「人物史」カテゴリーアーカイブ

日本再建ノ三大恩人銅像(八王子・雲龍寺)

令和元年8月参拝


日本救民の恩人
 諾楽守 摩訶薩 元帥 (アメリカ合衆国・ダグラスマッカーサー元帥) 
日本再興の恩人
 蔣中正 大総統 (中華民国・蒋介石) 
日本独立の恩人
 謝得和畄天寧 大統領 (スリランカ・ジャヤワルデネ大統領) 

曹洞宗 天海山 雲龍寺

( 東京都八王子市山田町 )

京王線山田駅から南に10分ほど歩いたところに鎮座している寺院の駐車場の片隅に三体の銅像があった。
この寺院では、マッカーサー、蒋介石、ジャヤワルデネの3氏を「日本再建の三大恩人」として顕彰されている。


諾楽守 摩訶薩 元帥閣下
(ダグラスマッカーサー元帥)

BENEFACTOR IN RELIEF OF JAPANESE PEOPLE
COMMANDER-IN-CHIEF OF OCCUPATION FORCESE IN JAPAN
GENERAL DUGLAS MacAUTHOR

日本救民の恩人
日本占領軍総司令官
 諾楽守 摩訶薩 元帥閣下(ダグラスマッカーサー元帥)


蔣中正 大元帥閣下
(蒋介石) 

BENEFACTOR IN JAPANESE RECONSTRUCTION
PRESIDENT OF REPUBLIC OF CHINA
GENERAL CHIANG CHUNG CHENG

日本再興の恩人
中華民国大統領 蒋中正 介石 大元帥閣下
(蒋介石)


謝和畄得天寧 大統領
(スリランカ・ジャワエルデネ大統領) 

BENEFACTOR IN JAPANESE INDEPENDENCE
PRESIDENT OF SRILANKA
Dr J.R.JAYEWARDENE

日本独立の恩人
翠巒華国大統領  謝得和畄天寧 博士閣下
 スリランカ国大統領 ジャエワルデネ博士閣下
  (ジャヤワルダナ・ジャワエルデネ )


日本再建ノ三大恩人 銅像建立報恩之記

日本亡国
 1931(昭和6)年9月18日。日本は中国に難癖つけ兵火を開き、侵略拡大11年。彼我疲弊の極、無謀にも41年極月8日、釋尊成道の日、米国真珠湾に無通告の暴挙。鬼畜米英蘭支に正義膺懲の開戦とラジオが天皇詔勅を怒鳴る。更に東洋諸国に無差別侵攻。爾来4年。相手国立ち直り、不意打緒戦の勝利夢と消、陸海空三軍は詐称転進、敗退を続け、遂に全土灰燼に帰す。
 ’45(昭和廿年)盂蘭盆会8月15日、敵五十五ヶ国連合軍に無条件降伏せりと天皇ラジオ放送。二千六百年神州不滅と誇った大日本帝国遂に滅亡。天皇、政府、人民、国土。戦勝国軍下に入り明日の運命分からぬ民草のみ残る。

蔣中正大総統(蒋介石)
 中華民国。14年間全土侵攻され、二千万殺戮さる。東北は奪われ満州国とされ広大国土荒廃に帰す。
 然るに日本降伏となるや、蔣大総統は、「以徳報恩」(とくをもってうらみにむくいん)の大号令を発し、「悉く無事故国へ帰し、賠償等求めてはならぬ。」と厳命。何應鉄将軍は船車総動員。日本軍民二百十万の青壮を僅か十ヶ月にて家郷へ送還させた。
 東北侵攻のソ連共産軍に老幼婦女は凌辱虐殺され、捕虜は酷寒シベリヤ苦役幾年の果て、斃る十幾万。今も残留孤児の哀話絶えぬ例を比較せば、蔣大総統、何将軍、中華人民の大慈悲忘れ得ようか。
 日本の復興これより始まる。

摩訶薩元帥(マッカーサー元帥)
 ’45(昭和20)年8月30日、連合国代表占領軍総司令官 諾楽摩訶薩元帥、厚木に飛来。午後2時05分、コーンパイプを手に丸腰でタラップ下りる姿見て、生き残り日本人はホッと安堵の胸撫で下ろす。
 爾来7年。天皇、政府、官民悉く元帥の命の下に生きる。昨日の敵が今日飢餓に瀕しているを見て、同じく窮乏の本国より物資食料取り寄せて、元帥は一億餓死を救ってくれた。農家は米を隠したが、民家は摩訶薩給与で生き延びて「摩訶薩は神様だ。」と合掌した。まさに菩薩摩訶薩(ボーサーマッカーサー)である。
 足利正明創立の孤児院(村長の反対で閉鎖)、養老院、保育園、老幼すべて米国食料で命を繋いだ。元帥帰国を知り日本民衆は皆泣いた。

謝和得天寧大統領(ジャヤワルデネ大統領)
 ’51(昭和26)年9月4日。米国桑港(サンフランシスコ)にて戦勝五十一ヶ国が日本処分の講和会議である。戦中、日本にゴム等物資を奪取され苦しんだ錫蘭 (セイロン)翠藍華(スリランカ)国代表 謝和得天寧 ジャワエルデネ (現大統領)博士は堂々佛陀の教えを説き、「報怨以恨 恨永劫不尽。忘恨報慈悲」「狂気の戦いは終った。彼我倶に疲弊の今、日本に即時独立を許し、賠償等求めまい。日本は昔の通り亜細亜の兄、亜細亜の老となってくれ。」吉田茂日本代表は感泣し、米国は深考。ソ連圏は脱退し、四十八ヶ国の調印で、日本は分割統治から免れた。

報恩微衷
 主恩忘れぬハチ公は庶民の感動で首都駅頭に銅像となり、人間の師範となる。貴い人の身を享け恩を忘れて恩を忘れては犬畜生に劣る。恩を仇で返えす鬼畜ふえゆく日本はどうなる。
 大被害蒙った敵国の大慈悲で新日本は生れ、今日の繁栄を得た。然るに、物で栄え心で亡びゆく今の祖国を悲しみ、四十余年前の大恩忘れてならぬと子孫に伝うべく、その像をつくり、報恩の微衷を捧げ後世への警鐘とする。

 1987(昭和62)年10月21日
  中華民国何應欽将軍九十七才永眠ノ日
  天海山 37世 入笠沙門 曹洞宗大教師 足利正明 並 親友一同

この碑文を作成された、ご住職は独特の歴史感ですが、ここではその是非には触れません。解釈の線引は必要ですが、戦後の日本の発展を考える上で、この3人を欠かすことができないということには同意です。

雲龍寺第37世 足利正明 氏は、戦役から帰郷し当寺を運営し、平成19年3月に92歳で遷化されている。

https://unryuuji.com/

ちなみに、この八王子の雲龍寺、長野県戸倉上山田温泉「日本歴史館」の建屋と敷地を買い取ったらしく、その地にある「雲龍寺公園」では、同じようにこの像が陳列されているというが放置状態にあるという。未訪問。

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。

巣鴨プリズン跡地と護國寺界隈の戦跡散策

平成29年10月・12月23日ほか撮影


巣鴨プリズン跡

池袋サンシャイン60。
かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

そこには、ひっそりと往時を偲ぶよすががある。

「永久平和を願って」
鎮魂の碑 この節目の日(12月23日)には、多くの人々が訪れていた。

永久平和を願って

永久平和を願って

碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

豊島区立 東池袋中央公園

公園案内図には該当の碑の案内はなく、碑文も奥歯に物が挟まった感が強く、なかなかに複雑な気分にさせられる。

そびえたつ池袋サンシャイン60。 まるで墓標のようでもあり……


巣鴨プリズンの排水口跡

移設保存されました

サンシャイン60と造幣局東京支局跡の台地の下。
石垣が連なっており、よく見ると穴が。

これが巣鴨プリズンの排水口跡。
この排水口から、ここにかつて流れていた水窪川に排水がされていたという。
巣鴨プリズンの名残。

これが巣鴨プリズン(巣鴨監獄)を物語る唯一の残存した史跡。

あの当時の歴史を思い起こすには、史跡のインパクトは弱く小さいけど、逆に考えると「よくぞ残ってくれた!」という感慨も強い。
ここにはなにも案内看板も無いけども、貴重な歴史証言物。

https://goo.gl/maps/mNpYJCvRYaeDN2eD7

巣鴨プリズンの排水口跡があるのであれば、排水口が設けられたこの石垣も往時の名残なのか。
石垣の向こう側の台地が巣鴨プリズン跡。 サンシャイン60を遠望することが出来る場所は、今は静かな住宅街。
歴史的には極めて感慨深い空間であった。

