「人物史」カテゴリーアーカイブ

愛宕山の戦跡散策(青松寺と愛宕神社)

令和元年9月参拝

芝鎮座の「青松寺」の境内には、戦争にまつわる史跡がいくつか残されている。
境内裏手の墓地の一角に。

肉弾三勇士(爆弾三勇士)

「肉弾三勇士」は大阪朝日新聞・東京朝日新聞の呼称。
「爆弾三勇士」は大阪毎日新聞・東京毎日新聞の呼称。
それぞれの新聞社が公募した「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」もある。

肉弾三勇士・爆弾三勇士とは、独立工兵第18大隊(久留米)の、
 江下武二(えした たけじ)
 北川丞(きたがわ すすむ)
 作江伊之助(さくえ いのすけ)
の3名の一等兵のことをいう。
3名は戦死後に2階級特進し陸軍伍長となった。

昭和7年(1932年)2月22日
第一次上海事変にて、トーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために、 鉄条網を破壊し突撃路を切り開くために点火した破壊筒を3名で抱えて敵陣に突入。破壊の爆発に巻き込まれて3名は戦死したが鉄条網の破壊には成功。
突撃路を切り開いた英雄として讃えられ「昭和最初の軍神」とされる。

昭和9年。
全国からの寄付金が集まり、貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区の青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像「肉弾三勇士の像」(新田藤太郎作)が設置された。
しかし戦後に撤去され、後に切り離された「江下武二の像」の部分のみが新たな台座とともに青松寺に安置されている。「北川丞の像」は長崎県北松浦郡佐々町にある三柱神社に移築。「作江伊之助の像」は所在不明。

肉弾三勇士三霊
肉弾三勇士・江下武二の像

当地には肉弾三勇士の一人、江下武二の像のみが残されている。

肉弾三勇士の三霊に合掌を

碑文
 忠孝の心を存し仁義の事を行い難至って節見はれ累至って行明かなるは我日本帝国臣民の伝統的精神にして其れも善き例を示したるは廟行鎮の役に挺進爆薬筒を抱き肉弾と化して瞬間に能く敵前鉄条網の堅陣を爆破し以て皇軍進出に便ならしめ砕身奉公の誠を致したる作江伊之助・北川丞・江下武二の3士にして其忠烈古今に絶し其壮烈世界を震撼す真に所謂死して護国の鬼となり永く報国の訓を掲けたるものと謂ふへし依て茲に銅像を建て建設して3士の遺骨を其の内に納め以て忠魂を無窮に弔い義烈を万代に顕彰する所以なり
 昭和9年2月22日
  肉弾三勇士銅像建設委員会 

「肉弾三勇士三霊」の隣に。

國體護持 孤忠留魂之碑

いわゆる「宮城事件」に関係する、陸軍・畑中健二少佐らを祀る。
 椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)
 古賀秀正少佐(近衛師団参謀)
 上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)
上記四士の慰霊碑が青松寺に鎮座している。

宮城事件

昭和20年8月14日深夜から8月15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は、8月15日に決起。
午前0時過ぎに玉音放送の録音を終えて宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員などの身柄を拘束。
近衛第一師団長森赳中将に面会を強要しクーデターの参加を求めるも決裂し、近衛第一師団長森赳中将と同席していた第二総軍参謀白石通教中佐を殺害。
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠し東部軍管区 にクーデター参加を求めたが、東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将は鎮圧を決定。

昭和20年8月15日
5時半
 陸相官邸で阿南惟幾陸軍大臣が自決。
午前11時過ぎ
 椎崎中佐と畑中少佐は、皇居前広場(二重橋と坂下門の間の芝生)で自決。
正午
 古賀少佐は、玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で自決。
 上原大尉は、修武台航空神社前で自決
事件鎮圧の功労者だった田中静壱東部軍管区司令官は8月24日に自決している

碑文
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
 昭和五十九年秋 有志建之

旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑

明治22年11月建立

軍馬之碑

工兵第二十三聯隊 戦友之碑

青松寺の右手、愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの通り道に。

故市来・吉住両君の記念碑

インドネシアゆかりの記念碑。
日本敗戦後もインドネシアに留まり、独立軍に参加して戦死した市来龍夫氏 、吉住留五郎氏の名前の刻まれたスカルノ・インドネシア大統領の直筆の顕彰碑。この石碑のある青松寺の隣にある老舗料亭「醍醐」は、スカルノ大統領ゆかりの料亭であったという。

昭和20年(1945)8月17日、インドネシアは独立を宣言。それに対しイギリスの支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐し。4年間にわたる独立戦争が勃発。
日本軍撤退後もインドネシアに留まり義勇軍・独立派に身を投じた元日本兵の多くがインドネシア独立戦争に協力。
昭和20年8月15日以降の、元日本軍死者は1000人を超え、独立戦争で命を落とした元日本兵はインドネシア各地の英雄墓地に葬られている。生き延びた元日本兵もインドネシア国籍を得て1960年代の日本企業のインドネシア進出が本格化する際には橋渡し役として活躍もされている。

1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表すとともに、インドネシア独立戦争において特に活躍した、 市来龍夫氏(アブドルラフマン) 、吉住留五郎(アレフ)氏 に対して感謝の言葉を贈り、それが記念碑として建立された。

市来龍夫君と
 吉住留五郎君へ

独立は一民族の
 ものならず
全人類のものなり

1958年8月15日
 東京にて
  スカルノ

PRESIDEN
REPUBLIK INDONESIA

 市来龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
 吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
 両君は共に青春志を抱いてジャワに渡航力学よくイ語の蘊蓄を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散す。

青松寺

曹洞宗・萬年山青松寺
太田道灌ゆかり寺院。文明8年(1476)創建。
江戸時代は長州藩・土佐藩・津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した。

青松寺の北隣、愛宕山に現在はNHK放送博物館がある。

NHK放送博物館

NHKの前身のひとつである社団法人東京放送局はこの愛宕山に放送局を置き、1925年から1938年まで、ここからラジオ放送が発信された。
1956年にNHK発祥の地である地に世界初の放送専門博物館が開館。当時の建物は現存しておらず、現在の建物は1968年(昭和43年)に建設されたもの。

NHK放送博物館の隣には、愛宕山の愛宕神社が鎮座している。

殉皇十二烈士女之碑
弔魂碑

いわゆる「愛宕山事件」
昭和20年8月15日の降伏終戦に対して、反対する民間団体「尊攘同志会 」首領・飯島与志雄ら12名が決起。
内大臣木戸幸一邸を襲撃し殺害を試みるも失敗し、抗戦派軍人の呼応を期待し愛宕山に籠城。
警視庁は70余名の警官隊を動員し愛宕山を包囲し投降を呼びかけるも決裂。
8月22日午後6時ごろ、警官隊が発砲し突入。手榴弾で自決を図り10名が死亡。8月27日には残された2婦人が集団自決が行われた場所でピストル自決をしている。

弔魂碑碑文
昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ
転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応
天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ
忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 
遺烈万古尽くる時なからむ
 天なるや 秋のこだまか とこしえに 
 愛宕のやまの 雄たけびのこゑ

愛宕神社

愛宕山鎮座の愛宕神社。天然の山としては東京23区内最高峰。(25.7m)
京都の愛宕神社が総本社。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命にて創建。

青松寺と愛宕神社

愛宕山は「爆弾三勇士」「宮城事件」「愛宕山事件」といった慰霊鎮魂の地でもありました。

合掌

「ペルリ提督の像」と「遣米使節記念碑」(芝公園)

令和元年9月撮影

増上寺の向かいの芝公園に。

ペルリ提督の像

マシュー・ペリーの頭像。
Matthew Calbraith Perry(1794年4月10日 – 1858年3月4日)
「蒸気船海軍の父」
1853年に浦賀に入港し、東インド艦隊司令長官として日本開国交渉を行った。
「ペルリ(漢字では彼理)」 と来航当時は表記されていた。

昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像という。


嘉永6年7月(1853年)および安政元年(1854年)に日本の開港のため米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地でありまた当時日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである
米国人フェリックス・ド・ウエルドン作
東京都

その向かい側に。

万延元年遣米使節記念碑

 西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
副使村垣淡路守範正の詠にいう、
 竹芝の浦波遠くこぎ出でて
  世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会

なぜ、芝のこの場所にあるのかは不詳。
開国に揺れる徳川幕府と深い関係にある芝増上寺の門前というのが意味深であった。


関連

海軍大佐 野島新之丞 邸(国立市)

令和元年9月撮影

海軍大佐 野島新之丞

野島新之丞は三重県出身・海兵30
正五位勲三等功五級
昭和28年9月2日に死去、墓所は多磨霊園

海軍兵学校第30期(海兵30期)
明治35年12月14日卒業(187名)
30期の同期(クラスメイト)は
 海軍大将 百武源吾
 海軍中将 今村信次郎・重岡信治郎・濱野英次郎・松山茂
 海軍少将 金子養三・鹿江三郎・館明次郎・ 常盤盛衛・森田登 
等々がいる。

前後のクラスでいうと、
29期 海軍大将   高橋三吉・藤田尚徳・米内光政
31期 海軍大将   及川古志郎・加藤隆義・長谷川清
32期 海軍大将元帥 山本五十六
   海軍大将   塩沢幸一・嶋田繁太郎・吉田善吾
等々の世代。


なお、ネット上では「赤城の艦長であった野島新之丞」とあちらこちらで紹介されている。
「軍艦赤城」「戦艦赤城」という記載も含め諸々に疑問符が浮かんだので経歴や艦長歴などを調べてみたところ、初代「赤城」(砲艦)及び、巡洋戦艦から空母に改装された2代目「赤城」いずれも野島新之丞が艦長であったという経歴が見つけられなかった。
参考までにgoogle検索「赤城 野島新之丞」リンクを張っておきます。

野島新之丞 の艦長経歴として確認できたものは以下。

(1)
春雨型駆逐艦5番艦「有明」(初代「有明」)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1909年12月1日-1910年12月13日

(2)
山彦型駆逐艦1番艦「山彦」
 元ロシア駆逐艦 レシーテリヌイ(Решительный)
駆逐艦長 (兼任 砲術学校兼水雷学校教官)
野島新之丞 海軍大尉 1911年12月1日 – 1912年7月5日

(3)
敷波型駆逐艦1番艦「敷波」(初代「敷波」)
 元ロシア水雷巡洋艦 ガイダマーク(Гайдамак)
駆逐艦長
野島新之丞 海軍大尉 1912年7月5日 – 1913年4月1日

1913年12月1日 海軍少佐
1918年12月1日 海軍中佐
1922年12月1日 海軍大佐
1923年4月1日  予備役

なお、砲艦「赤城」(初代)の除籍は1911年。空母「赤城」の進水は1925年。
野島新之丞 は砲艦赤城の除籍時は海軍大尉であり駆逐艦長。
そして(巡洋) 戦艦 =空母「赤城」の進水前には予備役(引退)となっている。

赤城艦長説の出どころは不明・・・

前置きが長くなりました。

旧野島家住宅
(現ル・ヴァン・ド・ヴェール)

文化財分類種別 市登録有形文化財・建造物
所在地 国立市中1-16-35
公開状況 公開
所有者・管理者 個人(ル・ヴァン・ド・ヴェール)
登録日 平成30年4月1日

概要
旧野島家住宅は、昭和2(1927)年頃、元海軍大佐野島新之丞・喜美夫妻が国立駅近くに建てた住宅です。建てられた当時は、煙突やバルコニー等を備えたモダンな印象を与える洋館で、開発初期の国立大学町を象徴する先進的近代洋風住宅のひとつでした。
また、個人住宅にとどまらず、昭和6(1931)年頃からは国立のキリスト教関係者の集会所、昭和13(1938)年頃には国立町会の事務所が置かれ、地域の拠点施設になっていました。
昭和56(1981)年には外観をほぼ保ったまま再生され、現在はレストラン「ル・ヴァン・ド・ヴェール(緑の風)」として親しまれています。
国立の開発史を伝える貴重な建造物であり、国立の人々に長く親しまれてきた地域の文化財です。

国立市> 市登録有形・建造物(7)  より http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html#a10

ん?
廃墟にみえます・・・

お客様各位
平素は格別のご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

このたび「ル・ヴァン・ド・ヴェール」の建物は
国立市登録有形文化財(建造物)になりました。

昭和2年の建設から80年以上経ち老朽化が進み
文化財の名に恥じぬよう修理することにいたしました。

今後共、国立の洋館をお楽しみ頂けますように
2018年2月1日から、しばらくお休みを頂きます。

お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが
リニューアルオープンにご期待下さいますようお願い申し上げます。

裏側にまわってみました。

2018年の休業以来、放置されている雰囲気が・・・
早い修復修理を期待しております・・・

高島秋帆と高島平(火技中興洋兵開祖)


高島秋帆 (たかしま しゅうはん)

江戸時代末期の砲術家
高島流砲術の創始者(流祖)
火技之中興洋兵之開祖

寛政10年(1798)の生れ。先祖は近江国高島郡の武士。
高島四郎太夫、諱は茂敦、字は舜臣、通称は糾之丞、秋帆と号す。贈正四位。

文化11年(1814)に父の跡を継ぎ長崎会所調役頭取に就任。日本砲術と西洋砲術の格差に愕然とし出島のオランダ人を通じて洋式砲術を学ぶ。
天保5年(1834)に私費を投じて銃器を揃え高島流砲術を完成。
天保6年(1835)には自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を完成。
天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の高島平)にて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この結果、高島秋帆は砲術専門家として幕府に徴用され、老中阿部正弘から「火技中興洋兵開祖」と称賛された。
しかし天保13年(1842)に、長崎会所の杜撰な運営の責任者として長崎奉行に逮捕投獄される。
嘉永6年(1853)、ペリー来航(ペルリとも呼称)による社会情勢の変化により赦免され出獄。
その後は幕府の砲術訓練指導に尽力。
慶応2年(1866)に69歳で死去。


高島平

当地はかつては徳丸ヶ原と呼称されてた。
江戸時代は、荒川の後背湿地であり幕府の鷹狩場に指定された荒地。

天保12年(1841)
砲術家 高島秋帆 が「徳丸ヶ原」にて日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。

昭和40年代に当地域の再開発がはじまり、昭和44年に板橋区によって「高島秋帆」に因む町名「高島平」が採用された。


高島秋帆先生紀功碑

東京都板橋区「松月院」境内。
大正11年(1922)落成。
陸軍省より下付された高島秋帆ゆかりの「安政4年(1857)鋳造の銅製二十四斤加農砲砲身」を中心に、東京砲兵工廠にて鋳造された「火焔砲弾4発」などの付属品を配置した記念碑。 砲術訓練を行った際の本陣跡に設けられた。

高島秋帆先生紀功碑

 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。

 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。

 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。

 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。

 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。

平成26年度区登録文化財

火技中興洋兵開祖
 正二位勲一等 文学博士
 男爵 細川潤次郎 書

贈正四位高島四郎太夫先生 諱は茂敦 字は子厚 秋帆と号す。長崎の人なり。夙に内外の形勢を洞察して本邦兵制の革新せさるへからす。火技戦法の採用せさるへからさるを悟り私財を損てて新様の鉄砲を購ひ門人に教ふるに洋式の操練を以てせり。(略)

天皇皇后両陛下御下賜金貳百圓
(略)

紀功碑用砲身 陸軍省下付
紀功碑架台及付属品 東京砲兵工廠
(略)
着手 大正十一年六月十四日
落成 大正十一年十二月六日
(略)


