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「日本の航空事始め・その8」伊藤音次郎と航空神社(東峰神社・成田)


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録も、気がつけば「その8」となっておりました。

「その1」はこちら。

「日本の航空事始め・その3」では、民間航空のパイオニアとして「奈良原三次」の記事を書いたときに、民間パイロット第2号にして、民間人として初の帝都初飛行をした「伊藤音次郎」にも触れ、末筆で「東峰神社」のことも記載をしていた。
もともと「伊藤音次郎」を知る前から、「成田空港にある東峰神社はヤバい(色んな意味で)」という話も聞いており、興味は持っていた。
先日、足を運びたいと思っていた「東峰神社」にようやく訪れることができたので、以下に記録を。

「日本の航空事始め・その3」では、
伊藤音次郎に関連として、
 旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎
 山縣飛行士殉空之地
などの掲載をしている。


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎の操縦にて、伊藤飛行機が開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。

戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」(恵美農場)を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。

昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく満80歳で他界。成田空港の開港は7年後の1978年であった。


航空神社(航空科学博物館)

航空科学博物館内鎮座。
祭神は天照大神・天鳥船命。
ご神体の木札には、長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者8名を祀っている。
最初の建立地は「伊藤飛行機研究所」(習志野市)。

長男の伊藤信太郎は、1936年に19歳の折に日本軽飛行倶楽部の練習中、二等飛行士・斉藤国松操縦の練習機に同乗し墜落。二人とも落命している。

山縣豊太郎は、伊藤飛行機研究所の第一期生として1917年(大正6年)に卒業。伊藤音次郎の一番弟子。後に日本民間人初の連続宙返り飛行を成功させる。1919年(大正8年)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

伊藤飛行機研究所は、1937年に「伊藤飛行機株式会社」となり、1942年には「日本航空工業(のちの日産車体)」と合併。

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

天照大神・天鳥船命のほかに、
伊藤音次郎の長男の信太郎や天才飛行士と呼ばれた山縣豊太郎をはじめとする、航空黎明期の殉職者を祀っている。

YS-11のうしろ。

シコルスキーS-62のうしろでもある。

YS-11試作第1号機

航空宇宙技術遺産
YS-11

一般社団法人日本航空宇宙学会は、2024年4月19日にYS-11型国産旅客機を航空宇宙技術遺産に認定しました。試作1号機を展示する当館は、認定証を受領し、館内に展示中です。

日本航空機製造 YS-11
 この機種は、日本の日本航空機製造が1962年(昭和37年)から生産した66人乗りプロペラ旅客機です。
 この機体は、試作第1号機で、日本航空機製造の社有機として各種の試験飛行に使用されていました

スピード:時速450Km
エンジン:ターボプロップエンジン 2台(各2,700馬力)
機体全体の重さ:23.5トン
運べる重さ:10トン
価格:5億7,600万円 USS1,600,000(昭和45年当時)
当機が飛行していた期間:1962~1982
(寄贈 日本航空機製造)

YS-11
航空宇宙技術遺産

YS-11航空宇宙技術遺産に認定!
YS-11が日本航空宇宙学会の航空宇宙技術遺産に認定されたため、4月19日
航空科学博物館が代表で認定式に参加しました。認定式には、試作1号機を展示する当館のほかに、量産1号機を展示する科博廣澤航空博物館と、型式証明を保有する三菱重工業株式会社が参加しました。

どうして認定されたの?
YS-11は、戦後7年間の航空に関する活動禁止の後、日本で初めて設計、生産された国産旅客機です。日本初の与圧キャビンを持った中型輸送機であること、初めて型式証明をとった機体であることなどが評価されました。また、日本国内だけでなく、海外でも多く使われました。高い運航率を誇り、国内の旅客機としては2006年まで40年にわたって運航された、非常に
優秀な飛行機でした。これらYS-11 シリーズの開発経験や運用実績は、その後のXC-1の開発などに活かされており、戦後ふたたび航空機設計の基技術を確立したとして航空宇宙技術遺産にふさわしい機体ということです。
YS-11試作1号機
当館のYS-11は1962年に初飛行に成功した実機です。型式証明取得のために試験飛行に使用されていました。
その後、大阪国際空港にてANAの整備訓練機として第二の人生を過ごしていました。航空科学博物館開館にあたり、当館の初代理事長でありYS-11開発の主要人物だった木村秀政が試作1号機を展示するよう働きかけ、1989年に当館に設置されました。
航空科学博物館

展望台から

場所

https://maps.app.goo.gl/sbhyvcnq5owssoxw7


東峰神社

1945年、GHQによる航空禁止令を受けて、伊藤音次郎は航空業界を去り、「恵美開拓農業協同組合」を結成し、成田市東峰に入植。
1953年(昭和28年)に東峰地区に伊藤飛行機研究所で祀っていた「航空神社」を遷座。報徳二宮神社から二宮尊徳を合祀。
のちに航空神社は、東峰神社に社号変更。東峰地区の開拓産土神として崇敬された。
成田空港(新東京国際空港)の建設に際して、2001年(平成13年)9月に、伊藤音次郎の遺族の要請により、「東峰神社」には二宮尊徳の御霊を残して「航空神社」として山武郡芝山町にある航空科学博物館の野外展示場へ遷座。現在に至る。

現在の東峰神社には、二宮尊徳の神霊が、東峰地区の開拓産土神として祀られている。

手水舎は、東峰に遷座とともに、伊藤音次郎が鷺沼の伊藤飛行機研究所から持ってきたもの

皇紀二千六百年
日本航空三十周年
日本軽飛行機倶楽部

東峰神社

東峰神社の社号標の裏面

航空神社

こちらも伊藤音次郎が、伊藤飛行機研究所から持ってきたもの。

皇紀二千六百記念
社友会

この日は、快晴であったが、風向きがわるく、東峰神社の滑走路(B滑走路)は使用されず、航空機を間近で見ることはなかった。

むかしは、警備監視が厳しく職質もされたとのことだが、近年は飛行機が近くで見れる観光スポットになっているようで。


「三里塚闘争」とか「成田闘争」とか、そういう戦跡といえば、戦跡ではあるが、私のライフワークとはちょっと違う。

場所

https://maps.app.goo.gl/mUXg5QZZHSdL6EeQ7


東峰十字路事件の慰霊碑

戦跡の方向性が違うとはいえ、眼の前に慰霊碑があれば、手を合わせる。

この近くの天神峰で、成田空港建設反対派の襲撃により、3名の警察官の方々が命を落としている。
神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査が殉職をされた。(没後、二階級特進し、それぞれ警視・警部・警部補に昇進)

