「近代建築」カテゴリーアーカイブ

圓山貯水池と圓山水神社(台湾台北)

令和元年5月散策

スキマ時間に駆け足で。

台湾 台北市
「圓山水神社」社号標 (昭和13年4月)

最寄りは
MRT(台北捷運淡水信義線)
路線記号「R」RedLine。
剣潭駅(Jiantan ジェンタン)

「剣潭駅」 東側の山(剣潭山)の中腹に、日本統治時代を物語る史跡「円山貯水池」と「円山水神社」が残されていると言うので、足を運んでみました。

剣潭山
左の建物が 「 台北自来水事業処 陽明営業分処 」
この裏側に目指す目的地がある。
中央は「昭明寺」

水道局(台北自来水事業処 陽明営業分処)の脇の細道。

圓山水神社の案内地図が出ておりました。

水神社はこっちと矢印が。
ここは台湾台北ですが違和感なく神社が案内されております。


山道を登っていきます。


圓山貯水池

日本統治時代の社会インフラのひとつとして「近代的な水道整備」がある。
台湾総督府は明治期より水源の整備をすすめていたが、人工が急増する台北市において従来の浄水設備だけでは追いつかなくなり、台北市北部に新しい浄水設備の建設を決定する。

明治42年(1909)に台北市南部に完成した観音山浄水場を保管するために、昭和7年(1932)に台北市北部の草山浄水場が完成。
圓山貯水池も昭和3年(1928)から工事開始しており昭和7年に完成。
そうして、「草山水道系統」として草山から圓山まで水道管で結ばれそこから台北市内に送水が始まった。
台北市にとっては2番目の水道施設。


台北市指定の古蹟「草山水道系統」

圓山貯水池施設群(現在は使用されていない)
 含量水室・鋳鉄排気管・水量表・八角配水井
 圓山水神社之石碑・手洗石製水槽・石灯籠・石獅・涼亭

圓山貯水池「通気塔」

掲げられた額には「活水頭」とある。
昭和6年早春
台北市長 武藤針五郎 

圓山貯水池「八角配水井」

圓山貯水池の古蹟

中央の膨らみが埋設された「水道管」か?
貯水池は地下に。

圓山水神社(丸山水神社)

草山水道系統の施設建設は昭和3年(1928年)着工。昭和7年完成。
山の中腹ということもあり工事は難航し事故による死者も出たため、水道職員の寄付により、殉職者の慰霊と水神を祀るために圓山水神社を設けことにはじまるという。
1990年(民国79年)に荒れ果てていた神社跡を台北の水事業関係者の寄付金を募って修復したという。

この剣潭山の南側には「官幣大社 台湾神社」が鎮座していた。浄水場はその台湾神社の北側。
当時、神社を統括していた内務省の台帳に当社の記載はないため公的なものではなく、水道職員有志の私的な神社であることが伺い知れる。
創建は昭和13年4月27日。奉納された石灯籠には「昭和13年4月吉祥日」、社号標には「昭和13年4月27日」と日付が刻まれている。

当時の社殿はすでにないが、石灯篭や狛犬などが当時のままで保存されている。この地は日本統治時代の台湾水道事業の発展を物語る貴重な史跡といえるだろう。


社号標は昭和13年4月27日銘

主殿
中華風の四柱屋根の中にちいさな祠が鎮座していた。

ご由緒書

中華民国79年の再建時の石碑。(1990年、平成2年)

狛犬の台座。2017年に狛犬が盗難されてしまいました。
まだ戻ってきてません。。。盗まれたのは阿形の狛犬。

いたるところに警告がある。
2017年に水神社に落書きをし狛犬を盗難される事件があったためか・・・

もう1体の狛犬(吽型の狛犬)は無事でした。

台湾にいるのか、日本なのか、だんだんとわからなくなってきました。

奉献
水道課現業員
その下段には奉納者の名前が刻まれていた。

水盤 
 奉納 水

何やら小屋の跡。水道及び神社に関係する付随施設でしょうか。

日本統治時代の台湾を物語る古蹟。

水道施設としては昭和7年から、
水道施設の守り神「水神社」としては昭和13年に創建して、
そして昭和20年に終戦。

わずか7年の信仰からの断絶。
戦後の台湾においては多くの神社が破却された中で、当地では奇跡的に社号標や石灯籠、狛犬などが残っていた。これは歴史の中では伝承されていないが「残そうと尽力してくれた人々の力」があったからに違いない。

そうして1990年にかつての神社跡は台湾の人々の手によって修復され祠も設けられ「水神社」は再興している。

台湾で神社に拝する。
台湾の人々によって、日本式に祀られた祠。
国を超えた空間に感慨深いものが多く。


MRT(台北捷運淡水信義線)
路線記号「R」RedLine。
車中から。

日本統治時代は、「台湾神宮」の地。

きっとここにまた来ることになりそうです。
それが何時になるかはわかりませんが。
〆

ちょこっと台湾台北散策

令和元年5月

隙間の時間に。ほんの少しだけ。時間がほとんどなかったので。

行政院(旧 台北市役所)

日本統治時代の昭和15年(1940)竣工。

監察院(旧 台北州庁舎)

大正4年(1915年)竣工。修復工事中でした。

立法院(旧 台北第二高等女学校 )

竣工年代は不詳。

濟南基督長老教会
(旧 日本基督教団台北幸町教会)

1916年(大正5年)竣工。台湾宗教100景

台北駅

現在の駅舎は4代目。1989年竣工。

台湾鉄路管理局
LDK50型蒸気機関車

もとは、日本統治時代の台湾総督府鉄道が1915年(大正4年)から762mm軌間の台東線で使用するために導入。

展示のLDK58号は1923年に日本車輌が製造。 花東線で運用された。

連結された車両は台東線LDR2201気動車。1957年製。

西門紅樓(旧 台北西門市場 八角楼)

西門町。日本統治時代の明治41年(1908)竣工。

まちなか、とか。

sdr

台北松山空港

機内(羽田→台北松山)

機内 (台北松山→羽田)

あまり散策は出来ませんでした。

また行きたいですね。観光で。

海軍工機学校(海軍機関学校)跡地散策

平成29年10月及び平成31年3月撮影

海軍工機学校兵舎(横須賀学院2号館)

横須賀は三笠公園の近く。
神奈川歯科大学と横須賀学院の界隈は、かつては「海軍工機学校」(海軍機関学校)であった。

米軍側から見た「海軍工機学校」と「横須賀海軍病院」の記事はこちらから。


位置関係

USA-M378-25
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影を加工
GoogleMap航空写真 現在の様子

海軍工機学校跡(海軍機関学校跡)

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院
守衛さんの許可を得て、ちょと見学にいってみましょう。

守衛の許可を得て入校しております。

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院 大学中庭の西側に。

海軍工機学校・軍人勅諭の碑

昭和7年1月4日建立
軍人勅諭下賜50年記念
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書(海軍中将)

村田校長は工機校長ののちに横須賀工廠長に任命

誠心
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
二 軍人は礼儀を正しくすへし
三 軍人は武勇を尚ふへし
四 軍人は信義を重んすへし
五 軍人は質素を旨とすへし
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書

海軍工機学校正門門柱及び壁

海軍工機学校 海軍栓

海軍工機学校 煉瓦倉庫

神奈川歯科大学校舎の裏側に。

倉庫の向こう側は、現在は米軍基地。

旧横須賀海軍病院跡
 (米海軍横須賀基地内)

神奈川歯科大学敷地内から、米軍基地方面を望む。フェンスの向こう側にある建物が、かつての「横須賀海軍病院」。現在も米海軍病院として使用されている。

旧横須賀海軍病院 奉安殿跡

横須賀海軍病院の建屋の前には「奉安殿」も残っている。
こちらもフェンス越しに拝見。

奉安殿とは 天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)や教育勅語などを納めていた建物。

前述の「神奈川歯科大学」及び「神奈川歯科大学附属病院」の東隣には「横須賀学院」という小中高一貫の私立学校がある。

横須賀学院
戦前の海軍工機学校(海軍機関学校)跡地に戦後「青山学院横須賀分校」が開校。その後、青山学院は撤退し昭和25年に継承した横須賀学院が当地に設立している。

横須賀学院の守衛さんにお伺いを。
「海軍の学校の碑を見学したい」と申告すると「一般に公開はしてないけど良いよ、授業中だから気をつけてね。碑の場所は・・・」と気さくに碑の場所を教えていただきました。
ありがとうございます。ちょっと見学に行ってみましょう。

海軍機関学校跡碑

横須賀学院(許可を得て入校)
碑には正面写真と碑文を刻んだ銅板が貼付されている。

海軍機関学校跡
記念碑建立の由来
海軍機関学校の沿革は明治2年に遡るのであるが、明治34年9月1日白浜校舎が現在地に落成し日夜機関生徒の訓育に当り、その後大正12年9月1日関東大震災により校舎を全焼し江田島に移転する迄の22年間延1,324名の卒業生を送り機関科将校揺籃の地として寔に意義深く記念すべき場所であるので、当横須賀学院の御厚意と同窓生諸賢の熱意によって校跡を後世に遺したく旧校庭の一角にこの記念碑を建立した次第である。
昭和43年6月3日建之

学校跡碑のある場所のうしろの建物(横須賀学院2号館)が、実はかつての工機学校兵舎。昭和13年頃の建設とされている。

生徒たちの邪魔をしないように撮影してサクッと退散。

学校内は、なかなか立ち入るのに緊張しますね。
次はフェンスの向こうの米軍敷地内が気になります。

〆


関連

新宿戸山の戦跡散策

平成30年8月

新宿区戸山・戸山公園を中心としたエリアの散策。
陸軍戸山学校など。

新宿戸山散策

平成30年8月19日、新宿区戸山界隈を散歩してみました。
主たるポイントは「陸軍戸山学校」、現在の戸山公園を中心としたエリア。
以下、連々と写真を展開。


位置関係

今回の散策コースはこんな感じ。

JR新大久保駅スタートで戸山公園を経て都営新宿線・曙橋駅。
これでザックリと約8キロ。 所要時間は2時間半程度。歩数は約13000歩でした。

今昔マップ on the web さんで当時の様子を参考に。

東京西部(戸山) 昭和4年二修/昭和6年6月30日発行。
今回のポイントを黄色で示してみました。 エリア的にはこんな感じ。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.702704&lng=139.713744&zoom=15&dataset=tokyo50&age=2&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2


海城中学校・高等学校

古賀喜三郎(海軍少佐)によって明治24年に海軍兵学校へのエリート人材育成の為の海軍予備校として創立。

海城とは戦艦を意味する古語に由来。

明治33年に海軍省の要請により海城学校と改称。
現在も海軍以来の伝統として「質実剛健・リベラルでスマート」な校風を標榜している。

海城のクスノキ

昭和2年に霞が関から当地に学校が移転して来たのちに植えられたものであり「海城のシンボル」として大切にされている。


海城から東に。

都立戸山公園大久保地区の南端にさしかかります。
このあたりは射撃場跡。

「今昔マップ on the web」より
(東京西部1/25000 昭和20年部修・昭和22年7月30日発行)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より
(ファイル名8911-C2-82/昭和19年10月16日陸軍撮影)

