私の片隅散策「広島・江波編」

平成29年3月

広島・江波散策
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・江波編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月4日、広島市江波。
すずさんが生まれ育った街。

目立った観光地ではなく、この映画に出会わなければきっと訪れることもなかったであろう街。そんな街を私なりの目線で歩いてみようかな、と。

午前8時過ぎ。
宿屋を出発し活動開始。

広島駅から広島電鉄に乗車。
江波往復では元は取れないけど一日乗車券を購入。(市内線4回乗車でお得、原爆ドーム・中島本町と梯子する際は便利かと思います) 広島電鉄江波線の終点へ、と。

江波へ

広島電鉄江波線の終点へ、江波電停に向かいます。
広島電鉄は各地から集まった路面電車があちらこちらに走っており、見ていて飽きない。
すれ違った1913は京都市電出身。

江波

すずさんが嫁入りした時はまだ江波線は江波まで開通しておらず、昭和18年に江波線が舟入本町まで開通したばかり。
これは江波で埋立てていた新設軍需工場通勤需要。
すずさん幼年期は路面電車はまだ無かったのね。
江波停留所は昭和29年開業。

江波車庫後方に見えるのが皿山。
かつては皿山は江波山とつながっていて江波島と呼称。
また皿山を上山(かみやま)、江波山を下山(しもやま)とも。

すずさんの時代は射撃場があった。

http://www.asahi.com/area/hiroshima/articles/MTW20160404351100001.html

江波停留所にて案内看板を眺める。

ありゃー、見所たくさんあるよー
(事前調査が甘くて慌てる…街歩きのルートをざっと組み立て )

forever ほぉ〜江波! すばらしい、江波らしい。

おさん狐の像

かつて江波皿山に住んでいた「おさん狐」。
年齢80歳、500匹の一族を操る。 人をからかうも、人を苦しめることはなかった、と。また、京参りや伏見に位を貰いにいったりと風格があった、と。

江波停留所の隣の道路。
おさん狐は口に木の葉を咥えてました。

広島市江波児童館・江波第二保育園

すずさんが通っていた尋常小学校は、かつてこのあたりにあった。
尋常小学校から南に赴けば江波港。 学校と江波山の位置関係を把握。

太田川河川敷

尋常小学校のあった場所から太田川の川沿いへ。

太田川上流が中島本町や原爆ドーム界隈。 幼年期のすずさんが舟に便乗しておつかいへと向かった場所。

江波を横切るように渡る高架道路は広島高速3号線。

松下商店

太田川の河川敷から道路に戻ると松下商店がみえてくる。

すずさんとすみちゃんが元気に走って尋常小学校に通った道。
鬼イチャンの白木の箱(遺骨…)を家族とともに運び歩いた道。

松下商店。
往時と変わらぬ姿で、すずさんが育った時代が目の前に残っていた。リアルと映画がリンクした瞬間。
何とも言えない感動的な光景が拡がる。
窓にはロケ地マップが貼られおり、すずさんの足跡を辿るランドマークとしても機能していた。

丸子山不動院

松下商店の南側に小高い高台がある。
「丸子山不動院」
この江波地区は江波皿山、江波山、そして、丸子山の三つの島があり、その高台の一つ。
丸子山不動院は広島新四国八十八ヶ所霊場第76番霊場という。 また、丸子山の下部には古井戸も残る。

小さな稲荷祠が境内に鎮座していた。
この稲荷社、前述した、江波の「おさん狐」を祀っているともいう。

「丸子山不動院」
文化5年(1808)、江波の仲屋幸助が筑紫国に航海の際、豊後国の海中で漁師の網にかかった像を貰い受け江波に持ち帰り、丸子山に堂宇を建立。
大正5年(1916)火災消失し同年再建。

「丸子山不動院」丸子山からの眺望。

北側の太田川方面。
西側の江波皿山方面
南側の似島・安芸小富士方面。

安芸小富士が見える方向は、すずさんも波の兎とともに眺めた海。
(波の兎は後述の江波山ですが安芸小富士を眺めるには丸子山がベスト)

「丸子山不動院」境内に。

江波地区 戦死者戦病死者並原爆死者之霊

現実に呼び戻される空間。
ここは広島であった。
被爆の歴史とともに。
卒塔婆に頭を下げて合掌を…

江波港

丸子山から南に。
小さな小さな瀬戸内の漁港がみえてくる。

「江波港」
江戸時代は広島の外港として栄え半農半漁の集落であった。特に海苔とカキが採取され養殖が盛んな港。
明治期に宇品港が開港したことにより広島の外港の地位を譲る。

「江波」
江波がまだ島であった頃、漁業の餌が肥え魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場の意「餌場」(えば)と呼ばれるようになり「衣波・衣羽・江波」と転嫁。

鎮守は「衣羽神社」。 すずさんたちが過ごした江波港を巡る。

海神宮

江波港の鎮守。江波港の出入口に鎮座。
海上交易と海上守護を願い江戸時代に創建。
御祭神は、大綿津見神。
現在の社殿は安政7年(1860)再興。

原爆に耐えた被爆建物。
江波港は爆心より3330mの距離。

海苔製造を生業としていた浦野家もきっとお世話になったであろう江波港の護り神。
幼年期のすずさんやすみちゃんは、この江波港を元気に駆けずりまわっていたのだろうなあ。
江波港の鎮守を前にして、夢想するひととき。

松下商店・江波港界隈。
広島ロケ地マップより。

聖山稲生神社

江波港の北西に。
「聖山稲生神社」が鎮座している。
鎮座地はもと海中の一小島であったと。江戸期の創建。
江波のこのあたりは徐々に埋め立てられていった歴史を持つ。

御神木は榎。樹齢300年超えとされている。
なんか変だなと思ったら、木の後ろ半分が失われている状態でした。

沿岸部では希少な巨木という。
飢饉の時、榎の葉は貴重な食料でもあった、と。

衣羽神社

江波港から南に江波山方面に歩く。
その江波山の北東側中腹に神社が鎮座。

「衣羽神社」(えばじんじゃ)
江波の集落の総鎮守。
御祭神は市杵島姫神、 多紀理比売神、多岐都比売命
いわゆる宗像三神(厳島三神)

鎮座年代は不詳なれど、正和2年(1313)編纂による安芸国国司所祭官社を集録した古代神名帳(官社神名帖安藝國官社百八十社)に「三位衣羽明神」とあり、広島市内でも有数の古社。
現在の社殿は宝暦3年(1753)、天井構造を「船底様式」で造営。

本殿は江波山の斜面に沿うように拝殿よりも一段高い場所に鎮座。
この拝殿と本殿は昭和20年8月6日の原爆に耐えた被爆建物。
爆心地より3,590mの距離。

御神木。

ふと見上げたら、御社殿の屋根瓦に狛犬がおられました。

江波山中腹に鎮座している衣羽神社から江波港を望む。往時から変わらず鎮座している江波の鎮守様。きっと浦野家(お父ちゃん、お母ちゃん、鬼イチャン、すずさん、すみちゃん)も初詣でここに参拝に来ただろうなあ、とか思いながらしばし佇む。

衣羽神社から山頂方面へ。
すぐ裏手に江波のお大師さま「龍光院」(広島新四国八十八ヶ所霊場第七十七番、江波の観音さま、お大師さま)
そして隣に「江波山気象館」

港方面から江波山に最短で向かおうとすると、いやがおうでも衣羽神社参道を進んでいくことになりますね。

江波山気象館

もとは昭和9年に建築された「旧広島測候所」。旧広島地方気象台。 原爆にも耐えた被爆建物であり、広島市重要文化財指定。

建築様式的には、20世紀初頭に花開いたドイツ表現主義の影響を受けたモダンな造形、というものらしい。

「江波山気象館」からの展望。

北側。広島中心部方面。
北東側。江波港方面。
南側。安芸小富士がちょっとだけ見える。埋立地方面。

「江波山気象館」
気象に関する展示がある中で、どうしても建物内にある原爆痕に目がいってしまう。

昭和20年8月6日8時15分頃。原爆の爆風で窓ガラスが吹き飛ばされ多くの破片が壁に突き刺さり痕跡が今も残っている。
江波山での爆風の速さは秒速700mだったと推定。

原爆痕の残っている部屋の片隅で。
何気なく馴染んでいました。

http://kuresc.net/ksk/

そうそう。 もう終わってしまったけど(3/20で終了)、訪れた時にちょうど開催されていた「すずさんの嫁入り」スタンプラリーにも参加しました。

江波山気象館(広島市江波)をスタートし入船山記念館(呉市)ゴール。

昭和19年2月
広島江波から呉へと、 すずさんの嫁入りを辿る、なかなか粋なスタンプラリー。

全部回ると記念ポストカードが貰えました。
ちょうどスタンプラリーのタイミングで広島に赴けたのも運がよかったと。

「江波山気象館」
戦前の鉄筋コンクリート造としては最末期の建造物としても価値があるこの建物。

そういえば、柳田国男の「空白の天気図」ではこの広島測候所での枕崎台風の記録が描かれているとのことで読んでみたくなりました。

さて、名残惜しいけど次へ向いましょう。

江波山公園

江波山の山頂。 すずさんが「コクバ」(焚き付け)を拾ってくる山
すずさんと水原が「波のうさぎ」を眺めた山

「困ったねえ」と晴れ着を被った珍奇な女(すずさん)が途方にくれていた山

そして、例のアングルを探す私w

江波山公園。 江波山の山頂。

実はこのあたりは眺望が良くない。3月の枯木だからまだ何とか向こうが見えるも、夏に訪れたら樹木の茂りで結構厳しさな状態。

例の位置関係を探す。

南側。今でこそ埋め立てられているが、向こうに微かに、似島の安芸小富士が見えるこの場所。確かにこの場所だ。

瀬戸内を向こうに感じるこの場所で、すずさんは「波のうさぎ」が跳ねる姿を描いたのだ。

「うさぎがよう跳ねよる。ほれ白い波が立っ取ろう 白いうさぎが跳ねよるみたいなが」
「ああ、ほんまじゃねえ 白うさぎみたいなねえ」


水原の運命を決めた兄の転覆事故死。
すずさんの脳裏に刻まれた江波の思い出。 安芸小富士を望むこの場所…

江波山公園。江波山の山頂。

戦後に開通した道路が江波山の下を抜ける。
江波トンネル。

江波山公園。
原爆の記録は至る所に残っている。それは広島市南端の江波も例外ではなく。

被爆者慰霊 母子愛の像

碑によせて
 昭和二十年八月六日午前八時十五分。
 一発の原子爆弾は相生橋上空五百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の場と化した。
 わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は一万人を突破した。
 一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折からの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着して来た。
 その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。
 肉親探し、救護、看護、更には火葬等の諸活動は町内会・警防団・婦人会等、役割を分担しながら秋まで続いた。
 あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定一万数千万にも及んでいる。
 襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を誠実に希求するその証しとして、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。
 碑面は「平和希望」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の架け橋ともなればとの想いも含まれている。
 願わくばこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。