移設保存されました。
以下で、新規に記載。


東条英機墓(雑司ヶ谷霊園)

東條家墓 (東条英機・東條英樹)

サンシャインの真南側に雑司ヶ谷霊園がある。
その霊園には東条英機が眠る。

昭和23年(1948)12月23日午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内
東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

巣鴨プリズン跡に墓標のようにそそりたつサンシャイン60ビルを見つめつつ参拝を…

「東條家墓」(東條英機墓)

明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

※東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

奇しくも東條家墓の後方には、
サンシャイン60が、
かつての巣鴨プリズンが、
まるで東條英機を偲びし墓標のように大きくそびえ立っていた。

用賀にあった東条英機邸

東条英機邸跡

身代地蔵尊(護國寺)

巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

「世紀の遺書」の収益金の一部で建立されたのが東京駅前の「愛の像(アガペの像)」

雑司ヶ谷霊園の東隣には豊島岡墓地と護国寺。
そこに陸軍墓地もある。脚を運んでみましょう。


陸軍省境界石

「陸軍省」と記された陸軍境界石(陸軍標石)
ちょっと傾いてますね。

陸軍省が管理していた「陸軍音羽埋葬地」との境目。
この境界線の前の道路は不忍通り、後の敷地が護国寺と日大豊山高校。

https://goo.gl/maps/pRt73yrCJg1gM9KA9


音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)

塀に囲まれた一角に「音羽陸軍埋葬地(音羽陸軍墓地)」と呼称される空間がありました。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔

明治陸軍黎明期の早い段階で設けられた陸軍墓地。 2400余柱を祀る。
戦後は護国寺に管理が委ねられ、墓地は整理され現在はこの英霊之塔を中心に40基ほどの区画となっている。

音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来
この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています 。
本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。
毎年十一月にはその遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。 平成七年十一月十一日  社団法人日本郷友連盟東京都支部

英霊之塔の両脇には合葬碑が。

「陸軍軍人合葬之碑」
向かって右 明治三十七八年戦役戦歿将校以下遺骨
明治39年8月建 (日露戦争)

向かって左
満州事変戦歿将校以下
昭和7年12月建 陸軍中将林仙之書

護国寺多宝塔

護國寺多宝塔の由来
この多宝塔はもと当山の薬師堂の西側に、明治二十五年十二月二十一日に建立されたものである。
明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した、忠勇義烈の軍人の遺骨を収集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多宝塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。
その後、この塔は長い年月風雨に曝され、近年は破損甚だしく今般大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立したものである。
平成八年十一月十一日 
大本山護國寺

https://goo.gl/maps/BYz1koQaFKb4Mfxm8

護國寺墓地

ここには「陸軍埋葬地」以外にも著名人のお墓が多い。
が、この日はあまり持ち時間が無かったので個々のお参りはせずに。

明治の有名人では 三条実美・大隈重信・田中光顕・山田顕義・山県有朋など
軍人では 武藤信義・土肥原賢二・野村吉三郎など

日を改めて…


位置関係

国土地理院サイトより
1947年08月08日-米軍撮影航空写真(USA-M390-34)より。

今昔マップ on the web より

Google Map より


巣鴨監獄道碑

巣鴨小学校近くの東福寺の門前に石碑がある。

右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道

明治三捨七年七月建立

巣鴨監獄、のちの巣鴨拘置所、そして巣鴨プリズン。
往時の名前を残す石碑。


関連

東条英機邸跡

東京都世田谷区用賀 平成29年(2017)12月撮影

現在は立正佼成会の敷地となっている。
その片隅に「東条英機邸跡」碑が建立されている。

昭和20年9月11日。
東条英機は、この用賀の私邸で自殺を図りGHQを慌てさせた…

位置関係

国土地理院-航空写真を眺めてみると、東条の自宅は用賀の中心地からはしょうしょう離れているのがわかる。

首相引退後は用賀の自宅で畑仕事をして暮らしていたというのも納得の郊外感。

USA-M818-30
1948年03月03日-米軍撮影
用賀周辺を拡大
今昔マップ on the web 様より用賀界隈
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
googleマップ

https://goo.gl/maps/cWvxGPFavqjrbwfm9


関連

殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

東海道品川宿・品川寺(ほんせんじ)にある「仁慈の鐘」
戦争裁判・殉国七士慰霊の鐘
最寄り駅は京急「青物横丁駅」

品川寺

東海道の品川寺(ほんせんじ)
真言宗醍醐派の別格本山。

海外に渡った大梵鐘のエピソードが有名な当寺ですが、 この寺院「品川寺」には極東軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯として裁かれた殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」というものもあるのです…

仁慈の鐘 (いつくしの鐘)

本堂向かって右側に小さな梵鐘。
戦争裁判殉国者慰霊の鐘「仁慈の鐘」(いつくしの鐘)

この鐘には、いわゆるA級戦犯として処刑された七士の遺墨が揮毫されている。

東條英機
土肥原賢二
松井石根

板垣征四郎
木村兵太郎

広田弘毅
武藤章


慰霊鎮魂の鐘

品川寺
「仁慈の鐘」

撞座の面には「傳法(伝法)」銘。

「傳法」
昭和庚辰秋仲文麿
 昭和庚辰は昭和15年。
 秋仲文麿とは近衛文麿のこと。

昭和15年の近衛文麿の書を写し戦後に鋳造したもの…極めて意味深である。

「仁慈の鐘」鋳造は昭和27年12月23日。
(処刑は昭和23年)

鎮魂の鐘を撞き、合掌を…

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」

品川寺
本堂の向かって左側

学徒出陣慰霊の鐘「まことの鐘」
昭和35年鋳造

本堂

本堂の両脇に「仁慈の鐘」「まことの鐘」がある。

英霊堂(聖観音)

軍馬・軍犬・軍鳩を慰霊している。
観音様に導かれし馬・犬・鳩。

よく見れば馬の背に鳩が乗っている。

大梵鐘(国指定重要美術品)

明暦3年(1657)鋳造、数奇な運命を辿った大梵鐘。
江戸末期に理由不明ながらも海外に流出。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会、明治4年ウィーン万国博覧会に展示。
その後ジュネーブ市アリアナ美術館所蔵。昭和5年に60年ぶりに海外から品川に返還。戦中の供出も辛うじて逃れる。

http://honsenji.net/bousyo.html

品川寺のイチョウ(品川区指定天然記念物)

幹周り5.35m、樹高25m、推定樹齢は約600年。
整然な姿に樹勢旺盛、多くの乳が垂れているのが特徴。

銅造地蔵菩薩坐像

江戸六地蔵のひとつ

数奇な運命を辿った大梵鐘の物語の影に隠れた、もうひとつの知られざる鐘「仁慈の鐘」(戦争裁判殉国者七士の鐘)を偲びし参拝でした。


関連

近藤家ゆかりの日露戦争記念碑(調布)

