「靖國・護國・神社仏閣」カテゴリーアーカイブ

ふりかけ食の元祖「旅行の友・タナカのふりかけ」(靖國神社遊就館特別展「兵食」)

広島市に本社を置く、田中食品株式会社。「タナカのふりかけ」で有名。

https://www.tanaka-foods.co.jp

もっとも東日本に在住している私は、実は「タナカのふりかけ」を全く知りませんでした。
どうやら主に西日本で流通しているという「タナカのふりかけ」。
ふと、靖國神社遊就館特別展で目にしたことから、気になって、少しだけ、ふりかけの歴史を深掘りをしてみました。

靖國神社 令和6年 遊就館特別展
【兵食 陸海軍の食事から、英霊に捧げる「神饌」まで】 

https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/news_detail.html?id=532


タナカのふりかけ「旅行の友」

1901年(明治34年)に田中商店(現・田中食品株式会社)を創業した田中保太郎は、海軍の要請に応えて「ふりかけ食」を開発したことにはじまる。

1914年、第一次世界大戦が勃発。日本海軍は、日英同盟にもとづきドイツに開戦し、太平洋のドイツ領植民地(サイパン、パラオなど)へ侵攻。
そこで、海軍は、南方独特の問題に直面した。それは、太平洋の南の島国は、気温・湿度が高く、当時の日本の伝統的な保存食である漬物や味噌さえも腐ってしまうという食糧問題であった。そこで海軍は、当時呉の町で漬物商を営んでいた田中食品へ「持ち運びに便利で日持ちが良く、栄養価の高い保存食を作って欲しい」と、新しい保存食の開発を要請した。その中で開発されたのが「ふりかけ食」であった。

軍部の要請で開発された「ふりかけ食」は好評を博したため、1916(大正5)年には、これを「旅行の友」として一般向けに発売。当時では画期的な容器だった筒型の缶容器。
「旅行の友」という名称は「旅のお供になるように」という願いと、田中保太郎の妻「トモ」に由来する。
デザインは欧亜連絡列車でもあった特急「冨士」の流線型国鉄C55形蒸気機関車が描かれている。

「旅行の友」は大正初期より自然の素材を主原料に作られているロングセラーのふりかけ。小魚とごま、海苔など自然の味を大切にした本物の味。カルシウムが豊富で、こどもから大人までみんなに愛され続ける伝統の味でもある。

https://www.tanaka-foods.co.jp/joy/about.html


慰問ふりかけ

靖國神社遊就館特別展「兵食」展示シートより

内地からの慰問のふりかけ「旅行の友」
大正時代の初め、軍の要請で「持ち運びし易く、日持ちし、栄養価の高い食品」として、小魚魚粉を主原料にした、おいしくカルシウムたっぷりのふりかけが誕生しました。戦時中は、内地から送られる慰問袋に入れられ、戦地の将兵に大変喜ばれました。、当時は画期的な容器だった筒型容器を、そのままの形で再現しています。

陸海軍御用品
ステキにうまい
旅行の友

滋養豊富
軽便重宝

専売特許

日本国旗と満洲国旗

戦前・戦中期の戦用糧食・慰問品
軍事法規研究会 専任研究員 大木浩明 蔵 


復刻版「旅行の友」

タナカのふりかけ 旅行の友復刻版 

https://www.tanakafoods.net/SHOP/7550.html

2022年には復刻版が販売されている。

御飯にかけて ステキにうまい
旅行の友
滋養豊富 軽便副食

さすがに、すこしだけフレーズが変わりましたね。

三度の食事に 是さえあれば大丈夫! お惣菜の単一化、
それで居て 栄養価満点の 副食物!

愛され続けて100余年
創業明治34年
旅行の友
「栄養価の高いものをいつまでも美味しく食べてもらいたい」という「子を想う親心」から生まれました。

変わらぬ、伝統の味わい。
奇しくも、「ふりかけの元祖」を知ることができたのは、良い学びでした。


靖國神社 令和6年 遊就館特別展
「兵食」陸海軍の食事から、英霊に捧げる「神饌」まで

2024年の靖國神社遊就館特別展。

他にも見どころ多数。
食にまつわる展示は、いままでになかった目線。
食事中の兵隊さんたちの笑顔の写真が、なんか、心にぐっときまして。

陸海軍の兵食、御英霊の食にまつわるエピソード、靖國神社の神饌など、見どころ多数。

※撮影:2024年9月


靖國神社関連

はじめに

79年目の8月15日-靖國神社

靖國神社

終戦から79年目の8月15日、終戦の日の靖國神社。
毎年恒例。
変わることなく、祈りを捧げる。


靖國神社・午前9時30分

潔い夏晴れ。

毎年恒例の「靖國神社白鳩の会」
更新を。


放鳩式 靖國神社・午前10時

8月15日 午前10時
「日本の声 英霊に感謝する集い」放鳩式
能楽堂前

講談師の宝井琴調氏が司会進行。毎年変わらず、で。

鳩を預かりました。

2024年4月1日より新任の、大塚宮司(第14代宮司)

御英霊に、声を出して御礼を。
ありがとうございました!

ありがとうございました!!

靖國神社拝殿・正午

いつも、この場所、ですね。

国家
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで

黙祷

陛下のお言葉

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/127#1416

毎年、この場所で、海行かばを

海行かば

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ

ありがとうございます。

毎年、冷たい麦茶をありがとうございます。


靖國神社参道 12時30分

照りつける日差し、拡がる日傘、途切れなく続く参拝

8月15日の空

まいどまいどですが、怪しげなる政治団体やコスプレイヤーが目障りで。

来年(令和七年)は 大東亜戦争終戦八十年


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

合掌。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

※撮影:2024年8月15日


令和六年・靖國神社みたままつり

靖國神社のみたま祭りは、毎年7月13-14-15-16日の4日間、祭行されます。
今年も、なんとか1日だけでしたが、足を運ぶことが出来ました。

御英霊とともに楽しむ光の祭典。東京で一番早い夏のお祭り。


「みたままつり」とは? 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 

※本節は、下記を参照


中庭参拝

みたままつりといえば、中庭参拝が定着しましたね。
年に一度だけの中庭参拝。

ありがとうございます。

※許可された場所からの撮影も可能


境内風景

御朱印

こすずまもりは、中庭参拝で授与


つのだ☆ひろ 奉納特別野外コンサート

毎年恒例。

御英霊に捧げる。

御英霊の奉納するコンサート

「海行かば」
海行かば水漬くかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ

「ありがとう」
ありがとう、祖先の皆様
ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん
ありがとう、おやじとおふくろ
あなたがたのおかげです
ありがとう
ありがとう
ありがとう


みたままつりの夜

御英霊に、感謝を。哀悼を。

そして

御英霊に、ありがとうを。

※撮影:2024年7月14日


関連

「日本の航空事始め・5」日本の航空機の父・二宮忠八と飛行神社(京都八幡)

「日本の航空事始め」としては、第5弾になります。
今回は、実質「その0」の位置づけ。本格的に飛び立つ前のお話です。

二宮忠八関連ゆかりで、2003年に訪問していた飛行神社を再訪し、写真と記事を追記して掲載で。
以前の記事は下記。


出生の八幡浜にも行きたいですけど、なかなか。。。


日本の航空事始め


飛行神社と二宮忠八

京都府八幡市、石清水八幡宮のお膝元に鎮座している航空関連の神社。

二宮忠八は、愛媛県八幡浜出身。
明治24年4月29日香川県丸亀の歩兵第12聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行器の飛行に成功させた。
「日本の航空機の父」と称された二宮忠八が大正4年(1915)に航空受難者の霊を慰めるべく創建したことにはじまる。
現在の社殿、拝殿、資料館は平成元年の飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。

https://www.hikoujinjya.com/

飛行神社
 飛行神社は、日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八(1866-1936年)によって1915年に創建されました。飛ぶことへ興味を持った忠八は、20代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の「カラス型飛行器」を制作し、1891年に飛行を成功させました。また、人が乗れる複葉機モデルの「玉虫型飛行器」を設計しました。その後、八幡の地で試作機の製作を始めましたが、完成前の1903年にライト兄弟が有人飛行を成功させたことを聞き、制作を断念しました。
 本殿中央には、空の神様である饒速日命を祀り、向かって左側は日本薬学会の偉人らを祀る薬光神社、向かってっ右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先覚者を祀る祖霊社で、世界は同じ空の下でつながっているという忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っています。
 併設の資料館には、忠八が撮影した写真や自筆の資料、本人が晩年に作り残した玉虫型飛行器(模型)をはじめ、発明に関連す品々が展示されています。

航空安全祈願
飛行神社 縁起略記
鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社
 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。
 現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。
 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社


飛行神社

御社殿はギリシャ風拝殿。
現在の拝殿は平成元年(1989)建立。

飛行神社 ご本社
第一殿 ご本殿 饒速日命
第二殿 祖霊社 航空殉難者並び航空先覚者
第三殿 薬光神社 薬祖神

第一殿
饒速日命
 饒速日命は、天津神のご指示を受け三十二柱の神様を従えて天磐船という岩で出来た飛行船で地上に天降られた神様で、古代から空の神様、行く先を守る神様として祀られてきました。
 当社には大正4年(1915)に創建者二宮忠八翁が飛行神社創建に当たって磐船神社(大阪府交野市)よりご分霊いただきました。
 交通安全、航空安全、旅行安全などの旅先、移動の安全に深く信仰されております。

第二殿
祖霊社
 航空事故で亡くなられた方、技術革新、指導に当たられ航空業界に多大な影響を与えられた方をお祀りしております。
 二宮忠八翁は空に関わられた全ての御霊と共に航空安全、航空事業の発展を祈る為、この飛行神社を創建しました。
 航空安全はもちろん、忠八翁等の発明者をお祀りしている為、開発発明祈願や、学業成就合格祈願などの信仰も深くございます。
 年次祭(4月29日)に毎年の御霊をこの社殿に合祀しております。