萬吉山 宝持寺 松月院

高島秋帆先生紀功碑のある「松月院」

東京都板橋区赤塚鎮座。曹洞宗の寺院、山号は萬吉山。
房総の千葉自胤が康正2年(1456)に千葉市川から当地の赤塚城に移り(武蔵千葉氏)、1492年に当地の宝持寺を菩提寺として定め、松月院と改称したことにはじまるという。
幕末に高島秋帆が砲術訓練を行った際に、境内に本陣を設けている。
明治期には一時期、旧赤塚村役場が境内に設置されていた。

紀元二千六百年記念
昭和十六年五月竣成

新東京八名勝
赤塚 松月院

新東京八名勝は1932年に東京市が拡大されたことを記念し報知新聞社が企画したもの。松月院は第五位。

  • 池上本門寺(大森区)
  • 西新井大師(足立区)
  • 北品川天王社(品川神社)(品川区)
  • 日暮里諏訪神社(荒川区)
  • 赤塚松月院(板橋区)
  • 目黒祐天寺(目黒区)
  • 洗足池(大森区)
  • 亀戸天神(城東区)

伝千葉一族の墓
 松月院は、康正2年(1456)に下総国での戦いに敗れ、市川城から武蔵国の赤塚城・石浜城へと移った千葉一族の菩提寺です。また、この墓も同一族を弔ったものと伝えられています。
 当墓については、文化9年(1812)に斉藤幸孝が記した『赤塚紀行』に挿絵入りで記されるなど、当時から広く知られていました。
 向かって中央右側にあるものが千葉介自秀の墓とされ、松月院殿南州玄参大禅定門の法名と、永正3年(1506)6月23日の忌日が刻まれています。この墓碑については、すでに江戸時代の段階で後世に造立されたものと指摘されています。また、松月院ではこれを開基檀越である千葉自胤の墓碑としており、文化文政期(19世紀前半)に成稿した地誌、『新編武蔵風土記』でも墓銘にある自秀は自胤を誤記したものとしています。
 左側には比丘尼了雲の宝篋印塔があります。『赤塚紀行』では、これを自秀室の墓としていますが、時代的にはそれ以前の、元徳元年(1329)の年号が刻まれています。これは、区内最古の墓碑であり、境内の発掘調査成果と合わせて、武蔵千葉氏が当地に移る以前の段階で、当所に寺院が存在していたことを証明する貴重な資料となっています。
 平成22年3月
 板橋区教育委員会

下総を追い落とされた武蔵千葉氏一族の墓。
千葉自胤(よりたね)は武蔵千葉氏2代目当主。千葉一族の勢力争いに破れ下総に帰還することなく、子孫は武蔵国人に転落。

高島平駅からバス、もしくは成増駅からバスで。赤塚8丁目バス停下車。


徳丸ヶ原碑(徳丸原遺跡碑)

高島平駅すぐ近くの「板橋区立 徳丸ヶ原公園」
もともと新高島平駅ちかくの弁天塚に1922年に建立されていた「徳丸ヶ原碑」が1968年に現在地に移転。
1841年に高島秋帆による西洋式砲術調練が行われた徳丸ヶ原を記念する石碑。

徳丸原遺跡
此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年五月高嶋四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練等を行ひし處とす
 大正十一年六月
   高島秋帆先生紀功碑建設首唱者

扁額は徳富蘇峰の筆。

徳丸ヶ原 
 東京都旧跡(大正9年) 
 区登録記念物(昭和60年度)

 高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原とよばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保12年(1841年)には、5月7日~9日の3日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭には黒塗円錐形のトンキョ帽と言う兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられ開墾が行われ、最終的には約4百ヘクタールの徳丸田んぼ、赤塚田んぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和40年代となると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。 高島平の地名は、当地で砲術訓練を行なった高島秋帆にちなんで付けられたものです。
 平成25年3月
  板橋区教育委員会


東京都文京区向丘(白山駅近く)に鎮座する大円寺に高島秋帆の墓がある。
(出生の長崎市にも高島家墓地あり)

高島秋帆墓

国指定史跡
高島秋帆墓
 (江戸時代の砲術家 1798-1866)
 文京区教育委員会 

戦災で被災した墓石は傷つき、かろうじて「高」の字のみを残していた。

史跡 高島秋帆墓

大円寺は「ほうろく地蔵」で有名。


場所は変わって川口市。

18ポンドカノン砲(復元)

鋳物の町・川口。
川口の鋳物師・増田安次郎が高島秋帆と協力して作ったという大砲=18ポンドカノン砲を増田安二郎から連なる増幸産業株式会社が復元している。

18ポンド カノン砲
 この大砲は幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩により依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。
 幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打ち払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行なっていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師 増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国家の干城なり」という褒状を授与されました。
全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m
材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾

武州足立郡川口
鋳物師増田安二郎

嘉永壬子五年仲春

高島秋帆が増田安二郎に送った褒状が、川口市立文化財センターのサイトに掲載されている。
「国家干城可也」の一文がある。

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_031.html

また、増幸産業株式会社様のサイトにも「大砲の歴史」がまとめられている。

http://www.masuko.com/company/taihou.html

川口の戦跡などはこちらにて


さらに場所はかわって深谷市。渋沢栄一で盛り上がっている街へ。

高島秋帆は、岡部藩(現在の深谷市)に11年間、幽囚されていた。
そして深谷市の北部には、渋沢栄一の出身地である血洗島があった。

高島秋帆幽囚の地

天保13年(1842年)、長崎会所の責任者としての不備を問われ長崎奉行によって逮捕投獄。讒言であったという。
囚われた高島秋帆は武蔵国岡部藩にて幽閉される。
幽閉中であっても、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた、という。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により11年にわたる幽閉がとかれ赦免出獄している。

高島秋帆幽囚の地
 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。
 その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
 平成3年3月
  埼玉県
  深谷市

http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu02/1487555460716.html

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/takashimasyuuhan.pdf

岡部藩について
 岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計 5,250 石を基に発展しました。
 信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永 13 年(1636)に三河国内 4,000 石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に 10,000 石を加増されて信盛は大名となりました。
 その後、所領高 20,250 石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。
 慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/okabehann_leaflet.pdf

秋帆先生幽囚之地

陸軍中将渡邊金造、昭和14年2月建立。

国道17号の岡部北交差点に、案内標石がある。

高島秋帆が捕らえられていた岡部藩陣屋と、渋沢栄一の出身地・血洗島の位置関係。4キロほどしか離れていないのだ。


以上、高島秋帆に関わるあれこれ、でした。

早川徳次像(地下鉄の父)

令和元年8月撮影(令和5年写真更新)

日比谷線銀座駅の地下通路に。


早川徳次(はやかわ のりつぐ)

明治14年(1881)10月15日~昭和17年(1942)11月29日

東京地下鉄道(のちの帝都高速度交通営団→東京地下鉄・東京メトロ)の創業者。
日本に地下鉄を紹介・導入したことから「日本の地下鉄の父」と称された。
山梨県出身。郷里の先輩に根津嘉一郎(東武鉄道・南海鉄道に関わった実業家、日本の鉄道王)がいる。
早川は根津の右腕として手腕を発揮し佐野鉄道(東武佐野線)や高野登山鉄道(南海高野線)の再建に成功。

大正9年(1920)8月29日に東京地下鉄道株式会社を設立。
大正14年(1925)9月27日に浅草ー上野間の地下鉄工事を開始。
昭和2年(1927)12月30日、浅草駅から上野駅まで開業。(現在の東京メトロ銀座線の同区間)

早川徳次の像は昭和16年の朝倉文夫作。
前年昭和15年の皇紀2600年記念式典において、早川徳次が緑綬褒章を賜ったことを記念し翌年の昭和16年に株主・社員一同によって設立された。
早川徳次はその翌年昭和17年に61歳で亡くなっている。