地元調布の忠魂碑と記念碑を掲載。

調布の布多天神社境内。近藤勇の孫にゆかりがあるのです。

日露戦争記念碑

日露戦争忠魂碑
日露戦争記念碑

近藤勇と新選組のゆかりの地
日露戦争記念碑(中央の碑)の裏には、日露戦争に従軍し、戦病死した近藤勇の孫(近藤勇の娘瓊(たま)と勇五郎の一人息子)近藤久太郎の名がみえる。
近藤久太郎の墓は、祖父近藤勇が眠る龍源寺に一族とともにある。
碑文を書いたのは、近藤勇が甲陽軍鑑を率いて甲府に向かう途中に立ち寄って歓待を受けた上石原宿名主中村勘六の長男で、多摩三筆の一人に数えられた中村克昌である。
平成二七年三月設置 調布市観光協会

近藤久太郎は明治16年(1883)に近藤勇五郎と近藤たまの長男として誕生。 「近藤たま」は新選組局長近藤勇の一人娘。近藤勇五郎は旧姓宮川、近藤勇の甥(勇の兄の子)で、のちに近藤勇の婿養子となっている。

近藤久太郎 は近藤勇直系のただ一人の孫であった。
日露戦争に出征し、明治38年に戦病死。23歳。

記念碑には「現役陸軍騎兵一等卒」と記載あり。

日清戦争忠魂碑(左)

西光寺(西調布)


近藤神社と産湯の井戸

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。
産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側には宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

近藤勇の出生地は調布。市内には近藤勇ゆかりの場所がほかにもあるけれども、それはおいおいで。

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

もう一つの真珠湾「九軍人」岩佐直治を偲ぶ

もう一つの真珠湾。
九軍神と讃えられた勇士の一人、岩佐直治を偲ぶ


昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾

大東亜戦争の口火が切られた日。
文字通りに水面下の戦いがあった。

特殊潜航艇(甲標的)

のちに九軍神と讃えられた勇士たちの戦い

先日、特殊潜航艇の主任搭乗員であった 岩佐直治 大尉(死後に二階級特進・海軍中佐)の墓前に手を合わせてくる機会がありました。


岩佐直治

群馬県前橋市天川原出身
大正4年(1915)5月6日 – 昭和16年(1941)12月8日(26歳没)

特殊潜航艇「甲標的」による真珠湾攻撃の考案者の一人であり、自ら搭乗して真珠湾攻撃での決死的攻撃により戦死なされた。九軍神の一人。

御墓は松竹院(前橋市本町3-17-12)にある。


大戦の
 思い出つまる
  松竹院

岩佐直治之墓

故海軍中佐
正六位
勲四等
功三級

岩佐直治之墓

眞珠院殿護國純忠大居士

艦隊司令長官 海軍中将 清水光美 書


清水光美は第六艦隊司令長官。

開戦時は清水中将指揮下に潜水艦隊(特殊潜航艇)があった。

のちに清水中将は「陸奥」爆沈事故の責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免、予備役編入されている…


甲標的の初陣

甲標的の最先任搭乗員である岩佐直治が開戦劈頭に敵の港湾にひそかに侵入して攻撃する実行案を立案。

母艦「千代田」艦長の原田覚と協力し具体案を軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀 有泉龍之助 中佐に相談して同意を得え、更に数度と改善案を練り直すことによりついに採用となった。

昭和16年11月
甲標的部隊は「特別攻撃隊」と第六艦隊司令長官 清水光美中将によって命名される。
清水中将は訓練母艦「千代田」原田覚艦長と、10名の特別攻撃隊隊員、母潜となる5名の潜水艦艦長、佐々木半九特別攻撃隊指揮官らを集め、真珠湾攻撃命令のコピーを異例ながら自ら隊員に手渡したという。

昭和16年(1941)11月18日午後8時から19日午前2時過ぎにかけて、大型巡洋艦丙型の5隻の伊号潜水艦は、それぞれに「特殊潜航艇」を搭載し、広島倉橋島から一路ハワイ真珠湾に向けて出航。

特殊潜航艇
特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
伊16搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
伊18搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
伊20搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
伊24搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)

昭和16年12月7日
伊号第22潜水艦に乗艦した岩佐大尉は真珠湾湾口に至り、いよいよ総員戦闘配置に就いたところで伝声室を通じて、よどみない最後の挨拶を述べて特殊潜航艇に移乗されたという。

岩佐直治の挨拶

本艦に来艦してから約一ヶ月、呉出港してから三週間、一同の○勢なる協力と絶大なる努力に依りまして、只今真珠湾港外二〇浬の地点に達することが出来ました。此の上は天佑と神助に依りまして目的の貫徹を期し私の最後の任務達成に向て出発致します。終りに臨み伊22潜の武運長久を祈ります サヨーナラ

ハワイ時間・1941年12月7日午前0時42分
(日本時間・昭和16年12月7日20時12分)

特殊潜航艇は順次で真珠湾に向かって出撃をした。
横山艇は午前0時42分
岩佐艇は午前1時16分
古野艇は午前2時15分
広尾艇は午前2時57分
酒巻艇は午前3時33分

ハワイ時間12月7日午前3時42分
真珠湾入口を掃海していた掃海艇コンドルが海面に1隻の潜望鏡を発見、哨戒中の駆逐艦ウォード(USS Ward)に連絡。
ウォードが捜索するも何も発見できず、誤報が続いていたことから格別な報告もあげなかった。
この時に辛くも逃げ切った特殊潜航艇は横山艇といわれている。

ハワイ時間12月7日午前6時33分
横山艇を見逃した米軍であったが、哨戒帰路のPBY偵察機が引き続き国籍不明の小型潜水艇を発見。
再び駆逐艦ウォードは現場に急行する。

ハワイ時間12月7日午前6時45分
駆逐艦ウォードは不審な潜水艇に対し発砲を開始し重ねて爆雷攻撃を行い撃沈させた。
この特殊潜航艇は広尾艇か古野艇とされている。

午前7時55分に開始された日本海軍機による真珠湾空襲より1時間早く、水面下の戦いは始まっており、そして日米の最初の犠牲は特殊潜航艇であった…

ハワイ時間12月7日午前8時35分
米海軍応急出動艦モナハン(USS Monaghan)は、水上機母艦カーティス(USS Curtiss)の「敵潜水艦発見」の報告を受けた。
すでに日本海軍機の真珠湾攻撃は始まっており、カーティスは急降下爆撃機による攻撃が直撃し炎上、消火活動中であった。

ハワイ時間12月7日午前8時37分
カーティスが発見した特殊潜航艇はカーティスへ向け魚雷1本を発射(カーティスから外れドックに命中)、報告を受けたモナハンは艦首右舷1100mの距離で潜望鏡と司令塔の一部を発見、フルスピードで特殊潜航艇に向け突進、体当たりを敢行する。

この特殊潜航艇は向かってきたモナハンに向けても魚雷を発射(外れてフォード島に命中)、モナハンは全速力で特殊潜航艇に乗り上げ突進し、艇を海底に叩きつけ爆雷攻撃を開始。

激闘の末に駆逐艦モナハン(USS Monaghan)によって轟沈させられた特殊潜航艇が、岩佐直治艇であったという…

昭和22年3月
ハワイの米海軍軍当局は特殊潜航艇の遺品として真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還。
特別攻撃隊の隊員のうち大尉は岩佐直治隊長のみ。
岩佐直治の遺族に送られ、昭和39年12月8日、開戦そして岩佐直治戦死から23年目に遺族から靖國神社に奉納され遊就館に展示されている。


軍神 岩佐中佐

軍神 岩佐中佐
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
仰ぐ赤城の山は映え
大利根めぐる厩城下
こゝに建武の血をうけて
郷土群馬に男子あり
姓は岩佐ぞ名は直治

2.
君のみために死する時
孝を遂げしと思召せ
かをる勲の絶筆を
手にせる父はほゝゑみて
あゝ軍神の母泣かず

3.
敵がたのみの真珠湾
防塞くぐる新兵器
断乎撃滅大和魂
血の訓練の甲斐ありて
「われ襲撃に成功す」

4.
見よや類なき大戦果
輝く特別攻撃隊
率ゐて散りし武士の華
軍神岩佐中佐こそ
その名燦たりとこしへに

昭和17年4月11日 文部省検定済
昭和58年3月彼岸 岩佐直衛建之


特別攻撃隊

特別攻撃隊
(読売新聞社選詞・東京音楽学校作曲)