第三殿
薬光神社
 この社殿は薬業界の偉人とされる長井博士や、二宮忠八翁が共に働いた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などの薬学会の仲間を薬祖神としてお祀りしております。
 健康長寿、病気平癒、医学界・薬業界の発展を祈念するお社です。
 また、この地には白い蛇がおりました。白蛇はこの社殿創建と同時にいなくなった事から、白蛇はこの御社に籠られたと言われております。
 白蛇は白龍神と言われ金運、開運の神様としてお祀りされております。


二宮忠八と長岡外史

明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵(二宮忠八)が飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた。
参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。

その後、陸軍を離れた二宮忠八は、飛行機開発をすすめるが、1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。したのちに、二宮は飛行機の開発をやめてしまう。

日清戦争中の上申時点では二宮忠八の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。

その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り、二宮に面会して謝罪したという。
長岡外史が二宮忠八に宛てた手紙の写しは、飛行神社に設けられた飛行神社資料館(二宮忠八資料館)に展示がある。


飛行神社社号標(白川義則謹書)

白川義則は、二宮忠八と同じ愛媛県の出身であった。
1919年(大正8年)、陸軍中将(当時)であた白川義則と二宮忠八が懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。そして、ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰。
1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。

白川義則は、二宮忠八と縁があり、改築時に社号標を揮毫している。

飛行神社

飛行機発明勲功旌表地鎮座

昭和7年3月改築
 陸軍大将白川義則書


二宮忠八顕彰碑(白川元春謹書)

二宮忠八 1866‐1936
妻 寿世 1873-1929
わが航空界の先覚者二宮忠八翁をたたえる
航空幕僚長 白川元春

男爵陸軍大臣であった白川義則の三男。
陸軍航空士官学校を第51期で卒業し、飛行第90戦隊中隊長として、マレージャワを転戦。
陸軍大学校(第58期)を昭和19年5月に卒業後は、陸軍少佐に進級し南方軍総司令部参謀としてサイゴンで終戦を迎えた。
戦後は、航空自衛隊として、第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長を歴任。最終階級は、統合幕僚会議議長たる空将。

親子2代に渡る支援があった。


零式艦上戦闘機の機首部

零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月下旬、大阪湾漁場において大阪府岸和田の漁師が、底引網操業中の漁網に、機首部がかかり、岸和田漁港に引き揚げられたものです。


何かのプロペラ


ジェット機エンジン(F-104J)


飛行神社の写真あれこれ

ステンドグラスは、「飛行」に縁のある生き物たち。

手水盤は、烏型飛行器と玉虫型飛行器

奉納飛行機が浮かんでいます。

アンネのバラが咲いていました。

撮影:2024年3月


関連

静岡縣護國神社(駿府静岡の戦跡散策・その3)

静岡県静岡市。
東海地区の要所である駿府城を中心とした静岡市内の戦跡散策をしてみました。

本編は、「その3」です。静岡縣護國神社に赴きました。

その1はこちら。


靜岡縣護國神社(静岡縣護國神社・静岡県護国神社)

静岡縣護國神社は明治32年11月13日「共祭招魂社」として静岡市北番町に創立.。
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る国事にたおれた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属の英霊7万6千余柱を祀る。
昭和14年4月1日に靜岡縣護國神社と改称、昭和17年10月8日に現在地に移転。

https://shizuokagokoku.jp/shrine/

御英霊に感謝を。
ありがとうございます。

御朱印。

平和の道標

ありがとうございます

社号標は、昭和17年の建立。

陸軍大将 鈴木孝雄の謹書。


静岡県戦没戦災死者慰霊標(納骨堂)

明治維新から大東亜戦争に至る、静岡県戦没者7万6千余柱の慰霊顕彰の碑と納骨堂。

この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその遺芳を後世に傅えるために
県民の総意によって構想せられたものである
 こヽに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛國の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である
 昭和二十七年十一月三日
  財団法人 静霊奉賛會長  静岡縣知事 齊藤寿夫誌

終戦50周年平和祈念事業改修記念碑  
 平和への誓い
  平成7年4月  静岡県知事 石川嘉延

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/shizuoka_shizuoka_001/index.html


嶽南神社の鳥居と社号標
(静岡歩兵第三十四聨隊内神社)

駿府城址に駐屯してた陸軍第三十四聨隊の嶽南神社の鳥居と社号標。社号標は近年の調査で見つかった模様。
無事に静岡県護国神社に移築となったのは、よかったです。

https://www.chunichi.co.jp/article/530460

鳥居について
この鳥居は駿府城跡に駐屯していた陸軍第三十四聨隊(静岡三四聯隊)の隊舎横に鎮座した嶽南神社の鳥居だったものです。
聯隊将兵はこの神社で武運長久と戦勝を祈願して出征、特に数万の兵士達の素朴な願いと心のよりどころの神社でありました。
昭和20年に長く激しい戦いが終わり、駿府城址も一変して都市公園として新時代の姿へと移り変わることとなり、中町及び神社地元世話人有志によって、終戦三十周年を記念して鳥居がこの招魂場前に移築されました。

社号標(遺物)について
終戦後に役目を終えた嶽南神社は廃祀されて社殿は他に転用とも伝わり、右のとおり鳥居はこの場所に移築、「嶽南神社」の社号標は行方が詳らかではなく、駿府城址の調査で発見されて、このたび由来を同じくする鳥居の脇に移設いたしました、
戦時中のこと、嶽南神社や招魂場と戦没将兵のことを偲んでいただけますと幸いです。

嶽南神社

一八八二年発布の「軍人勅諭」の下賜五十年を記念し、一九三二年に建立された社号標

勅諭下賜五十年記念
 昭和7年4月24日建之

荒木貞夫 敬書

狛犬の台座には、昭和14年の記載あり

昭和14年10月


招魂場(招魂斎場)

招魂場について
静岡縣護國神社の御祭神である戦没者の御霊は、御羽車をこの招魂場に安置し、淨闇の中で招魂祭を斎行して本殿へ奉遷します。
昭和十七年当神社が移転遷座してより毎年、招魂祭を斎行してきたところです。

今日でも当時の死亡や時間が経ってからの病没などを「戦没」と認定される方があり、合祀祭が執り行われるが、社殿に一隅を仮招魂場として祭祀を行っており、招魂場の使用は無くなっている。

神池


拓魂碑

満州開拓の犠牲者慰霊顕彰

あゝ拓魂
 民族の悲劇に散った 満州開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
 五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
 かって日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕陽の満州に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命の痛恨の涙はつきない
 日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にするなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである。
 開拓精神は創造発展の真髄真理探究の道である 君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る
  昭和四十九年四月二十三日 
   静岡県知事  竹山 雄太郎

建立の由来
 満州開拓とは現在の中国東北地区に五族協和王道楽土道義世界創建の大理想のもとに生まれた満州国に国造りの基盤としてこの地に眠る広大なる未墾の沃野に大量の移民送出が国策として推進された大規模農業開発の事である。
 満州建国より太平洋戦争の終結に至るまでの十有三年間全国から実に三十二万余人本県から開拓団・満州開拓青少年義勇隊併せて六千五百二十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日祖国日本の無条件降伏、満州国の崩壊により悲運の幕を閉じたのである。
 農は善なりの素朴な哲学に徹し聖業の名のもとに土の戦士として不撓不屈の開拓精神をもって村創りに精進これに努めたのであるが、あたらその血と汗と涙の成果は歴史の断層に難民と化し非命に斃れた者約八万有余人 本県人も千六百七十余名に及び 実に世界植民史上空前のj悲惨たる終末を迎えたものである。
 時流れて二十八春秋日中国交正常化を契機に昭和四十八年九月合同慰霊祭並びに総決起大会を県の後援を得 駿府会館に於て挙行し大会決議によって拓魂碑を建立することになった。
 爾来相寄り回を重ね慎重に協議の結果護国神社静霊奉賛会の厚意と県当局県下市町村の協賛助成を賜り一般多数の協賛浄財と会員の拠出金により本県送出の全物故者を奉祀し永く拓魂を顕彰し 併せて慰霊供養の誠を捧げ不滅の開拓精神を後世に伝え 戦争なき真の平和への希いをこめて茲に拓魂碑も建立を見たのである。
  昭和五十年四月二十日
    拓魂碑建立委員会

大陸は呼ぶ
一、
俺も行くから君も行け
北満州の大平野
広漠千里果てしなき
自由の天地我を待つ
二、
望む彼方は高梁の
丘吹く風となるばかり
あゝ大陸の空を飛ぶ
捨て身の雲の翼かな
三、
生きて帰らぬ命ぞと
誓いてかたきこの胸に
高鳴り躍る大和魂
熱血今ぞ溢れける


愛の灯

日本赤十字社静岡県支部救護員戦没者の慰霊顕彰

昭和十二年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し国の内外において傷病者の救護に献身し博愛と奉仕の使命に殉ぜられた方々の遺徳を偲び その御霊のとこしえに安かれと祈りてこの碑を建立しました
平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつかかげた愛の灯の偉大さをしのび ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願しこれを後世に永く伝えようとするものであります。
 昭和五十年十月吉日建立
 日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
 日本赤十字社看護婦同方会静岡県支部長 小山シヅ
  殉職救護員芳名(25名の御芳名)

捧従軍看護婦戦没者霊  大野恵造
 朔北僻南砲煙間 
 看護傷兵自亦散 
 殉国婦是万輪花 
 気魄凛凛似白梅

詩意
 従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦がむなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる白梅のようであった。

愛の灯
 この詩は、従軍看護婦として南北戦線へ派遣され傷病将士の救護にあたり、人道的任務に尽し、不幸にして戦死或は戦病死していった人々をたたえた詩で、静岡県護国神社境内にある「愛の灯・殉職救護員慰霊碑」の除幕式並びに慰霊祭執行にあたり、詩吟朗詠錦城流流祖・山本錦城先生が大野恵造氏に作詞を依頼、流祖作曲の上、昭和五十年十一月二十三日碑前に於いて吟詠された。
 日本赤十字社看護師同方会静岡県支部長
  長嶋芳子
   平成15年11月2日


鎮魂碑(比島派遣)