射撃場土塁跡

都立戸山公園大久保地区の南端に土塁が残ってる。
「射撃場土塁跡」
射撃場の周りは土塁で囲まれており、その名残。

前述中心部の画像や地図で射撃場の場所に見える東西に細長く連なる建屋は昭和3年完成の屋根で覆われた射撃場。
周辺住民への配慮として流れ弾防止や騒音抑制の為に設けられたという。

戸山の射撃場土塁跡と陸軍境界石

射撃場の土塁がまさに境目。
コンクリート壁と一体化するように陸軍境界石も残ってました。

戸山の射撃場土塁跡
都立戸山公園大久保地区の南端の土塁から連なるように道を挟んだ東側の「西大久保住宅」の南側にも土塁が残っている。

黄枠の部分が土塁が残っているエリア

明治通りを北上し、低地へと下るエリアを東に向かう。

地図で見ると現在は唐突に細長く住宅地が拡がる。
当時は南北を陸軍施設に挟まれる区画。ここもかつての射撃場跡。

陸軍戸山学校射撃場跡

そのエリアに降り立てば周辺が高台となっており射撃場は低地にあったことがわかる。


明治通りを北上すると右手に赤い鉄門が見えてくる。

学習院旧正門(国指定重要文化財)

明治10年、当時の華族学校(現学習院)の正門として建立。川口の鋳物工場で製作された唐草模様をあしらった和洋折衷の鉄門。

昭和25年に現在地に移転。現在は学習院女子大学などの正門として使用。


明治通りと諏訪通りの交差点。 東に行けば学習院女子、西に行けば諏訪神社。

新宿ノ諏訪神社

弘仁年中(810~820)創建と伝わる古社。
現在の社殿は昭和55年造営。 境内にある宮神輿庫はコンクリート造の校倉造という珍しいもの。

諏訪の霊水

「新宿ノ諏訪神社」 境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯碑」がある。

明治天皇射的砲術天覧所阯碑

明治15年、神社南の「近衛射的場」に、 明治天皇の行幸があり境内より射撃演習を天覧。その後も射撃場にみられる各宮殿下が諏訪神社社務所でご休息遊ばれたという。境内地の天覧高台は昭和18年に東京都より行幸史跡に指定。

明治天皇の天覧を記念し、諏訪神社御社殿の向拝の蟇股には菊の御紋を掲揚。
また、拝殿内に掲げられている神号額は小松宮彰仁殿下の御真筆という。
写真の拝殿の外側の神号額は佐文山(佐々木文山・江戸時代中期の書家)によるもの。

今回の参拝では御朱印を戴いておりませんでした。 (前回戴いたものを掲載)


新宿ノ諏訪神社のかつての別当寺であった玄国寺(真言宗豊山派)に。
こちらへは近代史的な話題で寄り道を。 境内案内の記載をよく見ると 「文化財 岩倉具視邸(現書院)」とありますね。気になります。

岩倉具視邸

玄国寺 「岩倉具視邸(現書院)」
元勲岩倉具視の旧邸の一部を大正年間?に移築したものという。和洋折衷の建築物。現在も寺院の庫裡として使用されており内部は非公開。

さて、本筋に。

近衛騎兵連隊

学習院女子大の方に向けて歩んでいく。
本当であれば学習院女子大の中にある「建造物」を見学したいが女子大ゆえに見学難易度は高そうなので別の機会?に。

学習院女子大には近衛騎兵連隊兵舎と炊事所が残っており近衛騎兵聯隊之碑がある。画像は煉瓦壁とGoogle Earthを参考まで。

馬場下町交差点。わかりやすく言うと穴八幡の交差点。

三朝庵(閉店済)

この交差点の角に100年以上に渡り歴史を伝えてきた蕎麦屋があった
(過去形・・・)

「三朝庵」
元 近衛騎兵連隊 御用
元 大隈家 御用

残念ながら平成30年7月31日でもって閉店・・・。
ここへ訪れるのがあと一歩遅かったです、残念です。

別の日(令和2年)に撮影。コンビニになっておりました。。。

今回は時間の都合で穴八幡宮は社頭で遥拝。

高田馬場の流鏑馬の時代から、近衛騎兵聯隊まで。
馬つながりを感じつつつ。

穴八幡の南西にある箱根山を目指します(都立戸山公園箱根山地区)

陸軍戸山学校の野外演奏場跡

都立戸山公園箱根山地区
「陸軍戸山学校の野外演奏場跡」

気持ちよさそうに寝そべった方が居りました。 写真どうしよっかな…と悩みながらなるべくじゃまにならないようにパチリを。

この場所が野外演奏場(野外音楽堂)
陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていたとのことで。

箱根山 陸軍戸山學校阯

都立戸山公園箱根山地区
「箱根山 陸軍戸山學校阯」

陸軍戸山学校
明治6年(1873)6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置
明治7年2月、陸軍兵学寮戸山出張所を陸軍戸山学校と改称
大正元年(1912)9月、戦術科、射撃科、教導大隊が陸軍歩兵学校として分離独立
昭和20年9月10日、閉校

箱根山 陸軍戸山學校阯

この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた
寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された
明治六年その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治七年陸軍戸山学校と改称されて以来約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である
この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
昭和四十二年十一月
元陸軍戸山学校緑故有志一同

箱根山地区の歴史
(略)
明治七年(1874)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となった。
陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

戸山公園
箱根山 標高44.6m

「登頂証明書」は戸山公園大久保地区のサービスセンターにて。 (貰いそこねました)
山頂から見える建物を近くでみてみましょう。
陸軍戸山学校の名残の建造物。

陸軍戸山学校将校集会所

「陸軍戸山学校将校集会所」(戸山公園箱根山地区)
戸山学校時代は将校集会所として使われていたという建造物。
現在は「戸山教会・戸山幼稚園」として使用されている。
この半地下式の石造りの部分が将校集会所の跡とされている。

「陸軍戸山学校将校集会所跡」(戸山公園箱根山地区)
現在は戸山教会及び戸山幼稚園として現役。
常識の範囲内で見学を。


陸軍軍医学校跡

戸山公園の隣の区画
現在は「国立感染症研究所」「国立健康・栄養研究所」などがある地は、かつての「陸軍軍医学校」(昭和4年に麹町より移転) の地であった。

この軍医学校跡地からは国立感染症研究所(当時は前身の国立予防衛生研究所)建設に際して大量の人骨が発見されたりもしている(1989年)。

現在の国立国際医療研究センター研究所のある場所。

当時の「陸軍軍医学校」の向かい側には「陸軍第一病院」があり「陸軍軍医学校」とは地下でつながっていたという。
その地下道の入り口とされる場所。 なにやら塞いだ感に溢れてますね・・・。

戸山「陸軍軍医学校」と「陸軍第一病院」

うっすらと「医療…」と書かれた御影石。
これも「陸軍軍医学校」の名残かどうか
向こう側には「陸軍第一病院」地下道出入り口が見える。


戸山から牛込まで南下。
奇しくも海の海城から陸の成城への散策。

成城中学校・高等学校

明治18年(1885)創立。当初は文武講習館として、築地に創立。軍人志望の少年の養成にあたる。
明治19年に「成城学校」と改称し陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校となる。明治24年に現在地に移転。

牛込までくればアンテナが見えてくる。

市ヶ谷の防衛省。
かつての陸軍士官学校。

そのまま南下すれば都営地下鉄の曙橋駅。
今回の新宿区戸山界隈の散策はこれで〆

学習院大学の近代建築

平成29年4月撮影

乃木館(旧・総寮部)

学習院第10代院長乃木希典ゆかりの建造物。

明治41年(1908)竣工。学習院が全寮制だった頃に宿舎として使われており、10代目院長の乃木希典も4年間をここで過ごしていた。
昭和19年に総寮部取り壊しに際し、 乃木院長が居住していた部分のみを移築・保存されている。国登録有形文化財。

乃木館
この建物は、明治41年9月に建てられた学習院学生寄宿舎の総寮部の一部分を移設したものである。
乃木希典院長は開寮と同時にここに起臥し、学生と寝食を共にしてその薫陶に当たられた。

乃木希典院長の歌
寄宿舎で 楽しきことを 数ふれば
撃剣音読 朝めしの味

乃木希典大将の榊壇

明治43年(1910)、学習院第10代院長 乃木希典が自ら設計し私費を投じて建設した「榊壇」

全長約7m、後円部高約1.4m
当時の四境(小笠原諸島・樺太・遼東半島・台湾)などから集められた147個の礫石を使用。
後円部には 学習院新校舎落成式で明治天皇が天覧した榊が植えられている。

榊壇入り口の柱石、榊壇前の踏み石などは、乃木の後の第11代院長 大迫尚敏が大正5年(1916)に整備したもの。

乃木大将に関連する史跡が学習院内に残っていて。
こうして観覧可能なことに、ちょっと興奮してしまいました。

学習院大学構内の6ヶ所が「国登録有形文化財」に指定されておりました。

正門 東別館(旧・皇族寮)
北別館(旧・図書館)
西1号館(旧・中等科教場)
南1号館(旧・理科特別教場)
乃木館(旧・総寮部)
厩舎

せっかくなので巡ってみましょう。

厩舎

明治41年竣工。
現在も現役で馬術部が使用している建物。
邪魔をしては悪いので外観をちょっとだけ見学。
馬場を駆ける馬の鳴き声が響いておりました。

南1号館(旧・理科特別教場)

昭和2年(1927)竣工。ネオ・ゴシック様式。
昭和24年に大学理学部創設とともに理学部研究棟に。
平成21年に構内のその他の建物とともに国登録有形文化財に登録。

西1号館(旧・中等科教場)

昭和5年(1930)中等科教場として竣工。ネオ・ゴシック様式。鉄筋コンクリート造。朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)を設計した内匠寮技師権藤要吉の設計。
大学開設後は文政学部本部。玄関を中心としたシンメトリー建造物。

北別館(旧・図書館)

明治42年(1909)に図書館として建立。木造平屋造。
設計は東京音楽学校奏楽堂(現東京藝術大学旧奏楽堂)や帝国図書館(現国際子ども図書館)を設計した久留正道による。

床下通風口には学習院校章「桜」紋がモチーフされている。

「北別館(旧・図書館)」
現在は学習院大学史料館(事務室)として使用。

私が訪れたときは土曜日午後でしたので事務室は閉館しておりました。
(平日及び土曜日午前に開館)
平成21年、国登録有形文化財に登録。

東別館(旧・皇族寮)

