ。

筑波海軍航空隊
司令部庁舎庭園

供養塔まで赴く途中にあるこの荒れ庭。 司令部庁舎の裏庭として一応往時からのものらしいです。

筑波海軍航空隊 供養塔

昭和13年から筑波空司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔。

この供養塔を建てられた古瀬貴季氏(最終官位は少将)は、フィリピンで捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けるも「ああ、モンテルンパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事が出来ております。


記念館では自転車(有料)も貸してくれるので、有効活用。
周辺散策へと。

慰霊碑
筑波海軍航空隊 ここにありき

碑文

 一九三四年六月開隊。練習機による操縦教育開始。四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更。四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。

君は信じられるだろうか。

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを 。 
また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを。
 この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える 。 
 ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる。

一九九九年六月                   
 筑波海軍航空隊関係者有志
 用地は橋本二朗氏提供

筑波海軍航空隊滑走路跡

滑走路跡。面影は直線的な道路を感じる程度。

もともとは平らに慣らしただけの土地だったものを筑波空が自力で昭和19年に滑走路整備したものという。

筑波海軍航空隊
筑波神社跡(筑波海軍航空神社跡)

戦後、GHQを恐れた地元住民によって壊されてしまい台座のみ残ると…
若鷲たちが祈願をしたこの場所で静かに頭を垂れ手を合わせる。

筑波海軍航空隊
地下戦闘指揮所跡
 ※現在は非公開

受付でご案内をいただき、懐中電灯とヘルメットが関与されます。
中に入って実感しましたが、ヘルメット大活躍。コツコツと頭ぶつけますからご注意を。
あと、花粉症の人。ヤバイです。杉林の中です。

地下戦闘指揮所跡。
懐中電灯が大活躍します。
通路がふたつ。部屋は真ん中に5つ。奥に1つ。奥行きは30m。

通路の奥では…プロジェクタ?戦争記憶を求める記念館の広報映像が流れていたり。
うん、印象深い演出だけとちょっとシュール。

地下戦闘指揮地下戦闘指揮所跡。
地下室。

青く見えるのはLED懐中電灯の影響。
素直に言ってかなり興奮する空間。

時間が止まったかのような空間。
無機質なコンクリートが歴史を伝承してくれている…

戦争記憶と記録を求めるポスト…

一番奥の部屋は通信室。
台座や金具跡が残る。

ちなみにこの地下施設は地上の司令部が無事に残ったので使われることはなかったとのことで。

天井に無数に開いている穴はケーブル孔や通気口など。
通気口は途中で折れ曲がって貫通しています。

地下戦闘指揮所跡。

こんな感じで地下室散策。
なかなか興味深い経験をさせていただきました。
これは貴重な歴史遺産。
このまま歴史伝承の装置として残しいかねばならぬもの。

もう一箇所、このエリアには地下施設があります。

筑波海軍航空隊
地下病院(地下応急治療所)

70年ぶりの発見!とのことで、こちらは近年の調査による成果。

地下病院は広さ16畳。奥には明かり取り用の窓もある。
地下戦闘指揮所とは違い、こちらは病院として実際に使用されてます。

明かり取り用の窓側を外から。

筑波空の地下施設。
圧巻でした。
これは一見の価値ありです。

貴重な遺産として、大変価値のあるものを体感させていただきました。
ありがとうございます。

さて、脇道へ。

地下施設の森の南に神社があるんですよ。
こりゃ、いかねばならないでしょ。

地下施設からは立ち入り禁止の道があるので大回りして神社に行ってみました。

二所神社

筑波空とは直接には関係ない…と思われるが界隈の鎮守様。
地下施設がある村の鎮守様。
昭和31年に耕地整理で池八幡神社の地に遷座。 この御社殿後方の杉林の中に先ほどの地下施設があるのだ。

海軍道路

筑波空正門から西に伸びる道路は通称「海軍道路」。
友部から筑波空までは海軍が建設し、そして地元の有志によって宍戸駅から筑波空までの道路が建設。
海軍と地元が交流する橋渡しの道路。