もともと早川徳次胸像は、昭和16年(1941年)に、新橋駅に建立されていたが、開通50周年に際して1977(昭和52)年に、銀座駅に転座している。
この旨は、金春安明様よりコメントを頂きまして、再確認をしました。

2025/07/13、投稿します。様々なページに、「東京メトロ銀座駅構内の早川徳次像」と紹介されてますが、「地下鉄開通50周年記念行事」までは早川徳次氏の会社と、渋谷駅から来た会場の接合点の「地下鉄銀座線の新橋駅」に有った像を銀座駅構内に移設したのです。地下鉄の博物館に説明が有りますし、能楽の金春安明の記憶にも新橋から銀座に移設という記憶あり。
2025年7月13日 11:18 PM

メトロアーカイブのサイトにも「早川徳次胸像」に関して下記の記載がありました。

早川徳次氏胸像の除幕式
地下鉄開通50周年記念行事のひとつとして、新橋駅構内に設置してあった「早川徳次氏の胸像」を銀座駅に移転し除幕式を行った時の様子。
その他の記念行事としては、記念乗車券の発売や、日本橋三越での地下鉄50年展などがあり、それぞれが大盛況であった

https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/box09-082.html


早川徳次胸像

銀座駅に。

社長早川徳次像

以下は、駅改修工事中の写真(令和元年)

地下鉄の父
早川徳次像
(1881~1942)
朝倉文夫作

氏は明治14年山梨県に生まれ
帝都高速度交通営団の前身である
東京地下鉄株式会社を創立、幾多の困難を克服
昭和2年12月30日アジアで最初の地下鉄
浅草~上野間(2.2キロ)を開業させ
引き続きて銀座へ新橋へとレールを伸ばし、
今日に見る地下鉄時代の礎を築きました。

社長早川徳次像
夙ニ帝都ヲ立體的近代都市タラシムルノ計画ヲ樹テ 東京地下鐵道株式會社ヲ創立シ 未曾有ノ難事業ヲ完成セリ 洵ニ是レ我國交通史上ニ一新紀元を劃ヌルモノ 天下萬人之ニ依ツテ享クル利便頗ル大ナリ 其ノ功績畏クモ 天聴ニ達シ皇紀二千六百年記念式典ニ際シ緑綬褒章賜フ 茲ニ同志相謀リ壽像ヲ建立シテ永ク後世ニ傳フト爾云

昭和16年5月
重役株主社員一同

日比谷線・銀座駅

余談
早川徳次(はやかわのりつぐ)は、「東京地下鉄道」の創業者、地下鉄の父
早川徳次(はやかわとくじ) は、「シャープの創業者」


写真を追加(2023年1月)
駅改修完了後の写真

旧多摩聖蹟記念館(多摩市)

令和元年8月

京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」。京王線ユーザーであれば馴染み深い駅名。

気にはなっていましたが、実はまだ「聖蹟」に脚を運んだことがなく。
近いと言えば近いので、ちょっと赴いてみました。

京王電鉄「聖蹟桜ヶ丘駅」
格別に美しい駅名だと思います。

ここから「記念館」行きのバスに。

旧多摩聖蹟記念館

明治天皇が当地に行幸されたことを記念して作られた施設。

旧多摩聖蹟記念館 多摩市指定有形文化財

 明治10年代、明治天皇が30才の頃、ここ連光寺の山や多摩川に兎猟 や鮎漁を行うため、4回ほど訪れました。
 時の天皇が行幸された地を「聖蹟」と呼び、全国的に多くの記念碑がみられます。
 この記念館は昭和5(1930)年に、明治天皇の偉業を讃えるため、元宮内大臣田中光顕が中心となり、当時の人々による土地の寄付や工事の協力などによって建設されました。
 「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は、この建物の名前をもとにつけられたものです。
 この建物を設計した関根要太郎は、20世紀初頭にヨーロッパでおこった建築革新を目指す運動に関心をもった建築家といわれています。大正末期から昭和初期にかけての日本の近代建築は、鉄筋コンクリート構造の急速な普及に加え、外観のデザインとして欧米の古典主義的なものから、モダンデザインのものまで、さまざまな様式の影響を受けた建物がみられます。
 この記念館は、オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます。数少ない多摩地域の近代洋風建築の中でも完成度が高く、最も優れたものであります。
 このように貴重な建築作品であることから、文化財保護の目的に沿って保存・公開すると同時に、建物の有効活用をはかるため、ギャラリーとしてもご利用いただくことができます。
 昭和61年6月24日指定
 多摩市教育委員会

多摩聖蹟記念館
昭和5年9月
伯爵田中光顕敬著

多摩市指定文化財
東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」選定

関根要太郎と蔵田周忠が設計。
近代式鉄筋コンクリート造り、両袖の付いた円形の大殿堂。
起工1929年10月12日、竣工1930年6月26日

曲線の多用した大胆なデザインが美しい建造物。

渡辺長男作、明治天皇騎馬等身像(昭和5年)は圧巻。
明治天皇が当地に初めて訪れた30歳の姿を再現。

内部は撮影禁止のため、パンフレットと図録より。

五賢堂

五賢堂
 1968年(昭和48年)、明治維新100周年を祝して全国的に記念行事が行われました。当時、多摩聖跡記念館を管理・運営していた財)多摩聖跡記念会でも、維新の志士を顕彰する目的で「五賢堂」を建設することにしました。
 「五賢」とは、明治維新に功績のあった五人の志士(三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、西郷隆盛)を言います。五賢堂は神奈川県大磯の元総理大臣吉田茂邸にもありますが、西郷隆盛の代わりに伊藤博文が数えられています。西郷隆盛は西南戦争で朝敵とされましたが、吉田茂のすすめもあって五賢に数えられたとされます。
 1968年(昭和43年)11月3日に建設式典が行われ、小金丸幾久が制作した五賢のブロンズ製胸像が安置されました。なお、明治天皇の立像も小金丸幾久が同時期に作成したものですが、初代は記念館内に置かれており、1986年(昭和61年)の改修工事の際に五賢堂内に移されました。

明治大帝( 五賢堂 )

明治大帝

第一二二代天皇御名睦仁
御在位一八六七、一九一二年
嘉永五年九月二十二日孝明天皇の第二皇子として京都で御誕生され御年少の折のよび名を祐と称された
慶応二年十二月孝明天皇崩御のあとをうけ慶応三年一月九日御践祚
翌慶応四年一月に元服三月に五ヶ条の御誓文を神前に誓い九月八日明治と開眼して一世一元の制を定めた
十二月一条天皇の三女美子昭憲皇太后皇后に迎えられた
明治天皇は統帥権をもちみずから積極的に政治に携わられた
御性格は英邁御在位期間における国威の著しい伸長とあいまって英明の君主とうたわれ大帝とたたえられ国民の尊敬を一身に集められた
一九一二年全国民の病気回復の願望空しく病没京都伏見桃山御陵に葬られた
御歳六十一才であった

明治維新五賢堂建立の趣旨
五賢堂は明治維新にあたり明治大帝を補佐し新日本の建設に偉勲を樹てた三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛の功労を後古に伝えるため明治百年に際し明治百年記念事業の一環として明治維新五賢堂建立委員会を設け全国各方面にわたる有志のご協力によりその建立の実現をみたものであります
 昭和43年11月3日
 (以下略

五賢人(五賢堂)

三条実美之像

岩倉具視之像

木戸孝允之像

大久保利通之像

西郷隆盛之像

五賢堂のとなりに石碑がある。

田中光顕公歌碑

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
  奉祝 青山田中先生耆徳
 
 皇紀二千六百年三月二十八日
 田中光顕公追慕會

明治天皇御製
昭憲皇太后御歌 歌碑

明治天皇が明治17年(1884)に当地へ行幸された際の御製と、昭憲皇太后が詠まれた御歌2首。

明治天皇御製
 春の半頃山ふかく狩し
 ける折に鶯の鳴くを
 きゝて
春ふかき山の林にきこゆ
なりけふをまちけむ鶯の


昭憲皇太后御歌
 御狩場よりかへらせたまひ
 ける日狩場雪といふことを
兎とる網にも雪のかかる日に
ぬれしみけしを思ひこそやれ
 おなしおり深山鶯といま
 ことを
春もまたさむきみやまの
鴬はみゆきまちてや鳴き
はしめけむ