鎮魂
比島派遣独立歩兵第百六十四大隊
元独立守備歩兵第三十二大隊

 顧みれば昭和十七年春のころ祖国をあとに征途につき比島セブ島攻略戦に参加以来ヒサヤ諸島、ミンダナオ島各地に転戦昭和二十年四月本軍のダバオ来攻より半年ダバオ平地北部山岳地に死闘を重ね部隊の大部を失いて遂に終戦詔勅を拝す。我等死すべき命を永らえて俘囚の身となり、國に殉ぜし戦友をマツキンレト麓野に残して故国に送還されしより三十有余年を経たり。
 時は流れせば移りて今や日本は先進国と称せられ平和国家として繁栄しり。今にして昔日を偲び将に隔世の感甚だし。身を安寧に置きて帰らざる戦友を憶い遺族の身の上におもいをいたすとき断腸の念切なり。往年我等嘗ての戦場たりもセブホホールミサミス等に旅してこの地に散華せし英霊の安らからんことを祈り更にダバオの地に草むす屍を故国に迎えんとしてインダガンウラ、ギャンカ、ベリサリオラサソン等ダバオ平地を始め遠くクモガン草原、ウピヤンバルマの山岳地にバコボ族アタ族等現地住民の協力を得て野山を分ち探し求るも、二十余年の歳月は当時と著しく趣を異にしてその収集は意の如くならず。
 悄然としてタモガン草原に立ち戦友の名を呼べど応えるものとてなく慟哭して踵を返さんとすればモントーの山波に雨雲の去来するあり。我等徒に歳を重ねて既に秋露梧桐葉落つる時。英霊に応えんとして力及ばず。
遺族に酬いんとして才足らず。ただ愛惜の情切々として胸に迫るのみ 茲にその壮烈を永く世に伝えんことを願い英霊の異境に彷徨して鬼哭啾啾することなくこの地に鎮まらんことを希いてこの碑を建つ。
  昭和五十七年三月十四日
   独立歩兵第百六十四大隊戦友一同

部隊の略歴


慰霊碑ノモンハン事件

ノモンハン事件
慰霊碑
元第二十三師団参謀陸軍大佐 鈴木善康書

鈴木善康は、静岡出身。陸軍大佐。士候33陸大専科5。
第23師団はノモンハン事件で壊滅的な損害を被った。

慰霊碑の由来
 この碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
 ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。
 ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。
 幾久しい悲願実りてこの聖地 
  今ここに立つノモンハンの碑
    昭和五十四年九月十六日建立
     ノモンハン事件従軍生存者有志一同
       献歌 中村双葉
       揮毫 渡邊墨仙


鎮(満州第五七四部隊)慰霊碑

グアムで玉砕した静岡出身の満州第五七四部隊

大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日 元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。
 昭和五十一年十月吉日
  慰霊碑建立世話人会


内匠部隊之碑

ミンダナオ島における戦没者千数百柱の慰霊顕彰

内匠部隊之碑

 昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。


副碑「由来」
 終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可をを得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す
  昭和五十一年三月二十一日
   コタバト静岡県人会  同遺族会


御手洗石

 この御手洗石は九州福岡県博多在の産で当神社が昭和17年10月現在地に御遷座のとき静岡市本通り1丁目の手塚六郎治氏より奉納されたものであります。
 当時は大東亜戦争苛烈下で運搬は容易でなかったが陸軍大臣の命によって汽車で輸送され約14平方米(畳9畳半)あり全国で最大の御手洗石であります。


工学士 市川紀元二銅像

日露戦役にて戦死した東大出身の工学士、学徒の亀鑑、市川工学士の慰霊顕彰の銅像。
市川紀元二の弟はスエズ運河設計に携わった青山士。
日露戦争で最初の学徒出身兵の戦死であった。

東京帝国大学工学部に学び電気工学を修め、京浜電鉄の技術部長を務めるが、明治37年日露戦争に第6連隊(名古屋)に所属、歩兵少尉として出征。
満州に出征し、明治37年8月31日首山堡の激戦に歩兵6連隊小隊長として先登し第一の戦功を立て軍司令官より感状を受け、全軍布告、上聞に達し特進して歩兵中尉となった。明治38年3月7日の奉天会戦で戦死。
東大総長山川健次郎は「その忠勇義烈、学徒の亀鑑となすべし」して、市川紀元二銅像を東大構内に建立。
大戦末期、東大職員の尽力により金属類供出から免れ、そして地下室に隠されていたという。戦後、出身地が中泉(磐田市)だったことに因り静岡県護国神社境内に移転された。

なお、日本陸軍で生存中に特別進級した人は、陸軍創設以来終戦まで、市川紀元二中尉だけだという。

工学士 市川紀元二銅像
設計意匠 塚本靖 
製作 新海竹次郎 
篆額 奥保鞏
明治41年11月11日 東京帝国大学構内竣工
昭和33年8月31日 静岡県護国神社境内移転

躍動感にあふれる銅像。


長島銀蔵翁之壽像

戦没者遺族の父

長島銀蔵先生は、若くして父業を継ぎ、勤勉努力精進は、今日広く世界各国に知られている塗料ラッカーを創製するに至ったのである。
尚先生は貴族院議員、次で参議院議員等に当選されて、政界に活躍された。
大東亜戦争は、国力を消耗し盡して終戦を告げ、混迷の世相の中に戸惑う戦没者遺族の悲境を目前に、強く胸を打たれ、これを黙視するに忍びず、幸いに中央政界にあった先生は一方に於て、県内遺族の基礎を固め、他方東奔西走して全国に同志を糾合し、遺族会の統合団結を図り、昭和22年11月遂に日本遺族厚生連盟を結成し、推されて理事長に就任されたのである。
時恰も終戦後日浅く、占領軍政下の厳しい国内情勢下にあって、物心共に言語に絶する苦難の継續であったが、先生の強固なる決意は之に屈せず、多額の私財を投じて、初心を貫徹されたのである。
この苦闘の事蹟は本県はもとより、我が国戦没遺族会史の上に特筆すべき成果であると確信するものである。
茲に於て長島銀蔵先生を遺族の父と仰ぎ永くその徳を称えんが為に、本県遺族会は、日本遺族会並びに全国各都道府県遺族会の御協賛のもとに、全会員の赤誠と、国土安穏世界平和の祈願を込めて、此の胸像を建立した。
 昭和48年9月28日
  財団法人静岡県遺族会
   長島銀蔵先生胸像建立委員会


慰霊碑(伊藤部隊・歩兵第118聯隊)

義烈日月と共にあり 昭和十九年五月十日 サイパン島方面へ出陣せられし歩兵第百十八聨隊 殉国将士三千有余柱の慰霊之碑を建て永久のご冥福を祈る
   昭和六十年九月二十二日
     歩兵第百十八聨隊  生存者有志建立

記念植樹趣意
 過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和一九年五月勇躍南方戦線に出陣した
 然るに戦局囘天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った 現在の平和豊な生活を感謝し その志と事実を永く憶えんがため桜の若樹を植え記念とする  春ごとに爛漫と咲きもって英魂を慰めよ
   昭和五十二年八月十四日
     遺族代表 伊藤 小夜
     伊藤部隊付陸士第五十八期士官候補生一同

百日紅(さるすべり)
終戦七十周年記念献木
元歩兵第118連隊伊藤部隊は昭和18年7月 第43師団下の第118連隊として静岡市に於いて3300名の兵士(静岡県出身者)により新に編成された。
昭和19年5月29日サイパン島守備のため横浜港を出港同年6月5日、米潜水艦の魚雷攻撃で3分の2が海没戦死、残る兵士は上陸するも3週間にわたる激戦の末、陸海軍守備隊約4万1千名は全員玉砕した。終戦70周年の節目の年に現地での御英霊の面影を偲びサイパン島に咲くフレイムツリー(南洋桜と言われる)に良く似た百日紅を植樹することにした。
 平成27年7月18日
  元歩兵第118聯隊伊藤部隊遺族会


西村直己先生顕彰像

終戦時の鈴木貫太郎総理秘書官

明治38年10月8日東京に生まる
天稟の資質に恵まれ東京帝国大学卒業後官界に入る
終戦時鈴木貫太郎総理秘書官
戦後吉田茂総理主席秘書官を勤め国存亡の激動期に国政に盡瘁す
昭和24年1月静岡県第1区より衆議院議員に初当選
爾来連続10期28年に亘り国地方の発展に盡す
この間農林防衛の各大臣自由民主党政調会長等を歴任
特に戦歿者遺家族の援護等その功は枚挙に遑なし
清廉高邁な人格を賛仰し郷党追慕の至情を此処に表す
 昭和58年7月28日
  福田赳夫 撰
  荻野準平 書


殉國碑(泉第五三一六部隊之碑)

レイテで玉砕。
昭和三十三年九月二十三日建立。

泉第五三一六部隊ハ関東軍ニ属セル独立混成旅団トシテ支那事変ノ擴大トトモニ熱河ヨリ中国ニ進出 長城線ヲ突破シ 昭和十二年十月張家口ニ於テ第二十六師団独立歩兵第十三聨隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年十一月二十六日軍旗ヲ奉ス
爾後 綏遠周辺ノ警備ニ任ジ 五原 中支 中原 浙贛 河南等幾多ノ作戦ニ其ノ赫赫タル戦績ハ威勲ヲ四圍ニ輝カセリ
 時恰モ 大東亜戦酣ナル昭和十九年七月 比島方面ニ急派セラレ昭和十九年八月十九日未明バシー海峡ニ於テ魚雷攻撃ヲ受ケ 無念ニモ聨隊本部 第二大隊ハ軍旗トトモニ海没 第一 第三大隊ヲ主力トシテ最激戦地 レイテ ノ決戦ニ参加 戦力ヲ物量ニ頼ル優勢ナル敵ト死闘半歳有余 此ノ間 忠烈ニシテ勇猛果敢ナル奮闘ハ全軍ノ亀鑑トシテ上聞ニ達セルモ 遂ニ全員玉砕ス 嗚呼
 今茲ニ殉國ノ至情ヲ讃エ 大陸ノ山野ニ 或ハ南海ノ孤島ニ散華セル我ガ勇士ノ霊ヲ慰ムルトトモニ栄誉輝ク部隊ノ偉績ヲ永遠ニ伝ヘンガ為 建立
 昭和三十三年九月 
  支那派遣軍總司令官 畑 俊六 篆額
  泉第五三一六部隊初代部隊長 久野村桃代 謹書