当時全寮制だった学習院の皇族寮として大正2年(1913)に建造。
山階宮武彦王や秩父宮雍仁親王をはじめとする皇族が使用。
正面玄関の車寄玄関飾りには学習院の校章「桜」紋のレリーフが掲げられている。

明治から大正期に建築された学校寄宿舎の現存は少く貴重な建造物。

学習院大学正門

明治41年(1908)以来使用されており当時のままの姿を残している。
揮毫は学習院大学初代学長 安倍能成 によるもの。

安倍氏は学習院としては第18代院長。
10代が乃木希典、16代が野村吉三郎、17代が山梨勝之進

〆

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

掲載:2017年7月・2026年7月

「海の日」だから、「海の日」の元となった「明治丸」を見に行こう!というわけで。


海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)とされていた。


海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。


東京海洋大学(越中島)

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。


明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。

写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(通常は公開日は限定となっている)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。


日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍


百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。良い。


大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代) は練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。


東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。


第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。


第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。


G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。


招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。


精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎


管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸


以下は2026年の再訪時の写真を追加

東京大空襲のときに構内の樹木を守った堀


以下は2026年の再訪時の写真を追加

東京高等商船学校図書館
(東京商船大学事務局管理棟)

1932年(昭和7年)7月、1号館とほぼ同時期に竣工。
登録有形文化財に指定。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

植樹記念碑

1908年(明治41年)11月2日、皇太子殿下(後の大正天皇)御臨席のもと卒業式が挙行され、明治天皇より優等生が御下賜品を賜った。これを記念し桜樹200余下部が寄贈され植樹された。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

第一世汐路丸の錨

昭和29年3月竣工。42年3月まで小型練習船として学生の実習訓練、船舶運行技術の実験研究に確約した。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

越中島砲台跡

江戸湾防備史上、最後に竣工した砲台の一つ。
1865年2月に竣工。
明治維新後、越中島は陸軍練兵場となったが、明治24年(1891)に練兵場は廃止となり、明治32年(1899)に陸軍は越中島は引き払い、跡地は商船学校などの校地などになり、砲台は破棄された。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

水産講習所本館
(東京商船大学2号館)

1933年(昭和8年)竣工。関東大震災後に建造された鉄筋コンクリート耐火耐震建築。
登録有形文化財に指定。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

全天候型救命艇

試作救命艇。1976年に設置。


以下は2026年の再訪時の写真を追加

駆逐艦「曙(初代)」シリンダ

雷型駆逐艦「曙」(初代)は、1899年(明治32年)7月に英国Yarrow造船所で建造。
日露戦争では第一艦隊第二駆逐隊に所属。
旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦などに参加した。
1925年(大正14年)五月、廃艦。
関東大震災後に、学生の組立実験用装置として提供された。
現在は第五実験棟の脇に設置されている。


明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸されたとのこと。

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河、中の島公園からの明治丸。


品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。

東京海洋大学・品川キャンパス

14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など


この地で保存されている船

雲鷹丸(東京海洋大学・品川)

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


東京海洋大学・品川キャンパス野外展示

ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示


品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう) (東京海洋大学・品川)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?(明治神宮)

明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html


麻布・青山・赤坂の戦跡散策

平成30年9月撮影

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

位置関係

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した空中写真をベースに。
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊などを。

散策のスタートは赤坂見附駅と日枝神社から。
ここから赤坂を目指します。 日枝神社は今回は遥拝にて。

曲面ビルは赤坂ザレジデンス、その左には「赤坂TBS」、右には「赤坂パークビル」、赤坂のビルディングに囲まれた地区。

そんな赤坂の裏、「円通寺坂」のある通りに、かつて「近衛歩兵第三聯隊」のあった名残を求めてみます。

近衛歩兵第三聯隊 陸軍境界石

自販機と仲良くならんで林立している標石。
うっすらと「陸軍」と読むことが出来ます。

もうひとつ。
ちょっと摩耗ではっきりとは読み取れませんが。

赤坂パークビルの敷地内の一角に、三菱地所の好意によって「銀杏ヶ丘」という森が平成5年に整備されており、そこにひっそりと記念碑がある。

近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊

記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。
 平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

銀杏ヶ丘の森のなかで、静かに佇む空間の中で昭和の歴史に思いをはせる。

老銀杏は幹の半分を支えられながらも見事な枝を伸ばしていた。
これは秋の姿を見てあげたい。
秋にまた来よう…そんなことを感じつつ、次の場所へと。


赤坂から南に。
東京ミッドタウンのある「港区立檜町公園」。
此のエリアはもともとは長州毛利藩下屋敷跡。
その後は歩兵第一連隊となり防衛庁(市ヶ谷に移転する前)となり東京ミッドタウンとなり、再開発を重ねてきた地。

歩一の跡

港区立桧町公園
「歩一の跡」
公園の南方の池の畔にひっそりと何の説明もなく佇む記念碑があった。
公園を歩む人々は格別な関心も寄せないし、説明もないのでこれでは意味もわからない碑。

歩一 ・・・ 歩兵第一聯隊

歩一の跡
歩兵第一聯隊 碑誌
当公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった。明治7年歩兵第一聯隊がここに創設され以来67年間東京および近県の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる。 乃木将軍は第2代の聯隊長であった。ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める。
昭和38年秋

「歩一」歩兵第一聯隊のあった檜町公園。
東京ミッドタウンから西にすすむ。
国立新美術館・政策研究大学院大学の地には「歩三」歩兵第三聯隊があった。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館

1928年(昭和3)に建設。戦後は在日米軍接収。1962年に東大生産技術研究所が当地に移転し2001年まで使用(生研は駒場に移転)。 その後一部を残して解体。2007年に「国立新美術館別館」として活用。

かつての敷地は国立新美術館別館と政策研究大学院大学となっている。

国立新美術館別館
一部保存された兵舎の裏側はガラス張りのオシャレな様相に。

展示コーナーは毎週月・水・木・金の公開。
運良く平日だったので展示コーナーも見学してみましょう。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館展示コーナー

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎模型 「日」の字を模した地下一階・地上三階の建物は関東大震災復興の象徴でもあったという。
陸軍としては初の鉄筋コンクリ造兵舎。 現在は別館として中庭通路口の一部と外壁の一部が保存されている。

国立新美術館別館展示コーナー

2001年の全体空撮写真のパネル

参考比較として現在の様子をGoogle Mapsをトリミングしてみた

兵舎時代の正面写真パネル

展示パネル
地階・1階〜3階
中央部分は一段低く2階までだったということがわかります。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)
一部保存された兵舎跡

入り口スロープ 弾痕の跡・・・とされているが、いつのなんの弾痕かは不明。
二・二六事件との因果関係も不明。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

国立新美術館をあとにして移動を。
道路(外苑東通り)を挟んで「東京都立青山公園 南地区」に向かいましょう。

「東京都立青山公園 南地区」も歩兵第三聯隊、そして近衛歩兵第五聯隊ゆかりの地。

麻布台懐古碑
(東京都立青山公園・南地区)

かつてこの麻布台には歩兵第三聯隊が展開されていた。
思えばこの日に巡った歩一(歩兵第1聯隊)、歩三(歩兵第3聯隊)、近歩三(近衛歩兵第3聯隊)はいずれも二・二六事件に関与の部隊だったり。
それを記録する何かはいずれも皆無でしたが。

麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822)に竹千代稲荷、天慶年間(938〜946)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。
 (中略)
明治7年(1874)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。
近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。 昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第7聯隊が創立された。
現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。  (注:現在は解体され、一部が国立新美術館別館として保存)
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
  昭和62年10月25日
  近衛歩兵第五聯隊 
  歩兵第三聯隊 
   有志一同建立 (裏面は寄付者芳名・略)

東京都立青山公園・南地区

かつて歩兵第三聯隊(麻布三聯隊)や近衛第五聯隊・近衛第七聯隊のあった麻布台には、現在は米軍基地がある。
東京都区部唯一の在日米軍基地「赤坂プレスセンター」(麻布米軍ヘリ基地・ハーディー・バラックス )

この地は明治22年(1889)歩兵第三聯隊駐留以来、変わらずの軍用地…


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
(青山霊園)


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
明治37年8月20日建立

青山霊園の中央通り(この表現が正しい不明ですが)に面した慰霊墓。
近衛聯隊(後備近衛歩兵第一聯隊)にまつわる墓があるので、参拝してきました。

常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
 
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船し宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現れ、猛砲撃を加えてきた。 もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治37年10月30日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 
昭和61年6月15日
殉難82周年慰霊祭にあたり誌す
 常陸丸遺族会
 全国近歩一会

以下は余談ですが、常陸丸事件について。

常陸丸事件

日露戦争
1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊によって撃沈破された事件。
陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船 6,172トン)の喪失は国内世論を憤激、特に海上警備の第二艦隊・上村彦之丞中将に対して強い非難が集まった。

日露戦争後、千鳥ヶ淵公園に常陸丸殉難慰霊碑建立。
しかし第二次大戦後に一度撤去され、昭和40年(1965)に靖国神社境内に移設の上で慰霊碑が再建されている。

毎年6月15日午前10時より、靖國神社では常陸丸殉難御祭神霊祭が斎行されている。

常陸丸殉難記念碑 (靖國神社)

元帥伯爵 東郷平八郎 書
常陸丸殉難記念碑 碑裏面
昭和9年10月
陸軍大将正三位勲一等功四級 荒木貞夫 撰文揮毫
常陸丸殉難記 明治三十七年皇師海ヲ越エテ露ヲ征ス・・・(略

常陸丸殉難記念碑
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

 昭和61年(1986)6月15日
 殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
  常陸丸遺族会
  全国近歩一会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

常陸丸殉難記念碑
本碑ハ曽テ牛ヶ渕ニ在リ偶々大東亜戦争終結ニ際シ破却セラル仍テ日露戦争六十周年ニ当リ此ノ処ニ復興再建ス
昭和四十年十一月十五日 常陸丸受難記念碑 
復興期成会


常陸丸殉難記念碑の表を東郷平八郎、裏を荒木貞夫が記していることが興味深い。陸海あげての受難記念碑。

合掌


少々脱線でした。

そういえば、今回巡った
 歩兵第一聯隊
 歩兵第三聯隊
 近衛歩兵第三聯隊
は二・二六事件にが関与してたり・・・


近衛聯隊のメモ
 近衛歩兵第一聯隊 北の丸
 近衛歩兵第二聯隊 北の丸
 近衛歩兵第三聯隊 赤坂 
 近衛歩兵第四聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第五聯隊 麻布台
 近衛歩兵第六聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第七聯隊 麻布台

これは都内の次の課題は明治神宮外苑(北青山)ですかね…

〆

北の丸・千鳥ヶ淵周辺の戦跡散策

平成28年5月撮影

灯台下暗し。近いと何時でも良いやと思って訪れない場所がある。

ある日の午後。
ふと思いたって北の丸の戦跡史跡散策を決行。考えてみれば良く歩くわりにはこの界隈は気にしてなかったなあ、と。

(北の丸といえば、近隣の近代建築としての九段会館は、もう・・・)