1.
撃ちてしやまむ ますらをに
なんの機雷ぞ 防潜網
あゝこの八日 待ちわびて
鍛へぬきたる晴れの技
示すは今ぞ 真珠湾

2.
神なり すでに九つの
生死越えたる 荒御魂
いざ皇國の 興廃と
史上例なき 肉薄に
必殺ちかふ 海の底

3.
轟沈 撃破 ときの間に
屠る戦艦 巡洋艦
みよ友軍の 爆撃に
あがる火柱 水柱
天誅くだる 米主力

4.
襲撃まさに 成功と
月の出潮に 打つ無電
おゝその無電 打ち終へて
遂に還らず 艇五隻
還らず遂に 九勇士

5.
一億あふげ 盡忠の
天地つらぬく その誠
げに大東亜 聖戦の
基かためし 軍神
燦たり 特別攻撃隊

昭和17年4月11日 文部省検定済
平成12年12月8日 岩佐直衛 建之


岩佐中佐 遺書ノ碑

岩佐中佐 遺書ノ碑

昭和の鴻業、未だ半ばにして前途益々多端今一歩を誤らんか。
三千年の光輝ある歴史は一朝にして破砕され、延びゆく大和民族の壮図は中道に挫折す。
此の秋、此の世に生を承け、この難関突破の使命を負ふを得たる。
まして軍人として國民の第一線に立ち、大和歴史の擁護者として、現下の時局に対処し得たる、此直治、最大の栄誉なり。
ましてや選ばれて、単身敵港湾に突入、以て直撃一挙に敵意図を打破し、大和正義を認識せしめ、民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや。
今、勇躍壮図に就くに際し、思いを述ぶれば、皇國の安危比岐るる時、命を承け此の大任に就く。
武人の本懐これに過ぐる無し。
御稜威の下、必ずや、大任を果たし得るを確信するものなり。
然れども又此の業、容易のものに非ず、再会を期し難し。
願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜暑きにつけ寒きにつけ、御心の程をなやまし、子としての務まだ務めざりし、御許し被下度。 此行果し得ば、後果つるとも御讃め被下度、又行半ばにして果つるとも、直治の魂の赴く所を得さしめられ度。

(岩佐直治 辞世)
櫻花 散るべき時に 散りてこそ
 大和の花と 賞らるるらん
身はたとえ異境の海に はつるとも
 護らでやまじ 大和皇國を
              直治
父上様 母上様


有泉龍之助

岩佐直治の提案に共感をした有泉龍之助 (最終階級は海軍大佐) は、当時は軍令部第1部第2課部員の要職にあり潜水艦作戦の主務者であった。
岩佐とともに作戦を練り上げ、真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を使用することを上層部に主張し実現させた人物。

昭和20年1月、有泉海軍大佐は第1潜水隊司令に就任。
7月23日、ウルシー環礁襲撃の命を受け「伊号第四百一潜水艦」(伊401)に座乗し出撃するも作戦中に終戦。降伏のため本土帰還途上の8月29日、米海軍により伊401は海上接収される。
その時、有泉司令は司令室で自決。
机には真珠湾攻撃の九軍神の写真があったという…


九軍神

真珠湾攻撃において、甲標的に乗組み、未帰還となった岩佐直治ら以下の9名。

岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:9_Gunshin.jpg


岩佐直治は8人兄姉の末っ子であった。
尋常小学校時代を偲ぶ碑もある。
卒業生総代として成績優秀であった直治は旧制前橋中学校(群馬県立前橋高等学校)を経て海軍兵学校(海兵65期)を卒業している。

岩佐家の家紋とは別に、潜望鏡と菊を連想させる紋もあった。

未曾有の国難に殉じた英霊に 哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

参考書籍 「九軍神は語らず―真珠湾特攻の虚実」(牛島 秀彦 著)

平成30年参拝

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

宇垣纏を偲ぶ

宇垣纏
 海軍中将・第五航空艦隊長官

宇垣家之墓

宇垣家之墓

従三位
勲一等旭日大綬章
昭和四十四年十二月二十四日

海軍中将
正四位
勲一等
功三級

宇垣纏命

昭和二十年八月十五日戦死 享年五十六
部下ヲ率ヒ九機ヲ以テ沖縄海面ニ特攻

東京・多磨霊園「宇垣家の墓」

8月15日

「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。」

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将
宇垣日記として名高い「戦藻録」最後の記述。

一七〇〇
最後の訓示を終え、最後の特攻として、 宇垣長官は「彗星」に乗り込んだ。
その指揮官機を操縦する中津留達雄大尉は大分県津久見の出身だった。

第五航空艦隊司令長官 宇垣纏中将らが飛び立った地が大分基地であった。


突然ですが嫁の実家は宇垣さんゆかりの大分なのです。
ちょっとだけ大分の話をしてみようと思います。

2015年の秋に嫁が帰郷した際に、大分空港ゆかりの場所を撮影しておりました。
この記事の大分の写真は全て嫁の撮影となります。

神風特別攻撃隊発進之地

碑文
昭和二十年八月十五日午後四時三十分
太平洋戦争最後の特別攻撃隊は
この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し

氏名    年齢 出身地
宇垣纏   五五 岡山
中津留達雄 二三 大分
遠藤秋章  二二 愛媛
伊東幸彦  二〇 宮城
大木正夫  二一 福島
山川代夫  二一 山形
北見武雄  二〇 新潟
池田武徳  二二 福岡
山田勇夫  二〇 千葉
渡辺操   二二 千葉
内海進   二一 岩手
後藤高男  二四 福岡
磯村堅   二二 山口
松永茂男  二〇 福岡
中島英雄  一九 愛知
藤崎孝良  一九 鹿児島
吉田利   二〇 滋賀
日高保   二〇 鹿児島

旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

昭和23年に米軍が撮影した旧大分海軍航空隊の様子を見ることが出来る。
(国土交通省国土地理院サイトより)

こちらは現在の様子
おおざっぱに
赤→飛行場
青→大分海軍航空隊
緑→第十二海軍航空廠
黄→第5航空艦隊司令部

大分空港跡地


現在の大分市青葉町にある「大洲総合運動公園」が、かつての「大分基地跡地」にして「大分空港跡地」の地。

大洲総合運動公園
この公園敷地は旧大分空港跡地、その前身は「旧大分海軍航空基地」

戦後運輸省が第二種空港として整備し、その後大分空港が国東半島海岸に移転(1971年)したのを機会に公園用地として大洲総合運動公園が整備。
写真はかつての滑走路界隈。

七〇一空会記念植樹 豊後梅

七〇一空は昭和20年2月に第五航空艦隊附属に転籍となり、最前線にて終戦まで沖縄・九州方面の哨戒、対機動部隊攻撃、特攻攻撃に従事・・・

ここでは、論評は致しません…

ただ静かに感謝と哀悼の意を…


今回の大分写真は嫁撮影となります。
まだ私はこの地に訪れていないため、次に赴く機会がある際に改めて往時を偲んで参ろうと思っております…

東郷平八郎ゆかりの神社仏閣など

(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)

東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
  東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)

東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など


東郷神社御朱印帳

表装の和歌

おろかなる 
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ 
天つちの神

(意味)
  愚かな私ではございますが
  誠の心で尽くしますので
  なにとぞ天地の神々よ
  私を見守っていて下さい 

1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
 東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
 東宮学問所 = 皇太子の御教育機関

御朱印

東郷神社
  御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
  東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
  「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
  府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
  東郷元帥農園別墅跡

東郷寺

(府中市清水が丘3-40-10)

元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

聖将山 東郷寺 山号標

揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。

東郷寺 山門

設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。

段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。

東郷寺山門建立由来

題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立

「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。

「聖将山 東郷寺」 東郷元帥と日蓮宗

東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。

大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。

昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)

昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。

現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…

こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。

東郷寺 しだれ桜

桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)

朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。

彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・

東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。

山門側から

東郷寺墓苑

東郷寺境内
境内地を散策(地図
ポイントを地図に記載してみました。

境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…

東郷元帥墓(供養墓)

境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。

小笠原長生墓(供養墓)

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

「枢軸国必勝祈念塔」

昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。

正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。

日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫

奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。

ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている

「豊田副武墓」

海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。

「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。

更にここには意外な人物が祀られている

「河本大作墓」

元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。

東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…

大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立

妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が

戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・

合掌

東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・

鬼瓦

東郷寺御朱印

妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺

※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。

二七山不動院

さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)

二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興

東郷元帥と二七不動(九段)

東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。

明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという

大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。

大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。

二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。

インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」

写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。

東郷元帥記念公園

平成30年1月撮影

「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。

かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。

東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。

東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている

公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。

平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。

東郷神社

平成30年1月、久しぶりの参拝。

第一駆逐隊(駆逐艦 神風・野風・波風・沼風) 奉納灯籠

東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。

東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯

東郷神社御朱印

平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。

おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神

東郷神社例大祭

1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦

翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。

5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。

東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。

おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!

海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。

千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい

東郷神社御神酒

東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)

トップ水雷

鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ

お酒つながりで掲載。

伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ

東郷焼酎
東郷ビールとZ旗ビール
海軍ラムネ

いずれも横須賀にて


以下は徒然に

秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。

郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。


溝口神社

川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書


神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。


軍艦三笠艦内神社 三笠神社

三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…


三笠神棚

日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。

筥崎宮 敵国降伏 御守護

軍艦「三笠」

今回は外側を眺める程度で。


連合艦隊解散之辞
東郷筆。起草は秋山真之。

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

「東郷平八郎銅像」(三笠公園)

日本海海戦後言志
日の本乃
 海にととろく
  かちときは
御陵威かしこむ
  聲とこそしれ
    東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作

「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)

三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)

「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)

「謎の軍艦甲板の一部」

横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。


呉・ 東郷家住宅離れ

入船山記念館(入船山公園)

旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。

舞鶴・ 東郷邸

舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。

舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。

https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html

佐世保

佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。

佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)


東郷氏祖先発祥の地

東郷氏祖先発祥地

ひとまずは以上で〆

そのほか随時で登録していきます

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

平成30年撮影

現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。

「荻外荘公園」
国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。

通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。

中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。

昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。

公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸

敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。

公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。

荻外荘・一般公開(杉並)

昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。

近衛文麿が自殺した書斎部屋

普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。

近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。

荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。

入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)

現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。

敷地の東側部分の空き地。

この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。

東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。

耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。

戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。

写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。

復元模型の中心部で会談している人たち。

昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。

昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。

写真は近衛文麿が自殺をした和室。

本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。

荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵

居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。

蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。

荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟

昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)

受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)

敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・

荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…

荻外荘・近衛文麿旧宅
豊島区の移築部分)

染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。

「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…

もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影

昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。

近衛町(東京都新宿区下落合

場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。

前述の荻外荘は「近衛別邸」
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。

近衛篤麿公記念碑

かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。

入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。

新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」

この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。


近衛篤麿公記念碑

 公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。  
 明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
 日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
 ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
 当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
 平成八(1996)年一月  
 財団法人 霞山会  
 会長 近衛通隆

かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日

霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。

旧近衛邸のケヤキ

旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。

現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。

「昭和寮」(旧・学習院高等科寄宿舎)

近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)

昭和寮跡碑

学習院大学建立

昭和寮跡
 昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
 西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
 平成13年6月 建立

杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。


以下は補足。

近衛家墓所(近衛秀麿墓)

五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。

公爵 子爵 近衛家墓所

近衛秀麿

1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫

父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)

第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。

近衛秀麿墓(近衛文麿の弟)
近衛秀麿
公爵子爵 近衛家墓所

近衛秀俊

1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫

近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。

近衛秀俊墓(近衛秀麿長男・関東大震災で死去)

近衛通隆

1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。

近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。

近衛家墓
近衛通隆墓(近衛文麿次男・近衛秀麿養子)

近衛秀健

1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者

近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。

近衛秀健墓(近衛秀麿の次男)

近衛牡丹の家紋

余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。

広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂

柳生家墓所
立花家墓所
小堀家墓所

最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。

世田谷に眠る海軍軍人(永野修身・小澤治三郎・堀悌吉)

平成30年5月撮影

世田谷の寺院に眠る海軍軍人の墓詣でをしていることに気がついたので、以下に記録しておきたいと思います。

  • 浄真寺 永野修身 元帥海軍大将
  • 豪徳寺 堀悌吉 海軍中将
  • 大吉寺 小澤治三郎 海軍中将

永野修身 墓

浄真寺・永野家之墓

永野修身 元帥海軍大将

海兵28期次席。
連合艦隊司令長官・海軍大臣・軍令部総長の海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。
昭和22年1月5日、A級戦犯容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。享年66。 墓は浄真寺と高知筆山墓地。昭和53年に法務死として靖國神社に合祀。

九品仏浄真寺

東京都世田谷区奥沢
浄土宗
もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城の地。 小田原征伐後に同城は廃城。 延宝6年(1678)同地に浄真寺が開山。 3つの阿弥陀堂に九品の仏(九体阿弥陀・九品往生・九品仏)が安置されている。


堀悌吉 墓

豪徳寺・堀家之墓

堀悌吉 海軍中将

海兵32期主席。山本五十六の同期。
昭和5年ロンドン海軍軍縮会議で調印に尽力(条約派)。条約反対派(艦隊派)による大角人事で予備役。その後は日本飛行機や浦賀船渠の社長などを歴任。
昭和34年5月12日死去、享年76。(碑は77)
墓所は豪徳寺と郷里大分杵築。

豪徳寺

東京都世田谷区豪徳寺
曹洞宗 一説には招き猫発祥の地ともされる。
中世の武蔵吉良氏が居館とした一帯。境内は小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったという。文明12年(1480)創建。
寛永10年(1633)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍藍を創建し整備。


小澤治三郎 墓

大吉寺・小澤治三郎墓

小澤治三郎 海軍中将

海兵37期。同期は井上成美。
最後の連合艦隊司令長官。開戦時は南遣艦隊司令長官(英東洋艦隊と対峙) 次いで第三艦隊司令長官(マリアナ沖海戦/レイテ沖海戦)軍令部次長を歴任。
昭和41年11月9日病死。享年80。
墓所は世田谷大吉寺と郷里宮崎にある。

大吉寺

世田谷区世田谷 浄土宗 創建年代は不詳。世田谷吉良氏の祈願所であったという。 小田原北条氏と共に世田谷吉良氏も滅亡し寺勢は衰退。

四月十八日に山本五十六を偲ぶ

平成31年4月18日

山本五十六の墓を。 四月十八日は山本五十六の命日 。。。

【海軍甲事件】

1943年(昭和18年)4月18日。 前線視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がブーゲンビル島上空にて米軍戦闘機に撃墜。 山本五十六が戦死した事件。


【山本五十六】

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2015年2月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影
多磨霊園の山本五十六墓。写真は2017年12月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …

現在の水交社本部ビルの地は 「東京メソニックビル」

余談ですが、水交社とは明治9年に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体。終戦とともに水交社は解散し水交社本部ビルはフリーメイソンによって占拠される。昭和56年に跡地に「東京メソニックビル」が建設され、一室には水交社時代の応接室が再現されているという…

山本五十六は郷里長岡にも分骨されています。

写真は長岡の生誕の地。復元された生家。


平成14年7月撮影。

平成11年8年に長岡市長興寺の墓前に詣でておりましたが、写真はどこかのHDDにいってしまいました。 添付写真は私の旧サイトから転載。(かなり荒い) 山本家の墓なので「山本帯刀」もこちらに眠る。