正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書

明治百年
記念の樹

明治天皇御野立所跡の碑

皇紀二千六百年仲秋建立(1940年/昭和15年)

明治天皇御野立所
海軍大将末次信正謹書

御野立所からの遠望

桜ヶ丘公園

参考リンク

http://www.city.tama.lg.jp/0000003475.html

http://www.city.tama.lg.jp/0000001541.html

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html

日本再建ノ三大恩人銅像(八王子・雲龍寺)

令和元年8月参拝


日本救民の恩人
 諾楽守 摩訶薩 元帥 (アメリカ合衆国・ダグラスマッカーサー元帥) 
日本再興の恩人
 蔣中正 大総統 (中華民国・蒋介石) 
日本独立の恩人
 謝得和畄天寧 大統領 (スリランカ・ジャヤワルデネ大統領) 

曹洞宗 天海山 雲龍寺

( 東京都八王子市山田町 )

京王線山田駅から南に10分ほど歩いたところに鎮座している寺院の駐車場の片隅に三体の銅像があった。
この寺院では、マッカーサー、蒋介石、ジャヤワルデネの3氏を「日本再建の三大恩人」として顕彰されている。


諾楽守 摩訶薩 元帥閣下
(ダグラスマッカーサー元帥)

BENEFACTOR IN RELIEF OF JAPANESE PEOPLE
COMMANDER-IN-CHIEF OF OCCUPATION FORCESE IN JAPAN
GENERAL DUGLAS MacAUTHOR

日本救民の恩人
日本占領軍総司令官
 諾楽守 摩訶薩 元帥閣下(ダグラスマッカーサー元帥)


蔣中正 大元帥閣下
(蒋介石) 

BENEFACTOR IN JAPANESE RECONSTRUCTION
PRESIDENT OF REPUBLIC OF CHINA
GENERAL CHIANG CHUNG CHENG

日本再興の恩人
中華民国大統領 蒋中正 介石 大元帥閣下
(蒋介石)


謝和畄得天寧 大統領
(スリランカ・ジャワエルデネ大統領) 

BENEFACTOR IN JAPANESE INDEPENDENCE
PRESIDENT OF SRILANKA
Dr J.R.JAYEWARDENE

日本独立の恩人
翠巒華国大統領  謝得和畄天寧 博士閣下
 スリランカ国大統領 ジャエワルデネ博士閣下
  (ジャヤワルダナ・ジャワエルデネ )


日本再建ノ三大恩人 銅像建立報恩之記

日本亡国
 1931(昭和6)年9月18日。日本は中国に難癖つけ兵火を開き、侵略拡大11年。彼我疲弊の極、無謀にも41年極月8日、釋尊成道の日、米国真珠湾に無通告の暴挙。鬼畜米英蘭支に正義膺懲の開戦とラジオが天皇詔勅を怒鳴る。更に東洋諸国に無差別侵攻。爾来4年。相手国立ち直り、不意打緒戦の勝利夢と消、陸海空三軍は詐称転進、敗退を続け、遂に全土灰燼に帰す。
 ’45(昭和廿年)盂蘭盆会8月15日、敵五十五ヶ国連合軍に無条件降伏せりと天皇ラジオ放送。二千六百年神州不滅と誇った大日本帝国遂に滅亡。天皇、政府、人民、国土。戦勝国軍下に入り明日の運命分からぬ民草のみ残る。

蔣中正大総統(蒋介石)
 中華民国。14年間全土侵攻され、二千万殺戮さる。東北は奪われ満州国とされ広大国土荒廃に帰す。
 然るに日本降伏となるや、蔣大総統は、「以徳報恩」(とくをもってうらみにむくいん)の大号令を発し、「悉く無事故国へ帰し、賠償等求めてはならぬ。」と厳命。何應鉄将軍は船車総動員。日本軍民二百十万の青壮を僅か十ヶ月にて家郷へ送還させた。
 東北侵攻のソ連共産軍に老幼婦女は凌辱虐殺され、捕虜は酷寒シベリヤ苦役幾年の果て、斃る十幾万。今も残留孤児の哀話絶えぬ例を比較せば、蔣大総統、何将軍、中華人民の大慈悲忘れ得ようか。
 日本の復興これより始まる。

摩訶薩元帥(マッカーサー元帥)
 ’45(昭和20)年8月30日、連合国代表占領軍総司令官 諾楽摩訶薩元帥、厚木に飛来。午後2時05分、コーンパイプを手に丸腰でタラップ下りる姿見て、生き残り日本人はホッと安堵の胸撫で下ろす。
 爾来7年。天皇、政府、官民悉く元帥の命の下に生きる。昨日の敵が今日飢餓に瀕しているを見て、同じく窮乏の本国より物資食料取り寄せて、元帥は一億餓死を救ってくれた。農家は米を隠したが、民家は摩訶薩給与で生き延びて「摩訶薩は神様だ。」と合掌した。まさに菩薩摩訶薩(ボーサーマッカーサー)である。
 足利正明創立の孤児院(村長の反対で閉鎖)、養老院、保育園、老幼すべて米国食料で命を繋いだ。元帥帰国を知り日本民衆は皆泣いた。

謝和得天寧大統領(ジャヤワルデネ大統領)
 ’51(昭和26)年9月4日。米国桑港(サンフランシスコ)にて戦勝五十一ヶ国が日本処分の講和会議である。戦中、日本にゴム等物資を奪取され苦しんだ錫蘭 (セイロン)翠藍華(スリランカ)国代表 謝和得天寧 ジャワエルデネ (現大統領)博士は堂々佛陀の教えを説き、「報怨以恨 恨永劫不尽。忘恨報慈悲」「狂気の戦いは終った。彼我倶に疲弊の今、日本に即時独立を許し、賠償等求めまい。日本は昔の通り亜細亜の兄、亜細亜の老となってくれ。」吉田茂日本代表は感泣し、米国は深考。ソ連圏は脱退し、四十八ヶ国の調印で、日本は分割統治から免れた。

報恩微衷
 主恩忘れぬハチ公は庶民の感動で首都駅頭に銅像となり、人間の師範となる。貴い人の身を享け恩を忘れて恩を忘れては犬畜生に劣る。恩を仇で返えす鬼畜ふえゆく日本はどうなる。
 大被害蒙った敵国の大慈悲で新日本は生れ、今日の繁栄を得た。然るに、物で栄え心で亡びゆく今の祖国を悲しみ、四十余年前の大恩忘れてならぬと子孫に伝うべく、その像をつくり、報恩の微衷を捧げ後世への警鐘とする。

 1987(昭和62)年10月21日
  中華民国何應欽将軍九十七才永眠ノ日
  天海山 37世 入笠沙門 曹洞宗大教師 足利正明 並 親友一同

この碑文を作成された、ご住職は独特の歴史感ですが、ここではその是非には触れません。解釈の線引は必要ですが、戦後の日本の発展を考える上で、この3人を欠かすことができないということには同意です。

雲龍寺第37世 足利正明 氏は、戦役から帰郷し当寺を運営し、平成19年3月に92歳で遷化されている。

https://unryuuji.com/

ちなみに、この八王子の雲龍寺、長野県戸倉上山田温泉「日本歴史館」の建屋と敷地を買い取ったらしく、その地にある「雲龍寺公園」では、同じようにこの像が陳列されているというが放置状態にあるという。未訪問。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。