北の丸公園の田安門から散策開始。

彌生慰霊堂(弥生慰霊堂)

戦前は「彌生神社」(弥生神社)として祀られていた聖域。 参道脇には力強い狛犬が控えていました。

警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

警察・消防殉職者のために、1885年(明治18年)10月7日「弥生神社」創建。
弥生とは当初の鎮座地である文京区向ヶ岡弥生町に由来。

戦後、警視庁として「弥生神社」を管理できなくなった為、1947年(昭和22年)10月に現在地に遷座するとともに名称を「弥生廟」と改称。
1983年(昭和58年)9月に「弥生慰霊堂」に改称し、従来の神式慰霊祭から無宗教形式の慰霊祭に変更。

慰霊、そして感謝を。

昭和天皇御野立所

この彌生慰霊堂の地は、もう一つ歴史的な場所。

昭和天皇御野立所

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
  平成元年(1989)4月26日
   近衛歩兵第一聯隊會

位置関係

USA-M377-65
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影

北の丸公園 

武道館の前、通りを挟んだ茂みに石碑がありました。

皇紀二千六百年 植樹記念碑

陸軍少将 三浦真書

詳細は不明。


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

日本陸軍最初の連隊として、明治7年(1874年)創設。
皇居守護の要たる名誉ある連隊。
その近衛歩兵第一連隊、通称「近歩一」を記念する碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊記念碑

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
  昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

こちらは近衛歩兵第二連隊の記念碑。
近歩一と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊。
栄光ある近衛連隊として、近歩一とは別に独立した記念碑が建立されている。

近衛歩兵第二連隊記念碑
傍らに植えられるは橘の木。

近衛歩兵第二連隊記念碑
昭和8年建立の柱
近衛歩兵第二連隊将校一同

天業快弘
皇道宣布

近衛歩兵第二聯隊記念碑

 近衛歩兵第二聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年1月23日 近歩二会


吉田茂像

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書

吉田茂像の碑文を「昭和の黒幕」と称された安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂像碑文
吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月

北の丸公園の南出口。

こちらの門は、乾門。
正月の一般参賀の北の参出口としておなじみですね。

北白川宮能久親王銅像

東京国立近代美術館工芸館の隣。
明治28年、近衛師団を率いて台湾出征。疫病に罹らせ給い台南に於いて薨去遊ばされた。御年49歳。

騎兵の銅像として、躍動感も一級品。


東京国立近代美術館工芸館
近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

東京国立近代美術館工芸館
かつての「近衛師団司令部庁舎」(国重文)

魚眼にて。

「近衛師団司令部庁舎」(近代美術館工芸館)

正面中央の玄関部には、小さな八角形の塔屋。
両翼部には、張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。
日本人技術者が設計した現存建物としても貴重。

細部をみてみると、陸軍名残の星型もあり。

流線形が美しい雨樋。
流線部に開口窓があり、異物を除去する事が出来ます。
これは機能美溢れてますね。

ちょうど無料開放日でしたので内部にも。
エントランスホールを内側から。

1階階段を下から。

階段踊り場の曲線美に萌える。

階段踊り場から。

2階

風格に溢れてます。
見ていて全く飽きないですが、ぼちぼち次の場所に。

千鳥ヶ淵をめぐる。

近衛師団司令部庁舎から首都高を渡った先、この緑のこんもりとした空間が次のポイント。

近衛第一師団
 地下壕・地下防空陣地跡

陥没の恐れがあるため、立入禁止

近衛師団司令部庁舎と皇居に挟まれた、この場所。

今は入口が塞がれてしまっているが、この場所が近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地跡という。

近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊が展開された地下壕・地下防空陣地跡。

そのこんもりとした台地の上には竪穴通気口があった。
この下が地下空間がある証でもあり。
覗いてみましたが木の枝ばかり…

高射機関砲台座跡

唐突に、不自然な石のベンチが見えてくる。

これ、実は高射機関砲(九八式二十粍高射機関砲・九八式高射機関砲)の台座跡という。七座残っていた。

ここに先ほどの近衛機関砲第一大隊が展開されていた、と。

今は特に何かを説明するでも案内するでもなく、台座は静かにベンチとして第二の余生を過ごしていた…


せっかく千鳥ヶ淵まできたので、参りましょう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

鎮魂と…
感謝と…

祈念する空間。

戦士たちは名を残し、戦士たちは靖國で逢おうと散りゆけれど。
ただ不幸にもその戦士たちの遺骨に名が紐付け出来ず、帰る場所を失ったために、千鳥ヶ淵墓苑に眠る…

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

いつも8月15日には、この場所にも足を運んでたが、8月15日の政争空間を垣間見てしまうと心にはざわつきがあった。
この日は初めて、この場所で心穏やかに拝する事が出来たかも知れない。

御製
いくさなきよを
あゆみきて
おもひいづ
かのかたきひを
いきしひとびと

終戦60周年の御製を常陸宮妃殿下が謹書

御製
くにのため
いのちささげし
ひとびとの
ことをおもへば
むねせまりくる

千鳥ヶ淵墓苑創建の年(昭和34年)に 昭和天皇から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書

引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑
強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑

墓苑の一隅に。
引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑
強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑
改めて合掌。

さざれ石に、大賀ハス。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。
はじめて、こんなにゆっくりと参拝させていただきました。

昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

無名戦没者などはいない…と。

不幸にして千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されたのは名が残らなかった遺骨であれども、その御霊は靖國神社に集う、と。
靖國神社で会おうと誓って散った名のある戦士たちの御霊は靖國神社に祀られ家族達に祀られ、名が判明しなかった遺骨のみが千鳥ヶ淵に眠ると…


千鳥ヶ淵を北上して靖国通りに。
スタート地点近くに戻ってきました。

元帥陸軍大将大山巌公像

日露戦争の陸軍の中心人物。満州軍総司令官。 「陸の大山、海の東郷」

品川 弥二郎像

大山は薩摩、品川は長州。 軍人と政治家。両者の像が今は並んでいる。

九段下の靖国通りに。

高燈篭(常燈明台)

靖国神社の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社に祭られた霊のために建てられたという。
昭和5年(1930)に現在地に移転。

豪北方面戦没者慰霊碑

靖國神社入口の向かって右脇。北の丸の反対側に人知れず鎮座。

豪北とは、東南アジア地域のこと。
靖國神社には良く参拝している方々もここに目を向けることは少ないかもしれない。
私も久し振りに訪れました。

九段下から北の丸公園~千鳥ヶ淵を経て、靖國神社に。
たまにはこんな散策も良いかもしれない。

靖國神社境内の慰霊碑等はまたの機会で。
幾つか点在してるんですが、今回はいったん〆

日比谷通りと日比谷公園散策

平成30年12月

日比谷通りと日比谷公園を散策したときの写真などを。

第一生命館
 東部軍管区司令部(陸軍)
 連合国最高司令官総司令部(GHQ)

昭和13年(1938)竣工。
平成元年から平成5年にかけて解体及び改築され現在はDNタワー21として再開発された姿を残す。内装はマッカーサー記念室など一部が残っている。 戦争中は東部軍管区司令部が設置。

終戦後は昭和27年7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用。

第一生命館

旧・陸軍東部軍管区司令部
旧・連合国最高司令官総司令部(GHQ)

明治生命館
 アメリカ極東空軍司令部

昭和9年3月31日竣工。
終戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され昭和31年に返還。

昭和建造物としては、はじめて平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

三菱一号館

元は明治27年竣工の日本初のオフィスビル(洋風貸事務所建築)であった。

昭和43年に三菱地所が解体したが平成21年に同社により復元された。
つまり現在の三菱一号館は往時のレプリカ復元。

日比谷公園

旧・日比谷公園事務所
(フェリーチェガーデン日比谷)

明治43年(1910)竣工。
我が国初の洋式公園である日比谷公園の管理事務所。
ドイツ・バンガロー風の意匠。
明治期の数少ない近代洋風建築のひとつ。

市政会館
日比谷公会堂

昭和4年(1929)竣工。 東京都選定歴史的建造物。
建物の北側が日比谷公会堂となり、残りは市政会館となっている。

日比谷公会堂は、現在は東京都によって施設の老朽化及び耐震化を理由とした大規模改修工事を実施するため、平成28年から改修工事終了まで施設の使用は休止されている。

国立科学博物館と上野散策

平成30年10月撮影

高射第一師団司令部(国立科学博物館)

昭和19年12月、東部高射砲集団を改編して「高射第一師団」創設。
京浜地方を主とする本州東部の防空(高射砲)を担った。

昭和20年5月に、司令部を代官山から上野の東京科学博物館本館(現・国立科学博物館日本館)に移転。

国立科学博物館としては、現在の日本館は昭和5年竣工(1930年)

当時は東京博物館・上野新館。
戦争中の昭和20年3月10日に博物館は閉館し標本を近県6か所に疎開。
昭和20年5月に建物が軍に徴用され終戦まで高射第1師団の司令部となっている。

零式艦上戦闘機21型 改造複座機
 国立科学博物館展示

※令和3年、科博廣澤航空博物館に展示移転

ここに展示されているのは、ラバウルにて魔改造された複座偵察機仕様の零戦。
栄エンジンがよく見えるようにカウルを外した状態で展示。

日本の航空技術を代表する飛行機
零式艦上戦闘機
21型改造複座機

この零戦は、1972年(昭和47年)ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され、引き上げられた。ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

1944年にラバウル航空隊が撤退した後に、現地残留部隊が数機の零戦を組み合わせて複座偵察機に改造した機体。
ベース機は中島製31870号機。機番53-122

国立国会図書館国際子ども図書館
(帝国図書館)

旧帝国図書館は明治39年(1906)竣工の第一期工事と昭和4年(1929)竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリート造り。

上野公園近くの国際子ども図書館の前庭に。

「小泉八雲記念碑」
昭和10年建立。
小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子であった土井晩翠が、23歳で結核によりなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建立したものという。

小泉八雲記念碑

碑文
先生原名ハ らふかぢお・へるん 英国ノ人 西紀千八百五十年地中海ノ れふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ 職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ 千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル 先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
昭和10年(1935)6月
藍谷温 撰 市河三喜 書

土井林吉が土井晩翠のこと。
碑の左右には「筆開皇國華」「文盡人情美」と。

2002年に安藤忠雄建築研究所が中心となって歴史的建造物の保全を軸に設計がおこなわれたのが現在の姿。

上野界隈は散策が半端なので、追記するかも。

建物以外の上の散策はこちらも

〆

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

〆

【解体済】旧逓信省貯金局庁(旧逓信省本庁舎)