 去る太平洋戦争において 主として本県出身者により編成された泉第五三一六部隊(独立歩兵第十三聨隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠)に在って幾多の作戦警備に任じ 昭和十九年七月フィリッピンに転戦した 途中 部隊の一部バシ―海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海没 残る主力はレイテ島の決戦に臨み死闘すること半歳 矢附盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
 遠い異郷の地に飢えと疲労に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和三十三年二月泉五三一六会を結成し会員の一致協力により同年九月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている 

「殉国碑」の扁額は、支那派遣軍總司令官 畑 俊六 書


遺品館

遺品館は、令和元年(2019)に新設。
ただ、参拝が年末ということもあり、全体的にバタバタしていたので、未見学。再訪します。


移築の元将校集会所の跡地

歩兵第三十四聯隊跡地から移築された将校集会所だった建物が、神社境内にありましたが、2021年に解体済み。。。


天皇陛下 皇后陛下 御参拝記念碑

昭和32年。昭和天皇の御親拝があった。

※撮影:2023年12月

※場所

https://maps.app.goo.gl/RdH9DADJwihG1p1Z8

「その4」へ


護國神社関連

はじめに

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和6年)

令和6年(2024年)。終戦から79年を迎える年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。
毎年恒例。
御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。
靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。

ありがとうございます。

以下、写真にて。


2023年4月5日の早朝

2023年の東京の開花宣言は、3月29日であった。
訪れたのは、4月5日の早朝。雨模様だったが、ちょうど満開のタイミング。

散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう


軍歌「同期の桜」
昭和14年


2023年4月5日の夜

夜の参拝も。

※撮影:2024年4月5日


関連

陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


「日本の航空事始め・4」徳川好敏が初飛行祈願をした「所澤神明社」(鳥船神社/所沢航空神社)

「日本の航空事始め」としては、第4弾になります。
このシリーズは、実は自分でも良くまとめてあるかと思っていますが、今回は「その1」の追記みたいなものです。

2021年6月に本殿の東側から西側に遷座し、新たな装いになっておりましたので、再訪した次第。


鳥船神社(所澤航空神社)

初飛行の快挙から百年を迎えたのを記念して、2011(平成23)年10月に創建。

2021年6月に覆社内を設けた新境内地に遷座した「鳥船神社」。
所沢神明社内の摂末社がすべて境内の西側に集まったかたちとなっている。

https://www.shinmeisha.or.jp/info/%e9%b3%a5%e8%88%b9%e7%a5%9e%e7%a4%be%e5%be%a1%e9%81%b7%e5%ba%a7%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/

御由緒

鳥船神社(別称:所澤航空神社)
御祭神 鳥之石楠船神(天鳥船神)
例祭 4月5日(日本初動力飛行の日)
 御祭神の鳥之石楠船神は、伊邪那岐神・伊邪那美神の御子神で、別名を天鳥船神と申し上げます。高天原と豊葦原中国(日本)との間を鳥のように通う丈夫な船に坐し、大国主神の国譲りに際して建御雷神に副えて遣わされ、また、天孫降臨に先立つ邇芸早日命の天降りの際にも御乗船になったと伝えられています。このような御事蹟により、近代以降は航空の神とすても崇敬されています。
当社は、この所沢の地に我が国初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉による初飛行という快挙が成し遂げられた明治44年から100年を迎えたのを記念して、平成23年10月に創建されました。
 我が国航空発祥のちに鎮り坐す、航空安全・交通安全の神社、八百萬の神々が鳥船に乗って降臨される神社、人々の願いを鳥船に乗せて高天原にお伝え下さる神社です。
(願を込めた「折鶴」や「紙飛行機」をお供えください。)

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

鳥船神社
別称 所澤航空神社
奉納
元所沢飛行学校教官
 陸軍航空中佐 衣川悦司
  長男 倉片幹人

社号標のうしろに隠されている標柱。。。

陸軍用地

文字面は社号標と背中合わせ。鳥船神社社殿に向いている。
これは、意識しないと全く気が付かない。

サルムソン2(仏名)で使用していたプロペラ(②で実用)
日本名
①陸軍サ式2型偵察機(大正8年)
②陸軍乙式1型偵察機(大正10年)

磐飛行機

願を込めて奉納された折鶴や紙飛行機

鳥船神社と招魂社と、摂末社が並んで鎮座。近年とりおこなわれた境内再整備、ですね。


招魂社

いわゆる指定外護國神社。所沢出身の戦争犠牲者を祀っている。

旧社地から遷座。
社号標と鳥居と基礎がまだ残っている。


所澤駐蹕碑(大正天皇行幸記念碑)

大正元年(1912年)の陸軍特別大演習。
所沢・川越付近でおこなわれた陸軍の特別大演習では、北軍と南軍に分かれ、あわせて約10万人という大規模で実施され、 大正天皇が行幸され駐蹕された。
所沢飛行場は前年の明治44年(1911年)4月に開設し、同年4月5日に、徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」が所沢飛行場で初飛行している。

所澤駐蹕碑
麝香間祇候 正二位勲一等 公爵 徳川家達 篆額
近時飛行機盛行于各國我邦亦設習技場於武州所澤會
今上天皇ト大正元年十一月統監陸軍大演習于近郊置 行在所於川越各地巡監之次以十七日 臨幸所澤習技場此地當南北軍對抗之衝飛行機翔干両軍之上能偵察之頗稱 二日十九日再 臨幸場内大賜酺於文部官僚又州内士民盖
天皇践祚後盛典也郷民以為栄欲建碑 駐蹕之處以表之来嘱銘鳴呼
天皇以武備之不可一日忽之忍 諒闇之憂躬統監之労不負
先皇在天之霊欣慰可知也海内臣民聞之皆欽仰敬崇況新拝観者乎謹繋銘日治兵之野飛行場 大纛臨矣 皇武維揚萬姓欽仰執不期待紹述先緒雄飛四海
 大正二年十一月
  宮内儒員 従三位勲二等 文学博士 三島毅 拝撰
  錦鶏間祗候 従二位勲一等 男爵 野邨素介 謹書


所澤神明社

御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂大神(うかのみたまのみこと)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

日本武尊が東国平定の折にこの付近で休憩をした際に、天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなむ。
明治44年(1911年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願として崇敬をあつめている。

青島(山東省)・西伯利亜(シベリア)の出征記念の外垣

御朱印など。

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

鳥船神社の御朱印は3ヶ月毎にデザインがかわっている。

所澤神明社サイトより

御朱印帳は、アンリ・ファルマン機をいデザイン

所澤神明社サイトより

こちらは明治天皇の行在所。駅までの道で目に止まったので。

明治天皇行在所跡

明治16年4月の近衛諸隊春季小演習での行在所が設けられた斎藤家。

※撮影:2024年2月


所沢関連

「弾除け観音」として崇敬された「おたすけ観音・報恩寺」(綾瀬市)

神奈川県綾瀬市。海軍厚木飛行場のほど近く。
戦時中に「弾除け観音」として崇敬された観音様の寺院があった。

「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。


「おたすけ観音」縁起

以下、公式サイトより。

当山二十七世 太嶽洞源大和尚(たいがくとうげん)は、現役入隊で、台湾の正蕃征伐(せいばんせいばつ)に参加し、山奥の作戦中、早朝、一人で滝の前で座禅中、滝の中に観音様を拝することができ「観音様がついていてくださるから、敵の弾に当たる事がない。」とかんじられた。
激戦で戦友達が多く戦死する中で、無事に帰還出来たので、この有難い観音様を一人でも多くの方に拝んで頂こうと、観音石像を刻み境内に安置し、観音像を描いて、沢山の人に差し上げたので、「おたすけ観音」として、第二次大戦中は、県内を始め東京等から参拝の人達が続いたといわれています。

http://www.ho-onji.or.jp/ho-onji.html

「江田島」と陰刻された観音様。

境内には、多くの観音様がおられる。
これらのいずれか一体が「弾除け観音」「お助け観音」というわけではなく、境内の観音様を総じて「弾除け観音」「お助け観音」と捉えているようだ。

立像もあれば坐像もある。さまざまな観音様がいらっしゃる。

昭和17年(1942年)に、開設した熱き海軍飛行場「厚木海軍航空隊(第二〇三海軍航空隊)」の隊員もこぞって祈願参拝し、洞源和尚の観音様を描いた絵を身につけていると、弾に当たらないと崇敬され、「弾除け観音の御札」を求めた、という。

平和観音と陰刻された観音様。

皇紀二千六百年の建立。1940年(昭和15年)だ。
「平和」の文字が凹んでいる。
皇紀2600年で「平和観音」とは、時局柄、刻めないので、これは戦後に削って「平和」と刻んだのだろう。
皇紀2600年のときは、どのような名称の観音さまであったか。無粋ではあるが、「興亜観音」「戦勝観音」といった観音様だったのかもしれない。
いずれにせよ戦争中の「弾除け観音」は、戦後は「おたすけ観音」として、そして「平和観音」として、現世を見守っていてくれている。

もう一つ、古い観音様があった。
こちらは像ではなく、刻まれた観音様。

よくみると「弾除観音」と刻まれている。

国威宣揚 天壌無窮

昭和12年(1937)に建立された観音様

観音立像

本堂前の観音様

鐘堂の観音様

あっちこっちに観音様

観音様に囲まれた、趣深い寺院。


曹洞宗陽廣山報恩寺

報恩寺は、慶長7年(1602)8月28日曹洞宗の寺院として開山。

公式サイト

http://www.ho-onji.or.jp/index.html

「おたすけ観音」の名称はあっちこっちにある。
今は、もう「弾除け」の時代ではない。

厚木基地から飛び立ったのかな。
空自のC-130輸送機が、報恩寺の上空を通過。

お猫様。こんにちは。

なんか、防空壕っぽい。

とてもきれいに整った寺院さんでした。

おたすけ観音報恩寺

場所:

https://maps.app.goo.gl/GSF8gVtMD16wJXAY7

撮影:2024年2月


「弾除け霊験」で信仰された「サムハラ神社」(大阪市西区)