海軍道路の脇には道路建設に貢献した人々の名前が刻まれた石碑が残ってます。
石碑には昭和十年五月と記あり。

長閑な気持ちで、宍戸の集落を遠望。往時も今もそんなにかわらない光景かもしれない。

海軍道路から宍戸の街を抜けて行く。
宍戸駅に向かう途中に笠間市立歴史民俗資料館がある。

旧宍戸町役場庁舎(旧友部町役場庁舎)
笠間市立歴史民俗資料館

国登録有形文化財指定。 ちょっと立ち寄り。

笠間市立歴史民俗資料館。
入館は無料。
訪れた時は私一人でした。

空間を満喫。
手作り感満載の展示はなかなか味があって面白い。 たまにはこうやって郷土史や郷土民俗に触れるのも楽し。

筑波海軍航空隊にまつわる展示室もあります。
いまでこそ資料的密度は筑波海軍航空隊記念館が勝っておりますが古くからこうやって郷土の資料館にもコーナーがあることに敬意を表し。


筑波海軍航空隊記念館に戻りまして。

記念館1階では、お土産や書籍やグッズが販売されております。 後学のために購入。
「茨城県の戦争遺跡」
これから 足を運ぶ事が増えそうです……

記念館が、作成したパンフレット。 なかなか読み応えのある内容。 22ページと6ページの冊子。

戦争の記憶と記録を伝承し風化させない為の空間として。
先人たちの苦難を見つめ直す空間として。

期間限定公開が終わってしまうその後はどうなるのかが未知ではありますが…
なんとか良い方向へと進んでいくのを希求しつつ。

この空間は後世に必要なのです…

桜並木と司令部庁舎は往時と変わらぬ姿ででそこにあった。

この地より飛び立つ若鷲たちを見送ってきた桜並木。

万感の想いで脳裏で夢想する。
きっと、この桜花の咲く季節に訪れたら、泣いてしまうんだろうな…と

北浦海軍航空隊跡と鹿島海軍航空隊跡散策

平成28年9月(北浦)

スロープ跡

北浦

今回の舞台は北浦湖畔。目印は潮来マリーナ。 航空写真で見てもだいたい分かる感じに「水上機用スロープ」が残ってます。

アクセス方法
潮来駅-延方駅-鹿島大野駅を結ぶ広域連携路線バス。

バス停「大生原公民館前」下車。
ここより、北浦湖畔「潮来マリーナ」方面に向けて 北に歩いてみる。

北浦海軍航空隊

その活動期間は極めて短い。
昭和16年(1941)10月、鹿島海軍航空隊北浦分遣隊が設置。
昭和17年4月、北浦海軍航空隊として独立開隊。水上機訓練部隊となる。
昭和20年5月5日、訓練部隊解隊。
北浦航空基地となり訓練部隊の機能を失う。

位置関係

USA-R534-No2-101
1949年(昭24)01月20日、米軍撮影

皇太子明仁殿下御行啓記念碑

北浦海軍航空隊跡地
第二十九期飛予科練卒
元海軍航空隊員 大谷英助書

昭和19年(1944)05月に、 皇太子殿下が北浦海軍航空隊を御見学された際の御行啓記念碑。

皇太子明仁殿下御行啓記念碑
碑文裏面
 昭和十六年十月霞ヶ浦海軍航空隊北浦分遣隊が大生釜谷両地の水田約五十町歩を買収し七戸の農家を移転させて航空隊建設に着工し完成致しました。
 昭和十七年四月北浦海軍航空隊として開隊し水上飛行機訓練場として若鷲予科練の若人育成に大きな役割を果たしました。
 昭和十九年五月三日、四日、皇太子殿下には学習院初等科第五学年で学友五十五名と共に当海軍航空隊を御訪問飛行訓練など御見学なされ御宿泊になりました。
 当時私達大生原国民学校生徒全員が御観送迎の行事に参加出来ましたことは誠に意義深いものと考えここに皇太子殿下御行啓の地と記し北浦海軍航空隊跡地として後世に伝えるため記念碑を建立します。
 平成三年十二月二十三日
 碑文 委員長