平成30年11月撮影

昭和5年竣工の旧逓信省貯金局庁舎、昭和18年からは旧逓信省本庁舎。

昭和24年に発足した郵政省が昭和44年まで本庁舎として利用。
本省が霞が関に移転後も飯倉分館として機能。
現在は日本郵政グループ飯倉ビル。

しかし再開発エリアとして解体へと…

訪れたのは平成30年11月23日でした。

直前の11月19日には、飯倉ビルに入居していた「麻布郵便局」が移転。
また埋蔵文化財の発掘調査も予定されている。(平成30年12月7日まで)

再開発に向けてのステップが刻まれ始めている・・・

中央エントランス部分。

魚眼で記録撮影

「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」において旧逓信省本庁舎は開発エリア「A街区」に含まれる為に解体予定。
地上65階建高さ約330mの日本最高層クラスのタワーマンション建設予定…

内閣府資料→

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai11/shiryou.html

https://www.mori.co.jp/company/press/release/2018/03/20180327140020003621.html

森ビル>「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」
市街地再開発組合設立認可のお知らせ
より

裏側からも遠望。
旧逓信省本庁舎の建物は台地 にあるのがわかります。

低地の部分も再開発エリア。前述の資料によると「B-2街区」及び「中央広場」が整備される予定

建物裏側の低地部分から。
周辺エリアの再開発は始まっている・・・

再開発エリアを歩む気持ちは何やら複雑な心持ち。
次にこの地に足を運ぶとき、見える光景は間違いなく違うものになっているだろうなあ。
昭和5年竣工の、この重厚な建物も解体へ・・・

撮影は平成30年(2018)11月でした。

今はどうなっているか・・・格別にその後の情報を追ってはいませんが、当時の記録のひとつとして写真を掲載。

中島飛行機三鷹研究所跡散策

平成29年10月撮影

位置関係

USA-R360-124
1947年(昭和22年)10月24日-米軍撮影
現在は「国際基督教大学(ICU)」と「SUBARU東京事業所」

中島飛行機は東京工場(中島飛行機東京製作所)を大正14年に開設後も急成長を遂げる。

昭和13年(1938)には三鷹北部の武蔵野に大規模工場として「武蔵製作所」を開設。

そして昭和16年(1941)に三鷹南部の大沢に「三鷹研究所」を開設し、総合的な研究機関の設立を目指すも終戦により、中島知久平の夢は敗れる。


地元の調布駅からバスに乗り、降りたバス停名は「富士重工業前」。 2017年4月に「富士重工業株式会社」は社名変更して「株式会社SUBARU」に。
富士重工業の前身「中島飛行機」時代には「三鷹研究所」として航空機研究開発拠点だった地。

現在は「SUBARU 東京事業所」

森山荘

東京スバル三鷹店の裏側の森。
SUBARU東京事業所の敷地内にひっそりと佇む建物が「森山荘」
(敷地外から撮影。一般非公開。)

中島飛行機時代には、来客をもてなすために使用された建物という。 現在はSUBARU関係者の懇親に利用されているという。

「中島飛行機三鷹研究所」の敷地の大部分、現在は「国際基督教大学(ICU)」となっております。
ちょうど訪問した 10月21~22日は学園祭「ICU祭」でしたので、(大雨ですが)このタイミングを狙って脚を運んでみました。

入り口は中島飛行機時代と変わらずの位置関係。

「中島飛行機三鷹研究所」は
南に「調布飛行場」を控え、
北には「武蔵製作所」。
北東には「東京製作所」。
絶好の立地環境。

そして中島知久平はその晩年を三鷹研究所内「泰山荘」で過ごし亡くなっている。
墓は三鷹研究所の西側に拡がる「多磨霊園」に。

多磨霊園
中島知久平墓

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月1日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

国際基督教大学学園祭「ICU祭」の時のみ一般公開される施設が大学構内にあるので行ってみました。

泰山荘

中島飛行機の中島知久平が晩年を過ごした地。

が、雨天中止。
こればかりはしょうがない。またこんどです。

参考 「泰山荘」 国際基督教大学サイト

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/taizanso_web/index.html

国際基督教大学(ICU)校内
泰山荘・表門

1936(昭和11)年頃の建設。表門だけは見学できました。
日産財閥の重役であった山田敬亮の別荘として建設され、昭和15年(1940)に山田家から中島飛行機に売却。中島知久平の住宅となった。

泰山荘
中島知久平
昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で軍需大臣及び商工大臣。
12月にGHQよりA級戦犯に指定。
病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱い。
昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

中島飛行機三鷹研究所として昭和16年12月に建築開始された建物がベース。
戦後、ICU所有後に中央4階部分を増築し窓外壁など改築し1953年完成。2003年に外壁を改装。

国際基督教大学(ICU)本館
中島飛行機三鷹研究所本部棟

大雨の為、学祭も室内メインに。
それゆえに外観の写真は逆に取りやすかったが。

本館は大幅改良されているので往時の雰囲気だけを脳裏に思い浮かべつつICUをあとにする。

泰山荘はまた次回に?
宿題ですね
〆

参考ニュース
↓
第二次世界大戦中に製造された ジェットエンジン・ネ 230 の排気ノズル と推定される部品をキャンパス内で発見

https://www.icu.ac.jp/about/public/press/docs/ICUPressRelease_%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E9%83%A8%E5%93%81_WEB.pdf

JR高尾駅に残る機銃掃射弾痕

平成29年11月・ほか撮影。

当時は「浅川駅」と称されていた「高尾駅」ホームに銃弾痕が残っている。


昭和20年7月8日

駅舎が米軍艦載機による機銃掃射をうけた爪痕。
そんな戦争の歴史を残す高尾駅を観察してみる。

同じ昭和20年7月8日の機銃掃射では「ランドセル地蔵」の悲劇もあった。


JR高尾駅

明治34年8月1日に浅川駅として開業。

現在の社寺風デザインの北口駅舎は大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、1927年(昭和2年)に竣工した2代目。

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

大正天皇大葬後、多摩御陵への参拝者は急増。輸送を担うは国鉄と京王電軌(京王電鉄)の2社。
運転本数の多い京王に人気があり、一方で劣勢の国鉄は利用促進のため「新宿御苑宮廷臨時停車場」の用材を用いて浅川駅(高尾駅)に移築改築をしたのが現在の駅舎という。

※高尾駅改修計画ではかつての皇室専用駅であった東浅川駅跡へ駅舎移築の予定となっている。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(31番)

2番線ホームの屋根支柱(31番)に米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。

銃撃痕
太平洋戦争末期(昭和20年)の米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕と思われます。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(33番)

2番線ホームの屋根支柱(33番)にも米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。
31番支柱及び33番支柱ともに銃撃痕の部分のみは塗装を施さずにわかりやすい状態となっている。


JR高尾駅 3番線ホーム屋根支柱(24番)

3番線ホームには「国内最古のレール」が、ホーム屋根支柱(24番)として使われている。

1901年(明34)に操業開始した官営八幡製鐵所にて1902年に製造されたレールであることを示しており、現時点で確認できる国産レールとしては最古のものとされている。


以下は現在の高尾駅舎が移築される予定の旧・東浅川駅の写真

旧・東浅川駅

八王子市立陵南会館跡(東浅川保健福祉センター第二駐車場)

今はヘンテコな駐車空間ですが、この場所にはかつて旧・東浅川駅(皇室専用の東浅川宮廷駅跡・昭和35年廃止)がありました。
社殿造の駅舎が八王子市に払い下げられて残っていたが、平成2年(1990)に新左翼系爆弾テロにより焼失…

市立陵南会館があった側から、参道(多摩御陵線)をのぞむ。

この陵南会館のあった東浅川宮廷駅跡は大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅であり、参道もその時に整備された。

参道の両脇

多摩御陵参道
武蔵陵墓地参道

ここから御陵参道が始まります。

南浅川を渡る。重厚な御橋。

南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋 。
御陵参道の橋は威厳にあふれている。

武蔵野陵の話は別の機会に。

筑波海軍航空隊跡散策

平成28年3月6日撮影

筑波海軍航空隊記念館が中心。

  • 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎)
  • かえり雲(流政之さん)
  • 号令台
  • 慰霊碑
  • 滑走路跡
  • 筑波神社跡(筑波海軍航空隊神社跡)
  • 地下戦闘指揮所跡
  • 地下病院跡(地下応急治療室跡)
  • 二所神社
  • 海軍道路
  • 笠間市立歴史民俗資料館
  • 正門跡
  • 供養塔

ずっと訪れたかった地。
「永遠の0」を観る前から。
観た後は更に… 尊い歴史を伝承する空間。
後世にこの歴史を受け継がねばならぬ、と。

散華されし若き海鷲達に感謝と哀悼を…

筑波海軍航空隊記念館サイト

https://p-ibaraki.com/

レポート当時(平成28年)と現在は展示状況が異なります。
あくまで参考でお願いいたします。

友部駅南口に到着。
記念館はここから南約2.5キロ。 到着の時間は朝8時。記念館の開館は9時。
ノンビリ歩いていきましょう。

南口より歩く。わかりやすい大通りをてくてくと。
大きな看板がみえてきましたね。
もう少し歩いていきます。

あえて現在の正門ではない方へ。開館時間まで余裕があるので散歩。

位置関係

USA-R1062-105
1948年(昭和23)03月02日、米軍撮影に補足

筑波海軍航空隊裏門
(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門)

筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として昭和9年に開隊。

その分隊時代は現在の裏門が正門。
門柱が戦前か戦後かは?だが、場所は大体同じようです…

現在は裏口。
徒歩は問題ないけど車はこちらからは入れません。
裏口を案内しちゃうナビも多々あるご様子。

私は徒歩なのでこのまま構内にはいります。

筑波海軍航空隊記念館
 筑波海軍航空隊司令部庁舎

裏口から入ってしまったので、記念館も裏から……
まずは正面に向かいましょう

かえり雲

正面では号令台と「かえり雲」彫刻が出迎えてくれました。

かえり雲の作者は流政之さん。
元筑波海軍航空隊隊員(海軍飛行科予備学生)出身。
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のために」寄附されこの地に設置。

号令台

正面には往時のままの姿を残す「号令台」
号令台の前には多くの若者たちが整列し、訓練に励み、そして飛び立っていき…

この場所に集いし桜はさぞかし美しかったことだろうと、想いを馳せると胸が熱くなる…

筑波海軍航空隊司令部庁舎

さて。館内へ。
この司令部として使われていた建物。
戦後は茨城県立友部病院管理棟としてそのまま転用。
平成23年10月に友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し新病棟に移設。

司令部であったこの建物は、解体予定のところを記念館として復活。

展示してあるものは一部を除いて撮影可能。
とても全部を語るのは難しいので印象深いものをランダムで。

こちらは英国アブロ504K練習機。海軍ではアブロ式練習機として中島が主に製造。黎明期の海軍練習機。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

往時のプロペラは合板なんですよ。
断面を見れば一目瞭然。わかりやすいですね。

プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。

下二段のプロペラ。
同じ九三式中韓練習機(赤とんぼ)ですが違いが分かります?