「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。

2016年9月参拝。いまから8年前。この当時の私は、全国の有名神社を散策していたころでした。逆に言うと、まだ戦跡には目覚めていないころでしたので、戦跡としての意識は全く無く、神社フリークとして、足を運んだ次第でした。
ふと「そういえば、大阪に弾除け信仰の神社があったな、昔の写真あるかな」と思い起こして、本記事で再掲した次第です。


サムハラ神社

この読めない4文字の漢字は・・・漢字ではなく「神字」とされている。サムハラとは、「不思議の4文字」であり、「身の安全を守る文字」とされている。

祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。
いわゆる造化三神。
「サムハラ」はこれら三神の総称

本宮が大阪にあり、そして奥の院は、美作加茂(岡山県津山市)にある。

田中富三郎は、サムハラ大神をあつく信仰し、日清・日露戦争などで戦地に行った時にはサムハラの護符を身に着けていたことから、数々の危難をまぬがれ無事生還。

1935年(昭和10年)に、田中富三郎は、出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて、旧祠を再興しサムハラ聖殿が竣工する。そして、サムハラの霊徳を世の人々に分かつため、サムハラ信光会という団体も立ち上げ、サムハラ文字の付された様々な品物を販売し、サムハラの流布がはじまる。

しかし昭和11年に、岡山県特高課(特高警察)より、迷信利用と宗教法人違反(無許可神社での商品広告など)で自主撤去を求められ、いったん神社は撤去されている。

その後、田中富三郎は出征する兵士に、サムハラのお守りを持たせ、そのおかげで救われたりケガがなかったという人が大勢いたということから、サムハラは弾除け弾避けに霊験あらたかということで戦前・戦中に爆発的期に流行した宗教となる。

以下は、公式な由緒として。

美作国東北条郡中原村(現・津山市加茂町中原)日詰山山中の城郭址に古祠在り、 『サムハラ』を伝えると謂れあるも年紀不詳、恐らくは中世の日詰城の域内に斯様の守護祠の在ったものかと推測される。 歳月の中に古祠荒廃し、付近の住人の細々たる尊崇のみのうちに継がれる。同地出生の当神社初代主管者・田中富三郎翁の、往時により災難除・身体健固の加護に与りて日清・日露の戦役に助かり、常陸丸、鉄嶺丸に難を逃れ、しばしばの危難を避けて無事なるは奉持した
「サムハラ」の護符の御陰と畏んで、昭和9年に奉賛会たる信光会を催し、昭和10年に荒廃の古祠を再建する。第2次大戦に至り、大阪師団司令部を通じて出征兵士に御守を贈呈、武運長久を願う。
戦後昭和21年改めて中原・日詰山山中に社殿再建。 次で昭和25年、当時の大阪市要人達の賛同を得て大阪中之島豊国神社(当時)の摂社として岡山より分霊、中原の社殿は元宮・奥宮と称する。 昭和36年、大阪市役所増築により豊国神社大阪城内に奉遷、当神社も西区立売堀に移築遷座する。平成17年、台風の為毀たれた岡山奥宮を、加茂金刀比羅神社、地元各人の協力を得て加茂町中原900-3の現在地に遷座する。

沿革について(https://www.samuhara.or.jp/about.php

公式サイト

https://www.samuhara.or.jp/

神社としての第一印象は「よくわからない神社」
なんというか・・・よくわからない神社という感覚は、「神社神道」的な理屈の目線。
理屈とか由緒とか、歴史とか、そういうことではなく、人々は生きるか死ぬかの戦時下に縋った、生きて帰ってくるための、よくわかならい霊験からくる信仰は、人々の生活に直結し、そこには理屈ではない信仰の重みを感じさせる。

田中富三郎胸像

創建者の田中富三郎は、1868年(明治元年)美作加茂生まれ。サムハラ大神をあつく信仰し日清・日露戦争で数々の危難をまぬがれた。サムハラ大神の霊徳を人々に分かつため私財でサムハラ神を建立。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100歳。

御朱印。
2016年(平成28年)の参拝。

御神環守
「指輪の御守・御神環(指輪形肌守)」

神紋

崇敬者の声。
無傷無病、延命長寿の神としての「サムハラ様」の霊験。

サムハラさんは、従来型の神社神道とは異なる新しい形の神社として、色んな意味でよくわからないながらも面白いなと感じた神社でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/a543rbEh2WGyLXUK6


岐阜護國神社

岐阜県岐阜市の稲葉山の麓にある岐阜護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岐阜護國神社

岐阜城の築かれた金華山の北麓に鎮座する。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの、岐阜・中濃・東濃各地区出身の英霊37,800余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

岐阜県内には、1870年(明治3年)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)が創建。
1909年(明治42年)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建。
岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。日露戦争後の1908年(明治41年)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現・岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、1917年(大正6年)に稲葉郡那加村(現・各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の英霊を祀る招魂社建立の機運が高まった。
1918年(大正7年)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。
1937年(昭和12年)の支那事変勃発に伴い、1939年(昭和14年)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。
翌1940年(昭和15年)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定され創建した。

結果、岐阜護國神社は、創建は後発であったが、岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となった。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

御英霊に感謝を。

岐阜護國神社


御朱印(岐阜護國神社)

御朱印をいただきました。


霊璽簿奉安殿(岐阜護國神社)

英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿


招魂祭場(岐阜護國神社)

御英霊の御霊をお招きする場。

招魂斎場
新たに御英霊を御本殿にお祀りする際に、御霊をお招きする招魂祭を行う場所です。
中央にある、美しく苔むした磐座に御英霊の御霊をお招きします。
御霊は依代に遷され、御本殿にお祀りされます。


足乳根宮(岐阜護國神社)

足乳根宮(たらちね宮)
女性の悩み・出会い
英霊に支えられた女性(母・妻・恋人など)を女神としてお祀りしとります。
女性の参拝にはある時は母、ある時は姉、またある時は先輩、友人とお姿を変え、女性の悩みをお聞きいただき導いて下さる神様として信仰されています。


愚多羅愚多羅のかわらけ割り
(岐阜護國神社)

民俗風習が同居している護國神社は珍しい。


河童堂(岐阜護國神社)

土着の水神様の使いとしてカッパを祀る。

河童堂
 水難守護・水練上達・無病息災
当社が創建される以前、この地は長良川の河川敷で沼地が広がり、古くから河童が棲むといわれていました。
水の神様の使いである河童をお祀りし土地の鎮めをしています。
毎年7月に子供の水難防止・水練上達・無病息災を祈念する河童祭が行われ、河童の仮装をした子供達が参列します。


御神田(岐阜護國神社)

中央に河童がいますね。


大八州(岐阜護國神社)

我が国の雅称。大八洲国。
岐阜護國神社の境内の庭は、大八洲を見立てた庭造りとなっている。


鵜飼桜(岐阜護國神社)

岐阜市内きっての早咲き桜


鎮霊社(岐阜護國神社)

戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社
また、サイパンテニアン両島の遺骨が分骨祭祀されている。

 この御社には先の大戦の戦没将兵の他にも空襲や海外移住民などの多くの犠牲者が祀られています 人は誰しもが その所を得て祀られねばなりません 友敵恩仇を問わず 不祀怨念もいまは解脱供養し万霊を浄斎して大平を祈ります 正殿の御英霊も靖国なす神と転生され安心されますよう鎮魂の御社です
 霊社は伊勢の神宮古殿賜材・霊像に大秡詞と般若心経・床下には戦跡地よりの収骨・遺品を納めた家郷の墳墓です。
   昭和53年終戦33年忌建立


平和之碑(岐阜護國神社)

 岐阜県フィリピン慰霊碑建立奉賛会により、昭和54年5月7日、比島ルソン島リサール州モンタルバン町に建立除幕された。
 「岐阜県出身戦没者慰霊碑」「主碑」を周辺環境の変化、遺族、戦友の高齢化等による慰霊巡拝の激減により、将来の慰霊碑の管理等を考慮し、慰霊碑「主碑」を撤去し、ご英霊を郷土岐阜県へお帰り願うこととし、平成16年4月、ご英霊お迎えの慰霊巡拝を行い、4月20日現地で還霊祭を斎行し、碑の撤去を行ったものである。
 この「平和之碑」は、撤去された「主碑」の銘板であり、岐阜県へ持ち返り、平成16年7月18日還幸祭を行い、ここに安置するものである。
 なお、レイテ島に建立してある「副碑」は、現地オルモック市により日比親善の碑として永久管理されます。


防人群像(岐阜護國神社)

 防人とは御英霊のことで、ここではサイパンのバンザイクリフに見立て、御英霊が遠く日本の未来を信じ、玉砕する様子を表している。(愛知文明作)
  「郷国思慕」

 昭和の戦いは万葉のむかしから、うたい継がれた海ゆかばで兵士は出征し、大君の辺にこそ死なめの歌さながらに散華されました。
 防人はその兵士の古称です。
  昭和五十九年五月十三日 寄進
   発起 サイパン、テニアン遺族会


庭師寄進碑(岐阜護國神社)

終戦二十三年忌 庭師寄進碑

戦友乃 みたま弔う 時得しと 
 庭のたくみも わざをつくしぬ

終戦二十三年忌盛夏建立 
庭師らが記念の寄進なり


神馬像(岐阜護國神社)


陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭之碑
(岐阜護國神社)

留守第3師団長 陸軍中将 曽田孝一郎
曽田孝一郎は陸士5期、陸大16期。満洲軍参謀、台湾総督府陸軍部参謀長、台湾軍初代参謀長、鎮海湾要塞司令官などを歴任。大正15年予備役。昭和3年消臭され、留守第3師団長(名古屋・本体は山東出兵)に着任している。


境内風景(岐阜護國神社)

