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神奈川縣護國神社跡(横浜市慰霊塔)

平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪 

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している)

もちろん、神奈川県にも護国神社建立の予定はあった。

現在の三ツ沢総合グランド (神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町3-1)。
この地に「神奈川縣護國神社」(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が建つはずであった。


神奈川縣護國神社
(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)

神奈川縣護國神社
昭和14年末に神社創建に着手。
昭和15年11月に鎮座地が確定。
昭和16年11月に鍬入式が執行。
昭和17年7月27日、内務大臣より「神奈川縣護國神社」の創立が許可。
昭和17年12月23日、起工式が執行。
昭和18年12月25日、棟上式が執行。
当初の竣工は昭和19年10月を予定していたが、戦争により工事遅延。
完成目前の昭和20年5月29日横浜大空襲によって社殿焼失。

そして終戦後、 神奈川縣護國神社は建立されることはなかった。
昭和28年に跡地に横浜市によって「慰霊塔」が建立。


昭和19年11月陸軍撮影の航空写真

空襲前の航空写真。
参道の様子と建造途中の社殿の雰囲気がわかる。

「神奈川縣護國神社」 は「本殿」「祝詞殿」「幣殿」「拝殿」「 翼舎」「渡廊」「祭器庫」「透堀」「手水舎」「鳥居」「石玉垣」「狛犬」などで構成予定だった。

8926-C5-90
1944年(昭19)11月14日‐陸軍撮影写真を加工

昭和21年2月米軍撮影の航空写真

昭和20年5月29日横浜大空襲後で、焼失した「神奈川縣護國神社跡」 の姿を確認できる。昭和19年の陸軍写真では御社殿に立体感があったが、空襲で御社殿を焼失し、昭和21年の写真では御社殿部分は焼失し立体感がないことがわかる。

USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工
USA-M58-A-6-207
1946年(昭21)02月28日‐米軍撮影の写真を加工

現在の航空写真


三ツ沢公園


横浜市慰霊塔

昭和28年3月建立。
神奈川県が昭和14年に計画し、当地に昭和20年の竣工が予定されていた神奈川縣護國神社は、昭和20年5月29日の横浜大空襲で炎上焼失。
再びその威容を見ることが出来なくなった。

その名残の地には、横浜市によって慰霊塔が建立されている。
慰霊塔の前の広場は駐車場と化していた。

昭和二十年の文字が浮き出た慰霊塔。
以前の写真よりも白いので塗り直したようです。

平成26年(2014) 撮影
平成26年(2014) 撮影

納骨堂

横浜市慰霊塔の後方の建屋は納骨堂。

平和記念塔

神奈川縣護國神社参道跡

今は駐車場となっている広場に向けて伸びる歩道が、予定されていた参道跡地。

慰霊塔ご案内

慰霊塔ご案内
 この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置するための慰霊塔であります。
 慰霊塔は、二基の塔と、安置堂その他からなり昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。
 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。
 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。
  横浜市

恒久平和を願って

恒久平和を願って
 戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。
 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の慰霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は先の大戦で払った大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は新生日本が将来に向かって発展する姿を表しています。
 市民の皆様と共に諸霊のご冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。
 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
  平成7年11月1日
     横浜市長

わが町 かながわ 50選

横浜市戦没者慰霊塔
 昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった、多くの犠牲者の冥福と平和への祈りを込めて、昭和28年に建立されました。
 広い広場から慰霊塔を見つめていると、心が静まります。

駐車場となってしまっている広場に若干の空虚さを感じつつも。

護國神社として機能出来なかった、この慰霊の空間。
どことなく虚しく、そして尊厳がなく。
もやもやしながらも、根底の気持ちは変わらずに
静かに慰霊鎮魂と感謝のこうべをたれる…


令和元年11月17日の夕方。
慰霊塔を撮影をしていたら、老夫婦が私に声をかけてきました。
お爺さん「ここは昔は畑だったんだよ、そこに立派なお社が出来てね、でもね、昭和20年5月29日の空襲で燃えてしまって、わたしはそのとき10歳だったよ、ほんとりっぱなお社だった・・・」
わたし「えぇ、神奈川県護国神社の跡・・・」
お爺さん「知っているんだ、若いのに、この場所がなんだったか、ここを知っていてくれて嬉しいねえ」
お爺さんとしばし歓談

ありがとうございます。


神奈川県戦没者慰霊堂

神奈川縣護國神社の跡地は「横浜市の慰霊塔」
ここは、県ではなく市の施設となっている。
神奈川県の慰霊施設は当地ではなく、別の場所にある。

神奈川県戦没者慰霊堂

http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f153/p2926.html

実は訪れたのですが、臨時閉苑でした・・・再訪しなくては。

「神奈川県戦没者慰霊堂」再訪しました


参考文献
 神奈川県忠魂碑等建立調査集 靖國神社社務所発行 平成8年
 神奈川新聞 昭和18年12月5日掲載記事

愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。

お手水。献水像。

鎮魂

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建

太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。

戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。

パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・

海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


兵庫縣神戸護國神社

平成30年11月参拝 兵庫県神戸市灘区鎮座

「兵庫縣神戸護國神社」は兵庫県東部ゆかりの戦没者53,257柱を祀る。

ちなみに兵庫県内は、護國神社が2社あり、西部は「兵庫縣姫路護國神社」として西部地区出身の戦没者56,988柱を祀っている。
いずれも内務大臣指定護国神社。


兵庫縣神戸護國神社

戦没者慰霊祭祀は当所、神戸市兵庫区会下山(楠公の湊川の戦いで有名)で招魂斎庭・祭壇を設け、毎年官民合同で斎行されていた。
昭和16年6月に灘区王子町に社殿を造営。
昭和20年6月5日の神戸大空襲により壊滅。

社号標は昭和16年6月。創建時からのもの。鳥居は平成25年再建。

戦後は「兵庫御霊神社」と一時改称し、昭和27年に社号を「兵庫縣神戸護國神社」と復称、昭和34年に現在地にて新社殿を再建。
阪神大震災でも社務所半壊などの被害を受けるも復興。

境内社には末廣稲荷社が鎮座している。

狛犬は「大東亜戦争大捷祈願」として、昭和17年3月吉日に奉じられたもの。

手水鉢は、社殿再建時の昭和34年10月吉日に「兵庫縣神戸護國婦人会」より奉献されたもの。
中央には護国の英霊ゆかりの戦地を正面に仰ぐように地球儀が添えられている。


響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

昭和13年春半ば
内蒙古派遣独立混成第二旅団独立歩兵第二大隊が始めて中国大陸の首都北京に於て編成されて以来、支那事変並びに大東亜戦争に参加中国全土及び南方方面に転戦、戦没された御霊の冥福を祈る為、当時の戦友相寄り浄財を募り茲に、この地を選び建立す。
昭和四十五年四月吉日


大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

 過ぐる大戦に於て無数の白系ロシア人、ギリヤーク人、オロッコ人が中野の子等と共に理想に参画し、非情なる最後を遂げ、帰るに安住の祖国さえなき事実を知らざる者、今日余りにも多い。
 永久凍土(ツンドラ)を吹きすさぶ風に、或いは北大洋の怒涛音にこれら北方異民族の亡き同志の声を聴くものは日に日に少なくなってきている。この碑はこれら残り少ない生き証人にかわって死の意味を問い続ける昭和の語部(かたりべ)となろう。
 そしてこの碑の祈念するところは、余りにも報われることのない故北方異民族同志への鎮魂であり、盤石深く刻み込まれたものは祖国の永遠の安泰であり、平和の二文字である。
 昭和50年5月19日
 全国壱万参千五百有余名 
  建立同志会代表 扇 貞雄(元陸軍少佐・元樺太敦香陸軍特務機関長)


陸軍少年飛行兵顕彰碑 建立の記

陸軍少年飛行兵顕彰碑
建立の記

 日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。
 その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。
 若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。
 戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした兵庫県下在住の生存者ならびに有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を祈念してこの碑を建立する。
 昭和56年4月5日
  陸軍少年飛行兵出身者の集い
  兵庫県少飛会

陸軍少年飛行兵顕彰碑脇に
「献木 同期の桜」
昭和54年5月10日建立


歩兵第百七十連隊 慰霊之碑

歩兵第百七十連隊 慰霊之碑
昭和58年11月13日 歩兵第170連隊慰霊碑建立委員会

歩兵第170連隊は兵庫篠山編成。開戦時は印度支那派遣軍として南部仏印駐留。昭和17年、乗船中の輸送船が撃沈され軍旗喪失、乗船将兵の多くが戦死。その後の南方戦線にて消耗し昭和18年6月解隊。


雄魂
第十四飛行団司令部
飛行第六十八戦隊
飛行第七十八戦隊
戦歿者慰霊碑

昭和52年5月 ニューギニア飛燕会

昭和18年3月、第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の「飛燕」部隊として編成。ニューギニア戦線にて寡勢の中で奮戦。昭和19年7月25日に力尽き解散…


御朱印

「兵庫縣神戸護國神社」
御朱印を頂戴いたしました。
桜柄の「靖國神社御朱印帳」に。

この御朱印帳では、「靖國」「愛知」「大阪」「広島」「埼玉」「茨城」「千葉」「栃木」「群馬」「長野」「山梨」と護國神社を巡っており、今回の「兵庫神戸」で12社目となります。ゆっくりとですが巡拝を。

「兵庫縣神戸護國神社」

護國神社は桜の季節も良いですが、紅葉の季節も感慨深いものがあり。
紅葉の向こうに鎮まる慰霊碑に静かに接するひとときを。


関連

はじめに

新潟縣護國神社

平成30年12月参拝

明治元年10月29日、新潟市常盤岡(現在の新潟大学医学部)に「招魂社」を建立。
明治8年に新潟招魂社と改称し昭和14年に「新潟縣護國神社」と改称。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者79700余柱を祀る。

参拝を

御由緒と御写真と

亡き戦友の顔
 陸軍少尉 田沢清作命
  昭和19年9月30日
  テニアン島にて戦死
  新潟県中蒲原郡村松町出身 31歳

笑つてゐるこの写真!
やるだけ俺はゆつたんだと
笑つてゐる 写真
あこがれの桜花と散つたよと
笑つてゐる写真
これで俺の一生は意義があつたんだと
笑つてゐる写真
あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑つてゐる写真
靖國神社で待つてゐるぞと
笑つてゐる写真
神様になつた戦友の
この写真!