巣鴨プリズン跡地と護國寺界隈の戦跡散策

平成29年10月・12月23日ほか撮影


巣鴨プリズン跡

池袋サンシャイン60。
かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

そこには、ひっそりと往時を偲ぶよすががある。

「永久平和を願って」
鎮魂の碑 この節目の日(12月23日)には、多くの人々が訪れていた。

永久平和を願って

永久平和を願って

碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

豊島区立 東池袋中央公園

公園案内図には該当の碑の案内はなく、碑文も奥歯に物が挟まった感が強く、なかなかに複雑な気分にさせられる。

そびえたつ池袋サンシャイン60。 まるで墓標のようでもあり……


巣鴨プリズンの排水口跡

移設保存されました

サンシャイン60と造幣局東京支局跡の台地の下。
石垣が連なっており、よく見ると穴が。

これが巣鴨プリズンの排水口跡。
この排水口から、ここにかつて流れていた水窪川に排水がされていたという。
巣鴨プリズンの名残。

これが巣鴨プリズン(巣鴨監獄)を物語る唯一の残存した史跡。

あの当時の歴史を思い起こすには、史跡のインパクトは弱く小さいけど、逆に考えると「よくぞ残ってくれた!」という感慨も強い。
ここにはなにも案内看板も無いけども、貴重な歴史証言物。

https://goo.gl/maps/mNpYJCvRYaeDN2eD7

巣鴨プリズンの排水口跡があるのであれば、排水口が設けられたこの石垣も往時の名残なのか。
石垣の向こう側の台地が巣鴨プリズン跡。 サンシャイン60を遠望することが出来る場所は、今は静かな住宅街。
歴史的には極めて感慨深い空間であった。

移設保存されました。
以下で、新規に記載。


東条英機墓(雑司ヶ谷霊園)

東條家墓 (東条英機・東條英樹)

サンシャインの真南側に雑司ヶ谷霊園がある。
その霊園には東条英機が眠る。

昭和23年(1948)12月23日午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内
東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

巣鴨プリズン跡に墓標のようにそそりたつサンシャイン60ビルを見つめつつ参拝を…

「東條家墓」(東條英機墓)

明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

※東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

奇しくも東條家墓の後方には、
サンシャイン60が、
かつての巣鴨プリズンが、
まるで東條英機を偲びし墓標のように大きくそびえ立っていた。

用賀にあった東条英機邸

東条英機邸跡

身代地蔵尊(護國寺)

巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

「世紀の遺書」の収益金の一部で建立されたのが東京駅前の「愛の像(アガペの像)」

雑司ヶ谷霊園の東隣には豊島岡墓地と護国寺。
そこに陸軍墓地もある。脚を運んでみましょう。


陸軍省境界石

「陸軍省」と記された陸軍境界石(陸軍標石)
ちょっと傾いてますね。

陸軍省が管理していた「陸軍音羽埋葬地」との境目。
この境界線の前の道路は不忍通り、後の敷地が護国寺と日大豊山高校。

https://goo.gl/maps/pRt73yrCJg1gM9KA9


音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)

塀に囲まれた一角に「音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)」と呼称される空間がありました。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔

明治陸軍黎明期の早い段階で設けられた陸軍墓地。 2400余柱を祀る。
戦後は護国寺に管理が委ねられ、墓地は整理され現在はこの英霊之塔を中心に40基ほどの区画となっている。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来
この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています 。
本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。
毎年十一月にはその遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。 平成七年十一月十一日  社団法人日本郷友連盟東京都支部

英霊之塔の両脇には合葬碑が。

「陸軍軍人合葬之碑」
向かって右 明治三十七八年戦役戦歿将校以下遺骨
明治39年8月建 (日露戦争)

向かって左
満州事変戦歿将校以下
昭和7年12月建 陸軍中将林仙之書

護国寺多宝塔

護國寺多宝塔の由来
この多宝塔はもと当山の薬師堂の西側に、明治二十五年十二月二十一日に建立されたものである。
明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した、忠勇義烈の軍人の遺骨を収集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多宝塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。
その後、この塔は長い年月風雨に曝され、近年は破損甚だしく今般大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立したものである。
平成八年十一月十一日 
大本山護國寺

https://goo.gl/maps/BYz1koQaFKb4Mfxm8

護國寺墓地

ここには「陸軍埋葬地」以外にも著名人のお墓が多い。
が、この日はあまり持ち時間が無かったので個々のお参りはせずに。

明治の有名人では 三条実美・大隈重信・田中光顕・山田顕義・山県有朋など
軍人では 武藤信義・土肥原賢二・野村吉三郎など

日を改めて…


位置関係

国土地理院サイトより
1947年08月08日-米軍撮影航空写真(USA-M390-34)より。

今昔マップ on the web より

Google Map より


巣鴨監獄道碑

巣鴨小学校近くの東福寺の門前に石碑がある。

右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道

明治三捨七年七月建立

巣鴨監獄、のちの巣鴨拘置所、そして巣鴨プリズン。
往時の名前を残す石碑。


関連

東条英機邸跡

東京都世田谷区用賀 平成29年(2017)12月撮影

現在は立正佼成会の敷地となっている。
その片隅に「東条英機邸跡」碑が建立されている。

昭和20年9月11日。
東条英機は、この用賀の私邸で自殺を図りGHQを慌てさせた…

位置関係

国土地理院-航空写真を眺めてみると、東条の自宅は用賀の中心地からはしょうしょう離れているのがわかる。

首相引退後は用賀の自宅で畑仕事をして暮らしていたというのも納得の郊外感。

USA-M818-30
1948年03月03日-米軍撮影
用賀周辺を拡大
今昔マップ on the web 様より用賀界隈
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
googleマップ

https://goo.gl/maps/cWvxGPFavqjrbwfm9


関連

殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

東海道品川宿・品川寺(ほんせんじ)にある「仁慈の鐘」
戦争裁判・殉国七士慰霊の鐘
最寄り駅は京急「青物横丁駅」

品川寺

東海道の品川寺(ほんせんじ)
真言宗醍醐派の別格本山。

海外に渡った大梵鐘のエピソードが有名な当寺ですが、 この寺院「品川寺」には極東軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯として裁かれた殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」というものもあるのです…

仁慈の鐘 (いつくしの鐘)

本堂向かって右側に小さな梵鐘。
戦争裁判殉国者慰霊の鐘「仁慈の鐘」(いつくしの鐘)

この鐘には、いわゆるA級戦犯として処刑された七士の遺墨が揮毫されている。

東條英機
土肥原賢二
松井石根

板垣征四郎
木村兵太郎

広田弘毅
武藤章


慰霊鎮魂の鐘

品川寺
「仁慈の鐘」

撞座の面には「傳法(伝法)」銘。

「傳法」
昭和庚辰秋仲文麿
 昭和庚辰は昭和15年。
 秋仲文麿とは近衛文麿のこと。

昭和15年の近衛文麿の書を写し戦後に鋳造したもの…極めて意味深である。

「仁慈の鐘」鋳造は昭和27年12月23日。
(処刑は昭和23年)

鎮魂の鐘を撞き、合掌を…

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」

品川寺
本堂の向かって左側

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」
昭和35年鋳造

本堂

本堂の両脇に「仁慈の鐘」「まことの鐘」がある。

英霊堂(聖観音)

軍馬・軍犬・軍鳩を慰霊している。
観音様に導かれし馬・犬・鳩。

よく見れば馬の背に鳩が乗っている。

大梵鐘(国指定重要美術品)

明暦3年(1657)鋳造、数奇な運命を辿った大梵鐘。
江戸末期に理由不明ながらも海外に流出。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会、明治4年ウィーン万国博覧会に展示。
その後ジュネーブ市アリアナ美術館所蔵。昭和5年に60年ぶりに海外から品川に返還。戦中の供出も辛うじて逃れる。

http://honsenji.net/bousyo.html

品川寺のイチョウ(品川区指定天然記念物)