かつての扁額かな。

本神社は長良川河畔に位置するため、浸水を防ぐために境内を囲むように防水壁が設けられいる。
そして、洪水時に使用される陸閘もところどころに設けられている

金華山の山頂に岐阜城が見える。
岐阜護國神社から見ると、かなり高い。


岐阜城

標高329mの金華山(稲葉山)。
山頂には、復興模擬天守がある。昭和31年落成。


引き続き、岐阜護國神社の周辺を散策

明治大帝聖像

明治天皇ご崩御100年に岐阜公園千畳敷に建立されたものを移設。
平成24年3月。

明治大帝
明治天皇は御名を睦仁、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として嘉永五年九月二十二日(陽暦十一月三日)京都御所朔平門外の權大納言中山忠能邸内後産所に於て誕生せられた。 御生母は忠能の女、從一位勳一等中山慶子である。 萬延元年七月十日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで九月二十八日親王宣下を受けられ、慶應二年十二月御父天皇が崩御されるや、翌三年正月九日踐祚せられた。 時に御年十六である。 翌四年八月二十七日即位の禮を/擧げられ、同年九月八日明治と改元あり、御在位四十六年に亘られたが、明治四十五年七月三十日御年六十一を以て崩御せられた。 翌八月二十五日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、九月十五日御遺旨によつて、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉つた。 御陵名は伏見桃山陵と申上げる。 「御資性英武嚴明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉つた語である。
 御製  述懐
 いにしへのふみ見るたびに思ふかな
  おのがをさむる國はいかにと

照古鑑今 源深流長
今日、我が日本の輝かしい繁栄の、もといを築かれた明治天皇の御遺徳を永く顕彰し、国民等しく、これを景慕するため、明治100年・昭和43年を追憶して御料林・国有林・金華山のふもとに、御遺旨によって斂葬し奉つた伏見桃山陵に対峙して、崩御の御命日に聖像を建立する。

明治大帝崩御百年のこの年に明治大帝のご偉功を後世に末永く継承することを旨として昭和四十七年に岐阜公園千畳敷に建立された明治大帝聖像を「明治大帝崩御百年聖像移設委員会」の提言により多くの方々に親しんで頂けることを願いこの地に移設する
 明治大帝崩御百年聖像移設委員会
  平成二十四年三月

場所

https://maps.app.goo.gl/8eK9zLnQJh9DLBn96


満蒙開拓青年義勇軍 伊藤中隊慰霊碑

拓魂
満蒙の 野に鍬とりし開拓の 勇士の夢を とわに忘れじ

昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第三次岐阜中隊を編成 中隊長伊藤喜馬太氏外二百八十九名 茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所 同年四月二十七日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所 夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下三十余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和二十年三月 三ヶ年の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
 その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植 開拓精神に則り日夜健闘したが同年八月十日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員四十九名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
 幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する
  昭和四十一年三月    
    伊藤中隊帰還者一同

追碑文
 雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
 時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
 ここに生ある者として、残れる同志拓友は、五十周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。
   平成四年四月吉日
    五十鈴拓友会生存者同志


国旗掲揚台

宣揚皇道
 陸軍大将松井石根書

松井石根大将の揮毫


大野伴睦 句碑

草に埋もれて、よくわかりませんでした。

大野伴睦先生略歴
 先生は明治23年岐阜県山県郡谷合村に生まれ 生来豪放闊達 大志をいだいて上京し 後の首相原敬 鳩山一郎両先生の知遇を得 政界に進出することとなり 後に衆議院議長 国務大臣 自由民主党副総裁などを歴任し 政界の重鎮となった
 永年の政治活動においては常に指導的役割を演じ その間 新時代の要請たる保守党の大同団結を実現されたことは日本政治史上特筆すべきである
 青年時代から侠気と情熱にあふれ 義理人情に厚く 他面ユーモアを解し 囲碁 俳句をよくし 虎に関する収集などいずれも政界の第一人者として知られている
特に第二次大戦の犠牲者たる軍人遺族の援護については諸種の悪条件を克服し その実績をあげるために全力を傾注されている
 下記両団体は先生の多年のご偉業に報いるため 句碑をたて 永く記念することとした
 昭和38年3月 岐阜県知事 松野幸泰 撰文
 財団法人日本遺族会 岐阜県遺族連合会建之


平和祈念の碑

傷痍軍人の記念碑

 本年は 先の大戦の終結より50年になります
 苛烈を極めた戦争を身をもって体験し 二度と戦争を繰り返さないよう 傷痍軍人は心より願っております
 戦後の荒廃と苦難の道から立上がり 祖国日本の復興に心血を注ぎ筆舌につくせぬ苦労の上 今日の繁栄を迎えたことを誇りとし 平和の大切さを後世にわたり訴えるため ここに日本国及び世界の恒久平和と繁栄を希求する証として 平和祈念の碑を建立します
   平成七年十一月
     財団法人 岐阜県傷痍軍人会
     平和祈念の碑建設委員会

碑名揮毫は、日傷援護議員協議会会長・衆議院議員・武藤嘉文による。


岐阜県戦歿者慰霊塔

慰霊塔

この慰霊塔は日清戦役以後太平洋戦争に至る間に日本の繁栄と平和を念じ戦陣に散華されあるいは戦禍にたおれた人々の霊を慰め後世永くその遺芳を伝えるため岐阜県民の総意によって建設されたものである
   昭和三十一年十一月
    岐阜県戦没者慰霊塔建設委員会

(世界の平和を願って)
 この慰霊塔は昭和三十一年十一月に建設されたものであるが長い年月の経過とともに老朽化したためここに世界の平和を願い全面改修したものである。
   平成五年六月
    岐阜県戦没者慰霊塔改修委員会


御製

川の辺に あまたの人のつどひ来て 
 振るともしびを遠く望みぬ


平和一神

1941年に創始された「いわゆる新宗教」の修養団捧誠会による記念碑。


青年日本の歌

いわゆる「昭和維新の歌」。
作者は海軍中尉で、後の五・一五事件に関与した三上卓。


岐阜公園(日中友好庭園)

1989年(平成元年)に、岐阜市と中華人民共和国 杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られた庭園。

なぜか、拓友関連の慰霊碑が、この不可思議な公園にある。できることなら、岐阜護國神社に移設してほしいが。。。


慰霊塔・満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊

満蒙開拓青少年義勇隊慰霊碑。

 昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む
 19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる
 20年8月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る 
茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う
  昭和36年9月吉日 
   岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立

栗田会のあゆみ
 風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった 
 満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである 
 年齢は八割強が14才の少年であった

    記 
昭和16年3月8日  
 満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した 
 第3大隊第13中隊に編制された 
 中隊長は栗田英太郎
昭和16年6月    
 敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
昭和16年7月   
 一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
昭和16年9月   
 軍勤解除で鉄驪に移行となった 
 北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
昭和17年      
 大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる 
 約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
昭和19年春    
 北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した 
 草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた 
 村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた 
 十余名が技能修得の為派遣された
昭和20年5月   
 昭和18年頃より年長者から現地現役入営した  
 20年5月には一度に70余名が入営した 
 団に残った拓友は43名となった
昭和20年8月   
 ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た 
 日本國敗れて終戦となる 
 その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった 
 最後の入営者が即時帰団で43名となった
昭和20年9月   
 団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した 
 四国村も襲撃を受け死亡者28名 
 我々同志からも負傷者が2名出た
昭和20年10月  
 四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった
 哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た
 この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
昭和20年10月~翌年8月 
 この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった 
 この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった 
 病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
昭和21年8月  
 哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
昭和21年10月 
 夢破れて避難民の姿で帰国した 
 帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した 
 これが岐阜市のアパレル産業の源となった 
 事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
昭和21年~24年
 一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
昭和27年     
 戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
昭和36年     
 拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した 
 爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
昭和48年9月   
 栗田会として発足した
平成元年      
 四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
平成3年      
 栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した 
 日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
平成7年     
 終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる
     平成七年九月吉日      栗田会生存者一同

 昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
 この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す  
 拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
 兵戈無用  世界はひとつ
  平成七年九月吉日
   栗田会 拓友生存者一同


拓友之碑・満蒙開拓義勇隊横山中隊

同じく、満蒙開拓青少年義勇隊の慰霊碑。

拓友之碑

 維時大東亜戦争熾烈の半、昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は、日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し勇躍渡満以来、現地の厳寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す。 然るに図らんや戦争の終結に遭遇し、その夢と事業は遂に水泡に帰し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
 而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も、吾々愛国の至誠は不変にして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い、併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す
   昭和四十年八月十五日
    旧横山中隊 朋友会一同
      教士 馬渕 勲 文


中国人殉難者之碑

中国人殉難者之碑
 平野三郎書

碑文
 太平洋戦争の末期 日本国内において軍関係の建設工事に従事された中国人が約四万人あり このうち六八三〇人に及ぶ多数のひとびとが殉難されました
 岐阜県においても一六八九人が高山市 瑞浪市 各務原市および加茂郡川辺町で従事せられ七三人が殉難されております
 遠い異郷の地で亡くなられたこれらのひとびとの冥福を祈り ここにその事蹟を永く後世に伝えるとともに 県民をあげて友好親善の誓いを新たにし 日中両国恒久の平和を祈念してこの碑を建設したものであります
 昭和四十七年六月
  岐阜県中国人殉難者慰霊事業実行委員会会長
   岐阜県知事 平野三郎


岐阜杭州友好盟約記念碑


中日両国人民世世代代友好下去

昭和37(1962)年9月、杭州・王子達市長と岐阜・松尾吾策市長との間で碑文が交換されたことを記念して建立されたもの。
日本国と中華人民共和国の間で「日中国交正常化交渉」が行われた昭和47(1972)年より10年前にあたる。

杭州っぽいらしい。

西湖を模して作られた池。

※撮影:2023年9月


護國神社関連

はじめに

靖國神社の雪景色(令和6年)

令和6年(2024年)2月6日撮影。
前日に降り続いた雪。都内の雪景色をせっかくなので、靖國神社で愛でてきました。

まずは、参拝。

御英霊に感謝を。

午前7時前。すでに参道は雪が除去されており、不自由なく参拝ができる状態に鳴っておりました。

雪かき、ありがとうございます。

海防艦

到着殿

招魂斎庭

小さな雪だるま。

神池

憲兵碑

梅園

神職さん

足もと危険!凍結注意

屋根雪落下 頭上注意!