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

近代日本における対外戦争50年余の間、
明治大学関係者は多数の戦没者を出した。
その数は分かっていない。
太平洋戦争敗戦の際、混乱のなかで奉納の
戦没者名簿が紛失したといわれるが、その数は
学徒出陣を中心に、2000名余とも3700名余とも云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として「忠霊殿」を建立した。
これは駿河台旧図書館(現研究棟前)内に
置かれ、毎年7月10日に慰霊祭を行ってきた。
太平洋戦争の戦没者も合祀され、
1950年、関係者の尽力により
新潟縣護國神社に移され、
明治大学校友会新潟支部(現新潟地域支部)が
主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護國神社の御厚意により、
同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が新たに
建立されたのを機に、 この間の経緯を記し、
世界平和を願い永遠の追悼を誓うことになった。

2007年6月 明治大学

御朱印を頂戴いたしました。
「不易流行」「温故知新」「敬神崇祖」の三文字から添言葉を選んで下さいということで、迷いなく敬神崇祖を。

建屋写真は「斎館」「社務所」「迎賓館TOKIWA」

新潟縣護國神社
平和の礎

昭和43年建立 中央に「護國の塔」
頭の前の大理石で「平和」を表し、右の女性は「祈り」、左の男性は「誓い」を表している。
この碑は過ぎる大戦において祖国の平和と郷土の繁栄を念じつつ散華された新潟県関係者の軍人軍属在外邦人及び内地戦災者のみたまを慰めている。

平和の礎

…われわれは、この尊い礎に対し感謝の誠を捧げるとともに平和への思いを新たにし明るい豊かな郷土の建築に邁進することを誓うものであります。 願わくば秋風薫るこの丘を、みたまのこよなき憩の場とされて安らかに静まりますよう祈念いたします。(略)

新潟護國神社の慰霊碑群は石垣で一段高くなった参道の脇に林立している。
ゆえに碑の裏面に回り込むことが出来ず、でした。

軍馬の霊を慰む
新潟県軍馬慰霊碑保存会

鎮魂

第十三師団歩兵第百十六連隊第七中隊 戦友会
平成元年五月吉日

歩兵第116聯隊は新発田にて編成。
主に中国大陸に展開し徐州会戦・武漢作戦・襄東作戦などに参戦。そのまま中国大陸で終戦を迎えている。

戦没犬慰霊碑

大陸に
 訓え育てし
  愛犬の
英姿しのばん
 霊よ
  安かれ

平成二年四月
元関東軍軍犬育成所 所員一同 建立

献燈
元関東軍軍犬育成所所員一同 戦没犬慰霊碑保存会員一同

近衛歩兵第二聯隊軍旗拝受百周年記念碑

第三十代近衛師団長 飯田貞固書
昭和四十九年八月 近歩二会新潟県支部 建立

近衛歩兵第2聯隊は明治7年(1874年)軍旗拝受、昭和49年(1974)が100周年。
飯田貞固は最終階級が陸軍中将。新潟県出身。昭和16年予備役。

陸軍少年飛行兵新潟出身戦没者
慰霊の碑

内閣総理大臣 中曽根康弘 書
昭和60年11月建立

戦いが終わつて此処に40年
死んで行った友の霊を弔う
生き残りの戦友たちの
悲しくて強い
平和への願いが何時までも
消える事の無い様に
悲願の碑となった
戦友並びに御参加皆様方の
御芳名を刻んで以て
後世にその志を残さんと
欲したのであるが許されず
心残りである

野戦重砲兵第十五聯隊之碑

詳細は不明。副碑として記念碑建立募金者名もある。

新潟縣護國神社
予科練鎮魂之碑

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

新潟県出身の海軍飛行予科練習生戦没者鎮魂碑
予科練鎮魂之碑保存会・昭和63年建立

鎮魂慰霊之碑

平成7年終戦50周年記念
新潟県海交会

新潟出身で戦没なされた海軍軍人軍属などの慰霊碑

※海交会、海友会、水交会はそれぞれ別組織であるが、海軍関連団体として合同で活動することも多い。水交会は全国11支部しかない為、地区によっては海交会が地域密着で中心団体となることが多い。

流雲碧空

白鴎遺族会新潟県支部・海軍飛行予備学生生徒有志
平成9年建立

…祖国日本の平和と愛する人々の幸せを祈り学窓から敢然と大空の決戦に挑み勇戦散華された本県出身の海軍飛行予備士官及び当支部の発展に寄与された物故戦友の慰霊と顕彰の為生存同期生有志が建てたものである

元歩兵第116聯隊
第2中隊の樹 植樹記念碑

平成3年4月15日建立

三つの祈
一 先の大戦で散華された戦友の御霊安らかに
二 祖国の復興に尽くし病没された戦友の冥福を祈る
三 風雪に耐え幾山河越え来りし戦友の健康長寿を祈る

元歩兵第百十六聯隊
第三中隊慰霊碑

平成五年八月十五日 歩兵第百十六聯隊は新発田にて編成。第十三師団所属。

慰霊塔 近衛歩兵第三聯隊 新潟

近衛歩兵第三聯隊は明治18年(1885)に編成。兵営は赤坂。

慰霊之碑

ソ連抑留本県出身者166人の慰霊碑
財団法人全国強制抑留者協会新潟県支部慰霊碑設立委員会
平成5年建立

第2次大戦は日本のポツダム宣言受諾により終戦となったが連合軍の一員であるソ連軍のみは宣言を守らず60余万人の奨兵を強制抑留し極寒のシベリアで数年間に及び苛酷な重労働を強制し、飢えと寒さのなか遂に力尽き祖国生還の希いも空しく本県出身者1600余名は無念の死を遂げた 辛うじて生還し得た私達はシベリア抑留死没者の冥福を祈り 再び戦争のない世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する

解散記念碑 

新潟県傷痍軍人会 新潟県傷痍軍人妻の会 平成25年建立


戊辰役殉難者墓苑(戊辰霊園)

戊辰戦争での新潟での犠牲者を祀る墓苑。
薩長の主力は明治元年4月に柏崎・小千谷を占領し、7月に長岡藩を攻略。新潟は戦場とかし西軍(薩長)と東軍(米沢・会津・庄内藩)双方に多くの犠牲者を出した。 この墓苑では東西両軍の区別なく祀っている。

戊辰役東軍慰霊碑
戊辰薩藩戦死者墓(松方正義書)
御親兵十津川隊 戊辰役戦歿者招魂碑
大洲藩船殉難者慰霊

慰霊碑

昭和60年に新潟大学医学部(元招魂場跡地)から発掘された戊辰の役戦死者遺骨92柱を埋葬。

「戊辰役殉難者墓苑」(戊辰霊園)

満州開拓殉難者の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

昭和34年8月15日建立

国策の名のもと国家の勧奨に基づき民族協和と新しい村作りに挺身してきた満州開拓青少年義勇隊報国農場員等が昭和20年8月9日戦局の急変に遭い爾来銃弾に病魔に飢餓に酷寒に続続と斃れ遂に異境の土と化した者実に5千まことに痛恨極まりないところである ここにこれ等殉難の霊を慰め永遠の平和を祈願してこれを建てる
 昭和34年8月15日
  新潟県開拓民自興会

綏芬河の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

我等は国策により、新潟県郷土中隊として、昭和十八年六月、山崎喜三治隊長以下三九九名が綏芬河義勇隊訓練所に入所。
昭和二十年八月七日、ソ連軍が侵攻し、九日に無防備無抵抗の隊員を銃撃、四十数名の若い生命が奪われた生き残った隊員も逃避行中に飢と寒さで、満州の荒野で数多く他界した。
平成元年、二年と、亡き拓友の終焉の地、八道橋を訪ねて供養を行った。
平成二年十月、綏芬河会総会で有志相図り、亡き友の鎮魂と、若き日の友情を刻み、この地に綏芬河の碑を建立する。
 平成三年七月七日 綏芬河訓練所有志

冬の新潟、本格的に雪降る前の12月上旬の参拝でした。
参拝は16時ごろであり、日没を気にしながらしょうしょう駆け足の参拝。 次回はもうすこし気持ちもゆっくりとさせて参拝したいと思いつつ。

ありがとうございました。

石川護國神社

平成30年12月参拝

兼六園の南に鎮座。
戊辰ノ役で戦死した加賀藩出身戦没者のみたまを明治3年(1870)に祀った招魂社に始まる。
以来、西南ノ役、日清日露戦役、支那事変、大東亜戦争までの英霊4万4800余柱を祀る。
うち第9師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀出身者1万4000余柱の英霊も含まれる。

参拝を

御朱印を頂戴いたしました。
靖國神社の靖國桜御朱印帳に集印をはじめて、ようやく14社目。

石川護國神社 社号標

昭和14年4月建立 陸軍大将林銑十郎書

こちらの社号標は昭和17年9月建立。

神馬 
 北支派遣独立混成第一旅団(島兵団)

奉納・昭和55年

昭和12年、支那事変勃発に伴い特設師団として第109師団が編成。
昭和21年5月に復員完了。

「往時を偲び神鎮まります亡き戦友の霊安かれと念じ茲に神馬一基を奉納 永くその記念とするものである」

父子の像 

石川県遺族連合会婦人部一同・平成2年奉納

日華事変・大東亜戦争に祖国の為夫を失った妻の痛みは永久に我が子にも伝えることは出来ません。
今にして憶う今日まで生きて来た力は何だろう、子供は育ったか、育てたか、家族と共にその日、その日の生活に必死でした。
戦後45年、妻の生涯をかけ、真心こめた「父子の像」をここ石川護國神社の一隅に建立させていただきました。
日本の国の平和を願い、婦人部員一同の幸せを末長くお護り下さい。

願掛けの五葉松

高さ約13m、幹周り約2,85m、枝張り約8m、樹齢約600年
姿、形の良さは日本一とも。
枯れる寸前で、病原のコブを取り除き樹勢を取り戻し甦った松。
「甦りの五葉松」