幹周り5.35m、樹高25m、推定樹齢は約600年。
整然な姿に樹勢旺盛、多くの乳が垂れているのが特徴。

銅造地蔵菩薩坐像

江戸六地蔵のひとつ

数奇な運命を辿った大梵鐘の物語の影に隠れた、もうひとつの知られざる鐘「仁慈の鐘」(戦争裁判殉国者七士の鐘)を偲びし参拝でした。


関連

近藤家ゆかりの日露戦争記念碑(調布)

地元調布の忠魂碑と記念碑を掲載。

調布の布多天神社境内。近藤勇の孫にゆかりがあるのです。

日露戦争記念碑

日露戦争忠魂碑
日露戦争記念碑

近藤勇と新選組のゆかりの地
日露戦争記念碑(中央の碑)の裏には、日露戦争に従軍し、戦病死した近藤勇の孫(近藤勇の娘瓊(たま)と勇五郎の一人息子)近藤久太郎の名がみえる。
近藤久太郎の墓は、祖父近藤勇が眠る龍源寺に一族とともにある。
碑文を書いたのは、近藤勇が甲陽軍鑑を率いて甲府に向かう途中に立ち寄って歓待を受けた上石原宿名主中村勘六の長男で、多摩三筆の一人に数えられた中村克昌である。
平成二七年三月設置 調布市観光協会

近藤久太郎は明治16年(1883)に近藤勇五郎と近藤たまの長男として誕生。 「近藤たま」は新選組局長近藤勇の一人娘。近藤勇五郎は旧姓宮川、近藤勇の甥(勇の兄の子)で、のちに近藤勇の婿養子となっている。

近藤久太郎 は近藤勇直系のただ一人の孫であった。
日露戦争に出征し、明治38年に戦病死。23歳。

記念碑には「現役陸軍騎兵一等卒」と記載あり。

日清戦争忠魂碑(左)

西光寺(西調布)


近藤神社と産湯の井戸

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。
産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側には宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

近藤勇の出生地は調布。市内には近藤勇ゆかりの場所がほかにもあるけれども、それはおいおいで。

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

もう一つの真珠湾「九軍人」岩佐直治を偲ぶ

もう一つの真珠湾。
九軍神と讃えられた勇士の一人、岩佐直治を偲ぶ


昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾

大東亜戦争の口火が切られた日。
文字通りに水面下の戦いがあった。

特殊潜航艇(甲標的)

のちに九軍神と讃えられた勇士たちの戦い

先日、特殊潜航艇の主任搭乗員であった 岩佐直治 大尉(死後に二階級特進・海軍中佐)の墓前に手を合わせてくる機会がありました。


岩佐直治

群馬県前橋市天川原出身
大正4年(1915)5月6日 – 昭和16年(1941)12月8日(26歳没)

特殊潜航艇「甲標的」による真珠湾攻撃の考案者の一人であり、自ら搭乗して真珠湾攻撃での決死的攻撃により戦死なされた。九軍神の一人。

御墓は松竹院(前橋市本町3-17-12)にある。


大戦の
 思い出つまる
  松竹院

岩佐直治之墓

故海軍中佐
正六位
勲四等
功三級

岩佐直治之墓

眞珠院殿護國純忠大居士

艦隊司令長官 海軍中将 清水光美 書


清水光美は第六艦隊司令長官。

開戦時は清水中将指揮下に潜水艦隊(特殊潜航艇)があった。

のちに清水中将は「陸奥」爆沈事故の責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免、予備役編入されている…


甲標的の初陣

甲標的の最先任搭乗員である岩佐直治が開戦劈頭に敵の港湾にひそかに侵入して攻撃する実行案を立案。

母艦「千代田」艦長の原田覚と協力し具体案を軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀 有泉龍之助 中佐に相談して同意を得え、更に数度と改善案を練り直すことによりついに採用となった。

昭和16年11月
甲標的部隊は「特別攻撃隊」と第六艦隊司令長官 清水光美中将によって命名される。
清水中将は訓練母艦「千代田」原田覚艦長と、10名の特別攻撃隊隊員、母潜となる5名の潜水艦艦長、佐々木半九特別攻撃隊指揮官らを集め、真珠湾攻撃命令のコピーを異例ながら自ら隊員に手渡したという。

昭和16年(1941)11月18日午後8時から19日午前2時過ぎにかけて、大型巡洋艦丙型の5隻の伊号潜水艦は、それぞれに「特殊潜航艇」を搭載し、広島倉橋島から一路ハワイ真珠湾に向けて出航。

特殊潜航艇
特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
伊16搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
伊18搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
伊20搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
伊24搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)

昭和16年12月7日
伊号第22潜水艦に乗艦した岩佐大尉は真珠湾湾口に至り、いよいよ総員戦闘配置に就いたところで伝声室を通じて、よどみない最後の挨拶を述べて特殊潜航艇に移乗されたという。

岩佐直治の挨拶

本艦に来艦してから約一ヶ月、呉出港してから三週間、一同の○勢なる協力と絶大なる努力に依りまして、只今真珠湾港外二〇浬の地点に達することが出来ました。此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し私の最後の任務達成に向て出発致します。終りに臨み伊22潜の武運長久を祈ります サヨーナラ

ハワイ時間・1941年12月7日午前0時42分
(日本時間・昭和16年12月7日20時12分)

特殊潜航艇は順次で真珠湾に向かって出撃をした。
横山艇は午前0時42分
岩佐艇は午前1時16分
古野艇は午前2時15分
広尾艇は午前2時57分
酒巻艇は午前3時33分

ハワイ時間12月7日午前3時42分
真珠湾入口を掃海していた掃海艇コンドルが海面に1隻の潜望鏡を発見、哨戒中の駆逐艦ウォード(USS Ward)に連絡。
ウォードが捜索するも何も発見できず、誤報が続いていたことから格別な報告もあげなかった。
この時に辛くも逃げ切った特殊潜航艇は横山艇といわれている。

ハワイ時間12月7日午前6時33分
横山艇を見逃した米軍であったが、哨戒帰路のPBY偵察機が引き続き国籍不明の小型潜水艇を発見。
再び駆逐艦ウォードは現場に急行する。

ハワイ時間12月7日午前6時45分
駆逐艦ウォードは不審な潜水艇に対し発砲を開始し重ねて爆雷攻撃を行い撃沈させた。
この特殊潜航艇は広尾艇か古野艇とされている。

午前7時55分に開始された日本海軍機による真珠湾空襲より1時間早く、水面下の戦いは始まっており、そして日米の最初の犠牲は特殊潜航艇であった…

ハワイ時間12月7日午前8時35分
米海軍応急出動艦モナハン(USS Monaghan)は、水上機母艦カーティス(USS Curtiss)の「敵潜水艦発見」の報告を受けた。
すでに日本海軍機の真珠湾攻撃は始まっており、カーティスは急降下爆撃機による攻撃が直撃し炎上、消火活動中であった。

ハワイ時間12月7日午前8時37分
カーティスが発見した特殊潜航艇はカーティスへ向け魚雷1本を発射(カーティスから外れドックに命中)、報告を受けたモナハンは艦首右舷1100mの距離で潜望鏡と司令塔の一部を発見、フルスピードで特殊潜航艇に向け突進、体当たりを敢行する。

この特殊潜航艇は向かってきたモナハンに向けても魚雷を発射(外れてフォード島に命中)、モナハンは全速力で特殊潜航艇に乗り上げ突進し、艇を海底に叩きつけ爆雷攻撃を開始。

激闘の末に駆逐艦モナハン(USS Monaghan)によって轟沈させられた特殊潜航艇が、岩佐直治艇であったという…

昭和22年3月
ハワイの米海軍軍当局は特殊潜航艇の遺品として真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還。
特別攻撃隊の隊員のうち大尉は岩佐直治隊長のみ。
岩佐直治の遺族に送られ、昭和39年12月8日、開戦そして岩佐直治戦死から23年目に遺族から靖國神社に奉納され遊就館に展示されている。