長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) ※訪問が昔過ぎて写真は無し…

霞ヶ浦空・予科練の地にも、山本五十六はゆかりがあります。

山本五十六は大佐時代に砲術から航空に転化し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼航空学校教頭に就任。この霞ヶ浦の地より海軍航空発展に深く関与するとなった


写真は土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。
平成28年4月撮影。

本棚から。

阿川弘之著「山本五十六」「山本元帥!阿川大尉が参りました」

戦後の日本人として、はじめて山本五十六搭乗機に接した阿川弘之氏。
(昭和41年にブーゲンビル訪島)

「山本五十六長官搭乗の一式陸上攻撃機にもし心あらば、今、二十三年七ヵ月ぶりに日本人に見(まみ)えたはずであった」
(山本元帥!阿川大尉が参りました-私のソロモン紀行-) 

元帥山本五十六海軍大将の伝記を残された阿川先生…阿川弘之海軍大尉による渾身の鎮魂紀行…
4月18日、節目の日に。

二・二六事件と海軍

平成29年2月投稿

突然ではございますが、なんとなく表題の件「二・二六事件と海軍」と題して、かなりざっくりとまとめてみたいと思います。
知っての通り、二・二六事件といえば陸軍の青年将校が起こした事件であり陸軍の話はいくらでもあり、わざわざ海軍に着目する理由は… 私は海軍好きというだけの話です。(いちおう水交会会員ですし、、、

きちんと本筋立ててガチガチには内容をまとめてないので、ちょっと話が散らかりますがお付き合いくださいませ。

たぶん察しの良い方はわかると思いますが「横鎮」メインになりそうです、、、

二・二六事件発生時の海軍

海軍省
大臣 大角岑生大将
次官 長谷川清中将
軍務局長 豊田副武中将

軍令部
総長 伏見宮博恭王
次長 嶋田繁太郎中将
第一部長 近藤信竹少将

横須賀鎮守府
長官 米内光政中将
参謀長 井上成美少将

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
 高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕 」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官

横須賀警備戦隊
「木曽」艦長 岡新大佐
第三駆逐隊(汐風・島風・灘風・夕風)
横須賀陸戦隊 指揮官 佐藤正太郎大佐


昭和4年(1929年)10月

ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌は各国に波及し混乱を極めた。
日本においては、昭和6年満州事変、昭和7年第一次上海事変以来、日本の大陸進出とともに海外情勢も悪化。

昭和7年(1932年)5月

五・一五事件が発生。(海軍青年将校が内閣総理大臣犬養毅を殺害)
これは昭和5年に締結された「ロンドン海軍軍縮条約」を起因とした海軍青年将校の暴発。

ロンドン海軍軍縮条約

いわゆる対米6割に抑えられた軍縮条約。
海軍内部で条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と条約に反対する「艦隊派」(軍令部側)という対立構造が発生。後に統帥権干犯問題に波及。
さらには昭和8年の「大角人事」を招く。

大角人事

大角岑生海軍大臣による条約派追放人事。
艦隊派の加藤寛治軍令部部長がロンドン海軍軍縮条約の締結に憤り昭和5年に軍令部長を辞表。谷口尚真(条約派)をへて艦隊派の伏見宮博恭王が軍令部長に就任したことから海軍省と軍令部の歯車が狂い始める。
もともと伏見宮博恭王が軍令部長に就任したのは昭和6年末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任した事から、バランスを取るための人事でもあったが、のちに人事を担当する海軍省及び大角海軍大臣の首を締めることにもなり。軍令部を辞表した加藤寛治は伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物として昭和8年頃から大角大臣へ条約派に対する人事圧力を断行。山梨勝之進大将・谷口尚真大将・左近司政三中将・堀悌吉中将などのロンドン海軍軍縮条約締結時の海軍省要人が相次いで予備役に。

φ(..)メモ
予備役っていうのは一言で言えば「首」です。退役軍人ですね。

海軍省と軍令部の違い。
海軍省は内閣に従属。軍政・人事を担当。 軍令部は天皇に直属。天皇の統帥を輔翼し海軍全体の作戦指揮を統括担当。 軍令部は政治と人事には口出ししては駄(

とにもかくにも伏見宮博恭王は軍令部の権限を強化。
軍令部総長となり海軍省を圧倒。
海軍の対立縮図も多少は二・二六事件にも影響かな。

みんな大好き対立図式
陸軍 皇道派(二・二六事件) vs 統制派
海軍 艦隊派(五・一五事件) vs 条約派

ちなみに二・二六事件の際に陸軍皇道派に襲われた総理大臣・岡田啓介海軍大将は条約派。
というか、海軍の穏健派はロンドン条約締結賛成派。
で、前述の大角人事で艦隊派(強硬派)に左遷させられたわけで。 大角自身は事なかれ主義な人物。

海軍の艦隊派と皇道派は通じるものがあったようで。
ちょっと話題を先走ります。
それこそ二・二六事件に際しては、事件発生の朝に海軍の伏見宮軍令部総長と加藤寛治海軍大将、そして陸軍の真崎甚三郎大将が打ち合わせを行ってます。このメンツが濃すぎるんです。
陸軍の真崎甚三郎といえば皇道派の首領。事件の青年将校たちに「お前たちの気持ちはよく分かる」云々発言で有名。
で、伏見宮と加藤と真崎の三人で朝方に協議を行った後で宮中へ参内。伏見宮は昭和天皇に拝謁したが、天皇はご立腹で伏見宮は不興を買う、と。

横須賀鎮守府

話は横須賀へ。

昭和10年8月1日。
比叡艦長であった井上成美に横須賀鎮守府付(参謀長内定)人事が発令。
この時の横須賀鎮守府長官は末次信正大将。
その三ヶ月半後、昭和10年11月15日に井上成美は少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任する。

その後、末次は12月1日付で軍事参議官に転出。

昭和10年12月。
第二艦隊司令長官であった米内光政中将が横須賀鎮守府長官として着任。 のちのちまで語られる「米内・井上コンビ」のはじまりの時であった。

井上が横鎮参謀長として赴任した同じ月(昭和10年8月12日)に陸軍皇道派と統制派の対立は激化。 皇道派の相沢三郎中佐中佐が統制派の軍務局長永田鉄山少将を刺殺する事件(相沢事件・永田事件)が勃発。

永田鉄山 諏訪護国神社

海軍に五・一五事件で遅れを取ったと感じる陸軍過激派の暴発を苦慮した井上参謀長は緊迫する状況を鑑み、横須賀鎮守府での即応戦力準備に取り掛かる。

まずは特別陸戦隊一個大隊を編成。そして警備艦「那珂」艦長に「昼夜雨雪関わらずに芝浦へ急航する為の研究」を命令。

※補足
当初は、「那珂」艦長に芝浦急航の研究を命じていたが、二・二六事件が発生した際は予定していた軽巡「那珂」は九州方面で活動をしていたため、実際に横須賀から芝浦に出動したのは軽巡「木曽」。

昭和11年2月26日

早朝。横須賀では珍しく積雪となった朝。
井上参謀長へ副官より第一報が到来。
「陸軍は大変なことをやりました。」
「一部は総理官邸を襲って…」
実は海軍は東京に兵力を持っておらず、横鎮の責任において在京守備をするしかない状況…

かねてより陸軍の暴発を危惧していた井上参謀長は横須賀鎮守府より矢継ぎ早に用意の手を打つ。

・砲術参謀を東京へ自動車で急派
・横須賀砲術学校より即応体制の掌砲兵20人を海軍省急派
・緊急呼集
・特別陸戦隊用意
・軽巡木曽急速出港準備
・麾下各部自衛警戒

どうやら、 総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤實、侍従長鈴木貫太郎、 大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎、前内大臣牧野伸顕が襲われ殺害された、と情報が入り始める。
(実際は岡田総理と牧野伸顕は助かり、鈴木貫太郎は重傷で一命をとりとめる)