平成七年八月七日 除幕 江波地区社会福祉協議会

「来月の6日は江波のお祭りじゃけえ、早う帰っておいでね…」

その日、江波町は夏祭りであったが暗転して惨劇の街と化していった。

あぁ…

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑

昭和15年11月。
すずさんが呉に嫁入りに行く3年ほど前。(嫁入りは昭和19年2月)
江波沖を埋め立てる工事がはじまる。 この慰霊碑は埋立てにあたって江波沖の魚介藻類の生命を奪うことを慰霊するという珍しいもの。

魚介藻類慰霊碑「生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ」 浦野家の海苔も江波港埋立で廃業。
「うちも江波の埋め立てで海苔はやめてましてのう」

廣島工業港 魚介藻類慰霊碑
碑文裏

廣島工業港修築ハ萬般ノ準備整フテ着工ノ日(昭和十五年十一月三日)近キニ在リ
此ノ工タル實ニ百三十萬坪ノ地域ニ及ブ大事業ニシテ地下ニ埋没シ生命ヲ絶ツ魚介藻類其ノ數ヲ知ラズ
而モ是等ノ生物ノ多クハ多年漁家ノ人為増殖シテ其ノ生活ヲ支エ來リシモノナレバ此ノ漁場ノ異變ハ直チニ其ノ生活ニ甚大ナル影響ヲ及ボスモノナリ
然レドモ國家興亡ノ此ノ秋ニアタリ本工業港完遂ノ一日モ速カナランコトヲ待望スル朝野ノ念ニ應ヘ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ漁業関係者各位ハ萬苦ヲ忍ビ敢然此ノ擧ニ賛同シ協力支援ノ態度ヲ表明セラレタリ
茲ニ魚介藻類ニ回向スルト共ニ漁業關係者各位ニ深甚ナル敬意ト感謝ヲ捧グ

昭和十五年九月二十一日魚介藻類
慰霊法要ニオケル廣島縣知事
相川勝六氏ノ式辭ヨリ抜萃

江波山(高さ37.6m)を後にして次へ。

江波山は元々「江波島」。
江戸時代から埋め立てが進み文化8年(1811)に陸続きに。その当時の江波島は江波山(下山)と皿山(上山)と連なっており両山の土砂を埋立に活用して現在に至る。

なんとなく陸と海の境目を歩く。
左側に見える建物が「広島市江波山気象館」

こうやってみると、思ったほどには高くない。

昭和の頃は江波と対岸の草津は渡し船があったり干潮時に遠浅の海を歩いて渡ったりもできたようだけれども、平成の世になると高架道路が江波を東西に貫いている。広島南道路・広島高速三号線。草津ー江波ー吉島ー宇品を結ぶ。奥が草津方面。

シュモーハウス

シュモー博士が被爆者の為に建てた住宅のうち唯一の現存建造物。
2012年より広島平和記念資料館の附属展示施設。
ちょうど3月末まで映画に関するパネル展も行っていたので足を運んでみました。

「シュモーハウス」この世界の片隅にin江波
「波のうさぎ」鏝絵(こて・え)の新聞記事など。

関連パネル展。

原爆ドームと中島本町。T字型の相生橋。
被爆直後の昭和20年10月5日撮影。

昭和26年(1951)に米国のフロイド・シュモー氏は原爆により家を失った人々の為に尽力し、該当施設はシュモー氏にとって集会所として建設された。

江波の界隈を改めて。 ロケ地マップ抜粋。

さて時刻はそろそろ12時になろうかという頃合い。
足は自然と松下商店の方向に向いていた。

江波には有名なラーメン屋があるけども、それじゃあ味気ない。
せっかくなので、松下商店の右隣にある「お好み焼き屋」さんに。

「お好み焼き・わいわい」
松下商店の隣。先客が1人。映画を見て訪れたとか。しばし談笑。
私のあとからは近所で仕事をしていた方が2人来客。そのあとにやはり映画ファンが1人来客。
お姉さんが忙しく鉄板でお好み焼きを焼いてくれます。

「お好み焼き・わいわい」

アツアツの鉄板。広島ならではのお好み焼き。
お姉さんがテキパキと作ってくれます。

あー、なんか良いですね。こういう雰囲気。
見ているだけで楽しいです。

出来ました。アツアツです。
(生ビールをうっかり頼んでしまいました。
(熱すぎたので取り皿もらいました。

旨いです。
鉄板で食べる。そして広島江波で食べるというシチュエーションが旨さを倍増させてくれます。

江波停留所に戻る。午前9時半に江波停留所をスタートして12時半に戻ってきたので約3時間の散策。

すずさんの足跡を辿りながら、
原爆と向き合う旅ともなった江波散歩。
楽しみつつ、神妙になりつつの
充実した散策となりました。

13時半頃。広電で広島駅に戻ってきました。
広島駅は爆心地より1.9kmの場所。

さようなら
さようなら江波
さようなら広島

乗り込んだJR呉線は「広」行きでした。
広(広工廠の地)は今回いけませんでしたが。

「江波」編はこのあたりで〆ていきましょう。


※呉編は準備中


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

広島散策。江波散策。
街を歩けば常に感じさせられる戦災と原爆の爪痕。
すずさんたちの生きた世界の片隅を垣間見つつ。
現実と虚構の狭間をゆらゆらと漂いながら。
不思議な心持ちでの重厚な聖地巡礼のひとときでした。

江波編〆

私の片隅散策「広島・中島本町と原爆ドーム編」

平成29年3月

広島・中島本町と原爆ドーム散策
・平和記念公園
・原爆ドーム
・レストハウス
・映画「この世界の片隅に」舞台探訪(広島・中島本町編)


この世界の片隅に 私の片隅散策

平成29年3月3日夕暮れ。
その象徴的な空間に吸い寄せられるように歩みを進める。

その尊き墓標に真正面から対座する。
極めて神妙な面持ちの中で、 魂が、心が、震え緊張する空間を。

この日は、広島護國神社を参拝し、そして南下。 

広島電鉄八丁堀電停。
八丁堀の交差点に着いたのは17時ごろであった。

福屋百貨店

八丁堀交差点の「 福屋百貨店 」

里帰りしたすずさんが鉛筆を持つ右手を伸ばし構図を作りながら描いた建物ですね。 早速の既視感のある光景に早速興奮してしまう私…。

八丁堀交差点「福屋百貨店」
爆心地から約710メートル

鉄筋コンクリート造地上8階地下2階建て建造物。
原爆の炸裂により被災した建物は、骨組みと外郭を残すだけと。

広島の町に残る被災建造物は、そのひとつひとつが歴史の伝承者であり。

紙屋町交差点

八丁堀の交差点から西に歩めば紙屋町交差点。
広島城の真南であり、今も昔も往来激しい交通の要所。

旧・広島県産業奨励館(原爆ドーム)

昭和20年8月6日。
史上初の原子爆弾はこの建物の直上600mで空中爆発。

実は昔、ここには来たことはあった。
しかし当時はさほどに興味を抱いていなかった。

あれから十数年。
改めてこの場所で、真摯に対座する。

各地の戦争遺跡や慰霊碑をめぐるようになって 各地で手を合わせ、頭を垂れるようになって、そうして一段とこの場所が重くのしかかってきた。

薄っぺらい平和学習では伝わらなかった、凄みが。
まさに墓標であった。
しばし立ち竦み緊張した面持ちで静かに対座する…

歩みを進める。原爆ドームから対岸へ。

右上が旧市民球場(旧・護國神社)。
原爆ドーム隣の橋は相生橋。
T字の相生橋の南は中洲となっている「旧・中島本町」が現在の平和記念公園。
この中島本町こそが原爆で消滅し、「この世界の片隅に」で蘇った街。

広島・平和記念公園

平和の灯
平和の池

「核兵器が地上から姿を消す日まで火を燃やし続けよう」という象徴の灯火。 慰霊碑と原爆ドームの中間に位置する。

原爆死没者慰霊碑

鎮魂

無心で手を合わせる。
政治や思想の色を持たずに雑念を捨てて、 真摯に頭を垂れる。
余計なことはここでは言わない…

広島市平和記念公園レストハウス

元安川にかかる元安橋まで戻る。

この橋の先に見えてくる建物が「広島市平和記念公園レストハウス」
原爆被災の中心となった中島地区でただ一つ残った戦前からの建造物。

「レストハウス」
1929年「大正屋呉服店」として中島本町に開業。
1943年に閉店し「広島県燃料配給統制組合」が使用。
1945年に原爆被爆するも全壊は免れた。

幼少のすずさんがおつかいにきた冒頭の街が被爆前の中島本町。

中島地区。
爆心から100~700m
戦前は市内有数の繁華街。スズラン灯が設置されモダンな街であった。

街の北側の相生橋は市の中心部でT字型であったために原爆投下目標となり、1945年8月6日に被爆し「中島本町」は全滅する。

「大正屋呉服店」(レストハウス)以外にはもちろん往時を物語る何かはない。失われてしまった空間。
あの瞬間から約70年後。
「この世界の片隅に」で、昭和8年12月22日の歳末で賑わうモダンな「中島本町」が蘇ったのだ…

中島本町・中洲の西側。
太田川にかかる本川橋付近。

ここあたりが、幼少のすずさんが江波からおつかいに行く途中に、舟から上陸した場所。
石垣の石段(雁木)は上陸地点の対岸の石段をイメージで撮影。
(かなり滑りやすいので注意!)