天津神楽之舞歌碑

慰霊平和祈念碑

昭和41年建立

至誠通神の碑

旧・歩兵第七聯隊の営庭跡(現、金沢城・金沢大学構内)一隅に鎮座されていた、歩七忠魂社の前に建てられていたのを、昭和48年6月、歩七戦友会によって現在地に移築されたものである。

愛馬之碑

歩兵第七聯隊兵営に祀られていたものを、昭和62年9月21日に石川護國神社境内に移し復元。

日露戦役凱旋記念月桂樹と記念碑

明治39年11月に日露戦争の大勝を祝い、凱旋記念として当時「兵隊婆さん」と愛されていた宮のさ子さんが、歩兵第七聯隊の営庭に鎮座してた歩七忠魂社の神域に献木した月桂樹と記念碑。
昭和48年に歩七戦友会によってこの地に移植移築。

石川護國神社
官祭招魂社 旧社号標

旧社号標が境内の片隅にひっそりと。
昭和10年1月建立 陸軍大臣林銑十郎謹書 林銑十郎は石川金沢出身。
陸軍大将、陸軍大臣、内閣総理大臣。

清水澄博士顕彰碑

金沢市出身。1868年9月27日(慶応4年8月12日) -1947年(昭和22)9月25日。法学者。大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講。
昭和21年、最後の枢密院議長。日本国憲法施行後、大日本帝国憲法に殉じ国体の危機を憂い熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺。墓所は青山墓地。

大東亜聖戦大碑

平成12年(2000)境内参道に大東亜聖戦大碑が建立。
平成22年(2010)「輝く天命戦の真実を知れ」と題する副碑建立。

国旗掲揚台

昭和46年11月奉献

戦傷病者霊碑
傷痍軍人慰霊の碑

昭和60年建立。 石川県在住の者等3075名の霊を慰め永くその功労をたたえる。

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

趣意書
 陸軍少年飛行兵の名に負いて南溟の涯北辺の空に散華した石川県出身
70余柱の遺勲を永く後世に伝える為にこの碑を建立する

 抑々少年飛行兵の制度は第一次世界大戦護つかの間の世界平和桃源の夢空しく破れ、暗雲世界を覆い極東に於いても戦局将に動く秋、わが陸軍航空戦力の画期的な担い手養成の為に創設され、昭和9年2月に15歳前後の少年が、所沢陸軍飛行学校に第1期生徒として入校したのを嚆矢とする。
爾来昭和20年入校の第20期生まで数度の学生の変革を経たが、この間操縦・整備・通信の各分科に分れ、技能を学びし者318名を数えるに至った。
学び舎を巣立ち、即戦力として日支事変、大東亜戦争に従軍し、純一無雑、尽忠報國の至誠に燃え任務必遂に邁進した。
日を遂うて苦難凄絶を加え、殊に、航空機の帰還が全戦勢を左右する情勢下に於て少年飛行兵出身者の赫々たる武勲が世に喧伝せられ、海軍の予科練と共に、わが国航空戦力の双璧として、時代の寵児、救国の若き戦士として全国民敬愛の的となった。

 少年飛行兵の歴史は僅か12年、然りと雖も日本陸軍80年の歴史に於て、その1頁を飾る金字塔として特記に値するものであろう。
特攻隊をはじめとし、或いは空・地に於て戦死し、或いは瘴癘の地に戦病歿した友々。
我が国の悠久不滅と永遠の平和と繁栄を信じ、荒爾として己を滅していった英霊こそ、現日本の礎をなすものである。
この事実について将来如何に時代世相の変遷があろうとも、無限の感謝の念を捧げ続けられることを願うものである。

  昭和59年4月8日
    陸軍少年飛行兵生存者の集い
     石川県陸軍少飛会 

陸軍少年飛行兵慰霊顕彰碑

皇后陛下御歌

やすらかに
ねむれとそおもふ
君のため
いのちささけし
ますらをの とも

兜岩

兼六園造園のとき(1825)に 豪商島崎屋徳兵衛が藩主前田斉泰公に献上したもの。

乃木希典将軍所縁
水師営の棗の木(分根)

昭和4年「初雪」に乗り組み中であった岩下石松氏が旅順入港時に水師営に於いて「棗の分根」を戦死研究のために持ち帰った。
その後80年、移植育成され、数年後に石川護国神社境内に鎮座する県海軍将兵慰霊の碑敷地内に記念植樹した。

水師営の会見

旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本 棗の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋に
今ぞ相見る 二将軍

石川県海軍将校戦没者之碑

祖国の安泰と繁栄を念じて護国の英霊となられた石川県の海軍将兵は西南の役1柱、日清戦役6柱、日露戦役98柱、大正3年から9年までの日独戦役8柱、済南事変1柱、満州・上海事変11社、日華事変83柱、大東戦争7千4柱、総霊7千212柱であります。
過ぐる大東亜戦争に奇しくも生還することを得たわれら海軍将兵一同激戦苦闘の中に散華された尊い英霊に対しての偉功を讃え尊敬と感謝の念を捧げるとともに遺徳を長く後世に語りつぎ世界永遠の平和の道しるべとしたい念願し英霊を奉祀するここ石川護国神社に謹んでこの碑を建立するものであります。

昭和63年10月吉辰
石川県海軍生存者一同建之 建設委員  
 海友会 海軍三校会 甲飛会 雄飛会 櫻心会

騎兵第九聯隊 軍馬之碑

平成六年五月吉日 騎星会 建立
石川護國神社 宮司 鏑木芳樹 書

ミレー島戦士の碑

ミレー島、中部太平洋に浮かぶマーシャル群島の小さな島である。
昭和十八年九月二日第五十二師団の動員により、郷土部隊が編成され同年十二月一日より昭和二十年八月十三日まで、この島において喰うに食えなく射つに弾丸なく、猛銃爆撃の下、激しく悲惨な闘いを続け大半の戦士は帰らぬ人となった。ここに終戦三十三周年を迎え、遺族及び生存者相集い悲憤に散った勇士の御霊、安らかならんことを願うとともに、祖国の平和を永久に守りたまえと、このささやかな碑に祈りをこめるものである。 昭和五十二年七月

竜の松 大山元帥 御手植

明治11年10月2日
聖上陛下 行啓記念
大山巌公手植松

明治天皇が明治11年に当地に行幸せられた際に、お供をした大山巌公が記念に松を植えられたという。

歩兵第八十三聯隊之碑

碑下には歩兵第八十三聯隊聯隊旗の一部と戦没者七百五柱の鎮魂護符が納められている。昭和54年4月建立。

碑文
昭和13年4月4日
 軍令陸甲第二十一号により第9師団管区に於て編成
昭和13年9月3日から
 北支那に於て作戦警備
昭和17年1月20日から
 仏領印度支那に於て治安維持
昭和21年5月4日、終戦により復員部隊解散
金沢に誕生した我が聯隊を生涯心に銘じ異郷で散華した戦友の霊を慰め祖国の繁栄を祈って建立したものである。
八三会一同

シベリア抑留者慰霊之碑

過ぐる大東亜戦争の末期、我国の敗戦が必至とみられた昭和二十年八月九日 ソ連は突如日ソ中立条約を破棄し、満鮮・樺太・千島列島に侵攻した。
終戦後も、無道・不法を続け我国将兵をシベリア始めソ連各地に強制連行した。
その後長い者は十年余、精神的強迫のもと過酷な重労働を強いられ、六万余名が望郷の思いに身を焦がしすつ屈辱の恨みを呑んで異国の土となった。
わが石川県下の犠牲者も六百余名に及ぶ。
しかも遺体は祀られることもなく、荒野にさらされ、墓地の大半は不明の放置されている。
この民族的悲劇は、我国史上前例がなく、非道の犠牲は永く後世に伝えられなければならない。
それとともに我等は、貴下らの万哭の一念が凝ってソ連崩壊に繋がったことを信じてやまない。  
貴下らが、我国の尊い礎であったことを銘記し、ここに鎮魂の碑を建て、心から冥福を祈るものである。

異国の丘に
 眠れる友よ
故国の礎と
 鎮まり給え

一九九四年十月二日
永遠の平和を祈りこの地に慰霊碑を建立する

財団法人全国強制抑留者協会
石川県慰霊碑建立実行委員会

愛馬の碑

昭和12年、支那事変前後に第九師団留守師団長の安藤紀三郎中将が戦地などで死んだ馬の霊を慰めるために揮毫し、歩兵第七聯隊営庭に建立。 終戦直後に行方不明となり、県中央公園で発見され、昭和62年に当地に移築。

献木碑など

日中受難者 慰霊祭記念樹
野砲兵第一二三聯隊 歩兵第二六九聯隊 慰霊祭記念樹
デンマーク丸海没戦友慰霊祭記念樹
北陸地区戦没 陸軍少年通信兵 慰霊祭記念

満洲第五一四部隊 野砲兵第一二三聯隊 慰霊祭記念樹
石川県近衛会
烈兵団歩兵第一三八聯隊石州ビルマ戦友会
中支三機会 歩兵第七聯隊 第三機関銃中隊

この日は、ミゾレのような白いものが降る中での参拝でした。

時間に余裕があれば遺品展示室なども見学したいところでしたが、余裕なくまたの機会に。

感謝と哀悼の意を込めて、真摯に参拝をし、慰霊碑と向き合うひとときを費やす。

麻布・青山・赤坂の戦跡散策

平成30年9月撮影

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

位置関係

昭和19年10月16日に陸軍が撮影した空中写真をベースに。
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊などを。

散策のスタートは赤坂見附駅と日枝神社から。
ここから赤坂を目指します。 日枝神社は今回は遥拝にて。

曲面ビルは赤坂ザレジデンス、その左には「赤坂TBS」、右には「赤坂パークビル」、赤坂のビルディングに囲まれた地区。

そんな赤坂の裏、「円通寺坂」のある通りに、かつて「近衛歩兵第三聯隊」のあった名残を求めてみます。

近衛歩兵第三聯隊 陸軍境界石

自販機と仲良くならんで林立している標石。
うっすらと「陸軍」と読むことが出来ます。

もうひとつ。
ちょっと摩耗ではっきりとは読み取れませんが。

赤坂パークビルの敷地内の一角に、三菱地所の好意によって「銀杏ヶ丘」という森が平成5年に整備されており、そこにひっそりと記念碑がある。

近衛歩兵第三聯隊跡

近衛歩兵第三聯隊

記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治18年7月3日霞ヶ関に創設され、10月27日軍旗を拝受した。明治24年5月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、 日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和15年6月出征、中国の広西・広東両省南部仏印、シンガポール、北部スマトラ、アンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和20年8月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和37年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により老銀杏とともに、ここに移され安置された。
 平成5年7月 近衛歩兵第三連隊聯隊会

銀杏ヶ丘の森のなかで、静かに佇む空間の中で昭和の歴史に思いをはせる。

老銀杏は幹の半分を支えられながらも見事な枝を伸ばしていた。
これは秋の姿を見てあげたい。
秋にまた来よう…そんなことを感じつつ、次の場所へと。


赤坂から南に。
東京ミッドタウンのある「港区立檜町公園」。
此のエリアはもともとは長州毛利藩下屋敷跡。
その後は歩兵第一連隊となり防衛庁(市ヶ谷に移転する前)となり東京ミッドタウンとなり、再開発を重ねてきた地。

歩一の跡

港区立桧町公園
「歩一の跡」
公園の南方の池の畔にひっそりと何の説明もなく佇む記念碑があった。
公園を歩む人々は格別な関心も寄せないし、説明もないのでこれでは意味もわからない碑。

歩一 ・・・ 歩兵第一聯隊

歩一の跡
歩兵第一聯隊 碑誌
当公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった。明治7年歩兵第一聯隊がここに創設され以来67年間東京および近県の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる。 乃木将軍は第2代の聯隊長であった。ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める。
昭和38年秋

「歩一」歩兵第一聯隊のあった檜町公園。
東京ミッドタウンから西にすすむ。
国立新美術館・政策研究大学院大学の地には「歩三」歩兵第三聯隊があった。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館

1928年(昭和3)に建設。戦後は在日米軍接収。1962年に東大生産技術研究所が当地に移転し2001年まで使用(生研は駒場に移転)。 その後一部を残して解体。2007年に「国立新美術館別館」として活用。

かつての敷地は国立新美術館別館と政策研究大学院大学となっている。

国立新美術館別館
一部保存された兵舎の裏側はガラス張りのオシャレな様相に。

展示コーナーは毎週月・水・木・金の公開。
運良く平日だったので展示コーナーも見学してみましょう。

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎跡
国立新美術館別館展示コーナー

陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎模型 「日」の字を模した地下一階・地上三階の建物は関東大震災復興の象徴でもあったという。
陸軍としては初の鉄筋コンクリ造兵舎。 現在は別館として中庭通路口の一部と外壁の一部が保存されている。

国立新美術館別館展示コーナー

2001年の全体空撮写真のパネル

参考比較として現在の様子をGoogle Mapsをトリミングしてみた

兵舎時代の正面写真パネル

展示パネル
地階・1階〜3階
中央部分は一段低く2階までだったということがわかります。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)
一部保存された兵舎跡

入り口スロープ 弾痕の跡・・・とされているが、いつのなんの弾痕かは不明。
二・二六事件との因果関係も不明。

歩兵第三連隊兵舎跡(国立新美術館別館)

国立新美術館をあとにして移動を。
道路(外苑東通り)を挟んで「東京都立青山公園 南地区」に向かいましょう。

「東京都立青山公園 南地区」も歩兵第三聯隊、そして近衛歩兵第五聯隊ゆかりの地。

麻布台懐古碑
(東京都立青山公園・南地区)

かつてこの麻布台には歩兵第三聯隊が展開されていた。
思えばこの日に巡った歩一(歩兵第1聯隊)、歩三(歩兵第3聯隊)、近歩三(近衛歩兵第3聯隊)はいずれも二・二六事件に関与の部隊だったり。
それを記録する何かはいずれも皆無でしたが。

麻布台懐古碑
麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁13年(822)に竹千代稲荷、天慶年間(938〜946)に朝日神社(日ヶ窪稲荷)等が建立された。
 (中略)
明治7年(1874)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治22年1月から昭和14年(1939)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。
近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月太平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。 昭和18年5月首都防衛のため近衛歩兵第7聯隊が創立された。
現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。  (注:現在は解体され、一部が国立新美術館別館として保存)
現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。
  昭和62年10月25日
  近衛歩兵第五聯隊 
  歩兵第三聯隊 
   有志一同建立 (裏面は寄付者芳名・略)

東京都立青山公園・南地区

かつて歩兵第三聯隊(麻布三聯隊)や近衛第五聯隊・近衛第七聯隊のあった麻布台には、現在は米軍基地がある。
東京都区部唯一の在日米軍基地「赤坂プレスセンター」(麻布米軍ヘリ基地・ハーディー・バラックス )

この地は明治22年(1889)歩兵第三聯隊駐留以来、変わらずの軍用地…


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
(青山霊園)


常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
明治37年8月20日建立

青山霊園の中央通り(この表現が正しい不明ですが)に面した慰霊墓。
近衛聯隊(後備近衛歩兵第一聯隊)にまつわる墓があるので、参拝してきました。

常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓
 
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船し宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現れ、猛砲撃を加えてきた。 もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治37年10月30日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 
昭和61年6月15日
殉難82周年慰霊祭にあたり誌す
 常陸丸遺族会
 全国近歩一会

以下は余談ですが、常陸丸事件について。

常陸丸事件

日露戦争
1904年(明治37年)6月15日、玄界灘を西航中の陸軍徴傭運送船3隻がロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊によって撃沈破された事件。
陸軍徴傭運送船「常陸丸」(日本郵船 6,172トン)の喪失は国内世論を憤激、特に海上警備の第二艦隊・上村彦之丞中将に対して強い非難が集まった。

日露戦争後、千鳥ヶ淵公園に常陸丸殉難慰霊碑建立。
しかし第二次大戦後に一度撤去され、昭和40年(1965)に靖国神社境内に移設の上で慰霊碑が再建されている。

毎年6月15日午前10時より、靖國神社では常陸丸殉難御祭神霊祭が斎行されている。

常陸丸殉難記念碑 (靖國神社)

元帥伯爵 東郷平八郎 書
常陸丸殉難記念碑 碑裏面
昭和9年10月
陸軍大将正三位勲一等功四級 荒木貞夫 撰文揮毫
常陸丸殉難記 明治三十七年皇師海ヲ越エテ露ヲ征ス・・・(略

常陸丸殉難記念碑
 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

 昭和61年(1986)6月15日
 殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
  常陸丸遺族会
  全国近歩一会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。

常陸丸殉難記念碑
本碑ハ曽テ牛ヶ渕ニ在リ偶々大東亜戦争終結ニ際シ破却セラル仍テ日露戦争六十周年ニ当リ此ノ処ニ復興再建ス
昭和四十年十一月十五日 常陸丸受難記念碑 
復興期成会


常陸丸殉難記念碑の表を東郷平八郎、裏を荒木貞夫が記していることが興味深い。陸海あげての受難記念碑。

合掌


少々脱線でした。

そういえば、今回巡った
 歩兵第一聯隊
 歩兵第三聯隊
 近衛歩兵第三聯隊
は二・二六事件にが関与してたり・・・


近衛聯隊のメモ
 近衛歩兵第一聯隊 北の丸
 近衛歩兵第二聯隊 北の丸
 近衛歩兵第三聯隊 赤坂 
 近衛歩兵第四聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第五聯隊 麻布台
 近衛歩兵第六聯隊 明治神宮外苑(北青山)に記念碑あり(未訪問)
 近衛歩兵第七聯隊 麻布台

これは都内の次の課題は明治神宮外苑(北青山)ですかね…

北の丸・千鳥ヶ淵周辺の戦跡散策

平成28年5月撮影

灯台下暗し。近いと何時でも良いやと思って訪れない場所がある。

ある日の午後。
ふと思いたって北の丸の戦跡史跡散策を決行。考えてみれば良く歩くわりにはこの界隈は気にしてなかったなあ、と。

(北の丸といえば、近隣の近代建築としての九段会館は、もう・・・)

北の丸公園の田安門から散策開始。

彌生慰霊堂(弥生慰霊堂)

戦前は「彌生神社」(弥生神社)として祀られていた聖域。 参道脇には力強い狛犬が控えていました。

警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

警察・消防殉職者のために、1885年(明治18年)10月7日「弥生神社」創建。
弥生とは当初の鎮座地である文京区向ヶ岡弥生町に由来。

戦後、警視庁として「弥生神社」を管理できなくなった為、1947年(昭和22年)10月に現在地に遷座するとともに名称を「弥生廟」と改称。
1983年(昭和58年)9月に「弥生慰霊堂」に改称し、従来の神式慰霊祭から無宗教形式の慰霊祭に変更。

慰霊、そして感謝を。

昭和天皇御野立所

この彌生慰霊堂の地は、もう一つ歴史的な場所。

昭和天皇御野立所

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者14万人、家屋の全壊、焼失57万戸、罹災所帯69万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
 時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
 それより6年有余の歳月と7億円(昭和5年度一般会計歳出16億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和5年3月26日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
 昭和天皇は、これに先立つ24日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
 その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
  平成元年(1989)4月26日
   近衛歩兵第一聯隊會

位置関係

USA-M377-65
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影

北の丸公園 

武道館の前、通りを挟んだ茂みに石碑がありました。

皇紀二千六百年 植樹記念碑

陸軍少将 三浦真書

詳細は不明。


近衛歩兵第一連隊跡記念碑

日本陸軍最初の連隊として、明治7年(1874年)創設。
皇居守護の要たる名誉ある連隊。
その近衛歩兵第一連隊、通称「近歩一」を記念する碑

近衛歩兵第一連隊跡記念碑

近衛歩兵第一聯隊記念碑

 近衛歩兵第一聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
 大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
 西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
 近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。
  昭和42年(1967)1月23日 全国近歩一会


近衛歩兵第二連隊跡記念碑

こちらは近衛歩兵第二連隊の記念碑。
近歩一と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊。
栄光ある近衛連隊として、近歩一とは別に独立した記念碑が建立されている。

近衛歩兵第二連隊記念碑
傍らに植えられるは橘の木。

近衛歩兵第二連隊記念碑
昭和8年建立の柱
近衛歩兵第二連隊将校一同

天業快弘
皇道宣布

近衛歩兵第二聯隊記念碑

 近衛歩兵第二聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、
 明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
 近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
 平成10年1月23日 近歩二会


吉田茂像

船越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書

吉田茂像の碑文を「昭和の黒幕」と称された安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂像碑文
吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月

北の丸公園の南出口。

こちらの門は、乾門。
正月の一般参賀の北の参出口としておなじみですね。

北白川宮能久親王銅像

東京国立近代美術館工芸館の隣。
明治28年、近衛師団を率いて台湾出征。疫病に罹らせ給い台南に於いて薨去遊ばされた。御年49歳。

騎兵の銅像として、躍動感も一級品。


東京国立近代美術館工芸館
近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

東京国立近代美術館工芸館
かつての「近衛師団司令部庁舎」(国重文)

魚眼にて。

「近衛師団司令部庁舎」(近代美術館工芸館)

正面中央の玄関部には、小さな八角形の塔屋。
両翼部には、張り出しがある簡素なゴシック様式の建物。
日本人技術者が設計した現存建物としても貴重。

細部をみてみると、陸軍名残の星型もあり。

流線形が美しい雨樋。
流線部に開口窓があり、異物を除去する事が出来ます。
これは機能美溢れてますね。

ちょうど無料開放日でしたので内部にも。
エントランスホールを内側から。

1階階段を下から。

階段踊り場の曲線美に萌える。

階段踊り場から。

2階

風格に溢れてます。
見ていて全く飽きないですが、ぼちぼち次の場所に。

千鳥ヶ淵をめぐる。

近衛師団司令部庁舎から首都高を渡った先、この緑のこんもりとした空間が次のポイント。

近衛第一師団
 地下壕・地下防空陣地跡

陥没の恐れがあるため、立入禁止

近衛師団司令部庁舎と皇居に挟まれた、この場所。

今は入口が塞がれてしまっているが、この場所が近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地跡という。

近衛第一師団隷下の近衛機関砲第一大隊が展開された地下壕・地下防空陣地跡。

そのこんもりとした台地の上には竪穴通気口があった。
この下が地下空間がある証でもあり。
覗いてみましたが木の枝ばかり…

高射機関砲台座跡

唐突に、不自然な石のベンチが見えてくる。

これ、実は高射機関砲(九八式二十粍高射機関砲・九八式高射機関砲)の台座跡という。七座残っていた。

ここに先ほどの近衛機関砲第一大隊が展開されていた、と。

今は特に何かを説明するでも案内するでもなく、台座は静かにベンチとして第二の余生を過ごしていた…


せっかく千鳥ヶ淵まできたので、参りましょう。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。

鎮魂と…
感謝と…

祈念する空間。

戦士たちは名を残し、戦士たちは靖國で逢おうと散りゆけれど。
ただ不幸にもその戦士たちの遺骨に名が紐付け出来ず、帰る場所を失ったために、千鳥ヶ淵墓苑に眠る…

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

いつも8月15日には、この場所にも足を運んでたが、8月15日の政争空間を垣間見てしまうと心にはざわつきがあった。
この日は初めて、この場所で心穏やかに拝する事が出来たかも知れない。

御製
いくさなきよを
あゆみきて
おもひいづ
かのかたきひを
いきしひとびと

終戦60周年の御製を常陸宮妃殿下が謹書

御製
くにのため
いのちささげし
ひとびとの
ことをおもへば
むねせまりくる

千鳥ヶ淵墓苑創建の年(昭和34年)に 昭和天皇から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書

墓苑の一隅に。
引き揚げに伴う死没者の永遠の平和祈念碑 強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑
改めて合掌。

さざれ石に、大賀ハス。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑。
はじめて、こんなにゆっくりと参拝させていただきました。

昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。

無名戦没者などはいない…と。

不幸にして千鳥ヶ淵戦没者墓苑に埋葬されたのは名が残らなかった遺骨であれども、その御霊は靖國神社に集う、と。
靖國神社で会おうと誓って散った名のある戦士たちの御霊は靖國神社に祀られ家族達に祀られ、名が判明しなかった遺骨のみが千鳥ヶ淵に眠ると…


千鳥ヶ淵を北上して靖国通りに。
スタート地点近くに戻ってきました。

元帥陸軍大将大山巌公像

日露戦争の陸軍の中心人物。満州軍総司令官。 「陸の大山、海の東郷」

品川 弥二郎像

大山は薩摩、品川は長州。 軍人と政治家。両者の像が今は並んでいる。

九段下の靖国通りに。

高燈篭(常燈明台)

靖国神社の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社に祭られた霊のために建てられたという。
昭和5年(1930)に現在地に移転。

豪北方面戦没者慰霊碑

靖國神社入口の向かって右脇。北の丸の反対側に人知れず鎮座。

豪北とは、東南アジア地域のこと。
靖國神社には良く参拝している方々もここに目を向けることは少ないかもしれない。
私も久し振りに訪れました。

九段下から北の丸公園~千鳥ヶ淵を経て、靖國神社に。
たまにはこんな散策も良いかもしれない。

靖國神社境内の慰霊碑等はまたの機会で。
幾つか点在してるんですが、今回はいったん〆

浅川地下壕の戦跡散策

平成29年11月 八王子市・高尾駅

ある秋の日。
事前に申し込みをしていた見学会に参加しておりました。

浅川地下壕の保存をすすめる会」様主催の地下壕見学。

http://asakawatikagou.web.fc2.com/index.html

保存をすすめる会様では地権者など関係各位との許諾のもと、月1度の見学会を行っている。そんな見学会に参加してきた模様を以下に。

中島飛行機関連

https://senseki-kikou.net/?p=7066

浅川地下壕

戦争末期、中島飛行機武蔵製作所疎開工場として機能した地下工場跡。
高尾駅の南に、イロハの3地区に別れており、現在は「浅川地下壕イ地区」が月一度公開されている。総延長は10km以上という。

浅川地下壕イ地区南端開口部の地権者高乗寺の協力と東大地震研との協定により月1度の公開。

壕内には東大地震研による地震計が設置。
これは地表の振動影響を受けない地下壕地盤は観測装置を設置するのに最適環境である為。ゆえに振動が発生する見学会は月一度に制限され見学会中は観測は中断。

中島飛行機武蔵製作所

昭和19年11月24日、中島飛行機武蔵製作所が空襲されたことを機に工場疎開が決定。
東京多摩浅川、福島信夫山、栃木大谷などに地下工場の建設が始まる。
まずは陸軍浅川地下倉庫として昭和20年2月に第一期工事が完了。次いで第二次工事にて地下壕の増設が終戦まで続く。

中島飛行機浅川工場
 (第十一製造廠浅川工場)

昭和20年4月、中島飛行機武蔵製作所は第一軍需工廠第十一製造廠と改称。 昭和20年6月に中島飛行機武蔵製作所より機械の搬入がはじまり7月頃に「第十一製造廠浅川工場」として地下工場が稼働。

しかし湿気による機械の腐食と劣悪な地下環境による工員の体調不良もあり、また各種部品製造所を分散疎開させたために交通事情の悪化も伴い効率は低下。
生産性は悪かった。

白く見えるものはカビ、この日は外は雨ということもあり湿気も一段と・・・

終戦迄の浅川地下工場でのエンジン生産台数は諸説ありゼロ台~数十台とも。
戦後の米軍調査によると約10台のエンジンが完成、組み立て中が18台、多数のエンジン部品が残されていたという。

全体として生産力減少の影響は空襲被害よりも疎開による非効率が大きかったと分析されている。

昭和20年8月17日創業停止。
中島飛行機は社名を変更。第十一軍需工廠は解散。

中島飛行機武蔵製作所は「富士産業株式会社武蔵工場」、
中島飛行機浅川工場は「武蔵工場浅川分工場」と名称変更。

戦後は地主への返還や払い下げなどが行われ旧地下壕の一部ではマッシュルーム栽培などに使われたこともあった。

平成9年「浅川地下壕の保存をすすめる会」発足。

平成11年には「イ地区」でダイナマイトなど3トンの火薬が発見。

平成26年、長年私有地であった「ロ地区」(金比羅山)が八王子市の市有地となり市文化財保存に期待が高まっている…

地下壕の掘削には削岩機とダイナマイトを使用。

岩盤にダイナマイトをつめる「穴」を開け、爆破させ掘削をした名残も残っている。

「浅川地下壕」に関しては、(月一回の公開もあり)多くのレポートがあるので詳細は割愛。

壕に入ったときは雨でしたが、壕から出たら晴れておりました。

金比羅山

せっかくなので金比羅山(標高280m)に登ってみよう。
山頂には「浅川金比羅宮」が鎮座。

かつて金比羅山は戦国時代に八王子城主北条氏照が整備した砦を設けた地でありかつての「堅堀跡」などが残っている。

その金比羅山の下には昭和の戦争遺跡として「浅川地下壕・ロ地区」が残っている。

浅川金比羅宮

江戸時代後期に商売繁盛の神社として建立。
戦時中は地下壕建設のために金比羅山が軍により接収されるも、戦後は浅川の鎮守として崇敬を集めている。

浅川金比羅宮
 平和観音像

平和観音の像
浅川地下壕は第二次世界大戦の史跡です
戦争の裏側での犠牲者を偲び世界平和をここに祈念する
平成7年8月15日

金比羅山(浅川地下壕・ロ地区)から地下壕が掘られた山々を望む。
正面に「浅川地下壕・イ地区」
左手は「浅川地下壕・ハ地区(初沢山)」

高尾駅

正面に見える山が金比羅山。
この山の下に浅川地下壕が広がっている。

日比谷通りと日比谷公園散策

平成30年12月

日比谷通りと日比谷公園を散策したときの写真などを。

第一生命館
 東部軍管区司令部(陸軍)
 連合国最高司令官総司令部(GHQ)

昭和13年(1938)竣工。
平成元年から平成5年にかけて解体及び改築され現在はDNタワー21として再開発された姿を残す。内装はマッカーサー記念室など一部が残っている。 戦争中は東部軍管区司令部が設置。

終戦後は昭和27年7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用。

第一生命館

旧・陸軍東部軍管区司令部
旧・連合国最高司令官総司令部(GHQ)

明治生命館
 アメリカ極東空軍司令部

昭和9年3月31日竣工。
終戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され昭和31年に返還。

昭和建造物としては、はじめて平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

三菱一号館

元は明治27年竣工の日本初のオフィスビル(洋風貸事務所建築)であった。

昭和43年に三菱地所が解体したが平成21年に同社により復元された。
つまり現在の三菱一号館は往時のレプリカ復元。

日比谷公園

旧・日比谷公園事務所
(フェリーチェガーデン日比谷)

明治43年(1910)竣工。
我が国初の洋式公園である日比谷公園の管理事務所。
ドイツ・バンガロー風の意匠。
明治期の数少ない近代洋風建築のひとつ。

市政会館
日比谷公会堂

昭和4年(1929)竣工。 東京都選定歴史的建造物。
建物の北側が日比谷公会堂となり、残りは市政会館となっている。

日比谷公会堂は、現在は東京都によって施設の老朽化及び耐震化を理由とした大規模改修工事を実施するため、平成28年から改修工事終了まで施設の使用は休止されている。

渋川護國英霊殿

平成30年12月撮影

渋川護國英霊殿

説明板
この社はお国のために亡くなられたご英霊が祀られております ご英霊に感謝いたしましょう

群馬県渋川市・並木児童公園に隣接して鎮座。 当時の群馬県北部11か町村、幾多郡三か村の、日清・日露の戦役までの戦没者114名を合祀し、大正8年に建立したことにはじまる。

渋川護國英霊殿 社号標 護國英霊殿
陸軍大将鈴木孝雄書


鈴木孝雄は内閣総理大臣・鈴木貫太郎海軍大将の弟。現役を退いてから靖國神社第四代宮司や、戦後は偕行社会長を務めている。昭和39年1月29日死去。

戦後、これまで管理してきた「渋川在郷軍人分会」は解散し、公的機関による英霊殿への行事は禁止される。昭和21年、有志により「英霊奉士会」が発足し渋川町出身の戦没者を英霊殿に合祀。現在は「渋川市戦没者慰霊奉賛会」が維持管理を行っている。

この地はもともとは真光寺境内にして「並木白山権現」(白山妙理権現・北裏並木の白山宮)の地であり、長尾氏の白井城の地であったという。
白井城は1572に武田信玄によって攻略され焼失。信玄は真光寺・白山宮を再建。現在の石宮は寛文12年(1672)に白山宮社殿跡に建立されたもの。

瑞垣内には、 水雷缶(浮標水雷缶・浮標水雷罐=敷設水雷/機雷=機械水雷)と砲弾が奉じてあった。

並木児童公園に建立されている碑石群

英霊碑

大東亜戦争における渋川地区出身戦病死者の慰霊顕彰 昭和29年3月31日 渋川町英霊奉賛会 建立

ほかにも征清役(日清戦争)・北清事変(義和団事件)・日露戦役(日露戦争)にまつわる慰霊碑が建立されていた。

訪れた当初、情報が少なく公園の中に小さく鎮座しているのかと思って足を運んでみたら思った以上に大きくしっかりとした空間に驚きを感じ。
神道形式の護国神社の形態を維持した英霊殿。群馬県北部地区出身の英霊を祀りし空間。

真心こめて慰霊参拝を。

上州の空と山々を仰ぎながら…

国立科学博物館と上野散策

平成30年10月撮影

高射第一師団司令部(国立科学博物館)

昭和19年12月、東部高射砲集団を改編して「高射第一師団」創設。
京浜地方を主とする本州東部の防空(高射砲)を担った。

昭和20年5月に、司令部を代官山から上野の東京科学博物館本館(現・国立科学博物館日本館)に移転。

国立科学博物館としては、現在の日本館は昭和5年竣工(1930年)

当時は東京博物館・上野新館。
戦争中の昭和20年3月10日に博物館は閉館し標本を近県6か所に疎開。
昭和20年5月に建物が軍に徴用され終戦まで高射第1師団の司令部となっている。

零式艦上戦闘機21型 改造複座機
 国立科学博物館展示

※令和3年、科博廣澤航空博物館に展示移転

ここに展示されているのは、ラバウルにて魔改造された複座偵察機仕様の零戦。
栄エンジンがよく見えるようにカウルを外した状態で展示。

日本の航空技術を代表する飛行機
零式艦上戦闘機
21型改造複座機

この零戦は、1972年(昭和47年)ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され、引き上げられた。ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

1944年にラバウル航空隊が撤退した後に、現地残留部隊が数機の零戦を組み合わせて複座偵察機に改造した機体。
ベース機は中島製31870号機。機番53-122

国立国会図書館国際子ども図書館
(帝国図書館)

旧帝国図書館は明治39年(1906)竣工の第一期工事と昭和4年(1929)竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリート造り。

上野公園近くの国際子ども図書館の前庭に。

「小泉八雲記念碑」
昭和10年建立。
小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子であった土井晩翠が、23歳で結核によりなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建立したものという。

小泉八雲記念碑

碑文
先生原名ハ らふかぢお・へるん 英国ノ人 西紀千八百五十年地中海ノ れふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ 職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ 千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル 先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
昭和10年(1935)6月
藍谷温 撰 市河三喜 書

土井林吉が土井晩翠のこと。
碑の左右には「筆開皇國華」「文盡人情美」と。

2002年に安藤忠雄建築研究所が中心となって歴史的建造物の保全を軸に設計がおこなわれたのが現在の姿。

上野界隈は散策が半端なので、追記するかも。

建物以外の上の散策はこちらも

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

日本経緯度原点(海軍水路寮観象台跡)

平成30年11月撮影 東京都港区麻布台2-18-1

日本経緯度原点

この地が日本の測地座標系の原点。

明治7年、海軍水路寮が当地に観象台を設置。明治21年に帝国大学付属東京天文台が置かれ明治25年に陸軍参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として設定。関東大震災で子午環が崩壊したために金属標を設置し今日に至る。

わが国における緯度と経度を測定する基準となる点。

平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の地殻変動により原点数値を改定。

経度:東経139度44分28秒8869
緯度:北緯35度39分29秒1572
原点方位角:32度20分46秒209

現在は国土交通省国土地理院関東地方測量部の管轄となっている。

港区指定文化財
史跡 日本経緯度原点
 ここには、わが国の経度・緯度を決める基準となる日本経緯度原点が設置されています。この原点の経度・緯度の数値は、大正7年(1918)に文部省告示によって確定した「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」でしたが、平成13年の測量法の改正により、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められました。
 この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学付属東京天文台が置かれました。原点の位置は、天文観測に用いられた機器である「子午環」の中心位置にあたります。その後東京天文台は大正12年に三鷹に移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地理測量の原点として利用されています。
 日本経緯度原点は、日本の測地座標系の原点であるだけでなく、わが国の天文測量が始まったところとして、科学技術史及び文化史上意義深い場所です。
 平成8年10月22日指定
 港区教育委員会

日本経緯度原点
 日本経緯度原点は、わが国における経度と緯度を測定する基準となる点である。明治25年(1892年)に東京天文台の子午環(特殊な望遠鏡)の中心を日本経緯度原点と定め、その緯度、経度および方位角を原点数値として決定した。
 大正12年(1923年)の関東地震では子午環が崩壊したため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置した 。
 平成13年(2001年)の測量法改正により、測量の基準として世界測地系を採用した。この改正に伴い、新たな原点数値を世界測地系に基づき決定した。
 その後、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い、日本経緯度原点が東に27センチメートル移動したため、原点数値を以下の値に改正した。
       原点数値
     経 度  東経 139° 44′28.8869″
     緯 度  北緯  35° 39′29.1572″
     方位角       32° 20′46.209″
    (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)
 平成23年10月21日
 国土地理院


資料


関連

日本水準原点

霊岸島水位観測所

油壷潮位観測場

「日本経緯度原点」の隣にはかつて「中央官庁合同会議所」がありましたが現在は「アフガニスタン大使館」があります。

ここに赴くには「Tokyo American Club」や「ロシア連邦大使館」の脇を歩いていくことになりますので、ちょっと不思議な気分で緊張します。

写真はアフガニスタン大使館


国土地理院の資料

http://www.gsi.go.jp/common/000198164.pdf

【解体済】旧逓信省貯金局庁(旧逓信省本庁舎)

平成30年11月撮影

昭和5年竣工の旧逓信省貯金局庁舎、昭和18年からは旧逓信省本庁舎。

昭和24年に発足した郵政省が昭和44年まで本庁舎として利用。
本省が霞が関に移転後も飯倉分館として機能。
現在は日本郵政グループ飯倉ビル。

しかし再開発エリアとして解体へと…

訪れたのは平成30年11月23日でした。

直前の11月19日には、飯倉ビルに入居していた「麻布郵便局」が移転。
また埋蔵文化財の発掘調査も予定されている。(平成30年12月7日まで)

再開発に向けてのステップが刻まれ始めている・・・

中央エントランス部分。

魚眼で記録撮影

「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」において旧逓信省本庁舎は開発エリア「A街区」に含まれる為に解体予定。
地上65階建高さ約330mの日本最高層クラスのタワーマンション建設予定…

内閣府資料→

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/tokyoken/tokyotoshisaisei/dai11/shiryou.html

https://www.mori.co.jp/company/press/release/2018/03/20180327140020003621.html

森ビル>「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」
市街地再開発組合設立認可のお知らせ
より

裏側からも遠望。
旧逓信省本庁舎の建物は台地 にあるのがわかります。

低地の部分も再開発エリア。前述の資料によると「B-2街区」及び「中央広場」が整備される予定

建物裏側の低地部分から。
周辺エリアの再開発は始まっている・・・

再開発エリアを歩む気持ちは何やら複雑な心持ち。
次にこの地に足を運ぶとき、見える光景は間違いなく違うものになっているだろうなあ。
昭和5年竣工の、この重厚な建物も解体へ・・・

撮影は平成30年(2018)11月でした。

今はどうなっているか・・・格別にその後の情報を追ってはいませんが、当時の記録のひとつとして写真を掲載。

中島飛行機武蔵製作所関連の戦跡散策

平成29年11月撮影 武蔵野市・西東京市

昭和19年11月24日。
B-29爆撃機による東京初空襲。

その最初の空襲目標は…
世界に誇る東洋一の航空機メーカー「中島飛行機武蔵製作所」であった。

位置関係

出典は「地図・空中写真閲覧サービス – 国土地理院」
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

位置関係が変わってない競技場やプールや浄水場を軸にするとわかりやすい。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前
USA-M372-69
1947年(昭22)07月09日‐米軍撮影を編集

中島飛行機武蔵製作所引込線(廃線跡)

三鷹側から「堀合遊歩道」として整備されている黄色線が「国鉄武蔵野競技場線跡」
そして武蔵境側から「本村公園」として整備されている緑線は「境浄水場引込線跡」

緑線と黄線を跨ぐ赤線を引いた部分が「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」
黄線と合流したら工場まで伸びていきます。

堀合遊歩道

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」。
この先の「ぎんなん橋」あたりからは、廃線跡遊歩道は「中島飛行機武蔵製作所引込線跡」をも兼ねる道となっていきます。

昭和25年5月に中島飛行機武蔵野製作所の引込線が廃線。
昭和26年4月に武蔵野競技場線開業、34年11月1日に廃線。

ぎんなん橋(堀合遊歩道)

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

平成24年(2012)に当時の橋台跡の上に現在の橋が建設。
廃線跡を思わせるように鉄路が復元されている。

昭和13年から昭和20年まで中島飛行機武蔵製作所が稼働。
主に零戦や隼のエンジンなどを生産。この引き込み線は武蔵境駅から工場へ軍需物資を輸送する線路として活用。戦後はグリーンパーク野球場として再開発され武蔵野競技場線として運用。昭和34年に廃線。

平成24年に「中島飛行機武蔵製作所工場」の引き込み線跡に残っていた橋台の場所に「ぎんなん橋」が建設。
橋の両脇には当時の「橋台」の跡がかろうじて残されている。

かつての「国鉄武蔵野競技場線跡」
その前身は「中島飛行機武蔵製作所引込線」

その廃線跡は緑道として整備されている。
中島飛行機武蔵製作所の跡地に建設されたグリーンパーク野球場の名を残す緑地。もちろん今は野球場も残っていない。

廃線跡の緑道を北上していきましょう。

関前公園
関前高射砲陣地跡

国鉄武蔵野競技場線跡・中島飛行機武蔵製作所引込線

のどかに広がる緑地はかつての高射砲陣地跡。

「関前高射砲陣地」
この場所には高射砲6門が半円状に展開されていたという。

グリーンパーク遊歩道の途中に案内看板がありました。

武蔵野市は出来る限りの良き整備をしてくれてます。

1942年の地図と1951年の地図。
武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所工場に向かっていた線路は、戦後に付け替えされ武蔵境から浄水場へ、三鷹から野球場へと。

都立武蔵野中央公園

遊歩道の突き当りは「都立武蔵野中央公園」。
この中央公園が「中島飛行機武蔵製作所」の跡地。

都立武蔵野中央公園の歴史
武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ(古歌)

(略)
緑が美しいのどかな畑地であったこの地は、昭和13年、中島飛行機株式会社が、本公園の敷地を含む畑地66万平方メートルに大規模な工場を建設したことにより、時代の荒波に巻き込まれることとなった。
中島飛行機株式会社は、大東亜戦争(太平洋戦争)中、零式艦上戦闘機(零戦)を始め陸海軍機の発動機を生産する国内随一の航空機メーカーであったため、米軍による攻撃の最大の標的となり、戦争の激化に伴い昭和19年11月以来延べ9回にわたる空襲を受け、工場だけでも220名mこのほか周辺町民多数の尊い生命が奪われ、工場もほとんどが灰燼に帰してしまった。
終戦を迎えて工場は閉鎖され、新生日本への復興の道が模索され始めた昭和27年、工場跡地に…米軍宿舎を建設することが決定。…返還運動が高まり、昭和48年、ついに返還が実現した。
昭和50年、東京都はこの地を都市計画公園として整備することを決定。
その後の昭和53年には前提的に全面解放され…
(略)
平成元年、通称「はらっぱ公園」として親しまれる、現在の都立武蔵野中央公園が誕生することとなった。
(略)
我々は歴史を振りかえり戦争の犠牲になられた多くの方々に心から哀悼の意を表するとともに、この「はらっぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和な光景がいつまでも続くよう市民として国民として世界の国々と理解と友好、協力を深めるための不断の努力を続けていきたい。
平成11年4月武蔵野市

関前八幡神社

公園から南下。

中島飛行機武蔵製作所のすぐ南に鎮座。
創建年代は寛文12年(1678)に創建という。
関前の集落の鎮守。南面鎮座。 中島飛行機時代も変わらずの土地鎮守。

関前八幡社の隣に鎮座している寺院

八幡山 延命寺

真言宗智山派 多摩八十八ヶ所霊場 第二番札所・関東九十一薬師第九番霊場

この寺院に戦争の遺物が残されている。

250キロ爆弾の破片
平和観音菩薩

「八幡山 延命寺」(武蔵野市)

「250K爆弾の破片」

「平和観音菩薩」
…私達は陸海空に護国の華と散った英霊、戦火に命を失った戦災殉難者のいしずえを絶対に忘れることは出来ません。そして痛ましい戦争の悲惨と恐怖と罪悪を常に想起して平和に対する努力を怠ってはなりません…

平和祈念の合掌を

実はこの寺院(延命寺)には中島飛行機ゆかりの「プロペラ」が残されているという。

が、見渡して見当たらないので寺務所でお伺いをしてみると… 「以前はこちらにて保管しておりましたが、今は、ふるさと歴史館にお預けしております。」 ということで別日に改めてふるさと歴史館へと。

武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館

ここに前述の「延命寺」所蔵のプロペラが委託展示されている。
この木製プロペラは中島飛行機武蔵製作所にて製造されたエンジンの地上試運転用に使用されたという。 なお試運転工場は当時の北門近く、現在のNTT武蔵野研究開発センター付近にあった。

中島飛行機関連の展示もあり。

中島飛行機武蔵野製作所の開設記念盃
中島飛行機の社章が描かれ、側面には「中島飛行機株式会社武蔵野制作所昭和十三年五月二十一日」とある。
中島飛行機は「陸軍向けの武蔵野製作所」と「海軍向けの多摩製作所」が合併して後に「中島飛行機武蔵製作所」へとなっている。

私が訪れた時、市制施行70周年記念企画展として「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展示が展示されておりました。(平成29年12月)

http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shogaigakushu_koza/rekishikan/1017121/1017504.html

1トン通常爆弾(2000ポンド通常爆弾) 復元
尾翼を含めた全長は235cm

鉄兜
正面に中島飛行機の社章が入っている。武蔵製作所の工員が使用したものか。

そのほかエンジンの部品や武蔵製作所食事券、屋根や地下通路の破片など。


話を戻します。

中島飛行機

昭和13年に武蔵野に進出することになる中島飛行機は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)した「飛行機研究所」にはじまる。

創業者は中島知久平(元海軍機関大尉)

大正8年に中島飛行機製作所と改称。
大正13年(1924)に東京工場(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として武蔵野製作所(武蔵野市緑町)を開設。

昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。
武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。
また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後、中島飛行機武蔵製作所の東工場跡地(武蔵野製作所)は電気通信研究所やグリーンパーク野球場、都営公団集合住宅などに。
西工場跡地(多摩製作所)は米軍が接収し米軍宿舎を経て、返還後の平成元年(1989)に武蔵野中央公園へと。


「中島飛行場武蔵製作所」全景(1944年)
一枚目の画像は武蔵野私立武蔵野ふるさと歴史館 「TARGET No.357 ~攻撃目標となった町、武蔵野~」企画展パンフレット(図録)より抜粋
二枚目の画像は現在の航空写真

それでは、この地図を元に周辺を散策してみましょう。

変電室跡(解体済み)

都営武蔵野アパート建設後に管理事務所として活用された建物がここにあった…。
当時の変電室とされる建物。
しかし残念なことに平成27年に解体。
表向きは戦災の傷跡がなく保存の価値なしとされ解体されてしまったが、建屋解体途中に「戦災の傷跡=不発弾の痕跡」が見つかるも、あとの祭り…

中島飛行場武蔵製作所正門跡

敷地面積は約56万平方m(東京ドーム約12個分)の広さを誇る巨大な軍需工場の正門跡。約5万人が働いていた。

当時、この正門から出入りできる社員は工場幹部クラスだけとされ、一般従業員は別の入口から工場内を張り巡らされた地下道を通じて各職場に赴いていたという。

中島飛行場武蔵製作所東門跡(推測)

現在、武蔵野市役所や市民公園のあるエリアの近くが工場の東エリア。
このあたりに東門があったと推定。

中島飛行場武蔵製作所競技場・プール

東門(推定)から道路を挟んだ向かいにグラウンドとプールがある。
現在の「武蔵野総合体育館」や「市民プール」のある場所。

中島飛行機時代は工場従業員の為の運動施設であった。当時の航空写真でもグランドやプールの形がはっきりと見える。

北裏バス停

このバス停ある地域は「北裏」と呼称されている。
これには「中島飛行機武蔵製作所の北側の裏」の意もあるとか。(諸説あり)
バス停の位置は確かに工場の北裏・・・

中島飛行場武蔵製作所北門跡

現在のNTT武蔵野研究開発センター。
このあたりに、かつては工場の北門があったと推定。

NTT武蔵野研究開発センターの地にはプロペラ試運転場などがあった。 このセンター建設時の調査では地下通路が張り巡らされていた跡などが確認されている。

中島飛行場武蔵製作所跡の北西部 (関前橋交差点近く)

工場跡を歩いていたら、中島飛行機のDNAを受け継ぐ空間がありました。

「株式会社SUBARU 武蔵野社宅」
中島飛行機ゆかりの地で、目にすると嬉しくなります。 中島飛行機株式会社は戦後に解体され富士重工業を経て「SUBARU」へと。

武蔵野中央公園 西口側

再び武蔵野中央公園へ。今度は西側の入口から。
当時の引込線と遊歩道と関係あるようで関係ないとは思いますが、遊歩道に引込線を夢想してみる。

中島飛行場武蔵製作所
 工場地下通路の遺構

公園内の西側。東西に伸びるコンクリート片。
一説にはこのコンクリート遺構は工場地下通路の残骸ともされている。

中島飛行場武蔵製作所跡(武蔵野中央公園)から千川上水を南西の方角に歩む。

武蔵野大学

戦前は武蔵野女子学院と称された学校。浄土真宗本願寺派の学校として1924年に築地本願寺内に「仏教精神による人間教育」を目指し武蔵野女子学院が設立したことに始まる。