襲われた六人の重臣のうち3名が海軍出身の重鎮(岡田・斎藤・鈴木)であったことから海軍将兵の憤りは尋常ではなく、命令下り次第陸軍と一戦を交える気構えに、いやがおうにも包まれていく。

午前9時ごろ。
長官官舎にいた米内光政長官より井上参謀長に電話入電。
「おれもそろそろ出て行った方がいいか?」
※横須賀へは朝帰り説もありますが、まあ米内提督は強運の持ち主だったということで。

※写真は2004年撮影(盛岡八幡宮境内・米内光政銅像

いかにも米内光政長官といった堂々たる(のんびりした)態度に感じ入りながらも井上成美参謀長は返答。
「差し当たっての打つ手は皆打ってありますが、国の大事ですから、やはり鎮守府に来ておられた方がよろしいでしょう」
こうして間もなく米内長官も鎮守府へ出勤。

混乱した各方面の首脳は永田町一帯を占拠した部隊をなんと呼称するかで迷っている様子もみられ。「蹶起部隊」という呼称も出てくる中で
井上は「海軍はあくまで逆賊として対処する」と。
米内も「あれは叛乱軍だよ」と参謀長と同意見。

米内は井上に言う。
「陸軍が宮城を占領したらどうしようか」
井上は即座に返答。
「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を比叡(御召艦)においで願いましょう。そのあと、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを行っても海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく軍艦に乗っていただければ、もうしめたものだ。」
米内
「そうか、貴様、そう考えているのか。ようし、俺も腹が決まった」
横鎮では米内長官、井上参謀長以下各員は鎮守府に籠城・厳戒体制。

同じ2月26日午前9時ごろ。
すでに準備を終え特別陸戦隊を乗せた軽巡「木曽」がまさに出港しようとしていたときに、軍令部から「待った」の声がかかる。
「警備派兵は手続きがいる。横鎮が勝手に軍艦を出すのはいかん。手続きがすむまで待て」

万全の体制で準備をしてきた横鎮に対しての軍令部の横槍に井上は憤る。
「横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのに、何を軍令部が文句を言うのか」と。
(この横槍は軍令部次長嶋田繁太郎中将あたりから出てきたものかどうか…。)

上記写真:横須賀鎮守府司令長官米内光政(中央) 参謀長井上成美(左から2番目)
(「井上成美」井上成美伝記刊行会の巻頭写真より)

事件当日の海軍中央部の動きは、陸軍に気を使ってのことか芳しくない。

大角海軍大臣は事なかれ主義。
伏見宮軍令部総長は皇道派の真崎大将と打ち合わせをしていたり、陛下に叱責されたり。

で、軍令部は肝心の軍隊を動かす「手続」にことのほか手間どっていた。

2月26日の海軍主力。
ちょうどこのとき連合艦隊は土佐沖で演習中であった。

連合艦隊
第一艦隊旗艦「長門」
  高橋三吉中将 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官
第二艦隊旗艦「愛宕」
 加藤隆義中将 第二艦隊司令長官(加藤友三郎元帥の養子)

軍令部としての手続き。
軍令部総長が天皇の允裁を受けて統帥命令を伝達するという形式を踏まねばならなかった。そのため陸戦隊が海軍省に到達できたのは26日午後遅くとなってしまい、兼ねてより準備を進めていた井上参謀長としては不本意な結果となってしまった。

26日午後。
土佐宿毛湾沖で演習中の連合艦隊第一艦隊(旗艦長門)を東京湾へ派遣。 第二艦隊(旗艦愛宕)を大阪湾へ。
横須賀警備戦隊の木曽・第三駆逐隊・特別陸戦隊を東京に派遣。
午後になって、ようやく方針が固まった。

井上によって編成され軍令部指示で増強された派兵部隊。
軽巡木曽と第三駆逐隊(峯風型駆逐艦の島風・灘風・夕風)に乗って芝浦に急行した横須賀鎮守府特別陸戦隊四個大隊(約2000名)は井上と同期の佐藤正四郎大佐(砲術学校教官)によって率いられ芝浦から東京へ。

海軍艦艇主力の動向。
26日12時30分。
連合艦隊は演習しつつ宿毛湾に入港。

26日15時頃。
「両舷直整列」「急速出港準備ヲナセ」

26日17時。
長門以下連合艦隊は宿毛湾を出港。
長門以下第一艦隊は東京湾へ。
愛宕以下第二艦隊は大阪湾へ。

襲われた岡田啓介と鈴木貫太郎は、かつて連合艦隊旗艦「長門」艦上で連合艦隊司令長官として艦隊の指揮をとった海軍の重鎮。
(岡田は第15代司令長官、鈴木は第16代司令長官)

海軍としては断固たる決意で陸軍の蹶起に反対する意気込みが連合艦隊内にみちていた。

27日16時。
急航した連合艦隊旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻が芝浦沖に集結。第一艦隊では艦隊での陸戦隊を編成し上陸展開。陸戦隊で鎮定できないときは国会議事堂を艦砲射撃で破壊する案まで展開され反乱軍にいつでも砲撃できる体制を整えた。

一方で、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊は大阪湾へ。 第二艦隊は艦隊の多数を大阪の沖合に留め、旗艦「愛宕」のみを大阪港内に進入させて警戒に務めた。 これは(特に東京の叛乱軍と連動していない)大阪の陸軍(第四師団)を刺激しない配慮もあったようだ。

中央の様子

さて、中央の様子をちょっとだけ。

殺害されたとの噂も流れていた岡田啓介首相。
実は岡田首相は難を逃れ官邸の女中部屋に潜んでいた。
官邸に残った秘書官の福田耕秘書官は救出の策を練り、こっそり逃げ出した秘書官の迫水久常は宮中に岡田生存の報告へ。

秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
「陸戦隊を出して欲しい」
しかし、大角は(事なかれ主義の大角としては当たり前だが)
「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」
と反対。

大角海軍大臣はとにかく「事なかれ主義」。


二・二六事件対応では横鎮井上参謀がとにかく強硬派。
面白いことに海軍内では、いわゆる強硬派(艦隊派)が今回の事件に関しては対陸軍慎重派が多く、逆に普段は慎重派(条約派)な面々が対陸軍では強硬派だったり。

迫水大角対談。
迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と不甲斐なく…。

海軍大臣の協力を得られなかった迫水は最終的には東京憲兵隊の小坂慶助曹長らの尽力を得て岡田首相の救出に成功する。(憲兵さんの良きエピソードですが詳細割愛)
官邸では首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が岡田首相の身代わり(勘違い?)となり殺害されていた。

初動で海軍も部隊を展開したらあとは叛乱軍と陸軍中枢との折衝が中心となり、海軍の出番はもう終わりだったり。
鈴木貫太郎のお話とかもここでは省略します。
陸軍中枢の動きと迷走や石原莞爾とかもここでは深く触れないことにする。


後日談

こうしていろいろあって(はしょりすぎ)


昭和11年3月9日。
二・二六事件により岡田啓介内閣は総辞職。広田弘毅内閣が成立。
広田内閣の一番の失策は「軍部大臣現役武官制」を復活させたこと。 これにより、この先々は陸軍の横暴に苦しめられることになる…

岡田啓介

岡田は政界の表舞台からは身をひき裏方へ。そして8年後の昭和19年。もう一度殺される覚悟でもって東条内閣打倒に尽力。終戦に向けての最後の舞台へと米内を押し出す原動力ともなる。こうして岡田の尽力で既に現役を引退していた米内は現役に復し最後の海軍大臣へ、と

大角岑生

大角岑生海軍大臣の後任は永野修身。(永野は海軍大臣ののちに連合艦隊長官。) 海軍大臣退官後の大角は軍事参議官。現役大将序列は伏見宮に次ぐ立場であったが、ぱっとせず。伏見宮軍令部総長の後任に、大角と永野の名が挙がるも、昭和16年2月に大角は飛行機事故で死去。