中島本町北端。嫁入り後の里帰り。
この場所で、すずさんは「産業奨励館(原爆ドーム)」をスケッチ。

「さようなら広島」

そして昭和21年1月。
草津の森田家にすみちゃんを見舞いに訪れた帰路。同じ場所で破壊された建物を見つめる。

中島の中洲から元安川むこうの対岸に。

産業奨励館(原爆ドーム)
爆心地から約160m 1915年(大正4年)4月完成。
原爆によって建物は大破・全焼。

相生橋

橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから、と。

初代親柱 1878
二代目親柱 1945再建
三代目親柱 1983 が現在の相生橋。

相生橋。
その特徴的なT字の橋は1940年(昭和15年)に形成されている。
幼年期のすずさんが中島本町におつかいに来たとき、すなわち「ばけものにさらわれて、そして周作さんとはじめて会った」時は、まだT字にはなっておらず。

戦後、相生橋上の二人。

周作さん
「もうあの頃には戻らん。この街もわしらも変わり続けていくんじゃろうが。」
すずさん
「周作さんありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて…」


幼少のあの頃と戦争を乗り越えたその後の光景。

原爆ドーム

再びこの場所に。
18時15分。

徐々に闇へと包まれていく、その墓標を前に。

18時30分。
相生橋の片隅で。

奇妙な心持ちであった。
これは皮肉なものであった。

語弊のある言い方になってしまうが、美しかった。
緊張する美しさがそこにあった。

慰霊の念とともに、 心静かにファインダーを覗きシャッターを切る。

気がつけば19時近く。
立ち去るのが名残惜しい。が、時間は有限であった。

最後に深々と一礼、そうして私は新たな歩みを。

多様な目線と思案とともに貴重な反芻を行いつつ、薄っぺらい平和学習では得られない良き経験ができました。

ありがとうございました。


※呉編はこちら。


「この世界の片隅に」 散策ガイド

現地散策の参考に。
「この世界の片隅に ロケ地マップ」 (広島中島本町・広島江波)

有志作成のgoogleマイプレイス この世界の片隅に_ロケ地MAP

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1o7HGZm0YISZ6RDNGTnoTn26_zjs&hl=en_US&ll=34.185055680214056%2C132.18369739999991&z=9

習志野の戦跡散策(騎兵から空挺へ・習志野駐屯地)

平成29年8月

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。

※第一空挺団の降下訓練初め

習志野駐屯地

空挺館 (旧御馬見所)

「空挺館」(明治44年/1911年建立)
こちらが見たかったのです。
このために習志野に脚を運んだのです。
年に何回かの基地公開日にしか入れませんから。

明治44年建立。
もともとは目黒の陸軍騎兵実施学校に明治天皇が天覧あそばされた際の「天覧台」(御馬見所 )として建設。
大正5年(1916)に習志野に騎兵学校が移転に際して当館も移築。

正面入口からは傾斜のゆるやかな帝王階段。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。

実は装飾の菊御紋は2種類あり15弁と16弁がある。
これは正規の枚数だけだと天皇陛下以外は御立所に上がれなくなってしまうため他の皇族にも配慮したためという。

明治天皇が天覧されたという2階のバルコニー。
この椅子は津田沼駅で皇族が利用された貴賓室用椅子。

貴賓用椅子
津田沼駅は明治40年9月1日に鉄道省の一駅として営業を開始。旧軍時代は騎兵旅団、騎兵学校などがあり、習志野練兵場の表玄関だったので、皇族がたくさんこの駅を利用されていた。その当時皇族が使用されていた貴賓用椅子である。

習志野原

明治天皇(諱は睦仁)が命名されたという「習志野原」の額も展示。

睦仁
習志野原

習志野之原演習行幸

明治6年4月30日に明治天皇は習志野原にて近衛兵の演習を天覧されている。

帝王の階段とも称された中央階段の装飾。

精鋭無比

中央階段踊り場に掲げられた文字は降下塔にあるものの原本。(平成24年12月取り付け。)
書家青華氏による。お孫さんが第1空挺団に所属していた際に無理を言ってかいてもらったものという。

自衛隊唯一の空挺部隊
空挺精神「精鋭無比」

空の神兵像

立像と座像と

2階部分は旧軍に関する展示。
いくつか注目してみてみましょう。

秋山好古 日本騎兵の父

日露戦争時の騎兵第1旅団長(直下に騎兵第13連隊及び騎兵第14連隊)での活躍は言うまでもなく。あとは「坂の上の雲」を参考に。

騎兵の街・習志野に縁の深き人物であり、第2代騎兵学校長でもあった。

西竹一 騎兵中佐

昭和7年ロサンゼルスオリンピック障害馬術の部で日本人としての初の金メダルを受賞。(今日に至るまで馬術の金メダルは西のみ)
男爵でもあった西は「バロン西」として社交界で愛されるも、硫黄島において戦車26連隊長として参戦し散華。

日本軍空挺部隊と空挺作戦

日本軍には陸軍と海軍とそれぞれに落下傘部隊が展開されておりました。

まず海軍としては日本史上初の落下傘降下作戦を成功させた横須賀特別陸戦隊によるメナド降下作戦(昭和17年1月11日)や続くクーバン降下作戦などの展示あり

日本海軍
横須賀鎮守府第1陸戦隊 メナド降下作戦
横須賀鎮守府第3陸戦隊 クーパン降下作戦

横一特・横三特(海軍陸戦隊)
空挺部隊の慰霊碑は海軍落下傘部隊発祥の地館山の安房神社境内にありますので参考まで

安房神社境内
海軍落下傘部隊慰霊碑 内閣総理大臣田中角栄揮毫

パレンバン空挺作戦 
昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊
南方の石油資源確保のために精油所を空挺攻撃し占領。
陸軍が初めて実施した空挺作戦であり、日本国民が初めて落下傘部隊を知った作戦。
往時の衣装や遺品が展示

血染めのどくろ旗

パレンバン空挺作戦 昭和17年2月14日

陸軍・挺進第2聯隊第1中隊中尾隊の小隊長・長谷部正義少尉が出撃前夜に小隊員39名と共に寄せ書きしたドクロの小隊旗。中央にはドクロと共に「落下傘大明神」と記載。
長谷部少尉は降下占領作戦中に戦死。

レイテ空挺作戦 
昭和19年12月6日~

陸軍第二挺身団「高千穂部隊」
レイテに上陸した米軍に対しての防衛作戦に呼応しレイテ島ブラウェン飛行場に空挺作戦を決行。一時的に飛行場を占領したものの援護なく後退。オルモック救援降下部隊ともどもほとんどの将兵は戦死…

陸軍・義烈空挺隊
義号(沖縄)空挺作戦 
昭和20年5月24日

沖縄本島に上陸した米軍に対し陸海軍特攻機を援護するため、奥山道郎大尉率いる義烈空挺隊(97式重爆撃機12機)に乗り込み読谷・嘉手納飛行場に特攻し強行着陸・飛行場機能停止を目指した作戦。

昭和20年5月24日18時40分。
沖縄を救援するために熊本・健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊12機。
そのうちの1機が読谷北飛行場への強行着陸成功し破壊活動を実施。

挺進殉國
義烈空挺隊 隊長 奥山道郎

義烈空挺隊 隊長 奥山道郎 
遺書
昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります
只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 
                          道郎
御母上様

配布資料
知っていますか?義烈空挺隊
~昭和20年5月24日夜の話~

配布資料
腹が減っては戦は出来ぬ
~義烈空挺隊「食」の話~

配布資料
神兵を癒やした観音湯
~「堤はつ」さんと義烈空挺隊~

空の神兵

空の神兵
作詞 梅木三郎
作曲 高木東六

藍より蒼き 大空に大空に
忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征く
見よ落下傘 空を征く

空挺館の1階部分は陸自のコーナーでした。
(旧軍関連が2階)

配布資料
遠い神代の物語
~陸上自衛隊「空の神兵」事始め~

配布資料
ようこそ空挺館へ!!
習志野駐屯地広報室


駐屯地内に点在するあれこれを見て回ります。

軍人勅諭下賜五十周年記念碑

手前の砲弾のようなものは
「軍人勅諭下賜五十周年」砲弾型記念碑。
明治十五年軍人勅諭が下賜されて50周年の昭和7年に建立された記念碑。
騎兵学校建立。

軍馬慰霊之碑

軍馬慰霊之碑・秋山好古揮毫

日本騎兵の父と称された秋山好古は日露戦争時の騎兵第1旅団長であり第2代騎兵学校長であった。
この軍馬慰霊碑は秋山が逝去する1ヶ月前に揮毫され、そしてこれが絶筆となった。建立は昭和5年11月。秋山好古大将の亡くなった月であった。

日本騎兵の碑

昭和41年建立
碑文は武藤一彦(元中将・元大分市長)
裏面は秋山久三少将(最後の騎兵学校長)の筆による。

ちょうど「日本騎兵の碑」の向こう側では駐屯地イベントの大人気スポット「お化け屋敷」が展開されておりました。
大盛況。 私はしずしずと駐屯地内の石碑めぐりなどを。

94式37mm速射砲

昭和9年(皇紀2594年・1934年)に帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲(速射砲)。
正式名称は九四式三十七粍砲 俗称は九四式三十七粍速射砲

備える防人(ひと)

空の神兵の像

古賀忠雄が昭和17年の大東亜戦争美術展にて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」が原型。
昭和19年に三宅坂の陸軍第1航空軍司令部が武蔵野市吉祥寺の成蹊大学に疎開した時に当時の司令官部屋を飾った像をベースにしている。戦後は成蹊大学から偕行社を通じ第1空挺団に寄贈。
本像は昭和46年に復元銅像化。

鎮魂之碑

「礎」の碑 初代空挺団長・衣笠駿雄揮毫
昭和33年に創隊された第1空挺団
陸軍挺進隊より継承する「挺進赴難」の伝統と「精鋭無比」を目標に部隊を練成してきたが、不幸にも志半ばで職に殉じた第1空挺団同僚先輩たち「殉職された御霊のご冥福」を慰霊。
殉職者慰霊之碑

第1空挺団殉職者慰霊之碑が立ち並ぶ空間。

「挺身赴難」「精鋭無比」の精神で志半ばで斃れられた方々に合掌

第1空挺団 本部

第1とはあるけども、第2以下はなく、日本で唯一の空挺部隊。

降下訓練塔

敷地に中央部に聳えるは「降下訓練塔」
空挺降下の訓練に使われる高さ80mをほこる訓練塔。

心字池

昭和3年、習志野に移転する前に、目黒にあった陸軍騎兵実施学校の庭園・階段・門柱などの一部を材料に建設された池。
「心」という字を型どっている。
騎兵学校時代は将校集会所の庭園として親しまれていたという。

駐屯地夏祭り

各部隊の幟がでていて、ちょっと一味違う空間。

習志野駐屯地

このあたりの建物は陸軍時代のものの可能性高し。東門近く。

習志野駐屯地東門。
このレンガの門柱も陸軍時代のものなのかどうか。
古さが漂っていましたが、詳細は不明。

位置関係

習志野駐屯地、また改めて散策したいですね。


習志野に騎兵学校が移転する前は、目黒にありました。

習志野界隈の関連はこちらも

習志野の戦跡散策(騎兵聯隊編)

平成29年8月

かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである。
 司馬遼太郎

この日は陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」
基地公開日に見学できる施設が「空挺館」
未訪でしたので、是非これは行っておきたい。
ついでに折角だから寄り道しながら駐屯地を目指してみました。


京成大久保駅

天地無私 秋山好古大将

京成大久保駅前の商店街を北上すると「馬のモニュメント」が。

習志野第一騎兵旅団長
秋山好古大将

天地無私

いよいよ「騎兵の町・軍郷習志野」の地です。

秋山好古と習志野

日本とロシアの間に緊張が高まった明治36年(1903年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌37年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。
戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。
司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自ら殿をつとめた好古の勇姿は、敵・味方をこえて評判となり明治38年9月、日本とロシアの間に講和条約が締結されると開けて明治39年早春、好古は歴戦の痕跡を残す聯隊旗と共に
堂々と大久保の地に凱旋しました。
この戦功により後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫赫たる戦果を上げた連合艦隊の主席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に追うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったとこは後の歴史が物語っております。

注・習志野騎兵第一旅団の編成軍
騎兵第十三聯隊(現東邦大学)騎兵第十四聯隊(現日本大学)

平成21年4月吉日

習志野・誉田八幡神社

商店街の東に「誉田八幡神社」という神社が鎮座。この神社の北西側、現在の「八幡公園」に「騎兵第一旅団司令部」があった。
神社の創建は延宝年間(1673年~1681年)と伝承。豊臣方の武将市角頼母によって大阪羽曳野の誉田八幡が分霊され当地が開拓。

紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑

境内にある一際大きな石碑
紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑
陸軍少将 栗林忠道書

なんと硫黄島の栗林忠道陸軍大将謹書。
昭和15年(1940)が紀元2600年。
このとき栗林少将は習志野にて騎兵第2旅団長、次いで騎兵第1旅団長であった縁あり。

騎兵第一旅団司令部跡地

習志野の八幡公園
「騎兵第一旅団司令部跡地」
誉田八幡神社の近く。
騎兵第一旅団司令部(現・八幡公園)の下には騎兵第13連隊(現・東邦大学)及び騎兵第14連隊(現・日本大学)が編成。

公園の入口は往時の門柱が残っている。

習志野騎兵旅団発祥の地

閑院純仁書
昭和51年4月建立

碑銘を書かれた閑院純仁は臣籍降下前は閑院宮春仁王(陸軍少将)
日露戦争時の騎兵第二旅団長であった閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)の次男。

騎兵連隊・旅団司令部跡

 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同6年(1873年)明治天皇行幸の祭に「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。 
 明治32年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設され、同34年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第13・14連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校附近に第15・16連隊からなる第二旅団がおかれました。 
 さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。 
 日露戦争(明治37~38年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に最編制されていきました。 
 第二次世界大戦後、連隊跡は学校に、旅団司令部本部の建物は郵便局になり、八幡公園にあった司令部の講堂には、私立大久保保育園が開設されました。この保育園は昭和24年(1949年)津田沼町に移管されて、本市第一号の公立保育所となり、昭和40年、泉町三丁目に移転しました。 
 昭和56年12月 習志野市教育委員会

習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

旅団司令部のあった八幡公園の北側には文教エリアが拡がる。

すなわち
習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13連隊→東邦大学
騎兵第14連隊→日本大学
騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16連隊→大久保住宅

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した航空写真(8911-C1-1)

騎兵第14連隊跡
(日本大学津田沼キャンパス )

騎兵第14連隊跡地は日本大学生産工学部津田沼キャンパス。
私が訪れた時は絶賛オープンキャンパス中。
うわっ、高校生多し。気が引けたけど何食わぬ顔で守衛さんに「スミマセン、石碑が見たいんですけど」と申告。許可を得まして石碑の場所も教えてくれました。

現在の日本大学生産工学部津田沼キャンパス内に。

騎兵第十四聯隊之跡

昭和43年14号館前デ発掘サレタルモノヲ復元
昭和62年10月

石碑群は大学構内の南西、駐輪場の奥に。

騎兵第十四聯隊発祥之地

竹田恒徳書
竹田恒徳は皇籍離脱前の竹田宮恒徳王。
最終階級は陸軍中佐。陸軍大学校卒業後に満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命している。
騎兵第十四聯隊会奉納の馬像も凛々しく。

明治天皇御製
人ならば
 ほまれのしるし
  授けまし
軍(いくさ)の庭に
 立ちし荒駒(あらこま)

墓碑
騎兵第十四聯隊ハ畏クモ明治天皇ヨリ軍旗ヲ 親授セラレテ明治三十四年十一月創設サレ此 ノ地習志野ニ駐屯シタ
明治三十七年日露戦争ガ勃発スルヤ満州ニ出 征シ沈旦堡ニ於イテ勇戦奮闘シテ克ク騎兵ノ 精華ヲ発揮シタ
戦終ッテ此ノ地ニ帰還シ練武ニ精励シタガ昭 和七年六月満州事変ニ出動シ其ノ後此ノ地ニ ハ戦車第二聯隊ガ駐屯シタ
騎兵第十四聯隊ハ満州ニ於イテ夏季豪雨ニヨ ル泥濘ヲ冒シテ馬占山討伐等ニ従軍シ同年冬 広漠タル厳寒ノ北満ホロンバイルニ進出シ海 拉爾周辺ニ駐留シテ六年に亘リ満ソ国境守備 ノ重責ヲ遂行シタ
昭和十三年六月騎兵集団ニ出動命令ガ下リ其 ノ隷下ニアッタ聯隊ハ海拉爾ヨリ長駆河南省 帰徳淮陽方面ニ進撃次イデ蒙彊地区ニ転戦シ 昭和十七年十二月機甲兵団ノ新設ニ伴ヒ包頭 附近ニ於イテ機動歩兵第三聯隊ニ改編セラレ 戦車第三師団ニ属シテ再ビ河南省ノ鄭州洛陽 周辺一部ハ遠ク湘桂方面ニ作戦シ赫々タル武 勲ヲ挙ゲタ
此ノ兵営跡ハ昭和二十九年日本大学ノ敷地ト ナッタガ大学御当局ヨリ深イ御理解ト温カイ 御厚意ヲ戴キ有志相図リ幾多先輩戦友ノ偉勲 ヲ偲ビツツ此処騎兵第十四聯隊発祥ノ地ニ此 ノ碑ヲ建テ我ガ聯隊ノ事績ヲ永ク伝エヨウト スルモノデアル

昭和六十一年十月二十六日
騎兵第十四聯隊会

戦車第二聯隊の跡

騎兵から戦車の時代に。
戦車第二聯隊は昭和8年に久留米の第一聯隊とともに日本で最初の戦車聯隊として創設。騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐。ビルマ・ガダルカナル島・レイテ・マニラと各地で奮戦。

戦車第二聯隊の跡
戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

勅諭拝受50周年記念碑

為聖諭拝戴五十周年並御紋章掲揚記念
昭和7年

実は石碑群のすぐ隣に神社もありました。

日本大学津田沼キャンパス構内の稲荷神社。
騎兵連隊時代と関係あるかないかはわかりませんが、これはこれで興味深いですね。

騎兵第13聯隊跡
(東邦大学習志野キャンパス)

さて、日大の隣の東邦大に向かいます。
こちらもオープンキャンパスやっていて高校生多数。
気にせずに守衛さんに石碑の見学許可を得て構内に。
東邦大の守衛さんも石碑の場所を教えてくれました。
ありがとうございます。

あら、こちらにも稲荷神社さんです。
碑には大正9年度除隊紀念とあります。
それこそ騎兵聯隊と関係ありそうな感じですね。
石碑を探しにきた大学構内で、おもむろに連続で出会った神社さんは想定外。

騎兵第十三聯隊跡
騎兵第十三聯隊発祥之地

「騎兵第十三聯隊跡」
「騎兵第十三聯隊発祥之地」 
船橋市長大橋和夫書 平成5年4月29日建立

実は東邦大の「騎兵第十三聯隊」の碑と日大の「騎兵第十四聯隊」の碑は塀を挟んでとなり合っています。それぞれ入口は違いますが。

騎兵第十三聯隊概史

 日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治三十二年騎兵第一, 第二旅団の編成に着手 我が騎兵第十三聯隊は騎兵第十四聯隊と共に騎兵第一旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治三十四年十二月十九日軍旗を拝受す
 明治三十七年二月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 五月遼東半島塩大澳に上陸第二軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコサック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す 奉天大会戦に於いては敵の右翼を包囲せんとする第三軍の迂回運動を庇護して全軍大勝の基を拓き更に長駆奉天北方に進出して敵軍主力の側背に迫り露軍敗退の因をなせり
 降って満洲事変勃発するや昭和七年六月出動 泥濘悪路を克服してその機動力を発揮し馬占山討伐を始め東辺道討伐、乾元鎮の攻略等全満各地の作戦に活躍 八年二月海拉爾に進駐対蘇戦に備えて教育訓練に邁進す 支那事変に於いては昭和十三年八月海拉爾より長駆北支に出動主力を以て歸徳一部を以て寧陵、睢縣に在って新黄河北方地域に於ける掃蕩及び陽動作戦に活躍 十四年二月更に遠く蒙彊の地へ転進主力を以て固陽一部を以て薩拉齋に駐屯 駐蒙軍に属して各種の作戦警備に任ず 特に十四年十二月の包頭戦に於いては集団司令部の危急を救い十五年の二次に亘る五原作戦に於いてはその中核として活躍敵の蠢動を封殺し蒙彊地区の安寧に寄与す この間十四年十月我が騎兵機械化施策の一環として自動車編制に改編され更に十七年十月には戦車第三師団の創設に伴い騎兵第十四聯隊と共に機動歩兵第三聯隊を編成軍旗を奉還 茲に騎兵甲聯隊たる四十余年の栄えある歴史を閉ず 然れどもその輝ける伝統は新しき聯隊に脈々として継承せられ特に十九年五月 太平洋方面の戦況非なる時支那大陸戦線に於いて敢行せられし大陸打通作戦の一環たる洛陽攻略に於けるその活躍は永く青史にその名を止むべし 但惜しむらくは敗戦による皇軍の解体と共に聯隊の栄誉を後世に伝うる術もなかりしに幸い戦後此の地に設立せられし東邦大学より記念碑建設の快諾を得 依って我等戦友有志相諮り此処聯隊発祥の地に碑を建て聯隊歴史の概要を刻し以てその栄誉を永く後世に伝えると共に亡き戦友の霊を慰めんとす
 庶幾くは後人后後我等が微衷を察し祖国の安泰と発展に尽瘁あらん事を

歴代集団長
第1代 宇佐美 興屋  
第2代 蓮沼 蕃  
第3代 笠井 平十郎  
第4代 稲葉 四郎  
第5代 内藤 正一  
第6代 吉田 悳  
第7代 小島 吉蔵  
第8代 馬場 正郎  
第9代 西原 一策

歴代旅団長
第1代 渋谷 在明  
第2代 秋山 好古  
第3代 本多 道純  
第4代 河野 政次郎  
第5代 永沼 秀文  
第6代 稲垣 三郎  
第7代 田村 守衛  
第8代 小畑 豊之助  
第9代 宮内 英熊  
第10代 原田 宗一郎  
第11代 梅崎 延太郎  
第12代 柳川 平助  
第13代 吉岡 豊輔  
第14代 高波 祐治  
第15代 中山 蕃  
第16代 小川 正輔  
第17代 黒谷 正忠 
第18代 野沢 北地  
第19代 大賀 茂  
第20代 片桐 茂  
第21代 栗林 忠道  
第22代 森 茂樹

歴代聯隊長
第1代 田村 久井  
第2代 小池 順  
第3代 永沼 秀文  
第4代 牧野 正臣  
第5代 渡部 為太郎  
第6代 南 次郎  
第7代 高須 一万太郎 
第8代 土屋 篤  
第9代 原田 宗一郎  
第10代 宇佐美 興屋  
第11代 中山 蕃  
第12代 山内 保次  
第13代 星 松尾  
第14代 和田 義雄  
第15代 横田 卓二  
第16代 猪木 近太  
第17代 小原 一明  
第18代 山崎 武四