霞ヶ浦周辺の海軍航空部隊の交通整理。

海軍航空隊の教育部隊(予科練)として。

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)→「北浦空」(鹿島空分遣から独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)


皇太子明仁殿下御行啓記念碑の地から北上して、潮来マリーナ界隈へ。北浦の湖畔へ。

「当該コンクリート部分は、国有財産です。」

はい、そのコンクリートを見に来ました・・・。

北浦海軍航空隊
水上機スロープ跡

このなだらかなコンクリート斜面が北浦海軍航空隊の水上機スロープ跡。
滑走台。

水上機を台車に載せ、コンクリートエプロンから機体の出し入れをしたという。

水上機スロープ跡。

この北浦の湖畔にフロートで浮かぶ水上機が幾多も離水し飛び立って行ったんだなあ、と往時を偲ぶ。

知らなければそれまでの場所。
コンクリートと湖面は静かに往時の歴史を物語っていた…

潮来マリーナの片隅に慰霊碑がある。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

碑文

貴様と俺とは
 同期の桜
同じ航空隊の
 庭に咲く
咲いた花なら
 散るのは覚悟
みごと散りましょ
 くにのため

昭和六十三年三月

同期の桜を…

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔

水上機練習部隊として、93式水上中間練習機「赤トンボ」にて離着陸・旋回訓練などが行われていたが、時には操縦を誤り墜落する事故もあったり…

昭和20年5月には、当地より水上機による特攻作戦も展開されたという…

黙祷を。

北浦航空隊物故者水難者慰霊塔の両隣は
「ブラックバス供養塔」

「へら鮒供養塔」

北浦海軍航空隊
格納庫の基礎跡

マリーナよりちょっと南下したところに。
北浦海軍航空隊の「格納庫の基礎」といわれているコンクリートの塊があった。

格納庫の基礎。
そこには当時のものと思われる「ナット」も付いたままでした。
ちょっとしたことだけど。
歴史を感じる遺物に感動してしまう。

往時を物語るものは少ないけれども確かに往時を感じられる気配がそこにあった。

北浦の夏空は往時を忘れるのどかさがあった


鹿島海軍航空隊跡散策

平成22年(2009年)、友人とたまたま霞ヶ浦湖畔に訪れていた、当時の私はまだ戦跡を見聞する知識も持ち合わせておらず、詳細な記録もないので、「付記」として掲載します。


平成22年5月。その時は友人車で(サラリと)訪れておりました。
黄色が「鹿島海宮航空隊」
青色が「北浦海軍航空隊」
どちらも水上機部隊。

鹿島海軍航空隊

昭和13年(1938)12月15日、鹿島海軍航空隊が開隊。
霞ヶ浦海軍航空隊の水上機部隊が分離独立した部隊。

昭和17年4月1日には「鹿島海軍航空隊北浦分遣隊」が独立して「北浦海軍航空隊」となっている。
水上機部隊としては鹿島と北浦は兄弟のような関係。

水上機操縦教育を主体に多くの飛行学生・飛行練習生を擁していたが、昭和20年5月5日に練習航空隊指定解除。
第十一航空艦隊直率となり終戦。

鹿島海軍航空隊カタパルト跡

この場所にカタパルト(水上機を射出するための機械)が展開されていた、と。

鹿島海軍航空隊スリップ跡

このときはジェットスキーの発着で活用されておりました

カッター船着場跡

往時の桟橋が伸びる。

残念なのは当時は調査が足りず「元鹿島海軍航空隊之碑」などを見に行けてない事。この鹿島空の地は再訪したいと思っております…

鹿島空は宿題多し・・・再訪必須・・・