井上成美

昭和11年11月。 井上成美は二・二六事件ののちに横鎮参謀長から軍令部出仕兼海軍省出仕へ。 翌昭和12年10月に海軍省軍務局長に。 その時の海軍大臣は米内光政。海軍次官は山本五十六。 ここに「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」が誕生した。

米内光政

米内光政は、二・二六事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後任侍従長との声もあったが、横鎮長官職の次職慣例もありその話はお流れ。鈴木の後任侍従長は百武三郎海軍大将。 昭和11年12月に、第23代連合艦隊司令長官へ。(連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。)

しかし米内光政は連合艦隊司令長官としての職を果たす間もなく着任わずか2ヶ月後の昭和12年2月に林内閣海軍大臣として中央に戻されることとなる。 連合艦隊司令長官の米内後任は永野修身(海軍大臣)。永野事情による海軍大臣と聯合艦隊長官の入れ替えだった、とか。

海に出た米内であったが僅か2ヶ月で中央に戻され、海軍大臣、さらには首相として本人は不本意な政治を行い、それが日本の要になるとは皮肉なものであった。そんな海軍省には次官として山本五十六がいた。(山本五十六は事件当時は海軍航空本部長で口出しする立場に無し)

いずれにせよ二・二六事件以降の動きは、また別の機会に。(あるのか?) 米内光政海軍大臣・山本五十六海軍次官・井上成美海軍省軍務局長のいわゆる「海軍三羽烏」「海軍省の左派トリオ」は、次の「日独伊三国軍事同盟」に向けての政局混乱に動き出すわけです。

鈴木貫太郎

参考文献

参考文献は手の届く間近の本棚から慌てて取り出した本を中心に。 (そこまでガッツリ書こうと思っていなかったので資料にかたよりアリ。本箱に埋もれて今回活用できなかった本も多数、残念)

「井上成美」伝記刊行会の題字は、本人の直筆筆跡。


関連

「二・二六事件」雑感

元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり

深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。陸軍さんの動きは、さほどに詳しくないので。 その歴史的な評価や青年将校の起こした行動の是非は別として。

2月26日が来るたびに、その歴史的な節目に何かを感じざるを得ない気になってしまいます。

実際には「あー、二・二六事件ね。」ぐらいで終わってしまいますが。 歴史的なフレーズとして、この「二・二六事件」という具体的な日にちはいやがおうでも印象深いものです。

そんな2月に渋谷にある慰霊碑に足を運んできました。
実は訪れたことがなかったので。
渋谷の雑踏を抜け、NHKの真向かい。隣は渋谷税務署と東京法務局渋谷出張所。 東京陸軍刑務所跡地。そこに「二・二六事件慰霊碑」がある。


二・二六事件慰霊碑

東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、首謀者に対する刑は執行された。
彼らの行動の是非は問えない。時代のうねりの中で、彼らもまた翻弄され、そこに正解は求めることはナンセンスだから。
合掌。

二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。

世に是を二・二六事件という。

昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和四十年二月二十六日
 佛心會代表 河野司 誌

碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。


真偽は不明だが、この慰霊碑の脇にある赤レンガ壁は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。
梅の花が咲く慰霊碑の前で、往時の事柄を偲びつつ静かに手をあわせる。


令和三年(2021)2月26日、撮影。


渋谷の陸軍境界石

若者が闊歩する街「渋谷」。
そんな渋谷の繁華街の只中に陸軍標石はありました。
(往時より数メートル移動して保存されております。)
渋谷区清掃事務所宇田川分室のフェンスの中。駐輪場との間に。

渋谷に二・二六事件と関連する陸軍施設(東京陸軍刑務所)があった名残の一つ。 標石には「陸軍用地」と刻まれておりました。

往時を偲ぶ歴史遺産。
渋谷の陸軍用地。
もちろん、ここには何も説明も案内はないけれども、明確な意志で保存されている感はします。フェンスの内側にあるというにはそれだけで安心感があります。


二・二六事件と海軍

別記事にて。


二十二士之墓(賢崇寺)

平成31年4月参拝

東京都港区元麻布鎮座。鍋島家の菩提寺。

境内には「二・二六事件の青年将校の墓 」がある。

二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。これは死刑になった19名に、自決した野中四郎・河野寿の2名、相沢事件で死刑となった相沢三郎が含まれている。 現在の墓碑は、昭和27年(1952)建立。

昭和11年2月29日
 野中四郎
昭和11年3月6日
 河野壽
昭和11年6月3日
 相澤三郎
昭和11年7月12日
 香田清貞
 安藤輝三
 栗原安秀
 竹嶌継夫
 対馬勝雄
 中橋基明
 丹生誠忠
 坂井直
 田中勝
 中島莞爾
 安田優
 高橋太郎
 林八郎
 渋川善助
 水上源一
昭和12年8月19日
 村中孝次
 磯部浅一
 北輝次郎
 西田税


磯部浅一墓

二・二六事件の青年将校の一人、磯部浅一の墓。
別記事にて


永田鉄山

その引き金となったのが相沢事件(永田事件)と呼ばれる陸軍派閥抗争。
昭和10年8月12日。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、皇道派の首領であった真崎甚三郎教育総監を更迭した統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。

永田鉄山軍務局長を殺害した相沢三郎陸軍中佐は、二・二六事件首謀者の処刑(昭和11年7月12日)に先立つ昭和11年7月3日、東京陸軍刑務所内で銃殺刑に処された。(二・二六慰霊碑碑文にも永田事件の相沢中佐の記載がありました)

写真は諏訪護國神社の永田鉄山中将像。

陸軍の派閥抗争。皇道派と統制派。こんなのを説明しようとしたらそれだけで論文が書けそうなので止めておきます。
統制派の永田が皇道派の相沢に殺され、暴発した皇道派青年将校による二・二六事件の勃発により皇道派は衰退。で、永田のあとには統制派の東条と武藤などが皇道派を駆逐し陸軍を牛耳る、と。

永田鉄山の墓は青山霊園にある。


九段下の「九段会館」(軍人会館)

昭和11年2月27日。戒厳令発令に伴い戒厳司令部が設置されたのが軍人会館であった。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に就任。


岡田内閣大蔵大臣
高橋是清

庭園が残る。高橋邸の母屋は現在は「江戸東京たてもの園」に移築。
昭和11年2月26日。赤坂の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ暗殺される。享年82(満81歳没) 墓は多磨霊園に。

別記事にて。


内閣総理大臣
海軍大将 岡田啓介 墓

海軍大将、第31代内閣総理大臣。 事件で襲撃されるも難を逃れ一命を取り留めたが、身代わりに首相秘書官で松尾伝蔵(義弟)が殺害。 その後は重臣として戦争終結に奔走。昭和27年10月17日84歳没。 現在は多磨霊園に眠る。

岡田啓介 墓(撮影は2016年2月)

岡田内閣内大臣
海軍大将 齋藤實 墓

従一位大勲位子爵。海軍大将。第30代内閣総理大臣。岡田内閣時の内大臣。 二・二六事件にて射殺される。 満77歳没。 現在は、多磨霊園に眠る。

斉藤実 墓(撮影は2016年2月)

陸軍教育総監
陸軍大将 渡辺錠太郎 墓

岡田内閣時の陸軍教育総監。 二・二六事件にて射殺される。満61歳没。
二・二六事件の舞台でもある杉並区上荻窪にあった渡辺錠太郎邸は2008年に取り壊しされている・・・。
現在は、多磨霊園に眠る。

渡辺錠太郎 墓 (撮影は2016年2月)

岡田内閣総理大臣秘書官
迫水久常 墓 (さこみずひさつね)

政治家。岡田啓介は岳父。妻が岡田啓介の次女。 岡田内閣内閣総理大臣秘書官。 二・二六事件に際しては岡田啓介救出に奔走。 鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦工作の一翼を担う。 現在は多磨霊園に眠る。


迫水久常 墓(撮影は2016年2月)

関連を見つけましたら随時追記していきます。