司馬遼太郎氏文学碑

「かつて存在せしものは、
  時代の価値観をこえて保存し、
      記念すべきものである。
 それが、文明というものである」
          司馬遼太郎

司馬遼太郎
我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13聯隊等を指揮した、騎兵旅団長秋山好古は、司馬文学最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である
こいねがわくば在天の魂 時にこの故郷ふるさとに訪れ給はむことを
平成八年 騎兵第十三聯隊会

騎兵十三聯隊と碑について

本学習志野キャンパスがあるこの地には、かつて騎兵第十三聯隊が置かれていました。
騎兵第十三聯隊は、日露戦争が風雲急を告げる明治三十四年、騎兵第十四聯隊(隣接する日本大学の地)と共に、騎兵第一旅団の兄弟聯隊として創設されました。
その後、騎兵連隊は日露戦争において。当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵を奉天会戦などにおいて退けるという偉業を成し遂げます。これは当時のロシア帝国主義から日本を守った大きな一因になったと言われております。
騎兵第十三聯隊は、司馬遼太郎氏の傑作「坂の上の雲」に登場する主人公のひとり、秋山好古旅団長が指揮したことでも有名です。
秋山好古旅団長は後に陸軍大将となり、「日本騎兵の父」と仰がれることとなります。
ここには次の碑が残されています。
一、騎兵第十三聯隊跡碑 (昭和七年)
二、 軍人勅諭下賜五十周年碑 (昭和七年)
三、 騎兵第十三聯隊発祥の地碑 (平成五年)
四、 司馬遼太郎氏文学碑 (平成八年)

司馬遼太郎氏の文学碑には、司馬氏から騎兵第十三聯隊会会長宛に送られた手紙の一節が、次のように刻まれています。

「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」

軍人勅諭下賜五十周年碑

軍人勅諭下賜五十周年碑(昭和7年4月24日建立)
五角柱の碑。
各面に「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5つの徳目が彫られている。陸軍大将南次郎書。

騎兵第13聯隊倉庫

すぐとなりにある「柔道場」
実はこの建物は騎兵第13連隊倉庫であったという。
陸軍騎兵連隊時代を今に伝える貴重な建物。

取り壊しとなりました

騎兵第15聯隊跡
(東邦大学付属東邦中学校高等学校)

騎兵13聯隊の東邦大と騎兵14聯隊の日大を巡り東に向かう。
東邦大学付属東邦中学校高等学校の入口に小さな標柱が建っている。

「騎兵第十五聯隊跡地」
裏面には平成26年5月7日と記載があった。

騎兵16聯隊跡

騎兵13聯隊・騎兵14聯隊・騎兵15聯隊ときましたがその隣の「騎兵16聯隊跡地」はあるようでないようで。
騎兵16聯隊のあった場所は、昭和7年(1932年12月)より陸軍習志野学校の敷地として編入されている。

「陸軍習志野学校」は化学戦学校であり毒ガス研究が行われていた、と。

陸軍習志野学校
(習志野の森)

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っているという。
奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊之塔」もあるという。

※見学してきました


※写真は敷地外より

陸軍習志野学校跡の兵舎跡

習志野学校兵舎の一部といわれる建屋が「習志野の森」近くに残っているが、詳細は割愛。

陸軍習志野学校の車廠床跡

習志野市立大久保保育所の敷地内に。
「陸軍習志野学校の車廠床跡」といわれる往時からのコンクリート床という。
レールのようなものも名残か。
が、駐車場整備が行われているので、その後どうなったかはは不明。
(撮影は2017年)

陸軍習志野学校の弾薬庫跡

習志野市「泉児童公園」
この不思議な形の古めかしいコンクリートの遊び場?は「弾薬庫跡」を利用したものとされている。

陸軍習志野学校の裏門柱跡

よくみると「門柱だなあ」とわかるが、ぱっと見ただけでは草に覆われすぎていてなかなか分かりにくい。
残っているのはこの片方側。もう片方側は何も残ってない。

習志野学校の裏門柱の跡の裏には以前はコンクリート製の「衛兵所」が残っていあっというが現在は取り壊しされている。
敷地は「国有地」

門柱から伸びる「境界土居跡」にそって東に歩む「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流。


場所は変わって。

陸軍習志野演習場は広大な面積を占めており船橋市・八千代市・習志野市にまたがっている。
「習志野駐屯地」は船橋市だし、これから向かう習志野霊園も船橋市。習志野市ではないのです。

船橋市習志野霊園
(習志野陸軍墓地)

市民霊園の片隅に今となっては異色な空間がある。

「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地
日露戦争戦没者墓と慰霊碑。
捕虜として習志野に連れられてきたロシア軍人戦没者慰霊碑、第一次大戦のドイツ人戦没者慰霊碑がある。
戦後再整備が行われ昭和44年に船橋市民霊園として開設。

記念碑
 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。
 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。 
昭和46年4月  船橋市

習志野霊園
「陸軍墓地」旧習志野陸軍墓地

中央には「日本軍人戦没者慰霊之碑」
向かって左には「ドイツ軍人戦没者慰霊之碑」
向かって右には「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」

日露戦争と第一次世界大戦と。

敷地の周辺には日露戦争時の戦没者墓が林立している。

中央部はちょっとした広場になっており。

友愛の木  
日露戦争習志野収容所病歿者慰霊の木

安らぎの木  
第一次世界大戦習志野収容ドイツ軍人戦没者慰霊の木

習志野霊園の奥に見える塔は、習志野駐屯地の「降下訓練塔(高さ80m)」

船橋市郷土資料館

耐震補強工事中でした。
もっとも郷土資料館(や野外展示してあるD51)には直接的な用事はなく、その隣の「薬円台公園」にある石碑に御用が。

習志野 地名発祥の地
附 明治天皇駐蹕之処の碑

当地は明治7年より昭和20年(1874~1945)まで陸軍演習場であった。
明治6年、明治天皇が近衛兵を率いて行幸され近衛兵の演習を天覧。
皇居還御後に勅諭をもって当地に「習志野ノ原」と名を賜ったことに始まる。 碑は大正6年建立。山県有朋謹書。

東部軍教育隊の裏門門柱
(東部軍管区教育隊)

新京成線・習志野駅のすぐちかく。
ここに門柱が1本だけ残っている。

https://goo.gl/maps/oByFNCw1NtR8uFEQ8

こうして歴史の証言物として残っている姿に感謝。

本編はいったんここで〆

習志野編の関連はこちらも。

習志野の戦跡散策(鉄道聯隊と演習場跡)

平成29年8月

陸自・習志野駐屯地一般開放日「習志野駐屯地夏祭り」に赴く途中に、折角だから寄り道しながら周辺を散策してみました。

津田沼駅

午前9時。
目標地は習志野駐屯地だけど最初に降り立った駅は「津田沼」でした。

陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡
(鉄道第二連隊隊門跡)

まず訪れたのがJR津田沼駅近くの「千葉工業大学」 大学正門が「陸軍・鉄道第二聯隊兵営表門跡」(鉄道第二連隊隊門跡)。登録有形文化財。

おっと、ちょうどオープンキャンパスでした。
人の出入りの合間をみてパチリ。

現在の千葉工業大学正門・国有形文化財

登録有形文化財 第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
千葉工業大学

位置関係

津田沼駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

「K2形機関車134号機」
陸軍鉄道第2連隊の演習線で活躍し戦後は西武鉄道に払い下げられた機関車。
西武鉄道で使用されたのちにユネスコ村で静態保存。同村閉園の為に鉄道連隊ゆかりの千葉県習志野市に引き取られ当地で保存。
日本国内での現存唯一のK2形とされている。

K2形機関車134号

 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

新京成電鉄

新京成線は「カーブが多い路線」として有名。
カーブが多い理由は陸軍第2連隊時代に敷設や運転の演習の為に故意に曲げた為と。
その陸軍演習線を新京成線が一部転用した為に、ご覧の有様。
新津田沼駅から京成津田沼駅まで往時のカーブの気配を堪能しながら移動しましょう。

京成津田沼駅

京成津田沼駅から西に伸びている一本の道路。
線路脇に石碑が立っています。

御大典記念道碑

昭和4年2月建立
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。

京成津田沼駅から西に伸びる「御大典記念道」を歩く。
今でこそ普通の道ではあるが地元の寄付金などで建設されたこの「御大典記念道」は大仰な名前とともに悲願の賜物であっただろう。

陸橋の下にもひっそりと石碑が残っている。
こちらの碑は摩耗が目立っていた。

「御大典記念道」をチラリと見学して駅に戻る。 ここから陸軍鉄道連隊が敷設した線路跡の道路(鷺沼台遊歩道)を歩いてもよかったのですが、体力温存の為に京成津田沼から京成大久保までの一駅だけど電車で移動。

そういえば新京成「ふなっしー電車」がいました。

京成大久保駅

京成大久保駅周辺
1944年10月16日‐陸軍撮影の航空写真(8911-C1-4)

鉄道連隊演習線(習志野線)

京成大久保駅前の北側に、東西に伸びている遊歩道。
この道が「鉄道連隊演習線(習志野線)」
(新京成線は鉄道連隊演習線松戸線)の跡。
遊歩道としては「ハミングロード」

鉄道連隊演習線の路線図には往時の周辺情報も。
京成大久保駅の北側には「騎兵旅団司令部」「騎兵13聯隊」「騎兵14 聯隊 」「騎兵15 聯隊 」「騎兵16 聯隊 」と。 このあたりは別記事で。

https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B041’10.8%22N+140%C2%B002’44.5%22E/@35.6863333,140.0451472,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.686321!4d140.045695?hl=ja

鉄道聯隊演習線跡

この地は、鉄道連隊の演習線が走っていたところです。
明治40年(1907年)東京中野にあった鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉市と津田沼町に転営しました。この前年、津田沼-習志野間に軽便鉄道が敷設されました。日露戦争時に購入した鉄道資材を習志野の捕虜収容所跡に保管するためでした。この資材をさらに千葉の鉄道連隊材料廠に移転するため、明治41年~42年、習志野-千葉間に軽便鉄道が敷設されました。資材の移転は明治44年(1911年)に完了し、その後この鉄道は鉄道連隊の演習線路として用いられました。線路は、初期に多少のルート変更が有りましたが、津田沼-大久保-三山-高津-犢橋-宮之木-園生-千葉の約16.7㎞の区間で、軌間600mmの軽便鉄道でした。軌間1067mmや1435mmの普通鉄道が並行して布設されたこともあった様です。
津田沼に置かれた鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918年)に鉄道第二連隊に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したと言われる津田沼-松戸間の演習線で、鉄道の敷設・撤去・修理の訓練や、機関車の運転訓練を行いました。
戦後、演習線の跡は津田沼-松戸間がほぼ新京成線になりました。津田沼-千葉間は、津田沼-高津間が一時期自衛隊の演習線として用いられた後、現在は大部分が道路となっています。