神門

手水舎

第二鳥居

大村さん

雪だるま

※撮影:2024年2月6日早朝


岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

https://morioka8man.jp/gokoku/

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


関連

宮城縣護國神社(仙台の戦跡散策その1)

宮城県仙台市。仙台を代表する観光地でもある青葉城址(仙台城址)に宮城縣護國神社が鎮座している。そのため、青葉城址の観光客も自然の流れで参拝するために、非常に賑わっている護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

本編は、仙台の戦跡散策の「その1」です。


宮城縣護國神社

青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建。
明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。

国際センター駅から歩いていったので、途中の見どころを押さえつつ。
仙台城址の石垣。

宮城縣護國神社

社号標は、鈴木孝雄謹書。
鈴木孝雄は陸軍大将。終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎の弟。

由緒
 明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で尊い生命を御国に捧げられた 郷土出身者の み霊を祀る。
 明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸阯に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在 御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
 (神社本庁包括別表神社)

御本殿
 御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている 伊勢神宮の 外宮「風宮」の旧御正殿で、昭和28年の第59回神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社の御復興にあたり、神宮の特別の思召しを以って昭和30年東北に初めてさずけられた極めて尊い御殿である。
建築様式は、唯一神明造(「掘立式で棟の左右を棟持柱で支える」で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根のみ建物を永く保存するために萱葺を銅板葺に改めてある。

宮城縣護國神社 由緒

https://gokokujinja.org/yuisho/yuisho.html

御英霊に感謝を。哀悼を。

朱塗りの護國神社。

参拝

御朱印を頂戴しました


英霊顕彰館(宮城縣護國神社境内)

平成16年、宮城縣護國神社創立百周年を迎え、この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館した。

英霊顕彰館 サイト

https://gokokujinja.org/eirei/eirei.html

概要
 護国神社は、平成16年、創立百周年を迎えました。
 この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館いたしました。
 「明治維新・戊辰戦争→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦→満州事変→支那事変→大東亜戦争→終戦・戦後→アジアの独立」と戦史を追いながら、それぞれの戦役・事変で散華された我が郷土の英霊について遺影・遺書・遺品等を中心に展示しております。

館内は遺影・遺書・遺品等を中心に展示。

歩兵第四聯隊の軍旗

大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四聯隊。
終戦時に仏領インドシナ・サイゴン西北約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。

復元した軍旗には、数多くの亡き歩兵第四聯隊の御英霊の魂が宿っている。

乃木大将
「古道照顔色」

明治維新

日清戦争
日露戦争

第一次世界大戦
上海事変・満州事変

ノモンハン事件・支那事変

大東亜戦争

特攻

終戦

利根

飛龍

雪風

矢矧

大和

巡潜乙型
秋津洲
北上

宮城縣護國神社の歴史

随想録
陣中有情
ガダルカナル島での日記
陸軍大尉 安田憲一命は、ガ島で戦士した。

戦時日誌

硫黄島収集遺留品

仙台空襲

三浦襄命(仙台市出身)
バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。

さくら陶板(靖國神社ご創立150年記念事業)

ビルマの竪琴

改めてゆっくりと観覧したと思います。
ありがとうございました。


鎮魂の泉(宮城縣護國神社境内)

御製

鎮魂の泉

「鎮魂の泉」
 この「泉」は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽され、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下百八十㍍の地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮られますように作成した。
 石組は、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グァム、サイパン、宜昌(中国)、占守島(中千島)等、御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、サンゴ礁等を用いて大東亜戦争終結五十周年を記念し建立した
 平成七年八月一五日


浦安宮(宮城縣護國神社境内)

別宮浦安宮。
左宮には天照大御神・豊受媛大神・級長津比古神・級長戸辺神、右宮には当地に屋敷神として古くから祀られている白水稲荷大神と伊達政宗公がまつられている。


昭忠碑(宮城縣護國神社管理)

仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)。
明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された。
東日本震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙った。
鵄本体旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、安全性を考慮して塔の下に設置復元を実施。

鵄は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造したもの。

昭忠
元帥大勲位功二級彰仁親王書

小松宮彰仁親王

明治34年8月起工
明治35年7月竣工

東日本大震災の記憶~昭忠碑(しょうちゅうひ)~
設置年
 明治35年(1902)(明治33年制作委嘱 明治34年着工)
設置目的
 西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑
所在地
 仙台市青葉区川内 青葉山公園仙台城本丸跡
所有者
 宮城縣護國神社
「昭忠」揮毫
 小松宮彰仁親王(1846~1903)
 (昭忠とは、忠義を明らかにするという意)
全体の高さ
 約20m
鵄の材質
 とび ブロンズ製
鵄の重量
 4,689トン(修復後の内部構造材を含む総重量)
鵄の制作
 宮城県昭忠会(陸軍第二師団関係者で組織され、会長は宮城県知事)が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に制作委嘱
 川邊正夫(岡山県生まれ1874~1918)全体構想立案
 沼田一雅(福井県生まれ1873~1954)鵄原型製作
 桜岡三四郎(茨城県生まれ1870~1919)鵄の鋳造
 津田信夫(千葉県生まれ1875~1946)鵄の鋳造

 昭忠碑の塔上に設置された鵄は、戦前の金属供出を免れた明治30年代制作のブロンズ彫刻作品として希少であり、仏像を除くブロンズ彫刻として東北地方で最も古い時期に設置された重要な作品です。
 平成23年3月11日の東日本大震災により、鵄が塔上から落下し、大きく破損しました。
 破損した鵄は、平成25年2月、文化財レスキュー事業により、石段前に仮設置され、平成26年5月から文化庁補助事業として、保存修復事業が開始されました。平成27年7月、修復のため東京のアトリエに運ばれましたが、平成28年10月、修復作業が完了し、石塔の安全性を考慮し、塔の上ではなく、基壇上に設置されました。


伊達政宗公騎馬像

昭忠碑とおなじく、東日本大震災で被災した伊達政宗公騎馬像。2023年3月に修復が完了し、旧来の姿を取り戻している。

政宗の騎馬像は、昭和10(1935)年5月、藩祖公没後三百年祭を記念し、宮城県青年団が寄付を呼びかけて建立されたもの。
第二次世界大戦中の金属供出令によって消失するが、昭和39(1964)年9月に復元鋳造。

本丸跡からの眺望

仙台の戦跡散策、つづいては、仙台城址周辺の散策へ。

※2023年8月撮影


関連

福島縣護國神社

福島県福島市。信夫山のふもとに福島縣護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


福島縣護國神社

福島県下の英霊6万9千余柱を祀る。

福島縣護國神社
御祭神 御英霊
御神徳 平和・繁栄

由緒
 当神社は明治12年10月4日、県内三ヶ所(相馬・三春・若松)の招魂場の御霊を合祀し、信夫山の地に招魂社として創建されました。
 現在の社殿は昭和12年に造営され、戊辰の役から大東亜戦に至るまで、国家平安のための御英霊6万9千余柱をおまつりしてあります。
 明治の初めから指定官祭福島招魂社となり、戦時中官祭福島県護國神社となりました。この間皇室より数々の御参拝を賜り、幣帛料・幣饌料を捧げられた由緒深い神社であります。
 近年におきましては平成7年9月天皇陛下より幣帛料を、同年10月天皇・皇后両陛下より幣饌料が捧げられました。
 平成8年7月には神社本庁の別表神社に加列され現在に至って居ります。

福島縣護國神社サイト

https://gokoku559.info/

大鳥居

日の丸が美しい。

社頭

晴天の日の丸

ちょうど8月の訪問は、英霊感謝のみたままつり。

献燈は、福島県海軍甲種飛行予科練習生出身者の会による。

狛犬

奉納 皇紀二千六百年紀念

郡山地方専売局管内
煙草小売人組合連合会

社頭の鳥居

みたままつり

境内は、みたたまつりの黄色い提灯で彩られ。

拝殿

深く拝する。
御英霊に感謝と哀悼を。

さざれ石


悠久平和の碑

歩兵第29聯隊戦没者4,300余柱の慰霊顕彰

悠久平和の碑

碑文
 私達はかっての大東亜戦争において幾多の辛苦を乗り越えて、ジャワ島、ガダルカナル島、ニューブリテン島ラバウル、フィリッピン島、マレー半島更にはビルマ、中国雲南省、佛領印度支那に勇戦奮闘し、その間多くの戦友が身命を祖国の為に捧げられました。
 髀肉の嘆を託ちつつも、命永らえた私達が終生、断じて忘れ得ない英霊の偉大なる功績を偲び、戦場に散華された若き身命を惜しむとともに、その霊安かれと念ずるよすがとして、ここに悠久平和の碑を建立するものであります。
 あの戦争の凄惨と苦難を身を以て体験した私たちこそ、子々孫々に至るまで人類社会の太平を念願するものであります。
 願わくば殉国の四千三百五十八人の英霊よ、この平和への道を御照覧あられんことを。 
  平成二年四月二十三日 
   会津若松 歩兵第二十九聯隊会  
    略称 勇第一三〇三部隊
     会長 遠藤 正弥


福島県送出満蒙軍開拓青少年義勇軍 
慰霊の碑

福島県から進出した満蒙開拓青少年義勇軍の慰霊顕彰

時の国策に殉じた 少年達の霊 ここに眠る
国の礎たらんことを自覚し 身を挺して 散華したあなたたち満蒙開拓青少年義勇軍
 我等義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追伸シ
 身ヲ満州建国 聖業ニ捧ゲ 神明二誓ッテ 
 天皇陛下ノ大御心ニ副イ奉ランコトヲ期ス
この綱領を胸に 祖国の安泰と五族協和 王道楽土の建設を夢見て旅立った   同志の御魂よ
 いま 護国の神域に相寄り 安らかに鎮まらんことを
   昭和五十三年九月彼岸    
    福島県拓友連絡協議会会員一同


殉職救護員慰霊碑

福島県赤十字泉寺救護員戦没者32柱の慰霊顕彰

 この碑は、支那事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社福島支部所属戦時救護員として応召し、若い尊い命を捧げた殉難教護員三十二名のみたまを慰めるために建立しました。
 戦時救護のため、陸軍に配属され、黄塵まきあげる大陸や灼熱の南方地域に派遣され、あるいは怒涛さかまく海上輸送の任務について、戦傷者の救護に献身し、不幸にも病魔にたおれ爆撃に散華した清く凛々しい姿をしのび、思い新たなものがあります。
 私達は深い祈りの心をこめて、その徳をしたい永久に師表と仰ぐ資とするものであります。
  昭和四十二年十月三十日
   日本赤十字社看護婦同方会福島県支部