合掌

https://maps.app.goo.gl/yUV8JMYmHcHqzeXe9

https://maps.app.goo.gl/TDeaRRuxeRyJbhbN7

https://maps.app.goo.gl/j7BJLdCoo3Lbx9U68


航空科学博物館

日本初の航空専門博物館という。1989年開館。

以下、興味持ったものを。

イスパ/V型エンジン
the Hispano-Suiza V-type Engine
フランスのイスパノ·スイザ社が、1927年から生産したピストンがV字形に配置されているエンジンである。
日本では三菱重工業で1930年から製作され、旧日本海軍十三年式空母用攻撃機に使用されたエンジンである。

零戦コクピット
世界で最も有名な日本機である零戦(レイセン)の操縦席に乗ってみよう。
零戦は、旧日本海軍が三菱重エに発注した、一人乗りの空母搭載用飛行機で、原型機は1939年に初飛行した。
開発の責任者である三菱重エの堀越氏は、世界的に有名な設計者である。

航空機の歴史、とか。

日本の名機

奈良原式 四号飛行機「鳳」号
旧日本海軍 横須賀工廠式 ロ号甲型 水上偵察機
川西式 K-7A 水上輸送機

旧日本陸軍 八八式偵察機
朝日新聞社 「神風」号
航空研究所 試作長距離機

旧日本海軍 零式艦上戦闘機

毎日新聞社「ニッポン」号

あぁ、MRJの夢

朝日新聞社 A-26 長距離機
旧日本海軍 彩雲 艦上偵察機

下田信夫画伯の飛行機画。

お、この展示コーナーは既視感があるぞ。
所沢航空発祥記念館の出張展示。

YS-11のカット模型、これは初めて見た。

YS-11 試作1号機
カットアウェイモデル(1/20)

この模型は、国産旅客機 YS-11 試作1号機をもとに製作された「カットアウェイモデル」です。カットアウェイモデルとは、航空機メーカーや航空会社が顧客向けのプロモーション用に製作した、一部を切り欠いて内部構造や客室の様子を示す模型のことです。
機体の技術的特徴や、提供を想定した機内サービスを分かりやすく伝える目的で用いられました。屋外展示場にある実機の試作1号機には、客室内装や座席は設置されませんでしたが、この模型には当時想定された客室レイアウトやデザインが再現されています。
模型職人の高度な技術と、YS-11が描いていた旅客機像を知る手がかりとなる貴重な資料です。
(所蔵:鉄道博物館)

展望台から。これは一日眺めていても楽しい。

クロネコヤマトの貨物専用機(フレイター)。
なんかカッコよくて可愛いぞ。

平和佛舎利塔、成田空港建設の歴史に絡む寺院

時間の都合で、「成田空港 空と大地の歴史館」に行くのをうっかり失念していたこと。
また行かないと。。。

※2026年1月撮影


関連

日本の航空事始め

はじめに


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基(軍都柏・その9)

柏飛行場の「教材置場」見学会に参加した際に、「柏歴史クラブ」さんが展示していた燃料庫の写真に、「おっ!」と思い、話を聞いてみると、昨年に整備されて公開になった、と。
以前に訪れたときは、まだ地中だったんですよね。これは行かねば、ということで、柏の葉キャンパス近くの「こんぶくろ池自然博物公園(一号近隣公園エリア)」に足を運んでみました。

前回訪問時の上記記事では、まだ地中の中で、埋設保存だった。


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基

再整備され、保存されている、ロケット戦闘機「秋水」燃料庫2号基。
おおお!
整備されている!

秋水と燃料庫

秋水
 「秋水」は、米国の B29 爆撃機に対抗するために、ドイツのロケット戦闘機をモデルに日本の陸海軍が共同で開発を進めた迎撃用有人ロケット戦闘機です。
 昭和13年(1938)、今日の柏の葉地域に首都東京の防空を目的として、陸軍柏飛行場が設置されました。太平洋戦争末期になると、飛行場は秋水の基地として指定され、昭和 20年(1945)から、陸軍による実戦配備のための実験や訓練が開始されました。一方、海軍は7月7日に横須賀で初の飛行試験を行いましたが失敗し、秋水は完成することなく終戦を迎えました。

秋水燃料庫
 柏市内に造られた秋水の燃料庫(推進剤貯蔵施設)には、2種類あります。
●既製品の下水道管であるヒューム管を用いたL字型半地下式【柏飛行場の東·柏の葉地域】
●大型のコンクリート製コの字型覆土式【ここからさらに約4km.東の花野井·大室地区】
 ここに残るヒューム管式の燃料庫2号は、内部に設けたコンクリート製の棚に高濃度過酸化水素「甲液」を入れた大きなガラス瓶を並べて保管したと伝えられます。
 平成22 年(2010)、柏歴史クラブの調査により柏の葉地域でいくつかの燃料庫が確認されました。こんぶくろ池自然博物公園内(一号近隣公園エリア)には、現在も2基の燃料庫が保存されています。

秋水燃料庫2号
 現存する2号の燃料庫本体の長さは約2.5mですが、当初は8本のヒューム管が連結され、全長20mあったと推測されます。この燃料庫には、20リットル瓶を64本貯蔵可能であり、その重量は約1.7トンとなります。飛行時間7分30秒で1.5トンの過酸化水素を使い果たす秋水にとっては、わずか1回分の貯蔵能力です。
 燃料庫2号の貯蔵室後方上部には、コンクリート製の円盤が残っています。この構造物はコンクリート管で燃料庫内部とつながり、上面には円筒形の壁が立ち上がっていた痕跡が確認されており、燃料庫内部での撒水及び燃料の流出・火災の発生に備えるためであったと考えられます。
 令和7年3月 柏市教育委員会

リング状遺構は消火用貯水槽の底部と推測。
この上部には、円筒状の消火用貯水槽があったと推測されている。
貯水槽とヒューム管は管でつながり、過酸化水素の流出や火災の場合に大量の水を流す仕組みであった。

ヒューム管の長さは約2メートルで、それを9~10個つないだ燃料保管庫であった。

燃料庫内部。
内部に設けたコンクリート製の棚に高濃度過酸化水素「甲液」を入れた大きなガラス瓶を並べて保管した。


陸軍柏飛行場と秋水

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)


ロケット戦闘機「秋水」燃料庫1号基

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

上記の写真のみ2021年データを流用

こちらは埋設保存。

場所

https://maps.app.goo.gl/z5rxZ311EoPTekUj8


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

右側の「秋水燃料庫」が該当する。

※撮影:2026年2月


関連

陸軍柏飛行場「教材置場」(流山)解体前の最初で最後の見学会(軍都柏・その8)

軍都柏の戦跡散策、その8。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏飛行場関連施設として残存していた「教材置場」の解体前の最初で最後の一般公開の模様を掲載。

本記事は、流山市駒木台「流山市内の戦跡」となりますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として掲載します。

建造当時の様子を残す梁棟。

ちなみに、前回記事の「ガス庫及び部品庫」の向かい側にある建造物が今回取り上げる「教材置場」となるが、前回散策時は、、、記録できていなかったです。。。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会・概要

旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会

令和8年2月7日・8日
主催 流山市教育委員会
協力 柏歴史クラブ 柏市教育委員会

柏飛行場は、昭和13年(1938)に開設され、昭和 20年(1945)まで陸軍の飛行場として利用されました。流山市と柏市の市境には、飛行場の本部や格納庫、立川分廠本部などの施設が建てられていました。昭和20年の戦争終結以降、飛行場の大半は米軍の通信基地として利用されたほか、建物の一部は民間に払い下げられ、住宅や倉庫、工場等に利用されていたようです。
米軍の通信基地は、昭和54年(1979)に日本に返還されます。返還後は、柏の葉公園や東京大学大学院、千葉大学、住宅地等が整備され、かつて飛行場だった面影はほとんど残らなくなりました。
そのような中、昨年の5月に旧所有者の関係者から柏飛行場と思われる建物を解体する予定だとの相談がありました。このため、流山市教育委員会は、柏飛行場の調査を以前より進めていた柏市教育委員会、柏歴史クラブ、建造物の研究者と共同で調査を実施し、今回見学会を実施する建物が、柏飛行場関連の教材置場と呼ばれる施設であることが明らかとなりました。
教材置場は、飛行機を整備するための部品などを展示していた場所と考えられています。建物は、その後クリーニング工場と住居として利用されていたため、建物内部は大きく改造されていますが、随所に当時の痕跡が残っています。

流山市

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/tourism/1013087/1052392.html

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/res/projects/default_project/_page/001/052/392/chirasi.pdf


「教材置場」見学会

解体前の最初で最後の見学会。


「教材置場」見学会・建屋の内部

戦後は、クリーニング工場であった、という。

往時からの窓枠が残る。

紐で上下にスライドできた。

教材置場としての入口は側面のシャッターがある場所あたり。

建屋の手前3分の2がクリーニング工場。
建屋の板張りの奥3分の1が居住スペース。
大改築されているが、陸軍時代の残存部分もある。

右側の板張りが戦後の増築部分。

手前が戦後の増築部分。


「教材置場」見学会・建屋の天井や梁棟

小屋梁や垂木、棟木など、往時からの様子がよく残っている。

水色っぽい色合いは、戦後の塗装。

建造当時の木材は、黒っぽい塗装。
天井部分を開口して発見。

天窓があったのかどうか、それは不明。
解体されるその日まで、少しずつ構造物をバラしていくことで、往時の様子が解明できる。不明部分も今後の解体調査次第で明らかになっていく。

戦時中の建造物ということもあり、金属に余裕がなく、金属使用部分は限られている。
梁を補強するボルトのみが金属であった。

電球取付部は当時からのものと推測されるが、要調査。


「教材置場」見学会・建屋の入口

開口部分が、往時の建屋入口。

扉の溝(鴨居)が残っている。

奥にも出入り口があったことがわかる。


「教材置場」見学会・建屋窓

建屋の窓の位置も状況から推測できる。

戦後に取り付けられた配電盤の左右にも窓があった形跡が残る。

増築部分の壁にも、窓があった痕跡が残る。

窓枠が残る。

窓枠の上部だけ残る。


「教材置場」見学会・建屋壁

往時の壁の構造を知ることも出来た。

モルタルは戦後。
往時は、木を張り筋違を設けた建造。

調達された木材の仕入元などの記録も残る。

床面も剥がすことで当時の状態を解明することができる。
解体時にわかってくることもある。

会場は「流山市教育委員会(流山市立博物館)」と「柏歴史クラブ」がタッグを組んだ説明会でした。

「柏飛行場調査報告書」は、PDFがダウンロードできるよって教えてくれました。これは良いもの。

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh1.pdf

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh2.pdf

この充実の資料がPDFがで読めるのが、ありがたいです!


「教材置場」見学会・建屋の外観

外観を。

宅地造成工事
着手は令和8年4月から。

陸軍柏飛行場関連施設(教材置場)として、解体の最後の時まで記録と調査が実施されます。

最初で最後の見学会を開催いただいた流山市教育委員会・柏市教育委員会・柏歴史クラブの皆々様に感謝です。
ありがとうございました。


※撮影:2026年2月


関連

ナウシカ「メーヴェ」を模した「M-02J」ラストフライト!「空まつり 2025 in SEKIYADO NODA」(関宿滑空場)

ナウシカの「メーヴェ」を再現した、ジェットエンジン搭載グライダー「M-02J」(メディアアーティストの八谷和彦氏の自作有人飛行機)が、2025年の野田市・空まつりでラストフライトをするという。
これは見に行かねば、ということで、関宿滑空場に足を運んでみました。

戦跡でもなく、近代史跡でもないけど。
空を飛ぶことを夢見た人々の情熱は、今も昔も変わることなく、それこそ航空黎明期に空を翔けることを追い求めた技術者たちの想いと通じるものもあるのかな、と。

以下、写真メインで。


関宿滑空場

昭和45年に運用を始めた、首都圏に最も近い日本国内で最大面積の公共用滑空場。
草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。

旧格納庫

新格納庫

草地滑走路は平行に4本。
堤防側から川側へと、A(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)、D(デルタ)と名づけられている。


空まつり 飛行展示

パラモーター(PPG パワードパラグライダー)
ドリフター、PHG 超軽量動力機
オープンスカイ
マイクロライトプレーン
宿滑空場 展示飛行
U-コン(コントロール・ライン)
ラジコン飛行機


M-02J(メーヴェ)

オープンスカイプロジェクト
『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」の機体コンセプトを参考に八谷和彦氏が、実際に飛行可能な一人乗りのジェットグライダーの試作を試みたプロジェクト。

風の谷のナウシカに出てくる「メーヴェ」を参考に制作したジェット機「M-02」のデモフライト。

今回が、最後のフライト、という。


地上展示・飛行展示

パワードパラグライダー(PPG)は、背中にプロペラのついたエンジンを背負って、平地から飛び立つことのできるパラグライダーのことをいう。

関宿滑空場の曳航機

JA4087 パイパー・スーパーカブ(アメリカ製)

JA4016 ロバン (フランス製)

非常に軽量・小型で動力を有する航空機。
アメリカではウルトラライトプレーン、ヨーロッパではマイクロライトプレーン、日本では、超軽量動力機と呼称。

舵面式は昇降舵、方向舵、補助翼を有し、この3舵により機体をコントロールするタイプ。 補助翼のない2舵式もある。

超軽量動力機(ウルトラライトプレーン・マイクロライトプレーン)
体重移動式
トライクとも呼ばれる。ハングライダーに座席と降着装置とエンジンを付けたような機体

ジャイロプレーン。
固定翼の代わりに回転翼を装備し、ヘリコプターに似ているが、ジャイロプレーンは回転翼を動力で回転させていない。飛行時にはパイロットの背中側のエンジンの動力によって前進し、前進によって起こる相対的な気流を回転翼に受け、回転させて揚力を生み出し飛行する。

グライダー(滑空機)

飛行機に曳航されるグライダー

モーターグライダー(モグラ)

関宿滑空場の最寄り駅は川間駅。バスで「平井入口」まで赴く。

※撮影:2025年11月


関連

「戦艦・比叡の錨」と「九一式改二型航空魚雷」(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その2)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

その1は、下記にて。


下総航空基地記念行事

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


戦艦「比叡」の錨

前回の基地再訪問時に、存在は知っていたけれども見ることが叶わなかったのが「比叡の錨」。
今回の基地祭で、案内所の隊員に「比叡の錨は見学できるか?」と聞いてみたところ、「立ち入り禁止エリアかどうかちょっとわからないので、とりあえず近くまで行ってみると良いよ、場所は、ここを真っすぐ行って、ここを右に、、、」という感じで教えてもらったとおりに足を進めてみたら、ありました、近寄れました。ありがとうございます!

やっと見学できました。比叡の錨。


艦種   高速戦艦 比叡
重量   7.5トン
錨鎖重量 2.5トン

比叡要目
建造年 1914
排水量 26330トン
速力 27.5kt
全長 214.6m
全幅 28m
主砲 36cm砲8門
副砲 15cm
魚雷発射管 8門
高角砲 12.7cm2連装×18
飛行機 4機
乗員 1437人平常
機銃 12.7mm2連装×18


九一式改二型航空魚雷

航空魚雷もありました。

九一式改二型航空魚雷
この魚雷は旧海軍一式陸上攻撃機、天山艦上攻撃機にとう載されていたものである。
全長 5.71m
全備重量 1.06トン
炸薬量 420kg
直径 45cm
直進機構 ジャイロ
動力 星型8気筒エンジン

場所は、第3術科学校 2号隊舎・学生隊本部 のあたり。


史料室

下総厚生センターの史料室は公開

整備魂
 この絵は、一水会々友藤瀬部國画伯の作品で、昭和18年6月頃のラバウル飛行場における出撃前の零戦整備の風景を描いたものです。
 「整備魂」の名称は、愛機の武運を自らの技術の全てを懸け黙々と炎天下の野戦整備に励んだ兵士たちの精神を上手に表現しています。
 苛烈を極めた航空戦闘の陰には、このような日夜寸暇のない整備に明け暮れた兵士の努力がありました。
 しかし、戦況は悪化し整備関係の多くの兵士は艦艇や不慣れな陸戦に参加し、無念を胸中に亡くなられました。
 この絵は、その遺徳の顕彰と鎮魂を祈念して、海軍関係将兵の生存者の浄財により、靖国の御社に奉納されたものです

2025年は第3術科学校の史料室は非公開でした。残念。
旧軍的には、第3術科学校の史料室のほうが見ごたえ高し。

ポスター

厚生センターの売店(デイリーヤマザキ下総航空基地店)で、「市ヶ谷台(本格焼酎・長期貯蔵酒・宮崎の神楽酒造)」が売っていたので、思わず購入。

「下総航空基地メロンパン」と「下総クリームアンパン」と「梨ウォーター」


※撮影:2025年10月


関連

救難飛行艇「US-2」地上滑走展示(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その1)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

関東で、滅多に見れない「US-2」を見れる!となれば、悪天候であっても行くしかない航空祭。年に一度の楽しみなのです。


「US-2」地上滑走・タクシーアウト

悪天候のため、飛行展示は中止となりましたが、代わりに、地上滑走展示がありました。
エンジンを稼働させて、エプロン(駐機場)から誘導路・滑走路に向け地上滑走していくだけですが、それでも、動いている「US-2」が見れるというだけでも大満足!でした。

滑走路を飛ぶ寸前まで滑走したUS-2。
次こそは、飛んでいるところを見たいです。


「US-2」地上滑走・タクシーバック

滑走路・誘導路からエプロンまで戻ってきました。

マーシャラー(グランドハンドリング)の見事な誘導。
まるで、US–2と会話しているかのように。
見惚れてしまいました。

グッド!な感じでエンジン停止。


「US-2」地上展示

なかなかの悪天候でしたが、逆に、人が少ないがゆえにゆっくり見学てきたのはラッキーだったかも、です。

まるで水面にいるかのようで、水たまり感が良い感じ。


「US-2」あれこれ


「P-1」地上滑走・地上展示

「P-1対潜哨戒機」も飛行展示は中止。
地上滑走の展示のみとなった。


そのほかの地上展示など

P-1が下総航空基地では、展示の主役ですね。

哨戒ヘリコプターSH-60K

P-3C対潜哨戒機たち

真ん中にいるのは、「多用機UP-3C」。
P-3Cの試験研究機となり、厚木基地所属。同型番機は、この一機のみ存在という。

悪天候で、人がいなさすぎるのも、また貴重な航空祭。

P-1対潜哨戒機

TC-90練習機

LC-90多用機

陸自からは、「対戦車ヘリAH-1S」

管制塔

格納庫

第2格納庫

第3格納庫

管制塔の隣は消防車庫

管制塔の上から

13時過ぎの様子。

下総航空基地と戦艦大和の対比イメージ


一日群司令任命式(松田実桜さん)

防衛省広報アドバイザー「松田実桜さん(まつだみお・サンミュージック所属)」の「下総航空基地・一日群司令任命式

「下総教育航空群司令」の吉田1等海佐から、松田実桜さんが、一日群司令に任命されました。

式典は第四格納庫、で。

下総航空基地の名物


「その2」は下記にて。

※撮影:2025年10月


関連

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


「木更津海軍航空隊と第2海軍航空厰」木更津の海軍戦跡散策3

木更津の戦跡散策。
その1とその2は、陸上自衛隊木更津駐屯地を中心に取り上げましたが、「その3」では駐屯地の外を散策してみました。

「その1」は、下記にて。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津には「木更津海軍航空隊」と「第2海軍航空厰」がありました。

現在の様子(GoogleMap)


巌根駅

袖ヶ浦駅と木更津駅の間に位置する、巌根駅。
開設は、昭和16年11月20日。太平洋戦争開戦の直前。
第2海軍航空厰を開設した大日本帝国海軍の要請に基づく。
現存する駅舎も、昭和16年11月の開業以来の佇まいを残している。

巌根駅


巌根駅・第2海軍航空厰の連絡道路

巌根駅から「第2海軍航空厰」への連絡道路。

連絡道路のつきあたりに「倉庫」がある。この敷地がかつての「第2海軍航空厰」となる。


海軍航空厰

海軍航空厰は、海軍航空隊で使用される軍用機の製造や部材調達・保管や修理などを行っていた工場。

昭和7年4月に「海軍航空厰」として、追浜に設置されたことに始まる。
昭和14年4月に追浜の海軍航空厰は「海軍航空技術厰」に改称。

第1海軍航空厰
昭和16年10月に、海軍航空技術厰霞ヶ浦出張所が、改めて「第1海軍航空厰」として独立。
第2海軍航空厰
第1と同じく、昭和16年10月に木更津に「第2海軍航空厰」が新設。第2海軍航空厰の本厰は「木更津(巌根)」。そのほか館山・八重原・瀬谷などに工場が展開され、昭和19年には松本にも疎開工場が展開された。
第11海軍航空厰
昭和16年11月に、広海軍工廠から航空機部が独立。本厰は広。
第12海軍航空厰
昭和16年10月、第11海軍航空厰分廠を改編。本厰は大分市今津留。
第21海軍航空厰
昭和16年10月、長崎県大村市に開庁。
第31海軍航空厰
昭和17年4月、第11海軍航空厰舞鶴支厰が独立。
第41海軍航空厰
昭和17年4月、第2海軍航空厰大湊支厰が独立。昭和19年10月に、千歳に本厰が移転。
第51海軍航空厰
昭和17年4月、第21海軍航空厰鎮海支厰が独立。


第2海軍航空厰・巌根工場の防音運転場
(現・貸スタジオ)

昭和16年10月開設。
現在は、木更津倉庫株式会社や貸スタジオの敷地となっている。

そこに残る建屋が「防音運転場」。
航空機の発動機の動作確認を行っていた防音施設だったようで。
現在は、防音ということを活かして、現在は、貸スタジオ(ハウススタジオ)となっている。
STUDIO ZERO NOIR (Pilot’s)
下記のサイトに内部写真が掲載されている。

https://studio.powerpage.jp/#!/detail/10784

大体の場所

場所:

https://maps.app.goo.gl/ab8ucVKCLmFi3mnt9


第2海軍航空厰・巌根工場の建屋
(現・貸スタジオ)

空自入り口の左側の三角屋根の建屋は海軍時代のもの。
空自の敷地ではなく、民間の撮影スタジオとなっている。

場所:
https://maps.app.goo.gl/hh2ektFWwp9iBrPp8


第2海軍航空厰跡
(現・航空自衛隊木更津分屯基地)

木更津の空自。
ちなみに、木更津には、陸自と海自と空自と揃っている。

航空自衛隊木更津分屯基地

第4補給処木更津支処
木更津地方警務隊

基地のなかには入れないので、外から外周を歩きながら見学。

なんかいた。

F-104J

T-1B


第2海軍航空厰・海軍木更津飛行場の連絡道路
(海軍道路)

この界隈では、交通量に見合わず格別に広い道路。
まさに、海軍のために設けられた道路。

第2海軍航空厰のあった「空自」から、木更津海軍航空隊のあった「海自」に赴く。「海自」の奥は「陸自」もある。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


木更津海軍飛行場の格納庫
(現・海上自衛隊航空補給処)

木更津の海自は、海上自衛隊の航空機が使用する搭載装備品の補給・整備を中心とした後方支援業務を実施している。
ここ木更津が本処。
海自は、千葉県内には「下総航空基地」と「館山航空基地」を有している。

何かのいかりと大きな格納庫

海軍飛行場時代の格納庫

敷地には入れないので、全て敷地外から。

色は、緑系で、手前が濃くて奥が薄め。

裏に回ってみました。

存在感

場所はこのあたり。


海軍時代の施設跡(防空壕・退避壕)
(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)

木更津駐屯地の北東から北端の周辺道路を歩いてみる。
海軍時代の建造物が散見しているのがわかる。

こんなかんじで、不自然なコンクリート建造物がある。
1つめ。

2つめ。

3つめ。

4つめ。

なにか新しく建造中。富士山見えてる。

5つめ。
往時っぽい建造物はほかにあるかもしれないけど、周辺を歩いてみるだけでも、かなりの数が目に止まる。


木更津海軍飛行場時代の橋梁

北西端あたりに橋梁跡が残っている。


木更津海軍飛行場時代の掩体壕

北西端あたりに、掩体壕がいくつか残っている。
敷地外からも、垣間見ることができる。

木更津飛行場の北西端は、江川海岸・潮干狩場

東京湾を挟んで、富士山が見えた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/vyecfVRcwesDAEZf8


木更津海軍飛行場時代の施設

木更津市中里の交差点(セブンイレブンとかパールショップともえなどがある交差点)の北西部の住宅街に残るコンクリート施設。

だいたいこのあたり


海軍時代の止水栓蓋

木更津駅の北側、房総往還道路に面した商店街の歩道に残っていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/uzpYyMVZLNhwcTPm6

古そうな建物も周辺に残っている。
旧金田屋洋品店は、昭和7年の建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6RLrUgELkNA7c8CFA


※撮影:2024年2月

第1空挺団「降下訓練始め」(陸自習志野演習場・2025)

令和7年1月12日。

陸自第1空挺団による新春恒例の「降下訓練始め」が実施されましたので、足を運んでみました。


空の神兵

大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵(空挺兵・挺進兵)に対する愛称。
海軍は「空挺部隊」
陸軍は「挺進聯隊・挺進集団」
そして、陸自は「空挺団」

太平洋戦争(大東亜戦争)蘭印作戦
1942年(昭和17年)1月11日
海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊がセレベス島メナドに対し敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。。
1942年(昭和17年)2月14日
陸軍の第1挺進団(挺進第2連隊)がスマトラ島パレンバン(パレンバン空挺作戦)に対し同じく敵前にて奇襲落下傘降下を敢行。
両作戦は成功しオランダ軍他が守備する飛行場(メナド・パレンバン)や、大油田・製油所(ともにパレンバン)を制圧した。
これらの活躍から日本軍落下傘部隊に対し「空の神兵」の愛称が付けられた。

「空の神兵」は、帝国陸軍落下傘部隊(第1挺進集団)の事実上の後身である陸上自衛隊第1空挺団にも継承されている。
習志野の陸自第1空挺団は、昭和27年より研究されれ昭和30年に設立した初代空挺教育隊を起点とし、初代空挺教育隊長を務めた衣笠駿雄元陸軍少佐(初代第一空挺団長)に率いられた第1次研究員20名によって昭和33年に創設された。
この第1次研究員20名こそが太平洋戦争末期に帝国陸軍落下傘部隊において教育途中であった元挺進兵であった。そのため帝国陸軍落下傘部隊の歴史は陸上自衛隊落下傘部隊の歴史とされ、その伝統を堂々と継承している第1空挺団の事実上の隊歌として使用、かつ「降下訓練始め」では歌唱付きの『空の神兵』がそのまま場内で放送されている。


降下訓練始め 準備

入口から、見学場所まで、まいどまいど、それなりの距離があるんですよね。

高台に陣取り。

アメリカの偉い人が乗っているヘリ。(あまり詳しくないので)

指揮官の降下

防衛大臣、いらっしゃいました。

続々と降下!!

米軍機

真白き薔薇の花模様

空の神兵
 梅木三郎作詞  高木東六作曲

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る


降下訓練始め

地上展開

AH-1Sコブラの航空支援

白兵戦

迫撃砲陣地展開

テェッ

地上支援戦力投入

10式戦車と16式機動戦闘車

今回は、体調が今ひとつというのと、カメラの不調もあり、電池不足もあり、で、最後は半端な観戦になってしまいました。

難しいことは機にせずに、鑑賞していて楽しいのが空挺「降下訓練初め」

※2025年1月撮影


関連

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その2・教育史料館ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その1はこちら。

歴史的なことは、昨年の記事で。


海自館山航空基地「教育史料館」

昨年は、1階のみ見学だった気がします。
今年は、2階も見学可能。旧軍関係は、2階に集積されていました。

2階も展示やってます。

はちろくさんの地味なアピール。

おお。冒頭から「海軍」の文字列。嬉しいです。

海軍指定工場

館山海軍航空隊御用達

歴代司令

館山航空隊の歴代司令
初代司令 大佐 堤政夫 
2代司令 大佐 近藤英治郎
3代司令 大佐 堀江六郎
4代司令 大佐 松永壽雄
5代司令 大佐 別府明朋
6代司令 大佐 戸塚道太郎
7代司令 大佐 大野一郎
8代司令 大佐 別府明朋
9代司令 大佐 竹中龍造
10代司令 大佐 大森来雄
11代司令 中佐 藤松達次
12代司令 大佐 菊池朝三
13代司令 大佐 安藤栄城
14代司令 大佐 山縣駿二
15代司令 大佐 藤田元成
16代司令 大佐 高橋農夫吉
17代司令 大佐 中村健夫
18代司令 大佐 鬼塚武二

日本海軍戦闘機の原点
10式艦上戦闘機

溟四躍蛟龍
解説
「龍蛟四溟二躍ル」
蛟は想像上の動物で龍の一種
龍蛟は天に昇る龍
四溟は四方の海
海軍の飛行機が天に昇る龍のように
飛び交う様子を表わす 
 山本五十六書

館山海軍砲術学校

館山海軍航空隊

吊床

戦艦陸奥の鋼材、陸奥鉄

零戦52型用エンジン電動スターター(セルスタータ)

真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の陣形模型

2階はマストですね。


館山の戦争遺跡

これはこれは。。。

再調査したくなりますね。

館山航空基地の周辺

海自館山航空基地の中にある記念碑

海軍落下傘部隊発祥の地
 太平洋戦争の海軍落下傘部隊は、館山海軍航空隊で落下傘訓練を行い、昭和16年11月から戦闘に参加し、多くの戦死者が出た。
 戦後、戦死した隊員遺族の有志が平和を願い建立された。

海軍航空写真分隊記念の碑
 海軍における航空写真術科は、当初霞ヶ浦、横須賀両航空隊において教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎海軍航空隊に移行された。
 この地で学んだ人達にとっての心の拠り所として建立された。

海軍航空再興の地
 昭和28年8月12日に、ベル型ヘリコプターが廃部されて操縦訓練が開始された。戦後8年にわたる空白期間から脱して、昭和28年9月16日、保安庁館山航空隊が解説し、海上航空再興の第一歩を記したことを記念して建立された。

悠久の碑
 昭和28年8月12日、この地に海上自衛隊館山基地が開設されて以来、当基地勤務中、惜しくもその職に殉じた尊い御霊を慰め、永久にその功績を顕彰するために建立された。

海軍中攻隊の碑
 日本海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ96式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)は、昭和10年館山海軍航空隊に配備され、心血を注いだ研究開発と部隊訓練が昼夜を分かたず行われ、当時、世界最高水準をいくものであった。日中戦争では世界初の「渡洋爆撃」を果たした。
 館山海友会と海上自衛隊を中心とする後輩有志により建立された。

以下は、基地の外。

1階は、前回見学したので、省略。


基地内バスツアー

先着順。15名x6回の90人。
立ち入れ禁止エリアに入れるチャンス。

号令台を、いつもと反対側から。

おお!

疾走するバス車内から「海軍中攻隊の碑」を確認!!
記念碑フリークもいるんですよ、次回は見学させてくださいよ!!

消火訓練用のヘリ模型

滑走路エリアに。

滑走路の奥に。

普段は絶対に入れない滑走路エリアをマイクロバスで見学。


館山航空基地内散策

このあたりが古そうな建屋。
館山航空基地は、ほぼ建屋が新築されたので、往時のものは残っていないというが。

ん?
これ、往時の防空壕だったりする?

庁舎

号令台

保存機があった場所。
ここにあった保存機はすべて撤去解体された、とのことで。。。


館山海軍航空隊時代の境界壁

意匠的な造形の壁は往時からのもの。

※撮影:2024年7月


館山関連

はじめに

「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その1・UH-60J最終展示飛行ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その2もあります。

歴史的なことは、昨年の記事で。


救難ヘリコプターUH-60J

今回のイベントで除籍となる「UH-60J」
最後の勇姿を。


救難ヘリコプターUH-60J 最終展示飛行

救難ヘリコプターUH-60Jの最後の飛行展示。

最後の搭乗

激励の旗

縁の下の力持ち。
第21整備補給隊(21MSQ)が、飛行業務を支えている。

エンジン始動

ビックハンドでバイバイ!

救難展示飛行

帰着。

放水アーチでのお出迎え。

なんか嬉しそう。

おかえりなさい。

式典へ


救難ヘリコプターUH-60J除籍式典

除籍式典

最後の機長 有川三等海佐
UH-60Jの増槽にサインを

ありがとうございました。

敬礼!

有川三等海佐の退官セレモニー。
サプライズ。
実は、今回のフライトでもって、有川三等海佐は退官する。 

ラストフライト


哨戒ヘリコプターSH-60K飛行展示

午後は、哨戒ヘリコプターSH-60K飛行展示を。

海面を飛行したヘリの、塩を洗い流す。

おかえり


第21航空隊

「21」は、すなわちブラックジャック。最後の数字。


地上展示

海自のUH-60J

陸自のUH-60JA

千葉県警

陸自 OH-1

第21航空群マスコットキャラクター
ろくまる

海上自衛隊第二十一航空群
海上自衛隊館山システム通信分遣隊
千葉地方協力本部館山分駐所

もらったもの。護守印は、貰いそこねたものがあるっぽい。

※2024年7月


館山関連

はじめに

護衛艦ふゆづき(艦艇広報2024 in Funabashi)

護衛艦ふゆづき
艦艇広報2024 in Funabashi 自衛隊千葉地方協力本部

2024年7月20日。船橋港にて。

護衛艦ふゆづき、舞鶴からようこそ!!


護衛艦ふゆづき

DD-118 JS Fuyuduki 護衛艦ふゆづき
あきづき型護衛艦の4番艦。
艦名は「冬空に高く輝く、凛冽とした冬の夜を照らす月」に由来する。
母港は舞鶴。2014年就役。

冬月

ホワイトボードに描かれたふゆづき

船橋港。艦尾には、先代しらせ(SHIRASE5002)が係留されている。

SHIRASE5002艦橋から。

CIWSをグリグリ動かすデモ。

あっ、千葉地本の千葉三兄弟だ。


ミニP-3C演技展示

下総航空基地から船橋港に出張ですね。
わるい潜水艦を懲らしめます!


