騎兵の街・習志野。
日本陸軍第一騎兵旅団の下に編成された騎兵第十三聯隊および同第十四聯隊が使用していた建物が東邦大学構内に残っていた。
東邦大学にあった第一騎兵旅団兵舎・用材庫は、「現存日本最古の騎兵兵舎」であったが、2022年11月、キャンパス再整備計画の一環として、道路整備の延長線上にあたることから、惜しくも解体されることとなり、解体前の最後の一般公開に足を運んで来ました。
2022年11月下旬・解体予定
(2022年10月30日と11月5日が解体前の最後の一般公開日)
※本写真は2022年10月30日の模様です。
目次
習志野の騎兵
第一騎兵旅団兵舎(用材庫)
築年月/明治33年(1900年)12月
東邦大学 https://www.toho-u.ac.jp/press/2014_index/033001.html
構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
大きさ/梁間5 間×桁行10 間
建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫
東邦大学
大森にあった東邦大学は昭和20年の空襲で焼失。昭和21年に習志野の旧陸軍習志野騎兵聯隊跡地に移転。現在の東邦大学習志野キャンパスとなる。
第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」
以下、記録写真を。
「五芒星」の文様のある換気口
陸軍を示す五芒星の文様の鋳鉄製換気口グリル。
第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」
柔道場の名残。2013年までは武道場であった。
第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「内部」(魚眼)
当時としては珍しい洋風のキングポストトラスの小屋組。
第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「外観」(魚眼)
第一騎兵旅団兵舎・用材庫
「出入り口」
騎兵第13聯隊と14聯隊の間の壁とか
当時のものかは不詳。。。
造りが違うのが気になった、感じ。
むしろ、下に落ちている瓦礫が気になる。
騎兵第13聯隊跡
記念碑がいくつか。
騎兵第十三聯隊跡
騎兵第十三聯隊発祥之地
船橋市長大橋和夫書
平成5年4月29日建立
(裏面)
騎兵第十三聯隊概史
日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を
歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋
第2代 蓮沼 蕃
第3代 笠井 平十郎
第4代 稲葉 四郎
第5代 内藤 正一
第6代 吉田 悳
第7代 小島 吉蔵
第8代 馬場 正郎
第9代 西原 一策
歴代旅団長
第1代 渋谷 在明
第2代 秋山 好古
第3代 本多 道純
第4代 河野 政次郎
第5代 永沼 秀文
第6代 稲垣 三郎
第7代 田村 守衛
第8代 小畑 豊之助
第9代 宮内 英熊
第10代 原田 宗一郎
第11代 梅崎 延太郎
第12代 柳川 平助
第13代 吉岡 豊輔
第14代 高波 祐治
第15代 中山 蕃
第16代 小川 正輔
第17代 黒谷 正忠
第18代 野沢 北地
第19代 大賀 茂
第20代 片桐 茂
第21代 栗林 忠道
第22代 森 茂樹
歴代聯隊長
第1代 田村 久井
第2代 小池 順
第3代 永沼 秀文
第4代 牧野 正臣
第5代 渡部 為太郎
第6代 南 次郎
第7代 高須 一万太郎
第8代 土屋 篤
第9代 原田 宗一郎
第10代 宇佐美 興屋
第11代 中山 蕃
第12代 山内 保次
第13代 星 松尾
第14代 和田 義雄
第15代 横田 卓二
第16代 猪木 近太
第17代 小原 一明
第18代 山崎 武四
騎兵十三聯隊と碑について
本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
ここには次の碑が残されています。
一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)
司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。
「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」
「かつて存在せしものは、
時代の価値観をこえて保存し、
記念すべきものである。
それが、文明というものである」
司馬遼太郎
(裏面)
司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会
軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)
五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。
稲荷社
騎兵13聯隊なごりの神社、か。
兵舎跡は解体のうえで、道路になるという。。。
騎兵第14聯隊跡
せっかくなので、騎兵第13聯隊のとなりの騎兵第14聯隊にも。
東邦大のとなりの日大へ。日大はちょうど学園祭をやっていました。
こちらも記念碑をいくつか。
となりの兵舎跡が木々の隙間から垣間見ることのできる近さ。それぞれの大学の敷地にあるので、往来はできないけど、記念碑は隣り合ってある。
日大側からみた兵舎跡。
騎兵第十四聯隊発祥之地
竹田恒徳
騎兵第十四聯隊之跡
昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月
明治天皇御製
人ならば
ほまれのしるし
授けまし
軍(いくさ)の庭に
立ちし荒駒(あらこま)
碑誌
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル
昭和六十一年十月二十六日
騎兵第十四聯隊会
為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年
戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会
こちらにも神社。
ちょうど学園祭。
位置関係
近衛師団
騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。
国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103_19480118_1
1948年1月18日、米軍撮影の航空写真を加工。
※撮影は2022年10月