招魂碑(信夫山招魂社碑)

信夫山招魂社の由来を記載。
扁額は、有栖川宮熾仁親王による。


大燈籠

大日本国防婦人会福島地方本部解散紀念の献燈。
昭和17年2月16日。

昭和17年に、第日本国防婦人会(国婦)や愛国婦人会(愛婦)、大日本連合婦人会(連婦)などは、全て新設された大日本婦人会に統合されている。


御朱印

御朱印を頂戴しました。

靖國神社の「さくら陶板」


信夫山天満宮

護国神社に、きちんとした境内社があるのは珍しい。
昭和63年、大宰府天満宮より御分霊を拝戴した、東北の大宰府天満宮。


黒沼神社

護國神社は別法人の神社。
神社としての由緒は、黒沼神社のほうが古く、延喜式内社(平安時代の延喜式に記載のある古社)として、式内社・黒沼神社の論社の一つ。

※撮影:2023年8月


関連

靖國神社の新春初詣(令和6年)

あけましておめでとうございます。
靖國神社、正月朔日の初詣。

境内の様子などを、徒然に。

清々しい青空

正月朔日の午後。

神門


玉串料改定のお知らせ

あら、こんなところにも値上げの余波が。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。


今年は、設置場所が変わりました。

靖国名物の大絵馬。

令和甲辰

福引きは、安定の入浴剤。

甘酒振舞。
温まります、ありがとうございます。

毎年、いただいている「桜みくじ」

ちなみに、、、、凶でした。
まあ、この瞬間が、どん底ということで。


遊就館

獅子舞

振舞酒


初詣正式参拝の撤饌

撒下神饌はフリーズドライの甘酒。初めて頂戴しました。

御朱印
冬季限定 刺繍入り朱印
美濃和紙に獅子頭と万両の実、社紋を刺繍した朱印

お神酒と祝枡

※撮影:2025年1月1日


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

兵庫縣姫路護國神社

「兵庫縣姫路護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

ちなみに兵庫県は、護國神社が2社あります。神戸と姫路。内務大臣指定護国神社として。
 兵庫縣神戸護國神社:兵庫県東部地区出身の戦没者53,257柱
 兵庫縣姫路護國神社:兵庫県西部地区出身の戦没者56,988柱

参考

兵庫縣姫路護國神社

戊辰の役(明治元年)以降国難に殉ぜられた兵庫県西南部地域(播州、但馬地区)出身の護国の「みたま」五万六千九百八十八柱命を祀る。

1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定。
1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。
翌1939年(昭和14年)、制度改革により「兵庫縣姫路護國神社」となり、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後のGHQ占領下では一時的に姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していたが独立後は元の社名に復している。


兵庫縣姫路護國神社境内

社号標

昭和天皇御製
静かなる
 神のみそのの
  朝ぼらけ
世のありさまも
 かかれとぞおもふ

昭和13年歌会始の御製「神苑朝」

狛犬

社号標

昭和17年12月8日建立。開戦の1年後。

御社殿

拝礼

ありがとうございます。


御朱印

御朱印をいただきました。


護國神社の由緒

兵庫縣姫路護國神社の由緒を、書き起こし。
これは、とても佳き記述です。

護國神社の由緒 
明治という時代は今に続く国の仕組みの基になりました。
慶応3年(1867)徳川慶喜公が大政奉還を明治天皇に上奏し、王政復古の大号令によって明治政府樹立が宣言されました。この前後、国内では、独立を保つ近代国家をめざして様々な議論や戦いがありました。
姫路藩河合惣兵衛宗元をはじめ明治維新の志半ばで倒れた勤王の志士を、慰霊顕彰する祭祀が、明治26年(1893)この地で執行されました。それが当護國神社の始まりであります。
その時代から昭和に至るまで国家を守護し、地域とそして何より家族を守ろうとして殉ぜられた方々を英霊とお呼びし、最新としてお祭りしています。
先人の困難を振り返り、あらためて私たちが平和で豊かな国土に暮らしていることに感謝し未来の御加護を祈りましょう。

我が国が米国や英国などと戦った大東亜戦争は、国内に物資も乏しい上に供給を止められ惨烈を極めました。特に「比島散華碑」に記載された部隊が派遣されたフィリピン、ルソン島のように、南方では武器も食料も尽きその上マラリアなど熱帯特有の病気に罹るなど、将兵の疲労困憊は、極度に達し、遂に力尽きて斃れるものも多かったのです。生存者は少なく、戦後13年を経て昭和33年(1958)4月、政府の手により比島方面遺骨収集が行われました。共に戦った戦友は、護國神社に相よって英霊の偉勲を讃え、石碑を建立しました。
召集や志願で戦地に向かわれ戦死された方々の残された手紙や遺書には、本土への空襲を阻止するなど祖国防衛の気概と家族を守らんとする思いにあふれています。

明治維新のさきがけから、戦陣に倒れた英霊は246万余柱です。当護國神社には郷土の人たち56,988柱の方々が祀られています。多くの方々が「欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、自立を目指すという理念と構想」を元に始まったとされる大東亜戦争で戦死をされました。
昭和6年(1931)の満州事変から昭和20年(1945)の長い戦いの中、我が国は、資源や財力も乏しく敗戦を迎えました。戦後約6年8ヶ月もの間、占領下におかれ、民族固有の価値観が制限されました。その間当護國神社は、社名を「白鷺宮」として祭祀を永続し、昭和27年占領が解かれ、再び護國神社と復称いたしました。昭和28年8月衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」が、全会一致で承認され、東京裁判でいわゆる戦犯と呼ばれた方々の名誉が回復されました。

先の大戦は、国家国民を挙げての戦いでありました。
勉学に励む20歳以上の学生も戦場に向かいました。
東京オリンピックが開催された国立競技場は、昭和18年(1943)に出陣学徒壮行会が行われました場所です。
また、国民は男女を問わず、地域や工場で奉仕するなど銃後を守りました。「賀堂流碑」は、戦地に兵士の慰問に行かれ戦死された宗家を顕彰して建立されました
今を生きている私たちが、戦争の起こった当時の状況を学び理解することは、大変重要なことです。私たちはそれらの資料に基づいてその歴史を客観的に見ることができます。しかし、動乱のなかに生きた英霊は、大変な困難を前に一心に、自分の命をかけて、国家を、地域を、家族を守ることが、正しい道と考え立ち向かわれました。
そのことを後世の人達が称え、感謝することはとても大切なことです。

日本全国には8万柱を超える神社が鎮座しています。
日本最古の歴史書「古事記」が編纂されて1300余年になりますが、それ以前から私たち民族は、自然と祖先を崇拝し感謝をささげるために、8百万の神々を祀ってきました。
私たちが命をいただき生きているのは、自然の恵みと祖先のおかげであります。
護國神社の御祭神は身近なご先祖の一柱です。
あなたのたくさんのご先祖様の中には、必ず御英霊がいらっしゃいます。
ふりかえって、もう一度社殿を見てください。
子孫を温かく見守って下さるまなざしを感じられると思います。
神社のいわれを深く知り、もう一度頭を垂れ感謝の気持ちを伝えてください。
 ここはあなたの祈りが届場所です。
  姫路市本町118
  兵庫縣姫路護國神社


境内の慰霊碑

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)の慰霊顕彰碑。
昭和三十四年十月建立。

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

碑の傍らには、「輜重車の車輪」が献納されておりました。

散華鎮魂
二六四三

2643は、紀元かな。
そうすると、1983年(昭和58年)奉納の鐘と推測できる。
(紀元2600年=西暦1940年=昭和15年)


姫路歩兵第百三十九聯隊 
鎮魂碑

第百三十九聯隊の戦友戦没者1357柱の慰霊顕彰

姫路歩兵第百三十九聯隊略史
昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。
昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。
終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。
われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

第139聯隊戦友会  
 会長 伊藤栄一謹書
  平成四年五月吉日


歩兵第八十一聯隊・野砲兵第二十三聯隊 
鎮魂

歩兵第八十一聯隊、野砲兵第二十三聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰

鎮魂
 元第十七師団長 酒井康

酒井康は、第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将、勲一等に至る。陸士24期を経て陸大32期首席。
昭和17年12月から17師団長として南方戦線ニューブリテン島の防衛にあたり、ラバウルで持久戦のさなか、終戦を迎えた。

歩兵第八十一聯隊戦友会
野砲兵第二十三聯隊戦友会
建之

歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 
戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
 昭和五十七年五月三日
  歩兵第八十一聯隊戦友会

第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出
武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
  昭和五十七年五月三日
   野砲兵第二十三聯隊戦友会


詩歌吟詠道 賀道流碑

部隊慰問中に急逝された詩歌吟詠道賀堂流(初代宗家・礒部賀堂)の慰霊顕彰の碑

詩歌吟詠道 賀道流碑

碑文
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始 礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
   昭和三十七年三月
     詩歌吟詠道賀堂流門弟一同


征き逝きし 同胞迎う 里もみじ


敬仰 国旗掲揚塔

敬仰

海軍少将 水井静治 書

水井静治は海兵40期。千代田や千歳の艦長、舞鶴や呉の防戦司令官を経て終戦時は第81戦隊司令官。

碑文
 戊辰の役以降、今次大戦に至る数次の戦役において祖国の負託に応え国難に赴き散華された御霊の、不滅の偉勲を顕彰し国際社会にあって国家を表徴する英霊由縁の日章旗と、海軍伝統精神の象徴たる軍艦旗を捧げるとともに、併せて国旗尊厳を後世に伝承すべく念願して、海軍在籍者の団体兵庫県海交会、ならびに海軍ゆかりの有志により、ここに国旗掲揚塔を建立し奉献する。
  平成2年11月吉日
    兵庫県海交会

境内の石碑群

兵庫縣姫路護國神社サイト

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姫路城

周辺も散策してみましたが、それは別記事にて

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに