「野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊碑)」と「近衛野砲兵聯隊碑」(三宿駐屯地・陸自衛生学校)

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桜の開花タイミングとはずれてしまったけど、世田谷区の三宿駐屯地が一般開放(桜並木の通り抜け)を実施していたので、足を運んでみました。


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野重八之碑(野戦重砲兵第八聯隊)

野重八之碑
 下野一霍書

野重八とは、野戦重砲兵第8聯隊のこと。
下野一霍は、最終階級は陸軍中将。
1935年(昭和10年)3月、野戦重砲兵第8連隊長

野戦重砲兵第八聯隊は、我が国最初の機械化砲兵として大正11年8月15日創設せられ昭和20年大東亜戦争の終結に至るまでこの地に在り、その間日支事変及び大東亜戦争に際しては独立野戦重砲兵第八聯隊、同第十五聯隊、同第十六聯隊、同第二十聯隊を編成し十糎加農を装備せる、これら諸隊は軍砲兵として各地に転戦し赫々たる武勲を建てたり。ここに、これら諸隊に属せし元将兵一同これを記念して、この碑を建つ。
 昭和47年4月8日
  野重八会有志


近衛野砲兵聯隊の碑

近衛野砲兵聯隊は明治4年(1871年御親兵砲隊として竹橋に設置せられ、同31年(1898年)6月依頼にこの地に駐屯し、日夜皇居の非常号砲勤務に任じた。
この間、北白川宮成久王、成久王御父子二代にわたり、長期間在隊された由緒深い聯隊である。また西南、日清、日露の各戦役、日支事変、大東亜戦争に従って輝かしい勲功をたてた。
ここに縁故者有志相はかって記念碑をたて永く後世に伝える。
なお、この聯隊歌は昭和7年北白川房子内親王の御作によるものである。
 昭和43年12月
  藤江恵輔

藤江恵輔は最終階級は陸軍大将。
鈴木貫太郎の娘を妻とする。
野戦重砲兵第4旅団長を努めていた。
野戦重砲兵第4旅団隷下に、近衛野砲兵聯隊と野戦重砲兵第8聯隊があった。

北白川房子内親王(北白川宮成久王の妃)
「聯隊歌」の碑

 房子内親王
いぬる明治の大御代に
 屯をここに定められ
 忠勇奉公献身の
 心に生くる世田谷乃
あゝ、わが近衛野砲隊
 名誉は高し
  任重し

縁故者


陸自衛生学校として。

仁の碑

「仁」について
 「仁」は歴代校長の掲げられた衛生学校の指導理念であり、その意味するところは端的に申せば他人に対する慈しみの心である。人が二人と書いて「仁」である。一人は自分であり、もう一人は相手の人である。
 相手に対して自分と同等の人格を認め、相手の喜び、痛み、悩み、苦しみ、そして悲しみを自分のものとして受け止める心が「仁」の心であり、衛生科精神として示されている「骨肉の至情」・「挺身奉仕」の精神そのものに他ならない。
 我々衛生科に職を奉する者は、有事・平時を問わず「仁」に裏付けされた衛生科精神の涵養と衛生科技術の修得に努め、「一人でも多く生き残らせる」衛生支援に徹することが肝要である。
 昭和63年10月吉日
  第18代衛生学校長
   陸将補 芳賀 稔

陸上自衛隊 衛生学校


彰古館(医学情報史料室)

軍事医療、医学情報の史料館。事前申込制。
この日は、非公開でした。


三宿駐屯地 桜の通り抜け一般公開

3月23日の訪問。
例年より開花が遅れ、公開日に桜が咲いていない事態となったが、仕方がない。

わずかに咲いている桜を発見。

散策開放エリアは、衛生学校の中心部のみ。

陸上自衛隊 三宿駐屯地
陸上自衛隊 衛生学校

自衛隊中央病院

正門、ちなみに荷物チェックは無しでした。

防衛装備庁次世代装備研究所もある。

自衛隊中央病院

用廃のUH-1H。

東門。


世田谷区立平和資料館

東門の先には、世田谷公園。
かつては、駒沢練兵場であった。
世田谷公園に資料館があるので足を伸ばしてみた。

いろいろ配布資料もあります。

世田谷の戦跡

世田谷区の主な軍事施設跡地図

大正末期の世田谷地域軍事施設所在地

世田谷区とは関係ないけど、興味深かったのが、
「御真影 勅語 運搬箱」

そのほか

※撮影:2024年3月


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