陸軍境界石

「陸軍習志野学校裏門」から東に歩み「鉄道連隊演習線跡」の道路と合流するあたり。往時は「演習場(練兵場)」が展開されていた場所らしい。
ここに2つありました。

https://goo.gl/maps/eDVB3c6yX1z66RVt6

「鉄道連隊演習線跡」の道路に合流してちょっと北上。
このあたりも 「演習場(練兵場)」 だったあたりなのかな。

畑の中に、仲良く葱と並んで「陸軍用地」(陸軍境界石)
見つけた時に、ちょっと笑ってしまいました。

https://goo.gl/maps/uPHJuAw7U43i863bA

鉄道連隊演習線(習志野線)

東に向かって歩いてます。

https://goo.gl/maps/1aMwiyWhZyhgSj499

演習線跡を歩みつつ。

支那囲壁砲台(旧陸軍演習場内圍壁)

異国的なものが見えてきました。

習志野演習場跡
「支那囲壁砲台」(旧陸軍演習場内圍壁) 国登録有形文化財
これは中国での戦いを想定し演習用に中国風家屋を模して作られた銃眼砲台ミニチュア。民家として一部現存している。

https://goo.gl/maps/gBE6ee7izinci81m7

号砲台跡

支那囲壁砲台から20分ほど歩く。イオンタウン東習志野の北側。

「号砲台跡」
「陸軍省所轄地」 が移設保存。
陸軍演習場習志野原の号砲台を記念して築かれた小塚。
現在は工場敷地内。道路側から小塚を眺める事が出来る。

https://goo.gl/maps/95kSWVSRovWwWdie7

本編はここまで。

京成大久保駅からの騎兵聯隊や習志野駐屯地は別にまとめます。

駒澤練兵場跡地の戦跡散策

平成30年2月‐4月

世田谷区池尻・三宿・下馬、目黒区駒場・大橋界隈の散策
駒沢練兵場や陸軍騎兵学校、騎兵第一聯隊、陸軍獣医学校、糧秣廠、野砲兵第一聯隊など。


世田谷区の池尻・三宿・下馬や目黒区の駒場・大橋といったエリアはかつての陸軍軍用地であった。
以下に残存する面影を求めつつ散策した記録を。
なお本記事は平成30年2月及び4月の幾日かにエリアを分割して散策をしております。


位置関係

参考地図
今昔マップ on the webさんをベースに、グーグル地図は実際に散策したエリア。それぞれに補足記載。駒澤練兵場(現在の三宿駐屯地)を中心に軍用地が広がっているのがわかります。


上目黒氷川神社

池尻大橋駅近くに鎮座しているのが「上目黒氷川神社」
まずはここから行きましょうか。
ん?戦跡散策ですよね、神社??
実は神社境内の裏側には「陸軍騎兵実施学校」(のちの陸軍騎兵学校)があったのです。
現在の駒場高校や目黒区立第一中学校、東邦大学医療センター大橋病院のあたり。


「上目黒氷川神社」境内社「稲荷神社」後方。
神社敷地の隣りの私有地にありました。

陸軍境界石(陸軍騎兵学校・上目黒氷川神社境内)

明治期に上目黒氷川神社の後方に展開されていた「陸軍実施学校」は、大正5年に習志野に移転し「陸軍騎兵学校」と改称。
目黒の騎兵学校跡地には陸軍輜重兵第一連隊が駐留。その名残。


仰光寮

神社から北へ。 都立駒場高校と目黒区立第一中学校の間の道路の突き当り、高校の敷地内。
「仰光寮」大正7年 香淳皇后が皇太子(後の 昭和天皇)妃に内定された大正7年に御実家の久邇宮邸内に建てられた建物。
当初は麹町一番町の久邇宮邸内にあったが昭和26年に現在地に移築という。(敷地外より撮影)


天覧台

都立駒場高校グランドを周回するように西側に。
このグランド、かつての「陸軍輜重兵第一連隊の射撃場」の地であり、さらには「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」の地でもあり。
そんなグランドと大橋住宅の間に「天覧台」という碑がある。
そして東側には前述の「仰光寮」の屋根も垣間見れる。

天覧臺(天覧台)
陸軍中将畑英太郎書 (畑俊六の兄)

由来記
記念碑天覧台は 明治天皇親しく此の台上より陸軍乗馬学校(後の陸軍騎兵学校)卒業馬術を明治25年(1892年)天覧なされてより延11回 大正天皇におかせられても4回行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が建立したものである
以来部隊の象徴として日夜心身の錬磨に努めていたが昭和20年8月復員発令に伴ない題字及び碑文を抹消放置したまま30有余年を閲した
此の碑を心の糧として軍の補給輸送に任じ祖国の平和を祈り異郷に散華された数多将兵の忠誠を顕彰し併せて陸軍輜重兵第一聯隊及び関連部隊の栄誉を永遠に伝えるため戦友相寄り相計ると共に明治神宮宮司高澤信一郎先生の題字復元を得て修理を完成した
昭和56年11月14日
 天覧台保存会

記念碑天覧台は明治25年以来
明治天皇11回
大正天皇4回
に亙(わた)り陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされた御聖徳を偲び昭和3年11月14日陸軍輜重兵第一大隊が之を建立した

天覧台周辺地図が掲示されてました。
大正5年(1916)に「陸軍乗馬学校(陸軍騎兵実施学校)」が習志野に移転(陸軍騎兵学校)したのち、この地には「陸軍輜重兵第一聯隊」が駒場高校及び区立第一中学の地に、「陸軍輜重兵学校」が駒場東邦中学高校及び筑波大学附属駒場中学高校の地に展開された事がわかる。


馬神碑

天覧台から西に。「陸軍輜重兵学校」があった駒場東邦中学校・高等学校の南西、騎兵山とも呼称されている斜面(高層マンションが建ってます)に碑が残っておりました。

「馬神碑」(昭和5年7月建立)
戦没した馬たちを霊を祀る碑 騎兵にとって馬は何よりも大切な相棒 蹄鉄と人参が備えてありました

馬神碑のある騎兵山はすなわち「騎兵第一聯隊」の跡でもあり。

で、その聯隊跡を物語る跡地を探してプチ迷子。
慌てて検索してみると扉付きの階段の上に公園があるらしく、そこが聯隊跡を物語る碑の場所。行ってみます。(扉の開放しっぱなしはNG、立ち入りの制限はなし)


騎兵第一聯隊阯
戦死病没者表忠碑

明治二十七八年及三十七十八年戦役(日清戦争及び日露戦争)

「戦死病没者表忠碑」
陸軍中将大勲位功四級 載仁親王 書


明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
明治39年11月 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建

騎兵第一聯隊阯
「戦死病没者表忠碑」脇石碑

征清之役戦死者哀
悼碑建設工ヲ竣ル
滋二其姓名ヲ勒シ
永ク後世ニ傳フ
明治29年6月30日 騎兵第一聯隊長 秋山好古 謹記

日清戦争時、秋山好古は陸軍騎兵少佐(戦中に中佐昇進)として出征。
明治29年8月には陸軍乗馬学校長(のち陸軍騎兵実施学校長)に就任。

騎兵第一聯隊阯
「騎兵第一連隊創設百年記念」
竹田恒徳(陸軍中佐)
昭和48年3月吉日 騎兵第一聯隊会

…昭和二十年一月今田義男聯隊長以下全員悉く国難に殉じ斃れて後已む壮烈真に鬼神も為に哭く…先人の英魂を弔い其遺烈と勲業とを永く後毘に伝えんが為、聯隊の旧阯駒場台上忠魂碑の傍に此碑を建つ

騎兵第一聯隊阯
満洲事変・支那事変・大東亜戦争
戦没者慰霊塔


木標に書かれた文字は風化しており辛うじて読み取れるものでした。
日清・日露戦争の表忠碑の隣に。

日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争…
厳粛な空間が保たれている騎兵山の慰霊碑で、心静かに哀悼と感謝を捧げる…


陸軍獣医学校跡

騎兵山から北上。突き当りにある学校が「駒場学園高等学校」、この地はかつての「陸軍獣医学校」 。
騎兵と馬、馬と獣医。深き関係。 秋山好古は明治31年に駒場の陸軍騎兵実施学校長に赴任し、翌年には陸軍獣医学校長を兼務している。

駒場学園高等学校の守衛さんの許可を得て入構し跡地の碑を見学。

陸軍獣医学校軍馬碑

過ぐる大戦において多くの俊馬が大陸にまた南方に徴発され一頭も帰還することなく彼の地に没した
人為による無謀とはいえそのいたみを忘れぬことこそ我らの務めである
軍馬と因縁浅からぬこの地に小碑を建立し永遠にその霊を慰める
平成2年5月1日 駒場学園高等学校 校長 笠原喜四郎

陸軍獣医学校にあった「動物慰霊之碑」は両国回向院に戦後に移転している。


陸軍境界石(陸軍獣医学校)

陸軍獣医学校のあった駒場学園高等学校の東側の道路に「陸軍境界石」がいくつか残っておりました。
保育園建設敷地に沿って2つ。これはこのまま残ってくれるかな、保育園の完成後にどうなるかは気になるところ。

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B039’23.3%22N+139%C2%B040’41.7%22E/@35.6564722,139.6760613,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6564703!4d139.6782459

※保育園完成後に撤去されました。。。現存してません。。。

駒場学園高等学校と隣接する富士中学校の東側にもありました。
「陸軍境界石」(陸軍獣医学校)
陸軍省と見えますね。
笹藪の中に唐突に境界石を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。 陸軍軍用地であったことを物語る歴史の証人。

この場所からそのまま北上していくと「京王井の頭線」。
その北側は駒場東大。
駒場東大には東京帝大航空研究所があったり、駒場公園前田家本邸には中島飛行機本社が疎開してきたりしますが、それはまた別の機会に。


池尻稲荷神社

この神社の南方には「駒澤練兵場」が展開。
今昔マップ on the web に合わせてみると、駒澤練兵場は現在は世田谷公園・自衛隊中央病院・三宿駐屯地などになっていることがわかります。


駒澤練兵場の排水水路・排水溝跡

神社の脇にちょっとした空間が不自然に残っていて。
これが「駒澤練兵場の排水水路・排水溝」の跡といわれている暗渠。
神社の敷地に沿うようにウネウネと排水溝跡が残っておりました。

池尻稲荷神社から駒澤練兵場方面へは暗渠が通路として活用されている。
(写真1枚のバイクの先が神社)
練兵場方面に進んでいたら途中で暗渠は見失いましたが。


陸軍糧秣廠の馬糧倉庫

池尻稲荷神社と駒澤練兵場のあいだあたりに。
「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の転用倉庫が残っている。
現在は「ヤマト運輸 太子堂センター」と「生協パルシステム東京池尻センター」が利用している倉庫。
外装は今風だけれど、骨組は往時の基礎を活かしているようです。

かつての「陸軍糧秣廠の馬糧倉庫」の近くに、今は「学校法人 食糧学院 東京栄養食糧専門学校」。
なんだかんだで食糧つながり。
食糧学院のルーツは大正7年発足の食糧問題研究会。 昭和14年に食糧学校が開校。初代学長は三井清一郎陸軍中将・貴族院議員。 戦後の昭和21年に現在地に移転している。


陸軍境界石(陸軍糧秣廠)