武蔵製作所からは南西に約1キロ。

武蔵野大学構内に戦時中の悲劇を物語る場所があるので訪れてみた。
雪頂講堂6号館と図書館のあいだの空間。
ちょっとした木々の茂みの中に石碑がある。

散華乙女の記念樹碑(武蔵野大学構内)

碑文
 武蔵野女子学院高等女学校5年生は、昭和19年勤労報国隊として動員され中島飛行機武蔵製作所で航空機増産の為に連日けんめいに働いていました。
 たまたま同年12月3日作業中空襲があり待避のため母校の掩蓋壕に入りましたが悲しいかな直撃弾を受けて赤澤ミヨ・小林リツ子・斉藤昭子・中根尚子の4名の年若い命が散華いたしました。
 その爆弾跡に土壇をつくり椿・侘助を植えて哀悼の記念樹といたしたものであります。
 武蔵野女子学院 昭和53年12月建之

1944年1月「緊急学徒勤労動員方策要綱」閣議決定。
学徒勤労動員
同年4月から、全国の国民学校高等科、中等学校、専門学校、大学の学生・生徒が軍需工場などに通年動員。
中島飛行機武蔵製作所には武蔵野女子学院高等女学校5年生が送られた。

昭和19年(1944)12月3日。
11月24日の第1回目爆撃に次いで第2回目の爆撃が中島飛行機武蔵製作所を襲う。勤労動員されていた武蔵野女子学院高等女学校5年生の女学生たちは母校の防空壕へと避難するも4名の学生が直撃弾を受けて亡くなってしまう…

今も往時を偲び追悼会が大学にて執り行われている。

合掌

https://www.musashino-u.ac.jp/news/20171204-01.html


武蔵野大学をあとにして北上をする。

東伏見稲荷神社

昭和4年(1929)に稲荷神総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建。
昭和13年開設の中島飛行機武蔵製作所の北に鎮座する稲荷社。

戦前には中島飛行機の修練道場が置かれていたこの神社には「中島飛行機従業員殉職者慰霊碑」がある。

「東伏見稲荷神社」

もともと慰霊碑は正面大鳥居の脇にあったという。
しかし周辺の再開発によってその鎮座地を境内裏手に移設されている。

昭和13年に中島飛行機株式会社が東伏見精神修養道場として禊行の練成道場を東伏見稲荷神社に寄付された縁で、現在は神社祭典として慰霊碑が護持されている。

中島飛行機株式会社武蔵製作所
殉職者慰霊碑 (東伏見神社境内)

建碑之由来
中島飛行機株式会社は大正6年12月群馬県太田町に創立され終戦後富士産業株式会社と改称した
昭和13年5月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され昭和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った
昭和18年10月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに 至った
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は5万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった
米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし昭和19年11月24日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が 命中し二百余名の殉職者と五百名を超える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった
武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し毎年11月24日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った
昭和23年10月占領下であるにも拘わらず慰霊碑の建立を企図
中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した
昭和23年12月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した
爾来日武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けて来たが慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため当初より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった
昭和39年11月に遷座を完了し翌12月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した
茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである

昭和三十九年十二月五日
中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

殉職者氏名が記された碑も。
そこには男性の名もあれば女性の名も…

合掌

「中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑」建立に尽力された片野永正翁の顕彰碑も建立されていた。

片野永正翁顕彰碑


緑濃き武蔵野の一角に建設された武蔵製作所は、日本最大の航空発動機工場であった。
翁は、まだ槌音の残る創設時には、少壮幹部としてその敏腕を縦横に発揮し、栄光輝く最盛時には、企画室長となり最高枢機の部署を担当し、片野永正の名は常に鬼才の人として生きていた。
太平洋戦争中、十数回の爆撃を受け工場は廃墟と化し多数の尊い犠牲者を出した。
翁は、戦後、武蔵整理部の最高責任者として膨大且つ困難な賠償・整理業務の陣頭指揮を執ると共に、逸早く戦火の犠牲となった殉職者の慰霊奉祀を発願し、占領下の極めて厳しい状況の中で率先躬行慰霊碑建立に尽力した。
空襲の都度自ら殉難者の収容に当った身の切実な悲願であったであろうが、この頃から鬼才片野から人間片野への大きな変貌が見られた。
昭和五十年七月十三日その生涯を閉じる迄、初代の代表理事として例大祭を主宰し、実にその半生を殉職諸霊の奉祀に捧げてきたのである。
そして翁の遺志は爾後連綿として継承されるであろう。
茲に浄財を以って慰霊碑のある境内に小碑を建て、翁の無量の徳心を永久に称えるものである。
 昭和五十一年十一月六日建之

東伏見稲荷神社

中島飛行機ゆかりの神社。
11月24日「中島飛行機武蔵製作所」が初爆撃をされた日。
東伏見稲荷神社では「中島飛行機株式会社殉難者慰霊祭」が祭事として斎行されております。

東伏見稲荷神社から次の場所へ。

東京ガス防災供給センター保谷基地・保谷制圧所

2つ球体が特徴的なガスタンク。現在の球体ガスタンクになる前は円筒ガスタンクがこの地にあった。
「中島飛行機の円形水槽式ガスタンク」の戦後間もない姿が航空写真でもわかる(1947年7月8日米軍撮影)

中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

「中島飛行機武蔵製作所」と北部の「中島航空金属田無製造所」(飛行機エンジン鋳物部品工場/現在の住友重機械工業やグランジオ武蔵野など)を結んでいた軽便鉄道が昭和19年から20年にかけて存在していた。
その痕跡はほとんど残っていないが西武新宿線と交差する細道が当時の線路跡であるという。

「西武新宿線」と「中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道」が交差する場所に、かつて鉄道が走っていたことを証明する標石が片隅に残っておりました。

西武新宿線が交差するところから「武蔵製作所」ゆかりの軽便鉄道跡を北上していけば「中島航空金属田無製造所」を経て、最終的には東久留米駅まで往時の線路跡を辿ることが出来ますが、今回はここまで。
次の散策までこのエリアの続きは保留で。

散策しました

中島飛行機武蔵製作所殉職無縁者永代供養のため建立されたという武蔵野市の源正寺の供養碑を未訪問。

宿題です。

代々木公園周辺の戦跡散策

平成29年5月

代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」

往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。

代々木公園 「日本航空発始之地記念碑」(日本初飛行の地)

位置関係

95C3-C5-83
1944年(昭和19年)12月23日‐陸軍撮影を編集

代々木八幡宮

御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。

参道の両脇にある、この一対の石灯籠。

この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。

明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。

拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」

拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」

代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。

八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。

八幡宮祈念の碑

明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。

扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)

表忠碑

日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。


代々木公園

代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。

いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。

ちょっと巡ってみましょう。

江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。

陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。

陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら


オリンピック記念宿舎

代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。

「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。

代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。

案内地図中にあった「見本園」はこちら。

東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。


閲兵式の松

代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。

明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび 
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。


「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。

昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯碑

大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御

代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。

昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)

明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。


代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)

明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。

明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。

日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。

徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立

「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)

碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

朝日新聞社が昭和十五年に建立。

「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書

日本初飛行離陸之地

隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。


付記

陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。

国産飛行機発祥の地

新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。

いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…


代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話

十四烈士の碑

代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。


参宮橋駅近くの陸軍標石

代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。

代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。

そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。


陸軍気象部と気象神社

平成29年10月及び令和元年5月撮影

雨の日の撮影が平成29年、それ以外は令和元年5月撮影。

位置関係

USA-M698-110
1947年(S22)12月20日米軍撮影写真を編集

高円寺氷川神社

創建年代は天文年間(1531~1544)とも、奥州征伐の文治5年(1189)の際に当地に立ち寄り安達藤九郎盛長に命じて創建とも伝わる。
明治社格は村社。
第二次世界大戦戦災で社殿焼失。 現在の社殿は昭和46年(1971年)に再建。

御社殿

気象神社(高円寺氷川神社境内社)
陸軍気象部ゆかりの神社

祭神は八意思兼命
この神社がかつての「陸軍気象部の崇敬神社」

昭和19年4月10日に造営。
戦後に陸軍気象部のあった旧鎮座地から高円寺氷川神社境内に遷座。
現在の社殿は平成15年6月1日の気象記念日に再建。

久しぶりに参拝したら、賽銭箱が新しくなってました

御朱印を頂戴いたしました。
スタンプが多様されている御朱印は、あまり戴かないのでワタシ的には慣れないですね。
雨の日だと気象神社のスタンプは雨傘。
氷川さんのほうにはカボチャの妖怪みたいのがいますね。
季節で変わるようです。

折角なので陸軍気象部のあった場所へ、ここから脚を運んでみます。

高円寺氷川神社と気象神社を詣でて旧地に脚を運ぶ人はそんなに多くはないでしょう。

高円寺北の馬橋公園へ。

陸軍気象部跡(馬橋公園)

現在の長閑な公園は戦前は「陸軍気象部」。
気象神社も当地に鎮座。
そして戦後は「気象庁気象研究所」があった場所。

戦後の気象庁気象研究所が1980年につくば市に移転。
跡地が公園として整備され1985年3月30日に杉並区立公園として開園。

残念ながら往時を偲ぶものは特に無い。

小学校もかつての陸軍気象部の敷地。

附近には「気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり」の看板が。 これ以外にはかつての「気象」の土地を物語るものは見当たらず。

陸軍気象部のあった敷地の南東角に・・・

標石ですね。

陸軍境界石(南東)

雨の中でじっくりと見るのが厳しく、なおかつ摩耗していて文字判別は不可でした。

陸軍境界石(北西)

敷地の北東部分。摩耗してましたがいくつか残存。

ひとつめ。

ふたつめ

みっつめ

よっつめ?

陸軍境界石(北東)

陸軍境界石(公園の東側入口)

ここには周辺で唯一と思われる「陸軍」と記載のある境界石があった。

この界隈は見つけた石のほかにも境界石がちらほら残っているようだ。