回転方向が違うんです。
どうやら工場によって右だったり左だったり…

流石に戦争中には、これでは効率もなにもあったものではないので規格統一がすすんでいったようですが、同じ飛行機でもエンジンの回転軸方向が違うのが驚き。
故障時にパーツのニコイチも出来たものではないし…これはアカン


関口富坂海軍大尉
開戦前は金剛の射撃手として乗艦。
開戦時には一航戦赤城乗組員として真珠湾・ミッドウェイに従軍。
次いで翔鶴乗組員として第二次ソロモン・南太平洋に。
乗艦が沈没するも無事に生還される。

「軍艦金剛」
銘入マグカップ
前述の関口富坂海軍大尉遺族の手によって発見され記念館にて展示。

昭和七年度
射撃幹部員競技
軍艦金剛
銘

小笠原諸島にて収集された遺品など。

陸上爆撃機・銀河のエンジン
艦上攻撃機・天山の第四風防(偵察員席)

小笠原諸島にて収集された遺品など。

艦上攻撃機・天山のエンジン
陸上爆撃機・銀河のエンジン

ひときわ大きな遺品。

二式大艇のプロペラエンジン。

筑波空記念館にて鎮座する遺品たちには御神酒が添えられてた。
自ずと手を合わせ頭を垂れる。
感謝の念と哀悼の誠を捧げ、ひとり静かに黙祷する…

零式艦上戦闘機21型。ゼロ戦。
後部胴体。

もともとはソロモン諸島でニュージランド空軍が回収した機体。
ラバウル航空隊所属機と推定。
払い下げ品を大阪の個人が購入し、この地にて展示。

十九試局地戦闘機「秋水」
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。
秋水の燃料タンクが陶器製とは知りませんでした。
ちなみに秋水は(末期ゆえに)陸海軍共同で研究された稀有な機体。

記念館の二階へ。
さらに時代を感じる気配がします。

しばらく、雰囲気を堪能します。
中央階段。二階廊下。

記念館二階中央。
司令室。

記念館2階。
副官室。

記念館2階の窓から

広場に眼をやれば桜並木が。
これもまた往時の姿を残すよすがかな…

記念館2階。

こちらは「永遠の0」撮影に使用された部屋。
陽の差し込み具合がやんわりとしていて良い雰囲気です。

記念館2階。

「永遠の0」撮影に使用された部屋にて。
雰囲気重視。

廊下を往来しておりますと、さっきから気になる部屋があるんですよね。
ん?
提督ONLY

扉をそーっと… 押して参ります!
あっ 確かに提督Only部屋っぽい。

さて改めてまして。
模型の展示室があります。ちょっと見てみます。


先任旗…港湾停泊時に司令官不在時に先任の艦長が乗艦している艦艇に掲揚。
代将棋…将官不在時に大佐等の艦長が司令官を務める際に掲揚。

大和格納庫(零式水上観測機)や赤城カットモデルなども展示してありました。

カットモデルはなかなか見る機会がないので新鮮。精密さにしばし見入ってしまいました。

武蔵
模型のこの部分がシブヤン海での映像ではコレと照会してくれているのは、わかりやすく。

こうやって様々な艦船が揃っていると戦艦空母と駆逐などのスケールの違いが視覚化されてよいですよね。
1/700

横山保さんの遺品など。
ゼロ戦が実験機(十二試艦上戦闘機)だったころから部隊を編成し機体の問題解決に尽力しゼロ戦の初陣を指揮。
筑波空飛行長も務め、戦後は空自にて司令などを歴任。

風防ガラスのペンダント

筑波空予備士官金井正夫少尉と女学生。 一度も会うことなく文通がとりかわされ、そして金井少尉は神風特別攻撃隊筑波隊として散華…

神風特別攻撃隊
神雷部隊(桜花)と筑波隊。

この筑波空が「まさにカミカゼの生まれた地」。
この歴史を風化させてはいけない。

筑波山神社で記念写真を撮る筑波空の隊員達の姿がひときわに美しく……

桜花。神雷部隊。桜花を搭載した一式陸攻。

先日、鑑賞させていただいた映画「サクラ花 桜花最期の特攻」が頭によぎる。
ボタンの掛け違い…こんな時代になるなんて…の想いがよぎる。
万感…

参考写真 映画ポスター
参考写真 映画のパンフレット

こちらは桜花の主翼の一部。

もともとこの建物は、司令部の役目を終えたあとは、病院として使用されたもの。病院の役目が終わり筑波空記念館として改めて活用されています。

展示部屋の中には病院の名残ぽい水道などもあり…

紹介しきれなかった展示も多数あります。私は9時過ぎから2時間ほどいましたが、まだまだ離れがたくもっと時間が欲しいと。
とはいってもスケジュールがあれなので、野外展示にスライドしましょう。


筑波海軍航空隊正門門柱

海軍道路の基地側には門柱が残っている。
筑波海軍航空隊正門

正門の脇にあるコンクリート壁も往時の名残り。

もともとこの記念館は県立友部病院。病院が平成23年4月「県立こころの医療センター」として隣接地にリニューアルし、元の建物は廃院。 ちょっとした廃墟感。 そんな中を抜けて建物の先にある供養塔へ。

筑波海軍航空隊
司令部庁舎庭園

供養塔まで赴く途中にあるこの荒れ庭。 司令部庁舎の裏庭として一応往時からのものらしいです。

筑波海軍航空隊 供養塔

昭和13年から筑波空司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔。

この供養塔を建てられた古瀬貴季氏(最終官位は少将)は、フィリピンで捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けるも「ああ、モンテルンパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事が出来ております。


記念館では自転車(有料)も貸してくれるので、有効活用。
周辺散策へと。

慰霊碑
筑波海軍航空隊 ここにありき

碑文

 一九三四年六月開隊。練習機による操縦教育開始。四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更。四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。

君は信じられるだろうか。

ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを 。 
また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを。
 この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える 。 
 ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる。

一九九九年六月                   
 筑波海軍航空隊関係者有志
 用地は橋本二朗氏提供

筑波海軍航空隊滑走路跡

滑走路跡。面影は直線的な道路を感じる程度。

もともとは平らに慣らしただけの土地だったものを筑波空が自力で昭和19年に滑走路整備したものという。

筑波海軍航空隊
筑波神社跡(筑波海軍航空神社跡)

戦後、GHQを恐れた地元住民によって壊されてしまい台座のみ残ると…
若鷲たちが祈願をしたこの場所で静かに頭を垂れ手を合わせる。

筑波海軍航空隊
地下戦闘指揮所跡
 ※現在は非公開

受付でご案内をいただき、懐中電灯とヘルメットが関与されます。
中に入って実感しましたが、ヘルメット大活躍。コツコツと頭ぶつけますからご注意を。
あと、花粉症の人。ヤバイです。杉林の中です。

地下戦闘指揮所跡。
懐中電灯が大活躍します。
通路がふたつ。部屋は真ん中に5つ。奥に1つ。奥行きは30m。

通路の奥では…プロジェクタ?戦争記憶を求める記念館の広報映像が流れていたり。
うん、印象深い演出だけとちょっとシュール。

地下戦闘指揮地下戦闘指揮所跡。
地下室。

青く見えるのはLED懐中電灯の影響。
素直に言ってかなり興奮する空間。

時間が止まったかのような空間。
無機質なコンクリートが歴史を伝承してくれている…

戦争記憶と記録を求めるポスト…

一番奥の部屋は通信室。
台座や金具跡が残る。

ちなみにこの地下施設は地上の司令部が無事に残ったので使われることはなかったとのことで。

天井に無数に開いている穴はケーブル孔や通気口など。
通気口は途中で折れ曲がって貫通しています。

地下戦闘指揮所跡。

こんな感じで地下室散策。
なかなか興味深い経験をさせていただきました。
これは貴重な歴史遺産。
このまま歴史伝承の装置として残しいかねばならぬもの。

もう一箇所、このエリアには地下施設があります。

筑波海軍航空隊
地下病院(地下応急治療所)

70年ぶりの発見!とのことで、こちらは近年の調査による成果。

地下病院は広さ16畳。奥には明かり取り用の窓もある。
地下戦闘指揮所とは違い、こちらは病院として実際に使用されてます。

明かり取り用の窓側を外から。

筑波空の地下施設。
圧巻でした。
これは一見の価値ありです。

貴重な遺産として、大変価値のあるものを体感させていただきました。
ありがとうございます。

さて、脇道へ。

地下施設の森の南に神社があるんですよ。
こりゃ、いかねばならないでしょ。

地下施設からは立ち入り禁止の道があるので大回りして神社に行ってみました。

二所神社

筑波空とは直接には関係ない…と思われるが界隈の鎮守様。
地下施設がある村の鎮守様。
昭和31年に耕地整理で池八幡神社の地に遷座。 この御社殿後方の杉林の中に先ほどの地下施設があるのだ。

海軍道路

筑波空正門から西に伸びる道路は通称「海軍道路」。
友部から筑波空までは海軍が建設し、そして地元の有志によって宍戸駅から筑波空までの道路が建設。
海軍と地元が交流する橋渡しの道路。

海軍道路の脇には道路建設に貢献した人々の名前が刻まれた石碑が残ってます。
石碑には昭和十年五月と記あり。

長閑な気持ちで、宍戸の集落を遠望。往時も今もそんなにかわらない光景かもしれない。

海軍道路から宍戸の街を抜けて行く。
宍戸駅に向かう途中に笠間市立歴史民俗資料館がある。

旧宍戸町役場庁舎(旧友部町役場庁舎)
笠間市立歴史民俗資料館

国登録有形文化財指定。 ちょっと立ち寄り。

笠間市立歴史民俗資料館。
入館は無料。
訪れた時は私一人でした。

空間を満喫。
手作り感満載の展示はなかなか味があって面白い。 たまにはこうやって郷土史や郷土民俗に触れるのも楽し。

筑波海軍航空隊にまつわる展示室もあります。
いまでこそ資料的密度は筑波海軍航空隊記念館が勝っておりますが古くからこうやって郷土の資料館にもコーナーがあることに敬意を表し。