「食糧学院」かつての「陸軍糧秣廠」の敷地に沿って歩いていると、ありました。(サイト「帝都を歩く」さんの)案内つきです。

「陸軍用地」(陸軍境界石)
黒く塗っているのが斬新。わかりやすくはありますが。
このあたりが「駒沢練兵場」の北端。


野砲兵連隊の兵営

駒沢練兵場西側。駅的には池尻大橋駅より三軒茶屋駅のほうが近いです。
例のごとく今昔on the web で補完。

駒沢練兵場西側には野砲兵連隊の兵営が集中。

近砲=近衛野砲兵聯隊 →昭和女子大
野重砲八=第一師団野戦重砲兵第八連隊
野砲一=第一師団野砲兵第一連隊 →下馬アパート

第一師団野砲兵第一連隊兵舎跡

下馬アパート近く。野砲兵第一連隊兵営の地。今となっては時代錯誤感にあふれる木造平屋建造物が残っている。

東京世田谷某国会館 (写真見ればわかりますが某国と伏せます) かつての第一師団野砲兵第一連隊の兵舎跡。 戦後に某国会館として利用されるようになった経緯は不明。なんとなく複雑な気分。


馬魂碑(野砲兵第一聯隊)

都営下馬アパート近く。
このあたりは前述したとおり野砲兵第一連隊の兵舎があった場所。
都営団地に囲まれるように小さな公園があり、その公園の片隅に幾つかの石碑が集められていた。

軍馬慰霊の碑…

https://www.google.com/maps/place/35%C2%B038’31.4%22N+139%C2%B040’33.8%22E/@35.6420556,139.6738669,17z/data=!3m1!4b1!4m9!1m2!6m1!1s10Eq3VaKbm1RN8QosP52Fpi9tNlk!3m5!1s0x0:0x0!7e2!8m2!3d35.6420648!4d139.6760489

「馬魂碑」
(都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」)
昭和14年12月建立
(右の小碑は昭和44年12月に下馬史跡保存会建立)

野砲を牽引する為に馬の力が必要。砲兵と軍馬の繋がりも深く。愛護憐憫に溢れた慰霊の碑。
裏面を見ると「野砲兵第一聯隊留守隊長陸軍砲兵中佐◯◯」と記載がある。

「馬頭観音」
都営下馬アパート近くの小公園「下馬アパート公園」に。
ここでいう馬頭観音は仏教菩薩でもあり軍馬の仏でもあるのか。
軍馬慰霊の馬頭観音。

「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と書かれた慰霊碑もあった。


以下、2021年5月再訪

馬魂碑(再開発中)

都営下馬アパート再開発のために、馬魂碑のあった公園は封鎖されていました。
そのまま公園として復してくれるとよいのですが。

2024年 移築保存されていることを確認しました


東山の馬頭観音

馬頭観世音。軍馬を慰霊する馬頭観音。

東山の馬頭観音
 かつて、このあたり一帯は旧駒沢練兵場の跡で、旧陸軍の近衛第一師団5000人の将兵と1300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたところです。特に東山の傾斜地での急坂路訓練は大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて坂を駆け上がり下りをくりかえす人馬一体となっての厳しい訓練でした。
 この馬頭観音は軍馬を愛し大切にしていた旧軍隊の兵士が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「〝苫良号〟腰椎骨折、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。東山中学生や地元の人々の善意で屋架が大切に保存されています。  
平成4年3月 
目黒区教育委員会

結構な坂道。かつて軍馬もこの地で訓練に明け暮れ、そして斃れた。

場所

https://goo.gl/maps/92W54pc343rEDGXr9


記事追加(2021年5月)

陸軍境界石

都営下馬二丁目アパートの南側に、境界標石が2つ確認できた。

ひとつめ。

ふたつめ

場所

https://goo.gl/maps/NUgMaQRLAddaRGuK9


三軒茶屋と池尻大橋界隈。
この界隈は、軍馬との繋がりを深く感じる散策でした。

動物慰霊之碑(陸軍獣医学校・両国回向院)

平成30年参拝

かつて陸軍獣医学校内にあった「動物慰霊之碑」(昭和3年3月建立)が、紆余曲折あって、戦後に両国回向院に移転している。
陸軍獣医学校 はかつては世田谷区の、現在の 駒場学園高等学校 のあたりにあった。(後日まとめます)

両国回向院(本所回向院)は、動物供養でも著名な寺院さん。

動物慰霊之碑

昭和3年3月建立陸軍獣医総監 岡田勝男 謹書。
岡田勝男は、東京帝大獣医学科卒の陸軍獣医中将。

昭和三年三月
動物慰霊之碑
陸軍獣医総監 岡田勝男 建立

碑裏面
この碑は東京都世田谷区下代田町旧陸軍獣医学校内にあったもので、同校明治以降の教育研究に犠牲となった動物及び物言えぬ戦士として戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長岡田勝男氏により建立され懇ろに祀られて来たのであるが、昭和20年敗戦の後は全く荒廃に委ねられて来たこと、幸い当回向院並に多数援助者の厚志により、今回この地に移し永く供養し得ることとなったこと、当時それら40数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員5千余名の深く喜びとするところである。
昭和38年4月29日
紫陽会
会長 渡辺満太郎

陸軍獣医学校の跡はこちら


回向院

 明暦3年(1557)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 

諸宗山 回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来 (東京都重要文化財)
安政大地震(一八五五年)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天地地変に因る死者も埋葬され近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています(以下略

「陸軍中野学校 ・豊多摩監獄・野方配水塔」中野の戦跡・近代史跡散策

平成29年

・陸軍中野学校
・豊多摩監獄
・野方配水塔

平成29年10月28日。
当初の予定が雨で崩れたために予定変更の散策。

さすがに中野は再開発で見るべきところはすくないけど、ちょっとだけ往時を偲ぶ痕跡を探してみました。

中野駅前

JR中野駅北口。物産展やってました。
この場所がすでに陸軍用地。戦前の「陸軍中野学校」がこのあたりに展開されていました。
何度かの開発を経て、この写真に写っている「中野区役所」と「中野サンプラザ」の地は更なる再開発になるとのことで。

中野駅の北側に「陸軍中野学校」、
その北は「豊多摩刑務所」。

戦後、陸軍中野学校の跡には警察大学校・警視庁警察学校などがあったが2001年に府中に移転。
その後は2008年に東京警察病院がこの地に移転。
また「中野四季の森公園」が整備され、明治大・帝京平成大学などが開設している。

位置関係

以下は、1944/11/07(昭19)陸軍撮影の航空写真(8921-C6-140)

中野区役所の前に、お犬様がおりまして。

陸軍中野学校よりも前の時代。江戸時代。
この地には5代将軍・徳川綱吉公の時代、元禄8年(1695)に作られた「犬屋敷」があったという。この犬像は1991年に寄贈。

中野区役所の前庭に。
中野が歩んできた歴史の一節が記載されておりました。

中野史跡碑」(昭和43年建立)
徳川五代将軍綱吉の犬小屋、八代将軍吉宗が桃園と御立場を設置、明治に中野電信隊・鉄道隊・気球隊が創設、そして陸軍中野学校が整備、戦後のGHQ進駐から警察大学校など…。

中野四季の森公園

平成24年、警察大学校の跡地を活用してできた防災公園。
中野四季の森公園の周囲には「明治大学」「帝京平成大学」「中野セントラルパークサウス」「中野セントラルパークイースト」などが展開されている。

もちろん、この地も戦前は陸軍中野学校跡。

当地には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が明治30年(1897)に創設。
のちに鉄道隊と気球隊は千葉に移転。(習志野鉄道聯隊など
当地に残った電信隊が第一電信聯隊と改称し、のちの「陸軍中野学校」へと。 電信をスタートして諜報や防諜・宣伝など秘密戦へと進化。

中野四季の森公園 いまとむかし(一部抜粋)
時は流れ、明治期から第二次世界大戦の終戦までは陸軍関係の施設がありました。陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊兵舎が明治30年(1897年)に創設され、後に交通兵旅団司令部も置かれましたが、やがて鉄道隊・気球隊は千葉県下に移転し、電信隊のみが残り、第一電信連隊と改称しました。その後にできたのが陸軍中野学校でした。この学校は『「謀報謀略の化学化」に対応するための要員養成所』として設けられたと言われています。

陸軍中野学校

スパイ養成学校と言った感じでとにかく後世のイメージは悪いですよね。

陸軍中野学校は、諜報や防諜・宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校で情報機関のひとつ。
昭和13年に防諜研究所として創設され、昭和15年には陸軍中野学校と改称。

昭和13年の創設時は東京九段(軍人会館近く)にあった愛国婦人会本部別館にあったが、昭和14年4月に旧電信隊跡地の中野に移転。

昭和19年には静岡浜松天竜に遊撃戦(ゲリラ戦)要員養成の為の「陸軍中野学校二俣分校」が開校。

昭和20年4月、空襲激化に伴い陸軍中野学校は群馬富岡に疎開。松代大本営と東京の中間地が富岡の選定理由という。
そうして疎開先の富岡で終戦。(疎開先は現在の県立富岡高校)

東京警察病院

戦後、陸軍中野学校跡に「警察大学校」「警視庁警察学校」などが開設。それらの警察学校は平成13年(2001年)に府中に移設。
2008年(平成20年)に「東京警察病院」が千代田区富士見から当地に移転し現在に至る。一応、誰でも受診出来るらしい…

陸軍中野学校址碑

東京警察病院敷地内
敷地内の北西角にある「碑」を見学。
極めてわかりにく場所。その歴史を隠すかのようにひっそりと植え込みの中に「陸軍中野学校を物語る碑」があった…

陸軍中野学校址碑
碑裏面

國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務要員養成所を臨設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬県富岡町に移転するまで六星霜、全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に國軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷の重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立 学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である

陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立

「陸軍中野学校址碑」を謹書した福本氏は陸軍中野学校の創設メンバーの一人。 (岩畔豪雄中佐・秋草俊中佐・福本亀治中佐の3名が創設委員)
福本亀治氏は二・二六事件当時は東京憲兵隊特高課長で取り調べを担当。のちに中野学校幹事に就任。その後は第六方面軍憲兵隊司令官兼漢口憲兵隊長・少将。

摂政宮殿下行啓記念碑

「陸軍中野学校址碑」の隣には「摂政宮殿下行啓記念碑」
これは大正12年5月28日に当地の「中野陸軍電信隊」を摂政宮殿下(昭和天皇)が行啓されたことを記念。

碑裏には「昭和6年3月」「軍用鳩調査委員事務所職員一同」と記載あり。
中野の電信隊では軍鳩の飼育研究も行われていたのだ。

中野陸軍電信隊と軍用鳩・・・

写真は靖國神社の「鳩魂塔 」

この靖國神社「鳩魂塔」は、伝書鳩の霊を慰める為に昭和4年に中野陸軍電信隊内に建立されたことに始まる。
その後、上野恩賜公園を経て昭和57年に靖國神社に復元奉納。

軍用鳩魂の記憶は、平和を希求する「靖國神社の白鳩」へと受け継がれているのだ。


陸軍中野学校の跡から北北東の方向に歩みをすすめる。

中野区立 平和の森公園

かつての豊多摩刑務所(後の中野刑務所)
1910年に開庁、1975年に廃庁。
1985年に跡地に平和の森公園として部分開園。

中野「平和の森公園」南側。
矯正研修所東京支所と野水再生センターの間の道から垣間見れます。

旧豊多摩刑務所表門
(豊多摩監獄・中野刑務所)