軍神 岩佐中佐

軍神 岩佐中佐
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
仰ぐ赤城の山は映え
大利根めぐる厩城下
こゝに建武の血をうけて
郷土群馬に男子あり
姓は岩佐ぞ名は直治

2.
君のみために死する時
孝を遂げしと思召せ
かをる勲の絶筆を
手にせる父はほゝゑみて
あゝ軍神の母泣かず

3.
敵がたのみの真珠湾
防塞くぐる新兵器
断乎撃滅大和魂
血の訓練の甲斐ありて
「われ襲撃に成功す」

4.
見よや類なき大戦果
輝く特別攻撃隊
率ゐて散りし武士の華
軍神岩佐中佐こそ
その名燦たりとこしへに

昭和17年4月11日 文部省検定済
昭和58年3月彼岸 岩佐直衛建之


特別攻撃隊

特別攻撃隊
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
撃ちてしやまむ ますらをに
なんの機雷ぞ 防潜網
あゝこの八日 待ちわびて
鍛へぬきたる晴れの技
示すは今ぞ 真珠湾

2.
神なり すでに九つの
生死越えたる 荒御魂
いざ皇國の 興廃と
史上例なき 肉薄に
必殺ちかふ 海の底

3.
轟沈 撃破 ときの間に
屠る戦艦 巡洋艦
みよ友軍の 爆撃に
あがる火柱 水柱
天誅くだる 米主力

4.
襲撃まさに 成功と
月の出潮に 打つ無電
おゝその無電 打ち終へて
遂に還らず 艇五隻
還らず遂に 九勇士

5.
一億あふげ 盡忠の
天地つらぬく その誠
げに大東亜 聖戦の
基かためし 軍神
燦たり 特別攻撃隊

昭和17年4月11日 文部省検定済
平成12年12月8日 岩佐直衛 建之


岩佐中佐 遺書ノ碑

岩佐中佐 遺書ノ碑

昭和の鴻業、未だ半ばにして前途益々多端今一歩を誤らんか。
三千年の光輝ある歴史は一朝にして破砕され、延びゆく大和民族の壮図は中道に挫折す。
此の秋、此の世に生を承け、この難関突破の使命を負ふを得たる。
まして軍人として國民の第一線に立ち、大和歴史の擁護者として、現下の時局に対処し得たる、此直治、最大の栄誉なり。
ましてや選ばれて、単身敵港湾に突入、以て直撃一挙に敵意図を打破し、大和正義を認識せしめ、民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや。
今、勇躍壮図に就くに際し、思いを述ぶれば、皇國の安危比岐るる時、命を承け此の大任に就く。
武人の本懐これに過ぐる無し。
御稜威の下、必ずや、大任を果たし得るを確信するものなり。
然れども又此の業、容易のものに非ず、再会を期し難し。
願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜暑きにつけ寒きにつけ、御心の程をなやまし、子としての務まだ務めざりし、御許し被下度。 此行果し得ば、後果つるとも御讃め被下度、又行半ばにして果つるとも、直治の魂の赴く所を得さしめられ度。

(岩佐直治 辞世)
櫻花 散るべき時に 散りてこそ
 大和の花と 賞らるるらん
身はたとえ異境の海に はつるとも
 護らでやまじ 大和皇國を
              直治
父上様 母上様


有泉龍之助

岩佐直治の提案に共感をした有泉龍之助 (最終階級は海軍大佐) は、当時は軍令部第1部第2課部員の要職にあり潜水艦作戦の主務者であった。
岩佐とともに作戦を練り上げ、真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を使用することを上層部に主張し実現させた人物。

昭和20年1月、有泉海軍大佐は第1潜水隊司令に就任。
7月23日、ウルシー環礁襲撃の命を受け「伊号第四百一潜水艦」(伊401)に座乗し出撃するも作戦中に終戦。降伏のため本土帰還途上の8月29日、米海軍により伊401は海上接収される。
その時、有泉司令は司令室で自決。
机には真珠湾攻撃の九軍神の写真があったという…


九軍神

真珠湾攻撃において、甲標的に乗組み、未帰還となった岩佐直治ら以下の9名。

岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:9_Gunshin.jpg


岩佐直治は8人兄姉の末っ子であった。
尋常小学校時代を偲ぶ碑もある。
卒業生総代として成績優秀であった直治は旧制前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)を経て海軍兵学校(海兵65期)を卒業している。

岩佐家の家紋とは別に、潜望鏡と菊を連想させる紋もあった。

未曾有の国難に殉じた英霊に 哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

参考書籍 「九軍神は語らず―真珠湾特攻の虚実」(牛島 秀彦 著)

平成30年参拝

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

宇垣纏を偲ぶ

宇垣纏
 海軍中将・第五航空艦隊長官

宇垣家之墓

宇垣家之墓

従三位
勲一等旭日大綬章
昭和四十四年十二月二十四日

海軍中将
正四位
勲一等
功三級

宇垣纏命

昭和二十年八月十五日戦死 享年五十六
部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻

東京・多磨霊園「宇垣家の墓」

8月15日

「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。」

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将
宇垣日記として名高い「戦藻録」最後の記述。

一七〇〇
最後の訓示を終え、最後の特攻として、 宇垣長官は「彗星」に乗り込んだ。
その指揮官機を操縦する中津留達雄大尉は大分県津久見の出身だった。

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将らが飛び立った地が大分基地であった。


突然ですが嫁の実家は宇垣さんゆかりの大分なのです。
ちょっとだけ大分の話をしてみようと思います。

2015年の秋に嫁が帰郷した際に、大分空港ゆかりの場所を撮影しておりました。
この記事の大分の写真は全て嫁の撮影となります。

神風特別攻撃隊発進之地

碑文
昭和二十年八月十五日午後四時三十分
太平洋戦争最後の特別攻撃隊は
この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し

氏名    年齢 出身地
宇垣纏   五五 岡山
中津留達雄 二三 大分
遠藤秋章  二二 愛媛
伊東幸彦  二〇 宮城
大木正夫  二一 福島
山川代夫  二一 山形
北見武雄  二〇 新潟
池田武徳  二二 福岡
山田勇夫  二〇 千葉
渡辺操   二二 千葉
内海進   二一 岩手
後藤高男  二四 福岡
磯村堅   二二 山口
松永茂男  二〇 福岡
中島英雄  一九 愛知
藤崎孝良  一九 鹿児島
吉田利   二〇 滋賀
日高保   二〇 鹿児島

旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

昭和23年に米軍が撮影した旧大分海軍航空隊の様子を見ることが出来る。
(国土交通省国土地理院サイトより)

こちらは現在の様子
おおざっぱに
赤→飛行場
青→大分海軍航空隊
緑→第十二海軍航空廠
黄→第5航空艦隊司令部

大分空港跡地


現在の大分市青葉町にある「大洲総合運動公園」が、かつての「大分基地跡地」にして「大分空港跡地」の地。

大洲総合運動公園
この公園敷地は旧大分空港跡地、その前身は「旧大分海軍航空基地」

戦後運輸省が第二種空港として整備し、その後大分空港が国東半島海岸に移転(1971年)したのを機会に公園用地として大洲総合運動公園が整備。
写真はかつての滑走路界隈。

七〇一空会記念植樹 豊後梅

七〇一空は昭和20年2月に第五航空艦隊附属に転籍となり、最前線にて終戦まで沖縄・九州方面の哨戒、対機動部隊攻撃、特攻攻撃に従事・・・

ここでは、論評は致しません…

ただ静かに感謝と哀悼の意を…


今回の大分写真は嫁撮影となります。
まだ私はこの地に訪れていないため、次に赴く機会がある際に改めて往時を偲んで参ろうと思っております…