筑波海軍航空隊記念館に戻りまして。

記念館1階では、お土産や書籍やグッズが販売されております。 後学のために購入。
「茨城県の戦争遺跡」
これから 足を運ぶ事が増えそうです……

記念館が、作成したパンフレット。 なかなか読み応えのある内容。 22ページと6ページの冊子。

戦争の記憶と記録を伝承し風化させない為の空間として。
先人たちの苦難を見つめ直す空間として。

期間限定公開が終わってしまうその後はどうなるのかが未知ではありますが…
なんとか良い方向へと進んでいくのを希求しつつ。

この空間は後世に必要なのです…

桜並木と司令部庁舎は往時と変わらぬ姿ででそこにあった。

この地より飛び立つ若鷲たちを見送ってきた桜並木。

万感の想いで脳裏で夢想する。
きっと、この桜花の咲く季節に訪れたら、泣いてしまうんだろうな…と

〆

銚子の戦跡散策

千葉県銚子市に点在する戦争関連の史跡を散策してみる。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

銚子市の末広町広場に昭和57年建立の碑がある。

戦災復興記念碑

銚子はその立地条件も影響し、三度の空襲を受けている。
昭和20年3月9日、7月19日、8月3日。被災建物は5142戸、死傷者は1200人

戦災復興記念碑
 千葉県知事 沼田武

 銚子市は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年3月9日、7月19日及び8月3日と三度にわたる空襲に見舞われ、市街地の中心約126ヘクタールが焦土と化した。
 その被害は、建物5,142戸、死傷者1,200人を数え、誠に悲惨な状況であった。同年8月15日、終戦となるや、政府は全国120余の戦災都市を対象に「戦災地復興計画基本方針」を定め、平和な文化都市の建設をめざした。
(略)
 ここに、銚子市の平和と発展をねがい、市民及び関係機関が協力して完成させた事業の成果を永く後世に伝えるため、この地に記念碑を建立するものである。
 昭和57年11月

戦災復興記念碑より更に歩みを進めると、小川があり小さな、そのくせに重厚な橋が見えてくる。


復興橋

昭和31年竣工。
銚子市公正市民館のとなり。 文字通りに復興の象徴。


旧・公正会館 (臨時病院)

銚子空襲時の臨時病院
現在は銚子市公正市民館

銚子空襲時にあたりの木造家屋が焼失するなかで、鉄筋コンクリートの当建物は焼け残り、臨時病院として機能した。
1924年(大正13年)建築。

1924年(大正13年)建築。
醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油)の当主濱口儀兵衛(10代目儀兵衛・醤油王・ヤマサ醤油の祖)の手による建築物。

外壁も当時の物か? 年代を感じさせる。
ちなみに正面には図書館と記載がありますが、現在は後方の別建物が図書館となっている。


飯沼山円福寺

坂東三十三観音霊場の第27番札所。飯沼観音とも。
銚子電鉄観音駅最寄り。

大仏様にある点々とした修復の跡。
これは銚子空襲時の機銃掃射の弾痕跡を修復したもの。

なお、仏像の台座の穴は、銃撃痕ではなく、機銃掃射痕は「膝のところにある数か所」のみとのことです。混同してましたので、次回の銚子訪問時に写真取り直したいと思います。。。。

この台座は関係なかった。。。


銚港神社

飯沼山円福寺(飯沼観音)の隣には鎮座している銚港神社。 御神木のケヤキも銚子空襲時に機銃掃射を浴びているものの、いまではその悲劇を感じさせることもなく深緑を魅せてくれている。


震洋秘匿基地

場所はなんとなく清水町と弥生町のあたり。具体的な明記は避けておきます。私有地にあたるので。
銚子電鉄の本銚子駅が最寄り。

昔の本銚子駅(リニューアル前)。
リニューアル後も、なんども足を運んでいますが、なんとなく以前の写真で。

銚子はその土地柄、海軍の秘匿基地が展開されていた。

震洋

モーターボートに炸薬を搭載した特攻艇。

銚子外川 第58震洋隊
銚子飯沼 第139震洋隊


銚子には、この二部隊が展開されていた。
銚子外川に展開されていた第58震洋隊を物語るものはなく飯沼の第139震洋隊に関しても多くはないが… 某水産加工会社敷地内に震洋格納庫が残っている、と。

確かに壕が見えますね。機会があれば見学を相談してみよう・・・

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇
各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という

原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

銚子飯沼の震洋格納庫跡近くに。
なにやらレンガ積みの小屋?がありました。
用途不明。関連性も不明。
この周辺には標石もあるらしいが時間的余裕なくて今回は捜索断念。また着ましょう。


陸軍銚子飛行場

市立銚子高校の裏手。地名は千葉県銚子市春日台町。わかりやすい台地の上に、かつて飛行場があった。

位置関係

USA-R1069-63
1948年( 昭23 )03月02日撮影

翔天の碑

陸軍銚子飛行場の跡。
正式表現は「下志津陸軍飛行学校銚子分教場」。

1936年(昭和11年)銚子に下志津陸軍飛行学校分飛行場が建設され、下志津陸軍飛行学校銚子分教場が設置される。

翔天の碑
この地に飛行場ありき
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地

碑文
かつてこの地に下志津陸軍飛行学校分教場があった。 
同分教場はこの春日台を中心とした約四十万平方米の小規模のものだったが太平洋戦争末期には八紘石賜隊が結成されこゝから出陣し還らぬ人となった。
この史実を風化させることなく現在の日本の平和と繁栄が数多くの尊い犠牲のもとに築かれものであることを思い起こし二度とこのような過ちを繰り返さぬよう心から平和への願いが天翔ける祈りとなってこの地から津々浦々に及ぶことを心より念じこの翔天の碑を建立した
平成五年十一月八日 翔天の碑建立委員会

現在は、丸池・平和公園として、整備されている。

以上は、平成28年(2016)5月撮影


銚子市忠霊塔

銚子市青少年文化会館や銚子体育館、銚子野球場などがある一画、前宿公園に、忠霊碑が建立されている。

左から忠魂碑、忠霊塔、嗚呼戦災死者之碑
忠霊碑のみ戦前(大正4年)に建立。その他は戦後の建立。

銚子市が紀元2600年記念事業として、当地に忠魂碑を建立予定であったが、整地のみで終戦。戦後に忠霊塔が建立された。

忠魂碑

 この忠魂碑は過去幾多の戦役に散華された英霊の遺徳を顕彰するため大正4年御前鬼山に建立されてあったが、昭和20年占領軍により解体撤去を余儀なくされた。爾来再建の日が待たれていたが終戦33回忌にあたりかつての戦友や関係者の協力を得てこの地に再建し永くその遺徳を後世に伝えんとするものである
 昭和52年10月
  銚子遺族会

元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎書

大正4年帝國在郷軍人會 銚子町分會・本銚子町分會 建之

忠霊塔

昭和30年建立。明治10年の西南の役以降に犠牲になられた多くの戦没者と戦災死者を合祀。

戦没者英霊菩提

石灯籠は平成9年建立

嗚呼戦災死者之碑

第二次世界大戦の末期昭和20年3月9日及び7月20日8月1日の3回に亘り銚子市は敵機の空襲を受けました。其の際我等が同胞337名は悲惨にも萬感の思ひをこめて戦災死致しました。
嗚呼実に痛恨の限りであります。時あたかも本年は戦災死後33回忌に当り鎮魂の願ひをこめてここに慰霊碑を建立し以て諸霊の御冥福を心より祈り上げます。
 戦災死者慰霊碑建設委員会
  代表見呂津太兵衛書
    長塚由松
    他有志一同
 昭和52年8月15日
  題字 銚子市長嶋田隆書

以上は2020年12月撮影


銚子にはほかにも戦跡スポットはありますが、ひとまず〆


関連

京都伏見の戦跡散策

平成30年8月

京都府伏見区深草の陸軍第16師団関連の戦跡(戦争史跡)散策

関西方面に行く用事がありまして。
隙間の時間で京都府伏見区深草エリアに残る陸軍第16師団名残の遺構を探しつつ散策してみましたので以下に展開してみます。

位置関係

国土地理院・地図・空中写真閲覧サービス

番号:USA-M205-A-8-30(1946年07月24日・米軍撮影)をベースに、GoogleMapで現在の位置関係を把握しつつ。
今回の散策は師団街道より東側を。 西側は時間的余裕がなくて断念しました。

まずは深草駅を目指します。
このエリアは一つ手前の駅(伏見稲荷駅)までしか利用したことなく、散策も伏見稲荷大社方面しかなく。
京都方面で戦跡を探すに当たり、単純に「京都 戦跡」のキーワードで検索すると「鳥羽伏見の戦い」だったりして、なかなかに京都は戦跡の歴史も奥深く…

京阪本線・深草駅
東に向かえば伏見稲荷大社・稲荷山南部。そして京都市深草墓園がある。深草墓園は、かつての「陸軍墓地」。しかし今回は時間がないので東ではなく西に。

交差点の先には「京都府警察学校」
かつては「陸軍兵器支廠(京都兵器支廠)」第16師団の武器庫。
もちろん入れないので遠望で。

次の交差点まで南下します。

南北の道が「師団街道」
東西の道が「第一軍道」
交差点名は「師団街道龍大前」

歴史を知らないと軍靴の音で発狂しそうな交差点。
ここから東にすすみ琵琶湖疏水を南下。

龍谷大もかつての「陸軍兵器支廠」跡地。

琵琶湖疏水

伏見深草のこのあたりには歴史的な趣ある石橋(大正12年9月造営)が多く残ってます。 これはゆっくり散策すると楽しそうです。 (この日は暑くて散策に不向きな陽気でしたが・・・

第二軍道・師団橋

東西に伸びる「第二軍道」
琵琶湖疏水にかかる橋が「師団橋」

橋はリニューアルされていても現在でも往時の名が継承されている。 そして橋桁には「陸軍のシンボル五芒星」が残っていた。

傍らに欠けた石碑が残っていた。
「○月竣工 第十六大隊架設」

この第二軍道の道脇には往時の支柱が点在しており、きょろきょろするとなかなか先に進めなくなってしまう。

陸軍第16師団司令部庁舎跡
(現・学校法人聖母女学院本館)

第二軍道を東に進むと「聖母女学院」に辿り着く。
藤森キャンパスは戦後に払い下げを受け、学院本館は司令部庁舎を継承している。

建物内部は非公開
「敷地外(門の外)からなら撮ってもいいよ」
守衛さんの許可を得て、建物を敷地外より撮影

陸軍第16師団司令部庁舎跡 (現・学校法人聖母女学院本館)
すぐわきに、ありました。

陸軍境界標石

陸軍第16師団

日露戦争に際して本土残留師団がいなくなってしまったために新設。明治38年(1905)7月18日に京都で編成。 昭和10年6月の鴨川水害では京都府の救援依頼を受け救助活動や復旧活動に従事。 太平洋戦争ではフィリピン攻略に参戦。昭和19年にはレイテ島守備に徹し、そして第16師団は壊滅。


そのまま南下して藤森駅近くに埋もれた「紀元・・・」なものをみたり、京都市立深草小学校の手前にも「紀元二千六百記念」をみたり。

深草小学校の東側には騎兵第20聯隊が展開されていました。 行ってみましょう。

騎兵第二十聯隊跡 

峰堂 謹書
為平和祈願
昭和50年4月27日

騎兵二十連合会建立 深草小学校の東側に位置する住宅街の片隅に。
敷地内には騎兵とともにある軍馬の「馬繋柱」も残されていました。

碑面裏

明治三十八年七月第十六師団ノ騎兵聯隊トシテ姫路ニ於テ編成 同年八月軍旗拜受
明治四十一年十一月此地ニ移設 昭和十六年捜索第十六聯隊ニ改編 同年三月軍旗奉還
昭和二十年比島ニ於テ歴史ヲ閉ヅ
尚 当聯隊ニ於テ編成サレタ部隊ハ左ノ通リ
昭和十三年 騎兵第百二十大隊(中支方面)
昭和十六年 捜索第五十三聯隊(ビルマ方面)