SHIRASE5002

しらせ (砕氷艦・初代)
1982年就役、2008年退役。
退役後は、ウェザーニューズ社が引き取り、現在は関連団体のWNI気象文化創造センターに管理移管されている。

ちなみに航行可能な状態で維持されている。

かなり広いヘリ甲板

海保の光洋(2021年竣工の最新鋭の測量船)も係留されている。

なんかいた

撮影:2024年7月


関連

「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その2」つつじ祭り(2024年・千葉)

2024年4月、下志津駐屯地の創設69周年記念行事に行ってきました。
「つつじ祭り」

陸自高射学校が所在する、いわば「陸自防空のメッカ」。
観閲行進や対空戦闘訓練展示を中心に。
87式自走高射機関砲(87AW 俗称ガンタンク)が見れたのが嬉しい
(あまり見かける機会がないので)

その1は、こちらにて

下志津の観桜はこちらにて


下志津の「つつじ祭り」

つつじ祭りといえば、東京は根津神社が有名ですが、なかなか下志津のツツジも良いものです。

陸自高射学校


記念式典

10時から記念式典の開始、です。
駐屯地イベントに参加していると、基本的な式典進行は同じなので、「いつもどおり」な感覚にはなってくるが、駐屯地ごとの個性もあって、それはそれで面白い。

入場

指揮官入場

観閲官入場
陸自高射学校長は陸将補。
「赤」で銀色桜星2個が陸将補の車両標識

国旗入場

国旗掲揚

巡検

記念式典のあとは、音楽隊。


観閲行進

おおお、観閲行進は「陸軍分列行進曲」。これはやはり良いですね。


対空戦闘訓練展示

状況開始

某国の侵入を、高射戦力でもって陸上対空戦闘で撃退する訓練展示。

高射部隊、近SAM・短SAM・中SAMのSAMチームとペトリオット・ホークの展開。

て!!

高射射撃展開後に地上部隊の突撃

航空支援も

73式装甲車73式装甲車、なにげにはじめてみた気がする。。。

87式自走高射機関砲(87AW)スカイシューターことガンタンクの登場!

制圧

制圧完了

状況終了


装備品展示

87式自走高射機関砲(87AW)

土浦(武器学校)からの出張、10式戦車(10TK)。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

※2024年4月撮影


関連

「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ

松戸飛行場の掩体壕基礎跡(松飛台)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

せっかく松戸駐屯地に来ていたので、そのまま帰るのももったいないということで、さらに足を伸ばしてみました。

松戸駐屯地内の松戸飛行場の戦跡に関しては下記も。


松飛台

地名ともなっている「松飛台」は、旧陸軍が監督した逓信省航空局中央乗員養成所の飛行場の滑走路が所在した台地(松戸飛行場の台地)に由来する。
格納庫等があった東が松戸駐屯地、誘導路があった西が八柱霊園の一部に当たっている。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸飛行場の掩体壕基礎跡

松戸飛行場の西側の空き地に、掩体壕の基礎といわれるコンクリート片が残存している。

礫レキの混じり具合から、たしかにこれは往時ですね。

空き地。ドラックストアとクリーニングの隣。

場所:松飛台入口バス停ちかく

https://maps.app.goo.gl/3VQf8jqvLauo5MJf8

界隈は、「松飛台」を冠する名称多し。

松飛台工業団地

松飛台商店会

松飛台公園

松飛台駅

松戸飛行場の名前を伝える「松飛台」は地名として根付いていますね。

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その3(訓練展示)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その3として「訓練展示」を。

その1は、下記より


記念式典

記念式典。
駐屯地は変われど、基本的な流れはどこも同じ。

入場

部隊観閲

松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務。

退出


音楽演奏


訓練展示

状況開始!

需品学校なので、災害救助をテーマにした訓練展示です。
交戦的なもはありません。

まずは、ヘリによる偵察から。

二輪車による偵察

軽装甲機動車LAV

災害派遣、出動
松戸市消防局、鎌ケ谷消防本部の合同

ヘリによる救難活動

需品教導隊による災害派遣の支援展開

給水や炊事、風呂の展開など。


松戸駐屯地あれこれ

厚生センター

心の古里

野草園

毒草地域

飯ごう炊事用炊事壕

飯ごう炊さん体験場って書くと、ちょっと楽しそう
(実際は訓練、、、)

需品学校

関東補給処松戸支処

第二校舎特科群

松戸駐屯地正門

南口

西口

※撮影:2023年11月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その2(記念碑群と広報展示室)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。

本編は、その2として「記念碑と展示室」の散策を。

その1は、下記にて。


松戸駐屯地の記念碑群

一箇所に集められた記念碑。ちょと洒落た庭園のような。。。

そして、結構摩耗している。。。

 皇紀2601年秋

闘魂

第4期機関生徒
昭和19年9月25日卒業記念

第1期操縦生徒卒業紀念

昭和16年3月卒業記念 

育翼雄飛

第2期機関生徒
昭和18年2月27日

雄鵬

第1期普通科操縦生徒  
昭和19年9月25日

表が、よめない、、、

第1期普通科整備生徒  
昭和20年3月24日卒業記念

これだけ、新しい。


広報展示室

駐屯地の展示室は、かならずチェックですね。

陸軍特別攻撃隊を募る檄文

第五十三戦隊長

航空写真

階級章

旧軍コーナー

岡村寧次大将の正装

岡村寧次大将の三式軍装
なぜに、ここに岡村寧次大将なのだろう。(戦争末期の支那派遣軍総司令官)

秩父宮の幼年学校時の御着用軍服

明治天皇の御使用手袋と
昭和天皇の御使用手拭い

需品学校ならでは、の展示室。

部隊の在るところ需品あり

※撮影:2023年11月

その3へ。


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


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