第六潜水艇ゆかりの地散策

平成29年3月 山口県岩国市及び広島県呉市

和木駅から岩国駅方面に南下。 歩くこと20分程ほどで目的地に到着。

第六潜水艇受難者記念碑
(第六潜水艇記念碑)

第六潜水艇受難者記念碑
元海軍大将 高橋三吉 謹書

第六潜水艇。
佐久間艇長ら乗組員が殉じられた海は、この岩国の沖合いだった…。

第六潜水艇受難者記念碑

碑文
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日新港沖で半潜航訓練中沈没し艇長以下十四名の乗組員が殉職されました
引揚げ后艇内の状態及び艇長の遺書により全員が一糸乱れず各々の部署を守り従容として死に就いたことが判明しました
潜水艇が世に出て間もない時代のこの出来事は全世界注視の的となり事故に対処した艇員の立派な態度は深い感銘を与ヘその旺盛な責任感と事を処する沈着な態度はわが国民の範としてたたえられました
殉難直後地元にささやかな記念碑を建てましたが後呉鎮守府の追加手入により立派なものになり永く後世に伝へることになりました
偶々昭和廿年敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問はず軍国主義の悪名をふして一切が葬り去られ此の碑も亦同じ憂目を見ました
かくして十有余年を経た今日艇員の崇高なる精神は再び世に問はれる時が来ましたので有志相図り広く全国に訴へ浄財を得て遭難満五十年を期し再建することになりました
茲に後世のためにこの次第を記します

昭和丗五年四月十四日
第六潜水艇殉難者記念碑再建期成会

第六潜水艇受難者記念碑

第六潜水艇。 潜水技術黎明期の不慮の事故は、佐久間艇長らをはじめとする乗組員のまさに命を懸けた対処を踏まえ。こののちに発展をしていくこととなる。

碑には、佐久間艇長(佐久間勉 海軍大尉)ら14名の受難者名が刻まれていました。

第六潜水艇受難者記念碑

佐久間艇長遺書
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ
我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
瓦斯林潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイスバルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」キレ依ツテ手ニテ之レヲシメタルモ後レ後部ニ満水(セリ) 約廿五度ノ傾斜ニテ沈没セリ  中略

公遺言
謹ンデ
陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ 中略 瓦斯林ヲブローアウトセセシシ積リナレドモガソソリンニヨウタ 十二時四十分」

原文ノママ

乗組員の使命感、佐久間艇長の沈着剛勇精神は多くの日本人に感銘を与えた、という・・・

第六潜水艇の沈没場所。
現在地より東方約2000米。

明治43年4月15日午前10時頃。

その沈んだとされる岩国の海を望む。 向こうにくっきり見えるは阿多田島。

海の方に向き、静かにこうべを垂れ、手を合わせる。
合掌


第六潜水艇受難者記念碑と同じ空間には明治百年記念碑が。
こちらは、岩国の新湊商工連盟。

第六潜水艇受難者記念碑のある高台は潜水艇が沈んだ海を見渡すことが出来るとともに実は線路の上でもあり。


附記【第六潜水艇受難之碑】

岩国の沈没現場を訪れたのちに、呉の「受難顕彰の碑」がある地にも行かねばなるまい。そう思っておりました。 実は何度か参拝したことはあるけれども、ことさらに意識をして足を運んでみました。

呉西部に鎮座する「鯛乃宮神社」 岩国の沈没現場を見渡す地に次いで、この呉の地も海軍として第六潜水艇ゆかりの場所なのだ。

鯛乃宮神社

まずは参拝を。

主祭神:言代主神
相殿神:大己貴命・天日方奇不方命
創立年代は不詳。
文亀年間(1501-4)に満田氏が神田2所を寄進し社殿を造営と伝わる。 その後、広島領主福島正則によって神田が没収されるも元文5年(1740)に社殿を再興。

鯛を献じて祈願をなすと所願成就すると伝えられた事から、当社を鯛乃宮と呼称。

現在は呉総鎮守・亀山神社の兼務社。
(なお亀山神社神職さんに確認しましたが、当社の御朱印はありません。)

狛犬さん。 なかなか特徴的なポージング。

「鯛乃宮神社」境内にそびえ立つ塔のようなもの。
これが呉の「第六潜水艇受難之碑」。

第六潜水艇受難之碑

第六潜水艇受難之碑
「鯛乃宮神社」境内

案内看板

第六潜水艇は、明治39年、わが国で初めて建造された排水量僅か57トン、水中最大速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。
すべて艇の劣勢の訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から6号艇も訓練につぐ訓練を重ねていたのであります。
しかるに不幸にも明治43年4月15日、呉港を出港した第6号潜水艇は山口県岩国市新港沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。
「艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」
佐久間艇長の遺書の一部に書き残されているとおり、遭難沈没した午前10時から12時40分まで乗組員全員、最後まで持ち場を離れず修復に力を尽くしつつ従容として死を迎えた崇高な使命感は、佐久間艇長の沈着剛勇の精神とともに、日本国民はもとより、全世界の人々に深い感銘を与えました。この事跡は、国民精神の鑑として、広く共感を呼び、大正3年呉港ゆかりのこの地、三津田丘鯛の宮境内に、各方面から挙出された浄財により、高さ19メートルの壮麗な殉難記念碑が建立されました。 その後、毎年4月15日には、盛大な慰霊・追悼式典が催されて今日に及んでおります。
  第六号潜水艇顕彰保存会 謹記

佐久間勉 wikipedia より

碑には四枚のプレートが埋め込まれています。
佐久間勉艇長の遺言や受難者氏名など。

保管庫には「プロペラ」と「バルブ」が鎮祭。

これは昭和26年にGHQの解体命令により呉潜水学校にて六号艇神社として保存してあった潜水艇を、解体に際し一部別途保管されたもの。
殉難50周年にあたる昭和34年4月15日に保管庫設置。

佐久間勉艇長と13人の乗組員たち。
事故に際して取り乱さず我先と逃げ出すようなこともせず、最後まで修繕しようと試みた沈着冷静な心意気。

「沈勇」(沈着剛勇)の精神。

誇りある日本人として敬意を。 そして感謝と哀悼を。

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) その一角に第六潜水艇のコーナーがある。

佐久間勉艇長の遺書や遺品なども展示。

佐久間艇長出生地の福井県若狭町、中学時代を過ごした小浜市、そしてこの呉市では4月15日、岩国では4月14日に慰霊祭が斎行されています。

若狭町