昭和五十年四月二十七日 騎兵二十連会建之

騎兵第二十聯隊跡地より商店街(本町通り商店街)に戻り、すこし歩くと、一瞬目を疑う看板が見えてくる。

軍人湯

あぁ、これは絶対に寄り道したくなるやつです。
当時は16師団の軍人たちの憩いの湯だったことでしょう。
(残念ながら、この日は時間がなくて汗を流しに立ち寄れませんでしたが)

https://www.sankei.com/west/news/140815/wst1408150013-n1.html

騎兵第20聯隊の南には陸軍病院(陸軍衛戍病院)があった。

陸軍病院(陸軍衛戍病院)

かつての「京都陸軍病院」 現在は、独立行政法人 国立病院機構 京都医療センター となっている地。 行ってみましょう。

京都医療センターの南側の奥に。
「京都陸軍病院跡碑」
「行啓記念碑」
「大日天白如来」
3つの歴史的な記念物が集められている一角がある。

しかし不穏な張り紙が。
「駐車場整備のために石碑を撤去?」
噂では撤去ではなく移設とも。ただ移設先に苦慮しているとも。 この先どうなるのでしょうか…

京都陸軍病院趾

京都陸軍病院記念碑

由来

 京都陸軍病院ハ明治四十年六月衛戍病院トシテ此ノ地ニ開設セラレ
 ソノ後継続シテ傷病将兵ノ収容治療並ニ衛生部員ノ教育養成ヲ担ッテイタカ昭和二十年十二月国立京都病院ニ継承サレタ
 京都陸軍病院ニ関連シタ者テ組織スル京病会ハ創立二十周年記念事業トシテ其ノ名ヲ後世ニ遺スヘク此所ニ記念碑ヲ建立スル

昭和五十九年八月
京病会記念碑設立委員会

京都陸軍病院趾
京都陸軍病院記念碑

記念碑の隣にある石灯籠は陸軍病院時代の遺構と思われる。
よくみると「昭和五 六年度」と記載があり。

行啓記念

京都師団長 森岡皐 謹書

陸軍病院時代を物語る遺構。
昭和16年5月18日、 皇后陛下が関西行啓時に京都陸軍病院をご慰問された事を記念。
京都陸軍病院院長・三浦大三郎医大佐建立。
揮毫は第16師団長森岡皐中将。のちフィリピン攻略作戦時の第14軍(軍司令官本間雅晴中将)麾下で活躍。

大日天白如来

京都陸軍病院時代、工事中に給食棟の地下から発掘された如来様。
鎌倉時代の大日天白如来地蔵仏であるという。


さて、 京都陸軍病院を物語る歴史的な石碑などの今後の成り行きを気にしつつ(撤去→移転であることを切に願います)、次の目的地に向けて移動を。

藤森神社の東側。
京都教育大学があるエリアに歩兵第38聯隊が展開されていた。
冒頭の航空写真ツイでも藤森神社の社叢と聯隊衛戍地がはっきりわかる。

藤森神社北東に鎮座

京都歩兵聯隊跡 

舞 傳男 書

舞 伝男 陸軍中将(陸士19・陸大31・第36師団長)
陸士19同期は今村均、本間雅晴、田中静壱など

京都歩兵聯隊跡記念碑

碑文
藤の森神社東側の台上は 五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 十万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死を誓い 日夜修身練武に精進した深草兵営の跡である。
 歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり 明治七年に創設せられて大津にあった。 これを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した。 大正十四年五月 軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第九聯隊主力がここに駐屯することになった。

 歩兵第九 第三十八の両聯隊は 明治三十七・八年の日露戦争に出征 第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して赫赫たる武勲を建てた。 満州事変にさいしては京都第十六師団の隷下にあつて北満の警備に任じ ついで昭和十二年支那事変勃発するや北支 中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い長駆大別山を突破して武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした。 歩兵第九聯隊は 昭和十六年大東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の後主力をもつてレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯隊の歴史を閉じた。  時 昭和十九年十二月八日
(略)

 顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとを出陣するにさいし 戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤の森神社(藤森神社)であった。 今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶えて久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている。
しかしながら 祖国を愛し、祖国を護り、進んで国難に殉じた郷土部隊の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである。

 時あたかも明治百年を迎えるに当たり、ここに京都歩兵聯隊関係者一同あい図り、由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長くその功を讃え陣歿した幾多の英霊を慰めるとともに、国連の隆盛と世界の平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである。

昭和43年4月18日
京都歩兵聯隊跡記念碑建設会

藤森神社

旧社格は府社。
本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀る。
東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王
創建由来は諸説あるが神功皇后三韓伝説に遡る古社。

御社殿(中殿)は国重要文化財指定
旧御所賢所
正徳2年(1712年)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所であり、現存する賢所としては最も古いものという。

御旗塚
神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、藤森の地に軍旗を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったとされる、藤森神社発祥の地。

「いちいの木」(いちのきさん)は腰痛が治るとされ、近藤勇も通っていたという。
御神水も湧いておりました。

手水鉢台石
石川五右衛門伝説もありました・・・
(これだから京都の歴史密度はヤバイ)

実は初めて参拝でした。
歴史ある古社だけあって、その空間に魅了されつつ。

夕刻で社務所が閉まる17時直前でしたのでしょうしょうせわしなく参拝したのがもったいなく。

「藤森神社」

忠魂碑

明治39年(1906)6月建立。
陸軍中将 塚本勝嘉 書
日露戦争の忠魂碑

塚本勝嘉陸軍中将は日露戦争のさなか第4師団長に就任し奉天会戦で活躍。

白松(シロマツ・白皮松・白骨松)

昭和10年頃に京都陸軍第16師団長が就任記念として寄進したと伝承されている。
一部には石原莞爾とも言われているが石原の師団長就任は昭和14年。
昭和10年以降だと、
 渋谷伊之彦(昭和10年)
 児玉友雄(昭和10年)
 中島今朝吾(昭和12年)
 藤江恵輔(昭和13年)
 石原莞爾(昭和14年)

今回は御朱印帳は持参してませんでした。行程が不安定で神社に赴くかわからなかったので。結果ギリギリで藤森さんに寄ること事が出来て、社務所を伺ってみて。
はてさて。そういえば鶴丸国永で有名でしたね。
うーむ。
白色御朱印帳と通常御朱印、特別御朱印を頂戴してしまいました。

時間的に藤森神社さんでタイムアップ。

まだ時間があれば、ここより西側の京都教育大学付属高校に残る輜重兵第16大隊関連の正門や歩哨などにも足を運びたかったのですが残念。次回の課題に。

この日は深草駅スタートで藤森駅を経て墨染駅ゴールの散策。
所要2時間といったところでした。

参考:
京都市伏見区>深草に残る戦争遺跡

https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000187027.html

旧日立航空機立川工場変電所

平成29年撮影

「東大和南公園」内
「旧日立航空機立川工場変電所」


本記事は、古い記事となります。

2021年の補修工事完了後の再訪記録は以下になります。2階部分も公開となっております。
以下が最新記事です。


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年(1938)から平成5年(1993)まで使用されていた変電所跡。 昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。

周囲を廻ってみると正面の一方向(南側)のみに猛烈に機銃掃射を受けたのがよくわかりますね。

旧日立航空機立川工場変電所

昭和13年建設。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

毎月第2日曜日の午後1時~4時に公開があります

2022年現在、公開日は異なります。最新記事を参照ください。

ということで、公開日に出直ししました。

東大和市
「旧日立航空機変電所」
毎月第2日曜日 13時~16時に内部一般公開

https://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,63727,359,html

旧日立航空機変電所 一般公開

耐震強度の問題から1階部分のみの公開。
それでも間近で拝見できるのはありがたいです。
階段部分。
正面の機銃掃射や爆撃の破片などにより階段や手すりにその痕跡が残っておりました。

階段の裏側には爆撃の痕跡が。
窓から飛び込んできた爆弾の破片によるものとされています。

2階は立入禁止。

2階の様子はパネル写真で。
機械にも機銃掃射の跡が残っている。

爆弾の破片で貫通した穴がありました。
解りやすいように鉄棒を差し込んであります。
破片が外部からコンクリート壁に当たった衝撃波で、内部もダメージが生じるとのことです。

外側から

米軍250キロ爆弾実物大模型

B‐29爆撃機から投下された爆弾は関東では250キロ爆弾が多く、関西では1トン爆弾が中心だったという。

保存に至る過程など。

コンクリートの中性化が進行。
常時公開するには耐震工事が必要。
文化財を保存することとの矛盾。

多くの近代建築が抱える悩ましい問題点・・・

東洋陶器(TOTO)の洗面台。
鷲のトレードマーク付 このマークは昭和7年~昭和36年まで使用されていたもの。洗面台が戦前製造か戦後製造はメーカーでも特定できなかったが、古いものであるのは間違いなく。

書籍を購入。 この手の本はその場で購入しないと購入経路も限られておりなかなか入手ができないものなので。

西の原爆ドーム、東の変電所
戦災変電所の奇跡
東大和・戦災変電所を保存する会編
2017年4月1日発行

ありがとうございます!

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

工場への攻撃は3回あり110余名に及ぶ死者を出している。 この慰霊碑は平成7年に戦後50年の節目に小松ゼノア社(日立航空機の後身)構内に建立。平成12年に現在地に遷座。

3度の空襲による110名の尊き犠牲者に黙祷。

給水塔モニュメント

給水塔は平成13年に維持困難のために取り壊し。 そのモニュメントとして爆撃痕の残る壁面一部を切り取り部分保存。

防護壁

変電所の北側に作られた受電施設の東西にあり外部との分離をしていた防護壁。 受電設備とともに解体され、爆撃痕を残す一部が切り取り保存。

変電所では高圧電流取扱のため不用意な立ち入りを制限するために防護壁が設けられていた。 防護壁にも爆撃痕などが残っており、奇しくも別の意味での防護も。

北側変電施設の碍子

これは戦後(昭和36年製)というが、戦前も同じように「巨大な碍子」(絶縁体)が使用されていたという。

東大和・戦災変電所を保存する会

http://sensaihendensyo.iinaa.net/index.html

ありがとうございました


何かのプロペラエンジン。 変電設備の部品モニュメントなどが周辺に散りばめられている。

鯉のぼり。藤の花。そして伝承される戦争遺跡。 昭和の激動とともに歩んできたコンクリートの建造物は、往時と変わらぬ姿のまま、平穏な空間のなかに鎮まっていた。

〆