後藤慶二・大正4年(1915)
旧豊多摩刑務所表門は大正時代の建築家であり35歳で急逝した後藤慶二の手による現存する唯一の建築物。 イギリス積。

豊多摩監獄設計者 後藤慶二
大正モダニズム建築の傑作 豊多摩監獄

豊多摩監獄の工事主任及び現場監督として、実質的な設計にあたったのが後藤慶二(明治16年‐大正8年・1883-1919)でした。
完成をみたのは大正4年(1915)、後藤が東京帝国大学卒業後司法省に入り、技師となってまだ6年目のことでした。洋画を学び豊かな芸術的才能を持ち合わせた後藤は、監獄という機能的な建築物の設計において、先進の技術を用いながら、大正モダニズム建築の代表作として評価される芸術的な作品を生み出しのたのです。しかし、彼は惜しくも36歳の若さで夭折しました。
中野刑務所の遺構である旧豊多摩監獄表門は、今日現存する彼の唯一の作品です。( 矯正図書館 展示より)

旧豊多摩刑務所表門から、そのまま道なりに歩いていけば「法務省 矯正研修所東京支所」に。
中野刑務所時代の塀かどうかはわからないけど、古さを感じさせる良き気配。 でもこの先は立入禁止。

矯正研修所東京支所の隣に「CAPIC刑務所作業製品展示ルーム」。
併設された「矯正会館・矯正図書館」ではちょうど矯正図書館開設五十周年特別展示が行われておりました。

「刑務所近代化の歴史とそれを支えた人びと」
まったく予定しておりませんでしたが面白そうなので立ち寄りを。

以下、興味を持った展示内容などを。

豊多摩監獄内の神社「寶樹稲荷社」
元は市ヶ谷の備中松山藩板倉家鎮守社。
明治8年の市ヶ谷監獄建設に伴い市ヶ谷監獄の鎮守社に。
大正4年に市ヶ谷監獄が豊多摩監獄に移転した際に当社も遷座。
平成27年に中野新井の新井天神・北野神社の境内稲荷社に遷座合祀。

清浦奎吾揮毫「刑は刑無きに期す」(昭和8年・複製)・尚書(書経)
清浦奎吾(1850-1942)は内務省警保局長・司法次官・司法大臣等を歴任し日本行刑制度の基礎を築いた。
1900年から1909年までは監獄協会(現在の矯正協会)の会頭・総裁。
1924年に内閣総理大臣就任。

旧豊多摩監獄(中野刑務所)で使用されていた煉瓦。
これは「桜花」が刻印された「小菅監獄製煉瓦」。
豊多摩監獄では「小菅監獄製」の他には「上敷免製」刻印の日本煉瓦製造会社製の2種類があったという。

廃庁嗟惜

惟時、昭和58年3月31日。
此の日、職員41名、在監者なく、天気麗燿なれど寒風強し。 
豊多摩監獄、豊多摩刑務所、中野刑務所と三代70年に亘り、行刑の栄光と苦難の道を一途に歩み来たりしも、今、将に永遠に終焉の帷りを閉じなんとす。
(中略)
孤独なれど粛然として消え去り行く、我が中野刑務所よ。
 静かに眠れ。
  そして、消え去れよ。
   嗚呼
昭和58年3月31日 中野刑務所長 …

矯正図書館企画展にて良き学習を。
刑務所からみる近代史というのは縁がなかったもので。

さて移動。
「平和の森公園」の平和資料展示室に行こうと思ったら…へっ?
「平和資料展示室」は展示終了、展示資料の一部は区役所に…って区役所は散策の最初だったし、区役所に戻るつもりもないのでまたの機会に。。。

北上。西武新宿線を越えて哲学堂公園近くまで歩む。

中野区立 水の塔公園

名前の通り、ここには水の塔=配水塔があります。

野方配水塔

国登録文化財
淀橋浄水場などを手がけ近代上水道の父と称された中島鋭治博士の設計。
着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和4年。高さは33.6m、直径は約18mの鉄筋コンクリート造り。
世田谷区喜多見で多摩川から引水。
昭和41年まで稼働。東京近郊都市化のシンボル。

正面には弾痕の跡が残る。
大きくシンボル的であった給水塔も戦禍の歴史を刻んでいた。

野方配水塔
空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。
関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に、配水塔がつくられました。
この配水塔は1966(昭和41)年に配水を止め、その後、災害用給水槽として使われてきました。
中野区

旧野方配水塔(国登録文化財)

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正12年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある13の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和2年(1927)で竣工は同4年です。高さは33.6m、基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の2時間分が貯水可能と言われ昭和41年(1966)まで使われていました。その後、解体計画もありましたが、平成22年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観を形づくり、江古田の水道タンク・水の塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
平成26年2月 
中野区教育委員会

正面の「みずのとう幼稚園」側から、水の塔を臨む。
頂点の造形が配水塔にしておくにはもったないくらい美しい。

今回の中野散策編はこれでおしまい。

近藤家ゆかりの日露戦争記念碑(調布)

地元調布の忠魂碑と記念碑を掲載。

調布の布多天神社境内。近藤勇の孫にゆかりがあるのです。

日露戦争記念碑

日露戦争忠魂碑
日露戦争記念碑

近藤勇と新選組のゆかりの地
日露戦争記念碑(中央の碑)の裏には、日露戦争に従軍し、戦病死した近藤勇の孫(近藤勇の娘瓊(たま)と勇五郎の一人息子)近藤久太郎の名がみえる。
近藤久太郎の墓は、祖父近藤勇が眠る龍源寺に一族とともにある。
碑文を書いたのは、近藤勇が甲陽軍鑑を率いて甲府に向かう途中に立ち寄って歓待を受けた上石原宿名主中村勘六の長男で、多摩三筆の一人に数えられた中村克昌である。
平成二七年三月設置 調布市観光協会

近藤久太郎は明治16年(1883)に近藤勇五郎と近藤たまの長男として誕生。 「近藤たま」は新選組局長近藤勇の一人娘。近藤勇五郎は旧姓宮川、近藤勇の甥(勇の兄の子)で、のちに近藤勇の婿養子となっている。

近藤久太郎 は近藤勇直系のただ一人の孫であった。
日露戦争に出征し、明治38年に戦病死。23歳。

記念碑には「現役陸軍騎兵一等卒」と記載あり。

日清戦争忠魂碑(左)

西光寺(西調布)


近藤神社と産湯の井戸

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。
産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側には宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

近藤勇の出生地は調布。市内には近藤勇ゆかりの場所がほかにもあるけれども、それはおいおいで。

大西瀧治郎を偲ぶ

総持寺境内

鶴見駅から鶴見総持寺に足を運んでみた。大西瀧治郎の墓に。

大西瀧治郎

従三位勲二等功三級

海軍中将 大西瀧治郎之墓

合掌

海軍中将。第1航空艦隊司令長官、軍令部次長を歴任。

「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」
神風特別攻撃隊の創設者の一人。

昭和20年8月16日。
遺書を残し割腹自決。享年55歳。

墓裏には

昭和三十八年八月廿三日再建之
大西 淑恵
児玉 誉士夫

とある。
大西 淑恵 は 大西 瀧治郎 の妻。
児玉 誉士夫 は大西と懇意な関係にあり、児玉機関への支援などを大西は積極的に行っていたということもあり、交流が深かった。

遺書の碑

2000年に「遺書の碑」が建立。発起人は元副官であった門司親徳(海軍主計少佐)。命日である8月16日に除幕式が行われた。

遺書

特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
弾として散花せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以つて旧部下の
英霊と其の遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎
八月十六日

之でよし百万年の仮寝かな

「 之でよし百万年の仮寝かな 」は辞世の句

海鷲観音

大西 淑恵 婦人によって建立。
「故人は特攻隊に申し訳ないと言い残して自決したのですから、特攻で散華された方々をお祀りする観音様を故人の墓と並べて建立したい」との希望で建てられたもの。

海鷲観音
昭和27年9月彼岸 
施主 大西淑恵

大西瀧治郎君の碑

親友一同による「大西瀧治郎君の碑」がある。

いわく。
今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ
君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり
朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり
去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へり ・・・

大西瀧治郎君の碑
大西瀧治郎君は兵庫県芦田の産長して海軍に志し明治四十五年七月優秀の成績を以って兵学校を卒業す人と為り豪宕不屈進んで草創期の航空界に身を投じ険難を意とせす研鑽に精進する事数年その特性を体得するに及び将来我が国防の最大要素たるべきを痛感し海軍航空を急速に発展せしむる事こそ自己に課せられたる使命なりとし益々拮据精励特に要員教育訓練の基礎確立に力を到せり爾来累進して要職を歴任するの間軍政の府に在っては航空優先の施策実現に全力を傾注し熱誠倦むところを知らす又部隊を率いては率先垂範積極的指導に終始し士気の昴揚自ら風を為す大東亜戦争の初期海鷲よく太平洋の全域を掩□無敵の名を肆に到したるその因由素より多々あるへしと雖君等明達径行の士万難を排して精強部隊の育成に汲々として盡瘁したる多年の苦心に負うもの甚た大なるは信じて疑はさるところなり戦局漸く我に利あらす皇國の前途轉た暗□たるの秋果然至誠純忠なる青年将校等今や一身以て一艦を屠る特別攻撃法を敢行するの外救国の途なしと断じ進んでその任に当らんことを申出つ君中宵沈思幾度か遂に血涙を呑んでその採用止むなきを進言し自ら特攻部隊の指揮官に任したり朝に空母を沈め夕に戦艦を傷け連日の猛撃に敵陣色を失い恐慌甚だしきものあり去り乍ら彼我物力の大差は如何ともすべからず遂に刀折れ矢尽き終戦の日を迎うるに到る君即ち我事ここに終れりと従容として古武士の法に遵い敬愛する特攻戦士の跡を追へりその遺書に曰く青壮士諸氏は國の宝なり日本人の矜持を失う事なく民族の福祉と世界人類平和の為め最善を尽せと茲に偉人大西海軍中将が踏み来たりたる大道を追想しその高風を永く後毘に傳へんとす
昭和三十七年三月二十一日 親友一同


鶴見総持寺

大祖堂の裏にひろがる五院墓地(五院右1-1)に大西瀧治郎の墓がある。


宇垣纏墓

大西さんと宇垣さんと。

宇垣纏を偲ぶ

神風特別攻撃隊之魁甲飛十期之碑

児玉誉士夫墓

大西と縁が深かった児玉誉士夫は池上本門寺に墓がある。

そのほか、総持寺関連

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。